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 鎌倉市扇ガ谷1にある壽福寺(https://4travel.jp/travelogue/11439733)は良く知られていない寺である。謎多き寺である。<br /> 壽福寺のある亀ヶ谷の地には、源頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、治承4年(1180年)、源氏再興を目指し挙兵し、鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから、大倉の地を選んだ。<br /> この『吾妻鑑』に記載された内容から、壽福寺は境内が狭いお寺と思われているようだが、住職に境内を案内されて、塔頭が広がる広大な境内を持つお寺であることが実感できた。また、岡崎義実が頼朝の父・義朝を祀っていた亀谷堂もどうなったのか気になるところだ。<br /> かつて、頼朝が創建した永福寺の山号が「亀淵山」ではなかったか?と推測したことがあるが、「亀〇山□福寺」の〇に「谷」、□に「壽」を入れたのが亀谷山壽福寺であり、〇に「淵」、□に「永」を入れると「亀淵山永福寺」となる。ただし、どちらの寺の寺紋も笹竜胆であったはずだ。壽福寺の寺紋・笹竜胆は今も見られる。<br /> しかし、平政子(北条政子)が開基となっている乗蓮寺(https://4travel.jp/travelogue/11089759)の寺紋は「みつうろこ紋」(北条家家紋)である。すなわち、壽福寺の開基は息子の頼家(寿永元年(1182年)~元久元年(1204年))であった可能性が高い。頼家は父・頼朝の急死(建久10年1月13日(1199年))により家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿となり、建仁2年(1202年)に征夷大将軍となる。壽福寺の創建は正治2年(1200年)であるが、この時には頼家が第2代鎌倉殿になっていた。<br /> 壽福寺の仏殿は元々は北側(英勝寺側)にあったのだという。すなわち、参道を中門まで進み、右折した先にあった。壽福寺は七堂伽藍を有する大寺院であり、塔頭の数も14を数えたという。それならば、立派な山門もあったはずだ。<br /> しかし、現在の山門(惣門)-参道-中門-仏殿が一直線に揃い過ぎてはいまいか?しかも、中門を入ると参道の両側にそれぞれ2本づつのビャクシンまで植えられているではないか。この4本のビャクシンの木は古木で鎌倉市の天然記念物に指定されている。ではこの仏殿の再建時期は?宝暦年間(1751年~1764年)説、正徳四年(1714年)頃、寛文4年(1664年)(Wikipedia)とまちまちである。しかし、250年とか350年のビャクシンの木よりは古くも見える。それでも建長5年(1253年)に創建された建長寺仏殿前に創建時に植えられたとされる樹齢760年余りのビャクシンの木ほどは古くはなさそうに見える。私たちは半世紀余り後に創建された建長寺のイメージで壽福寺の現在の仏殿を見ているが、では、この4本のビャクシンはいつ頃に植えられたものなのか?<br />(表紙写真は壽福寺仏殿前のビャクシン)

鎌倉壽福寺のビャクシン

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2019/01/01 - 2019/01/01

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市扇ガ谷1にある壽福寺(https://4travel.jp/travelogue/11439733)は良く知られていない寺である。謎多き寺である。
 壽福寺のある亀ヶ谷の地には、源頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、治承4年(1180年)、源氏再興を目指し挙兵し、鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから、大倉の地を選んだ。
 この『吾妻鑑』に記載された内容から、壽福寺は境内が狭いお寺と思われているようだが、住職に境内を案内されて、塔頭が広がる広大な境内を持つお寺であることが実感できた。また、岡崎義実が頼朝の父・義朝を祀っていた亀谷堂もどうなったのか気になるところだ。
 かつて、頼朝が創建した永福寺の山号が「亀淵山」ではなかったか?と推測したことがあるが、「亀〇山□福寺」の〇に「谷」、□に「壽」を入れたのが亀谷山壽福寺であり、〇に「淵」、□に「永」を入れると「亀淵山永福寺」となる。ただし、どちらの寺の寺紋も笹竜胆であったはずだ。壽福寺の寺紋・笹竜胆は今も見られる。
 しかし、平政子(北条政子)が開基となっている乗蓮寺(https://4travel.jp/travelogue/11089759)の寺紋は「みつうろこ紋」(北条家家紋)である。すなわち、壽福寺の開基は息子の頼家(寿永元年(1182年)~元久元年(1204年))であった可能性が高い。頼家は父・頼朝の急死(建久10年1月13日(1199年))により家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿となり、建仁2年(1202年)に征夷大将軍となる。壽福寺の創建は正治2年(1200年)であるが、この時には頼家が第2代鎌倉殿になっていた。
 壽福寺の仏殿は元々は北側(英勝寺側)にあったのだという。すなわち、参道を中門まで進み、右折した先にあった。壽福寺は七堂伽藍を有する大寺院であり、塔頭の数も14を数えたという。それならば、立派な山門もあったはずだ。
 しかし、現在の山門(惣門)-参道-中門-仏殿が一直線に揃い過ぎてはいまいか?しかも、中門を入ると参道の両側にそれぞれ2本づつのビャクシンまで植えられているではないか。この4本のビャクシンの木は古木で鎌倉市の天然記念物に指定されている。ではこの仏殿の再建時期は?宝暦年間(1751年~1764年)説、正徳四年(1714年)頃、寛文4年(1664年)(Wikipedia)とまちまちである。しかし、250年とか350年のビャクシンの木よりは古くも見える。それでも建長5年(1253年)に創建された建長寺仏殿前に創建時に植えられたとされる樹齢760年余りのビャクシンの木ほどは古くはなさそうに見える。私たちは半世紀余り後に創建された建長寺のイメージで壽福寺の現在の仏殿を見ているが、では、この4本のビャクシンはいつ頃に植えられたものなのか?
(表紙写真は壽福寺仏殿前のビャクシン)

  • 壽福寺山門(惣門)。

    壽福寺山門(惣門)。

  • 壽福寺参道。

    壽福寺参道。

  • 壽福寺中門。

    壽福寺中門。

  • 壽福寺のビャクシン。

    壽福寺のビャクシン。

  • 壽福寺のビャクシン。

    壽福寺のビャクシン。

  • 壽福寺のビャクシン。

    壽福寺のビャクシン。

  • 壽福寺のビャクシン。

    壽福寺のビャクシン。

  • 壽福寺仏殿。<br /><br />仏殿の再建は寛文4年(1664年)(Wikipedia)、正徳四年(1714年)頃、宝暦年間(1751年~1764年)と、250年~350年前の間にばらつくが、この仏殿が再建される前から4本のビャクシンは植えられていたのでは?<br /><br />この現在の壽福寺の伽藍配置から、400年余り後に創建され、境内を半減させられた英勝寺の創建時の伽藍配置との類似性を感じた。<br />惣門の西にお勝の方の照堂、手前に右折して山門ー仏殿がある。<br />これが壽福寺の創建時の伽藍配置に当てはめると、<br />山門(惣門)-中門ー亀谷堂。中門前を右折して山門-仏殿。<br /><br />東逗子にあった源頼朝の父・義朝の沼浜の館から建物を移築して壽福寺の創建に充てたとされる。義朝の沼浜の館から建物を移築する必然性があったお堂は岡崎義実が祀った亀谷堂が相応しい。<br />壽福寺創建に当たって亀谷堂が現在の仏殿がある場所に移され、沼浜の館から義朝が建てた建物を移築した。それが、宝治3年(1247年)の火災、正嘉2年(1258年)の火災で焼き尽くされ、(燃え残ったかしたか、)亀谷堂が本堂(仏殿)代わりになり、後に仏殿が再建される際にはこの場所になされた。それが南北朝の七堂伽藍の再興の時期であったとしたら、仏殿前の4本のビャクシンは南北朝頃に植えられたのか?

    壽福寺仏殿。

    仏殿の再建は寛文4年(1664年)(Wikipedia)、正徳四年(1714年)頃、宝暦年間(1751年~1764年)と、250年~350年前の間にばらつくが、この仏殿が再建される前から4本のビャクシンは植えられていたのでは?

    この現在の壽福寺の伽藍配置から、400年余り後に創建され、境内を半減させられた英勝寺の創建時の伽藍配置との類似性を感じた。
    惣門の西にお勝の方の照堂、手前に右折して山門ー仏殿がある。
    これが壽福寺の創建時の伽藍配置に当てはめると、
    山門(惣門)-中門ー亀谷堂。中門前を右折して山門-仏殿。

    東逗子にあった源頼朝の父・義朝の沼浜の館から建物を移築して壽福寺の創建に充てたとされる。義朝の沼浜の館から建物を移築する必然性があったお堂は岡崎義実が祀った亀谷堂が相応しい。
    壽福寺創建に当たって亀谷堂が現在の仏殿がある場所に移され、沼浜の館から義朝が建てた建物を移築した。それが、宝治3年(1247年)の火災、正嘉2年(1258年)の火災で焼き尽くされ、(燃え残ったかしたか、)亀谷堂が本堂(仏殿)代わりになり、後に仏殿が再建される際にはこの場所になされた。それが南北朝の七堂伽藍の再興の時期であったとしたら、仏殿前の4本のビャクシンは南北朝頃に植えられたのか?

  • 旧仏殿裏の崖に2本のビャクシン。<br />数10mの高さに山を削って崖にし、平地を広げている。<br />壽福寺は鎌倉時代末期には開山塔の逍遥庵を初め、15の塔頭を数えたという。南北朝時代になって七堂伽藍が復興された。また、「寿福寺本末弁御寄進領之事」(寛永10年(1633年))によれば、塔頭4庵、末寺12ヵ寺、江戸中期には寺勢を増し、塔頭18庵、末寺15ヵ寺を数えたとされる。

    旧仏殿裏の崖に2本のビャクシン。
    数10mの高さに山を削って崖にし、平地を広げている。
    壽福寺は鎌倉時代末期には開山塔の逍遥庵を初め、15の塔頭を数えたという。南北朝時代になって七堂伽藍が復興された。また、「寿福寺本末弁御寄進領之事」(寛永10年(1633年))によれば、塔頭4庵、末寺12ヵ寺、江戸中期には寺勢を増し、塔頭18庵、末寺15ヵ寺を数えたとされる。

  • 旧仏殿裏の崖のビャクシン。<br /><br />この崖は中門辺りからも見える。

    旧仏殿裏の崖のビャクシン。

    この崖は中門辺りからも見える。

  • 旧仏殿裏の崖下に池。<br /><br />「山門の右手には庫裏、寺務所があります。その奥は公開されていませんが、歴代のご住職のお墓や池、その先には鎌倉彫の後藤家の墓が大きな&quot;やぐら&quot;の中にあります。後藤家斎宮代々之墓と彫った石塔が立ち、奥の壁の中心にはお地蔵様が祀られ、周りには多数の石塔が立っています。その歴史の長さと盛隆の様がうかがい知れます。」(http://www.kcn-net.org/kokenchiku/jufukuji/jufukuji.html)。

    旧仏殿裏の崖下に池。

    「山門の右手には庫裏、寺務所があります。その奥は公開されていませんが、歴代のご住職のお墓や池、その先には鎌倉彫の後藤家の墓が大きな"やぐら"の中にあります。後藤家斎宮代々之墓と彫った石塔が立ち、奥の壁の中心にはお地蔵様が祀られ、周りには多数の石塔が立っています。その歴史の長さと盛隆の様がうかがい知れます。」(http://www.kcn-net.org/kokenchiku/jufukuji/jufukuji.html)。

  • 池。<br /><br />この池はGoogle地図(写真)でも確認できる。勿論、浄光明寺客殿裏の池も確認できる。

    池。

    この池はGoogle地図(写真)でも確認できる。勿論、浄光明寺客殿裏の池も確認できる。

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