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八重岳野戦病院跡

名所・史跡

八重岳野戦病院跡 施設情報・クチコミに戻る

なごらん学徒が従軍した沖縄陸軍病院八重岳分院が置かれていた場所である。

  • 5.0
  • 旅行時期:2023/06(約3年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

美ら海・本部・今帰仁 クチコミ:21件

三中学徒之碑から少し頂上に向かった先にある八重岳野戦病院壕。ここには独立混成第44旅団第二大隊の本部壕と沖縄陸軍病院八重瀬岳分院が置かれていた場所である。独立混成第44旅団第二大隊(宇土支隊)は、沖縄島北部の守備を担う舞台として砲兵隊・遊撃隊(護郷隊)・鉄血勤皇隊・防衛隊等から成る兵員約四千人となっていた。

他に伊江島守備隊である井川正少佐率いる第一大隊があったが、現地召集の防衛隊員を含めた2,700名は、数日の戦いで甚大な被害を被り玉砕した。伊江島での戦いの最中本部地区も米軍の攻撃を受け、前線から運ばれてくる傷病兵で病院壕はいっぱいとなり、壕外の通路にまで寝かせるという様であったと言われている。そんな戦況下で大隊本部壕や八重岳野戦病院にも米軍が近付いて来たために宇土大差は、昭和20(1945)年4月16日に多野岳方面に撤退を命令するが、末端の学徒隊の少年達の耳に入ったのは、日付も変わった17日になってからだったと記されている。病院壕に収容されていた〝歩けない患者〟は手榴弾を渡され放置された。

部隊の撤退と共になごらん学徒も移動するが、敗走する宇土支隊を追って米軍の掃討作戦が始まった。第二歩兵隊に多野岳(現名護市)への撤退命令が出され、深夜になって陸軍病院も多野岳へ撤退を開始したが、その後撤退していく道中で米軍の猛攻撃巻き込まれ、みんな散り散りになってしまい、それぞれ死の彷徨を続けたところで数日後に米軍に保護された。撤退の途中に負傷した生徒、自決をあと一歩のところで思いとどまった生徒もいたが、10人の学徒隊員のうち9名が助かっていることは正に奇跡に近い。しかし残念ながらひとりの生徒が撤退時に現本部町の伊豆味にて米軍の砲弾に倒れて亡くなっている。

動員人数が少なかったから犠牲者も少ないという意見があるが、学校関係者の犠牲者まで含めるとかなりの割合に上るのが沖縄戦に於けるセオリでもある。

現在この野戦病院跡と本部壕も猛スピードで自然に帰ろうとしているように見える。また元々足場が良くない場所ゆえ、説明書きが建っている場所から見て右側の谷が本部壕、左側の谷が病院壕とはわかっていても中々その場所まで進めないことが現実である。説明版も劣化が進み書かれている内容がわからない。以前に記録した方の文章からその内容を読み取ることしかできないが、この辺りは県や町の力で何とかならないものかと思えてならない。戦跡を残すことに是非論があることは聞いてはいるが、訪れたにも関わらず〝なにもわからなかった〟という残念な印象を受けたくはないと思うことは如何なものであろうかとふと思った八重岳野戦病院壕再訪であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
許田IC]から25分程度。
人混みの少なさ:
5.0
訪れた際は誰もいなかった。
バリアフリー:
3.0
湿気のある粘土質の土壌で大変滑りやすい。
見ごたえ:
5.0
年々自然に帰っていくような感じを受ける。

クチコミ投稿日:2023/08/27

いいね!:5

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