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四国の日本百名城巡り、愛媛の宇和島城です。

2018春、四国の日本百名城(20/42):3月26日(10):宇和島城(3):藤兵衛丸矢倉、天守

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2018/03/25 - 2018/03/27

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旅人のくまさん

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四国の日本百名城巡り、愛媛の宇和島城です。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 左手の『城山郷土館』建物と、正面方面に見える建物は、『三ノ丸』にあった建物を移築したものとされます。

    左手の『城山郷土館』建物と、正面方面に見える建物は、『三ノ丸』にあった建物を移築したものとされます。

  • 現在は『城山郷土館』として無料開放されている、元武器庫の山里倉庫の光景です。山里倉庫は、1845年(弘化2年)に三の丸に建てられた武器庫です。1966年(昭和41年)に伊達家より宇和島市に譲渡され、現在の場所に城山郷土館として移築されました。館内には古い民具や祭りの用具、古写真などが展示されています。時間の都合で、入場しての見学はしませんでした。

    現在は『城山郷土館』として無料開放されている、元武器庫の山里倉庫の光景です。山里倉庫は、1845年(弘化2年)に三の丸に建てられた武器庫です。1966年(昭和41年)に伊達家より宇和島市に譲渡され、現在の場所に城山郷土館として移築されました。館内には古い民具や祭りの用具、古写真などが展示されています。時間の都合で、入場しての見学はしませんでした。

  • 『藤兵衛丸矢倉跡』の文字が記された黒い標識の光景です。かつての『藤兵衛丸』は、城番の屋敷や矢倉があったところです。現在は、『城山郷土館』や、『武家屋敷の長屋門』などが建っています。

    『藤兵衛丸矢倉跡』の文字が記された黒い標識の光景です。かつての『藤兵衛丸』は、城番の屋敷や矢倉があったところです。現在は、『城山郷土館』や、『武家屋敷の長屋門』などが建っています。

  • 『シャク(杓)』<br />セリ科シャク属の多年草<br />特徴:<br />分布:<br />その他:ヤマニンジン、コジャク、ワイルドチャービルの別名を持ちます。

    『シャク(杓)』
    セリ科シャク属の多年草
    特徴:
    分布:
    その他:ヤマニンジン、コジャク、ワイルドチャービルの別名を持ちます。

  • 『タキキビ(滝黍)』<br />イネ科タキキビ属の多年草<br />特徴:名前は、山地の滝の落ちるような急な崖に生える黍(きび)の意味。<br />分布:本州から九州の山地、朝鮮半島、中国に分布。<br />その他:名札に、『稲穂のような花』と紹介してありました。

    『タキキビ(滝黍)』
    イネ科タキキビ属の多年草
    特徴:名前は、山地の滝の落ちるような急な崖に生える黍(きび)の意味。
    分布:本州から九州の山地、朝鮮半島、中国に分布。
    その他:名札に、『稲穂のような花』と紹介してありました。

  • 『ハラン(葉蘭)』<br />スズラン亜科ハラン属の常緑多年草<br />特徴:和食での料理の盛りつけに、葉を包丁で細工したものが使われます。<br />原産地:従来は中国説、新説は九州南部の宇治群島、黒島、諏訪之瀬島。<br />その他:古名は、馬蘭(バラン)です。バランの呼び名もよく使われます。

    『ハラン(葉蘭)』
    スズラン亜科ハラン属の常緑多年草
    特徴:和食での料理の盛りつけに、葉を包丁で細工したものが使われます。
    原産地:従来は中国説、新説は九州南部の宇治群島、黒島、諏訪之瀬島。
    その他:古名は、馬蘭(バラン)です。バランの呼び名もよく使われます。

  • 自然がよく残された、宇和島城跡の光景です。石畳の登城路の脇に、自然林と野草の光景が続いていました。

    自然がよく残された、宇和島城跡の光景です。石畳の登城路の脇に、自然林と野草の光景が続いていました。

  • 道案内標識の光景です。飛騨s?方向の矢印が『天守』、右方向の矢印が『郷土館』と『児童公園』、手前向きの矢印が、『北出口』への下り道の案内でした。

    道案内標識の光景です。飛騨s?方向の矢印が『天守』、右方向の矢印が『郷土館』と『児童公園』、手前向きの矢印が、『北出口』への下り道の案内でした。

  • 高石垣の光景です。宇和島城の始まりは、天慶4年(941年)、警固使・橘遠保が藤原純友の乱を鎮定の際、この地に砦を構えたのが最初とされます。平安時代の中期、瀬戸内で純友が朝廷に対し反乱を起こした戦いです。関東で平将門が起こした乱と併せ、『承平天慶の乱』と呼ばれます。

    高石垣の光景です。宇和島城の始まりは、天慶4年(941年)、警固使・橘遠保が藤原純友の乱を鎮定の際、この地に砦を構えたのが最初とされます。平安時代の中期、瀬戸内で純友が朝廷に対し反乱を起こした戦いです。関東で平将門が起こした乱と併せ、『承平天慶の乱』と呼ばれます。

  • 藤堂高虎による縄張の巧妙さは、五角形平面の縄張り『空角の経始(あきかくのなわ)』にもあります。四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書、『讃岐伊予土佐阿波探索書』には『四方の間、合わせて十四町』と、誤って記されていました。 (ウィキペディア)

    藤堂高虎による縄張の巧妙さは、五角形平面の縄張り『空角の経始(あきかくのなわ)』にもあります。四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書、『讃岐伊予土佐阿波探索書』には『四方の間、合わせて十四町』と、誤って記されていました。 (ウィキペディア)

  • 同じ場所からズームアップした、宇和島城天守の光景です。

    同じ場所からズームアップした、宇和島城天守の光景です。

  • 『オカメザサ(阿亀笹)』<br />イネ科武亜科オカメザサ属<br />特徴:高さ1~2mの背の低いタケ類です。<br />分布:日本原産ですが、野生種の発見は難しいとされます。<br />その他:葉が密集し、グランドカバーによく使われます。

    『オカメザサ(阿亀笹)』
    イネ科武亜科オカメザサ属
    特徴:高さ1~2mの背の低いタケ類です。
    分布:日本原産ですが、野生種の発見は難しいとされます。
    その他:葉が密集し、グランドカバーによく使われます。

  • 『ソメイヨシノ(染井吉野)』<br />バラ科サクラ属<br />原産地:日本<br />開花期:春(3月~4月)<br />その他:古木の周りが修復工事中でした。

    『ソメイヨシノ(染井吉野)』
    バラ科サクラ属
    原産地:日本
    開花期:春(3月~4月)
    その他:古木の周りが修復工事中でした。

  • 『ソメイヨシノ(染井吉野)』<br />バラ科サクラ属<br />原産地:日本<br />開花期:春(3月~4月)<br />その他:櫓代わりに建っていた、染井吉野の光景です。

    『ソメイヨシノ(染井吉野)』
    バラ科サクラ属
    原産地:日本
    開花期:春(3月~4月)
    その他:櫓代わりに建っていた、染井吉野の光景です。

  • 『ソメイヨシノ(染井吉野)』<br />バラ科サクラ属<br />原産地:日本<br />開花期:春(3月~4月)<br />その他:

    『ソメイヨシノ(染井吉野)』
    バラ科サクラ属
    原産地:日本
    開花期:春(3月~4月)
    その他:

  • 『ソメイヨシノ(染井吉野)』<br />バラ科サクラ属<br />原産地:日本<br />開花期:春(3月~4月)<br />その他:満開の染井吉野の木々の光景です。

    『ソメイヨシノ(染井吉野)』
    バラ科サクラ属
    原産地:日本
    開花期:春(3月~4月)
    その他:満開の染井吉野の木々の光景です。

  • 染井吉野のトンネル腰に眺めた、『宇和島城天守』の光景です。全戸kぅには12カ所、その内の4箇所の現存天守が四国地方にあります。東から、丸亀城、高知城、松山城と宇和島城です。

    染井吉野のトンネル腰に眺めた、『宇和島城天守』の光景です。全戸kぅには12カ所、その内の4箇所の現存天守が四国地方にあります。東から、丸亀城、高知城、松山城と宇和島城です。

  • ここからは、天守に入城維しての見学です。天守の木組み模型の展示光景です。木組み段階で、唐破風や千鳥破風などの姿が確認できました。

    ここからは、天守に入城維しての見学です。天守の木組み模型の展示光景です。木組み段階で、唐破風や千鳥破風などの姿が確認できました。

  • 三体の甲冑の展示光景です。三体とも新しい造りのようでしたから、オリジナルではなくレプリカのようでした。三体の内の中央部分の甲冑の光景です。推測ですが、三体とも、歴代城主が着用した物のレプリカのようです。オーソドックスな兜の飾りと、紫色の胴着です。<br />

    三体の甲冑の展示光景です。三体とも新しい造りのようでしたから、オリジナルではなくレプリカのようでした。三体の内の中央部分の甲冑の光景です。推測ですが、三体とも、歴代城主が着用した物のレプリカのようです。オーソドックスな兜の飾りと、紫色の胴着です。

  • 三体の内の右側部分の甲冑の光景です。伊達政宗公が着用した甲冑に類似したような甲冑のようです。愛用していたのは桃山時代の『黒漆五枚胴具足』とされます。江戸時代の有名な絵師、狩野深幽も描いた政宗の甲冑姿があります。

    三体の内の右側部分の甲冑の光景です。伊達政宗公が着用した甲冑に類似したような甲冑のようです。愛用していたのは桃山時代の『黒漆五枚胴具足』とされます。江戸時代の有名な絵師、狩野深幽も描いた政宗の甲冑姿があります。

  • 三体の内の左側部分の甲冑の光景です。緋縅の銅日に、随分と華やかな後輪のような兜飾りです。

    三体の内の左側部分の甲冑の光景です。緋縅の銅日に、随分と華やかな後輪のような兜飾りです。

  • 『第七代藩主・伊達宗紀(号:春山)』<br />伊達家寄贈<br />*伊達宗紀(だて・むねただ:1782~1889年)は、百歳長寿の大名として知られます。寛政4年(1792年)9月16日生まれとされますが、これより前に生まれていたとも言われています。隠居後の余生を過ごすため、天赦園(名勝指定)を築庭しました。<br />*伊予国宇和島藩7代藩主で、通称は主馬、号は春山です。官位は従四位下、遠江守、左近衛権少将です。

    『第七代藩主・伊達宗紀(号:春山)』
    伊達家寄贈
    *伊達宗紀(だて・むねただ:1782~1889年)は、百歳長寿の大名として知られます。寛政4年(1792年)9月16日生まれとされますが、これより前に生まれていたとも言われています。隠居後の余生を過ごすため、天赦園(名勝指定)を築庭しました。
    *伊予国宇和島藩7代藩主で、通称は主馬、号は春山です。官位は従四位下、遠江守、左近衛権少将です。

  • 『第八代藩主・伊達宗城』<br />伊達家寄贈<br />*伊達宗城(だて・むねなり:1818~1892年)は、伊予国宇和島藩8代藩主で、明治期は伯爵でした。伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物で、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち『四賢侯』と謳われました。

    『第八代藩主・伊達宗城』
    伊達家寄贈
    *伊達宗城(だて・むねなり:1818~1892年)は、伊予国宇和島藩8代藩主で、明治期は伯爵でした。伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物で、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち『四賢侯』と謳われました。

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