2018/03/25 - 2018/03/27
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旅人のくまさんさん
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四国の日本百名城巡り、愛媛県の大洲城の紹介です。江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えたお城です。大洲は、歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝となる場所でした。
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- 観光バス 新幹線
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『城下町大洲・町並ぶらり絵図』のタイトルがあった観光案内看板の光景です。左上の大洲城をはじめ、6箇所が写真入りで紹介されていました。また、大洲市には『おはなはん通り』があり、名所になっています。6枚の写真の内の左下です。1966年4月から1年間放送されたNHKの連続テレビ小説『おはなはん』に因みます。樫山文江さんが、主役に抜擢され大ヒットしました。
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原作の「おはなはん一代記」では、主人公の林はなが実際に生まれ育ったのは徳島市でしたが、ドラマ化に際しては愛媛県大洲市に物語の舞台が変更されました。テーマ曲は、倍賞千恵子が歌っています。1966~ 67年の平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%を記録しました。毎朝放映時間になると水道の使用量が激減する現象が全国で見られたとされます。
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バスの中から撮影した、青い道路標識の光景です。左向きの矢印で、『大洲城』が表示されていました。大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道があります。更に、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があり、交通の要衝となる場所です。
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『東門跡』の標識です。解説文を紹介しますと、『大洲城の正門(大手門)に当たり、城下町川の高麗門と城内側の櫓門との間を土塀で囲んだ、小さな枡形と呼ばれる広場が造られた城門』と紹介されていました。左下の写真が、明治時代の『桝形通り』の写真、その上が古絵図からの位置と、構造の紹介でした。
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赤色の新芽が綺麗な『アカメガシワ(赤芽槲、赤芽柏)』の光景です。トウダイグサ科アカメガシワ属の落葉高木です古来は熱帯性植物でしたが、落葉性を身に付けることで温帯への進出を果たしたものと考えられていあんす。古名は『楸(ひさぎ)』です。
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大洲城近くの有料駐車場の光景です。その敷地内に『大洲城』への矢印表示がありました。この駐車場で観光バスを降り、後は、歩いて大洲城に向かいました。歩きながら、大洲城の簡単な歴史などを紹介しておきます。城郭の形式は、『梯郭式平山城』に分類され、別名には、比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城などがあります。『大津』が元々の地名になります。
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大洲城が築城されたのは、南北朝時代(1336~1392年)の少し前、鎌倉時代末期の元徳3年(1331年)、宇都宮豊房氏の築城とされます。宇都宮豊房(うつのみや・とよふさ:1293~1369年)は、伊予宇都宮氏の初代です。その先祖は、藤原鎌足より15代目の末裔に当たる藤原宗円になります。康平6年(1063年)に下野国宇都宮城の初代城主となり、以後その子孫を宇都宮氏と称しました。
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『二の丸大手門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと『二の丸の正門(大手)があった場所』です。内堀に架かる橋の部分の枡形で、手前が『三の丸』、橋の先が『二の丸』になり、こちらには格式の高い『薬医門』様式の門があったことも解説されていました。
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満開の染井吉野の光景です。大島桜を思わせるような花の白さでした。宇都宮氏の話に戻ります。伊予宇都宮氏の初代の豊房は、豊前宇都宮氏第6代宇都宮頼房の次男で、位階は従四位下、本姓は藤原氏です。 豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられ、翌年大洲に入り、大洲の地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に『地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)』を築城しました。
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伊予を詠んだ、儒学者・姜?楢の七言律詩の漢詩費の光景です。姜?楢(きょう・こう、カン・ハン:1567~1618年)は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人です。1597年の慶長の役の際、黄海沿岸に進出していた藤堂高虎の水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された人です。日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に儒学者の藤原惺窩と交流しました。約3年に亘る俘虜生活の見聞は『看羊録』に纏められました。1600年(慶長5年)4月に伏見を立ち、対馬を経由して朝鮮に帰国しましたが、再び仕官はしなかったと伝わります。『看羊録』は、朝鮮王朝に対する提言集的な側面が評されています。
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『櫓下御門(二の丸大手門)跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『二の丸の表門に当たる櫓門』と紹介されていました。『門前の石垣で囲われた部分だけでなく、内堀に架かる土橋の先(南側)まで塀で囲われた枡形が特徴」と解説されていました。豊房公が地蔵ヶ嶽城築城の折、城の下手の高石垣が何度積んでもすぐに崩れたことから、人柱にまつわる伝説が残されています。人柱になった『おひじ』といううら若き娘の名前に因む『肱川(ひじかわ)』と『は比地町(ひじまち)』の伝説です。伊予宇都宮氏は、国人として二百数十年間に亘って南伊予を中心に支配を行いましたが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏しました。
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『下台所』の説明看板があった土蔵のような建物光景です。遺構の建築物としてリストアップされた建物でした。大洲城の歴史祖愉快に戻ります。永禄11年(1568年)、宇都宮氏は河野・毛利連合軍に敗れ、大洲城(当時は地蔵ヶ嶽城)は、河野氏の武将・大野直昌が預かりましたが、羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景により、天正13年(1585年)、大野氏は城を追われました。
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染井吉野が満開の時に見学した大洲城の光景です。天正13年(1585年)、羽柴秀吉は四国平定を果たしました。この戦後、戦功のあった小早川隆景は、伊予35万石を与えられ、湯築城を居城とし、大津城を枝城としました。隆景が九州に転封となった天正15年(1587年)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ、主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城に城代を置きました。
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染井吉野が満開の大洲城天守のズームアップ光景です。文禄3年(1594年)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595年)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。併せて宇和、喜多、浮穴各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられました。高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。
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更にズームアップした大洲城天守と高欄櫓の光景です。平成6年(1994年)5月 - 天守再建検討委員会が発足し、平成16年(2004年)6月に竣工した木造での再建天守です。その見事な仕上がりは、後ほど入城して紹介します。天守は、本丸の南東隅に位置し、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し、渡り櫓で連結された複合連結式層塔型4重4階の構造です。
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大洲城の歴史紹介に戻ります。藤堂高虎は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの恩賞として、今張国分山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602年)には今治城の普請を始め、大津には養子の藤堂高吉(たかよし:1579~1670年)を城代に据えました。高吉は、織田氏の宿老の丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となりました。
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高虎公の命を受けて、慶長10年(1605年)、奉行の田中林斎は、城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。この頃から大津が城下町としての形態を整え始めました。高虎は、城造りの名人として有名ですが、時代を見据えた城下町造りにも大きな成果を上げています。外様大名の出身ながら、家康公の死出の枕元に呼ばれたことでも、その信頼と役割の大きさが推測できます。
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高虎の後、慶長14年(1609年)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治(1554~1624年)が喜多・浮穴・風早の三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。これは、高虎の後の瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったとの見方もあります。羽柴秀吉と柴田勝家が信長後の覇権を争った、『賤ヶ岳の七本槍』の一人です。最長老の七本槍でした。
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大洲城天守の木造再建の基本設計を行った、建築史家の宮上茂隆氏(1940~1998年)は、脇坂安治が当天守を州本から移築し、併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。(大洲城管理事務所) 蛇足ながら、2004~2005年に製作された韓国ドラマ『不滅の李舜臣』では、主役の李舜臣の日本側における最大の敵役の『日本水軍第一の名将』として安治が登場しています。
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脇坂安治は、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しませんでしたが、大坂冬の陣の際には次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げました。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居しました。その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号し、寛永3年(1626年)8月に京都で死去しました。
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部分的に打込み接ぎ的な表面加工がありますが、野面積の印象が濃い高石垣の光景が続きます。脇阪氏の後には、元和3年(1617年)、加藤貞泰(1580~12623年)氏が米子より大洲に入城しました。喜多郡、浮穴郡、風早郡、桑村郡などの内6万石を領しました。加藤貞泰は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・加藤光泰の次男として誕生しました。
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貞泰は、文禄2年(1593年)8月、父・光泰が朝鮮出兵において陣没したため、14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領しました。文禄3年(1594年)、豊臣姓を下賜されました。文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封となり、貞泰は黒野城と城下町の建設に努め、2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となりました。
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積石のズームアップ光景です。貞泰は、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立て増した。元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封とな利ました。死去したのは元和9年(1623年)5月、享年44でした。跡を長男の泰興が継ぎました。 加藤家は、伊予大洲藩の最後(第13代)の藩主まで続きました。
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高石垣の角の部分のズームアップ光景です。修復工事が行われたためでしょうか、下部と上部では、石材と、工法が異なるように見受けました。下部は算木積の石材のパターンではなく、巨大な石材が縦長に使われていました。上部は、伊予の青い市風の切り揃えた石を使った算木積でした。下部の修復に、セメントが一部使あwれているようなのが気がかりです。
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高石垣越しに眺めた、天守の光景です。高石垣の最上部の方は、少し危ない感じがする積み方になっていました。
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文字が隠れていない左側を読みましたら、『供養して心山河の霧はるる』の文字が読めました。この文字でネット検索しましたら、文字が隠れた右の1句は、『観ずればみな佛性よ狩供養』が分かりました。詠み人は『前田伍健』でした。そういえば、季語がありません。『前田伍健(まえだ・ごけん:1889~1960年)』は、香川県高松市出身の川柳作家でした。愛媛県川柳文化連盟の初代会長や、子規会顧問を務めた人です。
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『ソメイヨシノ(染井吉野)』
バラ科サクラ属
原産地:日本
開花期:春(3月~4月)
その他:満開の染井吉野と赤い雪洞の光景です。 -
満開の染井吉野の花越しに眺めた、大洲城天守の光景です。四層の櫓と唐破風、千鳥破風などが確認できました。
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左側が天守、右が高欄櫓です。戦後復元された木造天守としての四層四階は日本初とされ、19.15mの高さは日本一となります。また、本来なら建築基準法では認められない規模であったため、当時、愛媛県に建設計画をなかなか認めてもらえなかったものの、2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外となったようです。(大洲市・観光情報)
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保存建築物として、建築基準法の適用除外となった天守の光景です。これにより、往年の複合連結式による天守群の復元に至りました。地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等により、平成16年(2004年)に復元されました。四層四階の複連結式天守の復元に当たっては、明治時代の古写真や『天守雛形』と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に、当時の姿が正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なこととされます。大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。(大洲市・観光情報)
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