2019/01/01 - 2019/01/01
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ドクターキムルさん
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鎌倉市扇ガ谷1にある壽福寺(https://4travel.jp/travelogue/10476503、https://4travel.jp/travelogue/10476685)は正月は中門内が公開されるが、ゴールデンウィークにも公開されているようだ。今年(2019年)の正月元旦には9年振りに訪れ、本堂前で参拝した。
本堂の「興禅閣」の扁額が掛かる須弥壇にはご本尊の大きな仏さまが鎮座している。釈迦如来坐像である。ウィキペディア(Wikipedia)には、「釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。脱活乾漆は、粘土などで作った原型の上に麻布を漆で貼り固めた張り子状の像で、日本では奈良時代に多数制作されたが、中世以降にこの技法を用いた仏像はきわめてまれである。なお、両脇侍像は木造である。」と記載されている。まるで、国宝仏かと思われるほどの書きっぷりである。しかし、「鎌倉の寺 小事典」(かまくら春秋社)にも脱活乾漆仏であることは記載されてはいない。それどころか、「鎌倉みほとけ紀行」(PHP)や「鎌倉の仏像めぐり」(学研)にも「鎌倉の古道と仏像」(楽学ブックス)にも壽福寺の仏像は何も記載されていない。また、「本尊の籠釈迦とよばれる乾漆の釈迦如来像(国重文)」(「神奈川県の歴史散歩 下」(山川出版))、あるいは、「本尊の釈迦像(県文化財)は唐の陳和卿(ちんわけい)の作と伝えられ、…[菅沼 晃]」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))、「その他」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)などの記載がある。一方、「国指定文化財等データベース」の重要文化財には該当するものがなかった。また、神奈川県の文化財 検索画面」は機能していない。結果、国重要文化財なのか神奈川県の文化財なのかそれでもないのか、その正確な文化財の指定が判然としない。Web検索では、本尊は宝冠釈迦如来で他に釈迦如来が安置されていて3m近い仏像が2躯もあるとするものまである。国宝仏であっても不思議ではないが、国重要文化財に指定されているべき仏像である。しかし、おそらくは県の文化財かそれにさえも指定されていないのが現状なのかも知れない。また、釈迦如来坐像は下で2つに外れ、中の空洞には大人が2人も入ることができるほど大きいという。あるいは、首の部分を京都(京都国立博物館文化財保存修理所だったか?)で修理したが、本堂前の中門は通すことができず難儀したのだという。したがって、補修時に制作年代が考証され、その全容が把握されているはずなのだが…。
ご本尊を例に挙げたが、壽福寺に関しては全てがこの程度で、良く知られていない。世襲したここ3代の住職(親・子・孫)が静寂な境内を望んで、多くを公開してこなかったこともあろうが、鎌倉五山では創建が最も古く、しかも鎌倉では最初の禅寺でもあり、鎌倉五山の中では御家人レベルが開基となって創建された寺院ばかりであるが、その程度のお寺はなく、将軍クラス(、尼将軍と呼ばれた)が開基となって、将軍だった源頼朝の菩提を弔うために創建された寺である。したがって、寺格が高く、七堂伽藍が整った大寺院であったとされ、塔頭の数も10数あったという。また、禅寺であるから茶や庭、座禅道場、はたまた、やぐらの発祥に関わる最初の寺である可能性もある。鎌倉時代初期に尼将軍が源頼朝の菩提を弔うために創建した大寺院という認識が重要である。広大な寺域が考えられる。例えば、鎌倉駅近くの山林は今でも壽福寺の地所であり、山の裾野の崖には大型のやぐらが並んでおり、平地には塔頭が並んでいたのであろう。また、巽神社の前の山の上には観音堂があったのだという。
参拝者は北条政子と源実朝の親子の墓がある寺という認識ぐらいしかないのだろう。しかし、もう一度、壽福寺を改めて見直す必要がある。
(表紙写真は壽福寺本堂)
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壽福寺門前。
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壽福寺山門。
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壽福寺山門に掛かる「亀谷山」の扁額。
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「源実朝とその時代」展(鎌倉国宝館)のポスター。
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「文化財保護」のポスター。
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「国指定史跡 寿福寺境内」。
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「寿福寺」。
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石畳の参道。
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鐘楼。
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梵鐘。
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中門。
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中門に掛かる「壽福金剛禅寺」の扁額。
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境内のビャクシン。左右に4本。
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境内のビャクシン。
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境内のビャクシン。
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境内のビャクシン。
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壽福寺本堂(仏殿)。正徳4年(1714年)に建立。内部は石畳の土間だったようだが、板張りに変更されている。須弥壇中央から2本の厚い松の板が伸び、左右には赤目と白目の松の板が目を揃えて張られている。
「神奈川県の歴史散歩 下」(山川出版)には「1923(大正12)年の関東大震災で建物は倒壊した」とあるが、本堂(仏殿)は傾いただけであったと寺伝されている。鎌倉では大正時代に建立されたばかりの本覚寺本堂や九品寺本堂などが傾いたが倒壊しなかったと寺伝されている。築200年近く経つ壽福寺本堂(仏殿)が傾いただけであったとする寺伝から、壽福寺境内が山を削った強固な岩盤上にあるからだと考えられる。 -
壽福寺本堂(仏殿)の屋根に上がる浪の飾り瓦。創建時は萱葺き屋根だったようだが、瓦に葺き替えたのだという。屋根の一番上に煙出しがあり、夏はここから暖かくなった空気が抜け、堂内は涼しいのだという。
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壽福寺本堂(仏殿)の屋根に上がる浪の飾り瓦。屋根の一番上の煙出しには笹竜胆の源氏の家紋が見える。
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壽福寺本堂(仏殿)の木鼻。禅宗様だが、前の唐獅子、横には亀の彫刻が彫られている。
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壽福寺本堂(仏殿)の木鼻。
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亀の木鼻。片瀬・龍口寺手水舎の木鼻が亀だったが、亀の木鼻をみたのはそれ以来のことだ。
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裏側は浪の木鼻。
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亀の木鼻。
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裏側は浪の木鼻。
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須弥壇に掛かる「興禅閣」の扁額。
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壽福寺本堂(仏殿)の本尊の釈迦如来坐像。乾漆仏である。
なお、昨年(2018年)2月5日に「梅かまくら特別参拝」が開催され、仏殿の土間から内陣の仏像を拝見できたという。仏殿の土間とは仏殿に入った床張りに上がる土間か? -
須弥壇左。栄西像(市重文)などが並んでいる。端に鶴岡八幡宮から運び込まれた仁王像。
明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈により、鶴岡八幡宮(や、本坊、二十五坊)から多くの仏像が壽福寺に運び込まれたのだという。また、壽福寺も衰退し、塔頭が廃され、そこの仏像も運び込まれたのだという。鎌倉国宝館にはそうした由縁(縁起)が分からない仏像(車で2台ほど)を寄託したのだという。しかし、仁王像は残された。 -
須弥壇右。源実朝像などの仏像が並んでいる。端に鶴岡八幡宮から運び込まれた仁王像。
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客殿。
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庫裏。
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庫裏。かつての本堂(仏殿)はこの西にあったのだという。だとしたら土蔵がある民家(、明治に入ると境内を切り売りして民家が建っている)が旧本堂(仏殿)前となろう。この旧本堂(仏殿)前が創建当時を知る縁(よすが)となろう。
この旧本堂(仏殿)横の北側崖下には歴代住職の墓(無縫塔)が並んで建っている。しかし、東側は古いもので、崖崩れがあった際に掘り起こされたのだという。こうした立地は半世紀余り後に建立された浄光明寺と類似するものである。
七堂伽藍が整う大寺院であったならば、開山堂は?開基堂は?開基堂として背の高い超大型やぐらが造られた?
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