2019/08/09 - 2019/08/16
12位(同エリア748件中)
こあひるさん
約400年前、相川金銀山の発見を契機に、大規模な鉱山開発が始まり、鉱山町・相川が誕生した。鉱山を支えた人々の生活は、採掘場に程近い山中で始まり、その後、山から海辺へと尾根伝いに展開した。鉱山は、平成元年(1989)に休山したが、鉱山に関係する遺跡や建物、段丘を活かして形成された鉱山町の独特なたたずまいは、現在も継承されている。かつての隆盛を偲びながら、まち歩きを楽しんだ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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8月11日(日)8時。朝食会場へ・・・。
伝統と風格の宿 ホテル万長 佐渡島 宿・ホテル
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お腹は空いていないくせに、つい欲張って取ってきてしまう・・・。朝からたっぷりの食事は非日常風景。
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お部屋の窓から・・・今日も快晴!!暑くなるな~ぁ!
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こちらの景色は・・・おそらくホテル内のどこかからの相川(下町=海岸沿いのエリア)の町並み。
灰色の瓦は、戦後に大量生産されたセメント瓦・・・ということらしいけれど、そうなのかな?昔は、相川の浜砂を使って作られていたそうです。黒い瓦は、現在主流の焼き瓦です。 -
ホテル最寄りのバス停は、100mほど歩いた「相川下戸(おりと)」。問い合わせるまでは、350mほど離れたバス停「きらりうむ佐渡」が最寄りだと思っていたので、思ったよりも近く、便利で助かりました。
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10時過ぎのバス(本線)で10分ほど・・・「佐渡版画村」で降りました。佐渡版画村美術館の向かいには、佐渡奉行所跡があります。
佐渡版画村美術館は、かなり立派な門構えです。佐渡版画村美術館 美術館・博物館
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佐渡版画村美術館の建物は、かつて相川裁判所だったもの。
昭和47年、版画家の高橋信一氏を中心に、佐渡を版画の島に・・・と、佐渡版画運動が展開されました。島内各地に版画制作グループが生まれ、やがてそれらが結集して、佐渡版画村美術館が生まれました。
館内には、佐渡在住の会員たちのが作品が展示してあります(入っていませんが)。 -
この旧相川裁判所の建物は、明治21年(1888)に建築されたもので、当時はお堀をはさんで佐渡奉行所の建物と相対し、その偉容を誇っていました。
昭和の戦前までは、玄関破風の下に十六菊の紋章が掲げられていました。この紋章は、相川でも、この裁判所と御料局佐渡支庁(現・相川郷土博物館)だけが許されたものでした。
昭和44年(1969)に、裁判業務全般が旧佐和田町に移管されましたが、建物は当時の状態のまま残されました。 -
美術館には入りませんでしたが、外観を眺めただけでも、隆盛を極めた鉱山町の面影を偲ぶことができます。
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明治時代らしいレンガ塀が、佐渡版画村美術館を囲んでいます。家屋はがっつり和風なのに、塀はモダンなレンガ壁・・・どういうバランスなんだろう。
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レンガ塀沿いに進むと、時鐘楼が見えてきます。
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相川の町名は、地名・人名・職業名・商品名など、由来がはっきりしています。
弥十郎・宗徳など人名の町名は、鉱山の開発者である山師の名前をつけたものです。大工(大工というのは、鉱石を採掘する坑夫のこと)・床屋(製錬をする場所)などは、採掘や製錬を担当する職業名の町で、鉱山の町として開かれたことがわかります。
所々に、町名説明の標柱がありましたが、標柱は、佐渡を代表する無名異焼きなのだそうです。
炭屋・紙屋・板・材木・塩屋など商品名の町は、海岸部の下町に多いです(今、散歩しているのは上町(かみまち))。船から運ばれる荷物が多かったので、海辺が商人町として発達したのです。
レンガ塀の小路あたりは、味噌屋町という名前です。 -
味噌屋町の長坂と言う急坂を降りて行くと、下町に繋がります。長坂という名前は、正徳3年(1713)から変わっていません。
上町が段丘に築かれていることや、高い建物がないこと・・・おかげで海岸沿いまでの見晴らしは、風情があって素晴らしいです。 -
連れ合いをレンガ塀の小路に残して・・・数歩だけ下ってみます。
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上町は段丘にあるので、坂道や段差が多いのが特徴です。そういう地形のため、石垣や石積みが多く見られます。
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段丘崖に、石垣を造り、石階段を設け・・・そんな江戸時代の町づくりの面影がそのまま残っているのです。
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さて・・・レンガ塀の小路に戻って・・・先に進みます。長く続くレンガ塀を振り返って・・・旧相川裁判所はけっこう広い敷地です。
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時鐘楼に近づいてきました。
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時鐘楼の手前にある小路には、佐渡版画村美術館敷地の裏手への出入口があり、トイレが使えます。
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時鐘。
相川の時報は、佐渡奉行所内の太鼓により、1709年に始まったと言われます。 -
正徳3年(1713)、佐渡の出銅で鋳造したもので、鐘の高さ「四尺八寸」、周りは「八尺五寸」。時鐘は明治初年まで続けられ、時計の役目を果たしました。
鐘楼は万延元年(1860)に改築されたものです。 -
京町茶屋・・・ギャラリー兼カフェのようです。町あるきをスタートしたばかりなので入りませんでしたが、グーグルマップで見ると、意外に中が広く、海を見渡せる眺めの良いカフェのようです。
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鉱山町・相川には、上町(かみまち)と下町、寺町などの地区があります。今、散策しているのは上町です。
この通りは、相川金銀山と奉行所を結ぶメインストリート・・・京町通り。鉱山盛期の繁華街でした。通りは相川金銀山(佐渡金銀山)まで繋がっていますが、下京町~上京町までを京町通りと呼びます。 -
京町通りは、上町台地の尾根線上・・・東西に延びています。沿道に大工町など職業別の町建てが行われ、南北に横道が走る短冊状の地割りになっています。
地割りや道の配置、町名などは、江戸時代とほとんど変わっていません。江戸の町づくりの名残りが色濃く残っています。 -
京町通りは、東へ向かうにつれて、ゆるやかに上り坂ですが、南北に走る横道はどこも下り坂。この図のように、京町通りは、他の通りに比べて高い位置にあります。
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下京町に、相川ふれあい集会所があります。この建物は、鉱山の幹部職員の社宅だったものです。
明治29年(1896)年、佐渡鉱山が三菱合資会社に払い下げられると、上町には、間口が広く、通りに面して庭を有する社宅が建設されたのです。 -
住民の集会が無いので閉まっています。見学できるわけではないようです。
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周りにベンチが置いてあり・・・のどかな空気感です(実際には暑苦しいのですが・・・)。
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京町通りから少し横道に逸れてみます。このあたりは、八百屋町という町名です。
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少し進むと・・・下町の町並みが一望できます。ホテル万長も見えますね~。
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上町がある段丘は標高300mほどのようですが、こうして下町を眺めると、かなりの高低差を感じます。
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今度は、米屋町という町名のあたりにやってきました。
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京町通りの1本北側の裏道である米屋町の通りと、高い位置にある京町通りとの間には段丘崖があるようで、石垣がほぼ一直線に施されています。
段差のある土地に建てられた家屋は、通りに面して平屋構造を持ち、背後に段々と降りる「吉野造り」と呼ばれるスタイルになっています。もちろん、江戸時代の家屋がそのまま残っているわけではなく、明治時代以降に建築されたものが多いようですが。 -
米屋町。
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軒下の玉ねぎ。
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京町通りに戻ってきました。振り返ると・・・海が見えます。
江戸時代からの伝統を受け継ぐ町屋と、近代以降に(明治後期に、三菱合資会社に払い下げられてから)、佐渡鉱山が労働者のために設けた社宅が入り混じっているのが上町の特徴です。
町屋は、江戸から昭和まで様々あり、その時々の流行も取り入れられました。社宅は、幹部職員用の戸建て型と、一般職員用の長屋型とに分かれます。 -
下京町から中京町に変わっています。
京町という名前は、江戸時代に京の西陣織を扱った店があったことが由来だそうです。往時、京町通りには商家が立ち並んでいました。 -
江戸初期には、3階建ての家もあったそうです。
相川きっての豪商・山田吉左衛門(京都出身)も京町通り界隈に住み、両替や廻船を手広く営んでいたそうです。
連子が多く見られ、近年までは上方風の蔀戸も見られました。
文政9年(1826)の資料によれば、相川町内はおよそ2700戸で、金銀山と奉行所に直接かかわっている者が約35%、残りの65%が商人や職人などでした。職人には、家大工・左官などの建設業が最も多くいました。鉱山の仕事は重労働であるため、医者やあんまも大勢いました。また、衣類の仕立てや仕事着のつくろいで生計を立てた針仕事師もたくさん住んでいました。 -
京町通りは、上京町に入りました。
今、11時半少し前。ちょうど「Cafeガシマシネマ」というカフェがあったので、暑いし、そろそろちょっと休憩をしましょう・・・。
昭和10年代に、佐渡金山鉱山長の社宅として建てられた家屋を改装して使っています。
社宅には、長屋形式と戸建て形式とがありましたが、この住宅は、典型的なお庭付き戸建て形式です。 -
月替わりで、毎日映画を上映しているみたい・・・。
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玄関からすぐのお部屋では、ちょうど映画を上映中(閉め切ってあり、微かに音や声が聴こえてきます)。なるべく静かに・・・とお願いされました。
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昔の家屋の風情をそのまま・・・でも改装されていてキレイです。
映画関連の本や雑誌などがひしめく本棚。上映作品に合わせた「今月の本棚」コーナーもあります。
古いミシンを利用したテーブルもあります。 -
レトロな機器や道具が何気に置かれ、いい雰囲気です。
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昔のラジオ。
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感じの良いカフェで、しばしゆったり静かなティータイム。
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上京町まで来ると・・・通りから、かなり海が見えます。
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下京町や中京町あたりより、傾斜がキツくなってきました。ヘタレのわが家にはハードなお散歩です。
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このあたりから振り返る景色は、京町一番の撮影スポット。空よりも海が青い~。
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横道もまた、かなりの急こう配の石段と石垣。
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右手に・・・石垣の上に聳える高い塀が見えてきました。
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蔦に覆われた塀の中は、旧相川拘置支所。
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旧相川拘置支所は、新潟刑務所相川拘置支所として、昭和29年に開設され、佐和田地区に移転する昭和47年まで使用されていました。その後、払い下げを受けた旧相川町の所有となり、現在は佐渡市で管理されています。
現存する木造の拘置所としては全国的にも珍しく、外観・内部ともほぼ当時のまま残されている貴重な建物です。周辺には、裁判所や警察署などの行政施設もあり、この地区が、佐渡の司法・行政の中心であったことがわかります。 -
建物は、刑確定前の被収容者が入る「居房棟」、刑が確定した受刑者が炊事などを行う「炊事・倉庫棟」、職員や面会者が入ることができる「事務所棟」と、大きく3つに区分することができます。
平成17年に国登録有形文化財となりました。 -
事務所棟の中に、職員や来客のための湯沸かし室がありました。その奥が用務室で、庁務員などが滞在する部屋でした。夜勤の職員が仮眠をとる宿直室もあります。
入口には非常ベルがあり、居房棟と連動していて、緊急の際にすぐ対応することができたと言います。 -
集会所。
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所長室。
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炊事・倉庫棟に続く廊下入口には、頑丈な鉄柵扉があります。
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鉄柵扉を通り、廊下を進むと・・・
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文書庫、食糧庫、炊事場があります。ここで被収容者の食事を作っていました。
炊事は、新潟刑務所で刑が確定した受刑者が従事し、事務所棟との境にある鉄柵扉までは、比較的自由に行動できたそうです。
また、文書庫の扉は、表面がブリキに覆われており、庫内に隠れるのを防ぐため、容易に手がかけられないように配慮されていました。 -
残されているかまどや食器棚は、当時使っていたものです。
決められた予算内で作るため、通常は質素な食事でしたが、正月三が日は、餅や三食白米が出されたそうです。 -
こちらは書信室。
手紙は、面会と並んで、被収容者が外部と連絡を取れる手段の一つでしたが、この書信室でのみ書くことができました。
手紙は1日2通までで、定型内で重さを収めるため、便箋7枚以内とされており、定型外のものや二重封筒のものは許可されませんでした。
検閲後、封印された手紙は、職員により投函され、家族や知人の元へ届けられました。 -
入浴場もあります。
通常は左側の浴槽に入り、右側の浴槽は上がり湯や洗面に使い、身体を入れることはできませんでした。
風呂釜は隣の炊事場にあり、最初は薪を用いていましたが、後にコークスや石炭を燃料として使用しました。
入浴は1週間に2回、時間は15分と定められていました。入浴中は、手前の脱衣場で職員が監視を行っていました。そのため、浴室と脱衣場を仕切る戸のガラスは透明でした。 -
入浴時における注意事項も当時のまま。現在の拘置施設においても、同様な注意事項が定められているそうです。
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居房棟に入りました。
居房棟は、1名定員の独居房が6室、3名定員の雑居房が3室、さらに医務室があり、最大で18人が収容可能でした。
各居房の扉上部には、被収容者の番号を示す木札が掲示してあります。在室していない場合には、書信中や出廷中、接見中の掲示がなされ、空室時に被収容者がどの状態でいるのか、ひと目で確認できるようになっていました。
緊急時の非常用ボタンや房の扉、設備などは当時のままです。各房の扉の内側は、ブリキ張りになっています。
被収容者は、監視つきであったものの、中庭や房内で、卓球やキャッチボール、ラジオ体操などをして体を動かすことができたと言います。 -
中央部の天井には明かり取り用の窓があり、外光が入ってきます。
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6番の雑居房の隣は、ベッドや体重計が置かれ、医務室として使われていました。新入時と月1回、町内の医師が診察を行っていました。
医務室の前には、担当台と呼ばれる監視担当者の机があり、常時被収容者の監視を行っていました。 -
こちらは独居房・・・約3畳の広さで1名定員でした。
房内には、ほうき、塵払、塵取り、雑巾、膳箱、洗面器、紙くずかご、ヤカン、湯呑の備品や、布団、座布団、座卓が置かれており、手前が畳敷きとなっていました。
9番の独居房は、女性や少年が収監されると必ず使われる房で、便所に衝立、入口にカーテンを設置など、他の房から一部設備が変更されており、女性や少年に配慮したものとなっていました。
一方、雑居房は約6畳の広さで、定員は3名でした。
軽作業(炊事)を行う受刑者は、朝早く起床して炊事作業にかかるため、他の被収容者に配慮して、炊事場に一番近い雑居房に入っていました。 -
裏手の中庭にまわってみました。定員いっぱいでも18名だったので、さほど広くなくても十分だったのかな。
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旧相川拘置支所前の空き地では、ヒマワリがたくましく咲いていました。
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旧相川拘置支所のあたりは新五郎町と言う町名です。山師の名前が由来です。
どんな田舎でも自動販売機を見かけますが、ここでは、景観を損ねないように手間をかけています。 -
新五郎町あたりからは、町屋がぐっと少なくなり、空き地も目立つようになってきました。
町屋よりも、鉱山社宅だった家屋が多いエリアのようです。これらの社宅は、鉱山を払い下げられた三菱合資会社によって建てられたもので、明治~昭和の近代以降の面影を残しています。 -
長屋型の社宅が並んでいます。そのうち一軒を見学できるようです。
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勝手に入って見学する・・・セルフスタイルです。
窓から見える斜面にも、鉱山社宅っぽい家屋が見えました。 -
シンプルで質素な造り。
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どんな人たちがどんな生活を送っていたのでしょう。
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外に出て振り返ると・・・かなり上ってきたという実感!
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新五郎町の鉱山社宅群を過ぎると・・・遮る木々が途切れている場所があり、そこから道遊の割戸がよく見えます!かなり割れていますねぇ~!!
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かつてはもっと家屋が並んでいたのでしょうが・・・現在は、家屋もなく、人があまり住んでいないエリアのよう・・・山道のような雰囲気になってきました。
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ここら辺は鉱山の炊事場跡・・・のようですが・・・草ぼうぼうで、あまり判別できません。
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昭和初期の鉱山労働者の共同炊事場だったようです。井戸やかまどなどの跡が残っているように見えました。思ったよりも広いです。
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鉱山の炊事場跡のあたりは、大工町という町名です。大工と言っても、相川では、金を掘る金穿り・・・坑夫のことを大工と呼び、家を建てる大工のことを番匠(または家大工)と呼んでいました。
かつてここ大工町には、奉行所直属の「御直山大工」が住んでいて、間口一間半ほどの家が並んでいたそうです。
鉱山に近づくほど、町の衰退ぶりが大きくなっていきます。鉱山に程近い山の上から、だんだん海近くの下の方へ、町の中心が移っていったのですね。 -
現在、大工町に住む世帯は数軒あるようですが・・・まったくひと気がない。誰にも会わないです。
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日陰がほとんどなく・・・とぼとぼ感がひしひしと・・・。
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入口にかまど、関西風の通り庭のある家が、昔の形式だそうです。
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家並みが途切れ、また草木に囲まれた山道になりました。この先は諏訪町へ・・・でももう、ほぼ家屋は無く、このような茂みに囲まれた道が続いているようです。
そして・・・諏訪町から先には、鉱山町・相川の発端となった上相川の集落跡があります。江戸時代初期には、上相川千軒と呼ばれるほど繁栄し、20余りの町があったとされていますが、今はもう廃れてしまっています。
江戸初期に栄えた、金銀山にほど近いエリア・・・時が経つにつれ、中心は海側へと移り、やがて鉱山に近い初期の頃の集落(上相川や上寺町など)は衰退していきます。そのような盛衰の移り変わりは、鉱山産業と鉱山町の歩みでもあります。 -
何もなさそうなので、戻ることにします。
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大工町・・・わずかに・・・でも確実に人々の暮らしを感じます。
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北野神社。
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北野神社の向かいの空き地には、左へ200m行くと無宿人供養塔、右へ130m行くと寺町ルートという道案内の看板がありました。
上町の南側には寺町があり、上寺町(今は、寺町の遺跡となっている)・中寺町・下寺町と町名が分かれています。中寺町と下寺町は現役の寺町で、鉱山に縁の深い寺院が多いです。
無宿人の墓は、今は廃れてしまった上寺町にあるようです。1853年に建てられた墓碑で、水替人足として働いて亡くなった無宿人28名の出身地・戒名・名前・年齢が刻まれているそうです。
江戸後期に、江戸を始め、幕府直轄地であった大阪・長崎から1800余人の無宿人が相川金銀山に送られてきました。幕府の治安対策で捕えられた住所不定の人たちです(罪人ではない)。悪環境の中での過酷な労働のため、その寿命はとても短かったと言われています。
虫に刺されそうだし、無宿人の墓にも、寺町にも行きませんでした。でも、山中にある無宿人の墓は、わたしがイメージしていたよりも、小ぎれいで暗い感じはなさそうです。 -
すっかり草木に埋もれた古い鳥居が・・・北野神社への参道でもあったのでしょうか。
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上京町まで戻ってきました。ちょっと横道に逸れて・・・行けるのかな?行っていいのかな?というような細い階段道を下っていきます。周りは墓地のようです。
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表の京町通りから裏に入ったところにも、けっこう住宅がありました。空き地や廃屋もありましたが・・・。
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石垣だけが残る空き地・・・このあたりは六右衛門町という町名だったようです。山師の名前でしょう。
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さらに階段道を下っていくと(写真は振り返った画)・・・左門町という町名になっていました。日雇いや勝場(金・銀を選鉱する工場)で働く人が住んでいたそうです。今は草木が茂り・・・町だったという様子は伺えません。
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かなりの高低差ですねぇ・・・六右衛門町にも左門町にも、お寺があるようです。
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京町通りに戻ってきました。
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再び八百屋町のあたりです。かなりの段差を支える石垣と、版画村美術館(旧相川裁判所)から延びるレンガ塀が向き合っています。
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最初に途中まで下りてみた味噌屋町の長坂に来ました。この坂は、上町と下町を繋いでいます。今度は下まで降りま~す。
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段丘に築かれた町・・・町づくりには、石垣や石積みが多用されたので、余計に手間やお金がかかったでしょうね~。
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長坂の階段の左右には、水路があります。どの町屋も、中庭近くに井戸を持っていたそうで、排水路が全町にめぐらされていました。各町屋は台所に、ゴミの沈殿槽を設けて、上水を排水し、たまったゴミは畑の肥料にしていました。家の前に排水路のない家は、中庭に浸透枡を持っていました。
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だいぶ下まできました。
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やっと終わりが見えてきました。194段あるそうです。連れ合いは、手すりにつかまって、もたもたと一段ずつ・・・。
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長坂の終点・・・そのまままっすぐ進めば下町の商店街に出ますが、右手にもうひとつの坂道、西坂があります。長坂は、奉行所と下町を繋いでいますが、西坂も同じです。享保4年(1719)にできた坂道です。
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長坂と西坂の分岐点には、旧相川税務署があります。明治22年から昭和45年まで使われていました。
なかなか可愛らしい洋風建築です。窓枠は現代の物で補修されているようです。公開していないのが残念です。 -
長坂と西坂の分岐点には、牢屋跡もあります。慶長11年(1606)から明治に入るまで、ここに牢屋があったようです。
529坪余りあった敷地は、境界に笠木塀・荊垣を巡らせて、外部と遮断されていました。獄舎、揚屋、拷問場が建ち、空き地には土壇場(処刑場)がありました。 -
通行人が手を合わせて通ることから、西坂入口の小橋は合掌橋と呼ばれました。毎年4月には、受刑者の供養が行われるそうです。この橋のことかしら?
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西坂を上って奉行所まで行きます。長坂に比べて勾配は緩やかですが、合戦の際の防御も考えて、曲りが多くなっています。
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上るにつれ・・・木々の間から、下町の屋根が見えてきました。
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海がキラキラ!
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ゆるやか・・・とは言え、暑いし・・・体力なさ過ぎのわが家にはとてもキツイです。振り返った画。
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西坂を上りきると、佐渡奉行所跡に出ました~。今、この地にある建物は、かつてのものではなく、平成13年に復元されたものです(すべての施設が復元されているわけではありません)。
江戸時代、佐渡に金銀山があったため、江戸幕府が直接管理する天領でした。そして慶長8年(1603)、佐渡金山のふもと相川に佐渡奉行所が建てられました。幕府の財政の一端を担うほどの莫大な金銀を扱っていた佐渡奉行所には、厳重な防衛施設が設けられていました。
かぎ型のお堀もそのひとつで、舌状台地上に築かれた奉行所は、北側と西側の急斜面と、お堀とで周囲を固めました。またこの水堀は、たびたび発生した火災時には、防火水槽としての役目を果たしていました。 -
佐渡金山を管理するために置かれたこの奉行所は、他の地域の奉行所とは異なり、奉行所内に住居部(奉行の御陣屋と向御陣屋)、行政部分(御役所)、直営工場(勝場など)の3つの要素で構成されていました。
建物は、火事による焼失、再建を5回繰り返し、その都度姿を変え、明治維新以後は、役所や学校として使われました。
昭和4年、国史跡に指定されましたが、昭和17年の火事によってすべてが失われました。
平成6年、再び国史跡に指定されたのを受け、発掘調査および保存整備事業が始められ、史跡佐渡奉行所が復元されました。この整備においては、奉行所が最後に再建された安政6年(1859)の様子を復元しています。
発掘したのは、役所跡と、一段低くなっている工場跡です。工場は江戸後期に設けられたもので、鉱石を細かく砕き金銀分を取り出す粉成場(こなしば)と、それを炉で溶かして金と銀を取り出す床屋、さらにお金の形に加工する小判所などですが、発掘されたのはそのうち一部のみで、それ以外は現在の道路部分の下になっています。 -
お堀沿いに、広間役御長屋の跡があります。広間役とは、奉行に次いで、奉行所の中枢を占める上級役人のことで、江戸から派遣された広間役2人が住んでいました。
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上級役人の広間役長屋の前には、優美な曲線の木橋が架けられていました。広間役とその家族が使用するための橋です。家族は公私を区別するために、この橋を渡って出入りし、奉行所からの出入りは禁止されていました。美しい橋の架かった役宅は、地元役人の憧れであったことでしょう。
木橋の復元にあたって最大の問題は、曲線を描く橋げた用の木材をいかに調達するかでした。美しく自然な曲りを有する材が少ないためです。6ヶ月にも及ぶ山々の探索などで、ようやくすべてを揃えることができました。 -
佐渡奉行所の正面入口である大御門・・・さすがに堂々と立派です。門の左右には、見張りをする御門番所や、奉行が祭りなどを見物するための御物見があります。
佐渡奉行所 名所・史跡
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御役所。奉行所の中心施設であり、ここで行政を行っていました。
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かなりの広さがありますが、細かくたくさんのお部屋に分かれているのが印象的でした。
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職種もかなり細かく分かれていたようで・・・そのことのために一部屋を使うのか・・・と思う用途のお部屋もありました。
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武家屋敷ではないので、美しい庭園の眺めとはいきませんが・・・。
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御役所の西側(奥側)には、奉行が住んでいた御陣屋がありました。御陣屋部分は復元してありませんが、御役所と繋がっていました。
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今は、全部開け放しているので、風通しが良く、開放感があり、光が入ってきて明るいですが、当時はそれぞれ襖で仕切られていて、雰囲気は違っていたのでしょう。
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お白洲に座った気分はどうかな~。御役所は司法・行政の場だったのだなぁ~ということがよくわかります。
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お部屋が多すぎて、どこを通ってきたのかよくわからなくなりました。
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こちらは、武器などをしまっていた御武具蔵跡・・・かな・・・?御武具蔵も、御役所と廊下で繋がっていたようです。
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御役所から出ました。先ほど室内から眺めた御陣屋跡。御役所と同じくらいの広さがあるんじゃないかしら。
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敷地の北側三分の一ほどは、敷地が低くなっていて、そこに勝場(せりば)の様子を再現した建物が、部分的に復元されています。
鉱石を買って、選鉱・製錬する工場の経営者を買石(かいし)と言います。江戸初期には、山中の町に工場がありましたが、大量の水と多くの人手が必要だったため、便利で人口が集中している相川下町の川沿いに移っていきました。北沢町(北沢浮遊選鉱場のあったエリア)には、1軒に100人以上が働く買石の工場がありましたが、大洪水で壊滅してしまいました。
開山から230余年を過ぎた江戸後期になると、開山時の良鉱とは比べものにならない粗悪な金銀鉱石しか採掘できなくなりました。こういう鉱石は、多くの人手をかけなければ金銀にはなりませんでした。
そこで宝暦9年(1759)からは、それまで相川町なかに散在していた買石(かいし)を、奉行所の敷地内に集め、共同作業場を造り稼ぐことにしました。これを寄勝場(よせせりば)、寄床屋(よせどこや)と呼びます。
しかし、採掘された鉱石の品位が低いため、大量の処理が必要となり、共同作業場の規模を大きくしていきましたが、それでも採算が合わず、たびたび操業を休止しながら幕末を迎えました。
発掘調査で、建物跡のほか、舩(ふね 木製の水槽)や桶、石臼、ザル、そして水路に使用した木樋など多くのものが出土しています。勝場は、建物が建ち並ぶ大きな工場でした。 -
御役所と勝場の間の細長いスペースに馬場がありました。馬場は、奉行が馬の練習等に使っていました。古文書では、馬場に桜が植えられていたことが書かれています。
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勝場での工程・・・まず、扣石(たたきいし)の上にのせた鉱石を、鉄槌を使って砕きます。
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砕いた鉱石を石磨(いしうす)にかけ、粉状になるまですり潰します。
勝場では水を大量に使います。金銀を含む部分は、普通の岩石部分より重いため、水の中では早く沈みます。その性質を利用して、さまざまな道具を使い分けながら、金銀と岩石の部分を分けていきます。 -
ひとつ前の絵を再現すると・・・石磨にかけて粉状にする工程はこんな感じになります。
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粉状になった鉱石を、水を満たした舩(木製の水槽)に入れ、汰板(ゆりいた)を使って金銀を採取します。
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舩の底に残った沈殿物を「ねこ流し」にかけ、木綿に付着した金銀を回収します。ねこ流しとは、水流を使い、ごく細かな砂状の中から金銀分を取る工程で、重い粒は流れ落ちずに、木綿の布目に引っかかります。
選鉱の工程は単純なものですが、より多くの金銀を回収するために、同じ作業が何回も繰り返し行われました。 -
ひとつ前の絵を再現するとこんな感じです。
ここで回収された金銀は、床屋という建物に運ばれ、炉で溶かされ金属になり、金銀に分けられます。
工程を文章で読むと、なるほどねぇ~・・・と思いますが、絵や再現で見ると、作業が細かく分業され、アナログな手作業を根気よく繰り返していたことに驚いてしまいます。 -
金鉱山が発見された当時(1601頃)の町。
建物は、道遊の割戸の近辺に集中しています。このあたりには、山師の名前がついた町名が今でも残っています。海岸沿いの家屋は、漁師の集落です。
金銀山町への大量の物資は、牛と人手で山に運ばれていました。 -
金銀は、硬い岩盤の中の鉱脈にあります。江戸時代、これを山金(やまがね)と言いました。山金の採掘は、地表に現れた部分を見つけることから始まります。
佐渡金銀山のシンボルである道遊の割戸は、地表に現れた鉱脈(露頭)を採掘した跡の姿です。当初は、露頭の鉱脈から開発が始まりましたが、露頭した鉱脈はすぐに掘り尽され、地中深くにある鉱脈を追う坑道掘りの技術が導入されていきました。 -
関ケ原の戦いの翌年1601年、相川から大金銀山発見の報が全国に伝えられ、佐渡は江戸幕府の領地となりました。この金銀山を発見したのは、相川の山向こうにある鶴子(つるし)銀山の山師たちで、地中に大きな鉱脈が眠っていることを知ると、大挙して鉱脈近くの山中に住宅や工場を移し、次々と坑道を開いていきました。ゴールドラッシュの始まりです。
主だった山師たちを中心に、独自の鉱山町を造り、採掘から製錬までを行いました。この図は、開発初期の賑わいを復原したものです。沢沿いの山小屋は、吉野造りが多かったと言います。吉野造りとは、斜地に建てることができる便利な建物です。
わずか2~3年で、山の中に数万人が住むようになり、傾斜地や沢沿いは、山小屋が密集する町になりました。それを取り締まるため役人たちは、あわてて金銀山の入口2ヵ所に番所を建て、徴税を開始しました。金山町の出現です。当時、この相川には羽田という村がありましたが、村は膨張する金銀山の町にのみ込まれていきました。 -
慶長8年(1603)、江戸幕府が成立し、佐渡の代官として大久保長安が任命されます。長安は、それまでの山師との関係を改め、金銀の産出量は急増します。
後世の史書では、相川の人口を3万人とも5万人とも伝え、町は交通の便のよい上町台地や海岸にも拡大していきました。海辺の下町には、たくさんの廻船が着き、金銀山で使われる物資が次々と運び込まれました。
慶長9年(1604)、大久保長安の陣屋(後の奉行所)を、鶴子銀山から相川に移し、大きな敷地を持つ陣屋を、上町の海岸段丘の先端に建て(現在の奉行所の位置)、佐渡一国天領の本拠地としました。
開山当初と比べると、鉱山近くの上相川の町が拡大し(現在は集落跡しかない)、また、現在の上町(台地)から下町(海岸部)に至るまで、ぎっしりと町並みが広がっているのがわかります。 -
江戸時代、相川の町はたびたび大火に見舞われました。また、大雨による洪水や地震も多く、家屋の焼失や流失、鉱山の水没など被害は大きいものでした。出火の原因は、町屋のカマドからでる灰(肥料として売る)など火の不始末であり、強風にあおられ、大火となったものが多かったです。
天保4年(1647)の大火は、山から吹き下ろす東風が出火をあおって、点々と飛び火し大火となりました。火災は、江戸時代の260余年間に25回もあり、奉行所も5回焼失しています。
一方、水害は、川沿いに建った家屋が多かったので、毎年のように被害が出ていました。山では金銀が掘られ、木々を用材や薪として使うため、近くの山々を伐採して緑が少なくなっていたことも、水害を増大させました。
慶安2年(1649)7月7日の大雨で、金銀山の間歩(坑道)は水没、川ぎわの町々は押し流され、流域は3mあまりの土砂で埋まったと言います。
しかしならが、大火でも大洪水でも、この町の復興は早かったです。町内には、番匠(家を建てる大工)・木挽き・石工・材木屋など必要な職人が多数住み、常に廻船によって資材を手に入れることができたからです。 -
金銀山は、盛衰の歴史を繰り返しました。金銀山を再興させるには、採掘方法の見直しと排水作業を改革しなければならず、選鉱・製錬という工場作業の無駄を省くことが必要でした。
金銀山発見の頃、地上近くにあった良鉱は掘り尽され、元禄の頃(1688~1703)になると、採掘場は海水面下に及びました。そのため、大量の地下水が湧き出し、水没してしまう採掘場も多くなっていました。改革は、地中にトンネルを造り、手間をかけずに、大量の地下水を地上に排出することでした。
こうして江戸時代には、排水や排煙用の長いトンネルが5つ掘られ、そのたびに産金量は増しました。中でも、南沢疎水坑道の効果は絶大で、金銀山は再び出鉱量を増大させ、その効用は近代まで続きました。排水には、ツルベ・寸法樋、水上輪などさまざまな道具が使われ、特に水上輪の効果は大きなものでした。
この金銀山で使われた排水トンネルと測量技術、水上輪などは、のちに水田の灌漑用に転用され、佐渡中に行き渡り、米の産額も増したのです。 -
江戸後期になると、鉱山に近い上相川あたりの町並みはほとんど消え、町の中心は海辺へと移っていました。
明治2年(1869)、金銀山は官営佐渡金山となりましたが、江戸後期から続いている衰退は著しいものでした。明治政府は、振興策を打ち続けることになります。幕末から行っていた、お雇い外国人たちの技術改革案の実行や、新しい近代技術を学んだ日本人技術者の投入などです。
明治20年代(1887~)に入り、金銀の生産高が増加していきます。導入した洋式技術によって、爆薬を使った採掘、蒸気機関という動力を使った運搬と排水、大量の鉱石を処理できる工場が建設されました。
物資や鉱石の運搬には、トロッコや索道を使い、洋式船が着岸できる港を大間に造ることで、大量輸送が可能になり、生産が急増しました。これらの設備と道具の大半が、近代的溶鉱炉で造った鉄製のものであることも、洋式技術の特徴です。 -
奉行所は、段丘の先端にあるため、西側はこんなに素晴らしい眺めが広がります。奉行や役人たちも、この景色を眺めたのでしょうか。
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御陣屋跡(奉行の住居)まで戻りました。奥に写る御役所と繋がっているかなり大きな住居です。
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5600坪ある敷地の周囲は、お堀、石垣、土塁で囲まれ、いくつかの門も設けられていました。
敷地内からは、当時の人々の生活がうかがえる食器などの生活用品も出土しています。 -
御陣屋にあった(?)穴蔵の遺構。ガラス張りになっていて、写真だとわかりづらいですが・・・。
穴蔵は、火災などの緊急時に使用された地下倉庫です。湿気が高く、時には水が溜まる地下の蔵は、日常の収蔵庫には適しませんでした。しかし火災ともなると、大切な品物をすぐさま収納して、焼失を防ぐ重要施設として使用されていたようです。数多くの大火に見舞われてきた奉行所ならでは・・・と言えます。 -
穴蔵地下には床板が張られており、江戸中期には、筋金(自然金)や灰吹銀(銀地銀)などの貴重品が収納されたり、幕末には、黒船の来襲に備えて、武具を一時的に保管したこともありました。
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15時です。
佐渡奉行所跡から出て、道路沿いに北方向へ・・・。道路の脇に、展望台があり、昨日訪れた北沢地区施設群を見渡すことができます。 -
手前のレンガ造りの建物が火力発電所、奥に50mシックナーが見えます。
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明治~昭和にかけて、佐渡鉱山の生産システムを支えていた一連の施設群。かなりの急斜面に、いくつもの設備が連なっていたことがよくわかります。
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昨日、下から見た時、タンクのようなものが並んでいて、何だろう?と思いましたが、この位置からだと、かなり近くで構造を見ることができます。
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北沢地区は、明治期に入ると、佐渡鉱山の本部組織である御料局佐渡支庁が置かれ、佐渡鉱山全体の一大拠点となりました。また北沢地区では、明治から昭和にかけ、当時最先端の選鉱・製錬技術が実用化されてきました。
このため北沢地区には、濁川両岸の斜面地を利用して、金銀生産ラインの最終工程を受け持つ製錬所や選鉱場などの施設が次々と造られました。
特に昭和12年(1937)以降、佐渡鉱山は、国策による増産体制を整えるために、北沢地区にある施設の大改修を行い、昭和27年(1952)まで、この施設を使って操業を続けました。 -
そのまま道路に沿って下ると、北沢地区施設群のあたりへ出ます。車道を通らず、帯刀坂という階段の坂道を降りて行けばショートカットです。
坂道の途中にある帯刀坂公園(公園といっても小さなスペース)から、下町の家並みが見渡せます。 -
帯刀坂を下り切ると・・・相川郷土博物館があります。御料局佐渡支庁だった建物です。
この博物館のすぐ向かいに、北沢地区施設群があります。旅プランでは、今日、北沢地区施設群を見学する予定でしたが、昨日のうちに、タクシーで寄り道してもらい見ることができたので、今日の観光はこれで終わりとなります。 -
佐渡鉱山は、明治22年(1889)に宮内省へ移管され、御料局佐渡支庁と改称されました(明治29年(1896)三菱合資会社へ払い下げられた)。
この建物は御料局時代に建造されたもので、洋風二階建で、屋根瓦には菊の紋章が付いており、外壁は横板張り、内部は漆喰仕上げとなっています。
赤っぽい瓦は、今は製造されていない佐渡産の古い焼き瓦だそうで、手作りされていました。 -
正面の横長の平屋の後方・・・小高くなったところにも、同じ雰囲気の建物があります。
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そして、ちょっと見えづらい斜め後ろ・・・階段の先に、こじんまりと建つ小さな洋館・・・これが一番気になりました。とても可愛らしい建物です。
16時半すぎのバスにちょうど良いので、佐渡博物館前から乗って帰ります(本線)。 -
ホテル最寄りバス停の一つ手前「きらりうむ佐渡」で降ります。その方が飲食店街が近いし、帰り道にコンビニがあるので、300m余り歩くことになりますが便利でした。
昨日も通りがかった有形文化財の松栄家(まつばえけ)住宅を道路の向かい側から・・・。鉱山や廻船で繁栄した、相川を代表する豪商の住宅(明治時代)です。 -
商店街に続く通りへ。
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17時をまわりました。今日も時間が早すぎたのか、それともお盆間近でお休みなのか、やっていない飲食店が多くて・・・営業しているお店を探すのがとても大変。
ですので選択肢はなく、今日はパーラーつるやという、和洋中なんでもあり!のローカルな食堂に入りました。カレーライスや唐揚げを・・・ボリュームありました。
お盆の時期だからか、食堂は閑散としていて、時々、予約したものをテイクアウトする人しかいません。ガラガラだけれど、なんとなく浮足立っているような独特の雰囲気を感じました。パーラーつるや グルメ・レストラン
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18時です。ホテルへ戻ろ~。
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ホテルに到着~。
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18時半になります。今日もひとりで海岸に降りて来ました。今日もまた、あいにく雲が邪魔しています。昨日よりもたくさんの雲が・・・。
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日が沈み、空がピンク色に染まります。
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雲が多くて、水平線に日が沈んでゆくのを見ることはできませんでしたが、雲が多いと、日没後の色彩は多様で美しくなりました。
遠くにひとつ・・・漁り火が見えます。 -
絵の具がゆっくりと混じり合っていくように・・・柔らかな色が溶けあっていきます。
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色が濃くなり・・・明るさがだんだん薄れていきました。
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この旅行記へのコメント (4)
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- るなさん 2020/05/19 11:56:36
- 素敵な坂道
- あひるっちょ、こんにちは。
今日はいくらか涼しいけど最近はもう夏日になりつつあってしんどい。まぁ家からほとんど出ないからいいんだけど(爆)相変わらずマスク職人してます。マスクもあちぃ。
あぁぁいいねぇ~表紙の写真♪こういう坂道の向こうに海!ってのが最高だ。でもやっぱり日本は電柱がどうも邪魔するよねぇ。
海が綺麗だぁ。
和風建築とレンガの街並みが面白い!
ホント、高い建物がなくて街並みがいい雰囲気。やっぱ私は高層ビル群の風景より低層の家並みの方が好きだ(笑)
ってか人がおらんね( *´艸`)
木の美しい囲いがしてある自販機がすごい!!絵になる~
刑務所というより学校みたいだね?
蔦の絡まる感じがいいな。でもあんな門だったらすぐ脱走されそう(爆)
古くて風情があるいい街並み見せてもらいましたぁ♪
あぁぁカメラ片手にぶらぶら旅に出たいね~
るなっちょ
- こあひるさん からの返信 2020/05/26 16:03:01
- RE: 素敵な坂道
- るなっちょ、こんちは〜!
何だかもう梅雨みたい・・・まぁ、ほぼ家に籠っているから関係ないんだけれど(笑)。
東京も非常事態宣言が解除されたね〜。でもみんな恐る恐る・・・って感じになるよね。当然、感染したくない人はそうなっちゃう・・・。
日本のレトロな風景も、昭和風なら、電柱も風景のひとつの要素かもしれないね。江戸風や明治風の町並みには無い方がいいけれど・・・。あと美しい自然の風景にもない方がいいよね。
坂道と家並みの向こうに海とか緑の大地とか・・・段差のある景色はフォトジェニックだよねぇ〜、開放感があって気持ちもいいし。
ホント・・・カメラ片手にぶらぶらと、知らない町をほっつき歩きたいわ〜。国内に限れば、近々、気をつけながらしてもいいかな〜って気分にもなってきました(第2派が盛り上がらない限り・・・)。でも、あまり観光客のこない寂れたところがいいな、いっそう(苦笑)。あと、施設やホテルや公共交通機関が元通りに戻ってくれないとね。
海外はまだ入出国が制限されているし、その国の観光施設やホテルがどのくらいまで元通りになっているかわからないし・・・そもそも、習慣や文化が異なって、清潔に気をつけにくいからなぁ〜。
こあひる
-
- aoitomoさん 2020/05/15 23:30:30
- 当時を偲べる町歩き楽しそうです。
- こあひるさん こんばんは~
相川町などこあひるさんの足跡がGoogleのStreetviewでしっかり確認できますね~
これで、どっぷり楽しんでしまいました。
『旧相川拘置支所』内もStreetviewで歩けるのにびっくり。
こあひるさんのコメントもわかりやすく完璧に旅を楽しめました。
とは言え。暑い中、坂も多いのにかなりの距離を歩いてますね~
まあ、いつもながらですが。
お二人とも元気すぎます。
『Cafeガシマシネマ』
レトロ空間で映画も見れてCafeも楽しめるというのはいいです。
『佐渡奉行所』
勝場の再現絵とその様子を再現した建物。
汰板での金銀を採取の再現もしかり。
絵とそれを丁寧に再現した建物を共に見ればわかりやすいですね。
相川町の街並みも、
ツアーだったらなかなか見れないでしょうね。
貴重な旅行記です。
楽しませていただきました~
aoitomo
- こあひるさん からの返信 2020/05/18 10:10:28
- RE: 当時を偲べる町歩き楽しそうです。
- aoitomoさん、こんにちは〜!
今日からまた、旦那が会社へ出勤(車で送迎してますが)となり、わたしとしては、生活リズムにさほど変化はないのですが、少しホッとしています。パソコンの画面があまり見えないので、時々ヘルプが必要で、近場にも出かけられなかったので・・・。
相川をグーグルマップで確認されましたかぁ〜。わたしも旅行記を作りながら見て、あら?こんなだったんだ・・・と改めて知ったり、見損ねて悔しい思いをしたり・・・楽しみました。
旅行から帰ってきてしまうと、暑かったという実感は、割とすっぽり忘れてしまいますが・・・佐渡の旅では、日増しに暑さが増してきて・・・この日はまだ30℃を少し超える程度だったとお思うのですが・・・1日ごとに最高気温が上がって行き、この数日後に新潟で史上最高気温を記録したんですよ〜(苦笑)。暑さだけでいえば、仙台にいたほうが涼しかったです・・・。
Cafeガシマシネマ、佐渡で唯一の映画館・・・という記事を見た気がしますが・・・ホントかな。ひと気がないような町なのに、ああいうオシャレなカフェがあるということにピンときませんでしたが・・・。
佐渡奉行所はド定番観光スポットですよねぇ。ツアーでも訪れる・・・。一応、佐渡金山の歴史に重要な施設ですので行ってみました。思ったよりは面白かったかもしれません。時期的なものなのか、ほとんど他に観光客もいなかったです。
相川の町歩きは、佐渡の旅の中で一番楽しみにしていたものです。この後に訪れる宿根木の町歩きとともに、佐渡を訪れようと決め手になったのは、まち歩きでした。相川の町は、相川金銀山を中心としたかつての人々の生活を感じられ、とても面白かったです。
こあひる
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