桜井・三輪・山の辺の道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
奈良県桜井市初瀬に鎮まる長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、正式寺号を「豊山神楽院長谷寺」と言い、全国に3千余の末寺を持ちます。奈良から伊勢へと続く初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に佇み、「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に照る月は みちかけしけり 人の常なき」と『万葉集』に詠まれるなど、古来奥深い山に隠れた里であり、神が籠る聖なる地でした。また、長谷寺は『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』などの仮名文学作品にも度々登場する古刹です。更には、西国巡礼を復興させた花山(かざん)法皇は、長谷寺に深く帰依し、「いくたびも まいる心は はつせでら 山も誓いも 深き谷川」と讃えました。これが、長谷寺のご詠歌です。<br />創建は奈良時代の686(朱鳥元)年、道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願して『銅板法華説相図』を西の岡の石室に安置したのが始まりです。その後、727(神亀4)年、道明の弟子 徳道上人が聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩像を造立し、平安時代には有数の観音霊場として信仰を集めました。また、摂関政治で有名な藤原道長をはじめ、北条政子や松尾芭蕉、幸田露伴、白洲正子たちが「初瀬詣で」と称して参詣したことでも知られています。<br />本堂や『長谷寺経』、『銅板法華経相図』が国宝、仁王門や十一面観世音菩薩像、登廊などが重文に指定されています。四季折々に咲く花を愛でるもよし、本堂の舞台からの佳景に息を呑むもよし、また法話に傾聴するもよし・・・。<br />http://www.hasedera.or.jp/

あをによし 隠国の泊瀬逍遥③長谷寺<前編>

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2019/05/02 - 2019/05/02

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

奈良県桜井市初瀬に鎮まる長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、正式寺号を「豊山神楽院長谷寺」と言い、全国に3千余の末寺を持ちます。奈良から伊勢へと続く初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に佇み、「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に照る月は みちかけしけり 人の常なき」と『万葉集』に詠まれるなど、古来奥深い山に隠れた里であり、神が籠る聖なる地でした。また、長谷寺は『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』などの仮名文学作品にも度々登場する古刹です。更には、西国巡礼を復興させた花山(かざん)法皇は、長谷寺に深く帰依し、「いくたびも まいる心は はつせでら 山も誓いも 深き谷川」と讃えました。これが、長谷寺のご詠歌です。
創建は奈良時代の686(朱鳥元)年、道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願して『銅板法華説相図』を西の岡の石室に安置したのが始まりです。その後、727(神亀4)年、道明の弟子 徳道上人が聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩像を造立し、平安時代には有数の観音霊場として信仰を集めました。また、摂関政治で有名な藤原道長をはじめ、北条政子や松尾芭蕉、幸田露伴、白洲正子たちが「初瀬詣で」と称して参詣したことでも知られています。
本堂や『長谷寺経』、『銅板法華経相図』が国宝、仁王門や十一面観世音菩薩像、登廊などが重文に指定されています。四季折々に咲く花を愛でるもよし、本堂の舞台からの佳景に息を呑むもよし、また法話に傾聴するもよし・・・。
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旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 境内案内図<br />http://www.hasedera.or.jp/guide/?PHPSESSID=c6do45bghkog8chcfa48a3b5v7

    境内案内図
    http://www.hasedera.or.jp/guide/?PHPSESSID=c6do45bghkog8chcfa48a3b5v7

  • 全国に「長谷寺」もしくは「長谷観音」と名の付く寺院は300ヶ寺あり、また真言宗豊山派の寺院は全国に3千余の末寺、僧侶数5千人、檀信徒数2百万人とも言われています。<br />豊山派の派名「豊山」は、長谷寺の山号「豊山」に由来します。また長谷寺の名も、この地が「初瀬(はつせ、はせ)」、「泊瀬(はつせ)」などと呼ばれていたことから、「初瀬寺」や「泊瀬寺」から長い峡谷状の地形に因んで「長谷寺」に転化したとされます。

    全国に「長谷寺」もしくは「長谷観音」と名の付く寺院は300ヶ寺あり、また真言宗豊山派の寺院は全国に3千余の末寺、僧侶数5千人、檀信徒数2百万人とも言われています。
    豊山派の派名「豊山」は、長谷寺の山号「豊山」に由来します。また長谷寺の名も、この地が「初瀬(はつせ、はせ)」、「泊瀬(はつせ)」などと呼ばれていたことから、「初瀬寺」や「泊瀬寺」から長い峡谷状の地形に因んで「長谷寺」に転化したとされます。

  • 石燈籠と長谷寺式石観音<br />朱色の高欄がある石段の脇に佇む石燈籠と石観音です。<br />石燈籠は1816(文化13)年の造立、石観音は自然石を舟形に彫り窪めた中に十一面観音像を薄肉彫りしています。細部は風化していますが、錫杖と水瓶を持ち、長谷寺本尊と同じ長谷式十一面観音像です。地元の人に親しまれ供花が絶えません。<br />背後の火灯窓のある建屋が総受付です。参詣客の休憩所として使われ、山内の火事除けのための「秋葉権現」を祀っています。

    石燈籠と長谷寺式石観音
    朱色の高欄がある石段の脇に佇む石燈籠と石観音です。
    石燈籠は1816(文化13)年の造立、石観音は自然石を舟形に彫り窪めた中に十一面観音像を薄肉彫りしています。細部は風化していますが、錫杖と水瓶を持ち、長谷寺本尊と同じ長谷式十一面観音像です。地元の人に親しまれ供花が絶えません。
    背後の火灯窓のある建屋が総受付です。参詣客の休憩所として使われ、山内の火事除けのための「秋葉権現」を祀っています。

  • 総受付の前を通り過ぎると、左手に南無十一面観世音菩薩文字碑と長谷寺御詠歌碑が並んで立っています。「いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたに川」。<br />これは花山天皇の御製です。『拾遺和歌集』を御撰するなど芸術的な才能のある人物でした。17歳で即位するも、有力な後ろ盾もなく、また妻が子を宿したまま薨去したことが発端となり、僅か2年で退位し出家しました。この「寛和の変」を、史書は藤原道兼とその父 兼家の陰謀だと説きます。愛妃と宿した子を亡くした失意の中、策略で退位させられた花山天皇の無念はいかばかりだったでしょう。<br />その悲憤を鎮めるかのように仏道修行に励み、西国三十三所巡礼を復興させ、三十三ヶ所の観音霊場を回って和歌を詠みました。それが西国三十三所のご詠歌です。

    総受付の前を通り過ぎると、左手に南無十一面観世音菩薩文字碑と長谷寺御詠歌碑が並んで立っています。 「いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたに川」。
    これは花山天皇の御製です。『拾遺和歌集』を御撰するなど芸術的な才能のある人物でした。17歳で即位するも、有力な後ろ盾もなく、また妻が子を宿したまま薨去したことが発端となり、僅か2年で退位し出家しました。この「寛和の変」を、史書は藤原道兼とその父 兼家の陰謀だと説きます。愛妃と宿した子を亡くした失意の中、策略で退位させられた花山天皇の無念はいかばかりだったでしょう。
    その悲憤を鎮めるかのように仏道修行に励み、西国三十三所巡礼を復興させ、三十三ヶ所の観音霊場を回って和歌を詠みました。それが西国三十三所のご詠歌です。

  • 塔頭 普門院不動堂<br />参道を進むと右手に塔頭 普門院があります。唐破風向拝にある虹梁の上には扁額「大聖不動明王」が掲げられています。堂宇は、左右に分かれた昇高欄がアクセントになっています。入口と堂宇右前に植えられた藤が満開でした。<br />普門院不動堂の本尊 不動明王坐像は、平安時代後期に興教大師(覚鑁上人)が彫ったものと伝えられ、重文に指定されています。この像は、元々は三輪山坐大神神社の供僧寺である平等寺に祀られていたものですが、明治時代の廃仏毀釈で平等寺が廃寺となり、1875(明治8)年に普門院不動堂の本尊として迎えられました。

    塔頭 普門院不動堂
    参道を進むと右手に塔頭 普門院があります。唐破風向拝にある虹梁の上には扁額「大聖不動明王」が掲げられています。堂宇は、左右に分かれた昇高欄がアクセントになっています。入口と堂宇右前に植えられた藤が満開でした。
    普門院不動堂の本尊 不動明王坐像は、平安時代後期に興教大師(覚鑁上人)が彫ったものと伝えられ、重文に指定されています。この像は、元々は三輪山坐大神神社の供僧寺である平等寺に祀られていたものですが、明治時代の廃仏毀釈で平等寺が廃寺となり、1875(明治8)年に普門院不動堂の本尊として迎えられました。

  • 塔頭 普門院不動堂 阿波野青畝(せいほ)の句碑<br />「今日の月 長いすすきを 生けにけり」。理屈無用、説明不要のストレートな句です。夏井先生にかかれば、「月とすすきとで季重なり」と酷評されるかもしれません。もっとも、同季の場合は比較的許容されるそうですが・・・。<br />1943(昭和18)年、阿波野青畝は高浜虚子等と共に長谷寺を参詣しています。青畝は、少年期に難聴になり、中学から上の学校への進学を断念せざるを得ない絶望から、『万葉集』をはじめ、読書に耽る毎日を過ごしました。これが後の俳句創作に拍車を掛けることになり、19歳の時、「虫の灯に 読み昂りぬ 耳しひ児」と詠んでいます。

    塔頭 普門院不動堂 阿波野青畝(せいほ)の句碑
    「今日の月 長いすすきを 生けにけり」。理屈無用、説明不要のストレートな句です。夏井先生にかかれば、「月とすすきとで季重なり」と酷評されるかもしれません。もっとも、同季の場合は比較的許容されるそうですが・・・。
    1943(昭和18)年、阿波野青畝は高浜虚子等と共に長谷寺を参詣しています。青畝は、少年期に難聴になり、中学から上の学校への進学を断念せざるを得ない絶望から、『万葉集』をはじめ、読書に耽る毎日を過ごしました。これが後の俳句創作に拍車を掛けることになり、19歳の時、「虫の灯に 読み昂りぬ 耳しひ児」と詠んでいます。

  • 水盤<br />拝観受付の手前に大きな水盤があり、珍しい石亀の吐水口を持ちます。<br />水盤には1358(正平13)年の銘が刻まれ、巨石を穿って造った楕円形の大きな浴槽だったと考えられています。石亀は、後世に取り付けられたものだそうです。

    水盤
    拝観受付の手前に大きな水盤があり、珍しい石亀の吐水口を持ちます。
    水盤には1358(正平13)年の銘が刻まれ、巨石を穿って造った楕円形の大きな浴槽だったと考えられています。石亀は、後世に取り付けられたものだそうです。

  • 仁王門(重文)<br />石畳が続く参道の先に長谷寺の総門に当たる巨大な「仁王門」が聳えています。門前に立つとそのスケール感に驚かされます。両脇に仁王像(左:蜜迹金剛、右:那羅延金剛)が見守る、三間一戸、入母屋造、本瓦葺の重厚な楼門です。仁王門が創建されたのは一条天皇在位中の986~1011年間とされますが、度重なる火災に遭い、1882(明治15)年の火災で仁王門、下登廊、中登廊が焼失しました。現在の総門は1894(明治27)年の再建になります。1989(平成元)年の大修理の後、2017年に保存修理が完了しました。

    仁王門(重文)
    石畳が続く参道の先に長谷寺の総門に当たる巨大な「仁王門」が聳えています。門前に立つとそのスケール感に驚かされます。両脇に仁王像(左:蜜迹金剛、右:那羅延金剛)が見守る、三間一戸、入母屋造、本瓦葺の重厚な楼門です。仁王門が創建されたのは一条天皇在位中の986~1011年間とされますが、度重なる火災に遭い、1882(明治15)年の火災で仁王門、下登廊、中登廊が焼失しました。現在の総門は1894(明治27)年の再建になります。1989(平成元)年の大修理の後、2017年に保存修理が完了しました。

  • 仁王門<br />奈良と鎌倉には大規模な長谷寺がありますが、両者にはどんな関係があるのでしょうか?<br />共に長谷寺という名称、最大級の十一面観世音菩薩像を本尊とする寺院です。また、奈良の長谷寺は西国三十三観音霊場、鎌倉は坂東三十三観音霊場と、共に観音霊場です。更に、開山は共に徳道上人です。しかし肝心の宗派は、真言宗豊山派と浄土宗系の単立であり、一致しません。<br />寺院の縁起に関しては「徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが奈良の長谷寺であり、もう1体を海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開山したのが鎌倉の長谷寺」との伝承があります。<br />また、鎌倉の長谷寺の旅行記にも記しましたが、鎌倉 長谷寺の遺物「梵鐘」には新長谷寺と書かれています。しかし、鎌倉の長谷寺の観音像の縁起については伝説の域を脱していません。<br />これらの縁起や遺物から推察すると、奈良の長谷寺の教義が鎌倉に持ち込まれたと考えるのが自然です。その後、奈良の長谷寺は専誉僧正により真言宗豊山派の大本山の道を歩み、鎌倉の長谷寺は十一面観音像の守護を続けて現在に至ったと思われます。

    仁王門
    奈良と鎌倉には大規模な長谷寺がありますが、両者にはどんな関係があるのでしょうか?
    共に長谷寺という名称、最大級の十一面観世音菩薩像を本尊とする寺院です。また、奈良の長谷寺は西国三十三観音霊場、鎌倉は坂東三十三観音霊場と、共に観音霊場です。更に、開山は共に徳道上人です。しかし肝心の宗派は、真言宗豊山派と浄土宗系の単立であり、一致しません。
    寺院の縁起に関しては「徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが奈良の長谷寺であり、もう1体を海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開山したのが鎌倉の長谷寺」との伝承があります。
    また、鎌倉の長谷寺の旅行記にも記しましたが、鎌倉 長谷寺の遺物「梵鐘」には新長谷寺と書かれています。しかし、鎌倉の長谷寺の観音像の縁起については伝説の域を脱していません。
    これらの縁起や遺物から推察すると、奈良の長谷寺の教義が鎌倉に持ち込まれたと考えるのが自然です。その後、奈良の長谷寺は専誉僧正により真言宗豊山派の大本山の道を歩み、鎌倉の長谷寺は十一面観音像の守護を続けて現在に至ったと思われます。

  • 仁王門<br />軒は二軒繁垂木、組物は三手先組、虹梁の上方に鳳凰や龍、獅子、麒麟などの彫刻を配しています。<br />上階には釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られており、門の東側には5月中旬~6月中旬まで、藤の花が咲き誇ります。

    仁王門
    軒は二軒繁垂木、組物は三手先組、虹梁の上方に鳳凰や龍、獅子、麒麟などの彫刻を配しています。
    上階には釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られており、門の東側には5月中旬~6月中旬まで、藤の花が咲き誇ります。

  • 仁王門<br />扁額「長谷寺」の額字は、安土桃山時代の1588(天正16)年に賜った後陽成天皇の宸筆を再鋳造したものです。

    仁王門
    扁額「長谷寺」の額字は、安土桃山時代の1588(天正16)年に賜った後陽成天皇の宸筆を再鋳造したものです。

  • 仁王門<br />虹梁の上にはつがいの鳳凰、その上には親子の唐獅子と牡丹が彫られています。<br /><br />全国に300ヶ寺ある「長谷寺」もしくは「長谷観音」の中で、「日本三所長谷観音」と呼ばれるのは奈良と鎌倉、もうひとつは信州更級(長野市篠ノ井塩崎)の長谷観音です。信州の長谷観音は、善光寺阿弥陀如来のお告げにより大和初瀬より勧請した十一面観音像を祀る寺院です。<br />何故、数多ある長谷観音の中から信州の長谷観音が選ばれたのでしょうか?<br />それは「最古の長谷観音」との草創説話に拠ります。鎌倉時代の奈良の長谷寺の聖たちによって編纂された古文書『長谷寺霊験記』には信州更級郡の長谷寺が紹介されており、要約すると「奈良の長谷寺が建立される100年前に信州の長谷寺が建立された」と記されています。この内容については、かの柳田国男氏も注目されたそうです。<br />寺院のHPを確認すると、確かに開基は637(舒明9)年となっています。また、長谷観音開山伝説「シラスケ物語」をHPで紹介されていますので、興味のある方はそちらで詳細をチェックしてください。<br />http://www.hasedera.net/main/shirasuke/index.html

    仁王門
    虹梁の上にはつがいの鳳凰、その上には親子の唐獅子と牡丹が彫られています。

    全国に300ヶ寺ある「長谷寺」もしくは「長谷観音」の中で、「日本三所長谷観音」と呼ばれるのは奈良と鎌倉、もうひとつは信州更級(長野市篠ノ井塩崎)の長谷観音です。信州の長谷観音は、善光寺阿弥陀如来のお告げにより大和初瀬より勧請した十一面観音像を祀る寺院です。
    何故、数多ある長谷観音の中から信州の長谷観音が選ばれたのでしょうか?
    それは「最古の長谷観音」との草創説話に拠ります。鎌倉時代の奈良の長谷寺の聖たちによって編纂された古文書『長谷寺霊験記』には信州更級郡の長谷寺が紹介されており、要約すると「奈良の長谷寺が建立される100年前に信州の長谷寺が建立された」と記されています。この内容については、かの柳田国男氏も注目されたそうです。
    寺院のHPを確認すると、確かに開基は637(舒明9)年となっています。また、長谷観音開山伝説「シラスケ物語」をHPで紹介されていますので、興味のある方はそちらで詳細をチェックしてください。
    http://www.hasedera.net/main/shirasuke/index.html

  • 仁王門<br />下段は麒麟、上段は唐獅子牡丹です。<br /><br />『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に記され、誰もが知るお伽話『わらしべ長者』の舞台とされるのが「長谷寺」です。単に物々交換でお金持ちになる物語ではなく、熱心に観音信仰を続けた若者が、観音様のお告げを受けて幸せになっていく、観音様が現世利益を授けてくれるお話です。 <br />貧乏な男が長谷観音に21日間の祈願をし、満願の日に「寺を出て、最初に掴んだものがお前に授けるものである」とのお告げを受けました。男は寺を出た所で躓いて転んで1本の藁を掴み、その藁をお告げ通りに大切にすることにしました。するとアブが周りを飛び回り、それを捕まえて藁に括り付けました。すると牛車に乗った母子と出会い、子どもがアブを欲しがったのであげると、お礼にミカンをもらいました。その先で喉の渇きに苦しむ人と出会い、ミカンをあげるとお礼に反物をくれました。また少し歩くと侍と倒れた馬に出会いました。侍が 「反物と馬を交換しよう」 と言いだし、馬が可哀想に思って応じました。そして観音様に馬が元気になるように祈ると、馬はたちまち元気になりました。<br />ある屋敷の前を通ると、主人が地方に赴任するところで引越の準備に忙しそうでした。主人は男が連れている馬に目を留め「その馬を借りたい。その間、自分の屋敷の留守番を頼みたい。3年経って帰ってこなければ、屋敷を自分のものにしてよい」と交渉しました。男はそれを承諾しました。そして3年経っても主人は帰らず、屋敷は男のものとなり、わらしべ長者と呼ばれるようになりました。

    仁王門
    下段は麒麟、上段は唐獅子牡丹です。

    『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に記され、誰もが知るお伽話『わらしべ長者』の舞台とされるのが「長谷寺」です。単に物々交換でお金持ちになる物語ではなく、熱心に観音信仰を続けた若者が、観音様のお告げを受けて幸せになっていく、観音様が現世利益を授けてくれるお話です。 
    貧乏な男が長谷観音に21日間の祈願をし、満願の日に「寺を出て、最初に掴んだものがお前に授けるものである」とのお告げを受けました。男は寺を出た所で躓いて転んで1本の藁を掴み、その藁をお告げ通りに大切にすることにしました。するとアブが周りを飛び回り、それを捕まえて藁に括り付けました。すると牛車に乗った母子と出会い、子どもがアブを欲しがったのであげると、お礼にミカンをもらいました。その先で喉の渇きに苦しむ人と出会い、ミカンをあげるとお礼に反物をくれました。また少し歩くと侍と倒れた馬に出会いました。侍が 「反物と馬を交換しよう」 と言いだし、馬が可哀想に思って応じました。そして観音様に馬が元気になるように祈ると、馬はたちまち元気になりました。
    ある屋敷の前を通ると、主人が地方に赴任するところで引越の準備に忙しそうでした。主人は男が連れている馬に目を留め「その馬を借りたい。その間、自分の屋敷の留守番を頼みたい。3年経って帰ってこなければ、屋敷を自分のものにしてよい」と交渉しました。男はそれを承諾しました。そして3年経っても主人は帰らず、屋敷は男のものとなり、わらしべ長者と呼ばれるようになりました。

  • 仁王門<br />こちらの彫刻も同じ題材ですが、麒麟の髭が針金でできています。<br /><br />地元には、『わらしべ長者』とは異なる伝説もあります。<br />昔々、京の都に貧しい若侍がいました。侍は貧しさのあまり長谷寺に詣でる決意をし、観音様に「前世の因縁が悪く貧乏な私にも、観音様のご慈悲を与えてください」と祈りました。しかし、月詣でを続けましたが何の霊験もありませんでした。<br />妻は「熱心にお願いしてもご利益がないのは観音様に縁がないからです。もうお参りはお止めください」と諭しました。それでも侍は、月詣でを3年間続けることにしました。<br />やがて3年が経ち、最後の参詣を済ませた侍は、観音様の力でもどうにもならないのだと悟り、涙が止まりませんでした。京に戻った侍は、九条で死体を運ぶ人夫として働きました。ある日、死体を運ぼうとした時、あまりに重いため不思議に思って死体を確かめると、なんとそれは黄金でした。「これはどうしたことだ。観音様が哀れんでお与えになったのだ」と感謝しました。その後、侍は他に並ぶ者がないほど裕福になったということです。

    仁王門
    こちらの彫刻も同じ題材ですが、麒麟の髭が針金でできています。

    地元には、『わらしべ長者』とは異なる伝説もあります。
    昔々、京の都に貧しい若侍がいました。侍は貧しさのあまり長谷寺に詣でる決意をし、観音様に「前世の因縁が悪く貧乏な私にも、観音様のご慈悲を与えてください」と祈りました。しかし、月詣でを続けましたが何の霊験もありませんでした。
    妻は「熱心にお願いしてもご利益がないのは観音様に縁がないからです。もうお参りはお止めください」と諭しました。それでも侍は、月詣でを3年間続けることにしました。
    やがて3年が経ち、最後の参詣を済ませた侍は、観音様の力でもどうにもならないのだと悟り、涙が止まりませんでした。京に戻った侍は、九条で死体を運ぶ人夫として働きました。ある日、死体を運ぼうとした時、あまりに重いため不思議に思って死体を確かめると、なんとそれは黄金でした。「これはどうしたことだ。観音様が哀れんでお与えになったのだ」と感謝しました。その後、侍は他に並ぶ者がないほど裕福になったということです。

  • 仁王門<br />提灯を彷彿とさせる風雅な長谷型燈籠です。この燈籠は、写真家 篠山紀信氏の御母堂 篠山美和さんが御寄進されたものだそうです。<br />寺紋は「輪違(わちがい)紋」です。輪違紋とは、2つの輪を交差もしくは組み合わせた紋を言います。平安時代には人気の文様のひとつだったそうで、南北朝時代には高階氏が家紋に用いました。高階氏は、天武天皇の孫 長屋王との繋がりで藤原氏と姻戚関係を結び、それによって栄華を手にしました。同じく藤原氏の流れをくむ大名 脇坂氏もこれを家紋としています。この輪違紋は、吊るされた燈籠の底や本堂前の香炉、賽銭箱、登廊の瓦などに見られます。<br />「五七の桐紋」は、法起院の旅行記で記したように、他の真言宗各宗派と同様に桐紋を併用しているようです。また、豊山派祖 専誉を招いた豊臣秀長への感謝の意を表したものとも言われています。<br />ところで、「輪違」は何を意味するものなのでしょうか?<br />真言宗豊山派のHPでは、「仏さまと私たち衆生は、もとは同じで異なることはない『 凡聖不二 ( ぼんじょうふに )』という教えを表わす」と説明されています。噛み砕けば、凡人も聖者である仏陀も本質的には同じという意味です。2つの輪が互いに組み合っているのは、仏様と不悟の衆生とがしっかり結び、天地の調和の中に組み込むためと伝えます。<br />ところで輪違紋は、どことなく「シャネルのロゴ」を彷彿とさせます。ココがCのロゴを記した2枚の薄紙を手にした時、偶然に片方が裏返り、それを何気なく重ねたところ、シャネルのロゴマークが誕生したそうです。いずれも単純な図象ですが、それ故に集合のベン図のようにCの文字や輪が重なり合った共通部分には神様・仏様の真理が宿っているように思えてなりません。

    仁王門
    提灯を彷彿とさせる風雅な長谷型燈籠です。この燈籠は、写真家 篠山紀信氏の御母堂 篠山美和さんが御寄進されたものだそうです。
    寺紋は「輪違(わちがい)紋」です。輪違紋とは、2つの輪を交差もしくは組み合わせた紋を言います。平安時代には人気の文様のひとつだったそうで、南北朝時代には高階氏が家紋に用いました。高階氏は、天武天皇の孫 長屋王との繋がりで藤原氏と姻戚関係を結び、それによって栄華を手にしました。同じく藤原氏の流れをくむ大名 脇坂氏もこれを家紋としています。この輪違紋は、吊るされた燈籠の底や本堂前の香炉、賽銭箱、登廊の瓦などに見られます。
    「五七の桐紋」は、法起院の旅行記で記したように、他の真言宗各宗派と同様に桐紋を併用しているようです。また、豊山派祖 専誉を招いた豊臣秀長への感謝の意を表したものとも言われています。
    ところで、「輪違」は何を意味するものなのでしょうか?
    真言宗豊山派のHPでは、「仏さまと私たち衆生は、もとは同じで異なることはない『 凡聖不二 ( ぼんじょうふに )』という教えを表わす」と説明されています。噛み砕けば、凡人も聖者である仏陀も本質的には同じという意味です。2つの輪が互いに組み合っているのは、仏様と不悟の衆生とがしっかり結び、天地の調和の中に組み込むためと伝えます。
    ところで輪違紋は、どことなく「シャネルのロゴ」を彷彿とさせます。ココがCのロゴを記した2枚の薄紙を手にした時、偶然に片方が裏返り、それを何気なく重ねたところ、シャネルのロゴマークが誕生したそうです。いずれも単純な図象ですが、それ故に集合のベン図のようにCの文字や輪が重なり合った共通部分には神様・仏様の真理が宿っているように思えてなりません。

  • 仁王門<br />当方と同じく、優れた彫刻を写真に収めているのかと思いきや、「奉賀 令和元年」の看板を撮っているようです。<br /><br />似たような話で、地元に伝わる「安田の長者物語」という話もあります。<br />初瀬谷の南側の山は「岳(だけ)」と呼ばれ、それぞれ笠間岳、安田岳、雨師岳という名前で呼ばれていました。山を越えて安田の住人が何年も月詣りし、もう蓑しかないというところまで落ちぶれました。それでも、その蓑を長谷観音に供えました。すると、その帰り道に砂金を掘り当てたということです。南方の岳には、その長者の家の跡があり、長者屋敷という小字もあるそうです。

    仁王門
    当方と同じく、優れた彫刻を写真に収めているのかと思いきや、「奉賀 令和元年」の看板を撮っているようです。

    似たような話で、地元に伝わる「安田の長者物語」という話もあります。
    初瀬谷の南側の山は「岳(だけ)」と呼ばれ、それぞれ笠間岳、安田岳、雨師岳という名前で呼ばれていました。山を越えて安田の住人が何年も月詣りし、もう蓑しかないというところまで落ちぶれました。それでも、その蓑を長谷観音に供えました。すると、その帰り道に砂金を掘り当てたということです。南方の岳には、その長者の家の跡があり、長者屋敷という小字もあるそうです。

  • 登廊(のぼりろう)下登廊<br />仁王門を潜った先には屋根付きの階段が現れます。これを「登廊」と称し、本堂と共に長谷寺のシンボルになっています。日本では、多雨のため寺院は屋根付きの廊下を巡らす伝統があります。元々は中国渡来の木造建築ですが、西洋の石造建築には見られない特徴です。しかも、数ある廊下の中でも規模、構造、機能美と三拍子揃った傑作がこの登廊です。観音様がいらっしゃる補陀落浄土へ今から登っていくんだという、厳粛な気持ちにさせられます。

    登廊(のぼりろう)下登廊
    仁王門を潜った先には屋根付きの階段が現れます。これを「登廊」と称し、本堂と共に長谷寺のシンボルになっています。日本では、多雨のため寺院は屋根付きの廊下を巡らす伝統があります。元々は中国渡来の木造建築ですが、西洋の石造建築には見られない特徴です。しかも、数ある廊下の中でも規模、構造、機能美と三拍子揃った傑作がこの登廊です。観音様がいらっしゃる補陀落浄土へ今から登っていくんだという、厳粛な気持ちにさせられます。

  • 登廊 下登廊<br />平安時代の1039(長暦3)年、奈良 春日大社の宮司 中臣信清が子の病気平癒のお礼に寄進したと伝わります。<br />拝懸魚は鳳凰の彫刻、獅子口には玉を握った龍の瓦です。

    登廊 下登廊
    平安時代の1039(長暦3)年、奈良 春日大社の宮司 中臣信清が子の病気平癒のお礼に寄進したと伝わります。
    拝懸魚は鳳凰の彫刻、獅子口には玉を握った龍の瓦です。

  • 登廊 下登廊<br />登廊は、全長が108あるとされる人の煩悩に因んで百八間(約200m)、石段の段数は399段あり、下登廊・中登廊・上登廊の3廊に分かれ、天井には丸い形をした長谷型燈籠を2間毎に吊るしています。<br />399段を上り、400段目、四(死)を越えた所で本尊 十一面観音様にお会いするという舞台設定です。

    登廊 下登廊
    登廊は、全長が108あるとされる人の煩悩に因んで百八間(約200m)、石段の段数は399段あり、下登廊・中登廊・上登廊の3廊に分かれ、天井には丸い形をした長谷型燈籠を2間毎に吊るしています。
    399段を上り、400段目、四(死)を越えた所で本尊 十一面観音様にお会いするという舞台設定です。

  • 登廊 下登廊<br />登廊入口の両側にある柱の文字に注目です。<br />このお寺には神様も仏様も居られることを示す、表札代わりです。左に「諸天神祇在」、右に「諸佛経行砌」の文字を掲げています。<br />こうした神仏習合の元祖は宇佐八幡宮とされ、荒ぶる神が戦いに疲れ、殺生の罪を悔い、魂の救いを仏法に求めたのがはじまりです。<br />この周辺は、記念撮影される方が大勢居られ、大渋滞を引き起こしています。

    登廊 下登廊
    登廊入口の両側にある柱の文字に注目です。
    このお寺には神様も仏様も居られることを示す、表札代わりです。左に「諸天神祇在」、右に「諸佛経行砌」の文字を掲げています。
    こうした神仏習合の元祖は宇佐八幡宮とされ、荒ぶる神が戦いに疲れ、殺生の罪を悔い、魂の救いを仏法に求めたのがはじまりです。
    この周辺は、記念撮影される方が大勢居られ、大渋滞を引き起こしています。

  • 道明上人御廟塔<br />下登廊のとりかかり近くの右手に七重石塔(平安時代)があり、それが道明上人の御廟塔です。石塔には、相輪の代わりに笠石が載せられており、元は十三重石塔だったとも伝わります。<br />寺伝によれば、道明上人は、初瀬山の西の丘に本長谷寺と三重塔を建立した長谷寺の開祖とされています。

    道明上人御廟塔
    下登廊のとりかかり近くの右手に七重石塔(平安時代)があり、それが道明上人の御廟塔です。石塔には、相輪の代わりに笠石が載せられており、元は十三重石塔だったとも伝わります。
    寺伝によれば、道明上人は、初瀬山の西の丘に本長谷寺と三重塔を建立した長谷寺の開祖とされています。

  • 登廊 下登廊<br />古来、観音信仰の聖地と崇められてきた長谷寺は、一年を通じて多彩な花が咲き誇り、大和路の「花の御寺(みてら)」と称されています。春は桜や牡丹、シャクナゲ、夏はアジサイやハス、秋は紅葉やキンモクセイ、冬は寒牡丹やサザンカ、ロウバイなど、多用な花々が愛でられます。<br />その中で代表的なのが、例年5月の連休に見頃を迎える牡丹です。登廊の脇を赤やピンク、白色の花で色を添えます。約1.5万坪の牡丹園に150種類以上、7千株もあります。また、今では3千株にもなるアジサイも有名になり、特に「嵐の坂(あらしのさか)」と呼ばれる石段の両側に咲くアジサイの花が綺麗だそうです。

    登廊 下登廊
    古来、観音信仰の聖地と崇められてきた長谷寺は、一年を通じて多彩な花が咲き誇り、大和路の「花の御寺(みてら)」と称されています。春は桜や牡丹、シャクナゲ、夏はアジサイやハス、秋は紅葉やキンモクセイ、冬は寒牡丹やサザンカ、ロウバイなど、多用な花々が愛でられます。
    その中で代表的なのが、例年5月の連休に見頃を迎える牡丹です。登廊の脇を赤やピンク、白色の花で色を添えます。約1.5万坪の牡丹園に150種類以上、7千株もあります。また、今では3千株にもなるアジサイも有名になり、特に「嵐の坂(あらしのさか)」と呼ばれる石段の両側に咲くアジサイの花が綺麗だそうです。

  • 登廊 下登廊<br />大晦日の夜には、「観音万燈会」と言う、登廊の天井に吊るされた長谷型燈籠や両脇に配された石燈籠に灯が点され幻想的な灯の帯が本堂まで続く光景が見られるそうです。<br />ご覧のように下登廊の石段は段差が低いため、さほどきつくありません。しかし、下→中→上登廊と遷移するに連れて段差が高くなります。

    登廊 下登廊
    大晦日の夜には、「観音万燈会」と言う、登廊の天井に吊るされた長谷型燈籠や両脇に配された石燈籠に灯が点され幻想的な灯の帯が本堂まで続く光景が見られるそうです。
    ご覧のように下登廊の石段は段差が低いため、さほどきつくありません。しかし、下→中→上登廊と遷移するに連れて段差が高くなります。

  • 登廊 下登廊<br />石垣と白塀に囲まれた、登廊と本坊を結ぶ趣のあるトラバース路です。<br />石垣の上に佇むのが梅心院です。

    登廊 下登廊
    石垣と白塀に囲まれた、登廊と本坊を結ぶ趣のあるトラバース路です。
    石垣の上に佇むのが梅心院です。

  • 宗宝蔵(清浄院跡)<br />下登廊の途中には、長谷六坊と呼ばれる「歓喜院」、「宗宝蔵(清浄院跡)」、「梅心院」、「月輪院」、「慈眼院」、「金蓮院」の6つの子院が佇み、江戸時代にはこれらの子院が長谷寺の運営に重要な役割を果たしました。 <br />「慈眼院」は、1665(寛文5)年に長谷寺第8世 快壽僧正によって建立されました。名は、長谷寺本尊の観音様の眼差しを思わせるものがあります。

    宗宝蔵(清浄院跡)
    下登廊の途中には、長谷六坊と呼ばれる「歓喜院」、「宗宝蔵(清浄院跡)」、「梅心院」、「月輪院」、「慈眼院」、「金蓮院」の6つの子院が佇み、江戸時代にはこれらの子院が長谷寺の運営に重要な役割を果たしました。
    「慈眼院」は、1665(寛文5)年に長谷寺第8世 快壽僧正によって建立されました。名は、長谷寺本尊の観音様の眼差しを思わせるものがあります。

  • 宗宝蔵<br />宗宝蔵の前庭には、「幻の緑牡丹」と称される緑色の八重の花を咲かせる中国産の牡丹「豆緑(とうりょく)」が植えられています。約800年前の北宋時代、洛陽の植木職人が白い牡丹の根元に漢方薬を撒いたところ、緑色の花が咲いたと伝わります。残念ながらまだ固い蕾でした。この花はあまり開花しない品種とされ、花数も少ないそうです。<br />葉と同じ色合いのため、コントラスト的には映えませんが、その希少性ゆえに輝いています。

    宗宝蔵
    宗宝蔵の前庭には、「幻の緑牡丹」と称される緑色の八重の花を咲かせる中国産の牡丹「豆緑(とうりょく)」が植えられています。約800年前の北宋時代、洛陽の植木職人が白い牡丹の根元に漢方薬を撒いたところ、緑色の花が咲いたと伝わります。残念ながらまだ固い蕾でした。この花はあまり開花しない品種とされ、花数も少ないそうです。
    葉と同じ色合いのため、コントラスト的には映えませんが、その希少性ゆえに輝いています。

  • 宗宝蔵<br />牡丹は美しさと女性らしさを表す代表的な花です。<br />「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」にあやかり、座って牡丹を眺めれば、花言葉の「誠実」を絵に描いたような素敵な異性と巡り合えるかもしれません…。

    宗宝蔵
    牡丹は美しさと女性らしさを表す代表的な花です。
    「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」にあやかり、座って牡丹を眺めれば、花言葉の「誠実」を絵に描いたような素敵な異性と巡り合えるかもしれません…。

  • 宗宝蔵<br />この美しい花々を支えている縁の下の力持ちが牡丹の専門チームです。開花後の施肥や葉落とし、根の洗浄など、7~8名でお世話するそうです。しかし、剪定だけは一人で7千株もの剪定を行うそうです。来年も美しい花を咲かせてもらうため、株毎の花の状態を見極めて剪定するため、分業するのが困難だそうです。

    宗宝蔵
    この美しい花々を支えている縁の下の力持ちが牡丹の専門チームです。開花後の施肥や葉落とし、根の洗浄など、7~8名でお世話するそうです。しかし、剪定だけは一人で7千株もの剪定を行うそうです。来年も美しい花を咲かせてもらうため、株毎の花の状態を見極めて剪定するため、分業するのが困難だそうです。

  • 宗宝蔵<br />長谷寺は古くは『万葉集』に詠まれ、平安時代には数多の文化人が憧れ、そして訪れ、また自身の作品に遺した場所でもありました。例えば、女流文学では紫式部著『源氏物語(玉鬘)』、清少納言著『枕草子』、菅原孝標女著『更級日記』、藤原道綱母著『蜻蛉日記』など、王朝文学の舞台ともなっています。<br />隠国は、泊瀬(初瀬)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地を言いますが、歌枕としては「聖地」と解釈しても過言ではありません。男性のみならず女性たちの憧れの地も「初瀬」であり、明治・大正・昭和時代にも高浜虚子や阿波野青畝らに読まれてきました。<br />境内に点在する歌碑を辿れば、今も昔も変わらない景観が往時の文人を偲ばせます。

    宗宝蔵
    長谷寺は古くは『万葉集』に詠まれ、平安時代には数多の文化人が憧れ、そして訪れ、また自身の作品に遺した場所でもありました。例えば、女流文学では紫式部著『源氏物語(玉鬘)』、清少納言著『枕草子』、菅原孝標女著『更級日記』、藤原道綱母著『蜻蛉日記』など、王朝文学の舞台ともなっています。
    隠国は、泊瀬(初瀬)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地を言いますが、歌枕としては「聖地」と解釈しても過言ではありません。男性のみならず女性たちの憧れの地も「初瀬」であり、明治・大正・昭和時代にも高浜虚子や阿波野青畝らに読まれてきました。
    境内に点在する歌碑を辿れば、今も昔も変わらない景観が往時の文人を偲ばせます。

  • 宗宝蔵<br />清少納言は長谷寺に詣でて、『枕草子』に「市は たつの市 さとの市 つば市 大和にあまたある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにや、と心ことなり」と描写しています。つば市(椿市)は『源氏物語』「玉鬘」の重要な場所となっており、その場所は桜井市金屋とするのが通説となっています。<br />また、清少納言の心を捉えたのは若い僧侶たちの姿でした。呉階(くれはし)と呼ばれる階段のある長廊を、彼らが足駄を履いて恐れもなく上り下りし、お経を唱えている姿が如何にもこの場所に相応しく思い、「をかしけれ」と記しています。因みに、この時代には登廊は存在していません。

    宗宝蔵
    清少納言は長谷寺に詣でて、『枕草子』に「市は たつの市 さとの市 つば市 大和にあまたある中に、初瀬に詣づる人の必ずそこに泊るは、観音の縁あるにや、と心ことなり」と描写しています。つば市(椿市)は『源氏物語』「玉鬘」の重要な場所となっており、その場所は桜井市金屋とするのが通説となっています。
    また、清少納言の心を捉えたのは若い僧侶たちの姿でした。呉階(くれはし)と呼ばれる階段のある長廊を、彼らが足駄を履いて恐れもなく上り下りし、お経を唱えている姿が如何にもこの場所に相応しく思い、「をかしけれ」と記しています。因みに、この時代には登廊は存在していません。

  • 宗宝蔵<br />菅原孝標女も長谷寺に参籠して『更級日記』を綴り、見るもの聞くもの全てに新鮮な感動を覚え、心が浮き浮きする様な3日3晩の参籠の様子を描写しています。彼女は長谷寺に2回参籠しており、1回目の3日目の夜、御堂の方から「稲荷から賜ったご利益の杉だよ」という声が聞こえ、物を投げ出すようにするので、はっとして目が覚めると夢だったと記しています。長谷寺は夢を授けていただく寺でもあったようで、心が救われたと記しています。<br />因みに、菅原孝標女は少女時代に『源氏物語』を読み耽っていた文学少女だったそうです。

    宗宝蔵
    菅原孝標女も長谷寺に参籠して『更級日記』を綴り、見るもの聞くもの全てに新鮮な感動を覚え、心が浮き浮きする様な3日3晩の参籠の様子を描写しています。彼女は長谷寺に2回参籠しており、1回目の3日目の夜、御堂の方から「稲荷から賜ったご利益の杉だよ」という声が聞こえ、物を投げ出すようにするので、はっとして目が覚めると夢だったと記しています。長谷寺は夢を授けていただく寺でもあったようで、心が救われたと記しています。
    因みに、菅原孝標女は少女時代に『源氏物語』を読み耽っていた文学少女だったそうです。

  • 宗宝蔵<br />この「宗宝蔵」は、長谷寺の宝物庫として清浄院跡地に建立されました。春秋季には、長谷寺に伝わる国宝や重文等の宝物が公開されます。<br />建物内に入るやいなや、恰幅のいい閻魔大王坐像が右手に迫ってきて驚かされます。<br />ここにあった清浄院は、1943(昭和18)年頃に奈良県大和高田市にある長谷本寺の薬師堂として移築され、現存しています。

    宗宝蔵
    この「宗宝蔵」は、長谷寺の宝物庫として清浄院跡地に建立されました。春秋季には、長谷寺に伝わる国宝や重文等の宝物が公開されます。
    建物内に入るやいなや、恰幅のいい閻魔大王坐像が右手に迫ってきて驚かされます。
    ここにあった清浄院は、1943(昭和18)年頃に奈良県大和高田市にある長谷本寺の薬師堂として移築され、現存しています。

  • 宗宝蔵 銅板法華説相図 (国宝)<br />道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願して西の岡の石室に安置したとされるものです。<br />薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した押出し仏(7世紀)であり、『法華経』見宝塔品に説かれているように釈迦の説法中に宝塔が地中から出現したハイライト・シーンを表現しています。<br />下段に陰刻された319文字の銘文から、道明が天武天皇の病気平癒のために戌の年(686年)に聖造したと判り、これが長谷寺の草創について語る唯一の遺品とされています。文中に「敬造千仏多宝仏塔」とあることから、これを『千仏多宝仏塔』とも呼んでいます。<br />また、下段の両端には日本最古の金剛力士像が描かれています。白鳳文化の頃に造られた金剛力士像は丸い顔に飛び出たお腹が愛らしく、まさに日本の力士という風体です。一方、三重塔の下に佇む獅子は狛犬のようでもあります。<br />白鳳時代の作とされるも、戌年の解釈には諸説あります。銅版は現在、奈良国立博物館に寄託保管されており、通常、宗宝蔵にはレプリカが展示されています。<br />ただし、4月1日~5月31日の期間限定で奈良国立博物館より本物が里帰りしています。この銅板にも何度も火災を経た痕跡が窺えます。<br />この画像は、長谷寺のHPから引用させていただきました。<br />http://www.hasedera.or.jp/free/?id=652

    宗宝蔵 銅板法華説相図 (国宝)
    道明上人が天武天皇の病気平癒を祈願して西の岡の石室に安置したとされるものです。
    薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した押出し仏(7世紀)であり、『法華経』見宝塔品に説かれているように釈迦の説法中に宝塔が地中から出現したハイライト・シーンを表現しています。
    下段に陰刻された319文字の銘文から、道明が天武天皇の病気平癒のために戌の年(686年)に聖造したと判り、これが長谷寺の草創について語る唯一の遺品とされています。文中に「敬造千仏多宝仏塔」とあることから、これを『千仏多宝仏塔』とも呼んでいます。
    また、下段の両端には日本最古の金剛力士像が描かれています。白鳳文化の頃に造られた金剛力士像は丸い顔に飛び出たお腹が愛らしく、まさに日本の力士という風体です。一方、三重塔の下に佇む獅子は狛犬のようでもあります。
    白鳳時代の作とされるも、戌年の解釈には諸説あります。銅版は現在、奈良国立博物館に寄託保管されており、通常、宗宝蔵にはレプリカが展示されています。
    ただし、4月1日~5月31日の期間限定で奈良国立博物館より本物が里帰りしています。この銅板にも何度も火災を経た痕跡が窺えます。
    この画像は、長谷寺のHPから引用させていただきました。
    http://www.hasedera.or.jp/free/?id=652

  • 梅心院<br />玄関には唐破風を載せており、僧侶を養成する学校があります。<br />慶長初期(1603年頃)に徳川家光が長谷寺へ参詣した記念に建立させたものです。<br />

    梅心院
    玄関には唐破風を載せており、僧侶を養成する学校があります。
    慶長初期(1603年頃)に徳川家光が長谷寺へ参詣した記念に建立させたものです。

  • 下登廊<br />上登廊は1650(慶安3)年の再建、中登廊と下登廊は1894(明治27)年の再建です。下登廊は仁王門~繋屋まで、中登廊は繋屋~蔵王堂までをいい、共に切妻造、本瓦葺です(下登廊の南端は唐破風造)。上登廊は、蔵王堂~鐘楼までをいい、両下造、本瓦葺です。いずれも1986年に重文に指定されています。<br />登廊の脇では、1~2月には冬牡丹、4月下旬~5月上旬には牡丹の花が色を添えます。

    下登廊
    上登廊は1650(慶安3)年の再建、中登廊と下登廊は1894(明治27)年の再建です。下登廊は仁王門~繋屋まで、中登廊は繋屋~蔵王堂までをいい、共に切妻造、本瓦葺です(下登廊の南端は唐破風造)。上登廊は、蔵王堂~鐘楼までをいい、両下造、本瓦葺です。いずれも1986年に重文に指定されています。
    登廊の脇では、1~2月には冬牡丹、4月下旬~5月上旬には牡丹の花が色を添えます。

  • 『観音霊験記 西国巡礼第八番 大和(豊山)長谷寺、中臣信近』<br />歌川豊国と歌川廣重の合作(1859年頃の作)<br />登廊全体を見渡すと、3つの屋根を持ち、2箇所で折れ曲がっています。この形は、本堂建立の際、烏が蛇をくわえて飛んできたとの伝説に因んで蛇の形を模したとの伝承があります。<br />登廊を寄進した中臣信清の子 信近の病気平癒にまつわる伝説が『長谷寺霊験記』に記されています。医者も匙を投げ、父 信清は長谷寺に参籠し、母と祖母が信近を見守っていました。すると、観音堂の大戸から一羽の烏が飛んで来て、信近の蛇目丁(じゃがんちょう)という腫物をつつき、そこから五寸ほどの小蛇を引き出しました。そして、その蛇を口にくわえて南に向かって翔び去りました。信近はその後1時間ほど寝入ってから目を覚まし、ついに別事なく平癒したと伝えます。その後、信親は出世したとのことです。<br />この伝説は江戸時代の錦絵にもなっており、廣重美術館で見ることができます。<br />この画像は、次のサイトから引用させていただきました。<br />http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/saigoku/jrc/images/big08.html

    『観音霊験記 西国巡礼第八番 大和(豊山)長谷寺、中臣信近』
    歌川豊国と歌川廣重の合作(1859年頃の作)
    登廊全体を見渡すと、3つの屋根を持ち、2箇所で折れ曲がっています。この形は、本堂建立の際、烏が蛇をくわえて飛んできたとの伝説に因んで蛇の形を模したとの伝承があります。
    登廊を寄進した中臣信清の子 信近の病気平癒にまつわる伝説が『長谷寺霊験記』に記されています。医者も匙を投げ、父 信清は長谷寺に参籠し、母と祖母が信近を見守っていました。すると、観音堂の大戸から一羽の烏が飛んで来て、信近の蛇目丁(じゃがんちょう)という腫物をつつき、そこから五寸ほどの小蛇を引き出しました。そして、その蛇を口にくわえて南に向かって翔び去りました。信近はその後1時間ほど寝入ってから目を覚まし、ついに別事なく平癒したと伝えます。その後、信親は出世したとのことです。
    この伝説は江戸時代の錦絵にもなっており、廣重美術館で見ることができます。
    この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
    http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/saigoku/jrc/images/big08.html

  • 下登廊<br />藤原道綱母は『蜻蛉日記』に結婚生活の苦悩や夫 藤原兼家の浮気、他の妻や妾との確執を綴りましたが、そうした人間関係に悩み、ヒステリーを起して家出同然に長谷観音へ参籠しています。その帰途には、「はるばる宇治まで心配した夫が駆けつけてきた」と記しています。<br />平安時代は、一夫多妻制で通い婚が常でした。交通手段の限られている中、わざわざ彼女らが足を運んだ長谷寺は、恋と人生に悩む女性を助ける「駆け込み寺」のような存在だったのかもしれません。

    下登廊
    藤原道綱母は『蜻蛉日記』に結婚生活の苦悩や夫 藤原兼家の浮気、他の妻や妾との確執を綴りましたが、そうした人間関係に悩み、ヒステリーを起して家出同然に長谷観音へ参籠しています。その帰途には、「はるばる宇治まで心配した夫が駆けつけてきた」と記しています。
    平安時代は、一夫多妻制で通い婚が常でした。交通手段の限られている中、わざわざ彼女らが足を運んだ長谷寺は、恋と人生に悩む女性を助ける「駆け込み寺」のような存在だったのかもしれません。

  • 二本(ふたもと)の杉<br />下登廊の途中、宗宝蔵と月輪院の間の小道を東(右)へ暫く進むと、「二本の杉」に辿り着きます。『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)の巻」や『古今和歌集』に登場する、根の部分で繋がる2本の杉です。<br />母(夕顔)を尋ねて筑紫からやってきた玉鬘が、偶然、椿市の宿で母の侍女 右近と巡り会い、母の死を知った場所です。右近は、玉鬘との再会を念じ、初瀬詣でに通い続けていたのです。「玉鬘の巻」では、「二本の 杉の立ちどを 尋ねずは ふる川のべに 君を見ましや」(右近)と詠んでいます。こうしたことから、聖樹「二本の杉」は、復縁や再会のご利益があるとも言われています。尚、右近の歌は『古今和歌集』にある施頭歌「泊瀬川 ふる川野辺に 二本ある 杉年をへて またもあひ見む 二本の杉」の影響を受けたとされます。<br />また、能や謡曲『玉鬘』の所縁の地でもあります。金春禅竹(世阿弥の娘婿)作の能『玉鬘』では、玉鬘の化身(霊)が旅僧を長谷寺の「二本の杉」まで案内し、自分の数奇な運命を語り、僧の回向で彼女が成仏するという筋立てです。

    二本(ふたもと)の杉
    下登廊の途中、宗宝蔵と月輪院の間の小道を東(右)へ暫く進むと、「二本の杉」に辿り着きます。『源氏物語』の「玉鬘(たまかずら)の巻」や『古今和歌集』に登場する、根の部分で繋がる2本の杉です。
    母(夕顔)を尋ねて筑紫からやってきた玉鬘が、偶然、椿市の宿で母の侍女 右近と巡り会い、母の死を知った場所です。右近は、玉鬘との再会を念じ、初瀬詣でに通い続けていたのです。「玉鬘の巻」では、「二本の 杉の立ちどを 尋ねずは ふる川のべに 君を見ましや」(右近)と詠んでいます。こうしたことから、聖樹「二本の杉」は、復縁や再会のご利益があるとも言われています。尚、右近の歌は『古今和歌集』にある施頭歌「泊瀬川 ふる川野辺に 二本ある 杉年をへて またもあひ見む 二本の杉」の影響を受けたとされます。
    また、能や謡曲『玉鬘』の所縁の地でもあります。金春禅竹(世阿弥の娘婿)作の能『玉鬘』では、玉鬘の化身(霊)が旅僧を長谷寺の「二本の杉」まで案内し、自分の数奇な運命を語り、僧の回向で彼女が成仏するという筋立てです。

  • 二本の杉<br />『源氏物語(玉鬘の巻)』の件を紹介しましょう。<br />光源氏と契ってから生霊にとりつかれて亡くなった夕顔の忘れ形見「玉鬘」は、故あって筑紫へ身を隠していました。やがて美しく成長した玉鬘は、母に会いたい一心で旅へ出ます。その道中、夕顔の侍女であったが今は光源氏に仕えている右近と出会い、母の死を知ります。その際、右近の歌に玉鬘は「初瀬川 はやくのことは 知らねども 今日の逢う瀬に 身さへながれぬ」と返しました。その後玉鬘は、光源氏の娘として迎えられます。尚、江戸時代中期まで、玉鬘が暮らした玉鬘庵は、現在の宗宝蔵と駐車場の中間辺りにあったそうです。 <br />しかし物語とはいえ、何故唐突に筑紫から長谷寺に舞台が遷ったのでしょうか?往時から、観音様のご利益No.1は長谷寺との定評でもあったのかもしれません。因みに、紫式部は、「玉鬘の巻」で長谷観音の霊験を「仏の御中には、初瀬なむ、日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと、唐土にだに聞こえあむなり」と絶賛しています。勿論、これが後の長谷信仰の広告塔になったことは想像に難くありません。

    二本の杉
    『源氏物語(玉鬘の巻)』の件を紹介しましょう。
    光源氏と契ってから生霊にとりつかれて亡くなった夕顔の忘れ形見「玉鬘」は、故あって筑紫へ身を隠していました。やがて美しく成長した玉鬘は、母に会いたい一心で旅へ出ます。その道中、夕顔の侍女であったが今は光源氏に仕えている右近と出会い、母の死を知ります。その際、右近の歌に玉鬘は「初瀬川 はやくのことは 知らねども 今日の逢う瀬に 身さへながれぬ」と返しました。その後玉鬘は、光源氏の娘として迎えられます。尚、江戸時代中期まで、玉鬘が暮らした玉鬘庵は、現在の宗宝蔵と駐車場の中間辺りにあったそうです。
    しかし物語とはいえ、何故唐突に筑紫から長谷寺に舞台が遷ったのでしょうか?往時から、観音様のご利益No.1は長谷寺との定評でもあったのかもしれません。因みに、紫式部は、「玉鬘の巻」で長谷観音の霊験を「仏の御中には、初瀬なむ、日本の中にはあらたなる験あらはしたまふと、唐土にだに聞こえあむなり」と絶賛しています。勿論、これが後の長谷信仰の広告塔になったことは想像に難くありません。

  • 創建時の参道は「二本の杉」の付近にあったとされます。現在地に移ったのは、菅原道真が「観音堂」へ駆け登ったという故事に因み、人々がその道跡を辿るようになったためと伝わります。因みに、長谷寺の東側にある與喜天満神社の例大祭「初瀬まつり」は、946(天慶9)年に長谷寺へ上った道真の神霊が神となり初瀬に顕現したとの故事に由来します。<br />長谷寺は與喜天満宮との結び付きによって連歌や能楽との関係を強固にし、観世流の祖 観阿弥とその子の世阿弥は長谷観音のお告げにより「観と世」の名を賜ったと伝わります。親子の最初の文字を合わせると「観世」となり、これは観世音菩薩すなわち観音菩薩のことです。<br />尚、『長谷寺縁起文』は菅原道真が長谷寺の縁起を執筆した形を採りますが、実際は平安時代末~鎌倉時代に道真に仮託して書かれた文献とされます。しかし、『長谷寺霊験記』に先行する文献でもあり、長谷寺の縁起伝承を知るには不可欠な文献とされています。

    創建時の参道は「二本の杉」の付近にあったとされます。現在地に移ったのは、菅原道真が「観音堂」へ駆け登ったという故事に因み、人々がその道跡を辿るようになったためと伝わります。因みに、長谷寺の東側にある與喜天満神社の例大祭「初瀬まつり」は、946(天慶9)年に長谷寺へ上った道真の神霊が神となり初瀬に顕現したとの故事に由来します。
    長谷寺は與喜天満宮との結び付きによって連歌や能楽との関係を強固にし、観世流の祖 観阿弥とその子の世阿弥は長谷観音のお告げにより「観と世」の名を賜ったと伝わります。親子の最初の文字を合わせると「観世」となり、これは観世音菩薩すなわち観音菩薩のことです。
    尚、『長谷寺縁起文』は菅原道真が長谷寺の縁起を執筆した形を採りますが、実際は平安時代末~鎌倉時代に道真に仮託して書かれた文献とされます。しかし、『長谷寺霊験記』に先行する文献でもあり、長谷寺の縁起伝承を知るには不可欠な文献とされています。

  • 苔生したモノトーンの世界に浸りながら歩を進めます。

    苔生したモノトーンの世界に浸りながら歩を進めます。

  • 藤原俊成碑・定家塚<br />「二本の杉」からもう少し奥に進むと、鎌倉時代初期の歌人 藤原俊成とその息子 藤原定家を供養する石碑「藤原俊成碑・定家塚」が佇みます。<br />中央の五輪塔が「藤原定家塚」です。古くは、長谷寺の参道入口はこの付近にあったとされます。<br />藤原定家は、鎌倉時代の歌人で、正二位権中納言に至り、晩年に出家して法名を明静と名乗りました。『新古今和歌集』の撰者のひとりであり、『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者でもあります。「年も経ぬ いのるちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」と長谷寺の梵鐘を詠んでいます。<br />藤原俊成は、平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人で、正三位皇太后宮大夫に至り、五条三位と称され、『千載和歌集』を撰進しました。

    藤原俊成碑・定家塚
    「二本の杉」からもう少し奥に進むと、鎌倉時代初期の歌人 藤原俊成とその息子 藤原定家を供養する石碑「藤原俊成碑・定家塚」が佇みます。
    中央の五輪塔が「藤原定家塚」です。古くは、長谷寺の参道入口はこの付近にあったとされます。
    藤原定家は、鎌倉時代の歌人で、正二位権中納言に至り、晩年に出家して法名を明静と名乗りました。『新古今和歌集』の撰者のひとりであり、『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者でもあります。「年も経ぬ いのるちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」と長谷寺の梵鐘を詠んでいます。
    藤原俊成は、平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人で、正三位皇太后宮大夫に至り、五条三位と称され、『千載和歌集』を撰進しました。

  • 鎌倉時代の1227(安貞元)年には、源頼朝の妻にして尼将軍として有名な北条政子も詣でています。<br />

    鎌倉時代の1227(安貞元)年には、源頼朝の妻にして尼将軍として有名な北条政子も詣でています。

  • 下登廊<br />初夏の陽気に汗ばむ中にあって、高貴な雰囲気を漂わせる御衣黄(ぎょいこう)が咲いています。開花時の御衣黄は鮮やかな薄緑色をしていますが、咲き進むに連れて徐々に花芯部から赤みが増してきます。<br />御衣黄の歴史を辿ると、江戸時代に京都 仁和寺で栽培されたのが始まりとされます。名の由来は、御衣黄の花色が貴族の衣服の萌黄色に似ていることに因みます。新緑の鮮やかな緑とは一味違った、どこか清楚でノーブルな雰囲気を醸しています。

    下登廊
    初夏の陽気に汗ばむ中にあって、高貴な雰囲気を漂わせる御衣黄(ぎょいこう)が咲いています。開花時の御衣黄は鮮やかな薄緑色をしていますが、咲き進むに連れて徐々に花芯部から赤みが増してきます。
    御衣黄の歴史を辿ると、江戸時代に京都 仁和寺で栽培されたのが始まりとされます。名の由来は、御衣黄の花色が貴族の衣服の萌黄色に似ていることに因みます。新緑の鮮やかな緑とは一味違った、どこか清楚でノーブルな雰囲気を醸しています。

  • 下登廊<br />牡丹は、「百花の王」と称される中国渡来の花ゆえ、漢詩人、なかでも白楽天が好んで詠みました。菅原道真は白楽天を敬慕し、詩作の模範としたそうです。<br />白楽天の『牡丹芳』では次のように詠んでいます。<br />花開花落二十日 (花開き花落つること二十日)<br />一城之人皆若狂 (一城の人皆狂へるが若し)<br />また俳句でも牡丹の名句が多く詠まれていますが、絵心のあった与謝蕪村がことさら多くを詠んでいます。<br />「閻王の 口や牡丹を 吐かんとす」(蕪村句集)。

    下登廊
    牡丹は、「百花の王」と称される中国渡来の花ゆえ、漢詩人、なかでも白楽天が好んで詠みました。菅原道真は白楽天を敬慕し、詩作の模範としたそうです。
    白楽天の『牡丹芳』では次のように詠んでいます。
    花開花落二十日 (花開き花落つること二十日)
    一城之人皆若狂 (一城の人皆狂へるが若し)
    また俳句でも牡丹の名句が多く詠まれていますが、絵心のあった与謝蕪村がことさら多くを詠んでいます。
    「閻王の 口や牡丹を 吐かんとす」(蕪村句集)。

  • 月輪院(がちりんいん)<br />紀貫之の叔父 雲井坊浄真がこの奥の蔵王堂付近に住んでいたことに因む「雲井寮」を併設しています。<br />

    月輪院(がちりんいん)
    紀貫之の叔父 雲井坊浄真がこの奥の蔵王堂付近に住んでいたことに因む「雲井寮」を併設しています。

  • 天狗杉<br />下登廊を登り切った角部から天を突いて聳えるのが、樹高60m程ある天狗杉です。この杉の名は、元禄年間における第14世能化(住職)芙岳の小僧時代の逸話に因みます。<br />芙岳が登廊に吊られた燈籠に明かりを点していたところ、天狗が現れて明かりを消して回る悪戯が絶えませんでした。「よし、修行して長谷寺の能化となり、その暁には天狗の住む杉の木を一本残らず伐り払ってやる」と発奮して益々修行に励んだことで、その50年後に能化の栄職に就きました。その際、境内諸堂の修繕のため、この周辺にあった杉を伐採して用材にしようとしましたが、「能化となれたのも天狗のおかげ」と感謝の気持ちから残した一本だと伝わります。尚、天狗の正体は「ムササビ」であったとも・・・。

    天狗杉
    下登廊を登り切った角部から天を突いて聳えるのが、樹高60m程ある天狗杉です。この杉の名は、元禄年間における第14世能化(住職)芙岳の小僧時代の逸話に因みます。
    芙岳が登廊に吊られた燈籠に明かりを点していたところ、天狗が現れて明かりを消して回る悪戯が絶えませんでした。「よし、修行して長谷寺の能化となり、その暁には天狗の住む杉の木を一本残らず伐り払ってやる」と発奮して益々修行に励んだことで、その50年後に能化の栄職に就きました。その際、境内諸堂の修繕のため、この周辺にあった杉を伐採して用材にしようとしましたが、「能化となれたのも天狗のおかげ」と感謝の気持ちから残した一本だと伝わります。尚、天狗の正体は「ムササビ」であったとも・・・。

  • 月輪院前<br />ここは仁王門から続く登廊と山腹に佇む本堂を横から広く眺められるスポットです。  <br />京都 伏見稲荷大社の丹塗りの鳥居が連なる「千本鳥居」も佳景ですが、碧の杜に黒銀一色の瓦屋根が乱舞する景観はそれとはまた違った趣があります。真っ直ぐに貫かれた登廊は、観音様が住まう補陀落浄土といった異次元空間へナビゲートされるかのような不思議な感覚にさせられます。

    月輪院前
    ここは仁王門から続く登廊と山腹に佇む本堂を横から広く眺められるスポットです。
    京都 伏見稲荷大社の丹塗りの鳥居が連なる「千本鳥居」も佳景ですが、碧の杜に黒銀一色の瓦屋根が乱舞する景観はそれとはまた違った趣があります。真っ直ぐに貫かれた登廊は、観音様が住まう補陀落浄土といった異次元空間へナビゲートされるかのような不思議な感覚にさせられます。

  • 月輪院<br />境内にはお抹茶をいただけるスペースもあります。お抹茶やコーヒーなどがいただけ、お休処として人気です。<br />窓側のテーブル席からは四季の移ろいが見渡せる他、毛氈の上に直接座って寛げる座敷もあります。お抹茶は500円です。<br />お抹茶のお供の干菓子は、門前の和菓子店が長谷寺御用達として特別にあつらえているものだそうです。

    月輪院
    境内にはお抹茶をいただけるスペースもあります。お抹茶やコーヒーなどがいただけ、お休処として人気です。
    窓側のテーブル席からは四季の移ろいが見渡せる他、毛氈の上に直接座って寛げる座敷もあります。お抹茶は500円です。
    お抹茶のお供の干菓子は、門前の和菓子店が長谷寺御用達として特別にあつらえているものだそうです。

  • 月輪院<br />篆書体を崩した雑体書でしょうか、扁額の字体には興味深いものがあります。<br />右上の文字は雰囲気的に「長谷寺」と読めますが、右側の落款は「翠洞」と思われるので書道家・篆刻家 大久保翠洞( すいどう)師でしょうか?

    月輪院
    篆書体を崩した雑体書でしょうか、扁額の字体には興味深いものがあります。
    右上の文字は雰囲気的に「長谷寺」と読めますが、右側の落款は「翠洞」と思われるので書道家・篆刻家 大久保翠洞( すいどう)師でしょうか?

  • 下登廊<br />「初瀬の巒月(らんげつ)」と呼ばれる長谷寺にしかない牡丹の品種です。紅紫色の花弁の端が白く縁取られています。長谷の山々の峰が月に照らされている様子を表す名前だそうです。<br />

    下登廊
    「初瀬の巒月(らんげつ)」と呼ばれる長谷寺にしかない牡丹の品種です。紅紫色の花弁の端が白く縁取られています。長谷の山々の峰が月に照らされている様子を表す名前だそうです。

  • 繋屋(つなぎや)<br />下登廊と中登廊の接続部(屈折部)となる部位は繋屋と呼ばれます。<br />1889(明治22)年の再建とされ、切妻造、桟瓦葺、1986年に重文に指定されています。繋屋の左手にある石段を上がると左手に金蓮院があります。

    繋屋(つなぎや)
    下登廊と中登廊の接続部(屈折部)となる部位は繋屋と呼ばれます。
    1889(明治22)年の再建とされ、切妻造、桟瓦葺、1986年に重文に指定されています。 繋屋の左手にある石段を上がると左手に金蓮院があります。

  • 繋屋<br />少し小高い位置から撮ってみました。登廊は、ここで直角に折れます。<br /><br />『古事記』中の一大恋愛叙事詩と称される「衣通(そとおり)姫伝説」をご存知でしょうか?<br />允恭天皇亡き後に皇位継続を約束されていた木梨之軽太子(きなしのかるのみこ)が同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ)と密通し、大前小前宿禰に捕えられて伊予(愛媛県)の湯に流された後、追って来た軽大郎女と心中したという伝説です。<br />その時の軽太子の歌にも「隠国の泊瀬」が詠まれています。往時の都は遠飛鳥宮にあり、現在の奈良県高市郡明日香村周辺にありました。また、古代の泊瀬の山は、古代人にとって葬送の地でもあり、飛鳥藤原の都から死者への思いを込めて眺めやる深い谷でした。このことは柿本人麿の万葉歌にも見てとれます。<br />「こもりくの 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ」。<br />泊瀬の山々にいつまでも去りやらずにいる雲(火葬の煙)は、妻 土形娘子(ひじかたのおとめ)の変わり果てた姿でもあろうかという挽歌です。

    繋屋
    少し小高い位置から撮ってみました。登廊は、ここで直角に折れます。

    『古事記』中の一大恋愛叙事詩と称される「衣通(そとおり)姫伝説」をご存知でしょうか?
    允恭天皇亡き後に皇位継続を約束されていた木梨之軽太子(きなしのかるのみこ)が同母妹である軽大郎女(かるのおおいらつめ)と密通し、大前小前宿禰に捕えられて伊予(愛媛県)の湯に流された後、追って来た軽大郎女と心中したという伝説です。
    その時の軽太子の歌にも「隠国の泊瀬」が詠まれています。往時の都は遠飛鳥宮にあり、現在の奈良県高市郡明日香村周辺にありました。また、古代の泊瀬の山は、古代人にとって葬送の地でもあり、飛鳥藤原の都から死者への思いを込めて眺めやる深い谷でした。このことは柿本人麿の万葉歌にも見てとれます。
    「こもりくの 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ」。
    泊瀬の山々にいつまでも去りやらずにいる雲(火葬の煙)は、妻 土形娘子(ひじかたのおとめ)の変わり果てた姿でもあろうかという挽歌です。

  • 繋屋<br />流刑地の伊予まで追って来た軽大郎女を懐かしがり、軽太子が詠んだ歌が次のものです。軽大郎女が、立てた弓が倒れてもまた立ち上がり、再び倒れるようにして兄の元へ辿り着いた様子を詠んでいます。 <br />「隠国の 泊瀬の山の 大峰には 旗張り立て さ小峰には 旗張り立て 大小にし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ」。<br />もうひとつ、軽大郎女を愛しむ歌もあります。妻が故郷にいるなら帰ろうが、今はここで自分と一緒にいるので、家も故郷も恋しくはないと詠んでいます。<br />「泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を掛け 真杭には 真玉を掛け 真玉なす 我が思ふ妹 鏡なす 我が思う妻 有と言はばこそに 家にも行かめ 国をも偲はめ 」。<br />この歌を詠んだ後、2人が自刃したところでこの伝説は終わります。ですから、これら2つの 歌は「読歌(よみうた)」と言われています。

    繋屋
    流刑地の伊予まで追って来た軽大郎女を懐かしがり、軽太子が詠んだ歌が次のものです。軽大郎女が、立てた弓が倒れてもまた立ち上がり、再び倒れるようにして兄の元へ辿り着いた様子を詠んでいます。
    「隠国の 泊瀬の山の 大峰には 旗張り立て さ小峰には 旗張り立て 大小にし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥やる臥やりも 梓弓 起てり起てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ」。
    もうひとつ、軽大郎女を愛しむ歌もあります。妻が故郷にいるなら帰ろうが、今はここで自分と一緒にいるので、家も故郷も恋しくはないと詠んでいます。
    「泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を掛け 真杭には 真玉を掛け 真玉なす 我が思ふ妹 鏡なす 我が思う妻 有と言はばこそに 家にも行かめ 国をも偲はめ 」。
    この歌を詠んだ後、2人が自刃したところでこの伝説は終わります。ですから、これら2つの 歌は「読歌(よみうた)」と言われています。

  • 中廊廊<br />少しだけ石段の段差が高くなっているのが判りますか?<br />この程度ならまだ余裕です。

    中廊廊
    少しだけ石段の段差が高くなっているのが判りますか?
    この程度ならまだ余裕です。

  • 中登廊 「牛の眼」<br />中登廊の中間点付近にある石段には、小さな穴が開けられています。これは「牛の眼」と呼ばれ、登廊の石段の施行時、牛に重い石を運搬させたことから、牛に感謝すると共に供養の意味を表したものと伝わります。<br />ですから、誰もこの石段を踏まないそうですので、ご注意なさってください。

    中登廊 「牛の眼」
    中登廊の中間点付近にある石段には、小さな穴が開けられています。これは「牛の眼」と呼ばれ、登廊の石段の施行時、牛に重い石を運搬させたことから、牛に感謝すると共に供養の意味を表したものと伝わります。
    ですから、誰もこの石段を踏まないそうですので、ご注意なさってください。

  • 中登廊<br />樹木の隙間から下登廊を俯瞰します。

    中登廊
    樹木の隙間から下登廊を俯瞰します。

  • 中登廊<br />左側には整然と石燈籠が佇んでいます。<br />

    中登廊
    左側には整然と石燈籠が佇んでいます。

  • 蔵王堂(重文)<br />中登廊と上登廊の接続部(屈折部)にある建物で、1577(天正5)年に蔵王権現を祀る堂宇として創建され、1650(慶安3)年に徳川家光の命により再建されました。<br />この辺りに吉野山から虹が架かり、その上を弥勒・釈迦・千手観音の三体の蔵王権現が歩いて長谷寺までやって来たことからこの場所に尊像を祀ったそうです。蔵王権現は、吉野 金峯山寺の開祖 役小角が修行中にお告げを得たという憤怒形の仏です。因みに、役小角の生まれ変わりが徳道上人だとの説もあります。

    蔵王堂(重文)
    中登廊と上登廊の接続部(屈折部)にある建物で、1577(天正5)年に蔵王権現を祀る堂宇として創建され、1650(慶安3)年に徳川家光の命により再建されました。
    この辺りに吉野山から虹が架かり、その上を弥勒・釈迦・千手観音の三体の蔵王権現が歩いて長谷寺までやって来たことからこの場所に尊像を祀ったそうです。蔵王権現は、吉野 金峯山寺の開祖 役小角が修行中にお告げを得たという憤怒形の仏です。因みに、役小角の生まれ変わりが徳道上人だとの説もあります。

  • 蔵王堂<br />蔵王堂の前には、石造の蔵王三鈷(ざおうさんこ)が置かれています。蔵王権現が右手に持つ三鈷杵という法具で、手を触れると七難即滅・七福即生(世の中の七つの大難が消滅し、七つの福が生まれる)のご利益があるそうです。<br />七難:太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難<br />七福:寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量

    蔵王堂
    蔵王堂の前には、石造の蔵王三鈷(ざおうさんこ)が置かれています。蔵王権現が右手に持つ三鈷杵という法具で、手を触れると七難即滅・七福即生(世の中の七つの大難が消滅し、七つの福が生まれる)のご利益があるそうです。
    七難:太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難
    七福:寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量

  • 縁結びの社<br />蔵王堂の傍らにあります。<br />「縁結びの社」は、西行に仮託されて綴られた作者不詳の説話集『撰集抄』の「西行遇妻尼事」に記されたエピソードに因んで建立された祠です。<br />諸国行脚中の西行法師は、偶然訪れた長谷寺にて、観音様の導きで出家後に初めて尼になった妻と再会できました。この偶然の巡り合いは、玉鬘と右近の出会いと重なるものがあります。<br />縁結びの社に向かって左手に歌人 紀貫之が植栽したと伝わる梅の木があります。

    縁結びの社
    蔵王堂の傍らにあります。
    「縁結びの社」は、西行に仮託されて綴られた作者不詳の説話集『撰集抄』の「西行遇妻尼事」に記されたエピソードに因んで建立された祠です。
    諸国行脚中の西行法師は、偶然訪れた長谷寺にて、観音様の導きで出家後に初めて尼になった妻と再会できました。この偶然の巡り合いは、玉鬘と右近の出会いと重なるものがあります。
    縁結びの社に向かって左手に歌人 紀貫之が植栽したと伝わる梅の木があります。

  • 小林一茶の句碑<br />駒札には、1789(寛政10)年に登嶺の際、詠まれたとあります。<br />「我もけさ 清僧の部也 梅の花」。<br />荘厳な雰囲気の中に迎えた朝、身も心も清浄で我もまた清僧の仲間入りをした感があり、寒気の中に凛と咲き香る梅の花がある。

    小林一茶の句碑
    駒札には、1789(寛政10)年に登嶺の際、詠まれたとあります。
    「我もけさ 清僧の部也 梅の花」。
    荘厳な雰囲気の中に迎えた朝、身も心も清浄で我もまた清僧の仲間入りをした感があり、寒気の中に凛と咲き香る梅の花がある。

  • 西国巡礼三十三度行者満願供養塔<br />西国巡三十三度礼行者というのは、江戸時代前期から昭和40年代くらいまで、「御背駄(おせた)」という背負子を背負い、その中に西国三十三所の観音霊場札所の本尊のミニチュアを入れ、信者の家で御開帳しながら、年に2回程のペースで西国三十三所の札所を33回も巡礼し続ける職業としての行者のことです。<br />1089もの観音霊場を回った偉業を讃え、そっと手を合わせてまいりました。

    西国巡礼三十三度行者満願供養塔
    西国巡三十三度礼行者というのは、江戸時代前期から昭和40年代くらいまで、「御背駄(おせた)」という背負子を背負い、その中に西国三十三所の観音霊場札所の本尊のミニチュアを入れ、信者の家で御開帳しながら、年に2回程のペースで西国三十三所の札所を33回も巡礼し続ける職業としての行者のことです。
    1089もの観音霊場を回った偉業を讃え、そっと手を合わせてまいりました。

  • 地蔵尊<br />誰が置いたのか、地蔵尊の足元に佇む木像は上半身を失っていますが、それ故に想像を逞しくさせるものがあります。

    地蔵尊
    誰が置いたのか、地蔵尊の足元に佇む木像は上半身を失っていますが、それ故に想像を逞しくさせるものがあります。

  • 貫之の梅<br />貫之の歌に因み「故里(ふるさと)の梅」と銘が打たれています。<br />幼少期を長谷寺で過ごした貫之が、叔父 雲井坊浄真を再訪した際、「人はいさ 心も知らず 故郷は 花ぞ昔の 香ににほひける」と詠み、その返歌として浄真が「花だにも 同じ色香に 咲くものを 植ゑんけん人の 心しらなむ」と詠んだことに因みます。<br />人とならぬ花でさえ昔と変らず良い香りで咲いているのですから、この梅の木を植えた私の気持ちを分かって欲しいものです。ウイットに富んだ皮肉めいた応答で、ニヤリとさせます。

    貫之の梅
    貫之の歌に因み「故里(ふるさと)の梅」と銘が打たれています。
    幼少期を長谷寺で過ごした貫之が、叔父 雲井坊浄真を再訪した際、「人はいさ 心も知らず 故郷は 花ぞ昔の 香ににほひける」と詠み、その返歌として浄真が「花だにも 同じ色香に 咲くものを 植ゑんけん人の 心しらなむ」と詠んだことに因みます。
    人とならぬ花でさえ昔と変らず良い香りで咲いているのですから、この梅の木を植えた私の気持ちを分かって欲しいものです。ウイットに富んだ皮肉めいた応答で、ニヤリとさせます。

  • 上登廊<br />蔵王堂を直角に折れると上登廊です。<br />ぼちぼち足に疲労が溜まってきている中、石段の段差が高くなっているのが更に追い打ちをかけます。<br />ここを登り切れば本堂です。

    上登廊
    蔵王堂を直角に折れると上登廊です。
    ぼちぼち足に疲労が溜まってきている中、石段の段差が高くなっているのが更に追い打ちをかけます。
    ここを登り切れば本堂です。

  • 上登廊<br />本堂の懸造(かけづくり)が間近に見られるポイントです。

    上登廊
    本堂の懸造(かけづくり)が間近に見られるポイントです。

  • 上登廊 三百余社(重文)<br />本堂前にある、1650(慶安3)年に建造された一間社、春日造、銅板葺の小さな祠です。<br />300余社の国内の神を合祀した合理的な総社です。

    上登廊 三百余社(重文)
    本堂前にある、1650(慶安3)年に建造された一間社、春日造、銅板葺の小さな祠です。
    300余社の国内の神を合祀した合理的な総社です。

  • 上登廊 三百余社<br />大きな庇の向拝に登高蘭、棟に外削ぎの千木と2本の勝男木が載せられています。<br />

    上登廊 三百余社
    大きな庇の向拝に登高蘭、棟に外削ぎの千木と2本の勝男木が載せられています。

  • 上登廊 三百余社<br />蟇股には獅子があしらわれています。

    上登廊 三百余社
    蟇股には獅子があしらわれています。

  • 上登廊 三百余社<br />木鼻は獏の阿吽形です。<br />細かい装飾も施されています。

    上登廊 三百余社
    木鼻は獏の阿吽形です。
    細かい装飾も施されています。

  • 上登廊 <br />登廊を挟んで三百余社の反対側に丹色の祠が3社並びます。<br />左から馬頭夫人宮(めずぶにんぐう)、八幡宮、住吉宮です。<br />『長谷寺験記』によると、長谷寺の牡丹の由来には次のような言い伝えがあります。<br />唐の僖宗(きそう)皇帝の妃 馬頭夫人は、その名が示すように容姿が人並ではありませんでした。しかし、情深く、奥ゆかしかったため、王からは寵愛されていました。一方、他の后たちはそんな夫人を妬み、王との仲を引き裂こうと考え、明るい日中に宴を催して夫人の顔を王によく見てもらおうと企てました。<br />夫人は無事に宴を終えたいと思い医師に相談しました。しかし、容貌を薬で治すのは困難であり、修行を積めば道理に明るい仙人がその願いを叶えてくれると諭されました。そこで仙人を召すと、仙人は神仏に祈りなさいと答え、長谷寺の観音様が極位の菩薩であると薦めました。<br />夫人が長谷寺観音に7日7晩祈願したところ、観音様の霊験によって端正で威厳のある、女性らしい顔立ちになりました。宴席では人々はこぞって夫人を賞美し、王の寵愛は益々深いものとなりました。夫人は、そのお礼として小舟に宝物を入れ、長谷寺に至るように銘文を刻んで海に浮かべました。その宝物の中に牡丹の種があり、東洋一とも言われる長谷寺の牡丹の起源はこの故事によると伝わります。<br />馬頭夫人の顔が人並であったら、長谷寺に牡丹はなかったのかもしれません。

    上登廊
    登廊を挟んで三百余社の反対側に丹色の祠が3社並びます。
    左から馬頭夫人宮(めずぶにんぐう)、八幡宮、住吉宮です。
    『長谷寺験記』によると、長谷寺の牡丹の由来には次のような言い伝えがあります。
    唐の僖宗(きそう)皇帝の妃 馬頭夫人は、その名が示すように容姿が人並ではありませんでした。しかし、情深く、奥ゆかしかったため、王からは寵愛されていました。一方、他の后たちはそんな夫人を妬み、王との仲を引き裂こうと考え、明るい日中に宴を催して夫人の顔を王によく見てもらおうと企てました。
    夫人は無事に宴を終えたいと思い医師に相談しました。しかし、容貌を薬で治すのは困難であり、修行を積めば道理に明るい仙人がその願いを叶えてくれると諭されました。そこで仙人を召すと、仙人は神仏に祈りなさいと答え、長谷寺の観音様が極位の菩薩であると薦めました。
    夫人が長谷寺観音に7日7晩祈願したところ、観音様の霊験によって端正で威厳のある、女性らしい顔立ちになりました。宴席では人々はこぞって夫人を賞美し、王の寵愛は益々深いものとなりました。夫人は、そのお礼として小舟に宝物を入れ、長谷寺に至るように銘文を刻んで海に浮かべました。その宝物の中に牡丹の種があり、東洋一とも言われる長谷寺の牡丹の起源はこの故事によると伝わります。
    馬頭夫人の顔が人並であったら、長谷寺に牡丹はなかったのかもしれません。

  • 本堂<br />本堂脇にある香炉です。<br />真言宗では香炉・燭台・花瓶を仏前を飾る道具「三具足」と呼び、「五具足」の場合は燭台・花瓶が各々一対になります。<br />「香・華・灯」を供養するのはインド由来の伝統だそうですが、この3つを組み合わせて現在のように一つの台または同じ卓上に並べる形式は、中国の宋時代に始まったと言います。

    本堂
    本堂脇にある香炉です。
    真言宗では香炉・燭台・花瓶を仏前を飾る道具「三具足」と呼び、「五具足」の場合は燭台・花瓶が各々一対になります。
    「香・華・灯」を供養するのはインド由来の伝統だそうですが、この3つを組み合わせて現在のように一つの台または同じ卓上に並べる形式は、中国の宋時代に始まったと言います。

  • 本堂<br />しかめっ面で香炉を支えるのは邪鬼です。

    本堂
    しかめっ面で香炉を支えるのは邪鬼です。

  • 回廊<br />登廊と本堂の間は屋根で繋がれた回廊になっており、その天井には夥しいほどの寄付・寄進者の名前が掲げられています。<br />正面には「国宝 本堂」の文字が躍り、中央の通路が本尊を拝む相の間(拝所)です。

    回廊
    登廊と本堂の間は屋根で繋がれた回廊になっており、その天井には夥しいほどの寄付・寄進者の名前が掲げられています。
    正面には「国宝 本堂」の文字が躍り、中央の通路が本尊を拝む相の間(拝所)です。

  • 手水舎<br />本堂の脇にある手水舎には、「無垢泉」の扁額が掲げられています。<br />手水鉢全体は6角形をしており、その中央に蓮花を模した手水鉢が置かれています。

    手水舎
    本堂の脇にある手水舎には、「無垢泉」の扁額が掲げられています。
    手水鉢全体は6角形をしており、その中央に蓮花を模した手水鉢が置かれています。

  • 鐘楼(尾上の鐘)(重文)<br />1650(慶安3)年に再建された鐘楼です。和様の組高欄付き回縁を廻らし、回縁下の組物は三手先とし、鐘楼と接続する繋廊を渡って本堂へ至る構造です。<br />元々の鐘楼は1019(寛仁3)年の寄進と伝わり、「尾上の鐘」の名は『新古今和歌集』の藤原定家の歌「年を経ぬ 祈るちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」に因みます。何年も恋の成就を長谷観音に祈ってきたが、夕刻を告げる長谷の鐘は誰がために鳴るのだろう、といった感じでしょうか?<br />現在の梵鐘には「文亀元年(1501年)」の銘が刻まれており、午前6時と正午に撞かれます。また、正午には修行僧がここに立って法螺貝を吹きます。これは千年の昔から続けられてきた長谷寺の慣わしです。 <br />本居宣長は、1772(明和9)年の吉野を訪ねる旅の途上で長谷観音に立ち寄り、「昔、清少納言が詣でた時も、突然の法螺貝で驚いている。それが思い出された」と『菅笠日記』に綴っています。

    鐘楼(尾上の鐘)(重文)
    1650(慶安3)年に再建された鐘楼です。和様の組高欄付き回縁を廻らし、回縁下の組物は三手先とし、鐘楼と接続する繋廊を渡って本堂へ至る構造です。
    元々の鐘楼は1019(寛仁3)年の寄進と伝わり、「尾上の鐘」の名は『新古今和歌集』の藤原定家の歌「年を経ぬ 祈るちぎりは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」に因みます。何年も恋の成就を長谷観音に祈ってきたが、夕刻を告げる長谷の鐘は誰がために鳴るのだろう、といった感じでしょうか?
    現在の梵鐘には「文亀元年(1501年)」の銘が刻まれており、午前6時と正午に撞かれます。また、正午には修行僧がここに立って法螺貝を吹きます。これは千年の昔から続けられてきた長谷寺の慣わしです。
    本居宣長は、1772(明和9)年の吉野を訪ねる旅の途上で長谷観音に立ち寄り、「昔、清少納言が詣でた時も、突然の法螺貝で驚いている。それが思い出された」と『菅笠日記』に綴っています。

  • 鐘楼<br />登廊は烏がくわえた「蛇」に見立ててジグザグに形造られたと記しましたが、登廊の大きさから言えば「龍」を彷彿とさせます。蛇の頭部がこの鐘楼とされますが、仁王門を頭と見立てた方が箔が付くはずです。病気平癒のお礼ゆえ、「昇り龍」としたのでしょうか?<br />一方、藤原定家の歌にある「尾上の鐘」を蛇の「尾」の上にある鐘とすれば、定家自身は「降り龍」と解釈していたとも考えられます。因みに、「高砂の 尾上の鐘の 音すなり 暁かけて 霜や置くらん」(千載和歌集)という大江匡房の詠んだ本歌があることから、「響きの良い鐘は、尾上神社にある尾上の鐘に例えられた」とするのが定説です。<br />仏教の教義『上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げけしゅじょう)』を紐解くと、「上求菩提(=昇り龍)は悟りを求め修行に励むこと、下化衆生(降り龍)は命あるもの全てに悟りを説くこと」とあります。ですから、通常、「昇り龍」と「降り龍」は一対にすることが多いようです。これから考察すれば、鐘楼を頭に見立てて「昇り龍」、仁王門を頭とすれば「降り龍」と、ひとつの登廊で合理的に一対になるよう工夫されたと考えるのは早計でしょうか?

    鐘楼
    登廊は烏がくわえた「蛇」に見立ててジグザグに形造られたと記しましたが、登廊の大きさから言えば「龍」を彷彿とさせます。蛇の頭部がこの鐘楼とされますが、仁王門を頭と見立てた方が箔が付くはずです。病気平癒のお礼ゆえ、「昇り龍」としたのでしょうか?
    一方、藤原定家の歌にある「尾上の鐘」を蛇の「尾」の上にある鐘とすれば、定家自身は「降り龍」と解釈していたとも考えられます。因みに、「高砂の 尾上の鐘の 音すなり 暁かけて 霜や置くらん」(千載和歌集)という大江匡房の詠んだ本歌があることから、「響きの良い鐘は、尾上神社にある尾上の鐘に例えられた」とするのが定説です。
    仏教の教義『上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げけしゅじょう)』を紐解くと、「上求菩提(=昇り龍)は悟りを求め修行に励むこと、下化衆生(降り龍)は命あるもの全てに悟りを説くこと」とあります。ですから、通常、「昇り龍」と「降り龍」は一対にすることが多いようです。これから考察すれば、鐘楼を頭に見立てて「昇り龍」、仁王門を頭とすれば「降り龍」と、ひとつの登廊で合理的に一対になるよう工夫されたと考えるのは早計でしょうか?

  • 回廊<br />本堂側から回廊を眺めた様子です。<br />その妻には、何やら色褪せた年代物の絵馬が掲げられています。

    回廊
    本堂側から回廊を眺めた様子です。
    その妻には、何やら色褪せた年代物の絵馬が掲げられています。

  • 回廊<br />屋根の端には、このような「烏伝説」を裏付けるような絵馬が奉納されています。<br />確かに、烏が小さな蛇をくわえて飛ぶ様子が描かれています。<br />

    回廊
    屋根の端には、このような「烏伝説」を裏付けるような絵馬が奉納されています。
    確かに、烏が小さな蛇をくわえて飛ぶ様子が描かれています。

  • 本堂 礼堂(らいどう)<br />流れに逆らって相の間に入らず、左手の舞台側へと進みます。<br />本堂の造りは、平安時代初期に成立した真言密教の様式を踏襲し、本尊を安置する正堂(しょうどう=内陣)、相の間(拝所)、礼堂(外陣)から成る双堂(ならびどう)形式の複合仏堂です。<br />こちらは、礼堂の内舞台を東側から眺めた様子です。大きな長谷型燈籠が何基も吊るされています。また、奉納された絵馬や扁額が所狭しと掛けられている様には信仰の篤さが感じられ、荘厳な気持ちにさせられます。

    本堂 礼堂(らいどう)
    流れに逆らって相の間に入らず、左手の舞台側へと進みます。
    本堂の造りは、平安時代初期に成立した真言密教の様式を踏襲し、本尊を安置する正堂(しょうどう=内陣)、相の間(拝所)、礼堂(外陣)から成る双堂(ならびどう)形式の複合仏堂です。
    こちらは、礼堂の内舞台を東側から眺めた様子です。大きな長谷型燈籠が何基も吊るされています。また、奉納された絵馬や扁額が所狭しと掛けられている様には信仰の篤さが感じられ、荘厳な気持ちにさせられます。

  • 本堂 礼堂<br />礼堂は、平安貴族が観音様のお告げを聞くために一晩中籠って祈ったとされる場所です。<br />ピカピカに磨かれた床に萌える新緑が映り込んだ「床みどり」が美しく、インスタ映えするスポットです。また、賓頭盧(びんずる)像のシルエットも印象的です。<br />長谷寺にはもうひとつインスタ映えするスポットがありますが、それは後編で紹介いたします。

    本堂 礼堂
    礼堂は、平安貴族が観音様のお告げを聞くために一晩中籠って祈ったとされる場所です。
    ピカピカに磨かれた床に萌える新緑が映り込んだ「床みどり」が美しく、インスタ映えするスポットです。また、賓頭盧(びんずる)像のシルエットも印象的です。
    長谷寺にはもうひとつインスタ映えするスポットがありますが、それは後編で紹介いたします。

  • 本堂 礼堂<br />長谷寺のHPトップにもこの情景が使われています。<br />秋には、「床もみじ」に変貌を遂げます。

    本堂 礼堂
    長谷寺のHPトップにもこの情景が使われています。
    秋には、「床もみじ」に変貌を遂げます。

  • 本堂 礼堂<br />礼堂の手前に添えられた、本日一番輝いている鉢植えの牡丹を入れてみました。<br /><br />この続きは、あをによし 隠国の泊瀬逍遥④長谷寺<後編>エピローグでお届けいたします。

    本堂 礼堂
    礼堂の手前に添えられた、本日一番輝いている鉢植えの牡丹を入れてみました。

    この続きは、あをによし 隠国の泊瀬逍遥④長谷寺<後編>エピローグでお届けいたします。

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