2020/01/05 - 2020/01/05
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たびたびさん
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今回の旅は、大崎下島御手洗地区と下蒲刈島三之瀬地区。広島市街から日帰りの旅なんですが、余裕をもって回るにはやっぱり朝イチの便で行くしかない。広島駅をまだ日の出前に出発。呉の広駅前から今度はバスに乗り換えて、下蒲刈島・上蒲刈島・豊島を経由して大崎下島の御手洗地区へ。この間、四つの橋を渡って1時間20分。時間はかかりますが、乗り換えはないのでアクセスとしてはまあシンプルなのかな。
前半は、江戸時代から風待ち・潮待ちの港町として賑わっていた御手洗地区。寛文6年(1666年)、広島藩により町割りが行われ、大動脈である瀬戸内海の船運の活発化で、北前船などの寄港も増えて発展しました。その豊かさの遺産として、広島県でも二つしかない重要伝統的建造物群保存地区(もう一つは、連続テレビ小説「マッサン」の竹原市竹原地区伝統的建造物群保存地区)があって、細い路地には江戸時代から明治、大正・昭和・初期までに建てられた貴重な建物が混在。旧柴屋住宅、旧金子家住宅はじめ多くの町家や薩摩・宇和島藩の船宿に遊郭だった若胡子屋跡も残っていたり。見ごたえのある街並みは今も健在です。鉄道の発達で急速に衰退していったことも逆にこうして貴重な建物が残った背景かもしれませんが地元の努力もそれなりにあったんでしょうね。また、人や情報の往来が濃厚だったことを背景に幕末の御手洗条約とか歴史の舞台となった場所でもあり、最近だと映画「ももへの手紙」の舞台にも。思いを馳せる要素は期待以上、あれこれふんだんにあったように思います。
後半の下蒲刈島の観光の中心は三之瀬地区。御手洗地区と同じ、風待ち・潮待ちの港町だったのですが、山陽陸地側を通る地乗り航路の港が三之瀬、瀬戸内海中央を通る沖乗り航路の港が御手洗という違い。そして、歴史的には、当初の地乗り優勢から、航海技術の進展によって効率的な沖乗り航路が主流となっていくという流れなので、幕末の頃だと御手洗地区の方が表舞台だったのかなという感じはありますね。
ただ、多くの有名人も訪れた歴史の街のかつての街並みをできるだけそのまま残している御手洗に対して、三之瀬地区は、少し前の町長が力を入れた文化事業によって、新たに複数の美術館が整備されたり、違う形での努力の跡がうかがわれる。松濤園という観光施設の充実度もなかなかすごくて、歴史の町にまた新たな魅力が加わったという感じ。両方をセットで回ると旅の趣がぐっと増すように思いました。
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広島市内から大崎下島へは、広駅前から出る瀬戸内産交バス。朝イチが広駅前を6時40分なので、それに間に合うように広島駅を5時41分発の列車で出発します。
乗ったのは、この安芸路ライナー。広島駅と呉の広駅を結ぶ快速列車ですが、通勤や通学でも普通に使う列車。海岸線を走るので、穏やかな瀬戸内海の景色がよく見えて、なかなかいいです。地元の人にとっては見慣れた景色かもしれませんが、観光客にとっては新鮮に映るのではないかと思います。 -
広駅前のバス停といっても駅前の通り。駅を出たすぐではないので、分かってないとちょっと難しいかな。
さて、出発。最初の橋は安芸灘大橋。本州と下蒲刈島を結ぶ橋です。広から下蒲刈島・上蒲刈島・豊島・大崎下島と続くこの路線ではここが唯一の一般有料道路。路線の延長は、2.639km。供用開始は、2000年1月です。 -
まだ夜明け前といった感じ。吊り橋からは早朝朝焼けの海が見渡せて気分最高。今日はいい天気になりそうです。
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下蒲刈島の集落ですね。島でもあちこちに集落がある。瀬戸内海のお馴染みの風景です。
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二番目の橋は蒲刈大橋。下蒲刈島から上蒲刈島に渡ります。昭和54年開通なんですが、なんとこれは県の蒲刈地区広域営農団地農道整備事業により建設されたという農道橋。
長さは480m。堂々とした姿のトラス橋で、トラス橋としては広島県最大の橋だそうです。下蒲刈島の橋のたもとは三之瀬地区。三之瀬地区は後半訪ねますが、そこから見上げるとさらにごっつい姿がよくわかります。 -
三番目の橋、豊島大橋は、上蒲刈島と豊島をむすぶ道路橋。2008年供用開始。橋長903.2mの吊り橋です。
吊り橋のデザインとしては、本四架橋でもよく見るタイプなので珍しくはないのですが、渡っている時も -
こうして離れて見る時もどっちの眺めも美しい。瀬戸内海の風景によく合っていると思います。
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四番目の豊浜大橋は、豊島と大崎下島を繋ぐトラス橋。長さは543.0mなので、同じトラス橋の蒲刈大橋より長いです。ただ、長い分だけスマートに見えるんでしょうか。ごつく見える感じは少し緩和されているような気がします。
さあ、これで大崎下島に入りましたね。豊浜大橋 名所・史跡
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イチオシ
中の瀬戸大橋は、大崎下島から平羅島、中ノ島、岡村島を繋ぐ安芸灘オレンジラインを通す三つの道路橋の真ん中の橋。大崎下島から平羅島の平羅橋が力強いデザインの吊り橋なのに対してこちらと岡村大橋は優美。穏やかな瀬戸内海の景色になじんでいます。
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広駅前から御手洗までは所要時間1時間20分。御手洗に到着しました。
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小さな船着き場があって、
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これは待合室も備えた駅舎。中は誰もいませんでしたが、トイレを利用させてもらいました。
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さて、海岸沿いの通りを歩き始めます。赤いのはさっきの船着き場です。
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すぐに見えてきた何やらそれらしいところ。
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表の方に回ると御手洗七卿落遺跡ですね。
御手洗七卿落遺跡 名所・史跡
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文久3年(1863年)、公武合体派による八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都から長州藩へと落ち延びたのが七卿落。翌年、蛤御門の変で長州藩が勢力を回復すると見て都に向かいましたが、長州藩の敗北を知り引き返します。その途中5名が宿泊したのがここ町庄屋を勤めていた竹原屋の屋敷。母屋の表にこうした経緯が詳しく紹介してありました。建物の中には入れませんが、裏手の庭が穏やかな趣きです。
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御手洗七卿落遺跡のすぐ裏手。目と鼻の先が薩摩藩船宿跡脇屋。
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薩摩と長州が手を組むのはもっと後のこと。長州藩から見れば、蛤御門の変では会津と結んで長州を追い落した張本人は薩摩。薩摩との戦いでは高杉晋作と双璧と言われた久坂玄瑞を失っているし、この頃だと恨み骨髄の相手という関係です。
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これは、御手洗節の碑。港町には民謡もつきものですね。
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少し進むと海に臨んで、建物が建ち並ぶ。
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かつての船宿の
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これは旧木村・北川家住宅。丁寧に説明書もありますね。
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街並みが途切れるところ。住吉神社の前に建つのが高燈籠。ところで、燈籠はこの住吉神社の前と千砂子波止の先端と二つあります。一部新しい石材に変わっていますが古いのはこっちかな。
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そのまま住吉神社の脇を通り過ぎて
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もう一つは千砂子波止の先端の方。雰囲気としてはこちらの方があるかな。
つまり、もともとは、千砂子波止ができて、その突端に目印となる灯明台が必要となったことから造られたもの。千砂子波止 名所・史跡
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当時の庄屋金子忠佐衛門が木製のものを寄進。その後、天保3年(1832年)に石製のものに変わる。明治まで使われていたようです。
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波止は、島の突端に位置する御手洗地区を風雨の波から守るように作られた石組の防波堤。広島藩によって造られたのは文政12年(1829年)。その後、改修なども行われたのでしょうか、今でも美しい石組です。
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イチオシ
千砂子波止から見る御手洗の街並みの眺めもいいですね。
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市街の方に戻って、今度は歴史の見える丘公園へ向かいます。
ここが登り口です。 -
御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて整備された公園。御手洗の市街からまっすぐ登って行った高台なんですが、あの先の方ですね。
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イチオシ
御手洗の市街がだんだん下の方になっていきます。
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道はきちんと整備されているので、途中はミカン畑を抜けて行ったり。それも楽しいです。
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おいらん公園といっても特に何もないですが、
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さらに上ると御手洗の市街や大崎下島から平羅島、中ノ島、岡村島を繋ぐ安芸灘オレンジラインまで。箱庭のような美しい眺めが見えてきました。
歴史の見える丘公園 公園・植物園
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そして、これが頂上。
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イチオシ
改めて、思いを馳せれば。
かつて、この水路も北前船とか瀬戸内海の沖乗り航路を行き来する船で大いに賑わっていたはず。それを想像するとさらに素晴らしく見えてくるように思いました。 -
少し低いところに広場があって、車だとここまでは上がれます。
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市街に下りて、今度は入り組んだ市街の奥の方へ。
この満舟寺の石垣は、伝承によると、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国攻めの際、前線基地として加藤清正が築いたものということ。 -
戦国時代の築城術である乱れ築きという石積みだそうですが、いずれにしても、この切り立った石垣の迫力は
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城造りが得意だった加藤清正を彷彿とさせるに十分でしょう。
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ただ、石垣を上がった先は古びて壊れそうになった神社とか石碑など。
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こちらはあまり見ごたえはないような。。
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この碑も何でしょうねという感じです。
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さらに進んで。
松浦時計店は、江戸から昭和初期にかけてのいろんな時代の歴史的建造物が混在する御手洗地区の市街の一角。このお店の建物は大正時代のもので、保存対象建造物だそうです。
看板代わりの真っ赤な縁の時計が目につきますが、二階の格子やガラス窓のデザインなども何気に大きなしゃれ。今でも現役なのも興味が引かれます。 -
港町は土地が限られるので、通りはちょっとせせこましい。
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まあ、こんな感じのところが普通。なんだかディープな感じもしてきましたよ~
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で、その路地の先に建つのは若胡子屋跡。
御手洗地区にはかつて四軒の茶屋があって、この若胡子屋もその一つ。 -
最盛期には50人とも100人ともいわれる芸子や遊女を抱える御手洗最大の茶屋だったとか。
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内部は自由に上がれて、
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がらんとしたスペースには、
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往時の写真とか。
若胡子屋跡 名所・史跡
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これは、「ももへの手紙」の巨大ポップ。
御手洗は主人公ももが暮らす地区ということで、ももへの手紙の巡礼というのもあるようですが、私は今回これだけを確認しました。 -
それとこれはおはぐろ伝説の解説。
話というのは、おどろおどろしいのですが。。
一人の花魁が座敷に出るために部屋で身繕い。お付きの禿がお歯黒の鉄漿を用意しますが、なぜか今日に限って上手く付けることが出来ない。呼び出しに焦る花魁。苛立ちを爆発させて、煮立った鉄漿を禿の口に注ぎ込んだのです。禿は苦しみ、とうとう事切れてしまう。しかし、花魁にはお咎めなし。禿の死は闇に葬られたのです。
しかし、次の日から。その花魁が部屋で鏡の前に立つと、死んだ禿の姿が映り込むように。「お歯黒つけなんしたか」という禿の声も聞こえるようになったというのです。
こういう場所ですから悲哀はいろいろあったと思いますが、それにしてもという感じですね。 -
そして、奥の方に庭を臨む離れがあって、
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華やかな時代の雰囲気が
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少し偲べます。
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離れはちょっとした裏庭に面しています。
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続いては旧金子家住宅。若胡子屋跡のすぐそば。はす向かいといってもいいですね。
こちらは、江戸時代に御手洗の町年寄や庄屋役を勤めた金子家が文人墨客や広島藩の要人などを接待するために建てた屋敷。最近公開されたばかりの有料施設です。 -
では、建物に上がって拝見しましょう。
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ちなみに、御手洗条約という条約についての説明がありましたが、慶応3年(1867)10月の大政奉還直後の11月のこと。
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討幕の決意を固めた長州藩兵が京に上るため御手洗に立ち寄った際、長州藩と広島藩が結んだ軍事協定がここで結んだ条約。鳥羽伏見の戦いは翌年1月のこと。事態が緊迫した局面だったと思われます。
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ただ、屋敷は小ぶりで穏やかな数寄屋風書院造。
旧金子家住宅 名所・史跡
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一方で、千利休や古田織部の指導を受け、広島藩の国家老でもあった上田宗箇。その上田宗箇流で唯一現存する江戸時代の茶室があるのも大きな価値かと思います。
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このつくばいもそうした意味では貴重なものですね。
また、上田宗箇は作庭の名手でもある。有名なところだと広島の縮景園を造っていますが、徳島や和歌山ほかでも大きな仕事をしていて、徳島だと旧徳島城表御殿庭園、桂國寺庭園、和歌山だと粉河寺庭園。名古屋城の二之丸庭園もそう。広島の地元で縮景園を知らない人はいないと思いますが、それを造った上田宗箇がこんなすごい人だったことはもっと知られていいかもしれません。 -
続いては、御手洗天満宮。こちらは、広島藩と薩摩藩の秘密貿易の広島藩側の担当役人だった船越寿左衛門が明治4年に社殿を寄進したのが始まり。そう歴史があるわけではないようです。
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境内の見どころは二つ。菅公の歌「我たのむ 人をむなしくなすならば 天が下にて名をやなかさん」を刻んだ大きな自然石の歌碑と明治期に自転車での世界一周旅行を果たした冒険家、中村春吉の碑。
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先に進むと一段高いところに本殿。
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本殿を裏手に回ると
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菅公の井戸もありました。
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再び、若胡子屋跡の方へ戻って、今度は常盤通りです。
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小さな通りですが、重伝建地区らしい町並み。
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イチオシ
潮待ち館は、通りの中ほどにある町家を活用した喫茶とおみやげ物のお店。
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ちょっと落ち着いたいい感じですね。
大崎下島に来たなら、ももへの手紙にも出てきたレモン羊羹を買いたいと思っていたのですが、本家の福島福栄堂 レモン羊羹本舗は、もう店主が年を取って廃業したのだとか。 -
で、代わって、その味を直々に受け継いだのがこのお店。黄金羊羹という名前の瓶詰めの羊羹です。ほのかにレモンの味がして、これなら違和感なくいただけますね。「レモン羊羹」という名前は使えないようですが、それと変わらぬ「黄金羊羹」。今度はこの名前が浸透すればいいですね。
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通りを奥に進んで。
旧柴屋住宅は、大長村庄屋役及び御手洗町年寄役を代々勤めていた高橋家の別宅。 -
これも御手洗の街を代表する町家の一つです。「御手洗町並み保存センター」の看板があって、
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がらんとした内部は自由に拝見できます。
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座敷とその横のスペースには
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あんまり聞いたことなかったですが、琉球人使節の記録とかちょろっとした展示。
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また、奥庭の土蔵にも展示室があって
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伊能忠敬が測量している様子を描いた「伊能忠敬御手洗測量之図」のレプリカなど
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一連の資料があって
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興味深く拝見させてもらいました。
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また少し移動して。
御手洗休憩所は、御手洗地区の入り口というか端っこというかの海を臨む場所。 -
軽喫茶と醤油やポン酢、ブルーベリージャムなんかもそうなんでしょうか。地元のお土産物なんかもちょろっと置いています。静かなスペースなので、誰にも邪魔されずにゆっくりできるのがいいと思います。
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海岸の通りを歩いて、江戸みなとまち展示館。最初のバス停のすぐそばです。
海沿いにあって、 -
御手洗のあれこれを紹介。栗田樗堂という俳人や琉球使節も御手洗の文化を豊かにした要素。
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幕末の英傑、有名人が行き来していたことなどの紹介なども。シーボルトまで来ています。
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船宿の旗も面白いですね。
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少し離れた乙女座は、昭和初期のハイカラ建築。
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イチオシ
戦前はモダン劇場。戦後は昭和30年代まで映画館だったという建物です。
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内部は畳敷きの客席から二階の客席まで、比較的小さな規模ですが、確かにしゃれた雰囲気は持っています。
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ではここらで昼飯タイム。
目についたのは閑月庵新豊。御手洗地区の高燈籠に近い海岸端。 -
一階がシーフロントダイニング 新豊というレストランになっていて、
建物は町家を改造しておしゃれな感じ。若いスタッフが複数いて、これも活気がありますね。 -
イチオシ
ランチに刺身定食をいただきましたが、その日その日に獲れた瀬戸内海の新鮮な魚を食べさせるのがウリ。タイもかんぱちもとってもうまい。広島県の瀬戸内海の魚は全国的な評価はあんまりはっきりしませんが、その繊細な味わいとかは他にはないもの。カワハギの刺身とかメバルの煮つけとか最高なんですよね。多分、もしかしたら江戸前の魚なんかもそうだったのかもしれませんが、マグロとかが魚の王者の位置づけになってしまってから、その辺りのことがわけがわからなくなったのではないかという気もします。
ただ、私的には間違いなくトップクラスと思っていて、その感覚を遺憾なく味わった気持ちになりました。お店のコンセプトにマッチした申し分ない味わいです。 -
続いては、船宿カフェ若長。かつて、宇和島藩等の指定船宿だった古民家を活用したカフェ。
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イチオシ
二階に上がると目の前は瀬戸内海ののどかな風景が一望できて、なんともゆったりした時間が流れます。
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いただいたのは、檸檬ぜんざい。ほんのりしたレモンの香りは地元ならではですが、ベースとなるお汁粉のおいしさも落ち着いた甘さがあって、これは本物。がんばってますねえ。すべてが満ち足りた気分になりました。
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最後にもう一度御手洗の海の眺めを確認して、御手洗を後にします。
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山清青果は、御手洗の街並みから海沿いの道を少し西に向かったところ。大きな選果場の建物みたいなところ。
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大長みかんのジュースを売っていて、せっかくですから一杯いただいてみましょうか。
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ところで、全国的にはどうか分かりませんが、大長みかんは広島では堂々のブランドですからね。酸味も程よくあるすっきりした味わい。街歩きで疲れた中、ちょっと元気をいただきました。
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資誠堂は、御手洗地区のもう一つ西の宇津神社のある集落。その宇津神社の前にある薬屋さんみたいな雑貨屋さんです。ただ、島唯一のコンビニだということで、その点でまあまあ注目すべき存在なのかな。名前の資誠堂も資生堂をもじったみたいですけどね。
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そして、これが宇津神社。御手洗から歩いて15分くらいかな。
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神社はたぶん実在しない天皇なんですが、第7代天皇孝霊天皇の御代の創建と言われるほど古い歴史。海難除けの神として多くの参拝者があって、多くの奉納品が納められているとのこと。鳥居からまっすぐ続く参道から本殿が見えてくる感じが印象的です。
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御手洗地区から、今度は下蒲刈島の三之瀬地区へバスで移動。後半は、三之瀬地区の観光です。
まず訪ねたのは、昆虫の家。 -
建物は、蒲刈出身で宇品に居を構えた竹本邸を譲り受けたもののようですが、まあ、別に普通かな。
展示の方は、下蒲刈の子どもたちが見つけたという下蒲刈に生息する昆虫の標本というのは素朴でちょっと手作り感があるのですが、日本の美しいトンボや世界の美しい昆虫などは割と本格的。それなりに見ごたえがあると思いました。 -
朝見ましたけど、改めての蒲刈大橋。ここから見るとなかなかの雄姿。こんな橋がかかっていると島の人にとっては、やっぱり安心感につながるのかな。そんな気もします。
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バス停から奥の方に向かう前に。。
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海駅三之関は、三之瀬バス停降りてすぐ。
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地元の食材を中心に置く道の駅みたいな施設です。
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熱々のじゃこ天が名物で、それをいただきました。じゃこ天といえば、愛媛を思い出しますが、ここのじゃこ天は白い色。ぷりぷりした歯ごたえの良い素直な味わいのじゃこ天。まあまあです。
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イチオシ
すぐに見えてきた松濤園は、三之瀬地区では一番の観光施設。古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えてきた町、三之瀬の歴史と文化を今に伝えます。小さな町の観光施設ですが、この堂々とした構えは御手洗地区にはなかったものですね。
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瀬戸の急潮を臨む場所に松の緑が美しい庭園の中に、朝鮮通信使資料館 御馳走一番館、陶磁器館、あかりの館、蒲刈島御番所の4つの展示館。
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まずは、陶磁器館から。
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有田焼、伊万里焼のコレクションは、古伊万里と言われる古い時代のものもけっこう多くて、見ごたえあり。古くて傷んだ感じが否めないものもありますが、そういうことではなくて、やっぱり時代を感じさせるもの。染付と色絵のバランスもいいし、テーマを持ってちゃんと収集したコレクションのような気がします。
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二階にしつらえられた茶室も
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拝見。
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裏手から眺める海峡の眺めも美しいです。
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この建物自体もなにか本格的ですが、聞けば実は宮島の門前町にあった町屋を移築したもの。なるほどねという感じです。
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続いては、朝鮮通信使資料館。建物は、富山県砺波の商家、有川邸を移築したものです。
内部の写真撮影は禁止なのでお伝えできませんが、朝鮮通信使の船の展示を中心に、正装した通信使の等身大人形、服装饗応されたごちそうの数々。一行のにぎにぎしい陣容などの展示は圧巻。 -
朝鮮通信使がいかに大規模で華やかなものだったかがよくわかりました。
ちなみに、朝鮮通信使は、秀吉の朝鮮の役で捕虜となった朝鮮人の消息の確認とかが目的で始まったものですが、この感じは朝貢という印象もなくはない。日本書紀では神宮皇后の三韓征伐以降、百済を友好国とし、任那の日本政府の設置。新羅は何度も討伐して従わせてきた歴史がある。こうした姿を見ると、日本にも朝鮮にも当時、そうした歴史の記憶がそれなりに残っていたのではないのかなという気もしてきます。
ただ、この想像は朝鮮が勝手に押しかけてきたという思いの強い日本側からのもの。朝鮮は朝鮮で、野蛮な日本に本当の文化というものを見せてやろうという上から目線もあったかも。それぞれの思惑の違いは昔も今も変わらないのかもしれません。 -
続いては、
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あかりの館。
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この建物は、山口県上関町の旧家、吉田邸を移築したもの。
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松濤園は、移築建物も見どころなんですね。
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内部も堂々とした雰囲気。
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奥の書院なんかも
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なかなかの見ごたえですよ~
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一方、あかりの展示は土間の方。
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フェアリーランプのコレクションと書いてありますが、ビクトリア王朝時代のものとかがちょっといい感じです。
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最後は、蒲刈島御番所。
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広島藩の管轄で、ここで睨みを利かせていたということですね。
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御手洗地区にはありませんでしたが、後世は平和な世の中ですから、こうした施設は必要なくなったということでしょう。
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長州との密談も茶室みたいなところで十分。蒲刈島御番所が実質的に意味があったのは、もしかしたらまだ瀬戸内海に海賊の気分が残っている頃なのかと思います。
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再び、表通りに出て、
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続いての白雪楼は、江戸時代の末、沼隈の豪農、山路機谷が邸内に移築。祖父、重好が京都黒谷で営んだ奇好亭を楼造りに改め、漢学研鑚の場にしたもの。
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高台に建っていて、訪ねるといきなり二階の天井に書かれた墨書が見えて、ちょっとびっくり。奇抜な遊び心も感じます。
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さて、入口はこちら。
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中に入ると
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いきなり網代天井ですか。
まあ、数寄者が建てただけのことはありますね。 -
さっそく二階へ。
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吹きっさらしですが、
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まあ、この眺めがウリですからね。眼下に三之瀬の市街地や
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蒲刈大橋も望めます。
かつてであれば、往来の多い海峡。ここを行き交う船の眺めは壮観だったことでしょう。 -
イチオシ
さっきの天井の書に、
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渋い床の間も確認して、ちょっと納得。
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一階の座敷に降りて、
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抹茶をいただきます。
暖房が効いているのもあって、なんかほっこりしました。 -
白雪楼からさらに上がったところにあるのは、蘭島閣美術館別館。白雪楼から先はなにかあるようには思えないので、ちょっと気が付きにくいかもしれません。
展示は、蒲刈出身の父をもつ寺内萬治郎のコレクション。寺内萬治郎なんて聞いたことありませんでしたが、明治23年生まれ。裸婦を代表的な画題として、大正、昭和にかけて「裸婦の寺内」と称された日本近代洋画史に名前を刻む画家だそう。コレクションを眺めていると始めはそう思っていなくても、その量感の捉え方とかがだんだん見えてくるとそれなりの画家だったことが分かってくるような気がしました。中くらいの展示室が一つですが、ゆっくり浸るにはむしろちょうどいいような気がします。 -
ここからも、眺めはいいですねえ。
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再び表通りに戻って。
蒲刈島御番所跡は、三之瀬に設けられた海駅に置かれた広島浅野藩の番所跡。
広島藩はここで海上の警固にあたりましたが、瀬戸内海海路の整備は豊臣秀吉による文禄・慶長の役を機に進められたもの。江戸時代の初めの広島藩藩主、福島正則は三之瀬と鞆の浦を海駅に指定。その後、鞆の浦は福山藩に移りますから、広島藩ではここが唯一の海駅となりました。
なお、番所跡の碑は、三之瀬地区の海沿いのメインストリートの途中にありますが、復元建物は松濤園の中にあります。 -
ここも立派な施設ですけど、蘭島閣美術館の本館です。少し前の町長が美術愛好家で観光振興のために美術館を創設したのですが、その美術館の中では一番大きな美術館。中もゆったりしています。
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お正月の企画展でしたが、所蔵作品の中から選んだもの。ほか、日本画を中心に有名画家の作品があれこれありましたが、なんとなくイマイチ。ただネームで集めたものなのかなあ。というのも、福田平八郎なんかこんな作品ではその良さは分からない。ネームよりも作品で選ばないとね。町長は素人だし、審美眼がどうだったのか少し疑問を持ちました。
しかし。その後、一階から二階に移って、美人画のコレクションを拝見すると、これはいい。上村松園や鏑木清方も含めた作品は粒が揃っていて見ごたえあり。始めに持った印象を少し訂正すべきかなと見直しました。 -
ところで、広島浅野藩となってから、唯一の海駅だった三之瀬。広島藩藩主の福島正則から引き継いだものですが、その時代から引き継いだ遺構が長雁木と対馬雁木。
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三之瀬御本陣芸術文化館の正面の海岸です。ちょっと古びた石の段々。いわゆる船着場で荷物の上げ下ろしをここで行いました。対馬雁木は、朝鮮通信使に付き添っていた対馬藩専用の雁木だったようですが、今はもう残っていないよう。ただ、名前としては長雁木と対馬雁木と言われるのだと思います。
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さて、これが最後の施設、三之瀬御本陣芸術文化館です。この地区にあったかつての御本陣の建物を復元した外観だそうですが、それはまあそれなりかな。
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それよりも、この美術館も先ほど触れた前の町長の遺産の一つなのですが、圧巻は須田国太郎のコレクション。文句なく素晴らしい。
ちなみに、須田国太郎の作品は赤と影になった黒い部分にも氏のこだわりの工夫が凝らされていてとても重要なのですが、それはこうして作品群を見て初めて分かるようなところがある。そういう意味でこれだけのコレクションを揃えていることはかなり意味のあること。遺族からのかなり貴重な寄贈品もあったりして、これもその意味の重さを物語っているように思います。
以上、三之瀬地区の文化遺産。なかなか面白いです。 -
結局一日がかりでしたが、なんとか下蒲刈島から呉に帰ってきて、ここで晩飯にします。
で、気になっていたのは呉市内にある海自カレー。呉駅の周辺には海上自衛隊の船で出されるカレーライスを提供するお店がいくつかあるんですよね。 -
呉阪急ホテルの一階に入るこのイルマーレもその一つ。
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ここの海自カレーは、護衛艦うみぎり。食べた瞬間に牛の濃厚なうまみがブワーッと香ってきて、高級感があふれる味わい。命を懸けた任務に就いた隊員が、もしかしたら、これが人生最後の食事になるかもしれないと思って食べても納得できる。想像力を働かせるとそんなカレーにも思えてきます。
イルマーレ グルメ・レストラン
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イルマーレがよかったので、呉駅ビルの一階、駅膳も行ってみましょう。ここは潜水艦「せきりゅう」のカレー。
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さらっとしたタイプのカレーですが、脂身のうまさがあるひき肉なので、ちょうどいい組み合わせ。さわやかなタイプのカレーです。それぞれ特徴がありますねえ。呉市内には30軒くらい海自カレーの店があって競っているようですが、なかなか面白い。呉には、また楽しみが増えましたね。最後にまた意外な収穫があって、今日もいい一日となりました。では、これから広島に帰ります。お疲れ様でした。
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