2019/07/27 - 2019/07/28
129位(同エリア2241件中)
sio爺さん
今回は山陰旅行3日目の松江市内見学が中心だが、前回旅行記で2日目の境港散策まで書いたので、2日目の境港散策後から始めたい。
境港見学終了後、シャトルバスで松江に向かい、そこで宿泊して翌日は松江市内見学をしたが、最大の目的はもちろん松江城だ。朝、ホテルに荷物を預けて松江城に向かった。距離的には遠くないが、早朝散歩で場所は確認済だ。地図的には、ホテルを出てそのまま北に進めばお濠や石垣が見えてくる。
城郭の入口から石段を昇っていくと、天守閣に行く前に松江神社と興雲閣があるので、今回は主にこれらについてご紹介したい。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- ANAグループ
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境港からシャトルバスに乗って、松江に到着。松江ニューアーバンホテルにチェックイン。
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大浴場があるので一寸早めに一風呂浴びて、上がったらやはりコレだ。
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夕食は、宍道湖しじみ会館内の
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こ根っこや
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なぜここを選んだか?理由は簡単だ。
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コレがあるからだ。
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ついに来た。3つとも王碌で、左から超王碌、80%、丈径(たけみち)。メチャメチャ期待して飲んでみると・・・・・アレ?、自分の想像と妄想から遠く離れていた。
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取り敢えず料理をいくつか頼んだ。
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しじみピザはおいしかった
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飲み物は、ここまで来て、あろうことかカシスオレンジを頼んでしまった。
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夕食後は、宍道湖の夕日鑑賞に出かけた。パーフェクトチケットでバスは乗り放題なので、たしかこのバス停から乗ったと思う。
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ぐるっと松江レイクラインという、ちょっとオシャレなバスで車中はガラガラだった。
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レイクラインに乗車した頃から急に夕闇が深まり、宍道湖に沈む夕日を鑑賞するはずだったのに日は既に沈んでいた。道理でバスは空いているわけだ。
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このままホテルに戻るしかない。
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宿泊したのは右側、どちらもかなり年季が入っている。
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ホテルの隣が須衛都久(すえつぐ)神社で、須衛都久神社前にバス停があったので便利だった。
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翌朝の朝食バイキング。新型コロナウィルスの関係で今やバイキングは危険視されているが、当時は全くノーマークだった。赤天、野焼き、のどぐろ干物などそのまま夕食の一品にしたいモノがたくさん。
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出雲そば、これも良かった。
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パンコーナーも充実していた。
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レストランからの展望
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ここがホテル隣の須衛都久神社
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これが位置関係
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大手前通り、画像では右から左に進むと、南から北に向かうことになる。
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大手前通りを進み、ここからあと320mで松江城だ。
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松江城に向かって進むと、左側に島根県庁第三分庁舎があり、
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松平直政公の騎馬像が県庁舎の敷地内にあった。松平家初代松江藩主である松平直政(1601-66)は、徳川家康の次男・結城秀康の三男で、徳川家康と豊臣秀吉の孫にあたるそうだ。初陣は大坂冬の陣で、真田丸を攻めたそうだ。
直政公の騎馬像は道路に面しておらず、お城方面を向いていたと思う。 -
この辺りからは、お城もこの通り見える。
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松江城がもうすぐだ。
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堀尾吉晴公像が松江城天守に向かって立っている。
吉晴は、1607 年 (慶長 12) から松江城の築城と城下町の建設を開始したが、松江城が完成した 1611 年 (慶長 16) 6 月に亡くなったそうだ。なお吉晴公の銅像の完成は平成25年ということだ。 -
これは井戸跡で、割石を積んで造ってあり、遺構の上に厚さ50cm程の土を盛っているということ
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井戸跡を後にして、
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画像左側にある石段を昇っていく
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石垣と共になかなか風情がある。この石段を昇りきると、
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手前に松江神社が鎮座し、その奥が興雲閣という配置になっていた。
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まずは松江神社参拝だ。
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松江神社の由緒を記す掲示板には、
「松江神社は、松江の有志により松平直政公を御祭神として明治十(1877)年に西川津村楽山(現松江市西川津町)に楽山神社として創建されました。
明治31年(1898)朝酌村(現松江市西尾町)にあった東照宮の御神霊を合祀し、翌年現在地の松江城山に遷座して、社名を松江神社と改めました(後略)」と書かれていた。 -
手水舎に説明板があった。
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「手水舎の説明」には、
「この屋社は元西尾村(市内西尾町)照高山に鎮座せる東照宮の手水舎にして寛永16年(1639)藩祖松平直政公の命によって建築されたもの(後略)」と記載されている。明治30年に現在ある本殿拝殿とともにこの地に移築されたということだ。 -
松江神社の社殿(本殿)と大鳥居、手水舎は、この東照宮にあったものをそのまま移築したようだ。
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上記の説明をまとめると、現在の松江神社の社殿等の建築物は寛永期に創建された東照宮のもので、明治31年(1898)、朝酌村にあった東照宮と、松平直政公を御祭神とする楽山神社の御神霊を合祀し、現在地の松江城山に遷座したのが現在の松江神社ということだ。
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松江神社としての創建は明治時代という割には、外観からだけでも歴史を感じさせるなあと思っていたのも納得だ。
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松江神社のすぐ隣に位置しているのが興雲閣。画像では右下に「御書院跡」の標識が見える。この興雲閣の位置に、2代目藩主の時まで藩主居宅だった御書院があったということだ。
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素敵な外観だ。
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興雲閣について書かれている。
興雲閣は、明治36年(1903)に松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物です。当初、明治天皇の行在所に使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多く用いた華麗な仕上げとなっております。結果的には天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907)、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓幸にあたって、同年5月22日から26日まで御旅館となり、迎賓館としての役割を果たしました。 -
館内に入っていく。
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階段を昇っていく
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興雲閣は、明治36年(1903)に松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物です。当初、明治天皇の行在所に使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多く用いた華麗な仕上げとなっております。(以上「興雲閣」説明板より)
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結果的には天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907)、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓幸にあたって、同年5月22日から26日まで御旅館となり、迎賓館としての役割を果たしました。(以上「興雲閣」説明板より)
画像右側に写っているのは、チェコ製ピアノ。 -
貴顕室
明治40年(1907)皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓幸の際、御座所や御寝所として使われた部屋。 -
貴顕室内を見る。
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建具とシャンデリアの本体は現存するものを修復して展示している。(「興雲閣」説明板より)
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カーテンボックス、カーテン、じゅうたん、照明のガラスシェード、机と椅子は当時のものが残っていないため古写真をもとに復元している。(「興雲閣」説明板より)
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ここから2階バルコニーに出たようだ。
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2階バルコニーに出た。
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立派な造りだ。
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明治期の洋風建築は見応えがある。
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