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旅の6日目の午前中は平泉寺へ行きました。<br /><br />Wiki によれば、<br />平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。明治時代までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院だった。<br /><br />行く前まで平泉寺はお寺だと思っていました。

6月の旅 ⑨ ~ 平泉寺と勝山市

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2019/06/12 - 2019/06/12

24位(同エリア398件中)

Sini

Siniさん

旅の6日目の午前中は平泉寺へ行きました。

Wiki によれば、
平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。明治時代までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院だった。

行く前まで平泉寺はお寺だと思っていました。

  • 福井駅からえちぜん鉄道へ。あれ?どこかな?<br /><br />地図では福井駅隣接のえちぜん鉄道。

    福井駅からえちぜん鉄道へ。あれ?どこかな?

    地図では福井駅隣接のえちぜん鉄道。

  • うーんと上の方に書いてありました。<br />いや、これは誰向け?

    うーんと上の方に書いてありました。
    いや、これは誰向け?

  • えちぜん鉄道は三国芦原線と勝山線があります。<br />1番線が三国芦原線で日本海へ向かいます。<br />2番線は勝山線で山の方へ向かいます。<br />ざっくりね。<br /><br />以前に東尋坊は行ってるので、今回は海側はパスです。<br />海側にはあわら温泉など、有名温泉もいろいろあり検討しましたが、今回はパスです。

    えちぜん鉄道は三国芦原線と勝山線があります。
    1番線が三国芦原線で日本海へ向かいます。
    2番線は勝山線で山の方へ向かいます。
    ざっくりね。

    以前に東尋坊は行ってるので、今回は海側はパスです。
    海側にはあわら温泉など、有名温泉もいろいろあり検討しましたが、今回はパスです。

  • えちぜん鉄道<br /><br />朝の勝山行きは空いています。<br /><br />反対の三国行きは学生さんなどでいっぱい。<br /><br />一時期年間利用者が17万人まで激減したそうですが、駅のそばの駐車場の無料化、相互乗り入れ他様々な取り組みを行い、現在は38万人まで利用者が増加。と言う、すごい取り組みをして現在に生き残っているえちぜん鉄道です。

    えちぜん鉄道

    朝の勝山行きは空いています。

    反対の三国行きは学生さんなどでいっぱい。

    一時期年間利用者が17万人まで激減したそうですが、駅のそばの駐車場の無料化、相互乗り入れ他様々な取り組みを行い、現在は38万人まで利用者が増加。と言う、すごい取り組みをして現在に生き残っているえちぜん鉄道です。

  • えちぜん鉄道、勝山線終点、勝山駅到着。<br /><br />恐竜博物館へもここからバスで行きます。火曜日は休館日です。

    えちぜん鉄道、勝山線終点、勝山駅到着。

    恐竜博物館へもここからバスで行きます。火曜日は休館日です。

  • 勝山駅を降りてすぐ地元のバスに乗ります。小さな11人乗りのバンです。200円。このドライバーさん、無愛想でした。が、実は平泉寺まで行くバスは日に三便のみ。

    勝山駅を降りてすぐ地元のバスに乗ります。小さな11人乗りのバンです。200円。このドライバーさん、無愛想でした。が、実は平泉寺まで行くバスは日に三便のみ。

  • 勝山の町中を走り郊外へ出ると、すごいお寺があります。<br /><br />越前大仏様がいらっしゃる所です。今回は何処にも寄る余裕はありません。ちょっと大仏殿を見たかったなぁ。って、いつから大仏好きになったのか?いや、そんなことはないのですが・・・

    勝山の町中を走り郊外へ出ると、すごいお寺があります。

    越前大仏様がいらっしゃる所です。今回は何処にも寄る余裕はありません。ちょっと大仏殿を見たかったなぁ。って、いつから大仏好きになったのか?いや、そんなことはないのですが・・・

  • うん、なんだかやはり惹かれる寺院です。

    うん、なんだかやはり惹かれる寺院です。

  • お城型の勝山城博物館です。<br />天守風建築物で、天守の高さは日本一とか。(57.8m)もちろんコンクリート製の模擬天守です。

    お城型の勝山城博物館です。
    天守風建築物で、天守の高さは日本一とか。(57.8m)もちろんコンクリート製の模擬天守です。

  • 山道を少し登り、平泉寺の入り口のまほろば館(観光案内所などがあるらしい)付近が終点です。<br /><br />同じコミニュティバスに乗るとは限りませんでしたが、日に三便しかないバスは40分後に出ます。念のためドライバーさんに必ず戻ってきてバスに乗りますから(待っていてね)、と言っておきました。<br /><br />だってこの後の便は3時間後。結構山も登りましたし、だいたい今回はハイキングの服装での旅ですが、歩く気がない、へたれな私。40分で平泉寺全体を見るのは無理。しかし、3時間もお寺にいるほど寺好きでもないし、しようがありません。<br /><br />すると、ドライバーさん、まっすぐ行くと神社ですから、と言ってくれました。あれ?平泉寺は寺と思ってきたら神社だったんですね?とか、バカな返事をする私。

    山道を少し登り、平泉寺の入り口のまほろば館(観光案内所などがあるらしい)付近が終点です。

    同じコミニュティバスに乗るとは限りませんでしたが、日に三便しかないバスは40分後に出ます。念のためドライバーさんに必ず戻ってきてバスに乗りますから(待っていてね)、と言っておきました。

    だってこの後の便は3時間後。結構山も登りましたし、だいたい今回はハイキングの服装での旅ですが、歩く気がない、へたれな私。40分で平泉寺全体を見るのは無理。しかし、3時間もお寺にいるほど寺好きでもないし、しようがありません。

    すると、ドライバーさん、まっすぐ行くと神社ですから、と言ってくれました。あれ?平泉寺は寺と思ってきたら神社だったんですね?とか、バカな返事をする私。

  • 鳥居も趣あります。

    鳥居も趣あります。

  • 社務所への門。何やら自然でいいですねぇ。

    社務所への門。何やら自然でいいですねぇ。

  • その門から覗くと、社務所です。建物が美しい!屋根も!<br /><br />しかし通り過ぎて一目散に奥へ向かって急ぎます。

    その門から覗くと、社務所です。建物が美しい!屋根も!

    しかし通り過ぎて一目散に奥へ向かって急ぎます。

  • さらに参道は続きます。<br /><br />参道は約1.2キロ。周りにはスギ、ブナ、サラ、ヤマナシなど樹齢千年とも言われる大木に囲まれて、とても良い雰囲気です。

    さらに参道は続きます。

    参道は約1.2キロ。周りにはスギ、ブナ、サラ、ヤマナシなど樹齢千年とも言われる大木に囲まれて、とても良い雰囲気です。

  • かなり登ってきて後ろを振り返ると、こんな素敵な道。<br /><br />旧参道の石畳は、室町時代に九頭竜川の石を修行僧が手で運び並べた請負事業の成果ということです。

    かなり登ってきて後ろを振り返ると、こんな素敵な道。

    旧参道の石畳は、室町時代に九頭竜川の石を修行僧が手で運び並べた請負事業の成果ということです。

  • 杉と苔がきれいでした。<br /><br />かつて一向一揆の対象にされたり、数度の山全体が焼失したりなど、悲惨な歴史があったこの場所も今では面影なく静かな境内です。

    杉と苔がきれいでした。

    かつて一向一揆の対象にされたり、数度の山全体が焼失したりなど、悲惨な歴史があったこの場所も今では面影なく静かな境内です。

  • 森とこの平泉寺が近い、森との境界線にある敷地の感じが良いです。

    森とこの平泉寺が近い、森との境界線にある敷地の感じが良いです。

  • 木立の中にチラチラと摂社された神社などが見えるのも良いです。境内が狭い神社だと、ズラーッと摂社が並んでいたりするのを見るのはなんだか忍びないなぁ、と思ってましたが、こんな風にひっそりと建っているのは良いです。

    木立の中にチラチラと摂社された神社などが見えるのも良いです。境内が狭い神社だと、ズラーッと摂社が並んでいたりするのを見るのはなんだか忍びないなぁ、と思ってましたが、こんな風にひっそりと建っているのは良いです。

  • うーん、この先のあれはなんの建物か?と思いましたが時間がないのでカット!

    うーん、この先のあれはなんの建物か?と思いましたが時間がないのでカット!

  • やっと白山神社にたどり着きました。<br /><br />現在は三社が並んでいます。白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているそうです。<br /><br />御前峰 2702m <br />剣ヶ峰 2677m<br />大汝峰 2683m

    やっと白山神社にたどり着きました。

    現在は三社が並んでいます。白山山頂の三山のそれぞれの神を祀っているそうです。

    御前峰 2702m
    剣ヶ峰 2677m
    大汝峰 2683m

  • 養老元年(717年)、泰澄によって開かれたというこの平泉寺白山神社の歴史は、下記をご覧ください。コピペですが。<br /><br />興味ない方はスルーしてください。長いです。<br /><br /><br />平安時代以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになった。<br /><br />応徳元年(1084年)には延暦寺の末寺となる。が、久安3年(1147年)の時点では園城寺の末寺となっていた。そのため、この年に延暦寺は再び平泉寺を末寺とするために鳥羽法皇に訴え、認められた。こうして平泉寺はまたも延暦寺の末寺となってしまう。<br /><br />源平合戦時の行動として、『平家物語』には、寿永2年(1183年)4月に行われた平家と木曾義仲方との火打城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。この頃にはもうすでに有力な僧兵集団がいたことが知られる。<br /><br />鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている。<br /><br />平泉寺は南北朝時代になると南朝の後醍醐天皇の味方をした。そのため、越前は南朝にとって非常に有力な地域であった。しかし、北朝の斯波高経によって藤島荘を安堵されると北朝に寝返り、藤島城などに立て籠もったので南朝軍と合戦となった。そこで新田義貞が延元3年/建武5年(1338年)閏7月に藤島城攻めの援軍に向かっていたところを襲撃され、燈明寺畷で戦死した。<br /><br />以後、室町時代に入ると、越前守護の斯波氏の保護を受け、ますます勢いは盛んとなっていったが、永享12年(1440年)8月に失火によって全山が炎上する事態となった。しかし、10月4日には室町幕府から復興資金として北陸道七か国から棟別銭を徴収することを認められ、この時以降に石垣を多用するようになった。<br /><br />こうして室町時代後半の最盛期には砦や堀を備え、全山石垣に囲まれた要害へと変貌し、東西1.2キロメートル、南北1キロメートルもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成した。<br /><br />天文12年(1543年)、長年にわたって加賀馬場・白山比咩神社が持っていた白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を越前馬場・平泉寺が奪おうとし、これ以降ずっともめ続けることとなる。<br /><br />戦国時代には越前の国主である朝倉氏と肩を並べるほどの一大勢力となっていた平泉寺は、「日本国一番の法師大名」といわれた寺領8000石を誇る飛鳥井宝光院と大聖院が寺内を統括し、その下に寺領3000石の波多野玉泉坊・小河聞浄坊・佐藤福寿坊・三段崎宝蔵坊・中村増智坊などの有力な坊舎が軒を連ねており、また僧兵の出自も朝倉氏の家臣団一族から入室していることもあり、朝倉氏とは極めて近しい関係であり続けた。<br /><br />そのため、朝倉義景が北近江の大名浅井長政の援軍に赴く際には平泉寺から玉泉坊や宝光院なども兵を出している。しかし、天正元年(1573年)8月には小谷城の西にある丁野城を守っていた玉泉坊は織田信長の軍勢に攻められ、降伏している。<br /><br />その後、越前は朝倉義景が従兄弟の朝倉景鏡に裏切られて自害した結果、織田氏の領国となり、元朝倉家臣の桂田長俊が統治を行った。その間である、玉泉坊は平泉寺を統括する宝光院と大聖院を出し抜いて、秘蔵の茶道具である青磁筒を信長に献上して近づき、信長から一山総務の朱印状を入手し、平泉寺全山を手中に収めた。クーデターである。こうして玉泉坊は平泉寺の社領や神物を自由に差配して、平泉寺諸院諸坊から黄金を徴収するなどした。しかし、天正2年(1574年)1月19日、富田長繁が反乱を起こして一乗谷にいた桂田長俊を討ち取る事件が発生するとその混乱に乗じて1月23日、宝光院などが兵をあげて玉泉坊父子を討ち果たした。<br /><br />宝光院は以前の体制に戻そうと実力者の朝倉景鏡と組んだが、その景鏡が2月になって越前一向一揆に襲われて居城の亥山城から平泉寺に逃げてきたのでかくまうと、平泉寺自体が一向一揆の標的となってしまった。<br /><br />4月15日、平泉寺と景鏡の軍勢が地元の一揆が籠る村岡山城を攻めている最中に和田本覚寺率いる一向一揆軍が平泉寺本体に襲い掛かり、それを見た平泉寺と景鏡の軍勢は平泉寺に戻ろうとして混乱し、合戦に敗北。景鏡は戦死し、多くの僧兵も討ち死にし、逃亡して平泉寺は全山を焼失、滅亡した。だが、その後天正11年(1583年)に平泉寺に戻ってきた顕海が、弟子の専海と日海を率いて再興に着手し、豊臣秀吉などの崇敬を受けて復興させた。<br /><br />江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は6坊2か寺、寺領は330石であった。<br /><br />寛保3年(1743年)、いさかいが絶えなかった越前馬場・平泉寺と加賀馬場・白山比咩神社の利権争いがようやく江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。<br /><br />明治時代に入ると神仏分離令により寺号を捨て神社として生きていくこととなり、寺院関係の建物は解体された。<br /><br />しかし、1872年(明治5年)11月、江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道が白山比咩神社の所有となった。<br />

    養老元年(717年)、泰澄によって開かれたというこの平泉寺白山神社の歴史は、下記をご覧ください。コピペですが。

    興味ない方はスルーしてください。長いです。


    平安時代以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになった。

    応徳元年(1084年)には延暦寺の末寺となる。が、久安3年(1147年)の時点では園城寺の末寺となっていた。そのため、この年に延暦寺は再び平泉寺を末寺とするために鳥羽法皇に訴え、認められた。こうして平泉寺はまたも延暦寺の末寺となってしまう。

    源平合戦時の行動として、『平家物語』には、寿永2年(1183年)4月に行われた平家と木曾義仲方との火打城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。この頃にはもうすでに有力な僧兵集団がいたことが知られる。

    鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている。

    平泉寺は南北朝時代になると南朝の後醍醐天皇の味方をした。そのため、越前は南朝にとって非常に有力な地域であった。しかし、北朝の斯波高経によって藤島荘を安堵されると北朝に寝返り、藤島城などに立て籠もったので南朝軍と合戦となった。そこで新田義貞が延元3年/建武5年(1338年)閏7月に藤島城攻めの援軍に向かっていたところを襲撃され、燈明寺畷で戦死した。

    以後、室町時代に入ると、越前守護の斯波氏の保護を受け、ますます勢いは盛んとなっていったが、永享12年(1440年)8月に失火によって全山が炎上する事態となった。しかし、10月4日には室町幕府から復興資金として北陸道七か国から棟別銭を徴収することを認められ、この時以降に石垣を多用するようになった。

    こうして室町時代後半の最盛期には砦や堀を備え、全山石垣に囲まれた要害へと変貌し、東西1.2キロメートル、南北1キロメートルもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成した。

    天文12年(1543年)、長年にわたって加賀馬場・白山比咩神社が持っていた白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を越前馬場・平泉寺が奪おうとし、これ以降ずっともめ続けることとなる。

    戦国時代には越前の国主である朝倉氏と肩を並べるほどの一大勢力となっていた平泉寺は、「日本国一番の法師大名」といわれた寺領8000石を誇る飛鳥井宝光院と大聖院が寺内を統括し、その下に寺領3000石の波多野玉泉坊・小河聞浄坊・佐藤福寿坊・三段崎宝蔵坊・中村増智坊などの有力な坊舎が軒を連ねており、また僧兵の出自も朝倉氏の家臣団一族から入室していることもあり、朝倉氏とは極めて近しい関係であり続けた。

    そのため、朝倉義景が北近江の大名浅井長政の援軍に赴く際には平泉寺から玉泉坊や宝光院なども兵を出している。しかし、天正元年(1573年)8月には小谷城の西にある丁野城を守っていた玉泉坊は織田信長の軍勢に攻められ、降伏している。

    その後、越前は朝倉義景が従兄弟の朝倉景鏡に裏切られて自害した結果、織田氏の領国となり、元朝倉家臣の桂田長俊が統治を行った。その間である、玉泉坊は平泉寺を統括する宝光院と大聖院を出し抜いて、秘蔵の茶道具である青磁筒を信長に献上して近づき、信長から一山総務の朱印状を入手し、平泉寺全山を手中に収めた。クーデターである。こうして玉泉坊は平泉寺の社領や神物を自由に差配して、平泉寺諸院諸坊から黄金を徴収するなどした。しかし、天正2年(1574年)1月19日、富田長繁が反乱を起こして一乗谷にいた桂田長俊を討ち取る事件が発生するとその混乱に乗じて1月23日、宝光院などが兵をあげて玉泉坊父子を討ち果たした。

    宝光院は以前の体制に戻そうと実力者の朝倉景鏡と組んだが、その景鏡が2月になって越前一向一揆に襲われて居城の亥山城から平泉寺に逃げてきたのでかくまうと、平泉寺自体が一向一揆の標的となってしまった。

    4月15日、平泉寺と景鏡の軍勢が地元の一揆が籠る村岡山城を攻めている最中に和田本覚寺率いる一向一揆軍が平泉寺本体に襲い掛かり、それを見た平泉寺と景鏡の軍勢は平泉寺に戻ろうとして混乱し、合戦に敗北。景鏡は戦死し、多くの僧兵も討ち死にし、逃亡して平泉寺は全山を焼失、滅亡した。だが、その後天正11年(1583年)に平泉寺に戻ってきた顕海が、弟子の専海と日海を率いて再興に着手し、豊臣秀吉などの崇敬を受けて復興させた。

    江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は6坊2か寺、寺領は330石であった。

    寛保3年(1743年)、いさかいが絶えなかった越前馬場・平泉寺と加賀馬場・白山比咩神社の利権争いがようやく江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

    明治時代に入ると神仏分離令により寺号を捨て神社として生きていくこととなり、寺院関係の建物は解体された。

    しかし、1872年(明治5年)11月、江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道が白山比咩神社の所有となった。

  • 御本社は入母屋造。創建717年ですが、1795年に再建されたものです。<br /><br />ご祭神は伊弉冉尊(イザナミノミコト)。<br /><br />昇り竜、下り竜の彫刻、壁面の浮彫などの彫刻が見事。

    御本社は入母屋造。創建717年ですが、1795年に再建されたものです。

    ご祭神は伊弉冉尊(イザナミノミコト)。

    昇り竜、下り竜の彫刻、壁面の浮彫などの彫刻が見事。

  • 本殿の左は越南知社(おおなむちしゃ)。<br />ご祭神は大己貴尊(おおなむちのみこと)=大国主命。

    本殿の左は越南知社(おおなむちしゃ)。
    ご祭神は大己貴尊(おおなむちのみこと)=大国主命。

  • 本殿の右にあるのは別山社。<br />ご祭神は、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)<br /><br />調べてみると、<br />天忍穗耳尊は素戔嗚尊が天で自身の清い心を示すために生んだ五皇子の長男である。『日本書紀』神代紀第六段によると素戔嗚尊は姉の天照大神の前で「自分の心が清らかならば男神が生まれ、そうでなければ女神が生まれる」と誓約(うけい)を行ったという。そして姉から借り受けた勾玉をカリカリと噛んで掃き出し五皇子を生んだ。誓約に勝った素戔嗚尊の勝ち名乗りが「正哉吾勝」「勝速日」と考えられ一番最初に生まれた天忍穗耳尊の名前の一部となっている。天照大神も同時に素戔嗚尊から剣を受け取って女神を生んでおり、これが宗像三神である。誓約が終わったあと天照大神と素戔嗚尊は剣と勾玉を返すという形でお互いに生んだ子を取り替えた。そのため天忍穗耳尊たちは勾玉の持ち主である天照大神の子とされている。

    本殿の右にあるのは別山社。
    ご祭神は、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)

    調べてみると、
    天忍穗耳尊は素戔嗚尊が天で自身の清い心を示すために生んだ五皇子の長男である。『日本書紀』神代紀第六段によると素戔嗚尊は姉の天照大神の前で「自分の心が清らかならば男神が生まれ、そうでなければ女神が生まれる」と誓約(うけい)を行ったという。そして姉から借り受けた勾玉をカリカリと噛んで掃き出し五皇子を生んだ。誓約に勝った素戔嗚尊の勝ち名乗りが「正哉吾勝」「勝速日」と考えられ一番最初に生まれた天忍穗耳尊の名前の一部となっている。天照大神も同時に素戔嗚尊から剣を受け取って女神を生んでおり、これが宗像三神である。誓約が終わったあと天照大神と素戔嗚尊は剣と勾玉を返すという形でお互いに生んだ子を取り替えた。そのため天忍穗耳尊たちは勾玉の持ち主である天照大神の子とされている。

  • こんな道で参道から森を抜けて発掘調査地の方へ行きます。

    こんな道で参道から森を抜けて発掘調査地の方へ行きます。

  • 神社の森を抜けるとこんな広がりがあり、かつての寺町跡の遺跡を見ようと急ぐのですが、想像以上に広範で発掘中のようで辿り着けそうもありません。<br /><br />途中で引き返しました。

    神社の森を抜けるとこんな広がりがあり、かつての寺町跡の遺跡を見ようと急ぐのですが、想像以上に広範で発掘中のようで辿り着けそうもありません。

    途中で引き返しました。

  • 平泉寺白山神社は白山国立公園の中にあるんですね。

    平泉寺白山神社は白山国立公園の中にあるんですね。

  • ギリギリ、バスに間に合いたした。バスは一旦中心部に戻り、一山超えて新しい温泉や、住宅街を抜けてまた中心部に戻ってきました。<br /><br />バスから見る限りではさほど大きな町ではないようでしたから、ドライバーさんに一停車場前のサンプラザで下ろしてくださいと言いました。<br /><br />無愛想なドライバーさんが、もし時間があるなら寄っていけば、と示唆してくれた所がここです。同乗していたおばあさんは、入場料がかかるし、面白くないよ、と言ってましたが。<br /><br />入場無料でした。さらに勝山市について少し理解することができ、さらには人生初体験もでき、とても良かったです。

    ギリギリ、バスに間に合いたした。バスは一旦中心部に戻り、一山超えて新しい温泉や、住宅街を抜けてまた中心部に戻ってきました。

    バスから見る限りではさほど大きな町ではないようでしたから、ドライバーさんに一停車場前のサンプラザで下ろしてくださいと言いました。

    無愛想なドライバーさんが、もし時間があるなら寄っていけば、と示唆してくれた所がここです。同乗していたおばあさんは、入場料がかかるし、面白くないよ、と言ってましたが。

    入場無料でした。さらに勝山市について少し理解することができ、さらには人生初体験もでき、とても良かったです。

  • 「ゆめお~れ勝山」は、勝山市指定文化財、近代化産業遺産です。<br /><br />明治37年から大正4年にかけて建てられた絹の羽二重の織物工場です。<br /><br />黒板にチョーク書きというのも珍しいですね。

    「ゆめお~れ勝山」は、勝山市指定文化財、近代化産業遺産です。

    明治37年から大正4年にかけて建てられた絹の羽二重の織物工場です。

    黒板にチョーク書きというのも珍しいですね。

  • うじゃうじゃ、生きているお蚕さんを見るのは初めてです。

    うじゃうじゃ、生きているお蚕さんを見るのは初めてです。

  • 勝山の機屋、ギャラリー

    勝山の機屋、ギャラリー

  • 当時の織り機。二階に展示されていました。行ったことないけれど富岡製糸場ってこんな雰囲気なのかしら?

    当時の織り機。二階に展示されていました。行ったことないけれど富岡製糸場ってこんな雰囲気なのかしら?

  • さて、私が人生初体験をしたのは一階のこちらです。

    さて、私が人生初体験をしたのは一階のこちらです。

  • 織り機を初めて使いました。<br /><br />すでに縦糸は張ってあるので、横糸を通していくだけです。

    織り機を初めて使いました。

    すでに縦糸は張ってあるので、横糸を通していくだけです。

  • 麻糸でコースターを作りました。500円。<br /><br />真剣に織ったので15分で完成。(初めての人は30分くらいみてくださいと言われたのですが)(ドヤ顔!)<br /><br />出来不出来ではなく、自分で織ったということに意義あり。今年の夏は大いに使いましょう!

    麻糸でコースターを作りました。500円。

    真剣に織ったので15分で完成。(初めての人は30分くらいみてくださいと言われたのですが)(ドヤ顔!)

    出来不出来ではなく、自分で織ったということに意義あり。今年の夏は大いに使いましょう!

  • すごい織り機に関しては歴史がある勝山市です。足を使って織物をしていたと思われる、弥生時代!

    すごい織り機に関しては歴史がある勝山市です。足を使って織物をしていたと思われる、弥生時代!

  • 弥生時代の織り機、織り方を復元したものの説明です。

    弥生時代の織り機、織り方を復元したものの説明です。

  • 古代、このような織物を織っていたとは!

    古代、このような織物を織っていたとは!

  • 2017年、桐生祥秀選手が日本人初の10秒の壁を突破した時に履いていた靴の中の下敷の生地は勝山市内の工場で作られたものなんだそうです。

    2017年、桐生祥秀選手が日本人初の10秒の壁を突破した時に履いていた靴の中の下敷の生地は勝山市内の工場で作られたものなんだそうです。

  • 9.97の記録を出した時に履いていたのと同じモデルの靴。カッコイイ!

    9.97の記録を出した時に履いていたのと同じモデルの靴。カッコイイ!

  • 「ゆめお~れ勝山」の外の市民の憩いの場?または観光客のためのスペース?なんでもよろしい。居心地良さそうなオープンスペースがありました。しかし、暑い&#9728;️

    「ゆめお~れ勝山」の外の市民の憩いの場?または観光客のためのスペース?なんでもよろしい。居心地良さそうなオープンスペースがありました。しかし、暑い☀️

  • 向かいにあるサンプラザでお買い物。たくさんの種類のお餅が並んでいて迷います。

    向かいにあるサンプラザでお買い物。たくさんの種類のお餅が並んでいて迷います。

  • 地方の甘味が好きなのは、材料に添加物などを使用してないからです。田舎へ行けば行くほど、まだまだ素朴な、日持ちしない食べ物が食べられるのは嬉しいです。<br /><br />「塩えんどうもち」の材料は、餅米(国産)、えんどう豆、食塩だけですよ!製造元も市内です!

    地方の甘味が好きなのは、材料に添加物などを使用してないからです。田舎へ行けば行くほど、まだまだ素朴な、日持ちしない食べ物が食べられるのは嬉しいです。

    「塩えんどうもち」の材料は、餅米(国産)、えんどう豆、食塩だけですよ!製造元も市内です!

  • またまた曇ってきました。一雨くるかも。九頭竜川を渡って勝山駅へ向かいます。

    またまた曇ってきました。一雨くるかも。九頭竜川を渡って勝山駅へ向かいます。

  • 九頭竜川。<br /><br />川石を修行僧が平泉寺まで運んだんですね。室町時代に。手作業で。大変な労力でした。

    九頭竜川。

    川石を修行僧が平泉寺まで運んだんですね。室町時代に。手作業で。大変な労力でした。

  • えちぜん鉄道のアテンダントさん。最初は誰?と、驚きました。<br /><br />話しかけて、永平寺口駅から永平寺までのバスの時刻などを教えていただきました。<br /><br />お仕事についてもお聞きしました。日中の観光客やシニアの方のサポートとおっしゃってました。なるほど地道なできることはなんでもやって利用者が増えていったんですね。<br /><br />写真撮影と掲載のOKもいただきました。

    えちぜん鉄道のアテンダントさん。最初は誰?と、驚きました。

    話しかけて、永平寺口駅から永平寺までのバスの時刻などを教えていただきました。

    お仕事についてもお聞きしました。日中の観光客やシニアの方のサポートとおっしゃってました。なるほど地道なできることはなんでもやって利用者が増えていったんですね。

    写真撮影と掲載のOKもいただきました。

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