2020/02/27 - 2020/02/29
29位(同エリア261件中)
ガッサンさん
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日韓パートナーシップ協定が結ばれた頃(1998年頃)、日韓関係は大変良好であった。友好関係から、日韓の往来も激しかった。当時韓国へ20回位出張で行きました。二千年の歴史が生きている新羅の古都、慶州(キョンジュ)を訪れた。慶州国立博物館の展示品を見ると日本のものと共通性があった。朝鮮半島から日本へ伝わったことが伺える。
いつの日か、対馬→壱岐→九州 交易ルートを旅してみたい、と思っていました。歴史に博学がある訳でなく、好奇心から対馬→壱岐→九州と旅をしてみました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス ANAグループ 私鉄 徒歩
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羽田空港第2旅客ターミナルビル、旅の出発です。ANA249便 福岡空港行きに搭乗します。
羽田空港 第2旅客ターミナル 空港
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ここは「対馬やまねこ空港」の滑走路です。
福岡空港に12:35到着。福岡空港発 ANA4935便 13:00→対馬やまねこ空港着13:35対馬空港 (対馬やまねこ空港) 空港
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福岡空港と対馬やまねこ空港を結ぶ飛行機です。ボーディング・ブリッジはありません、歩いて空港ビルまで行きます。対岸のプサン空港もサッカーワールドカップ前はボーディング・ブリッジがなく、雨の日の移動は傘をさし歩きました。そのことを思い出しました。
対馬空港 (対馬やまねこ空港) 空港
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対馬やまねこ空港ターミナルビルに向い歩いています。
対馬空港 (対馬やまねこ空港) 空港
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対馬やまねこ空港の到着口です。
対馬空港 (対馬やまねこ空港) 空港
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対馬やまねこ空港を出ると観光案内板があります。対馬やまねこ空港から厳原へ向います。
対馬空港 (対馬やまねこ空港) 空港
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対馬で最初に訪れたが「城下町厳原」。厳原には7世紀から対馬国の国府が置かれ、行政・文化の中心地として栄えました。府中とも呼ばれ、明治維新後に厳原と改称されました。
外交・文化施設団「朝鮮通信使」は府中を経て、対馬藩の先導・護衛のもと江戸向いました。対馬は大陸との文化、貿易の窓口として栄え、また韓国釜山には対馬藩士など約600人が滞在する倭館が置かれるなど、独自の外交・貿易機能を発揮していました。
階段上の建物は「厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)」の神門です。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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神門から奥に見える建物は「拝殿」です。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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正面の建物は拝殿の正面です。
厳原八幡宮神社は城下町の鎮守です。厳原の中心部に位置し、古くから対馬藩主をはじめ島民の崇敬を集めてきた古社です。神功皇后が三韓征伐の帰りに清水山で祭祀をおこない、異国の侵入からこの地を守るよう祈りを捧げたと伝えられています。厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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拝殿前に馬像があったので写真に収めてみました。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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本殿です。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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本殿に向いに階段があります。階段上にある白い建物は宝物館です。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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八幡宮神社の案内板です。
案内板によると、神功皇后三韓征伐のおり、清水山に行幸ありて神籬磐境を定めた地であるといい、天武天皇白鳳四年の勅によりて社殿を造営したとあります。厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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宇努刀神社の案内板です。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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境内にある「宇努刀神社」です。 厳原八幡宮神社を訪れたとき、観光客は私達二名でした。
厳原八幡宮神社 寺・神社・教会
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厳原のメーン通りから一つ入った通りの街並みを歩いてみました。ほとんど人通りはありません。静かな町でした。
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「池の屋形跡」の案内板です。触りを読んでみました。
池の屋形は約四百七十年前の室町時代に築かれた対馬島主宗氏の城で所在地や規模などはなぞに包まれた幻の城です。宗家十四代の宗将盛が大永六(千五二六)年に築いたが享禄元(一五二八)年、家臣らの謀反で焼失し、その後金石城を造ったとされている。 -
池神社です。池という地名は、当時この辺りに大きな池があり、池の大明神(池神社)と称する祭祀所があり、その傍に屋形ができたので今屋形と称し、のちに今屋敷となった。
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江戸時代の街並みを偲ぶ「武家屋敷石垣」
厳原には対馬藩の城下町にふさわしい屋敷の石垣が残っています。この石垣は江戸時代初期から築かれ、1811年の来日に備え、さらに美しく整備されました。 -
今なお多く残っている石垣が、城下町厳原の歴史を感じさせてくれます。
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「観光情報館 ふれあい処(どころ)つしま」です。対馬の中心部・厳原町今屋敷(いづはらまち いまやしき)にあります。
施設内には、「観光案内所」「観光の間」「特産品の間」「体験憩いの間」「多目的広場」等があり、対馬観光を始める前に、観光情報館へ立ち寄ることをお勧めします。ここで観光に必要な資料・情報を集めることが出来ます。
ここ「観光の間」は、対馬の歴史・自然・観光地の写真・年表・映像などを展示・上映しています。まずここで対馬の概要を知ることが出来ます。ふれあい処 つしま 名所・史跡
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床面には、古代から近代にかけての海上交通ルートが図示されています。大いに興味を引きました。
ここまでが第一日めです。ふれあい処 つしま 名所・史跡
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二日めは「和多都美(わたつみ)神社」から始まりました。「和多都美神社」は対馬の中央部、「仁位浅芽湾(にいあそうわん)」の最奥部にあります。
豊玉町の由来にもなった豊玉姫命と、「海彦山彦」の神話で知られる彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を祭神とする海宮。海に面して立つ鳥居は、大潮の満潮時には2mも海中に沈む。和多都美神社 寺・神社・教会
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池の中の三柱鳥居(みはしらとりい)と言われています。
三柱鳥居は、鳥居を3基組み合わせたものを言います。 正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本です。和多都美神社 寺・神社・教会
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大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもあるそうです。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもあります。
和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社の手水舎(ちょうずや)です。柱に「手水の作法」が立て掛けてあった。
和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社の境内から海に立つ鳥居を撮影してみました。
和多都美神社 寺・神社・教会
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名神大社 和多都美神社の案内板です。御祭神と由緒が書かれてあります。
和多都美神社 寺・神社・教会
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社殿前から海の方を撮影してみました。海の中に鳥居が2箇所、拝殿前に3箇所、合計5箇所、整然と並び、非常に絵になります。
和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社の案内板がありました。
和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社の社殿(拝殿)です。
和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社の本殿です。
和多都美神社 寺・神社・教会
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社殿横の三柱鳥居です。
和多都美神社 寺・神社・教会
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豊玉姫之墳墓
本殿の後方に、豊玉姫命之墳墓があります。そして、西の山側には、豊玉彦尊王の墳墓の2つの岩があります。
厳かな雰囲気の中、神聖なこの場所は、パワースポットになっているそうです。和多都美神社 寺・神社・教会
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和多都美神社を出て「烏帽子岳展望台」へ向いました。
和多都美神社 寺・神社・教会
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烏帽子岳展望所に到着しました。韓国馬山の対岸の島ということで「対馬」だそうです。
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韓国と対馬の間に国境を示す点線が引かれてあります。対馬と壱岐の間に削って線を引いた落書きがありました。
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烏帽子岳展望所からの浅芽湾(あそうわん)の景色です。
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和多都美神社の背後にそびえる烏帽子岳は、浅茅湾を北側から眺めるビューポイントです。日本有数のリアス式海岸、浅茅湾の変化に富んだ海岸美をぐるり360度展望できる。気象条件がよければ釜山市も見ることが出来る。と、言われるが釜山側から見たことがありません。空気が澄んだ冬に見えるのかもしれません。
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典型的なリアス式海外線です。
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360度見渡し写真を撮ってみました。
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浅茅湾には小さな島々が浮かんでいるように見えます。正に絶景です。
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この櫓は、大手櫓と言い、1990年に復元されたものです。 当時の櫓門は大正期まで残っていたそうですが、売却されたそうです。
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「万松院(ばんしょういん)」を指す道標がありました。
万松院 寺・神社・教会
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正門は元和元年(1615年)の創建当時のままの桃山式の建物です。正門の両側に仁王像が立っています。
万松院 寺・神社・教会
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「史跡 対馬藩主宗家墓所」の案内板が立っていました。
万松院(ばんしょういん)は、元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家累代の菩提寺となりました。万松院 寺・神社・教会
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墓所へ行く立派な石橋です。
万松院 寺・神社・教会
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石碑には「史跡 萬松院」の文字が彫られてありました。その隣りに外国語の案内板が立っていました。
万松院 寺・神社・教会
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諫鼓(かんこ)
領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓、と記載されていました。万松院 寺・神社・教会
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万松院本堂です。
万松院 寺・神社・教会
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本堂の中へ入ってみました。「写真撮影OK」と言うので撮影しました。
万松院 寺・神社・教会
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朝鮮国王より寄贈の三具足です。
万松院 寺・神社・教会
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本堂に徳川歴代の将軍のお位牌が祀られていました。徳川家と宗家の深い繋がりを知ることができます。
万松院 寺・神社・教会
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「上・中御霊屋(おたまや)」へ行く道標です。
万松院 寺・神社・教会
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万松院に132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる石段があり幽玄(れいげん)な雰囲気を醸し出しています。この石段を上った場所に宗家10代~32代までの墓所である御霊屋(おたまや)があり、 巨大な墓がずらりと並んでいます。
万松院 寺・神社・教会
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「万松院の大スギ」という案内が立っていました。
万松院 寺・神社・教会
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万松院の大スギです。実に大きく圧倒して来ます。
万松院 寺・神社・教会
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石段を上った場所に宗家一族の墓所である御霊屋(おたまや)があり、巨大な墓がずらりと荘厳な雰囲気のなか立ち並んでいます。その規模は大大名なみの規模で、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに日本三大墓地の一つと言われています。
万松院 寺・神社・教会
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巨大な墓が立ち並んでいました。
万松院 寺・神社・教会
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十九代 義智(よしとし) 万松院殿
天正七年襲封 十四代 将盛(まさもり)の第四子 文禄・慶長の役参戦 役後に国交回復を図る と、案内がありました。万松院 寺・神社・教会
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二十代 義成(よしなり) 光雲院殿
元和元年襲封 十九代 義智(よしとし)の第二子 朝鮮通信使五度渡来 柳川一件将軍直裁 と、案内がありました。万松院 寺・神社・教会
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日野夫人 養玉院殿
二十代義成(よしなり)の正夫人 日野資勝(ひのすけかつ)の息女 と、案内がありました。万松院 寺・神社・教会
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上御霊屋(かみおたまや)
上段、上御霊屋には義智以来の14人の藩主とその正室ら、中段、中御霊屋には積極的な朝鮮外交で有名な室町期の貞国、側室と童子、下段、下御霊屋には一族及び分家(初代)などが眠る。対馬藩は十万石の格式であったが、壮大な墓地は数十万石の大藩なみといわれている。万松院 寺・神社・教会
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二十一代 義真(よしざね) 天龍院殿
明暦三年襲封 二十代 義成(よしなり)の長子 藩政確立中興の祖
京極夫人 円照院殿
二十一代義真(よしざね)の正夫人 丹後宮津藩京極高知(きょうごくたかとも)の長女 と、夫婦の案内がありました。
万松院 寺・神社・教会
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中御霊屋(なかおたまや)
藩主の側室や童子の墓が祀られる墓域。百雁木(ひゃくがんぎ)の中程東側に位置し、上下二段で構成される。 とあった。万松院 寺・神社・教会
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藩主の側室や童子の墓が祀られています。
万松院 寺・神社・教会
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朝鮮通信使
17世紀~19世紀の日朝間の平和構築と文化交流の歴史の案内板が立っていました。 -
2月28日午後、対馬から壱岐へジェットフォイル船で移動しました。所要時間は約65分です。高速船、早いと感じました。
魏志倭人伝の島「壱岐」に到着しました。壱岐島 自然・景勝地
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壱岐の島で最初に訪れたのが黒崎半島の「東洋一の砲台跡」と「猿岩」です。
写真の題名が「解体作業中の黒崎・砲台跡」となっていました。この写真は、駐車場に隣接する売店に掲示されています。黒崎砲台跡 名所・史跡
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この写真の題名は「黒崎砲台前での、最後の記念撮影」となっていました。同じく売店に掲示されてあります。
黒崎砲台跡 名所・史跡
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壱岐の人気観光地である猿岩の近くの小高い丘にある「黒崎砲台跡」です。砲台の口径約41㎝、砲身の長さ約18m、弾丸の重さ約1トン、東洋一と言われた巨大な砲台です。
黒崎砲台跡 名所・史跡
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壱岐対馬国定公園の猿岩です。黒崎半島の突端にある奇石です。高さ45mの巨大な猿岩は、壱岐のシンボル的存在です。そっぽを向いた猿の横顔そっくりでユーモラスなその姿は、多くの人を惹きつけます
猿岩 自然・景勝地
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猿の後ろ姿にそっくりの猿岩、和む背中の曲線です。
猿岩 自然・景勝地
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猿岩をアップで撮影してみました。横顔を見るとゴリラにも似ているような気がしました。
猿岩 自然・景勝地
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インフォメーションとして「壱岐市おすすめスポット!!」案内板が猿岩前の駐車場にあります。勝本エリア・芦辺エリア・郷ノ浦エリア・石田 原の辻エリアの四つエリアの主な紹介です。
猿岩 自然・景勝地
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インフォメーションとして「壱岐市おすすめスポット!!」の隣りに「壱岐市全島マップ」があります。分かり易いので、是非参考にしたいものです。
猿岩 自然・景勝地
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猿岩・東洋一の砲台跡がある黒崎半島から郷ノ浦町の「岳の辻」に移動しました。
岳の辻は壱岐島最高峰(212.8メートル)の山で、山頂からは島全体を見渡せ、天気がいい日には九州本土や対馬島を眺望することができます。岳の辻は古代より烽火台や遠見番所が設置され、国防の要衝として重要な役割を果たしてきたことが文献史料に記されています。岳ノ辻 自然・景勝地
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「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり」
この句碑は、国学院大学・慶応大学教授の国文学・民族学者 折口信夫氏が詠んだ句です。岳ノ辻 自然・景勝地
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壱岐島最高峰(212.8メートル)の岳の辻にあるNHKの放送設備です。
岳ノ辻 自然・景勝地
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中央展望台へ行く道標です。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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「新観光百選の地」と彫り込まれた真新しい石碑が立っていました。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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壱岐島の観光地図がありました。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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壱岐島最高峰(212.8メートル)岳の辻から見た郷ノ浦港です。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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壱岐島最高峰(212.8メートル)岳の辻から見た郷ノ浦の街並みです。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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左に見えるのが「長島」、右に見えるのが「大島」。長島と大島に架かる橋は「珊瑚大橋」です。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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壱岐島最高峰(212.8メートル)岳の辻にある砲台跡です。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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龍光大神(りゅうこうおおかみ)が祀られていました。
岳ノ辻展望台 名所・史跡
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壱岐島最高峰(212.8メートル)岳の辻から「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」へ移動しました。
「魏志倭人伝」に記載されている一支国(いきこく)の王都であり、弥生時代における最先端の交易拠点として重要な役割を果たしたと考えられています。海を渡る渡来人とそれを迎える倭人が出合う交流の拠点となった舞台が「原の辻遺跡」でした。原の辻遺跡 名所・史跡
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原の辻遺跡は弥生時代の環濠集落です。この原の辻遺跡は“遺跡の国宝”にあたる国の特別史跡に指定されています。日本で弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されているのは、この他、登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡の2箇所だけです。
原の辻遺跡 名所・史跡
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調査済みの所は、遺跡公園として復元整備され、自由に見ることができます。建物は「交易倉」のように見えます。
原の辻遺跡 名所・史跡
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原の辻遺跡が唯一、国と王都が特定されています。現在、発掘調査は2割程度です。奥に見える建物は「王居館」のように見えます。
原の辻遺跡 名所・史跡
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建物は「祭儀建物群」のように見えます。似たような建物が多く見分け難い。
原の辻遺跡 名所・史跡
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建物は「迎賓場」のように見えます。
原の辻遺跡 名所・史跡
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「周溝状遺構(しゅうこうじょういこう)」です。周りを溝で囲んだ場所は、重要な儀式が行われたところと考えられています。
原の辻遺跡 名所・史跡
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高い建物は「物見櫓(ものみやぐら)」と思われる。最上階から四方を監視したのであろう。
原の辻遺跡 名所・史跡
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「日本最古の権(けん)」ここから棹秤(さおばかり)に使うおもり(権)が発見されました。交易品のような貴重なものを量ったのでしょう。
原の辻遺跡 名所・史跡
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2月28日 壱岐で夕食後、九州郵船フェリーで唐津へ移動しました。所要時間約100分。唐津のホテルに宿泊。2月29日 唐津から大宰府政庁跡へ移動しました。
大宰府政庁跡の端を歩き、坂本八幡宮へ向っています。大宰府政庁跡 名所・史跡
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「梅花の歌」の歌碑です。
「正月立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ」の句が彫り込まれてあった。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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万葉集の中でもっとも華やかな「梅花の宴」が天平二年(730年)正月十三日、
太宰師大伴旅人邸で盛大に催された。九州管内諸国の管人三十二名は中国渡来の
梅を題材に歌を詠んで、春の一日を楽しんだ。と、銘板にあった。
新元号は「令和」。出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花の歌三十二首の序文」という。従って、ここが新元号の発祥の地、という。大宰府政庁跡 名所・史跡
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新元号令和ゆかりの地「坂本八幡宮」です。
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坂本八幡宮の鳥居です。新元号が「令和」に決まった当時、大変な賑わいが続いたそうです。
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小雨が降っていたので、人影は疎らだった。今、旬の坂本八幡宮を参拝できました。
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坂本八幡宮の大宰府政庁跡を望む境内南側に「令和」の石碑がありました。
碑文の書は、新元号発表時に菅義偉官房長官が掲げた「令和」を揮毫(きごう)した茂住修身(もずみおさみ)さん(雅号は菁邨(せいそん))による。4月に同宮に参拝した際に奉納したという。
坂本八幡宮は「梅花の宴」が催された大伴旅人邸跡の候補地の一つで元号発表後は参拝客も急増した、聞きました。 -
万葉の歌碑です。新元号「令和」とは関係ないようです。
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平城京、平安京に次ぐ、外国との交渉の窓口となった大宰府政庁の跡です。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる大宰府政庁を置いた。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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万葉集には"遠の朝廷(みかど)"と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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礎石の大きさから、建物の大きさが想像出来ます。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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この石碑は、政庁跡が忘れ去られていくことを恐れた御笠郡の人々が、明治13年(1880年)、福岡県令渡辺清に文を撰してもらい、大宰府の由来を記したものです。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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明治時代になって標石などもなく、礎石や瓦などが持ち去られていった。このような状況を憂いた乙金村の大庄屋高原善七郎は、明治4年に自費で「都督府古址」の碑を建立しました。それが中央の石碑です。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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ここは「正殿」と言われるエリア。整然と礎石が並ぶ、その範囲も広い。大宰府政庁のスケールの広さを伺い知ることが出来ます。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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「太宰府碑」は、福岡藩東学問所修猷館に対する西学問所甘棠館の教授亀井南冥が、寛政元年(1789年)に撰したものです。ところが、その文中の「まさに今、国邑を封建し、名器いにしへえにあらず」という箇所が勤王精神の表れととられ、藩の建立の許可が出ないばかりか、教授の罷免という処分を受けることとなりました。 それから130年ほど後の大正3年(1914年)、門下生の尽力により、「太宰府碑」は建立され、南冥の宿願は結実したのでした。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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大宰府政庁跡入口部に「古都大宰府保存への道」なる案内板が立っていました。保存への歴史、大宰府のこれから などが掲載されていました。
大宰府政庁跡 名所・史跡
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大宰府政庁跡から太宰府天満宮へ移動しました。ここは太宰府天満宮の参道です。
太宰府天満宮 寺・神社・教会
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御神牛(ごしんぎゅう)です。
御神牛は、太宰府天満宮のご祭神、天神さまこと菅原道真公のお使いの牛です。
御神牛像は、「頭を撫でると賢くなれる」、「けがや病気がある場所を撫でると快復する」などと言われ、信仰の対象となってきました。太宰府天満宮 寺・神社・教会
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太鼓橋(たいこばし)です。
神社の池には太鼓橋がかかっていることが多い、これは、敢えて渡りにくい橋を架けることによって、私たちの世界と、神が住まう領域との境界を明白にし、人間が神の世界に容易に入れないようにする、という意味がある。太宰府天満宮 寺・神社・教会
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楼門(ろうもん)です。
楼門とは、二階建ての門のことです。一般的には、上層のみに屋根を設けて、高欄付きの縁を巡らせます。太宰府天満宮 寺・神社・教会
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御本殿(ごほんでん)です。
太宰府天満宮の御本殿は、919年(延喜十九年)、左大臣藤原仲平が勅命によって造営しました。元々は、菅原道真公の墓所があった場所です。太宰府天満宮 寺・神社・教会
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太宰府天満宮の梅林です。
観梅 祭り・イベント
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2020年2月27日から29日まで、三日間の、対馬→壱岐→九州の「交易ルートの旅」は終わりました。このルートを辿ってみたい、という喉に突き刺さっていた小骨が取れたような気がしました。
福岡空港発 ANA256便 14:15 → 羽田着 15:50で帰ってきました。福岡空港 空港
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