2019/08/09 - 2019/08/16
12位(同エリア750件中)
こあひるさん
新潟で1泊し、いよいよ佐渡へGo!! 1日1ヵ所のと~っても無駄の多い(笑)ゆっくりめ旅。
今日は両津港まで船で渡り、佐渡観光ド定番の佐渡金山へ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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8月10日(土)。
地元のパン屋「カブト」で買ったパンで朝食。新潟京浜ホテル 宿・ホテル
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まもなく7時。ホテルの窓から見える景色。朝っぱらから、夏らしい強い日射しと青空。この時期は、いつ台風が発生するかわからないから、そういう天候に遭遇する覚悟もしています。
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新潟駅前からフェリーターミナルまでは、路線バスで15分ほど。3番乗り場から・・・。
バスは大体1時間に3~4便ほど・・・平日の8時台には5便あります。 -
「佐渡汽船」でバスを降ります。新潟から両津港までは、カーフェリーかジェットフォイルで渡ることになります。ジェットフォイルの方が便数が多く、両津まで1時間ほど。一方、カーフェリーだと2時間半かかります。でもジェットフォイル料金はかなり高く、カーフェリーの2倍以上。
わが家は障がい者割引があるので、なるべく早く佐渡へ渡りたいということもあり、ジェットフォイルを選びました。佐渡汽船 ジェットフォイル 乗り物
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ジェットフォイルとほぼ同じ時刻に出発する9:20発のカーフェリー。まだ1時間以上ありますが、1等(絨毯敷きの自由席)狙いの長い行列ができていました。
わが家はジェットフォイルに決めていたのですが、2ヵ月前(予約開始日)の時点で、カーフェリーの2等以上(指定席)はすでに売り切れていました。2等ならば予約なしで乗れますが・・・このように並ばないとならないのは嫌だなと思いました。目の悪い連れ合いづれで、荷物を引いて場所取りをするのはけっこう大仕事です。お盆の時期は混むんだなぁ~と改めて驚きました。 -
ジェットフォイルは全席指定ですので、並ぶ必要がないので楽ちんです。待合室も区切られた場所に設けられていて涼しいです。
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オンラインで座席も指定できました。どこでもいいんだけれど・・・。
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ジェットフォイルの座席はこんな感じ。
3月に、このコースのジェットフォイルが海洋生物とぶつかる事故(けが人も出ました)があったので・・・え~!わが家が乗る予定の船じゃないのぉ~~!?とちょっとビビりましたが・・・まぁ、仕方ないです。 -
さぁ、乗り込みま~す。カーフェリーに比べると小さいです。
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カーフェリーだと自由に歩き周ったり、デッキに出たりすることができますが、ジェットフォイルではシートベルトを締めたままで、基本的に歩き周ることはできません。
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予定通り9:40に出発です。ステキな歴史的建造物が見えました。ここには行ってみたかったかも・・・。
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佐渡から戻ってくるジェットフォイルとすれ違いました。
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いよいよ大海原へ・・・真っ赤な灯台が青空と青い海に映えます。
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新潟の町が遠のいてゆきます。
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カーフェリーも爽快に走ってゆきます。
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ジェットフォイルは時速80㎞まで出るようですが、大体70㎞弱くらいで航行していました。
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佐渡の島影がみるみるうちに大きくなってきました。緑豊かな島ですね~。
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両津港が見えてきました。1時間ほど・・・あっという間でした。
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10:50になります。
下船して・・・フェリーターミナルにはお土産屋さんがいっぱい~。今から荷物を増やすのは避けたいので帰りにゆっくりと・・・。トイレにいってから、急いでバス乗り場に行かないと・・・。のりば食堂 しおさい 両津店 グルメ・レストラン
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方向音痴がやらかす・・・バス停と反対側に出ちゃって焦りましたが・・・バス乗り場に着きました。
佐渡金山まで直行する便もあり(少ないですが)、11時発に乗れたらちょうどいいな~と思っていたので、間に合ってよかったです。逃すと1時間後になってしまいますので。 -
カタカナの「エ」みたいな形の佐渡・・・東側中央にある両津から、西側中央にある佐渡金山までは1時間15分ほど。
かなりブレましたが・・・ひまわり畑です。佐渡には、休耕田を利用したひまわり畑がいくつかあるみたい。 -
今日から3泊する相川の街を通ります。そのまま通り過ぎて、佐渡金山まで向かいます。
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12:15過ぎ・・・バスの中も道もガラガラだったので、予定通り佐渡金山に到着しました。
こんなに山の中にあるのですねぇ(←考えてみれば当たり前・・・)。
佐渡金山と言いますが、佐渡島にあるいくつかの金鉱山・銀鉱山を総称してそう呼ぶようです。その中で、今いるのは、規模が大きく400年もの間稼働した相川金銀山。佐渡金山(佐渡金銀山)と言う場合、ここ相川金銀山を指すことが多いようです(わたしも、この鉱山が佐渡金山だと思っていました)。佐渡鉱山とも呼びます。 -
周辺には観光スポットがいっぱい。ここから佐渡奉行所までは2㎞余りなので、もしバスの時間を逃すようなことがあっても、最悪、ホテル(相川の町にある)まで歩いて帰ればいいや・・・と覚悟していました(予定通りのバスに乗れたので大丈夫そうですが・・・)。
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チケット売り場と宗太夫坑入口。コインロッカーがあることは事前に確認してありました。門の少し左側にあります。もしコインロッカーがいっぱいとか、荷物が大きすぎて入らない場合は預かってくれるそうなので安心です。
広大で複雑な佐渡金山跡のうち、見学できる坑道は限られています。江渡金山絵巻コース(宗太夫坑)、明治官営鉱山コース(道遊坑)、そしてガイド付きの山師ツアー(こちらは要予約で上級者向け)といった見学コースに分かれています。
佐渡金山
http://www.sado-kinzan.com/ -
わが家は、江戸金山絵巻コースと明治官営鉱山コースを見学することにしました。
佐渡金山は、慶長6年(1601)に3人の山師によって発見され、2年後には、徳川幕府の天領となりました。江戸時代には、徳川幕府の財政を支えたとも言われ、17世紀当時の金・銀の生産額は、南米のポトシ鉱山(ボリビア)やサカテカス鉱山(メキシコ)などと並んで世界屈指と言われました。
主要金鉱脈は8本、東西3000m、南北600m、深さ800mに広がってゆきました。金脈を追い求めて掘り進んだ坑道の総延長は、約400㎞(佐渡~東京間)に達しました。平成元年(1989)3月末、採掘が中止されるまで約400年間掘り続けられ、鉱山としての寿命が長かったことは世界でも珍しいそうです。産出した金は78トン、銀2330トン。当時、日本最大の金鉱山でした。 -
ひんやりとしたトンネルを下っていきます。
ここ宗太夫坑は、坑口の高さが3m、幅2m、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道です。
鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した1690年代(元禄時代初期)頃の主力間歩(まぶ=坑道)のひとつでした。
平成6年(1994)5月、国の史跡に指定されています。 -
江戸金山絵巻コース(宗太夫坑)では、採掘作業の様子が再現されているので、とてもわかりやすく面白いです。服装や風俗など、イメージだけではなかなか補いきれないことが多いですから。
最初の再現シーン。
江戸時代、採掘坑を間歩(まぶ)、間歩の中の個別の鉱脈の採掘現場を敷(しき)、鉱石のことを鏈(くさり)と呼びました。
間歩を取り仕切る者が山師で、間歩の名前は、山師の名前をつけることが多いです。山師は、伊豆や石見などから呼び寄せられた者や武士出身の者で、権限も強く統率力もありました。山師は本来、鉱山の経営と技術の専門家で、金山の最盛期には、幕府の直山と請山の両方を経営し、その所得は相当なものでした。
今見学している、上下に連なるこの坑道は、「宗太夫(そうだゆう)」という山師が稼業したもので、江戸時代の姿をよく残していることから、国史跡に指定されました。
そして、現場監督の大工頭がおり、鉱石や柄(捨て石)を運ぶ者など、想像以上に細かく役割が分かれています。 -
水上輪と呼ばれる坑内排水(揚水)ポンプを動かす人たち。
水上輪は、承応2年(1653)に、佐渡金山にもたらされた排水(揚水)ポンプ。これを佐渡金山に伝えたのは、京都(大阪ともいう)にいた水学宗甫(すいがくそうほ)。
佐渡金山の坑道は、開山から100年足らずで海面下に至りました。坑道が深くなるにつれて地下水が多くなり、水との戦いが、採掘量に影響しました。
1653年には、すでにこのような水上輪が使われていました。水上輪を操作する桶引人足は、高賃金を稼げたので、近隣から農夫の次男や三男が出稼ぎに来ました。江戸後期には無宿人も使われましたが、その数は意外に少なかったそうです。 -
こちらのは、山留普請のシーン。
佐渡金山の岩盤は硬いので、落盤の危険は少なかったそうですが、断層や岩質により亀裂が生じたりして崩れやすいところがありました。その軟弱なところを、支柱で補強して坑道を維持しました。その補強工事を山留普請と言います。
工事の責任者は山留大工(やまどめだいく)で、手伝穿子(てつだいほりこ)や丁場穿子(ちょうばほりこ)を使って工事を行います。山留大工は、奉行所直雇いの技術者です。手伝穿子とは山留大工の助手で、丁場穿子とは、普請場所で土石の処理を行う者のことです。
支柱にする留木材は、島内から集められた栗やナラを使っていましたが、需要に追いつかず、島外からも運びこまれました。 -
こちらは、穿子(ほりこ)たちの出入り改めのシーン。
坑道の出入口には検問所があり、鉱石や物資の不正持ち出しを防止するとともに、運搬人の出入りを記帳して、賃金払いの目安としました。手前に座っているのが、穿子改め役です。
坑内に持ち込まれる物資は、留木(支柱)、油(紙燭と言う携帯用の灯りに使う)、タガネなどであり、穿子(ほりこ)が坑内に運びます。穿子とは、坑内の雑役夫で、運搬から作業の手元まで、現場の作業内容に応じて5種類に分けられていました。 -
鉱脈のことを立合(たてあい)と呼びます。佐渡金山では、石英脈の中に金銀が含まれているので、石英脈を白立合と呼びました。
上がったり下ったり・・・まだまだ続きます。 -
佐渡では、中世の頃から砂金が採取されていました。
砂金とは、金銀鉱が風化し、金粒が分離し、川床や海岸、砂利山の中に混じっているものです。土砂を掘り出し、水辺へ運び、金の比重が水の20倍ほどあることを利用し、水の中で、土砂とふるい分けて金粒を取り出します。これを板取りと言います。中世の頃は精錬の技術が未発達だったので、砂金に熱を加え、金の塊を作る程度でした。 -
こちらは、排水・通気・照明のシーン。
水上輪や手繰りの桶でくみ上げられた水は、掛樋(かけひ)を通して、排水坑道に集められ、坑外に排出されていました(写真左側の滑り台のようなもの)。
照明は、初めは松蝋燭や紙燭でしたが、天和年間(1681~)には、鉄製の柄のついた「釣(つり)」が登場し、携帯用照明として広く使われました。
また坑内は、灯火からの油煙や石粉が充満し、酸素不足になるので、新鮮な空気を送るために風廻し唐箕(かざまわしとうみ)が使われていました。手前の人が風廻し唐箕を操作している穿子で、唐箕とは、ハンドルを回して風を起こす酸欠防止の道具です。 -
金穿(かなほり)大工の生活シーン。
佐渡金山では、たがねと鎚(つち)で鉱石を掘る坑夫のことを金穿大工と呼びます。
金穿大工は、坑内の労働者の中では、技術者として賃金もよく、優遇されていました。4時間ごとの交替制で、食事や休息時間もあり、筵の上で横になることもできました。しかし、労働環境が悪かったので、一般に短命の者が多かったそうです。 -
水替(みずかえ)人足と無宿人のシーン。
江戸時代の中頃になると、地中の鉱石を求めて坑道がますます深くなり、出水量が増えてきて、水揚機の使用がままならず、手繰り水替による人海戦術が見直されました。水上輪などを操作するのが桶引人夫、つるべや手桶で湧き水をかい出す重労働をするのが水替人足です。
水替人足の労働時間は、隔日交替の一昼夜勤務とキツいものでしたが、賃金は良かったのです。しかし常に人員不足で、安永7年(1778)より、江戸・大阪・長崎などの無宿人を受け入れるようになりました。
無宿人とは、親に勘当されたりして放浪していて、宗門人別帳(戸籍)から除外された者で、無罪の者を言います。後には、有罪者も混ざるようになりました。幕末までの100年間に、1874人が佐渡に送られてきました(意外と少ない数ということです)。 -
今、見学しているのはほんの1本の坑道だけなのに・・・すべて手掘りだったなんて・・・信じられない。しかもただやみくもに掘り進めばいいってものではなく、金銀鉱脈を探して掘り進んでいくという・・・気の遠くなるような作業・・・。
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金鉱脈を探して、水平に、あるいは上に下に掘り進んでいきます。
鉱脈に当たらない場合は、脈の方向を推定して、直交する向きに開削していきます。小規模なものを切山(きりやま)と言い、高さも幅も、かろうじて人が出入りできる程度のものでした。
また、大きな鉱脈をさがすため、細い鉱脈をたどりながら掘り進む坑道は、狸穴と呼ばれ、腹ばいで移動しなければならないほど、狭いものでした。 -
採掘作業のシーン。上の方で掘っているのが金穿大工(=坑夫)で、下の方には、荷揚穿子(鉱石を坑外に運ぶ者)や大工頭(現場監督)やたがね通穿子(再生したたがねを運ぶ者)がいます。
金穿大工は、たがねを上田箸(うえだばし)ではさみ、鎚で打ちます。上田箸とは、たがねをはさむやっとこで、短くなったたがねをつかむことができ、しかも手元の安全を守るのにも役に立ちました。
たがねは、2日で1本消費してしまいます。短くなったたがねは、坑外の鍛冶小屋に運ばれて再生されます。
掘った鉱石は、大工頭が品質を確認し、区分けして運び出されます。 -
たがねと上田箸、鎚の説明。こういうヴィジュアルな説明は理解しやすいです。
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金穿大工は、たがねと鎚だけで鉱石を採掘しました。水平方向や、上向き・下向きへの掘り方があります。
改めて・・・そんなアナログな道具だけで、山の内に、アリの巣のような坑道を掘り巡らせた人間たちの・・・いい意味でも悪い意味でも「すごさ」を感じてしまいます。 -
間切(けんぎり)改めのシーン。
間切とは、長さ・幅・高さを決め、見積もりを立て掘った大規模な探鉱坑道のことで、奉行所が請負業者に発注します。掘られた間切を、発注通りか、またどれだけ進んだか検査します。この検査を間切改めと言います。
間切改めは、諸役人、山師(鉱山経営者)、振矩(ふりがね)師(測量師)で行います。紙のこよりを固くよって作った「てへん」という被りものをしているのが、役職を持つ者です。
手前で「てへん」を被っているのが番所役(各間歩の管理役)で、その奥には、山師(鉱山経営者)や間切請(けんぎりうけ)(坑道掘りを請け負う者)、目付役(役人の監視)、山方役(金銀山を支配する山奉行)、振矩師(測量士)がいます。労働者を取り仕切る役割だけでも様々な種類があり、驚くばかり。 -
江戸時代の中頃になると、鉱石が減少し、いったん捨てた柄山(鉱石を含まない捨て石)も回収し、紛成し製錬されるようになりました。これらは、捨石や拾い石を専門に製錬する外吹買石(そとぶきかいいし)と言う製錬業者のところに運ばれていきました。
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外の光が見えてきました。
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間歩(採掘坑)開きの祝いシーン。
背後の壁面の縞模様が立合(鉱脈)です。金銀を多量に含む黒い縞がくっきりと浮かぶ富鉱帯を大発見・・・の場面です。前途を祝し、今まさに、間歩開きの祝いが始まったところです。
手前で見守っているのが、山師(間歩を稼行する者、採掘を請け負う)と金児(かなこ・採掘場を取り仕切る者)で、立合前の足場の下に座っているのが金穿大工です。山師と金児が見守る中、足場の上では、佐渡金山に伝わる独特の祭礼「やわらぎ」が演じられています。 -
やわらぎとは、硬い岩盤が少しでも和らぐようにと祈る神事で、山の神の心を和らげるとの意味もあります。
やわらぎを演じているのは、中央に親方、左右にたる叩きやうたいがいます。鼻から上には、紙で作られたお面のようなものをつけて、ちょっと不気味。 -
涼しい場所から、蒸し暑い外に出たら・・・カメラのレンズがしばらく曇ってしまい困りました。
宗太夫坑から出ると橋の上・・・いくつか坑道の出入口が見えます。見学した坑道口の他に、あらゆる方向に坑道が巡っているのですねぇ。
江戸金山絵巻コースはかなり面白かったです。
山師は、採掘・手選り・荷分けまでを受け持ちます。山師の採掘する工程が決まると、坑道内の落盤を防ぐための支柱造りの作業が始まります(山留普請)。これを担当するのが山留大工です。特殊技術を擁するためか、山師などの下につかず、奉行所の直属でした。山留大工は、手伝穿子や丁場穿子を指揮しました。山師は、各採掘場を金児に割り当て、請負で産額を競わせました。さらに金児は、所属の坑夫である金穿大工に採掘させました。金穿大工は、ツチ・タガネで手掘りし、雑役などをする丁場穿子がカマスに入れ、荷揚穿子が荷負い坑外に搬出します。また、タガネを補充するため、坑口の鍛冶屋から、大工のところへ運ぶ穿子をたがね通い穿子と言います。
このように、鉱山で働く者たちの役割(仕事)は、実に多岐にわたり、しかもきっちり分担されていて・・・仕事内容や賃金などに格差もあったんだなぁ・・・と、知らなかったことがたくさんありました。劣悪な環境下で、だれもが奴隷のように働かされているようなイメージだったので・・・意外だと感じることもたくさんありました。
坑内作業は10日ごとに集計され、この単位で出鉱量や経費の採算が検討されました。採掘は昼番と夜番に分かれていましたが、江戸後期なると、坑夫不足のためか、数日間にわたり坑内で働き続けることも多くなってゆきました。このように、細かく分業し、計画性に基づいて金鉱石は掘り出されていました。 -
橋を渡ると・・・展示資料館がありました。
坑内から掘り出された金鉱石は、坑道の横にある小さな番所で計量されました。また鉱山には、鉱石を手選りする小屋や、製錬業者である買石が働く番所など、多くの施設がひしめいていました。
山から海まで・・・きっちりとシステマチックな産業ラインを形成していたんだなぁ~と、今では感じられない繁栄ぶりに驚きます。
女性や子供も大切な働き手でした。鉱山から奉行所内の工場まで、鉱石の入ったカマス(藁などで作られた背負い具)を背負ったり、留木を運び上げたり、石選りをしたり・・・と、子供を抱いた女性も重労働をいとわなかったそうです。 -
相川(佐渡金山ふもとの町)は、金銀山が発見される以前、羽田村という小さな村でした。慶長8年(1603)以降、村は大きくなり始め、台地には奉行所や鉱山関係者の家々、そして沿岸沿いには、商人や職人たちの家が建ち並びました。
人口は急激に増加し、最盛期には5万人を擁する町になったと言われています。17世紀前半の江戸の人口はおよそ80万人、大阪がおよそ40万人、長崎が2万人程度だったと言われているので、当時の相川の大変な賑わいぶりが偲ばれます。
これらの人々の日常品の需要を満たし、鉱山入用資材供給のため、米を始め多くの物資が船で運ばれてきました。また、各地から様々な技術を持った人たちが職を求めて集まってきました。職種は多岐にわたり、鍛冶屋、番匠、石工、左官、桶大工、提灯屋、桐油屋、按摩取座頭、髪結いなどの職人や小売商で活況を帯びていました。 -
金山の経営は、奉行所が山や施設を貸し工程の管理を行い、山師が採掘を請け負い、買石(製錬業者)がそれ以後の選鉱・製錬を分担し、製品づくりをしました。
鉱石が小判になるまでには、探鉱→採掘→選鉱→製錬→鋳貨という工程を踏みます。この写真は勝(せりば)と呼ばれる選鉱場の光景です。
鉱石を粉砕したり挽いたり、比重を利用して選り分けたりを何度も丁寧に繰り返し、選鉱します。
ここに写っている作業は、ねこ流しと呼ばれるもので、帯状の木綿布の上を、金を含む泥砂を水と共に流し、木綿布に付着した金銀鉱石を回収する作業です。もれなく回収するため、ねこ流しは繰り返し行われました。
買石は製錬までを受け持ち、でき上がった金銀塊を幕府に納めることになります。
買石の工程は、かなり細かい手作業が繰り返されるので、江戸後期天保8年(1837)には1800人ほどの人々が働いていました。税金は、買石が使用する道具にかけられ、収入(製錬費)は、入札で買った鉱石代で決められました。 -
海面より低いところまで、蟻の巣のような坑道が掘られています。
宗太夫坑の再現シーンではそれほど感じなかったけれど・・・水上輪って、こんなにずら~っと繋がって設置されたのですね・・・ビックリ~。ひとつの水上輪に一人、操作(ハンドルをグルグル回すと水が上がってくる)しているわけです(この写真でも、小さいですが・・・よく見るとひとつひとつの水上輪にひとりずつ人がいます)。
水上輪は、約30度の大掛かりな設置用坑道を掘らなければならなかったので、これを使える場所は限られていました。 -
金銀分が少ない捨て石のことを柄山(がらやま)と言います。崩落防止のため、このように、柄山が廃坑に詰め込まれました。
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人力だけが頼りの坑内では、色々な職分の人々が働いていました。
採掘は、常に湧き水との戦い。水上輪を設置できない坑道では、滑車と釣瓶で水を揚げる素朴な方法をとりました。これなら狭い場所にも設置できますので・・・。水替人足が交替で、昼夜止まることのない重労働をしました。 -
木陰が心地よいお庭に出ました。
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暑いからちょうどいい・・・純金ソフトクリーム~!佐渡金山だもんね~金箔~(笑)。美味しかったです。
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宗太夫坑のチケット売り場まで戻っています。この坑道口は閉まっているけれど、宗太夫坑の坑道口のひとつのようです。
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江戸金山絵巻コースの宗太夫坑と、明治官営鉱山コースの道遊坑とは、どちらも、チケット売り場の門から入ります。そこから、坑道口が左右に分かれているのです。
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では、今度は左の坑道口・・・明治官営鉱山コースへ・・・明治から平成元年の操業休止まで約100年間使用された道遊坑です。
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全然違うねぇ・・・天井が高いし坑道も広い。
金銀鉱脈がどのようにしてできるかと言うと・・・地下数千メートルでは、地下水がマグマに熱せられて、高温(約300℃)高圧の状態(熱水)で存在します。この熱水に、金銀などの金属分が長い時間をかけて溶け込みます。火山活動で出来た断層や岩石の割れ目に、熱水が吹き出し、金銀分が冷えて沈殿したものが金銀鉱脈です。
佐渡金山では、その後、地盤が隆起して、表面が削り取られ、金銀鉱脈が地表に露出した部分(露頭)が多くありました。 -
江戸時代には、江戸幕府(佐渡奉行所)が運営していましたが、明治初期には、明治政府による官営鉱山となり、外国から技術者が招かれ、また、部屋頭の下に、鉱夫などの労働者を配しました。
坑道にはトロッコが通り、壁も塗り固められ、ちゃんとしたトンネルのようになっている部分もありました。 -
採掘現場や立(竪)坑(鉱石や物資の運搬に使われた垂直坑道)経由で、鉱石や捨石を運搬する場合に、鉱車が使われました。立(竪)坑のエレベーター(ケージ)に積み込み可能な大きさで、手押しで出し入れするため、鉱車の両側に取っ手がついています。
明治・大正期の鉱車は木製で、車輪等も鉱山で製作されていました。鉄製の鉱車は、昭和20年代から使われています。
また、鉱車、人車、台車の牽引に使われた蓄電池式機関車は、昭和13年に、最初の6台が導入されました。スピードは最速で12~13キロ/時ほどでした。24個の蓄電池が搭載され、作業終了後に、機械工場にて充電されていました。 -
江戸時代は手掘りのみでしたが、明治になると、西洋の近代的技術を導入し、地下深くに広がる金銀鉱脈を効率的に採掘しました。
まず立(竪)坑(垂直に掘り下げた坑道で、エレベーターもついている)を掘ります。そして深さ30mごとに水平坑道を掘り、鉱脈に達したら鉱石を採掘して、立(竪)坑から外に運び出します。 -
佐渡金山には、8つの主要金銀鉱脈(すべて金銀を含む石英脈)が走っています。
規模は、東西約3000m、南北約600m、深さ約800mに及びます。平均脈幅は1~10mです。平均で、鉱石1トンあたり金が約2. 4~ 8g、銀が約50~120gでした。
坑道の一部を、地元の酒蔵が熟成所として利用していました(立ち入ることはできません)。一年中、温度が10℃前後に保たれているので、確かにピッタリですね。 -
佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」の山頂部は、江戸時代初期に手掘りで採掘され、山が割れたようになっています(後で見に行きます)。その直下にあたるこの付近は、明治32年に道遊坑が開通し、採掘がおこなわれました。
中腹部で、ダイナマイトを使って鉱石をこの付近に落下させ、トロッコに乗せて運搬しました。今いるこのあたりは、その明治時代の採掘現場です。
かつては、中腹から光が射していたそうです。平成元年休山時の最後の採掘現場のひとつです。 -
天井近くの2つの穴は、江戸時代の手掘り跡です。狸の穴に見えることから・・・また、坑夫の顔が煙で真っ黒で狸に見えたことから、狸穴と呼ばれています。この付近に、金鉱脈(道遊脈)が走っていますが、すでに江戸時代に、山頂部だけでなく、地下にまで採掘が進んでいたことがわかります。
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昭和6年には、約1㎞先にある大立竪坑とつながり、道遊抗と呼ばれるようになりました。地下深くで採掘された鉱石は、1㎞ほど先の大立竪坑経由で道遊坑内を通り、高任粗砕場まで運ばれました。平成元年の休山まで使用されました。
明治時代の坑道は、イメージが湧かないほど遠い昔のことではなく、意外だったり新発見だったりということは・・・あまりなかったです。やはり江戸時代の坑道が面白いと思いました。 -
コースの出口から外に出ました。涼しいところから蒸し暑いところに出たので、またしても一気にレンズが曇って、なかなか元に戻らず困りました。
これは高任立坑(高さ667m)。
立坑は縦に掘った坑道で、鉱石を外に運び出すためのものです。 -
昭和10年に建てられた機械工場。道遊坑口からは、トロッコの線路が続いています。
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機械工場の中(あまり興味ないので入って見ていません)。
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坑内で働く人たちは、出勤や退勤時に、大立竪坑の脇にあった坑内事務所と坑外の間を移動する際、8人乗り人車を使用しました。人車の牽引には、坑内にあったのと同じ2トン蓄電池式機関車が使われ、数両の人車が連結されました。この人車は佐渡鉱山で設計され、機械工場で製作されたものです。
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明治22年、佐渡金山は三菱合資会社に払い下げられました。
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さて・・・「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」まで行ってみます。
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しばらく山道を上って行くと・・・見えてきました~!パックリと割れた山頂が・・・。
ここは1601年に発見された鉱脈の一つ・・・道遊脈。開山当初から採掘がおこなわれた最古の鉱区です。山の中央に、ほぼ垂直に金鉱脈が走っているそうです。
道遊脈(幅10m、長さ120m、深さ100m)が地表に露出した部分をタガネと鎚で掘り進めるうちに、山が割れたようになったものなんです。割戸の幅は約30m、深さは約74mにも達します。垂直に近い絶壁を成すこのような採鉱跡は、世界的にも例がありません。手掘りで掘って、山の形状が崩壊してしまうなんて驚きです。 -
周囲は鬱蒼とした緑の世界で癒されます・・・でも、足元には坑道が蟻の巣のように巡っているのですねぇ。
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ひっそりと・・・高任(たかとう)神社がありました。
佐渡金山の守り神「大山祇神社」を分社し、明治中期に活躍した大島高任に因んで命名されました。大島高任は盛岡生まれ、釜石で日本初の高炉による鉄鋼石製鉄に成功しました。明治18年、佐渡鉱山局長に就任し、高任立坑や大間港などを開発しました。 -
さらに山道を進むと・・・道遊の割戸のそばに出ました。
山頂のV字型割れ目は江戸時代の手掘り跡ですが、今見える中腹部や、先ほど見学した地下部は、明治時代に西洋技術を導入して大規模に再開発された部分で、平成元年の休山まで採掘が続けられました。
残念ながら、柵があってこれ以上近づけませんので、ダイナマイトよって破壊された岩盤の穴を、一方向から見るだけとなります。 -
奥や下の方まで、穴は続いているのでしょう。
ダイナマイトを使って破砕された鉱石が、先ほど見学した地下坑道へ落下したわけです。江戸時代の手掘りと比べて、破壊の規模が容赦ないです。 -
先ほどの機械工場まで戻ります。機械工場の向かいにトイレがあります。だだっぴろい野原のようになった敷地(高任公園)内にも、トロッコ線路が残っています。
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定番ショット~。近くで見るより、このあたりから見る方が、割れめ全体がクッキリと見えます。
それにしても・・・手掘りで採掘して山が割れちゃうなんて・・・人間の欲望は、いい意味でも悪い意味でもすさまじい力を生み出しますね。 -
今はだだっぴろい空き地みたいになっている高任公園ですが、かつてはいくつもの建物が建ち並んでいました。
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周りは山々に囲まれていますが・・・このあたりの林の中に、佐渡金山最初の鉱山町「上相川」の遺跡があるそうです。
佐渡金山は1601年に発見されましたが、仕事場である道遊の割戸に近いこの地に、最初の町づくりが進み、最盛期には「上相川千軒」(1652年の記録では町数22、家数512)と言われるほど栄えました。
一方1603年、海側に佐渡奉行所が設置され、役人や商人中心の計画的な町づくりが進みました。
金山と奉行所を結ぶ主要街道である京町通りが今も残り(後日訪れます)、当時の風情を偲ぶことができます。 -
また、やはり森林の中に、江戸初期の鉱山町「上寺町」の遺跡もあるようです。
町数が22と記録があるようですので、いくつかの廃れた町と、今も残っている町とがあるのでしょう。
上寺町は、寺院を中心に鉱山労働者、地役人、奉公人、職人などが住んでいました。江戸中期以降に衰退しましたが、明治期になると、大塚・太田・佐藤部屋(鉱山で働く坑夫などの寄宿舎)などが建ち、昭和初期になると、鉱山長屋が建てられていました。
現在は万照寺のみが残り、その近くに無宿人(江戸中期に江戸・大阪などから、水替人夫として強制的に連れて来られた人々)の墓があります。 -
トロッコ線路をたどってくると・・・粗砕場です。昭和12年頃に建設され、平成元年の休山まで操業が続けられました。粗砕場で、採掘された鉱石を破砕機で細かく砕きます(一次破砕)。7層式の構造で、高さ20mの斜面を利用して建設されました。
鉱石は、上部のダンパー(落下機)やチップラー(回転機)を利用して鉱倉に落下し、クラッシャー(破砕機)で破砕・分級された後、下部にあるベルトコンベアーで貯鉱舎に運ばれ、一時保管されました。
ここから下に連続した作業の設備がいくつか残っています(見損ねましたけれど・・・)。 -
この説明板のように、粗砕場の下に貯鉱舎があり、そこからトロッコに積まれさらに運搬されました。中尾変電所は、約10㎞離れた水力発電所から受電し、鉱山施設に配電しました。
山の上から下に向かって、効率的に作業工程が設定されており、採掘場所の大立・高任地区から、鉱石選別のための高任・間ノ山地区、選鉱や精錬のための間ノ山・北沢地区を経て、生産品を積み出す大間港まで、約3 kmにわたる生産ラインとなっていました。 -
採掘された鉱石が破砕場へと運ばれていきます。
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トロッコの線路をたどって行くと、高任坑と名のついたトンネルに入りました。
高任坑は、明治20年に佐渡鉱山局長・大島高任の命で開削された運搬用坑道です。地下深くで採掘された鉱石は、高任立坑を利用して地上に運ばれ、さらに高任坑を経由して、粗砕場・選鉱場へ運搬されました。
明治20年にもなると、さすがにトンネルも立派な造りとなっていて、江戸時代の手掘りとの違いをつくづく感じます。 -
14時半をまわりました。
このあと、もう一ヵ所寄ってみたいところがありますが、荷物を引きずって歩かなければならないし、そもそも次のバスまで1時間もあるので、タクシーで行くことにしました。 -
さすがに有名観光地なのでタクシー乗り場はありましたが、待機しているタクシーはいませんでした。ちょうどタクシードライバーの休憩所があったので、そこにいるドライバーさんたちに声をかけてみましたら、乗せてくれることになりました。
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佐渡金山チケット売り場から2㎞余り・・・「北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうば)・火力発電所」にやって来ました。連れ合いは足手まといなので、ドライバーさんと一緒に待っててもらいます。
ここに来る途中に、先ほど見学した高任地区から続く工程の施設がいくつか残っていたようです。山の上から海岸まで・・・一連の流れを持つ大規模産業だということを把握していなかったので、途中にあった搗鉱場(とうこうば)や変電所などを見ずに通り過ぎちゃいました。搗鉱場とは、水銀を用いて製錬を行う施設です。従来は廃棄していた貧鉱からの金銀抽出が可能となったそうです。
高任地区から下って・・・海岸に近いこのエリアは北沢地区。
赤レンガ造りの建物は、1908年(明治41年)に佐渡で最初に建設された石炭火力発電所です。北沢浮遊選鉱場 名所・史跡
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昭和12年に日中戦争が始まると、政府は戦争に必要な物を外国から輸入するため、支払いに必要な金銀を増産するよう各地の鉱山に命じました。
浮遊選鉱場は昭和13年に完成し、その後の拡張により、月間5万トンの鉱石の処理が可能となりました。当時、坑内鉱が不足だったため、鉱山から流れ落ちたり埋め立てられたりして、海岸に堆積していた浜石の採掘までおこなわれ、この施設で処理が行われました。選鉱とは、金属と岩石を選別することです。
北沢浮遊選鉱場の建設により、金銀の生産は増加し、昭和15年には、佐渡金銀山の歴史の中で最も多い、年間1537㎏の金を生産しました。しかし戦争が激しくなると、金銀よりも、軍事物資として直接必要な銅や亜鉛・鉛などを優先して生産するようになりました。
戦後、佐渡鉱山は再び金銀の生産を始めましたが、しだいに質の良い鉱石が少なくなり、平成元年についに休山となりました。 -
今は屋根などが無くなり、朽ち果てるままの土台だけになっています。
ここでは、浮遊剤を使用して、金銀を浮かべて分離回収しました。また、金銀の絞りかすから更に金銀を回収していました。 -
正面から当たる日射しが強すぎて・・・どうにも上手く写真が撮れません。
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朽ちたコンクリートと、生き生きとはびこる青々した植物・・・このいかにも廃墟・・・の風情が人気のスポットです。
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まるでバルコニーのように見える部分もあります。
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かつてどんな建物だったのか・・・想像できそうでできない。
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コントラスト強すぎ~・・・。
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向こうの建物跡は・・・まるで要塞跡みたい。
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城塞だと言っても・・・頷いてしまう佇まい。
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インクラインの跡。急斜面を使って物資運搬を行いました。
重量のある鉱石を原材料とする鉱業では、山の上から下に向かい作業工程が設定されています。 -
さて・・・次は、向かいにある50mシックナーへ。
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濁川(にごりかわ)を渡ると・・・50mシックナーがあります。
昭和15年の増産体制時に建設された、直径50mの鉄筋コンクリート製の施設です。泥状になった鉱石を、鉱物と水に分離するための施設ですが、工業用水を確保するための沈殿槽としても利用されました。 -
シックナー、カッコいいですね~!
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濁川上流にある間ノ山搗鉱場から排出された泥状の金銀を含んだ鉱石は、この装置で水分を分離する工程を経たのち、対岸の浮遊選鉱場へ送られました。浮遊選鉱場では、他の金銀原料と一緒に処理され、精鉱が算出されました。
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廃墟として美しい姿ですが・・・当時にどういう佇まいだったのか・・・ピンときません。
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どういう仕組みになっていたのか、想像できない。
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濁川をはさんで、北沢浮遊選鉱の対岸に位置するこちら側は、北沢地区工作工場群跡になります。佐渡鉱山の各施設で使用する機械部品類の製造や修理のために造られた施設です。
この場所には、明治20年代にすでに選鉱・製錬施設のほかに、器械製作場や鍛冶場などが設置されていました。昭和10年代の大増産時代になると、木工工場や鋳造工場、仕上工場、製缶工場、分析所など複数棟の施設が造られ、昭和27年まで稼働しましたが、時間の経過とともに数多くの施設が撤去されました。
平成20年、明治以降の施設全容を確かめるため、発掘調査が行われ、当時の建物の基礎部分が残っていることが判明しました。 -
昭和10年代の北沢地区の様子です。
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50mシックナー横の鋳造工場跡。鉄を溶かすためのキューポラ(溶銑炉)が残っています。
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鋳造工場は、木型工場で組まれた木型をもとに作られた鋳型に、溶けた金属を流し込み、さまざまな種類の機械部品を製造する施設でした。鋳造工場や鍛造工場などで製造された機械部品は、仕上工場で最終的な加工作業が行われました。
発掘調査により、鋳造工場のコンクリート製の柱や巨大な地下穴、レンガ敷きの床面などが見つかりました。 -
現在は、見晴らしの良いだだっ広いスペースになっていますが、昭和の大増産時代の建物配置の残存を見ることができます。
レンガ敷きの床跡はかなりキレイに残っています。 -
木型倉庫のあたりにあった階段。どの施設も、高低差を利用して上手く建てられていました。
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昭和初期の近代遺構なので・・・そのものより、廃墟っぽい佇まいを見て、かつての興隆ぶりを想像するのが楽しいです。
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待ってもらっていたタクシーで、ホテルへ向かいます。
途中、ドライバーさんが寄ってくれたのが、こちらの不思議な岩壁。岩壁の間に、くさび形の岩がすっぽりと挟まっています。「弁慶のはさみ岩」と呼ばれているそうです。
その昔、佐渡弁慶ら山伏一行が、相川から金北山へ修行に行く途中、待ち伏せした鬼が力比べを所望しました。その際に、佐渡弁慶が投げ飛ばした岩が下相川の浜まで飛んできたと伝えられています。弁慶のはさみ岩 自然・景勝地
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ちょうど逆光で・・・夕方で低めの日差しがいっぱい差し込んでいるので、岩壁と海と両方を写そうとすると、岩壁が真っ黒になるか海が真っ白になるかで・・・なかなか難しいものです。
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岩場の海岸まで、ちょっと降りてみたら、「鎮目市左衛門の墓」がありました。鉱山がもっとも繁栄した元和期の佐渡奉行の方のようです。遺言によって、相川の街から離れた海岸に墓を造らせたと言われています。今のお墓は、弘化年間に再建されたものです。
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海がキラキラ輝いて眩しいです。
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15時半頃、今日から3泊お世話になる「ホテル万長」に到着しました。
このあたりには民宿があったのですが、3泊するとなると・・・お風呂に好きな時に自由に入れて、ストレスなく過ごせるほうがいい・・・ホテルの方が好ましいなと思い・・・しかも、観光拠点として便利なロケーションを考えると、ここしかありませんでした。伝統と風格の宿 ホテル万長 佐渡島 宿・ホテル
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朝夕食つきで1泊(2人)36000円なので、3泊となるとかなり高い・・・と思いましたが・・・どうしても他の宿にするという気になれません。夕食無しなら26000円ということでしたので、近くに飲食店があるから夕食はついてなくていいか・・・と、朝食だけのプランにしました。
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ホテルが海岸沿いの道路に面しているので、お部屋から海はすぐそこ。3日もいれば、1日くらい夕日が見れるかなぁ・・・と。
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まだ15時半過ぎですが・・・今日は夕日が見れそうなお天気。
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温泉大浴場がありますが、一応お部屋にもバスタブがありました。
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17時過ぎ・・・夕食をとるため、外出です。飲食店が多い中心エリアまで、歩いて10分ほどだと思われます。
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海沿いの大通りではなく、1本裏手の住宅街の道を通っていきます。
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かつてはここら辺も商店街だったのかなぁ・・・と思われる道。
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静かでのんびり。
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いよいよ繁華街に近づいてきたようです。天領通りという名前だったんですね。しかしながら・・・お盆に近いせいもあるのか、閉まっているお店がほとんどで・・・物寂しい。
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商店街の寂れ具合はかなり・・・なものでした。
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さらに進んだあたりも商店街のようですが・・・夕食をとれそうな店が開いていない。居酒屋とか寿司屋とか・・・ぜんぜん開いてない・・・。
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こんにちは~!
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あら?こちらの様子を伺っています。
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夜のオープン時間は、もうちょっと遅めの方がいいのかしらね?なんて言いながら・・・営業していたお蕎麦屋さん「磯の家」に入りました。
「磯の家の大立竪坑」というメニューを頼んでみました。大立竪坑になぞらえて、4段重ねになっていました。磯の家 グルメ・レストラン
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お蕎麦屋さんは19時まで・・・ということでしたが、客がいないせいか、早めに閉めてました。あぶなかったぁ~。
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18時をまわりました。
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さっきのネコちゃんと・・・別のネコちゃんもいます。
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明日はもうちょっと遅めに出てきたほうがいいのかもね・・・なんて話しながら、ホテルへ戻っています。
それにしても・・・かなり寂れた雰囲気に驚きながら歩いています。ここ、電気店だったのかしら・・・すごい有様になってるねぇ。 -
かなり夕暮れっぽい雰囲気になってきました。
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両津から佐渡金山に行く途中、バスから見えたレンガの煙突がある建物です。
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立派な黒塀が続いているな~と思ったら、有形文化財の松栄家(まつばえけ)住宅。もちろんもう閉まっていますが・・・。鉱山や廻船で繁栄した、相川を代表する豪商の住宅(明治時代)だそうです。
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海側の低地から・・・山側の高い位置にある橋梁の道路が見えます。
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いったんホテルに戻り・・・18時半過ぎに、一人で海辺に出てきました。
水平線の彼方に夕日が静かに沈んでいきます。 -
少し残念なことに・・・水平線の上に雲の帯が垂れ込めていて・・・夕日が、海の彼方でなく、雲の中に沈んでいきます。
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雲の中に夕日が沈むと・・・茜色が鮮やかさを増しました。
夕日が沈むと、浜辺にいた何組かの人たちが去って行き、一人取り残されました。これからがキレイなのに・・・。 -
夕日の光芒の名残りが、最後の輝きを放ちます。
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19時半になります。イカ釣り船の漁り火がいくつか浮かびました。まだうっすら名残りを残す茜色と紺色のグラデーションがとても神秘的で美しいです。
昨夏の下北半島でもそうでしたが、お盆時期は漁り火も少なくなります。 -
20時から、ロビーで佐渡おけさを見れるというので、降りて来てみました。
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踊り手が男性ばかり(と言っても3人だけですが)なのが意外・・・。
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3曲ほど見せて頂きました。毎晩、同じパフォーマンスをロビーでやっているそうです。
明日は、鉱山開発により、海と山の狭間に生まれ繁栄した鉱山町・相川を散策します。
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この旅行記へのコメント (4)
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- aoitomoさん 2020/04/29 12:46:35
- 佐渡島行っておけばよかった!
- こあひるさん こんにちは~
新型コロナでここまでの状況になると予測できていたら、
私も無理してでも佐渡島に行っていたかもしれません。
今は自宅待機と言うよりも普通に仕事しています。
休みは家に閉じこもって好きな事してます。( ´艸`)
佐渡金山、ド定番大歓迎ですよ。
私がツアーで行くとしてもド定番観光のみでしょうから。
個人でならしっかりたっぷり観光出来ますし、
満喫できたことでしょう。
『江戸金山絵巻コース』
これが面白そうですね~
しっかり人物がいて分かりやすいです。
YouTubeでも覗いてみたのですが、動いていたりしゃべっていたりもするのでびっくりでした。
『展示資料館ジオラマ』
これもジオラマ撮影も面白そうですし、坑道なんかもわかりやすいですね~
想像を働かせなくても理解できるのがいいです。
『北沢浮遊選鉱場』
一方、こちらは森の中の廃墟な感じでラピュタの世界のようです。
当時の様子は想像もできませんが不思議でフォトジェニックな景観です。
『道遊の割戸』も凄いですが、『弁慶のはさみ岩』が面白いです。
丁寧なレタッチで海もわかりやすくなってますね。
日本の絶景(奇景)ですね~
ホテルの周辺の寂れ感も、食事をするところを探すのは大変だったでしょうが、
絵になる風景です。
カメラ目線の猫ちゃんもいい感じ。
aoitomo
- こあひるさん からの返信 2020/05/01 13:00:30
- RE: 佐渡島行っておけばよかった!
- aoitomoさん、こんにちは〜。
世界中がこんな事態になるとは・・・パンデミックの映画やドラマを見たことがあったとしても・・・実際リアルに、こういう状況になるなんて・・・。
わが家も、先週から、連れ合いがついにリモートワークになりました。チャットの開始や終了のたびに・・・メールが読みにくいたびに、操作にいちいち呼ばれます。会社でも同僚の方々に、どれだけお世話になっているんだろうと、改めて痛感します。今週はGWでお休みとなり、ダラダラ居眠りしていますが。
佐渡金山はド定番ですよねぇ〜。たまに新聞なんかで見かける佐渡へのツアーにも、必ずここは入っています。
目の悪い連れ合いがいるので、ガイドさんの説明は有り難いのでしょうが、足場のこともあるので、やはり個人で巡る方がいいのでしょう。といっても、まったく見えないことに変わりはないのですが・・・。
aoitomoさんなら、予約すれば見学できる山師ツアーもお薦めです。
そうそう・・・江戸金山絵巻コースの、山師のおっちゃん(キセルを加えているおっちゃん)は、けっこう有名らしいです(笑)。
ジオラマなど再現しているものや写真があるものは、自分の貧相な想像力では想像できない現実を見せてくれるので、とても興味深いです。
北沢浮遊選鉱場は、あの廃墟っぷりが人気のようで・・・鉱山の内部よりも、人が多かったです。
弁慶のはさみ岩はドライバーさんが立ち寄ってくれたスポットですが、なかなかの奇観で不思議でした。
佐渡は、お盆の時期ということもありますが、飲食店探しが本当に大変でした。昨年の下北では、それなりにやっていたお店もあったので、さほど不自由には感じませんでしたが、佐渡の寂れっぷりは、下北よりもひどくて・・・ホテル代が高いからとケチったツケがまわってきました〜(苦笑)。
こあひる
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- ももであさん 2020/04/27 14:23:28
- 黄金の国ジパング
- あらまぁ最近お見かけしないと思ったら、一攫千金を夢見て
佐渡へ島流しされてたのですね。
マルコ・ポーロさんが名付けた「黄金の国ジパング」
な~んて大げさなヤツなんて思ってましたが、今や都市鉱山の金の
埋蔵量は日本が世界一だとか♪ スマホさま様です。
黄金の招き猫を作って下さい!
- こあひるさん からの返信 2020/05/01 12:42:58
- RE: 黄金の国ジパング
- ねこさま、
黄金の招き猫ならぬ黄金の招きあひるも是非作ってくださいませ。きっと大いに福をもたらしまっせ。
家で手をこまねいているこあひる
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