桜井・三輪・山の辺の道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
世間では10連休の経済効果を期待しているゴールデンウィークですが、何処も人が多く、出掛ける気を削がれてしまうのは当方だけではないように思います。新元号「令和」元年の初日に「長谷寺へ牡丹詣で」を計画していましたが、生憎の空模様のため1日順延しての出立になりました。<br />第一弾は、長谷参道にある泊瀬(はせ)門前町をレポいたします。<br />初瀬(はせ)は、奈良盆地の東側に当たり、『万葉集』に「こもりくの里」と詠われた地です。「こもりく」は「隠国」と記して「泊瀬」にかかる枕詞とされ、大和国中(くんなか)から見れば隠れ里のような初瀬峡谷を古代の人はそう呼びました。神山 滝蔵山に源を発する初瀬川沿いに長谷寺から南東に延びる初瀬参道は、古の門前町の趣きを湛えています。この参道を参詣客は心弾ませながら歩を進めたことでしょう。<br />国道165号線はかつての「初瀬(伊勢)街道」でした。2千余年前、垂仁天皇の皇女 倭姫命が大和の笠編宮から天照大神の鎮座地を探す旅をした時に採った道筋がこの初瀬街道です。初瀬街道は、伊勢から青山峠を越え、名張、室生、榛原を経て桜井へ至ります。

あをによし 隠国の泊瀬逍遥①門前町

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2019/05/02 - 2019/05/02

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

世間では10連休の経済効果を期待しているゴールデンウィークですが、何処も人が多く、出掛ける気を削がれてしまうのは当方だけではないように思います。新元号「令和」元年の初日に「長谷寺へ牡丹詣で」を計画していましたが、生憎の空模様のため1日順延しての出立になりました。
第一弾は、長谷参道にある泊瀬(はせ)門前町をレポいたします。
初瀬(はせ)は、奈良盆地の東側に当たり、『万葉集』に「こもりくの里」と詠われた地です。「こもりく」は「隠国」と記して「泊瀬」にかかる枕詞とされ、大和国中(くんなか)から見れば隠れ里のような初瀬峡谷を古代の人はそう呼びました。神山 滝蔵山に源を発する初瀬川沿いに長谷寺から南東に延びる初瀬参道は、古の門前町の趣きを湛えています。この参道を参詣客は心弾ませながら歩を進めたことでしょう。
国道165号線はかつての「初瀬(伊勢)街道」でした。2千余年前、垂仁天皇の皇女 倭姫命が大和の笠編宮から天照大神の鎮座地を探す旅をした時に採った道筋がこの初瀬街道です。初瀬街道は、伊勢から青山峠を越え、名張、室生、榛原を経て桜井へ至ります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 近畿日本鉄道「長谷寺」駅<br />今回は近鉄を利用してのアプローチです。大阪難波から特急を利用して30分弱で大和八木駅に到着。そこから急行に乗り換えて3駅目が長谷寺駅です。<br />大阪難波からは40分程の列車の旅になります。

    近畿日本鉄道「長谷寺」駅
    今回は近鉄を利用してのアプローチです。大阪難波から特急を利用して30分弱で大和八木駅に到着。そこから急行に乗り換えて3駅目が長谷寺駅です。
    大阪難波からは40分程の列車の旅になります。

  • 近鉄「長谷寺」駅<br />駅の改札を通った正面右側には「総本山長谷寺」と刻まれた石碑が立っています。<br />真正面にあるゲートが長谷参道の入口になり、道路標識に従って進めば徒歩15分程で長谷寺に辿り着きます。だだし、道草をせず、黙々と歩く場合の所要時間です。門前町には色々な見所や特産グルメのトラップが待ち受けていますので、時間に余裕をもたせて門前町の情緒を満喫してください。

    近鉄「長谷寺」駅
    駅の改札を通った正面右側には「総本山長谷寺」と刻まれた石碑が立っています。
    真正面にあるゲートが長谷参道の入口になり、道路標識に従って進めば徒歩15分程で長谷寺に辿り着きます。だだし、道草をせず、黙々と歩く場合の所要時間です。門前町には色々な見所や特産グルメのトラップが待ち受けていますので、時間に余裕をもたせて門前町の情緒を満喫してください。

  • 泊瀬門前町マップ<br />今回辿った経路です。参考になさってください。<br />http://www.pref.nara.jp/secure/15271/hatsuse2013.pdf<br />

    泊瀬門前町マップ
    今回辿った経路です。参考になさってください。
    http://www.pref.nara.jp/secure/15271/hatsuse2013.pdf

  • 長谷参道入口<br />ゲートの先には、気を削ぐような急勾配な階段が待ち受けています。長谷観音様が居られる補陀落浄土への道程は、決して平坦ではありません。この先、2段になって急な階段が設けられています。その後も緩い坂道が続き、国道165号まで一気に下ります。<br />ただし、迂回ルート(車道)もあります。ゲートの前を右側へ道なりに下りて行けば、途中でこの道と合流します。復路は登りになるので、迂回ルートの利用をお勧めいたします。

    長谷参道入口
    ゲートの先には、気を削ぐような急勾配な階段が待ち受けています。長谷観音様が居られる補陀落浄土への道程は、決して平坦ではありません。この先、2段になって急な階段が設けられています。その後も緩い坂道が続き、国道165号まで一気に下ります。
    ただし、迂回ルート(車道)もあります。ゲートの前を右側へ道なりに下りて行けば、途中でこの道と合流します。復路は登りになるので、迂回ルートの利用をお勧めいたします。

  • 初瀬は周囲を深い山々に囲まれた「隠国の里」でした。そのことをそれとなく偲ばせる景観です。<br />『万葉集』には「隠國乃 泊瀬之山丹 照月者 盈昃為焉 人之常無(こもりくの はつせのやまに てるつきは みちかけしけり ひとのつねなき)」(作者未詳)とあります。初瀬の山に照る月は、満ち欠けします。そのように人生もまた移り替わるものです。<br />「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」であり、霊験あらたかな観音様を拝して心機一転の「新しい人生の初まり」でもあり、そして「人生の泊り処」つまり墓所ともなった霊異の籠る地でした。この歌の詠み人が人生の無常を感じたのも、こうした背景があったからでしょう。

    初瀬は周囲を深い山々に囲まれた「隠国の里」でした。そのことをそれとなく偲ばせる景観です。
    『万葉集』には「隠國乃 泊瀬之山丹 照月者 盈昃為焉 人之常無(こもりくの はつせのやまに てるつきは みちかけしけり ひとのつねなき)」(作者未詳)とあります。初瀬の山に照る月は、満ち欠けします。そのように人生もまた移り替わるものです。
    「こもりくのはつせ」は「山々に囲まれた長い谷」であり、霊験あらたかな観音様を拝して心機一転の「新しい人生の初まり」でもあり、そして「人生の泊り処」つまり墓所ともなった霊異の籠る地でした。この歌の詠み人が人生の無常を感じたのも、こうした背景があったからでしょう。

  • 左側のこんもりとした山が愛宕山です。その裾野を走るのが国道165号線、かつての初瀬街道です。<br />初瀬街道は、古来奈良盆地から伊勢、東海地方へ抜ける主要街道でした。壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒すために通った道でもあります。平安時代中期には、紫式部や清少納言など当時の流行女流作家が書いた長谷観音詣でが呼び水になって栄えました。江戸時代には、桜井市内にも領地を持っていた津(藤堂)藩が街道の整備を進め、街道沿いに桜井などの宿場町が発達しました。本居宣長や松尾芭蕉など当時の文人もこの道を往来し、『菅笠日記』や『笈の小文』などの道中記を残しています。江戸時代中期以降は、「おかげ参り」の善男善女が旅枕を重ねた道でもあります。 <br />また、芭蕉は1684年の『野ざらし紀行』での大和への旅路、1688年の『笈の小文』の旅で国見山兼好塚を訪ねる際など、奈良・吉野方面への往来に初瀬街道を利用したと伝わります。

    左側のこんもりとした山が愛宕山です。その裾野を走るのが国道165号線、かつての初瀬街道です。
    初瀬街道は、古来奈良盆地から伊勢、東海地方へ抜ける主要街道でした。壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒すために通った道でもあります。平安時代中期には、紫式部や清少納言など当時の流行女流作家が書いた長谷観音詣でが呼び水になって栄えました。江戸時代には、桜井市内にも領地を持っていた津(藤堂)藩が街道の整備を進め、街道沿いに桜井などの宿場町が発達しました。本居宣長や松尾芭蕉など当時の文人もこの道を往来し、『菅笠日記』や『笈の小文』などの道中記を残しています。江戸時代中期以降は、「おかげ参り」の善男善女が旅枕を重ねた道でもあります。
    また、芭蕉は1684年の『野ざらし紀行』での大和への旅路、1688年の『笈の小文』の旅で国見山兼好塚を訪ねる際など、奈良・吉野方面への往来に初瀬街道を利用したと伝わります。

  • 国道165号線<br />初瀬と書いて「はせ」と読みます。かつては長谷・始瀬・波都瀬・播都制・波都勢・簸都細・泊瀬などとも書かれ、統一されていなかったようです。<br />『長谷寺縁起文』によると、上古時代に舟運の水路であった初瀬川の上流に祀られていた毘沙門天の宝塔が川へ転げ落ち、やがて瀬の岩の上に流れ着きました。この石を「泊瀬石」といい、そこが船着場となり「泊瀬」と呼ばれたのが地名の由来とされます。<br />泊瀬の名は『万葉集』にも度々登場し、平安時代には貴族の長谷観音詣でが盛んになり、鎌倉時代末期~室町時代にかけて長谷寺の門前町や宿場町が形成されました。この参道が近世の伊勢本街道の前身で、室町時代には「初瀬越」と言われていました。江戸時代には、大和盆地南部にあった高取藩主の参勤交代の通過路ともなり、本陣や脇本陣も置かれましたが、大火や洪水などの災害に度々見舞われ、現在残る家々は「初瀬流れ」と呼ばれた1811(文化8)年の洪水災害以降に復興された街並です。明治時代末~昭和時代初期までは桜井方面からの初瀬鉄道の終着駅でもありました。

    国道165号線
    初瀬と書いて「はせ」と読みます。かつては長谷・始瀬・波都瀬・播都制・波都勢・簸都細・泊瀬などとも書かれ、統一されていなかったようです。
    『長谷寺縁起文』によると、上古時代に舟運の水路であった初瀬川の上流に祀られていた毘沙門天の宝塔が川へ転げ落ち、やがて瀬の岩の上に流れ着きました。この石を「泊瀬石」といい、そこが船着場となり「泊瀬」と呼ばれたのが地名の由来とされます。
    泊瀬の名は『万葉集』にも度々登場し、平安時代には貴族の長谷観音詣でが盛んになり、鎌倉時代末期~室町時代にかけて長谷寺の門前町や宿場町が形成されました。この参道が近世の伊勢本街道の前身で、室町時代には「初瀬越」と言われていました。江戸時代には、大和盆地南部にあった高取藩主の参勤交代の通過路ともなり、本陣や脇本陣も置かれましたが、大火や洪水などの災害に度々見舞われ、現在残る家々は「初瀬流れ」と呼ばれた1811(文化8)年の洪水災害以降に復興された街並です。明治時代末~昭和時代初期までは桜井方面からの初瀬鉄道の終着駅でもありました。

  • 初瀬川<br />正面の深い森の中には長谷山口坐神社が佇み、そこへ架けられた朱橋が見えます。その手前で吉隠川が合流しています。<br />随筆家 白州正子女史は、『十一面観音巡礼』の中で次のように記されています。<br />「長谷寺がつくられ、十一面観音が安置されるまでには、実に長い『こもりく』の歴史があった。古くは『三神の里』と呼ばれ、初瀬川を神河(かむかわ)といった。寺から少し登った川中に『落神』という巨石を祀っている。荒唐無稽な伝説とは言うまい。河上約半里の滝蔵山にあり、いつの時か大嵐があって、神の岩座が転落し、その泊まったところが『泊瀬』と呼ばれたのであろう。やがて、その川は三輪山を巻いて、大和平野をうるおす清流となるが、同時に『初瀬流れ』ともいって、しばしば荒れる恐ろしい淵瀬でもあった。そう言うところが神の在す聖地として崇められたのは当然のことである。地形から言っても三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で『こもりく』は神の籠る国を示したものに他ならない」。

    初瀬川
    正面の深い森の中には長谷山口坐神社が佇み、そこへ架けられた朱橋が見えます。その手前で吉隠川が合流しています。
    随筆家 白州正子女史は、『十一面観音巡礼』の中で次のように記されています。
    「長谷寺がつくられ、十一面観音が安置されるまでには、実に長い『こもりく』の歴史があった。古くは『三神の里』と呼ばれ、初瀬川を神河(かむかわ)といった。寺から少し登った川中に『落神』という巨石を祀っている。荒唐無稽な伝説とは言うまい。河上約半里の滝蔵山にあり、いつの時か大嵐があって、神の岩座が転落し、その泊まったところが『泊瀬』と呼ばれたのであろう。やがて、その川は三輪山を巻いて、大和平野をうるおす清流となるが、同時に『初瀬流れ』ともいって、しばしば荒れる恐ろしい淵瀬でもあった。そう言うところが神の在す聖地として崇められたのは当然のことである。地形から言っても三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で『こもりく』は神の籠る国を示したものに他ならない」。

  • 県道38号(桜井都祁線)<br />初瀬界隈は、古墳時代の宮廷の伝承地でもあります。<br />『宋書倭国伝』に記され、倭の五王の「武王」とされる、雄略天皇の初瀬朝倉宮がそれとされます。『記紀』には、雄略天皇は「泊瀬の朝倉で即位し宮を定めた」とあります。皇后に草香幡梭姫を迎え三輪山の麓に営んだのが初瀬朝倉宮のようです。<br />因みに、雄略天皇は『万葉集』開巻第一の妻問歌「籠もよ み籠持ち …家聞かな 名告らさね…」の作者として知られます。今風に要約すれば、「どこの家の娘なの?名前は?」と野原で菜を摘む娘をナンパしている歌です。<br />雄略は諡号で、天皇の名は『日本書紀』によると「大泊瀬幼武」となっています。宮跡は、現時点で特定できる遺跡が見つかっておらず、上岩坂の十二柱神社や白山比咩神社付近、脇本遺跡、天の森を比定する説があります。

    県道38号(桜井都祁線)
    初瀬界隈は、古墳時代の宮廷の伝承地でもあります。
    『宋書倭国伝』に記され、倭の五王の「武王」とされる、雄略天皇の初瀬朝倉宮がそれとされます。『記紀』には、雄略天皇は「泊瀬の朝倉で即位し宮を定めた」とあります。皇后に草香幡梭姫を迎え三輪山の麓に営んだのが初瀬朝倉宮のようです。
    因みに、雄略天皇は『万葉集』開巻第一の妻問歌「籠もよ み籠持ち …家聞かな 名告らさね…」の作者として知られます。今風に要約すれば、「どこの家の娘なの?名前は?」と野原で菜を摘む娘をナンパしている歌です。
    雄略は諡号で、天皇の名は『日本書紀』によると「大泊瀬幼武」となっています。宮跡は、現時点で特定できる遺跡が見つかっておらず、上岩坂の十二柱神社や白山比咩神社付近、脇本遺跡、天の森を比定する説があります。

  • 喜多家(屋号:角館)<br />泊瀬門前町マップに載っている、初瀬参道に入ってすぐ右手に見える建物です。<br />町屋風の旧家のようですが何も説明がなく、またネットにも情報がありません。<br />大きな白漆喰の虫籠窓と屋根のむくりが特徴です。<br />基本的に2階建てが禁止されていた江戸時代、貯えのある商家は物置のために2階の屋根裏を活用し、その立上りが徐々に高くなっていき明り取り用の窓が必要になったと言われています。虫籠窓も初期のものは楕円形の小さいものが多かったそうですが、明治時代のものは矩形の大型のものに変り、その形から建築年代がおよそ推定できます。

    喜多家(屋号:角館)
    泊瀬門前町マップに載っている、初瀬参道に入ってすぐ右手に見える建物です。
    町屋風の旧家のようですが何も説明がなく、またネットにも情報がありません。
    大きな白漆喰の虫籠窓と屋根のむくりが特徴です。
    基本的に2階建てが禁止されていた江戸時代、貯えのある商家は物置のために2階の屋根裏を活用し、その立上りが徐々に高くなっていき明り取り用の窓が必要になったと言われています。虫籠窓も初期のものは楕円形の小さいものが多かったそうですが、明治時代のものは矩形の大型のものに変り、その形から建築年代がおよそ推定できます。

  • 喜多家<br />塀の軒は、長寿の験として知られる蓑亀巴瓦で飾られています。<br />甲羅になびく、尾の様な長いフサフサの緑藻が特徴です。<br /><br />

    喜多家
    塀の軒は、長寿の験として知られる蓑亀巴瓦で飾られています。
    甲羅になびく、尾の様な長いフサフサの緑藻が特徴です。

  • お花屋さんではなく民家の軒先ですが、立派な牡丹を育てられています。<br />「長谷寺ぼたんまつり」に合わせているのか、ボンボリまで準備されているのには頭が下がります。このように町全体でイベントを盛り上げようとしている点が評価されるポイントと思います。<br />翻って、2020東京五輪は新国立競技場やエンブレムなどの問題でケチが付きました。その後も、五輪招致に絡む贈賄容疑による竹田JOC会長の辞任や桜田五輪相の東日本大震災被災者を傷付ける発言による辞任など、ネガティブ・キャンペーンが鈴なりです。元々、「復興五輪」や「コンパクト五輪」を表明していたはずですが、それらは誘致のためのスローガンだけに留まり、復興は遅々として進まず、大会経費は初期予算の倍に膨れ上がってるのが現状です。また、インバウンドによる交通マヒや大会ボランティア問題、酷暑対策、テロ未然防止など、新たな課題も目白押しです。<br />都民や本来主役となるべきアスリートの苦悩は、いかばかりでしょうか?今こそ、都民の協力を仰ぐための方策を立案しアクションを執る時期だと思います。

    お花屋さんではなく民家の軒先ですが、立派な牡丹を育てられています。
    「長谷寺ぼたんまつり」に合わせているのか、ボンボリまで準備されているのには頭が下がります。このように町全体でイベントを盛り上げようとしている点が評価されるポイントと思います。
    翻って、2020東京五輪は新国立競技場やエンブレムなどの問題でケチが付きました。その後も、五輪招致に絡む贈賄容疑による竹田JOC会長の辞任や桜田五輪相の東日本大震災被災者を傷付ける発言による辞任など、ネガティブ・キャンペーンが鈴なりです。元々、「復興五輪」や「コンパクト五輪」を表明していたはずですが、それらは誘致のためのスローガンだけに留まり、復興は遅々として進まず、大会経費は初期予算の倍に膨れ上がってるのが現状です。また、インバウンドによる交通マヒや大会ボランティア問題、酷暑対策、テロ未然防止など、新たな課題も目白押しです。
    都民や本来主役となるべきアスリートの苦悩は、いかばかりでしょうか?今こそ、都民の協力を仰ぐための方策を立案しアクションを執る時期だと思います。

  • 正面奥の高台に見えるのが與喜天満神社の赤鳥居です。

    正面奥の高台に見えるのが與喜天満神社の赤鳥居です。

  • 廊坊(ろうのぼう)家(登録有形文化財)<br />初瀬郵便局のお隣、長谷参道沿いに立つ古民家が往時の繁栄を偲ばせます。<br />当家は、先祖を長谷寺創立と関係深い藤原房前とし、代々長谷寺の別当、また中世以後は俗別当として寺役を勤め、守護の任に当たってこられました。しかし戦国時代に入り、長谷寺は経済的基盤の危機に直面し、豊臣秀長の擁護を受けて復興しました。その際、廊坊家は寺物いっさいを専誉僧正に引き継いで山を下りました。近世では、町村制が施行される明治22年まで村長に当たる戸長を務められたそうです。

    廊坊(ろうのぼう)家(登録有形文化財)
    初瀬郵便局のお隣、長谷参道沿いに立つ古民家が往時の繁栄を偲ばせます。
    当家は、先祖を長谷寺創立と関係深い藤原房前とし、代々長谷寺の別当、また中世以後は俗別当として寺役を勤め、守護の任に当たってこられました。しかし戦国時代に入り、長谷寺は経済的基盤の危機に直面し、豊臣秀長の擁護を受けて復興しました。その際、廊坊家は寺物いっさいを専誉僧正に引き継いで山を下りました。近世では、町村制が施行される明治22年まで村長に当たる戸長を務められたそうです。

  • 廊坊家<br />主屋は17世紀末期の建築とされます。切妻造、桟瓦葺、正面に下屋庇を付け、上部を黒漆喰の大壁とし、白漆喰の虫籠窓を開けています。下部は出格子を構え、格子戸を立てています。<br />また、茶々姫(淀ノ御方)の愛用の帯と伝わる「綾地金絢襴帯」を蔵しています。

    廊坊家
    主屋は17世紀末期の建築とされます。切妻造、桟瓦葺、正面に下屋庇を付け、上部を黒漆喰の大壁とし、白漆喰の虫籠窓を開けています。下部は出格子を構え、格子戸を立てています。
    また、茶々姫(淀ノ御方)の愛用の帯と伝わる「綾地金絢襴帯」を蔵しています。

  • 山田酒店 主屋(登録有形文化財)<br />江戸時代末期(1812年)に建立された、酒店としては重厚な店構えです。木造2階建、切妻造、桟瓦葺、大正時代初期に増築が行われ、現在の姿になっています。<br />代表銘柄の大吟醸「長谷 紫源氏」は、希望の字句を入れることができるオリジナル徳利でも人気です。このネーミングは、平安時代に長谷観音詣でを2度行ったとされる紫式部に因みます。平安京からは片道3泊4日の長旅であり、旅の疲れを癒すために美味しい水や地酒を飲んだものと思われます。<br />平安時代初期の宮中における年中儀式や制度を記録した『延喜式』の「造酒司」によると、宮廷では御酒や御井酒と呼ばれる甘口系の澄み酒を愛飲していたようです。また盛夏には、水の代わりにお酒で仕込むミリン系の超甘口の貴醸酒「醴酒」に氷室から運ばれた氷を入れ、「On The Rock」でたしなんでいたそうです。

    山田酒店 主屋(登録有形文化財)
    江戸時代末期(1812年)に建立された、酒店としては重厚な店構えです。木造2階建、切妻造、桟瓦葺、大正時代初期に増築が行われ、現在の姿になっています。
    代表銘柄の大吟醸「長谷 紫源氏」は、希望の字句を入れることができるオリジナル徳利でも人気です。このネーミングは、平安時代に長谷観音詣でを2度行ったとされる紫式部に因みます。平安京からは片道3泊4日の長旅であり、旅の疲れを癒すために美味しい水や地酒を飲んだものと思われます。
    平安時代初期の宮中における年中儀式や制度を記録した『延喜式』の「造酒司」によると、宮廷では御酒や御井酒と呼ばれる甘口系の澄み酒を愛飲していたようです。また盛夏には、水の代わりにお酒で仕込むミリン系の超甘口の貴醸酒「醴酒」に氷室から運ばれた氷を入れ、「On The Rock」でたしなんでいたそうです。

  • 山田酒店 主屋<br />長谷寺の参詣路の街並を構成する要素として重要であることから、酒店(主屋)と共に6棟の建造物が「山田酒店(茶房長谷路)」の名称で国の有形文化財に登録されています。これらの設計は、 現所有者の祖父 山田新氏が手がけています。

    山田酒店 主屋
    長谷寺の参詣路の街並を構成する要素として重要であることから、酒店(主屋)と共に6棟の建造物が「山田酒店(茶房長谷路)」の名称で国の有形文化財に登録されています。これらの設計は、 現所有者の祖父 山田新氏が手がけています。

  • 山田酒店 庭門<br />茶室のすぐ脇に位置する穴門形式の木造平重門で、茶房の出入口となっています。外塀からやや奥に引いて建ち、左右にくの字型の袖塀が連なります。袖塀は、腰を板張、その上を鼠漆喰仕上げとし、桟瓦葺にしています。通りに面して銅板葺の庇をかけるなど、特徴的な形式を持ちます。

    山田酒店 庭門
    茶室のすぐ脇に位置する穴門形式の木造平重門で、茶房の出入口となっています。外塀からやや奥に引いて建ち、左右にくの字型の袖塀が連なります。袖塀は、腰を板張、その上を鼠漆喰仕上げとし、桟瓦葺にしています。通りに面して銅板葺の庇をかけるなど、特徴的な形式を持ちます。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />敷居が高そうな雰囲気ですが、茶房「長谷路」では庭園を眺めながら有形文化財指定の奥座敷で食事や喫茶ができます。<br />長谷寺参詣後に立ち寄ったのですが、先にレポしておきます。<br />尚、喫茶は14時以降と入口に書かれています。当方が訪れたのは15時頃でしたが、食事はサービス終了と言われました。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    敷居が高そうな雰囲気ですが、茶房「長谷路」では庭園を眺めながら有形文化財指定の奥座敷で食事や喫茶ができます。
    長谷寺参詣後に立ち寄ったのですが、先にレポしておきます。
    尚、喫茶は14時以降と入口に書かれています。当方が訪れたのは15時頃でしたが、食事はサービス終了と言われました。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />碧色のモノトーンの世界の中にあって、猩々野村の赤葉が緊張感を持たせるアクセントになっています。<br />無断で立ち入っても良いのかと躊躇させられますが、飛石と石橋が奥座敷へとナビゲートしてくれます。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    碧色のモノトーンの世界の中にあって、猩々野村の赤葉が緊張感を持たせるアクセントになっています。
    無断で立ち入っても良いのかと躊躇させられますが、飛石と石橋が奥座敷へとナビゲートしてくれます。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />石橋の先にも飛石が続き、その先に奥座敷があります。<br />奥の土蔵は版画館(有料)になっており、長谷出身の谷中安規、谷中と親交のあった棟方志功、谷中作品に影響を受けたという大野隆司、他の作品が常設展示されています。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    石橋の先にも飛石が続き、その先に奥座敷があります。
    奥の土蔵は版画館(有料)になっており、長谷出身の谷中安規、谷中と親交のあった棟方志功、谷中作品に影響を受けたという大野隆司、他の作品が常設展示されています。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />大正時代初期の建造で、数寄屋風の木造2階建、屋根は東側を入母屋、西側を切妻とした桟瓦葺です。また、庭園に面して縁を回しています。現在は池泉鑑賞式庭園のある茶房「長谷路」になっています。<br />一階は向かって左側がテーブル席、右側が座敷になっています。2階席もあります。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    大正時代初期の建造で、数寄屋風の木造2階建、屋根は東側を入母屋、西側を切妻とした桟瓦葺です。また、庭園に面して縁を回しています。現在は池泉鑑賞式庭園のある茶房「長谷路」になっています。
    一階は向かって左側がテーブル席、右側が座敷になっています。2階席もあります。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />縁側の入口横の柱に下げられている魚板を叩いて訪問を知らせます。<br />

    山田酒店 茶房「長谷路」
    縁側の入口横の柱に下げられている魚板を叩いて訪問を知らせます。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />振り返るとこうした池泉鑑賞式庭園が目の前に広がっています。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    振り返るとこうした池泉鑑賞式庭園が目の前に広がっています。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />黒い透けた暖簾が情緒を湛えています。<br />

    山田酒店 茶房「長谷路」
    黒い透けた暖簾が情緒を湛えています。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />1階のテーブル席へ案内されました。<br />柱に掛けられた振り子時計がレトロ感を醸します。<br />

    山田酒店 茶房「長谷路」
    1階のテーブル席へ案内されました。
    柱に掛けられた振り子時計がレトロ感を醸します。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />お隣の座敷です。<br />どこからも、このように庭園を眺めながら贅沢な寛ぎのひとときを過ごせます。<br />欄間の意匠にも味があります。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    お隣の座敷です。
    どこからも、このように庭園を眺めながら贅沢な寛ぎのひとときを過ごせます。
    欄間の意匠にも味があります。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />テーブル席と座敷を仕切るのは、粋な扇面散らしの欄間です。<br />横浜「三渓園」の旧矢箆原家住宅にも同様の意匠の欄間がありますが、優劣付け難い造作です。<br />

    山田酒店 茶房「長谷路」
    テーブル席と座敷を仕切るのは、粋な扇面散らしの欄間です。
    横浜「三渓園」の旧矢箆原家住宅にも同様の意匠の欄間がありますが、優劣付け難い造作です。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />幕末まで酒造りを支えた井戸水で点てるお抹茶は、何ともまろやかな味わいです。趣深い庭の眺めと相俟って、ほっこりとした気分にしてくれます。このお抹茶を目当てに遠方から来られる常連さんも多いそうです。<br />お抹茶のお供は寶園堂の和菓子「水のしずく」です。長谷路の四季折々に咲く花にかかる朝露の風情をモチーフに、大納言小豆を琥珀糖でコーティングして仕上げた涼しげなお菓子です。<br />お茶碗は奈良を代表する陶器「赤膚焼(あかはだやき)」です。奈良市五条町付近に窯場が点在する遠州七窯の陶器で、赤みのある乳白色の柔らかな素地と奈良絵文様が特徴です。名の由来は五条山の別名「赤膚山」に因むとも言われています。<br />『万葉集』で有名な「青丹よし」の枕詞も、奈良山に良質のハニ(土器や瓦などの製作に適した粘土)が存在することを示しているそうです。<br />また、ランチタイムには、桜井の郷土食である素麺などの食事も摂ることができます。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    幕末まで酒造りを支えた井戸水で点てるお抹茶は、何ともまろやかな味わいです。趣深い庭の眺めと相俟って、ほっこりとした気分にしてくれます。このお抹茶を目当てに遠方から来られる常連さんも多いそうです。
    お抹茶のお供は寶園堂の和菓子「水のしずく」です。長谷路の四季折々に咲く花にかかる朝露の風情をモチーフに、大納言小豆を琥珀糖でコーティングして仕上げた涼しげなお菓子です。
    お茶碗は奈良を代表する陶器「赤膚焼(あかはだやき)」です。奈良市五条町付近に窯場が点在する遠州七窯の陶器で、赤みのある乳白色の柔らかな素地と奈良絵文様が特徴です。名の由来は五条山の別名「赤膚山」に因むとも言われています。
    『万葉集』で有名な「青丹よし」の枕詞も、奈良山に良質のハニ(土器や瓦などの製作に適した粘土)が存在することを示しているそうです。
    また、ランチタイムには、桜井の郷土食である素麺などの食事も摂ることができます。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />池泉鑑賞式庭園と豪語するだけのことはあり、濡れ縁に腰かけて庭を愛でることもできます。<br />注目は、この縁板の造作です。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    池泉鑑賞式庭園と豪語するだけのことはあり、濡れ縁に腰かけて庭を愛でることもできます。
    注目は、この縁板の造作です。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />濡れ縁から眺める庭園は、観る角度によって表情を違えます。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    濡れ縁から眺める庭園は、観る角度によって表情を違えます。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />茶室へと続く回廊です。<br />茶室は、敷地南側に主屋東面に接続して建つ三畳台目床付です。 <br />大正時代初期の建造で、木造平屋建、壁面は鼠漆喰仕上、屋根は寄棟桟瓦葺です。<br />門を潜って直ぐ左手にあります。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    茶室へと続く回廊です。
    茶室は、敷地南側に主屋東面に接続して建つ三畳台目床付です。 
    大正時代初期の建造で、木造平屋建、壁面は鼠漆喰仕上、屋根は寄棟桟瓦葺です。
    門を潜って直ぐ左手にあります。

  • 山田酒店 茶房「長谷路」<br />暖簾を透かして眺める庭園です。<br />後ろ髪を引かれながらお暇します。

    山田酒店 茶房「長谷路」
    暖簾を透かして眺める庭園です。
    後ろ髪を引かれながらお暇します。

  • 寶園堂<br />長谷路でいただいた和菓子「水のしずく」を製造販売しているお店です。<br />画像の左端にある黒っぽいお店が「神楽」と言い、鹿革を使った財布や名刺入れ、鞄などの雑貨を販売しています。鹿革は「レザーのカシミア」と呼ばれるほど肌触りが良く、かつ丈夫な皮革です。鹿革の代名詞でもあるセーム革(シャモア革)は、鹿や羊のような小動物の皮の銀面(革の表面)を削り取って油(主に鱈 肝油)で鞣して造った柔らかい革を言います。

    寶園堂
    長谷路でいただいた和菓子「水のしずく」を製造販売しているお店です。
    画像の左端にある黒っぽいお店が「神楽」と言い、鹿革を使った財布や名刺入れ、鞄などの雑貨を販売しています。鹿革は「レザーのカシミア」と呼ばれるほど肌触りが良く、かつ丈夫な皮革です。鹿革の代名詞でもあるセーム革(シャモア革)は、鹿や羊のような小動物の皮の銀面(革の表面)を削り取って油(主に鱈 肝油)で鞣して造った柔らかい革を言います。

  • 湯元 井谷屋 本館<br />江戸時代末期の創業となる老舗旅館です。<br />大浴場温泉「千人風呂」は、日帰り入浴もできます。地下600mより噴出する、大和路では類を見ない良質の温泉を提供されています。<br />泉質は炭酸水素塩泉、効能は神経痛リュウマチ、外傷骨折火傷、痔。病後回復ストレス解消、運動機能障害、関節痛、筋肉痛、五十肩、消化器、神経痛、創傷、打ち身、冷え性など。因みに、phは8.6の保温効果が高い無色透明の柔らかいお湯です。<br />http://www.itaniya.co.jp/

    湯元 井谷屋 本館
    江戸時代末期の創業となる老舗旅館です。
    大浴場温泉「千人風呂」は、日帰り入浴もできます。地下600mより噴出する、大和路では類を見ない良質の温泉を提供されています。
    泉質は炭酸水素塩泉、効能は神経痛リュウマチ、外傷骨折火傷、痔。病後回復ストレス解消、運動機能障害、関節痛、筋肉痛、五十肩、消化器、神経痛、創傷、打ち身、冷え性など。因みに、phは8.6の保温効果が高い無色透明の柔らかいお湯です。
    http://www.itaniya.co.jp/

  • 湯元 井谷屋 旧館<br />本館の向かいには、長谷参道を挟んで和の情緒たっぷりの旧館やその離れ「曙」もあります。<br />

    湯元 井谷屋 旧館
    本館の向かいには、長谷参道を挟んで和の情緒たっぷりの旧館やその離れ「曙」もあります。

  • 井谷屋旧館の先にも格子戸のある町屋風の民家が軒を連ねています。

    井谷屋旧館の先にも格子戸のある町屋風の民家が軒を連ねています。

  • 赤滝さかえや<br />昔から参道には、参詣客に草餅を売るお店が並んでいたといいます。参道には草餅のお店が軒を並べていますが、「赤滝さかえや」は門前町で草餅を最初に販売した元祖とされるお店です。草餅は、生ヨモギを使い一切添加物を使用しないで全て手作りです。<br />草餅の由来を紹介しおきます。<br />薬草として使われているヨモギは、古来邪気を払う力があり、これを食すと寿命が延びるという言い伝えがあります。その昔、長谷詣での旅人に自家製の草餅をさし上げた処、大層喜ばれ、その味と香りがいつしか評判となり、それ以来、誰始めるともなく初瀬の人々は、草餅で旅人をもてなす様になったそうです。

    赤滝さかえや
    昔から参道には、参詣客に草餅を売るお店が並んでいたといいます。参道には草餅のお店が軒を並べていますが、「赤滝さかえや」は門前町で草餅を最初に販売した元祖とされるお店です。草餅は、生ヨモギを使い一切添加物を使用しないで全て手作りです。
    草餅の由来を紹介しおきます。
    薬草として使われているヨモギは、古来邪気を払う力があり、これを食すと寿命が延びるという言い伝えがあります。その昔、長谷詣での旅人に自家製の草餅をさし上げた処、大層喜ばれ、その味と香りがいつしか評判となり、それ以来、誰始めるともなく初瀬の人々は、草餅で旅人をもてなす様になったそうです。

  • 伊勢辻の道標<br />江戸時代中期の1726(享保11)年に下化粧坂と参道の交わる辻に建立された、高さ2m程の道標です。<br />西面「右いせみち」、南面「右くわ音 左なら大坂道」、東面「左いせみち」、北面「伊勢辻 石工桜井与助」と刻まれています。因みに、「くわ音」とは「観音」のことです。<br />伊勢本海道・伊勢表街道の出発地点、また伊勢からの初瀬街道の終着地です。かつてはここから化粧坂を経て伊勢に通じていましたが、明治時代初頭に新道が開拓されてからは、人通りは疎らになったそうです。

    伊勢辻の道標
    江戸時代中期の1726(享保11)年に下化粧坂と参道の交わる辻に建立された、高さ2m程の道標です。
    西面「右いせみち」、南面「右くわ音 左なら大坂道」、東面「左いせみち」、北面「伊勢辻 石工桜井与助」と刻まれています。因みに、「くわ音」とは「観音」のことです。
    伊勢本海道・伊勢表街道の出発地点、また伊勢からの初瀬街道の終着地です。かつてはここから化粧坂を経て伊勢に通じていましたが、明治時代初頭に新道が開拓されてからは、人通りは疎らになったそうです。

  • 伊勢辻の道標<br />この道標を右(画像正面)に折れると、初瀬から宇陀に通じる伊勢(初瀬)街道です。<br />道なりに進めば、やがて化粧坂と言う優しげな名前とは裏腹の健脚向きの山道に分け入ります。古くは「けはい坂」あるいは「けわい坂」とも呼ばれ、「嶮坂」や「消灰坂」とも書かれていたそうです。途中に「おはぐろ石」という巨石があり、この辺りで旅人たちが服装の乱れを整えるべく、衣装替えや化粧直しをしたという伝承が残されています。 <br />本居宣長もこの道を辿り、その時のことを『菅笠日記』に記しています。 <br />「けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへにちかく あざあざと 見わたされるけしき えもいはず」。

    伊勢辻の道標
    この道標を右(画像正面)に折れると、初瀬から宇陀に通じる伊勢(初瀬)街道です。
    道なりに進めば、やがて化粧坂と言う優しげな名前とは裏腹の健脚向きの山道に分け入ります。古くは「けはい坂」あるいは「けわい坂」とも呼ばれ、「嶮坂」や「消灰坂」とも書かれていたそうです。途中に「おはぐろ石」という巨石があり、この辺りで旅人たちが服装の乱れを整えるべく、衣装替えや化粧直しをしたという伝承が残されています。
    本居宣長もこの道を辿り、その時のことを『菅笠日記』に記しています。
    「けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへにちかく あざあざと 見わたされるけしき えもいはず」。

  • 水路のある町屋<br />道は徐々に緩やかな上り坂になり、水路の水が走るように流れています。この水は上方に堰を設けて初瀬川から取水されたものです。門の脇には石橋が架けられており、往時を偲ぶよすがとなっています。<br />水路はこの先では暗渠になっています。

    水路のある町屋
    道は徐々に緩やかな上り坂になり、水路の水が走るように流れています。この水は上方に堰を設けて初瀬川から取水されたものです。門の脇には石橋が架けられており、往時を偲ぶよすがとなっています。
    水路はこの先では暗渠になっています。

  • 田中家住宅<br />高取藩主の参勤交代の際の本陣・脇本陣を務めた家で、屋号を「胡麻屋」と言う宿屋でした。本陣とは、江戸時代の宿場における最も権威のある宿泊施設で、脇本陣はそれに次ぐものです。<br />建築年は不詳ですが、江戸時代後期の19世紀初期に建築されたと推測されています。<br />ここを左へ折れれば、長谷寺への近道になります。

    田中家住宅
    高取藩主の参勤交代の際の本陣・脇本陣を務めた家で、屋号を「胡麻屋」と言う宿屋でした。本陣とは、江戸時代の宿場における最も権威のある宿泊施設で、脇本陣はそれに次ぐものです。
    建築年は不詳ですが、江戸時代後期の19世紀初期に建築されたと推測されています。
    ここを左へ折れれば、長谷寺への近道になります。

  • 田中家住宅<br />1850(嘉永3)年の宿割帳によると、「ねずみ屋」や「胡麻屋」など多くの宿屋が軒を連ね、参詣客で賑わっていた様子が窺えます。

    田中家住宅
    1850(嘉永3)年の宿割帳によると、「ねずみ屋」や「胡麻屋」など多くの宿屋が軒を連ね、参詣客で賑わっていた様子が窺えます。

  • 古めかしい建屋が連なっています。<br />

    古めかしい建屋が連なっています。

  • 泊瀬長者亭の手前で振り返ると、高台には土蔵の様な建物が建ち並んでいます。<br />その後方にあるのが、崇蓮寺です。本堂の前には、松尾芭蕉の古毛里塚の句碑があります。<br />「春の夜や 籠り人ゆかし 堂の隅」。

    泊瀬長者亭の手前で振り返ると、高台には土蔵の様な建物が建ち並んでいます。
    その後方にあるのが、崇蓮寺です。本堂の前には、松尾芭蕉の古毛里塚の句碑があります。
    「春の夜や 籠り人ゆかし 堂の隅」。

  • 泊瀬長者亭<br />前の画像の一番手前にある建物です。<br />観光案内所 兼 無料休憩所、カフェもあるスポットで、地元のNPO関係団体が参詣客の寛ぎの場として運営されています。店名の由来は、この参道が舞台となる有名な昔話『わらしべ長者』に因みます。<br />顔出しパネルに注目してください。門前町のゆるキャラは「はせでらいおん」と言い、タテガミが牡丹の花弁になっているのが特徴です。トイレタリー用品メーカやドーナツ屋のキャラかと間違えそうですが…。<br />では何故、ライオンなのでしょうか?<br />それは、長谷寺草創の堂宇である「本長谷寺」の鬼瓦が「鬼」ではなく「獅子」だからです。「獅子(百獣の王)」と「牡丹(百花の王)」の組合せが長谷寺の特徴を的確に捉え、ゆるキャラのネーミングの語呂合わせも見事に嵌った傑作です。

    泊瀬長者亭
    前の画像の一番手前にある建物です。
    観光案内所 兼 無料休憩所、カフェもあるスポットで、地元のNPO関係団体が参詣客の寛ぎの場として運営されています。店名の由来は、この参道が舞台となる有名な昔話『わらしべ長者』に因みます。
    顔出しパネルに注目してください。門前町のゆるキャラは「はせでらいおん」と言い、タテガミが牡丹の花弁になっているのが特徴です。トイレタリー用品メーカやドーナツ屋のキャラかと間違えそうですが…。
    では何故、ライオンなのでしょうか?
    それは、長谷寺草創の堂宇である「本長谷寺」の鬼瓦が「鬼」ではなく「獅子」だからです。「獅子(百獣の王)」と「牡丹(百花の王)」の組合せが長谷寺の特徴を的確に捉え、ゆるキャラのネーミングの語呂合わせも見事に嵌った傑作です。

  • 中山酒店<br />長谷の地酒の原酒「こもりくの里」の製造元販売店です。蔵出し風味そのままでアルコール度数が21度と高く、酒通が好む原酒生酒だそうです。全工程手づくりですので、このお店でしか買うことができません。

    中山酒店
    長谷の地酒の原酒「こもりくの里」の製造元販売店です。蔵出し風味そのままでアルコール度数が21度と高く、酒通が好む原酒生酒だそうです。全工程手づくりですので、このお店でしか買うことができません。

  • 中山酒店<br />新酒入荷の証となる「志るしの杉玉」が吊るされています。<br />杉玉は、長谷寺がある奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ) で生まれたものです。<br />因みに、奈良は「日本酒発祥の地」とも言われています。どぶろくのような酒から「すみざけ」とも呼ばれる現在のような清酒が造られるようになったのは、酒造りが朝廷から寺院に移った室町時代とされます。室町時代の古文書『御酒之日記』によると、室町時代に奈良で生まれた5つの日本酒の製法があり、この製法の誕生こそが奈良が日本酒の発祥地という根拠だそうです。<br />これらの酒は、「酒屋」と呼ばれた寺院で造られていました。それ故、往時は「僧坊酒」と呼ばれて流通していたそうです。美味しい日本酒を造り、それを贈ることで時の権力者から寄付金をもらい、寺院の隆盛の一助にしていたそうです。織田信長や豊臣秀吉も「僧坊酒」を好んで飲んだという記録が残っています。<br />奈良市にある菩提山真言宗大本山正暦寺には「日本清酒発祥之地」と刻まれた石碑が立っています。正暦寺では15世紀半ば、醸造した清酒「菩提泉」が販売されていた記録が残されています。<br />一方、兵庫県伊丹市にも「清酒発祥の地」があり、鴻池の始祖に当たる人物が1600(慶長5)年に双白澄酒(もろはくすみざけ)を造ることに成功したとの記録があります。伊丹の酒は江戸への輸送に耐えられる品質を備え、江戸時代後期に著された『日本山海名産図会』には「伊丹は日本上酒の始とも言うべし」と記されています。つまり、酒造の基礎技術は奈良、幅広くマーケットベースに乗せたのが伊丹ということのようです。

    中山酒店
    新酒入荷の証となる「志るしの杉玉」が吊るされています。
    杉玉は、長谷寺がある奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ) で生まれたものです。
    因みに、奈良は「日本酒発祥の地」とも言われています。どぶろくのような酒から「すみざけ」とも呼ばれる現在のような清酒が造られるようになったのは、酒造りが朝廷から寺院に移った室町時代とされます。室町時代の古文書『御酒之日記』によると、室町時代に奈良で生まれた5つの日本酒の製法があり、この製法の誕生こそが奈良が日本酒の発祥地という根拠だそうです。
    これらの酒は、「酒屋」と呼ばれた寺院で造られていました。それ故、往時は「僧坊酒」と呼ばれて流通していたそうです。美味しい日本酒を造り、それを贈ることで時の権力者から寄付金をもらい、寺院の隆盛の一助にしていたそうです。織田信長や豊臣秀吉も「僧坊酒」を好んで飲んだという記録が残っています。
    奈良市にある菩提山真言宗大本山正暦寺には「日本清酒発祥之地」と刻まれた石碑が立っています。正暦寺では15世紀半ば、醸造した清酒「菩提泉」が販売されていた記録が残されています。
    一方、兵庫県伊丹市にも「清酒発祥の地」があり、鴻池の始祖に当たる人物が1600(慶長5)年に双白澄酒(もろはくすみざけ)を造ることに成功したとの記録があります。伊丹の酒は江戸への輸送に耐えられる品質を備え、江戸時代後期に著された『日本山海名産図会』には「伊丹は日本上酒の始とも言うべし」と記されています。つまり、酒造の基礎技術は奈良、幅広くマーケットベースに乗せたのが伊丹ということのようです。

  • 初瀬新聞舗<br />この手のレトロな看板は、見かけなくなって久しくなります。<br />それにしても取り扱う新聞社が13社と半端ではなく、この地域のメディア王的な存在と言えます。<br />販売店も大変でしょうが、配達する方はもっと大変でしょうね!

    初瀬新聞舗
    この手のレトロな看板は、見かけなくなって久しくなります。
    それにしても取り扱う新聞社が13社と半端ではなく、この地域のメディア王的な存在と言えます。
    販売店も大変でしょうが、配達する方はもっと大変でしょうね!

  • 長谷寺開山堂法起院<br />参道の右手に忽然と現れる細い路地の先に山門が佇みます。<br />長谷寺を開山した徳道上人の霊廟がある、西国三十三所「番外札所」です。<br />ここのレポは、次回紹介いたします。

    長谷寺開山堂法起院
    参道の右手に忽然と現れる細い路地の先に山門が佇みます。
    長谷寺を開山した徳道上人の霊廟がある、西国三十三所「番外札所」です。
    ここのレポは、次回紹介いたします。

  • 井上ぼたん堂<br />法起院の向かいにあります。<br />ヨモギ餅や吉野葛の製品となる葛菓子・葛湯・くず餅などを販売しています。「桜っこようかん」はかつてテレビチャンピオンで優勝したことがあります。<br />ヨモギ餅は、京都の生八つ橋のような編み笠の形をしているのが特徴です。その他、中がヨモギ餅で餡子をまぶしたぼたん餅、ヨモギ餅を焼いた焼餅もあります。<br />他のお店ではヨモギ餅は120円でしたが、ここだけは100円でした。

    井上ぼたん堂
    法起院の向かいにあります。
    ヨモギ餅や吉野葛の製品となる葛菓子・葛湯・くず餅などを販売しています。「桜っこようかん」はかつてテレビチャンピオンで優勝したことがあります。
    ヨモギ餅は、京都の生八つ橋のような編み笠の形をしているのが特徴です。その他、中がヨモギ餅で餡子をまぶしたぼたん餅、ヨモギ餅を焼いた焼餅もあります。
    他のお店ではヨモギ餅は120円でしたが、ここだけは100円でした。

  • 與喜天満神社<br />天然記念物「与喜山暖帯林」と言われる原始林に覆われた與喜山(標高455m)の山麓には、日本最古の天神とされる與喜天満神社が鎮座しています。<br />祭神は学問の神様として知られる菅原道真で、道真の先祖 野見宿禰は初瀬の出雲の出身だそうです。天神が鎮座したのは『長谷寺験記』によると平安時代の946(天慶9)年で、後に初瀬の地域の守護神としても信仰されるようになりました。<br />現在の社殿は、江戸時代後期の1818(文政元)年に長谷寺によって再建されたものです。

    與喜天満神社
    天然記念物「与喜山暖帯林」と言われる原始林に覆われた與喜山(標高455m)の山麓には、日本最古の天神とされる與喜天満神社が鎮座しています。
    祭神は学問の神様として知られる菅原道真で、道真の先祖 野見宿禰は初瀬の出雲の出身だそうです。天神が鎮座したのは『長谷寺験記』によると平安時代の946(天慶9)年で、後に初瀬の地域の守護神としても信仰されるようになりました。
    現在の社殿は、江戸時代後期の1818(文政元)年に長谷寺によって再建されたものです。

  • 與喜天満神社への参道を登らずに左に折れると、正面の山が初瀬山(標高548m)<br />です。

    與喜天満神社への参道を登らずに左に折れると、正面の山が初瀬山(標高548m)
    です。

  • 草餅「総本家 寿屋」<br />創業80年かつ「総本山長谷寺彼岸講御用達」のお店です。味は全国トップレベルを自負されていますから、間違いないようです。冷凍ヨモギは一切使わず、昔ながらの素朴な草餅の味の伝統を守り続けているお店です。店頭にも今朝摘んだばかりのヨモギが置かれています。<br />また、この日は見かけませんでしたが、3匹の看板猫がいるそうです。

    草餅「総本家 寿屋」
    創業80年かつ「総本山長谷寺彼岸講御用達」のお店です。味は全国トップレベルを自負されていますから、間違いないようです。冷凍ヨモギは一切使わず、昔ながらの素朴な草餅の味の伝統を守り続けているお店です。店頭にも今朝摘んだばかりのヨモギが置かれています。
    また、この日は見かけませんでしたが、3匹の看板猫がいるそうです。

  • この「桜の馬場」の先、初瀬山の麓に長谷寺の仁王門が佇みます。<br />

    この「桜の馬場」の先、初瀬山の麓に長谷寺の仁王門が佇みます。

  • 田中屋<br />長谷寺の参道に建つ料理旅館です。長年、長谷寺の行事に仕出しをしている老舗ですが、1階に併設された食事処では茶粥や桜井発祥の三輪そうめん、精進料理(要予約)などが味わえます。<br />http://www.hase-tanakaya.com/index.html

    田中屋
    長谷寺の参道に建つ料理旅館です。長年、長谷寺の行事に仕出しをしている老舗ですが、1階に併設された食事処では茶粥や桜井発祥の三輪そうめん、精進料理(要予約)などが味わえます。
    http://www.hase-tanakaya.com/index.html

  • 田中屋<br />法起院を参詣後、11時過ぎにここでランチを摂りました。<br />約30年前、長谷寺から依頼されたのをきっかけに作りはじめた、自家製胡麻豆腐が看板メニューの人気店です。<br />奈良特産の金胡麻を油が出るまで丹念に磨り潰し、だし汁と合わせた後、吉野本葛を混ぜて固めたものです。じっくり時間をかけて丁寧に作られた胡麻豆腐は、コク深い胡麻の風味とやわらかく滑らかな食感が特徴です。

    田中屋
    法起院を参詣後、11時過ぎにここでランチを摂りました。
    約30年前、長谷寺から依頼されたのをきっかけに作りはじめた、自家製胡麻豆腐が看板メニューの人気店です。
    奈良特産の金胡麻を油が出るまで丹念に磨り潰し、だし汁と合わせた後、吉野本葛を混ぜて固めたものです。じっくり時間をかけて丁寧に作られた胡麻豆腐は、コク深い胡麻の風味とやわらかく滑らかな食感が特徴です。

  • 田中屋<br />団体客の予約が入っているようで、すでに半数のテーブル席が埋まっていました。<br />そう言えば、玄関のプレートに「歓迎 トラベルYOU様 御一行」とありました。<br />坪庭には観音様が祀られています。

    田中屋
    団体客の予約が入っているようで、すでに半数のテーブル席が埋まっていました。
    そう言えば、玄関のプレートに「歓迎 トラベルYOU様 御一行」とありました。
    坪庭には観音様が祀られています。

  • 田中屋 三輪素麺セット<br />自家製胡麻豆腐付です。<br />超極細麺ですが、モチモチとした麺のコシと爽やかなのどごし、小麦の風味の豊かさと三拍子揃っています。胡麻豆腐は期待以上の味でした。<br />三輪素麺は、奈良県桜井市を中心とした三輪地方で生産されている産品です。それ故に、三輪地方は「そうめん発祥の地」とも言われています。そうめんの起源には次のような伝承があります。<br />今から1200余年前、三輪山「大神神社」に三輪族の氏上 穀主朝臣が飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願したところ、神の啓示を賜りました。仰せのままに肥沃な三輪の里に小麦を撒き、その実りを水車お石臼で粉に挽き、癒しの湧き水でこね延ばして糸状にした。これが、そうめんの起源だそうです。

    田中屋 三輪素麺セット
    自家製胡麻豆腐付です。
    超極細麺ですが、モチモチとした麺のコシと爽やかなのどごし、小麦の風味の豊かさと三拍子揃っています。胡麻豆腐は期待以上の味でした。
    三輪素麺は、奈良県桜井市を中心とした三輪地方で生産されている産品です。それ故に、三輪地方は「そうめん発祥の地」とも言われています。そうめんの起源には次のような伝承があります。
    今から1200余年前、三輪山「大神神社」に三輪族の氏上 穀主朝臣が飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願したところ、神の啓示を賜りました。仰せのままに肥沃な三輪の里に小麦を撒き、その実りを水車お石臼で粉に挽き、癒しの湧き水でこね延ばして糸状にした。これが、そうめんの起源だそうです。

  • 田中屋 にゅうめんセット<br />自家製胡麻豆腐付です。<br />手延べならではのコシがある超極細麺に、だしのきいた特性つゆとのバランスが抜群です。<br />具も沢山入っています。<br />かつて素麺は索餅(さくべい)と言われ、宮中において儀式や饗宴に珍重されていたことは、平安時代以降の公卿の日記や女官たちの手記によって知られており、元日の宴会にも饗せられていました。 <br />室町時代には女官たちが素麺のことを「おぞろ」と呼び、七夕の行事に素麺が饗せられていました。

    田中屋 にゅうめんセット
    自家製胡麻豆腐付です。
    手延べならではのコシがある超極細麺に、だしのきいた特性つゆとのバランスが抜群です。
    具も沢山入っています。
    かつて素麺は索餅(さくべい)と言われ、宮中において儀式や饗宴に珍重されていたことは、平安時代以降の公卿の日記や女官たちの手記によって知られており、元日の宴会にも饗せられていました。
    室町時代には女官たちが素麺のことを「おぞろ」と呼び、七夕の行事に素麺が饗せられていました。

  • 総本舗 白酒屋<br />1875(明治8)年に造酒屋として創業し、長きに亘り「奈良漬」で参詣客に愛されてきたお店です。戦時中には旅館を営んでおり、その時に長谷寺の参道で草餅を販売したことが名物「くさ福餅」の始まりです。厳選した天然ヨモギの中でも3月に摘んだ新芽のみを使うため、ヨモギの繊維が細かく口当たりがなめらかです。生地とヨモギを杵を使って手で撞くことで、手作りならではの粘りと食感が生まれ、風味も豊かです。生地の中には、北海道産の最上級小豆を使った自家製餡が入っています。<br />奈良漬は、長い年月じっくりと熟成させた「三年漬」と呼ばれるものを販売されています。<br />http://www.shirozakeya.com/

    総本舗 白酒屋
    1875(明治8)年に造酒屋として創業し、長きに亘り「奈良漬」で参詣客に愛されてきたお店です。戦時中には旅館を営んでおり、その時に長谷寺の参道で草餅を販売したことが名物「くさ福餅」の始まりです。厳選した天然ヨモギの中でも3月に摘んだ新芽のみを使うため、ヨモギの繊維が細かく口当たりがなめらかです。生地とヨモギを杵を使って手で撞くことで、手作りならではの粘りと食感が生まれ、風味も豊かです。生地の中には、北海道産の最上級小豆を使った自家製餡が入っています。
    奈良漬は、長い年月じっくりと熟成させた「三年漬」と呼ばれるものを販売されています。
    http://www.shirozakeya.com/

  • 総本舗 白酒屋<br />店舗の一角でヨモギ餅を撞いています。こうしたパフォーマンスが「人寄せパンダ」効果を発揮するのでしょう。<br />当方の様な「花より団子」派の方には、「餡子餅」のお話を紹介いたします。<br />「餡子餅」には「ぼたもち」と「おはぎ」がありますが、実はどちらも同じものです。呼び分けには季節の花が関係するとの説があります。<br />春のお彼岸に供えるのは、春を代表する花「牡丹」に因んで、小豆の粒を牡丹の花びらに見立てて、「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と呼ばれるようになったそうです。<br />一方、秋のお彼岸に供えるのは、 秋を代表する花 「萩」に因んで、萩の花が小豆の粒と形が似ていることから、「萩餅」→「おはぎもち」 →「おはぎ」と転化したそうです。<br />では、何故牡丹の方にだけ餅が付くのでしょうか?その訳は、1712(正徳2)年に医師 寺島良安が編纂した大百科事典『倭漢三才図会』に「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」とあり、牡丹餅がぼたもちになり、萩を丁寧に言っておはぎになったというのが有力な説です。「萩の花」とあるのが「おはぎ」の別名なのです。<br /><br />この続きは、あをによし 隠国の泊瀬逍遥②法起院でお届けいたします。

    総本舗 白酒屋
    店舗の一角でヨモギ餅を撞いています。こうしたパフォーマンスが「人寄せパンダ」効果を発揮するのでしょう。
    当方の様な「花より団子」派の方には、「餡子餅」のお話を紹介いたします。
    「餡子餅」には「ぼたもち」と「おはぎ」がありますが、実はどちらも同じものです。呼び分けには季節の花が関係するとの説があります。
    春のお彼岸に供えるのは、春を代表する花「牡丹」に因んで、小豆の粒を牡丹の花びらに見立てて、「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と呼ばれるようになったそうです。
    一方、秋のお彼岸に供えるのは、 秋を代表する花 「萩」に因んで、萩の花が小豆の粒と形が似ていることから、「萩餅」→「おはぎもち」 →「おはぎ」と転化したそうです。
    では、何故牡丹の方にだけ餅が付くのでしょうか?その訳は、1712(正徳2)年に医師 寺島良安が編纂した大百科事典『倭漢三才図会』に「牡丹餅および萩の花は形、色をもってこれを名づく」とあり、牡丹餅がぼたもちになり、萩を丁寧に言っておはぎになったというのが有力な説です。「萩の花」とあるのが「おはぎ」の別名なのです。

    この続きは、あをによし 隠国の泊瀬逍遥②法起院でお届けいたします。

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