独立混成第44旅団第2大隊に配属された学徒隊犠牲者を祀る慰霊碑である。
- 5.0
- 旅行時期:2023/06(約3年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
美ら海・本部・今帰仁 クチコミ:21件
八重岳陸分病院壕から少し下ったところにポツリとある三中学徒之碑。先の沖縄戦に於いて学徒隊員として徴兵された沖縄県立第三中学校の学徒隊犠牲者80余名を祀るため、昭和52(1977)年に学徒隊生存者や遺族の手によって建立されたものである。 沖縄戦の始まる少し前の昭和19(1944)年11月頃から三中公舎を利用しての通信訓練を受け始め、本格的な戦闘が始まるのを前にして独立混成第44旅団第2大隊隷下の各部隊に配属された。通信隊要員または鉄血勤皇隊員、そしてある者は繰り上げ現役入隊の形で従軍し、郷土防衛の戦烈に馳せ参じている。 部隊の構成人員に比較して守備範囲が大変広いというアンバランスから、圧倒的多数の米軍と果敢に戦うも徐々に押され、八重岳をから羽地の多野岳に撤退せざるを得ない状況となる。そこで第一護郷隊(第三遊撃隊)に合流し、以降ゲリラ戦に従うこととなる。 戦線が南下するにつれ情報途絶下の部隊では、ゲリラ戦を続け犠牲者を出し続けていた。昭和20(1945)年6月23日未明、沖縄守備第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の自決によって沖縄戦に於ける日本軍の組織的抵抗は終わりを告げるが、第一護郷隊の解散命令は一応7月に出されてはいるが、だから降伏できるというものではなかったようで、実際に終戦後には幾度かの下山勧告を無視して名護岳付近に潜伏し、ゲリラ戦を続けていたという。最後は第32軍高級参謀八原博通大佐の手紙を携えた旧日本軍将校の説得によりやっと下山。その日は年も明けた昭和21(1946)年1月2日だったとされている。 三中関係の犠牲者は88名とされ、その法名が三中学徒之碑に刻まれている。以前は慰霊の日にこの場所で〝慰霊祭〟を行っていたが、参列者の高齢化、それに伴う参列者数の減少のため、平成27(2015)年6月23日を以て最後となった。その後は県立名護高校敷地内にある三中と沖縄県立第三高等女学校の学徒隊犠牲者を合祀した南燈慰霊之塔で合同の慰霊祭が行われていると聞く。 高齢化社会に於いて戦争経験者が鬼籍に入り、慰霊祭が続けられないのは残念ではあるが致し方ないことでもある。そのため後身の学校が中心となって慰霊祭を続けて行くことは、部外者の言うことではないが大変ありがたいことであると私は思う。ただ慰霊祭は行われなくはなっても、三中学徒之碑の場所がわからないということはSNSでも訪れる際に苦労したとかわからなかったと語られている者も散見する。 数年前に摩文仁の平和公園内に学徒隊の碑が出来たことで〝忘れられない〟ようにといった記述が多く見られる時期があった。しかしこれはあくまで沖縄戦に従軍した〝すべての学徒隊〟についてものであり、個々の学徒隊のものではない。建立するに至った方々の思いを後世に伝えるために、情報の少ない慰霊碑をはじめとする〝所縁のもの〟の存在を取り上げる必要性を改めて感じた三中学徒之碑訪問であった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 許田ICから車で20分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 碑の回りは石が敷いてあり、数段の石段がある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 手入れが行き届いており慰霊の気持ちが伝わってくるものだった。
クチコミ投稿日:2023/08/27
いいね!:5票
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