桜井・三輪・山の辺の道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
後編は本堂を中心に本坊のインスタ映えポイント、歓喜院の奥に潜む茶室「茄藻庵」など長谷寺の要所や隠れた見所をレポいたします。<br />古代遺跡が一直線上に築造・配置されていることを「レイライン」と言い、日本にも幾つか存在します。世界中で見られるこの現象は、1912年に英国の考古学研究家 アルフレッド・ワトキンスによって発見されました。<br />中でも、太陽信仰との結び付きから天照大神に関係する「太陽の道」と呼ばれるレイラインが遺跡ファンを魅了してきました。東端に当たる三重県の神島から、西端の淡路島にある伊勢久留麻神社を結ぶ北緯34度32分線を指し、伊勢(斎宮)や三輪山 大神神社、元伊勢と呼ばれる桧原神社、国津神社、卑弥呼の墓説もある箸墓古墳など主なもので14以上の古い神社や遺跡が連なります。長谷寺もそのライン上に鎮まり、特別なエネルギーが集まる最強パワースポトのひとつとされています。<br />長谷寺のHPです。<br />http://www.hasedera.or.jp/

あをによし 隠国の泊瀬逍遥④長谷寺<後編>エピローグ

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2019/05/02 - 2019/05/02

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

後編は本堂を中心に本坊のインスタ映えポイント、歓喜院の奥に潜む茶室「茄藻庵」など長谷寺の要所や隠れた見所をレポいたします。
古代遺跡が一直線上に築造・配置されていることを「レイライン」と言い、日本にも幾つか存在します。世界中で見られるこの現象は、1912年に英国の考古学研究家 アルフレッド・ワトキンスによって発見されました。
中でも、太陽信仰との結び付きから天照大神に関係する「太陽の道」と呼ばれるレイラインが遺跡ファンを魅了してきました。東端に当たる三重県の神島から、西端の淡路島にある伊勢久留麻神社を結ぶ北緯34度32分線を指し、伊勢(斎宮)や三輪山 大神神社、元伊勢と呼ばれる桧原神社、国津神社、卑弥呼の墓説もある箸墓古墳など主なもので14以上の古い神社や遺跡が連なります。長谷寺もそのライン上に鎮まり、特別なエネルギーが集まる最強パワースポトのひとつとされています。
長谷寺のHPです。
http://www.hasedera.or.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 本堂(国宝)<br />初瀬山(標高548m)の中腹の懸崖に建てられた、入母屋造、本瓦葺、側面に裳階を付けた大殿堂です。礼堂(らいどう)と舞台は清水寺と同じ懸造(かけづくり)と言われる建築方法を用い、崖の上に迫り出すように広縁が伸びるその姿から「舞台造」とも言われます。

    本堂(国宝)
    初瀬山(標高548m)の中腹の懸崖に建てられた、入母屋造、本瓦葺、側面に裳階を付けた大殿堂です。礼堂(らいどう)と舞台は清水寺と同じ懸造(かけづくり)と言われる建築方法を用い、崖の上に迫り出すように広縁が伸びるその姿から「舞台造」とも言われます。

  • 本堂<br />懸造は、床下の柱の長さを調節し、建物内部を水平に保つ伝統的建築技法であり、日本独自の様式です。<br />舞台の端まで引いても本堂の全景をカメラに収めることは困難です。<br />(10mm 超広角レンズ使用)<br />

    本堂
    懸造は、床下の柱の長さを調節し、建物内部を水平に保つ伝統的建築技法であり、日本独自の様式です。
    舞台の端まで引いても本堂の全景をカメラに収めることは困難です。
    (10mm 超広角レンズ使用)

  • 本堂<br />軒には二軒繁垂木、組物は出三斗、中備は間斗束を施しています。<br />

    本堂
    軒には二軒繁垂木、組物は出三斗、中備は間斗束を施しています。

  • 本堂<br />扁額「大悲閣」の額字は、書道家・篆刻家 大久保翠洞( すいどう)師によります。<br />1906(明治39)年元旦に現在の茨城県古河市の印章業を営む生家に生まれた方です。扁額の献納は1977(昭和52)年とされ、師のその他の作品には日光輪王寺の扁額「金堂」などがあり、その繊細かつ生命感溢れる作風は多くの人々を魅了しています。<br />因みに、「大悲閣」とは観世音菩薩像を安置した仏堂のことを言います。「大きな悲しみ」と書きますが、「悲」という漢字は元来、「救う・助ける」という意味であり、「大きな慈しみをもって衆生を救う」という意味だそうです。

    本堂
    扁額「大悲閣」の額字は、書道家・篆刻家 大久保翠洞( すいどう)師によります。
    1906(明治39)年元旦に現在の茨城県古河市の印章業を営む生家に生まれた方です。扁額の献納は1977(昭和52)年とされ、師のその他の作品には日光輪王寺の扁額「金堂」などがあり、その繊細かつ生命感溢れる作風は多くの人々を魅了しています。
    因みに、「大悲閣」とは観世音菩薩像を安置した仏堂のことを言います。「大きな悲しみ」と書きますが、「悲」という漢字は元来、「救う・助ける」という意味であり、「大きな慈しみをもって衆生を救う」という意味だそうです。

  • 本堂 大香炉<br />長谷寺は三重県松坂の豪商からも崇拝されており、『松阪市史』によると、「伊勢松坂の紙問屋6代目 小津清左衛門道慧が1754(宝暦4)年にこの大香炉を寄進した」とあります。<br />頂点で咆哮するのは獅子ですが、その下で邪鬼が一生懸命に香炉を支える姿がいじらしく思えます。足にはハート形の猪目も施されています。

    本堂 大香炉
    長谷寺は三重県松坂の豪商からも崇拝されており、『松阪市史』によると、「伊勢松坂の紙問屋6代目 小津清左衛門道慧が1754(宝暦4)年にこの大香炉を寄進した」とあります。
    頂点で咆哮するのは獅子ですが、その下で邪鬼が一生懸命に香炉を支える姿がいじらしく思えます。足にはハート形の猪目も施されています。

  • 本堂 舞台<br />舞台から左手に見える若葉色の與喜山、本坊の真後ろにチョコンと聳える愛宕山の眺望は雄大そのもので、碧一色の中に大和と伊勢を結ぶ初瀬街道や初瀬川が谷間となって見下ろせます。<br />中央やや右に聳える高い木が60mある天狗杉です。

    本堂 舞台
    舞台から左手に見える若葉色の與喜山、本坊の真後ろにチョコンと聳える愛宕山の眺望は雄大そのもので、碧一色の中に大和と伊勢を結ぶ初瀬街道や初瀬川が谷間となって見下ろせます。
    中央やや右に聳える高い木が60mある天狗杉です。

  • 本堂 舞台<br />本堂から俯瞰する本坊です。<br />本坊の大玄関が本尊の方に向けられていることが判ります。

    本堂 舞台
    本堂から俯瞰する本坊です。
    本坊の大玄関が本尊の方に向けられていることが判ります。

  • 本堂 舞台<br />本堂の西側には、これも碧の杜から芽吹いたような五重塔が聳え立ちます。

    本堂 舞台
    本堂の西側には、これも碧の杜から芽吹いたような五重塔が聳え立ちます。

  • 五重塔<br />五重塔は仏塔の形式のひとつであり、構成する5つの楼閣を下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)と言います。<br />5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表すそうです。

    五重塔
    五重塔は仏塔の形式のひとつであり、構成する5つの楼閣を下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)と言います。
    5層それぞれは独自の世界(思想)を示し、仏教的な宇宙観を表すそうです。

  • 本堂 舞台<br />擬宝珠高欄を廻らした懸造の舞台です。崖の上に迫り出すように広縁が伸ばされ、それをフレーム状の柱で支えています。<br />「清水の舞台」に対して「長谷の舞台」とも呼ばれるこの舞台は、18年毎に修理が行われており、最近では2015年に完了しています。<br />慣用句で「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、大和の人は「長谷の舞台から」と言うそうです。

    本堂 舞台
    擬宝珠高欄を廻らした懸造の舞台です。崖の上に迫り出すように広縁が伸ばされ、それをフレーム状の柱で支えています。
    「清水の舞台」に対して「長谷の舞台」とも呼ばれるこの舞台は、18年毎に修理が行われており、最近では2015年に完了しています。
    慣用句で「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、大和の人は「長谷の舞台から」と言うそうです。

  • 本堂 相の間<br />正堂と礼堂の間には石敷の土間が設けられ、参詣客はそこから本尊を拝めます。<br />(本尊側は写真撮影禁止)<br />見事な丸太柱が杜のように樹立し、床に映るその陰影と香炉台のシルエットが印象深い神聖なる空間です。<br />当方の背面には、金色に輝く本尊が鎮まっています。また、内陣の壁面には、四天王が描かれています。更には、薬師如来、日光・月光菩薩の両脇侍、十二神将と揃った仏像群も荘厳な雰囲気を湛えています。(特別拝観で拝むことができます)

    本堂 相の間
    正堂と礼堂の間には石敷の土間が設けられ、参詣客はそこから本尊を拝めます。
    (本尊側は写真撮影禁止)
    見事な丸太柱が杜のように樹立し、床に映るその陰影と香炉台のシルエットが印象深い神聖なる空間です。
    当方の背面には、金色に輝く本尊が鎮まっています。また、内陣の壁面には、四天王が描かれています。更には、薬師如来、日光・月光菩薩の両脇侍、十二神将と揃った仏像群も荘厳な雰囲気を湛えています。(特別拝観で拝むことができます)

  • 本堂 礼堂<br />ダイジェストで長谷寺の歴史を振り返っておきましょう。大きく、3つの時代に分けられます。<br />寺伝によると、奈良時代の686(朱鳥元)年に明日香村の弘福(ぐふく)寺(飛鳥川原寺)の住職 道明上人が初瀬山の中腹にある西の丘に石室仏像と三重塔を建立し、『銅板法華説相図』を安置したのが始まりとされます。<br />その後、727(神亀4)年に道明の弟子 徳道上人が現在の長谷寺本堂のある東の丘に本尊 十一面観世音菩薩像を祀って開山したと伝わります。

    本堂 礼堂
    ダイジェストで長谷寺の歴史を振り返っておきましょう。大きく、3つの時代に分けられます。
    寺伝によると、奈良時代の686(朱鳥元)年に明日香村の弘福(ぐふく)寺(飛鳥川原寺)の住職 道明上人が初瀬山の中腹にある西の丘に石室仏像と三重塔を建立し、『銅板法華説相図』を安置したのが始まりとされます。
    その後、727(神亀4)年に道明の弟子 徳道上人が現在の長谷寺本堂のある東の丘に本尊 十一面観世音菩薩像を祀って開山したと伝わります。

  • 本堂 礼堂<br />奈良時代には、本尊 十一面観世音菩薩像により観音信仰の中心的寺院として崇拝されました。また平安時代初期までは華厳宗の東大寺の末寺、平安時代中期には法相宗の興福寺の末寺となりますが、平安時代を通じて数多の歌人に詠まれ、『源氏物語』が書かれた一条天皇の治世には都の貴族など高貴な人々の間で参詣が流行したようです。長谷寺への参詣は「初瀬詣で(はせもうで)」と称され、『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』などの仮名文学作品にも度々登場します。やがて、1024(万寿元)年には時の権力者 藤原道長が参詣するに至り、「初瀬詣で」は次第に武家や庶民の間へと広がり、更に多くの信仰を集めるようになりました。

    本堂 礼堂
    奈良時代には、本尊 十一面観世音菩薩像により観音信仰の中心的寺院として崇拝されました。また平安時代初期までは華厳宗の東大寺の末寺、平安時代中期には法相宗の興福寺の末寺となりますが、平安時代を通じて数多の歌人に詠まれ、『源氏物語』が書かれた一条天皇の治世には都の貴族など高貴な人々の間で参詣が流行したようです。長谷寺への参詣は「初瀬詣で(はせもうで)」と称され、『源氏物語』や『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』などの仮名文学作品にも度々登場します。やがて、1024(万寿元)年には時の権力者 藤原道長が参詣するに至り、「初瀬詣で」は次第に武家や庶民の間へと広がり、更に多くの信仰を集めるようになりました。

  • 本堂 礼堂<br />16世紀以降は新義真言宗の流れを汲む寺院となり、戦国時代の1588年、羽柴秀吉による紀州征伐で新義真言宗の本山 根来寺(ねごろじ)が攻撃を受け、学頭 専誉(せんよ)は学徒を率いて高野山に逃れ、また京の醍醐寺に身を寄せて講義を続けるも、やがて泉州国分寺に隠棲しました。 <br />長谷寺は観音霊場として天下に知られた名刹でしたが、大和の太守 豊臣秀長(秀吉の弟)は高徳の僧を迎えて戦禍に遭い荒廃した長谷寺の復興を図ろうとしました。そして白羽の矢を立てた専誉が入山すると、学徳を慕う学僧たちが全国から集まり、根来寺に栄えた真言の教学は長谷寺で再興したのでした。また、入山に際し、専誉は今まで長谷寺を支えてきた人々にも心遣いをしたといいます。<br />こうして、学問的にも人間的にも優れた専誉の入山により、根来寺の僧侶を中心とした現在の真言宗豊山派の中心寺院になり、特に僧侶たちの学問所として発展を遂げました。また開山した徳道が安置した十一面観音像により西国三十三観音の根本霊場とされ、全国の観音信仰の中心寺院となりました。

    本堂 礼堂
    16世紀以降は新義真言宗の流れを汲む寺院となり、戦国時代の1588年、羽柴秀吉による紀州征伐で新義真言宗の本山 根来寺(ねごろじ)が攻撃を受け、学頭 専誉(せんよ)は学徒を率いて高野山に逃れ、また京の醍醐寺に身を寄せて講義を続けるも、やがて泉州国分寺に隠棲しました。
    長谷寺は観音霊場として天下に知られた名刹でしたが、大和の太守 豊臣秀長(秀吉の弟)は高徳の僧を迎えて戦禍に遭い荒廃した長谷寺の復興を図ろうとしました。そして白羽の矢を立てた専誉が入山すると、学徳を慕う学僧たちが全国から集まり、根来寺に栄えた真言の教学は長谷寺で再興したのでした。また、入山に際し、専誉は今まで長谷寺を支えてきた人々にも心遣いをしたといいます。
    こうして、学問的にも人間的にも優れた専誉の入山により、根来寺の僧侶を中心とした現在の真言宗豊山派の中心寺院になり、特に僧侶たちの学問所として発展を遂げました。また開山した徳道が安置した十一面観音像により西国三十三観音の根本霊場とされ、全国の観音信仰の中心寺院となりました。

  • 本堂 礼堂<br />『お伽草子』に登場し、「日本版シンデレラ」と称される「鉢かづき姫」の両親が子授かりを祈願したのもこの長谷寺です。<br />昔々、河内国に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいた。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子を授かり、「初瀬姫」と名付けました。やがて美しい娘に成長したが、病弱な母親は自分が死んだ後の姫の行く末を案じ、長谷観音のお告げ通りに娘の頭に大きな鉢を被せました。すると、何をしても外せなくなりました。 <br />母親の死後、父は再婚し、継母は姫の鉢を見て気味悪がり、家来に命じて姫を遠方に捨ててしまいました。姫は、世を儚んで入水自殺を図るが、鉢のおかげで溺れることなく浮き上がり、通りがかりの公家に助けられ、その屋敷で奉公することになった。ある日、公家の若君に縁談がもち上がりますが、若君はその縁談を断り、下女と結婚したいと言いだしました。両親は下女との結婚に猛反対し、兄たちの嫁との「嫁くらべ」を行って断念させようとしました。 <br />ある日、若君の父親は下女を殺そうと思い、刀を抜いて振りかぶった瞬間、下女の頭に被せられた鉢が粉々に砕け、中から沢山の金銀財宝と共に美しい顔が露わになりました。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い才女でした。<br />やがて娘は若君と結婚して3人の子宝に恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生涯を送ったとさ。

    本堂 礼堂
    『お伽草子』に登場し、「日本版シンデレラ」と称される「鉢かづき姫」の両親が子授かりを祈願したのもこの長谷寺です。
    昔々、河内国に寝屋備中守藤原実高という長者が住んでいた。長谷観音に祈願し、望み通りに女の子を授かり、「初瀬姫」と名付けました。やがて美しい娘に成長したが、病弱な母親は自分が死んだ後の姫の行く末を案じ、長谷観音のお告げ通りに娘の頭に大きな鉢を被せました。すると、何をしても外せなくなりました。
    母親の死後、父は再婚し、継母は姫の鉢を見て気味悪がり、家来に命じて姫を遠方に捨ててしまいました。姫は、世を儚んで入水自殺を図るが、鉢のおかげで溺れることなく浮き上がり、通りがかりの公家に助けられ、その屋敷で奉公することになった。ある日、公家の若君に縁談がもち上がりますが、若君はその縁談を断り、下女と結婚したいと言いだしました。両親は下女との結婚に猛反対し、兄たちの嫁との「嫁くらべ」を行って断念させようとしました。
    ある日、若君の父親は下女を殺そうと思い、刀を抜いて振りかぶった瞬間、下女の頭に被せられた鉢が粉々に砕け、中から沢山の金銀財宝と共に美しい顔が露わになりました。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い才女でした。
    やがて娘は若君と結婚して3人の子宝に恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生涯を送ったとさ。

  • 本堂 礼堂<br />西側には大正2年奉納と書かれた青銅製の燈籠が2基あります。<br />頂点で咆哮するのは龍です。

    本堂 礼堂
    西側には大正2年奉納と書かれた青銅製の燈籠が2基あります。
    頂点で咆哮するのは龍です。

  • 本堂 礼堂 <br />燈籠には、龍と不老長寿の験として知られる蓑亀があしらわれています。甲羅からなびく緑色の藻が蓑亀の目印です。文様などにも描かれる蓑亀ですが、大変縁起の良い吉祥の証として古来珍重されてきました。<br />蓑亀が書物に記されたのは5世紀の中国ですが、日本に伝承されたのは平安時代とされます。年号の中に元亀などとあるのは、蓑亀が出現あるいは捕まえられたという瑞兆を言祝ぐために改元されたと伝えられます。<br />前方にある人の列は、賓頭盧(びんずる)像を撫でる順番を待つ人たちです。

    本堂 礼堂
    燈籠には、龍と不老長寿の験として知られる蓑亀があしらわれています。甲羅からなびく緑色の藻が蓑亀の目印です。文様などにも描かれる蓑亀ですが、大変縁起の良い吉祥の証として古来珍重されてきました。
    蓑亀が書物に記されたのは5世紀の中国ですが、日本に伝承されたのは平安時代とされます。年号の中に元亀などとあるのは、蓑亀が出現あるいは捕まえられたという瑞兆を言祝ぐために改元されたと伝えられます。
    前方にある人の列は、賓頭盧(びんずる)像を撫でる順番を待つ人たちです。

  • 本堂<br />近世前半の大規模本堂の代表作として2004年に国宝指定されました。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附指定となっています。<br />本堂は、奈良時代の創建後、室町時代の1536(天文5)年までに7度も火災等で焼失しましたが、その都度再興されて現在に至ります。

    本堂
    近世前半の大規模本堂の代表作として2004年に国宝指定されました。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附指定となっています。
    本堂は、奈良時代の創建後、室町時代の1536(天文5)年までに7度も火災等で焼失しましたが、その都度再興されて現在に至ります。

  • 本堂<br />現在の本堂は徳川家光の寄進を受けて1650年に落慶したもので、それは舞台の勾欄にある擬宝珠にある刻銘で確認できます。<br />室町時代に焼失後、本堂が江戸時代まで再建されなかった訳ではありません。あまり知られていないのですが、1588(天正16)年に豊臣秀長の援助により再建されています。では何故、焼けた訳でもないのに徳川家が再建したのでしょうか?これは、徳川家が豊臣家の遺功を全て消し去ろうとした一環と思われます。

    本堂
    現在の本堂は徳川家光の寄進を受けて1650年に落慶したもので、それは舞台の勾欄にある擬宝珠にある刻銘で確認できます。
    室町時代に焼失後、本堂が江戸時代まで再建されなかった訳ではありません。あまり知られていないのですが、1588(天正16)年に豊臣秀長の援助により再建されています。では何故、焼けた訳でもないのに徳川家が再建したのでしょうか?これは、徳川家が豊臣家の遺功を全て消し去ろうとした一環と思われます。

  • 鐘楼<br />「尾上の鐘」は、「未来鐘」とも呼ばれ、それはある逸話に因みます。<br />昔、山城木津の里に野慈という男が住んでいました。貧しくも信心深く、長谷寺観音への月詣でを欠かしませんでした。<br />ある時、野慈は宿坊の慈願に鐘楼が小さいことを嘆き、 「私の願いが成就すれば、鐘を一口奉納します」と誓いました。それを聞いた人々は、「なぁんだ、未来のことか」と笑い、この男を「未来男」と呼んで馬鹿にしました。<br />しかしその後、観音様の霊験がこの男の人生を一変しました。野慈は、近江の国司代になり、栗田助貞と改名し、鐘を鋳造して長谷観音に奉納し、供養を営んだといいます。その鐘に「正六位下木津未来男」と刻まれていたことから、人々はその鐘を「未来鐘」と呼ぶようになったそうです。<br />その梵鐘は焼失してしまいましたが、再建された梵鐘も「未来鐘」と呼ばれています。この鐘の音にあやかりたいものです。

    鐘楼
    「尾上の鐘」は、「未来鐘」とも呼ばれ、それはある逸話に因みます。
    昔、山城木津の里に野慈という男が住んでいました。貧しくも信心深く、長谷寺観音への月詣でを欠かしませんでした。
    ある時、野慈は宿坊の慈願に鐘楼が小さいことを嘆き、 「私の願いが成就すれば、鐘を一口奉納します」と誓いました。それを聞いた人々は、「なぁんだ、未来のことか」と笑い、この男を「未来男」と呼んで馬鹿にしました。
    しかしその後、観音様の霊験がこの男の人生を一変しました。野慈は、近江の国司代になり、栗田助貞と改名し、鐘を鋳造して長谷観音に奉納し、供養を営んだといいます。その鐘に「正六位下木津未来男」と刻まれていたことから、人々はその鐘を「未来鐘」と呼ぶようになったそうです。
    その梵鐘は焼失してしまいましたが、再建された梵鐘も「未来鐘」と呼ばれています。この鐘の音にあやかりたいものです。

  • 鐘楼<br />カミさんが御朱印を授与していただいている間に写真を撮っていると、何処から鐘の音に交じって法螺貝の音色が聞こえてきました。<br />鐘楼を見上げると僧侶たちが法螺貝を吹き鳴らしていました。時計を見ると12時。これが清少納言や本居宣長が吃驚したと言う法螺貝による時報のようです。

    鐘楼
    カミさんが御朱印を授与していただいている間に写真を撮っていると、何処から鐘の音に交じって法螺貝の音色が聞こえてきました。
    鐘楼を見上げると僧侶たちが法螺貝を吹き鳴らしていました。時計を見ると12時。これが清少納言や本居宣長が吃驚したと言う法螺貝による時報のようです。

  • 鐘楼<br />千年の昔から絶えることなく続く慣例であり、おのずと歴史と風情が感じられます。<br />清閑とした境内に響き渡る鐘の音と法螺貝の音色に耳を傾けるのも、古都 奈良ではの愉しみ方のひとつです。<br />目で牡丹を愛で、耳で歴史の余韻に浸る…。長谷寺ならではの贅沢三昧です。

    鐘楼
    千年の昔から絶えることなく続く慣例であり、おのずと歴史と風情が感じられます。
    清閑とした境内に響き渡る鐘の音と法螺貝の音色に耳を傾けるのも、古都 奈良ではの愉しみ方のひとつです。
    目で牡丹を愛で、耳で歴史の余韻に浸る…。長谷寺ならではの贅沢三昧です。

  • 本堂<br />御朱印の授与後は、特別拝観の列に並びます。本堂と御影堂の中間点が列の最後尾でしたが、40分程並びました。<br />本堂の南面は豪快な入母屋造ですが、屋根の構成はこのように複雑で八ツ棟造とも呼ばれます。大工棟梁 中井大和正純(初代中井大和守正清の末弟)を中心とする大工集団が5年の歳月をかけて造営した雄姿です。因みに、中井大和正純は、東寺五重塔や知恩院本堂、岩清水八幡宮社殿、延暦寺根本中堂、高野山大塔などを手掛けています。

    本堂
    御朱印の授与後は、特別拝観の列に並びます。本堂と御影堂の中間点が列の最後尾でしたが、40分程並びました。
    本堂の南面は豪快な入母屋造ですが、屋根の構成はこのように複雑で八ツ棟造とも呼ばれます。大工棟梁 中井大和正純(初代中井大和守正清の末弟)を中心とする大工集団が5年の歳月をかけて造営した雄姿です。因みに、中井大和正純は、東寺五重塔や知恩院本堂、岩清水八幡宮社殿、延暦寺根本中堂、高野山大塔などを手掛けています。

  • 本堂<br />観音様とのご対面に先立ち、お坊さんから塗香(ずこう)と言う数種の香木を混ぜて粉末にして乾燥させたお香を左の手のひらに載せて頂きます。<br />そのお香を両手に擦り合わせると、シナモンの様な独特の香りが漂います。<br />

    本堂
    観音様とのご対面に先立ち、お坊さんから塗香(ずこう)と言う数種の香木を混ぜて粉末にして乾燥させたお香を左の手のひらに載せて頂きます。
    そのお香を両手に擦り合わせると、シナモンの様な独特の香りが漂います。

  • 本堂 曽我地蔵尊<br />正堂西面の一角にこのように地蔵尊が祀られているとは今まで知りませんでした。この地蔵尊も9尺(2.7m)もある大きな丸彫りの木像ですが、優しいお顔をなさっています。(写真撮影禁止)<br />長谷寺第1世 専誉には『曽我物語』の曽我兄弟の弟 五郎時致の生まれ変わりとの伝承があり、これに因んで曽我地蔵と呼ばれています。長谷寺第6世 良誉により修復され、現在の肘塚町付近から正堂に移され奉安されたと伝わります。<br />『曽我物語』は日本三大仇討のひとつを記した伝記物語で、18年間の苦難に耐え、曽我兄弟が父 祐通のかたきの工藤祐経を討つまでを語ります。

    本堂 曽我地蔵尊
    正堂西面の一角にこのように地蔵尊が祀られているとは今まで知りませんでした。この地蔵尊も9尺(2.7m)もある大きな丸彫りの木像ですが、優しいお顔をなさっています。(写真撮影禁止)
    長谷寺第1世 専誉には『曽我物語』の曽我兄弟の弟 五郎時致の生まれ変わりとの伝承があり、これに因んで曽我地蔵と呼ばれています。長谷寺第6世 良誉により修復され、現在の肘塚町付近から正堂に移され奉安されたと伝わります。
    『曽我物語』は日本三大仇討のひとつを記した伝記物語で、18年間の苦難に耐え、曽我兄弟が父 祐通のかたきの工藤祐経を討つまでを語ります。

  • 本堂 曽我地蔵尊<br />1719(享保4)年に刊行された『豊山伝通記』には次のように記されています。<br />文保の時代、奥州田村にある多聞院の僧 鏡線は、長谷寺の専誉上人について学業を受けたが、郷里に帰り再び豊山に上ろうとした時、相州箱根山中の権現の畔で、狩衣いかめしい一老翁が現れ、「我は曽我十郎祐成で、地獄に堕ちて呵責を受けている者である。弟 五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。それでお前が帰山したら、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、開眼供養し、われを成仏させてくれ」と言った。<br />鏡線は、「何をもって、専誉上人が五郎であることが証明できるか?」と尋ねると、「上人の右脇下に牡丹の形の赤あざがある。また、腕力が優れ、ことに左手が強い」と言って姿を消した。<br />長谷寺へ帰って専誉に告げると、「示す所に赤あざはあるが、力はそう優れているとは思わぬ。しかし、何を持っても、そう重いとも感じない」と言いながら、試しに左手で庭石を持ち上げると、軽々と上がった。それで前生の兄十郎の菩提のため、この地蔵尊像を彫り、開眼供養を行なったという。<br />曽我兄弟の再生譚は、専誉だけでなく、水戸六地蔵寺の和尚や洛中六波羅蜜寺の恵範和尚など新義真言宗豊山派の高僧に融合して流布されていた模様です。<br />こうした伝説が数世紀に亘って語り継がれた背景には、魂の再生に関する民間信仰の浸透が深かったものと思われます。

    本堂 曽我地蔵尊
    1719(享保4)年に刊行された『豊山伝通記』には次のように記されています。
    文保の時代、奥州田村にある多聞院の僧 鏡線は、長谷寺の専誉上人について学業を受けたが、郷里に帰り再び豊山に上ろうとした時、相州箱根山中の権現の畔で、狩衣いかめしい一老翁が現れ、「我は曽我十郎祐成で、地獄に堕ちて呵責を受けている者である。弟 五郎時致は強化をうけて再生し、今は長谷寺の専誉上人となっている。それでお前が帰山したら、専誉によって地蔵菩薩を彫刻せしめ、開眼供養し、われを成仏させてくれ」と言った。
    鏡線は、「何をもって、専誉上人が五郎であることが証明できるか?」と尋ねると、「上人の右脇下に牡丹の形の赤あざがある。また、腕力が優れ、ことに左手が強い」と言って姿を消した。
    長谷寺へ帰って専誉に告げると、「示す所に赤あざはあるが、力はそう優れているとは思わぬ。しかし、何を持っても、そう重いとも感じない」と言いながら、試しに左手で庭石を持ち上げると、軽々と上がった。それで前生の兄十郎の菩提のため、この地蔵尊像を彫り、開眼供養を行なったという。
    曽我兄弟の再生譚は、専誉だけでなく、水戸六地蔵寺の和尚や洛中六波羅蜜寺の恵範和尚など新義真言宗豊山派の高僧に融合して流布されていた模様です。
    こうした伝説が数世紀に亘って語り継がれた背景には、魂の再生に関する民間信仰の浸透が深かったものと思われます。

  • 石仏<br />本堂の北面にはこうした造立年号不明の石仏群が祀られています。<br />また、本堂裏(北面)の格子からは、本尊と背中を合わせた小さ目の十一面観音像を拝めます。高さは172cmあり、江戸時代の作とされ、右手には本尊と同じように錫杖を持つ長谷寺式十一面観音像です。<br />本尊が秘仏であった時代、正堂の裏からこの観音像を拝めた事から、「裏観音」と呼ばれています。特別拝観の際には内陣で間近に見ることができます。背景になる極彩色で精緻に描かれた阿弥陀如来二十五菩薩来迎図も見逃せません。

    石仏
    本堂の北面にはこうした造立年号不明の石仏群が祀られています。
    また、本堂裏(北面)の格子からは、本尊と背中を合わせた小さ目の十一面観音像を拝めます。高さは172cmあり、江戸時代の作とされ、右手には本尊と同じように錫杖を持つ長谷寺式十一面観音像です。
    本尊が秘仏であった時代、正堂の裏からこの観音像を拝めた事から、「裏観音」と呼ばれています。特別拝観の際には内陣で間近に見ることができます。背景になる極彩色で精緻に描かれた阿弥陀如来二十五菩薩来迎図も見逃せません。

  • ふと高台を見上げるとシャクナゲが咲き誇っていました。<br /><br />観音巡りの聖地でもあることから、国宝の本堂で観音様と結縁し、「美」にご利益があるというお守りも見逃せません。牡丹を象った可愛らしいお守りが「花守り」です。<br />身体健全、容姿端麗、金運上昇などにご利益があり、カラーバリエーションも豊富です。赤、ピンク、白、黄色、水色など9色ほどあります。500円。

    ふと高台を見上げるとシャクナゲが咲き誇っていました。

    観音巡りの聖地でもあることから、国宝の本堂で観音様と結縁し、「美」にご利益があるというお守りも見逃せません。牡丹を象った可愛らしいお守りが「花守り」です。
    身体健全、容姿端麗、金運上昇などにご利益があり、カラーバリエーションも豊富です。赤、ピンク、白、黄色、水色など9色ほどあります。500円。

  • 結縁の5色線<br />特別拝観の際に左手首に付ける、「結縁の5色線」という観音様との結縁(けちえん)の証となるものです。仏の5つの智慧を表す白・赤・黄・青・黒の5色の糸をより合わせた腕輪です。入堂の際に付けますが、参詣後もストラップにして身に付けておくとよいそうです。長谷寺のお勧めは「総角(あげまき)結び」です。古来、飾り結びとされてきたもので、魔除けや護身の意味が込められています。<br />ところで、「総角」といえば、『源氏物語』の宇治十帖の第三帖が「総角」です。この巻名の由来となったのが薫が詠んだ次の和歌です。<br />「あげまきに 長き契りを むすびこめ おなじところに よりもあはなむ」。<br />(あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ。)

    結縁の5色線
    特別拝観の際に左手首に付ける、「結縁の5色線」という観音様との結縁(けちえん)の証となるものです。仏の5つの智慧を表す白・赤・黄・青・黒の5色の糸をより合わせた腕輪です。入堂の際に付けますが、参詣後もストラップにして身に付けておくとよいそうです。長谷寺のお勧めは「総角(あげまき)結び」です。古来、飾り結びとされてきたもので、魔除けや護身の意味が込められています。
    ところで、「総角」といえば、『源氏物語』の宇治十帖の第三帖が「総角」です。この巻名の由来となったのが薫が詠んだ次の和歌です。
    「あげまきに 長き契りを むすびこめ おなじところに よりもあはなむ」。
    (あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ。)

  • 本堂<br />初夏の風に煽られ、木々の新緑がよく映えます。<br /><br />五仏(五智如来)とは、インドの中期密教『金剛頂教』で体系化されたものです。<br />①中央の 大日如来<br />②東方の 阿しゅく如来<br />③西方の 阿弥陀如来 <br />④南方の 宝生如来<br />⑤北方の 不空成就如来<br />それぞれの仏は次の5つの智慧を授けます。<br />①法界体性智(最高の智慧)<br />②大円鏡智(鏡のように世界をそのまま見る智慧)<br />③平等性智(すべて差別なく見る智慧)<br />④妙観察智(人をよく観察する智慧)<br />⑤成所作智(人を救う智慧) 

    本堂
    初夏の風に煽られ、木々の新緑がよく映えます。

    五仏(五智如来)とは、インドの中期密教『金剛頂教』で体系化されたものです。
    ①中央の 大日如来
    ②東方の 阿しゅく如来
    ③西方の 阿弥陀如来 
    ④南方の 宝生如来
    ⑤北方の 不空成就如来
    それぞれの仏は次の5つの智慧を授けます。
    ①法界体性智(最高の智慧)
    ②大円鏡智(鏡のように世界をそのまま見る智慧)
    ③平等性智(すべて差別なく見る智慧)
    ④妙観察智(人をよく観察する智慧)
    ⑤成所作智(人を救う智慧) 

  • 本堂 本尊 十一面観世音菩薩像<br />奈良時代の727(神亀4)年、道明上人と師弟の契りを結んだ徳道上人が、聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩像を造立し、それを本尊として長谷寺を開山したと伝わります。度重なる火災に遭い、その都度再建され、焼け残った部分を像の胎内に納めることで霊験が伝え続けられてきました。鎌倉時代には快慶が制作していたとも伝えられています。<br />現在の観音像は、1538(天文7)年に東大寺仏生院 実清良学仏師によって造立され、頂上にある化仏のみが奇跡的に焼け残ってきたそうです。身の丈は10.18mあり、国内最大級の観音像です。<br />初瀬川の壊滅力を神として崇めたアニミズムのスケール感が、この大きさを求めたのかしれません。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://nara.jr-central.co.jp/watashinara/article/0009/

    本堂 本尊 十一面観世音菩薩像
    奈良時代の727(神亀4)年、道明上人と師弟の契りを結んだ徳道上人が、聖武天皇の勅願により東の岡に十一面観世音菩薩像を造立し、それを本尊として長谷寺を開山したと伝わります。度重なる火災に遭い、その都度再建され、焼け残った部分を像の胎内に納めることで霊験が伝え続けられてきました。鎌倉時代には快慶が制作していたとも伝えられています。
    現在の観音像は、1538(天文7)年に東大寺仏生院 実清良学仏師によって造立され、頂上にある化仏のみが奇跡的に焼け残ってきたそうです。身の丈は10.18mあり、国内最大級の観音像です。
    初瀬川の壊滅力を神として崇めたアニミズムのスケール感が、この大きさを求めたのかしれません。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://nara.jr-central.co.jp/watashinara/article/0009/

  • 本堂 本尊 十一面観世音菩薩像<br />仄暗い厨子を彷彿とさせる内々陣に観音像は鎮まり、その慈悲を湛えた眼差しには思わず手を合わせたくなります。春秋季は特別に正堂内への立入が許され、このように内々陣に鎮まる観音像のお御足に触れてお参りすることができます。<br />寺伝によると、神亀年間に初瀬川に近江国高島郡三尾の山から楠の大木が流れ着き、これに触れた者が祟りに遭って村人たちを怖がらせていたと言います。徳道上人に祟りを鎮めることを請うたところ、徳道の指揮で仏師 稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)がこの大木から僅か3日間で2体の観音像を彫り上げ、その内の1体を初瀬山に祀ったとされます。また、733(天平5)年に行基が開眼したと伝わります。祟りを及ぼす大木を霊木と見做し、そこから十一面観音を表すことで災厄つまり大洪水を防ごうとしたのでしょう。<br />一方、『今昔物語集』には、「継体天皇の世、近江に大洪水が起こり、高島郡の深山から巨大な楠が琵琶湖に流失し、伐ると忽ち禍が起こるので人は畏れて近づかず、大津の湖上に浮かんだまま何十年も打ち捨てられていた」とあります。<br />初瀬川は、大和川水系のため、琵琶湖から大木が流れ着くのは不自然です。ですから、この「霊木伝説」は古代の大和政権と近江国の繋がりを背景に伝承されてきたものと思われます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />http://www.hasedera.or.jp/free/?id=518

    本堂 本尊 十一面観世音菩薩像
    仄暗い厨子を彷彿とさせる内々陣に観音像は鎮まり、その慈悲を湛えた眼差しには思わず手を合わせたくなります。春秋季は特別に正堂内への立入が許され、このように内々陣に鎮まる観音像のお御足に触れてお参りすることができます。
    寺伝によると、神亀年間に初瀬川に近江国高島郡三尾の山から楠の大木が流れ着き、これに触れた者が祟りに遭って村人たちを怖がらせていたと言います。徳道上人に祟りを鎮めることを請うたところ、徳道の指揮で仏師 稽文会(けいもんえ)と稽主勲(けいしゅくん)がこの大木から僅か3日間で2体の観音像を彫り上げ、その内の1体を初瀬山に祀ったとされます。また、733(天平5)年に行基が開眼したと伝わります。祟りを及ぼす大木を霊木と見做し、そこから十一面観音を表すことで災厄つまり大洪水を防ごうとしたのでしょう。
    一方、『今昔物語集』には、「継体天皇の世、近江に大洪水が起こり、高島郡の深山から巨大な楠が琵琶湖に流失し、伐ると忽ち禍が起こるので人は畏れて近づかず、大津の湖上に浮かんだまま何十年も打ち捨てられていた」とあります。
    初瀬川は、大和川水系のため、琵琶湖から大木が流れ着くのは不自然です。ですから、この「霊木伝説」は古代の大和政権と近江国の繋がりを背景に伝承されてきたものと思われます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    http://www.hasedera.or.jp/free/?id=518

  • 本堂 本尊 十一面観世音菩薩像<br />長谷寺の十一面観音像の特徴は、左手は通常と同様に蓮華を挿した水瓶を持ちますが、右手は数珠と共に地蔵菩薩が持つ錫杖を携えることです。錫杖は地蔵菩薩が地獄に堕ちた人々を救うために導く杖です。この観音様と地蔵尊が合体した像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、各地の水辺に祀られています。社伝では、観音菩薩が地蔵菩薩と同様に人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表現したものとしています。<br />また、通常、観音像は蓮弁の台座に据えられますが、ここでは方形の磐石に立ちます。社伝では、古来日本では岩の上に神が舞い降り、その岩を磐座と呼び、長谷寺の本尊が立つ磐石もまた磐座とされたと説きます。<br />白洲正子女史は、1973(昭和48)年に伊勢神宮に参宮され、その際に長谷寺を訪ねておられます。『十一面観音巡礼』には、「記紀万葉の歌人たちが、『こもりくの泊瀬』という時、そこに清浄なおとめの姿を思い浮かべたに違いない」と記されています。また、十一面観音像への女史の率直な気持ちとして「世の中にこんな美しいものがあるか…」と吐露されています。<br />一方、遊行僧の姿を取り入れた長谷寺式十一面観音像に繋がる話として、「十一面観音には、時々このような大作が見られるが、…それは疫病などがはやった際に町の中を車に乗せて練り歩いたからで、遠くからも拝めるように、なるべく大きく造る必要があった、これを遊行仏というらしい」と記されています。インドでは、僧侶が山野を遊行する際、錫杖を振り鳴らして害獣や毒虫を追い払い、托鉢の際に門戸に立ったことを知らせたそうです。十一面観音像の錫杖には、市井に降りてきて下さる地蔵菩薩の一面があることを示唆されています。<br />『十一面観音巡礼』の解説で小川光三氏は次のように記しています。<br />「十一面観音と地蔵が一対に祀られるのは、天の神の依り代の神籬(ひもろぎ、神の依り代となる木)と、地の神の出現する磐座が、一対に祀られていたことに起因する。…我々の精神構造のなかは、神も仏も渾然として、それが日本的宗教観ではあるまいか」。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://nara.jr-central.co.jp/campaign/hasedera/special/sp_jyu.html

    本堂 本尊 十一面観世音菩薩像
    長谷寺の十一面観音像の特徴は、左手は通常と同様に蓮華を挿した水瓶を持ちますが、右手は数珠と共に地蔵菩薩が持つ錫杖を携えることです。錫杖は地蔵菩薩が地獄に堕ちた人々を救うために導く杖です。この観音様と地蔵尊が合体した像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、各地の水辺に祀られています。社伝では、観音菩薩が地蔵菩薩と同様に人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表現したものとしています。
    また、通常、観音像は蓮弁の台座に据えられますが、ここでは方形の磐石に立ちます。社伝では、古来日本では岩の上に神が舞い降り、その岩を磐座と呼び、長谷寺の本尊が立つ磐石もまた磐座とされたと説きます。
    白洲正子女史は、1973(昭和48)年に伊勢神宮に参宮され、その際に長谷寺を訪ねておられます。『十一面観音巡礼』には、「記紀万葉の歌人たちが、『こもりくの泊瀬』という時、そこに清浄なおとめの姿を思い浮かべたに違いない」と記されています。また、十一面観音像への女史の率直な気持ちとして「世の中にこんな美しいものがあるか…」と吐露されています。
    一方、遊行僧の姿を取り入れた長谷寺式十一面観音像に繋がる話として、「十一面観音には、時々このような大作が見られるが、…それは疫病などがはやった際に町の中を車に乗せて練り歩いたからで、遠くからも拝めるように、なるべく大きく造る必要があった、これを遊行仏というらしい」と記されています。インドでは、僧侶が山野を遊行する際、錫杖を振り鳴らして害獣や毒虫を追い払い、托鉢の際に門戸に立ったことを知らせたそうです。十一面観音像の錫杖には、市井に降りてきて下さる地蔵菩薩の一面があることを示唆されています。
    『十一面観音巡礼』の解説で小川光三氏は次のように記しています。
    「十一面観音と地蔵が一対に祀られるのは、天の神の依り代の神籬(ひもろぎ、神の依り代となる木)と、地の神の出現する磐座が、一対に祀られていたことに起因する。…我々の精神構造のなかは、神も仏も渾然として、それが日本的宗教観ではあるまいか」。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://nara.jr-central.co.jp/campaign/hasedera/special/sp_jyu.html

  • 本堂 本尊 十一面観世音菩薩像<br />『日本書紀』の「垂仁皇紀」に「初瀬は天照大神の鎮座した地」と記されていることから、中世の神仏混淆により、地元では本尊は天照大神の本地仏(神様の本来の姿であるところの仏様という意味)として造立されたと解釈したようです。初瀬街道は伊勢神宮への参拝の街道でもあり、そこには天照大神が祀られているからです。<br />與喜天満神社の手前にある道標を右に折れると化粧(けわい)坂があり、そこを越えると與喜浦に至ります。これが初瀬から伊勢へ通じる最古の街道です。白洲女史は、「倭姫命(やまとひめのみこと)がこのあたりにあった斎宮『磯城厳樫本』に8年籠ったあと 、伊勢神宮に向かった。倭姫命がここで化粧をしたからこの名がついたとの説があるが 、化粧は神に変身することを意味したのではないか…。天照大神と十一面観音を同体とみなす本地垂迹説は、おそらくこの辺りから発生したのであろう」と記しています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://nara.jr-central.co.jp/campaign/hasedera/special/sp_jyu.html

    本堂 本尊 十一面観世音菩薩像
    『日本書紀』の「垂仁皇紀」に「初瀬は天照大神の鎮座した地」と記されていることから、中世の神仏混淆により、地元では本尊は天照大神の本地仏(神様の本来の姿であるところの仏様という意味)として造立されたと解釈したようです。初瀬街道は伊勢神宮への参拝の街道でもあり、そこには天照大神が祀られているからです。
    與喜天満神社の手前にある道標を右に折れると化粧(けわい)坂があり、そこを越えると與喜浦に至ります。これが初瀬から伊勢へ通じる最古の街道です。白洲女史は、「倭姫命(やまとひめのみこと)がこのあたりにあった斎宮『磯城厳樫本』に8年籠ったあと 、伊勢神宮に向かった。倭姫命がここで化粧をしたからこの名がついたとの説があるが 、化粧は神に変身することを意味したのではないか…。天照大神と十一面観音を同体とみなす本地垂迹説は、おそらくこの辺りから発生したのであろう」と記しています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://nara.jr-central.co.jp/campaign/hasedera/special/sp_jyu.html

  • 本堂 難陀龍王(なんだ)龍王立像(重文)<br />本尊に向かって右側(左脇侍)に立つ像で、頭上に龍を載き、唐冠を被った老人の姿をし、中国風の服を着ています。<br />鎌倉時代の1316年、仏師 舜慶らによって造形されました。檜材の寄木造で、像高167.7cmあり、彩色や玉眼を持ちます。<br />胎内には、正和年代の造立時と明応年代の修理時の2度に亘る納入品を持ち、胎内納入品も重文に指定されています。八大竜王のひとつとされ、その第1番に数えられます。また、千手観世音菩薩の眷属(けんぞく:部下)である28部衆の1尊にも挙げられています。更には、春日明神としても信仰されています。<br />藤原氏の氏神である春日の神様を祀っており、輪違紋と相俟って藤原氏と長谷寺の繋がりが透けて見えるような気がします。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />http://www.hasedera.or.jp/history/statue.html

    本堂 難陀龍王(なんだ)龍王立像(重文)
    本尊に向かって右側(左脇侍)に立つ像で、頭上に龍を載き、唐冠を被った老人の姿をし、中国風の服を着ています。
    鎌倉時代の1316年、仏師 舜慶らによって造形されました。檜材の寄木造で、像高167.7cmあり、彩色や玉眼を持ちます。
    胎内には、正和年代の造立時と明応年代の修理時の2度に亘る納入品を持ち、胎内納入品も重文に指定されています。八大竜王のひとつとされ、その第1番に数えられます。また、千手観世音菩薩の眷属(けんぞく:部下)である28部衆の1尊にも挙げられています。更には、春日明神としても信仰されています。
    藤原氏の氏神である春日の神様を祀っており、輪違紋と相俟って藤原氏と長谷寺の繋がりが透けて見えるような気がします。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    http://www.hasedera.or.jp/history/statue.html

  • 本堂 赤精(せきせい)童子立像(重文)<br />雨宝(うほう)童子とも呼ばれ、本尊に向かって左側(右脇侍)に立ちます。<br />室町時代の1537年から7年かけて仏師 運宗らによって本尊と一緒に造形されました。像高は116cmあります。<br />雨宝童子は、初瀬山を守護する八大童子のひとりとされ、天照大神としても信仰されています。頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />http://www.hasedera.or.jp/history/statue.html

    本堂 赤精(せきせい)童子立像(重文)
    雨宝(うほう)童子とも呼ばれ、本尊に向かって左側(右脇侍)に立ちます。
    室町時代の1537年から7年かけて仏師 運宗らによって本尊と一緒に造形されました。像高は116cmあります。
    雨宝童子は、初瀬山を守護する八大童子のひとりとされ、天照大神としても信仰されています。頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    http://www.hasedera.or.jp/history/statue.html

  • 三社権現と稲荷社がある高台にはこうした石鳥居もあります。<br /><br />

    三社権現と稲荷社がある高台にはこうした石鳥居もあります。

  • 三社権現<br />本堂の北東裏手の一段高い所に、初瀬の里を守る三社権現が祀られています。<br />長谷寺よりも古くからある長谷寺の地主神であり、「滝蔵権現」とも呼ばれます。733(天平5)年、三社権現のある場所に滝蔵権現が現れ、長谷寺の開山 徳道上人に「本堂を守る」と告げたと伝わり、「聖地中の聖地」と言えます。<br />注連縄がいい味をだしています。

    三社権現
    本堂の北東裏手の一段高い所に、初瀬の里を守る三社権現が祀られています。
    長谷寺よりも古くからある長谷寺の地主神であり、「滝蔵権現」とも呼ばれます。733(天平5)年、三社権現のある場所に滝蔵権現が現れ、長谷寺の開山 徳道上人に「本堂を守る」と告げたと伝わり、「聖地中の聖地」と言えます。
    注連縄がいい味をだしています。

  • 三社権現<br />現在の社は1667(寛文7)年に再建されたもので、一間社、春日造、銅板葺とし、長谷寺では本堂に次いで古いものです。1760(宝暦10)年、長谷寺の宿坊「月輪院」の住職 祐厳が記した『豊山玉石集』によると、中央に滝蔵権現、向かって右側に石蔵権現、左側に新宮権現を祀ります。滝蔵権現は虚空蔵菩薩が老父の仮姿で、石蔵権現は地蔵菩薩が比丘(びく:修行僧)の仮姿で、新宮権現は薬師如来が柔和な女性の仮姿で現れたと伝わります。<br />平安時代中期に菅原道真(與喜山天満宮)に地主神の座を譲りましたが、現在でも元地主として信仰を集めています。

    三社権現
    現在の社は1667(寛文7)年に再建されたもので、一間社、春日造、銅板葺とし、長谷寺では本堂に次いで古いものです。1760(宝暦10)年、長谷寺の宿坊「月輪院」の住職 祐厳が記した『豊山玉石集』によると、中央に滝蔵権現、向かって右側に石蔵権現、左側に新宮権現を祀ります。滝蔵権現は虚空蔵菩薩が老父の仮姿で、石蔵権現は地蔵菩薩が比丘(びく:修行僧)の仮姿で、新宮権現は薬師如来が柔和な女性の仮姿で現れたと伝わります。
    平安時代中期に菅原道真(與喜山天満宮)に地主神の座を譲りましたが、現在でも元地主として信仰を集めています。

  • 大伴坂上郎女の歌碑<br />大伴坂上郎女は、万葉歌人の中で長歌と短歌合わせて最多の84首を残し、特に男女の歌を詠ませたら右に出る者がいないとされます。この歌碑は『万葉集』にある「隠国の泊瀬」を詠んだ歌、「隠国乃 泊瀬山者 色附奴 鐘禮乃雨者 零尓家良思母(隠り国の泊瀬の山は色付きぬしぐれの雨はふりにけらしも)」です。<br />因みに、彼女は、大伴旅人の異母妹に当たります。大伴旅人といえば、新元号「令和」の引用典拠で一躍時の人になった感があります。『万葉集』の「梅花の歌三十二首」の序文「初春令月、気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)」を詠んだ人物です。

    大伴坂上郎女の歌碑
    大伴坂上郎女は、万葉歌人の中で長歌と短歌合わせて最多の84首を残し、特に男女の歌を詠ませたら右に出る者がいないとされます。この歌碑は『万葉集』にある「隠国の泊瀬」を詠んだ歌、「隠国乃 泊瀬山者 色附奴 鐘禮乃雨者 零尓家良思母(隠り国の泊瀬の山は色付きぬしぐれの雨はふりにけらしも)」です。
    因みに、彼女は、大伴旅人の異母妹に当たります。大伴旅人といえば、新元号「令和」の引用典拠で一躍時の人になった感があります。『万葉集』の「梅花の歌三十二首」の序文「初春令月、気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)」を詠んだ人物です。

  • 松尾芭蕉の句碑<br />1688(貞亨5)年3月、芭蕉が『笈の小文』の旅の途上、長谷寺に参詣した時に詠んだ句です。<br />「春の夜や 籠り人ゆかし 堂の隅」。<br />(春の夜に一人籠っているあのご婦人は、何を熱心に祈っているのだろうか。なんとなく心惹かれる思いがする。)<br />古来、長谷寺と言えば恋の願掛けをするお寺でしたから、ことによったら艶っぽい願い事でもしているのかと想像を逞しくして詠んだ一句です。

    松尾芭蕉の句碑
    1688(貞亨5)年3月、芭蕉が『笈の小文』の旅の途上、長谷寺に参詣した時に詠んだ句です。
    「春の夜や 籠り人ゆかし 堂の隅」。
    (春の夜に一人籠っているあのご婦人は、何を熱心に祈っているのだろうか。なんとなく心惹かれる思いがする。)
    古来、長谷寺と言えば恋の願掛けをするお寺でしたから、ことによったら艶っぽい願い事でもしているのかと想像を逞しくして詠んだ一句です。

  • 弘法大師御影堂<br />弘法大師が入定されてから1150年の御遠忌を記念し、その御徳を偲び1984(昭和59)年に建立されました。<br />正面に一間の向拝が付けられた宝形造、銅板葺、総檜造の建物で、流麗な屋根が印象的です。手前は、角柱に宝珠形に彫り窪めて薄肉彫りした弘法大師像です。<br />弘法大師像の両側には、版画造りの『長谷寺版両界曼荼羅』が祀られています。

    弘法大師御影堂
    弘法大師が入定されてから1150年の御遠忌を記念し、その御徳を偲び1984(昭和59)年に建立されました。
    正面に一間の向拝が付けられた宝形造、銅板葺、総檜造の建物で、流麗な屋根が印象的です。手前は、角柱に宝珠形に彫り窪めて薄肉彫りした弘法大師像です。
    弘法大師像の両側には、版画造りの『長谷寺版両界曼荼羅』が祀られています。

  • 一切経堂<br />御影堂から参道は左へと曲がり、少し進んだ高台に露盤宝珠を載せた宝形造本瓦葺の堂宇が佇みます。花頭窓、桟唐戸、波連子欄間、木鼻、中備は蟇股の禅宗様です。<br />全ての経典を集めたものを一切経(大蔵経)と言い、これを収めた堂宇を一切経堂と言います。ここには1667(寛文7)年に当時伏見奉行であった水野石見守忠貞より寄進された唐本一切経が納められています。<br />駒札には「永禄4年(1561年)牧野備後守成貞の再建」とあります。年代(室町時代末期)が間違っていなければ、5代将軍 徳川綱吉の側用人を務めた牧野成貞ではなく、東三河国の牛久保城主の戦国武将 牧野貞成ではないかと思われます。再建された永禄4年に貞成は松平元康に服属し、その翌年に牛久保城主に復帰することなく死去しています。ただし、牧野貞成も牧野成貞も備後守ではありませんが…。<br />牧野成貞であれば年代が間違っていることになります。成貞には妻と娘が綱吉の御手付きにされたとの伝承があり、綱吉の傍若無人ぶりに耐えかね、苦悩していたようですから一切経堂を寄進した動機が説明できないでもありませんが…。

    一切経堂
    御影堂から参道は左へと曲がり、少し進んだ高台に露盤宝珠を載せた宝形造本瓦葺の堂宇が佇みます。花頭窓、桟唐戸、波連子欄間、木鼻、中備は蟇股の禅宗様です。
    全ての経典を集めたものを一切経(大蔵経)と言い、これを収めた堂宇を一切経堂と言います。ここには1667(寛文7)年に当時伏見奉行であった水野石見守忠貞より寄進された唐本一切経が納められています。
    駒札には「永禄4年(1561年)牧野備後守成貞の再建」とあります。年代(室町時代末期)が間違っていなければ、5代将軍 徳川綱吉の側用人を務めた牧野成貞ではなく、東三河国の牛久保城主の戦国武将 牧野貞成ではないかと思われます。再建された永禄4年に貞成は松平元康に服属し、その翌年に牛久保城主に復帰することなく死去しています。ただし、牧野貞成も牧野成貞も備後守ではありませんが…。
    牧野成貞であれば年代が間違っていることになります。成貞には妻と娘が綱吉の御手付きにされたとの伝承があり、綱吉の傍若無人ぶりに耐えかね、苦悩していたようですから一切経堂を寄進した動機が説明できないでもありませんが…。

  • 五重塔<br />一切経堂の裏手は五重塔のビューポイントにもなっています。<br />奈良には4つの五重塔が現存し、古い順に並べると次のようになります。<br />1.法隆寺の五重塔 607年(飛鳥時代)<br />2.室生寺の五重塔 800年頃(平安時代初期)<br />3.興福寺の五重塔 730年創建(奈良時代)<br />      しかし何度かの消失の後、1426年再建(室町時代)<br />4.長谷寺の五重塔 1954年(昭和28年)<br />また、焼失などで現存しない元興寺や唐招提寺といった著名な塔跡もあります。<br />全国的には、屋外にある国宝指定の五重塔が9基あり、重文指定が13基あります。

    五重塔
    一切経堂の裏手は五重塔のビューポイントにもなっています。
    奈良には4つの五重塔が現存し、古い順に並べると次のようになります。
    1.法隆寺の五重塔 607年(飛鳥時代)
    2.室生寺の五重塔 800年頃(平安時代初期)
    3.興福寺の五重塔 730年創建(奈良時代)
    しかし何度かの消失の後、1426年再建(室町時代)
    4.長谷寺の五重塔 1954年(昭和28年)
    また、焼失などで現存しない元興寺や唐招提寺といった著名な塔跡もあります。
    全国的には、屋外にある国宝指定の五重塔が9基あり、重文指定が13基あります。

  • 本長谷寺<br />奈良時代の686(朱鳥元)年、天武天皇の勅願により道明上人が精舎を造営し、長谷寺の草創とされることから「本長谷寺」と称されています。<br />元々あった堂宇は1876(明治9)年3月に落雷で焼失し、現在のものは同年11月に再建(移築)されたものです。入母屋造、本瓦葺で歴史を感じさせる和様建築です。一軒、向拝柱上に連三ツ斗、象の木鼻、虹梁上の蟇股には卍模様が配されています。内部には『銅板法華説相図』のレプリカが祀られています。

    本長谷寺
    奈良時代の686(朱鳥元)年、天武天皇の勅願により道明上人が精舎を造営し、長谷寺の草創とされることから「本長谷寺」と称されています。
    元々あった堂宇は1876(明治9)年3月に落雷で焼失し、現在のものは同年11月に再建(移築)されたものです。入母屋造、本瓦葺で歴史を感じさせる和様建築です。一軒、向拝柱上に連三ツ斗、象の木鼻、虹梁上の蟇股には卍模様が配されています。内部には『銅板法華説相図』のレプリカが祀られています。

  • 本長谷寺<br />鬼瓦は「鬼」ではなく「獅子」です。<br />こちらが長谷寺門前町のゆるキャラ「はせでらいおん」の由来となっています。<br />

    本長谷寺
    鬼瓦は「鬼」ではなく「獅子」です。
    こちらが長谷寺門前町のゆるキャラ「はせでらいおん」の由来となっています。

  • 本長谷寺<br />堂宇内には、2体の仏像と銅板法華説相図が祀られています。右端は、道明上人像です。左端に安置された、お化粧を施したような木像が気になったので調べてみました。<br />長谷寺には、「白河(しらが)の婆」の怪奇譚が伝わっているようです。<br />1537(天文6)年、長谷寺で画僧を集めて本堂に観音菩薩を描くことになりました。その時、僧侶たちのために苦労を重ね、お粥などの接待をして功徳を積んだ老女がいました。その老女は、白河という泊瀬谷を登ると長谷寺へ上がる一つ手前の谷から通い、化粧っ気のないみすぼらしい出で立ちでしたが、情深く慈母のように慕われていました。しかし、ある日の夕刻、忽然と姿を消しました。そして誰言うともなく観音様の化身と言われるようになり、その恩に報いるべく、綺麗な着物と白粉をせめてもの「志」として供養したと伝わります。<br />その白河地域には「一箱べったり」という行事がありました。毎年1月5日の深夜、白河から一箱の白粉を本長谷寺に持ち寄り、姥像に白粉を塗る行事です。この行事は昭和30年頃に廃れましたが、時が流れ、奇習「一箱べったり」の伝承と妖怪「白粉婆」が混同されるようになり、昨今の妖怪ブームと相俟って陽の目をみるようになったそうです。<br />因みに、「白粉婆」は、江戸時代の絵師 鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』によると、破れた傘を頭に被り、右手に杖、左手に酒徳利を持ち、顔には厚く雑に塗った白粉を付けた妖怪です。<br />この本長谷寺に安置されているのは、白粉と紅を塗り付けた「びんづる」(白河の婆)のようです。

    本長谷寺
    堂宇内には、2体の仏像と銅板法華説相図が祀られています。右端は、道明上人像です。左端に安置された、お化粧を施したような木像が気になったので調べてみました。
    長谷寺には、「白河(しらが)の婆」の怪奇譚が伝わっているようです。
    1537(天文6)年、長谷寺で画僧を集めて本堂に観音菩薩を描くことになりました。その時、僧侶たちのために苦労を重ね、お粥などの接待をして功徳を積んだ老女がいました。その老女は、白河という泊瀬谷を登ると長谷寺へ上がる一つ手前の谷から通い、化粧っ気のないみすぼらしい出で立ちでしたが、情深く慈母のように慕われていました。しかし、ある日の夕刻、忽然と姿を消しました。そして誰言うともなく観音様の化身と言われるようになり、その恩に報いるべく、綺麗な着物と白粉をせめてもの「志」として供養したと伝わります。
    その白河地域には「一箱べったり」という行事がありました。毎年1月5日の深夜、白河から一箱の白粉を本長谷寺に持ち寄り、姥像に白粉を塗る行事です。この行事は昭和30年頃に廃れましたが、時が流れ、奇習「一箱べったり」の伝承と妖怪「白粉婆」が混同されるようになり、昨今の妖怪ブームと相俟って陽の目をみるようになったそうです。
    因みに、「白粉婆」は、江戸時代の絵師 鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』によると、破れた傘を頭に被り、右手に杖、左手に酒徳利を持ち、顔には厚く雑に塗った白粉を付けた妖怪です。
    この本長谷寺に安置されているのは、白粉と紅を塗り付けた「びんづる」(白河の婆)のようです。

  • 本長谷寺「ありがたい白粉婆の話」<br />これは怪奇譚「白河(しらが)の婆」の別バージョンのようなお話ですが、こちらがより現実に近い話のように思います。<br />戦国時代のある年、長谷寺に百人ほどの画僧が集まり、長谷寺本堂の内陣を覆うほどの大紙に観音様の姿を描き写す作業が始められていました。それは戦ばかりの世の中を良くしたいと願う長谷寺の上人の発案でした。<br />ところがある朝、画僧たちは絵具を溶こうとも、筆を持とうともしませんでした。その訳は、「米がなくなってしまい、今日からご飯が出ない」との噂を耳にしたからでした。<br />そこへ小僧が駆けてきました。小僧は、「昨日、足利軍勢が里を襲い、寺や家々の米や麦、穀物を持ち去った」と伝えました。嘆く画僧たちに小僧は続けて言いました。「ご安心ください。ご飯は大丈夫です。ひと粒の米が百万倍に増える不思議がこの寺で起こっていますから」。<br />小僧は、信じようとしない画僧たちを井戸へ案内しました。牡丹園の向こうに、ひとりの娘がおり、といだ米を大ザルに移し替えていました。しかも、ひと粒の米をザルに残すと一瞬にして米が盛り上がってくるのでした。その光景に驚いた画僧たちは、観音様の化身に違いないとありがたく思いました。皆、娘の顔を拝みたかったのですが、うつむいてばかりで叶いません。するとひとりが小石を投げました。小石は井戸の縁に当たり、その途端、周囲は浄土のように光り輝きました。娘は顔をそっと上げましたが、畏れ多さに一同はひれ伏して拝むばかりで誰も娘の顔を見ることができませんでした。<br />それで良かったのです。何故ならその顔は、若い娘がするように白粉を塗っていましたが、人々のために苦労を重ねたため、しわくちゃの老婆の顔のようだったからです。その日から画僧たちは一心不乱に仏画に打ち込み、立派な観音様の絵を完成させたとのことです。

    本長谷寺「ありがたい白粉婆の話」
    これは怪奇譚「白河(しらが)の婆」の別バージョンのようなお話ですが、こちらがより現実に近い話のように思います。
    戦国時代のある年、長谷寺に百人ほどの画僧が集まり、長谷寺本堂の内陣を覆うほどの大紙に観音様の姿を描き写す作業が始められていました。それは戦ばかりの世の中を良くしたいと願う長谷寺の上人の発案でした。
    ところがある朝、画僧たちは絵具を溶こうとも、筆を持とうともしませんでした。その訳は、「米がなくなってしまい、今日からご飯が出ない」との噂を耳にしたからでした。
    そこへ小僧が駆けてきました。小僧は、「昨日、足利軍勢が里を襲い、寺や家々の米や麦、穀物を持ち去った」と伝えました。嘆く画僧たちに小僧は続けて言いました。「ご安心ください。ご飯は大丈夫です。ひと粒の米が百万倍に増える不思議がこの寺で起こっていますから」。
    小僧は、信じようとしない画僧たちを井戸へ案内しました。牡丹園の向こうに、ひとりの娘がおり、といだ米を大ザルに移し替えていました。しかも、ひと粒の米をザルに残すと一瞬にして米が盛り上がってくるのでした。その光景に驚いた画僧たちは、観音様の化身に違いないとありがたく思いました。皆、娘の顔を拝みたかったのですが、うつむいてばかりで叶いません。するとひとりが小石を投げました。小石は井戸の縁に当たり、その途端、周囲は浄土のように光り輝きました。娘は顔をそっと上げましたが、畏れ多さに一同はひれ伏して拝むばかりで誰も娘の顔を見ることができませんでした。
    それで良かったのです。何故ならその顔は、若い娘がするように白粉を塗っていましたが、人々のために苦労を重ねたため、しわくちゃの老婆の顔のようだったからです。その日から画僧たちは一心不乱に仏画に打ち込み、立派な観音様の絵を完成させたとのことです。

  • 本長谷寺<br />金ピカの銅板法華説相図のレプリカも祀られています。

    本長谷寺
    金ピカの銅板法華説相図のレプリカも祀られています。

  • 五重塔<br />東の丘の本堂に対し、西の丘を象徴する建物が五重塔です。<br />鮮やかな丹色をした五重塔は、純和様式の端整な形の塔で、高さ26.16m(基壇の地表から27m)あります。焼失した本長谷寺の三重塔跡の近隣に1954(昭和29)年に再建され、戦後の日本で初めて建てられた五重塔であることから「昭和の名塔」と呼ばれています。<br />塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和しています。

    五重塔
    東の丘の本堂に対し、西の丘を象徴する建物が五重塔です。
    鮮やかな丹色をした五重塔は、純和様式の端整な形の塔で、高さ26.16m(基壇の地表から27m)あります。焼失した本長谷寺の三重塔跡の近隣に1954(昭和29)年に再建され、戦後の日本で初めて建てられた五重塔であることから「昭和の名塔」と呼ばれています。
    塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和しています。

  • 五重塔<br />設計者は、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師 松本才治氏です。室生寺楼門の設計をはじめ、法隆寺五重塔や法隆寺夢殿、金峯山寺蔵王堂など数々の解体修理に携わり、多くの古社寺の修理や保存に尽力された技師です。<br />この五重塔は戦没被災者を慰霊する目的で建立されており、落慶法要では戦争で 犠牲になった方々の慰霊法要も行われました。初重内部には、極彩色の文様や繧繝(うんげん)彩色の宝相華(ほうそうげ)など、外陣四隅の板壁には真言八祖を描き、内陣には宇宙の中心に居るとされる大日如来坐像(通常非公開)が安置されているそうです。<br />5月中旬~6月上旬の塔下にはシャクナゲ、11月中旬~12月上旬には周囲に見事な紅葉が見られます。

    五重塔
    設計者は、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師 松本才治氏です。室生寺楼門の設計をはじめ、法隆寺五重塔や法隆寺夢殿、金峯山寺蔵王堂など数々の解体修理に携わり、多くの古社寺の修理や保存に尽力された技師です。
    この五重塔は戦没被災者を慰霊する目的で建立されており、落慶法要では戦争で 犠牲になった方々の慰霊法要も行われました。初重内部には、極彩色の文様や繧繝(うんげん)彩色の宝相華(ほうそうげ)など、外陣四隅の板壁には真言八祖を描き、内陣には宇宙の中心に居るとされる大日如来坐像(通常非公開)が安置されているそうです。
    5月中旬~6月上旬の塔下にはシャクナゲ、11月中旬~12月上旬には周囲に見事な紅葉が見られます。

  • 西の岡 三重塔跡<br />本堂から西の五重塔へ進むと、その傍らには基壇と礎石のみが往時を偲ばせる三重塔跡があります。「慶長年間、豊臣秀頼公によりて再建せられたるも…祝融の災にかかり焼失」と記されています。この場所に三重塔が建っていたとは今は知る由もありませんが、案内板がそれを伝えます。因みに、三重塔は1876(明治9)年に落雷によって焼失しています。

    西の岡 三重塔跡
    本堂から西の五重塔へ進むと、その傍らには基壇と礎石のみが往時を偲ばせる三重塔跡があります。「慶長年間、豊臣秀頼公によりて再建せられたるも…祝融の災にかかり焼失」と記されています。この場所に三重塔が建っていたとは今は知る由もありませんが、案内板がそれを伝えます。因みに、三重塔は1876(明治9)年に落雷によって焼失しています。

  • 西の岡<br />西の岡から東の岡に鎮まる本堂を眺めます。<br />本堂の威風堂々たる風格や甍を並べる登廊の風情は、言葉に尽くせないほどです。<br />

    西の岡
    西の岡から東の岡に鎮まる本堂を眺めます。
    本堂の威風堂々たる風格や甍を並べる登廊の風情は、言葉に尽くせないほどです。

  • 開山堂<br />本坊へ向かうため、一旦本堂まで戻り、開山堂を経由して山を下ります。<br />開山堂には、長谷寺を開山し、西国三十三所巡礼を始めた徳道上人が祀られています。<br />「お砂しあわせ巡り」という案内があり、お賽銭箱の近くに西国三十三所のお砂が入った宝珠が置かれています。宝珠を合掌した掌の中に納め、お願い事をすると叶うと伝わります。

    開山堂
    本坊へ向かうため、一旦本堂まで戻り、開山堂を経由して山を下ります。
    開山堂には、長谷寺を開山し、西国三十三所巡礼を始めた徳道上人が祀られています。
    「お砂しあわせ巡り」という案内があり、お賽銭箱の近くに西国三十三所のお砂が入った宝珠が置かれています。宝珠を合掌した掌の中に納め、お願い事をすると叶うと伝わります。

  • 下るのもきついですが、美しいシャクナゲが声援を送ってくれます。

    下るのもきついですが、美しいシャクナゲが声援を送ってくれます。

  • ヒメウツギ(姫空木)<br />ユキノシタ科ドイツィア(ウツギ)属で、関東以西、四国、九州原産の落葉性低木です。空木に似ており、花のサイズが小柄でほっそりしていることに因む名前です。<br />新緑が美しい旧暦4月頃の卯月に白い清楚な五弁花を咲かせることから「卯の花」とも言われ、童謡『夏は来ぬ』に歌われています。<br />花言葉は、「秘密」「秘めた恋」「古風」「潔白」「夏の訪れ」。<br />「秘密」「秘めた恋」は、幹の中が空洞になっていることに因んで付いたとされます。<br />「古風」は、やや下向き加減に花を付ける姿をなぞらえたものでしょうか…。

    ヒメウツギ(姫空木)
    ユキノシタ科ドイツィア(ウツギ)属で、関東以西、四国、九州原産の落葉性低木です。空木に似ており、花のサイズが小柄でほっそりしていることに因む名前です。
    新緑が美しい旧暦4月頃の卯月に白い清楚な五弁花を咲かせることから「卯の花」とも言われ、童謡『夏は来ぬ』に歌われています。
    花言葉は、「秘密」「秘めた恋」「古風」「潔白」「夏の訪れ」。
    「秘密」「秘めた恋」は、幹の中が空洞になっていることに因んで付いたとされます。
    「古風」は、やや下向き加減に花を付ける姿をなぞらえたものでしょうか…。

  • キリシママツツジ<br />真紅のキリシママツツジも負けじと咲き誇っています。

    キリシママツツジ
    真紅のキリシママツツジも負けじと咲き誇っています。

  • ドウダンツツジ<br />盛りを過ぎていますが、ドウダンツツジも純白の可憐な花を咲かせています。

    ドウダンツツジ
    盛りを過ぎていますが、ドウダンツツジも純白の可憐な花を咲かせています。

  • ベニバナトキワマンサク<br />長谷寺式十一面観音像は右手に錫杖を握られています。それは、山に分け入った時に錫杖の鳴る音で獣や毒蛇を遠ざけるためとされます。衆生を救うため、如何なる場所へも足を向けて下さる観音様。少し険しい場所に咲くベニバナトキワマンサクを眺めていると、長谷観音の慈悲を感じます。<br />花言葉は「呪文」「霊感」「魔力」と、如何にもといった感じです。

    ベニバナトキワマンサク
    長谷寺式十一面観音像は右手に錫杖を握られています。それは、山に分け入った時に錫杖の鳴る音で獣や毒蛇を遠ざけるためとされます。衆生を救うため、如何なる場所へも足を向けて下さる観音様。少し険しい場所に咲くベニバナトキワマンサクを眺めていると、長谷観音の慈悲を感じます。
    花言葉は「呪文」「霊感」「魔力」と、如何にもといった感じです。

  • 牡丹園<br />白楽天の漢詩『牡丹芳』にあるように、牡丹の別名を「二十日草」といいます。<br />20日間咲くということに由来します。日本でも『詞花和歌集(1151年)』にある関白前太政大臣の歌には、「咲きしより 散り果つるまで 見しほどの 花のもとにて 二十日へりけり」と詠まれています。<br />そして数ある牡丹の品種の中で最も遅く咲くのが。この黄牡丹です。

    牡丹園
    白楽天の漢詩『牡丹芳』にあるように、牡丹の別名を「二十日草」といいます。
    20日間咲くということに由来します。日本でも『詞花和歌集(1151年)』にある関白前太政大臣の歌には、「咲きしより 散り果つるまで 見しほどの 花のもとにて 二十日へりけり」と詠まれています。
    そして数ある牡丹の品種の中で最も遅く咲くのが。この黄牡丹です。

  • 牡丹園<br />実は、牡丹には別名が沢山あります。<br />「富貴草」「百花王」「花王」「花神」など花の風情そのものに由来するものから、「深見草」「名取草」「夜白草」など上げればきりがありません。冬季に地上部がなくなってしまう草性の芍薬と違い、牡丹は木部が残るため、名前に「草」と付くのに違和感を感じないでもありませんが…。<br />奈良時代の733(天平5)年に出雲国造出雲臣広嶋が編纂した『出雲国風土記』に、牡丹は薬草として初登場します。また、平安時代の日本最古の百科事典『和名類聚抄』には草類編として「牡丹和名、布加美久佐」と記されており、紅の色の深さを称えて牡丹と書いて「フカミグサ」と読ませていました。その後、平安時代に「深見草」という漢字を当てるようになったそうです。

    牡丹園
    実は、牡丹には別名が沢山あります。
    「富貴草」「百花王」「花王」「花神」など花の風情そのものに由来するものから、「深見草」「名取草」「夜白草」など上げればきりがありません。冬季に地上部がなくなってしまう草性の芍薬と違い、牡丹は木部が残るため、名前に「草」と付くのに違和感を感じないでもありませんが…。
    奈良時代の733(天平5)年に出雲国造出雲臣広嶋が編纂した『出雲国風土記』に、牡丹は薬草として初登場します。また、平安時代の日本最古の百科事典『和名類聚抄』には草類編として「牡丹和名、布加美久佐」と記されており、紅の色の深さを称えて牡丹と書いて「フカミグサ」と読ませていました。その後、平安時代に「深見草」という漢字を当てるようになったそうです。

  • 牡丹園<br />「名取草」の由来は、室町期の歌学書『蔵玉和歌集(草木異名抄)』に拠ります。<br />ある男が、愛した女の他の男への心変わりに嫉妬して荒れ狂った経緯から、女の心を奪い取ってしまうほどに魔力を持つ妖艶な花であることに因みます。「汝(な:おまえ)を取り(奪い取る魔力の)草」から転じ、「名取草」と呼んだそうです。

    牡丹園
    「名取草」の由来は、室町期の歌学書『蔵玉和歌集(草木異名抄)』に拠ります。
    ある男が、愛した女の他の男への心変わりに嫉妬して荒れ狂った経緯から、女の心を奪い取ってしまうほどに魔力を持つ妖艶な花であることに因みます。「汝(な:おまえ)を取り(奪い取る魔力の)草」から転じ、「名取草」と呼んだそうです。

  •  牡丹園<br />白牡丹は、「夜白草」とも呼ばれます。<br />これは、天人が降りて跳ねるほど、夜でも白さが引き立つ様を称えた名前です。闇夜にポッと明かりを点したように、おぼろげに花姿を魅せる様を想像させる花名です。<br />牡丹の佇まいには、春の終わりを告げる特別な花を思わせるものがあります。

    牡丹園
    白牡丹は、「夜白草」とも呼ばれます。
    これは、天人が降りて跳ねるほど、夜でも白さが引き立つ様を称えた名前です。闇夜にポッと明かりを点したように、おぼろげに花姿を魅せる様を想像させる花名です。
    牡丹の佇まいには、春の終わりを告げる特別な花を思わせるものがあります。

  • 閼伽井<br />閼伽井とは、梵語(アギャ:供養・功徳の意)の音訳とされ、功徳水とも言われる清浄な水(閼伽)を汲む井戸をいいます。閼伽は、長谷寺では灌頂などの重要な儀式法要の際に使われています。キリスト教で言う、「聖水」のようなものです。<br />また、仏様に供える水や花、清浄な水を入れた容器なども閼伽と呼ぶことがあります。<br />一方、灌頂とは、「菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること」とあります。日本では、805(延暦24)年に最澄が高雄山寺で行った灌頂が公式儀式としては初とされます。また、雅楽や平曲、音楽、和歌の世界では奥義や秘伝などを授けることを灌頂と言います。どうやら厳しい修行の後、更なる高みへの入口付近に待ち受けるのが灌頂なる儀式と察します。

    閼伽井
    閼伽井とは、梵語(アギャ:供養・功徳の意)の音訳とされ、功徳水とも言われる清浄な水(閼伽)を汲む井戸をいいます。閼伽は、長谷寺では灌頂などの重要な儀式法要の際に使われています。キリスト教で言う、「聖水」のようなものです。
    また、仏様に供える水や花、清浄な水を入れた容器なども閼伽と呼ぶことがあります。
    一方、灌頂とは、「菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明すること」とあります。日本では、805(延暦24)年に最澄が高雄山寺で行った灌頂が公式儀式としては初とされます。また、雅楽や平曲、音楽、和歌の世界では奥義や秘伝などを授けることを灌頂と言います。どうやら厳しい修行の後、更なる高みへの入口付近に待ち受けるのが灌頂なる儀式と察します。

  • 本坊 中雀門<br />1766(明和3)年に建立された、一間薬医門です。<br />切妻造、本瓦葺で左右に袖塀を添えています。<br />簡素ですが風格を漂わせる山門です。

    本坊 中雀門
    1766(明和3)年に建立された、一間薬医門です。
    切妻造、本瓦葺で左右に袖塀を添えています。
    簡素ですが風格を漂わせる山門です。

  • 本坊<br />本坊は、本堂と谷を挟んで対峙する南の高台に位置し、事相・教祖の根本道場となる大講堂や書院などを構えています。1667(寛文7)年に徳川将軍の寄進で本坊子院小池坊として建立されましたが、1911(明治44)年に焼損しています。<br />向かって左から宝形造本瓦葺の護摩堂(画像には写っていません)、入母屋造本瓦葺の大講堂、檜皮葺唐破風の優雅な大玄関、煙出しのある庫裏と並びます。大講堂の妻飾りは、二重虹梁蟇股式に結綿付大瓶束を設けています。庫裏の妻飾りは豕叉首式と二重虹梁蟇股式を組合わせており、懸魚は猪目懸魚です。

    本坊
    本坊は、本堂と谷を挟んで対峙する南の高台に位置し、事相・教祖の根本道場となる大講堂や書院などを構えています。1667(寛文7)年に徳川将軍の寄進で本坊子院小池坊として建立されましたが、1911(明治44)年に焼損しています。
    向かって左から宝形造本瓦葺の護摩堂(画像には写っていません)、入母屋造本瓦葺の大講堂、檜皮葺唐破風の優雅な大玄関、煙出しのある庫裏と並びます。大講堂の妻飾りは、二重虹梁蟇股式に結綿付大瓶束を設けています。庫裏の妻飾りは豕叉首式と二重虹梁蟇股式を組合わせており、懸魚は猪目懸魚です。

  • 本坊 大玄関<br />現在の建物群は、1924(大正13)年に総檜造で再建されたものであり、重文に指定されています。再建には、文化財の保存修理に携わっていた奈良県技師 天沼俊一、阪谷良之進、岸熊吉が派遣され、設計と工事監督を担当しています。

    本坊 大玄関
    現在の建物群は、1924(大正13)年に総檜造で再建されたものであり、重文に指定されています。再建には、文化財の保存修理に携わっていた奈良県技師 天沼俊一、阪谷良之進、岸熊吉が派遣され、設計と工事監督を担当しています。

  • 本坊 大玄関<br />素朴な意匠ですが、蟇股などの彫刻も見逃せません。<br />牡丹の花をあしらっています。

    本坊 大玄関
    素朴な意匠ですが、蟇股などの彫刻も見逃せません。
    牡丹の花をあしらっています。

  • 本坊 大玄関<br />大玄関は、獅子口を載せた檜皮葺唐破風で、虹梁の上に2基の牡丹をあしらった蟇股を載せています。<br />天上は格天井です。<br />

    本坊 大玄関
    大玄関は、獅子口を載せた檜皮葺唐破風で、虹梁の上に2基の牡丹をあしらった蟇股を載せています。
    天上は格天井です。

  • 本坊 大玄関<br />一番奥の蟇股も牡丹で統一されています。<br />ハート形の猪目もありますよ!<br />猪目は、魔除けや福を招く護符の意味合いがあります。

    本坊 大玄関
    一番奥の蟇股も牡丹で統一されています。
    ハート形の猪目もありますよ!
    猪目は、魔除けや福を招く護符の意味合いがあります。

  • 本坊 大玄関<br />玄関の前には立派な牡丹の鉢植えが置かれています。

    本坊 大玄関
    玄関の前には立派な牡丹の鉢植えが置かれています。

  • 本坊 大玄関<br />玄関前の行列は、この光景を写真に収めるためのものです。<br />光り輝くほどに磨き上げられた廊下の先には、額縁「猩々野村」が涼やかです。猩々野村とは、オオモミジ系の大葉の紫葉品種の名前で、開葉する今の時期は明るい赤紫色、次第に色が濃くなり、晩秋には鮮やかな赤色~赤橙色に紅葉します。

    本坊 大玄関
    玄関前の行列は、この光景を写真に収めるためのものです。
    光り輝くほどに磨き上げられた廊下の先には、額縁「猩々野村」が涼やかです。 猩々野村とは、オオモミジ系の大葉の紫葉品種の名前で、開葉する今の時期は明るい赤紫色、次第に色が濃くなり、晩秋には鮮やかな赤色~赤橙色に紅葉します。

  • 本坊 大玄関<br />写実絵画と印象派の絵画を並べて観ているような不思議な感覚に包まれます。<br />猩々野村とその借景となる碧のコントラストが、滲む床の上で複雑に絡み合った独特の情景を創っています。<br />光と影が織りなすこの絶妙な造形の美しさは、一期一会のえにしとなるものです。

    本坊 大玄関
    写実絵画と印象派の絵画を並べて観ているような不思議な感覚に包まれます。
    猩々野村とその借景となる碧のコントラストが、滲む床の上で複雑に絡み合った独特の情景を創っています。
    光と影が織りなすこの絶妙な造形の美しさは、一期一会のえにしとなるものです。

  • 庫裏<br />大玄関(大講堂)の右隣にある、庫裏です。<br />板壁には、たおやかな蓮の花が描かれています。<br />アイ・ストップとなる巨大な切り株の割れ目には、各所に「千切り」が打たれています。「千切り」は日本の伝統的技法であり、リボンのようにも蝶々のようにも見える鼓型の埋木です。古来から「一度離れたものを繋ぎ留める」、「繋ぎ続ける」という意味合いで、割れて離れた部分や離れていた部分にそれ以上の割れや離れを生じさせないための装飾を兼ねた埋木として用いられてきました。<br />「千切り」が「契り」にかけられているのかは定かではありませんが、木と木、人と人の違いを除けば類似のコンセプトと思います。

    庫裏
    大玄関(大講堂)の右隣にある、庫裏です。
    板壁には、たおやかな蓮の花が描かれています。
    アイ・ストップとなる巨大な切り株の割れ目には、各所に「千切り」が打たれています。「千切り」は日本の伝統的技法であり、リボンのようにも蝶々のようにも見える鼓型の埋木です。古来から「一度離れたものを繋ぎ留める」、「繋ぎ続ける」という意味合いで、割れて離れた部分や離れていた部分にそれ以上の割れや離れを生じさせないための装飾を兼ねた埋木として用いられてきました。
    「千切り」が「契り」にかけられているのかは定かではありませんが、木と木、人と人の違いを除けば類似のコンセプトと思います。

  • 本坊<br />本坊前には、このように牡丹園が広がります。

    本坊
    本坊前には、このように牡丹園が広がります。

  • 本坊<br />八重山吹を前景に本堂をズームアップです。

    本坊
    八重山吹を前景に本堂をズームアップです。

  • 本坊<br />牡丹の借景に本堂を入れてみました。

    本坊
    牡丹の借景に本堂を入れてみました。

  • 本坊<br />大講堂の前に小さな放生池があり、その縁に置かれた鬼瓦です。 <br />鬼瓦2枚が本坊の重文に指定されているのですが、保管状態からそれに当たるものではないと思われます。

    本坊
    大講堂の前に小さな放生池があり、その縁に置かれた鬼瓦です。
    鬼瓦2枚が本坊の重文に指定されているのですが、保管状態からそれに当たるものではないと思われます。

  • 本坊<br />鬼瓦も阿吽形になっています。

    本坊
    鬼瓦も阿吽形になっています。

  • 本坊<br />中国では、牡丹は昔から「花の中の王者」と呼ばれ、幸福や繁栄のシンボルとされてきました。中国人が牡丹を溺愛するのは、その上品さゆえです。「春に咲く花は絵のように美しく、夏の葉は水を打ったように清浄で、秋の枝は鉄のように力強い。また、冬の雪に耐える新芽は梅のようでもある」と牡丹を称えました。<br />『事物紀原』の「洛陽花」には次のように記されています。<br />唐の時代、中国史上唯一の女帝 則天武后が即位した年の冬、庭園で雪見の宴を催しました。その際、女帝が酒興に乗じ、全ての花に「花を咲かせよ!」と命じました。花々は命令に逆らうことができず、雪の中にも係わらず皆咲き出しましたが、牡丹だけは従いませんでした。女帝は怒り、牡丹を長安から洛陽に追放してしまいました。ところが翌年、春になると洛陽の牡丹は競うように花を付け、益々美しく咲き誇りました。その後、牡丹は人々に猛威にもめげない花と讃えられたそうです。

    本坊
    中国では、牡丹は昔から「花の中の王者」と呼ばれ、幸福や繁栄のシンボルとされてきました。中国人が牡丹を溺愛するのは、その上品さゆえです。「春に咲く花は絵のように美しく、夏の葉は水を打ったように清浄で、秋の枝は鉄のように力強い。また、冬の雪に耐える新芽は梅のようでもある」と牡丹を称えました。
    『事物紀原』の「洛陽花」には次のように記されています。
    唐の時代、中国史上唯一の女帝 則天武后が即位した年の冬、庭園で雪見の宴を催しました。その際、女帝が酒興に乗じ、全ての花に「花を咲かせよ!」と命じました。花々は命令に逆らうことができず、雪の中にも係わらず皆咲き出しましたが、牡丹だけは従いませんでした。女帝は怒り、牡丹を長安から洛陽に追放してしまいました。ところが翌年、春になると洛陽の牡丹は競うように花を付け、益々美しく咲き誇りました。その後、牡丹は人々に猛威にもめげない花と讃えられたそうです。

  • 本坊<br />「科挙試験合格者と探花(たんか) 」<br />これは、中国の高級文官試験として有名な科挙にまつわる逸話です。  <br />科挙試験の中でも最難関の進士科は、合格すれば高級官僚への道が約束され、それ故に競争は熾烈を極め、50歳で合格すれば若い方と言われるほどでした。  <br />この試験に合格者した者を祝う宴を「探花宴」と呼びます。皇帝は、探花宴の余興のひとつとして合格者のひとりに牡丹の花を探し出してきて披露する探花使という任務を命じるようになりました。この任務には当初は最年少合格者が割り当てられいましたが、やがて第3位合格者が命じられることが通例となり、以後、進士科の第3位合格者のことを「探花」と呼ぶようになったそうです。

    本坊
    「科挙試験合格者と探花(たんか) 」
    これは、中国の高級文官試験として有名な科挙にまつわる逸話です。  
    科挙試験の中でも最難関の進士科は、合格すれば高級官僚への道が約束され、それ故に競争は熾烈を極め、50歳で合格すれば若い方と言われるほどでした。  
    この試験に合格者した者を祝う宴を「探花宴」と呼びます。皇帝は、探花宴の余興のひとつとして合格者のひとりに牡丹の花を探し出してきて披露する探花使という任務を命じるようになりました。この任務には当初は最年少合格者が割り当てられいましたが、やがて第3位合格者が命じられることが通例となり、以後、進士科の第3位合格者のことを「探花」と呼ぶようになったそうです。

  • 本坊<br />「牡丹名人と牡丹狂騒曲」<br />唐の長安では玄宋皇帝が牡丹栽培の名人 宋単父を洛陽から招き、驪山の御苑で優良種牡丹1万株を栽培させました。それらは全て異なる品種であったとされ、皇帝は単父に金千両を贈り、「花師」と称しました。<br />その後、次第に牡丹は民間に広まり、見頃の旧暦3月15日前後の20日は長安城内は花見客で賑わったそうです。そのことは白楽天の『牡丹芳』や劉禹錫の『牡丹賞』(ただ牡丹のみ夏の国色あり、花開く時節に京城を動かす)といった漢詩からも窺えます。

    本坊
    「牡丹名人と牡丹狂騒曲」
    唐の長安では玄宋皇帝が牡丹栽培の名人 宋単父を洛陽から招き、驪山の御苑で優良種牡丹1万株を栽培させました。それらは全て異なる品種であったとされ、皇帝は単父に金千両を贈り、「花師」と称しました。
    その後、次第に牡丹は民間に広まり、見頃の旧暦3月15日前後の20日は長安城内は花見客で賑わったそうです。そのことは白楽天の『牡丹芳』や劉禹錫の『牡丹賞』(ただ牡丹のみ夏の国色あり、花開く時節に京城を動かす)といった漢詩からも窺えます。

  • 本坊<br />新羅の善徳女王に唐から牡丹の絵と種が伝わり、それを見た女王は「この花は香りません」と予言しました。実際に植えるとその通りで、女王は家臣の質問に対し、「絵に蝶が描かれていなかったから」と答えました。牡丹に香りがないのは事実ではありませんが、薔薇のように香ることもありません。<br />また、高麗時代の詩人 李奎報の漢詩『折枝行』には、牡丹と女性とどちらが美しいかと問われる話があります。「花」と答えると、今宵は花と寝て下さいと女性はやり返します。<br />朝鮮時代には、婚礼の席に牡丹図屏風は欠かせない調度となり、貧しい人でも使えるようにと村にひとつはあったそうです。牡丹は、夫婦の豊かな未来を約束する象徴でもあったようです。

    本坊
    新羅の善徳女王に唐から牡丹の絵と種が伝わり、それを見た女王は「この花は香りません」と予言しました。実際に植えるとその通りで、女王は家臣の質問に対し、「絵に蝶が描かれていなかったから」と答えました。牡丹に香りがないのは事実ではありませんが、薔薇のように香ることもありません。
    また、高麗時代の詩人 李奎報の漢詩『折枝行』には、牡丹と女性とどちらが美しいかと問われる話があります。「花」と答えると、今宵は花と寝て下さいと女性はやり返します。
    朝鮮時代には、婚礼の席に牡丹図屏風は欠かせない調度となり、貧しい人でも使えるようにと村にひとつはあったそうです。牡丹は、夫婦の豊かな未来を約束する象徴でもあったようです。

  • 本坊<br />「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」の喩えは、江戸時代の文献にすでに見られます。<br />1776(安永5)年発刊の滑稽本『無論里(ろんのないさと)問答』には、「踊の歌に曰く立ば芍薬 座居(とい)すりゃ牡丹 あるき姿は山丹(ゆり)の花」との記述があります。<br />また、天明~寛政年間(1781~1802年)にまとめられたことわざ辞典『譬喩尽(たとえづくし)』には、「立てば芍薬 居(とと)すりゃ牡丹 歩く姿は百合の花」とあります。<br />いずれの花も婦人向の薬草であるのが興味深いところです。実際に漢方の世界では、これは美人や花の美しさを競った言葉ではなく、「生薬の用い方」を喩えたと説明されています。<br />「立てば芍薬」の「立て」とはイライラして気の立っている女性を指し、芍薬の根を用いて痛みや筋肉の凝りを取る。<br />「座れば牡丹」の「座れ」はペッたりと座り込んでいる女性を指し、腹部に血が滞った状態のことで血行不良が原因となっている場合は牡丹皮を用いて改善する。<br />百合の花が風に揺れるようにナヨナヨとした様子で歩くのは心身症である場合が多く、「歩く姿は百合の花」と喩えた。この場合は、百合の麟茎を用いると健康を取り戻せるといいます。

    本坊
    「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」の喩えは、江戸時代の文献にすでに見られます。
    1776(安永5)年発刊の滑稽本『無論里(ろんのないさと)問答』には、「踊の歌に曰く立ば芍薬 座居(とい)すりゃ牡丹 あるき姿は山丹(ゆり)の花」との記述があります。
    また、天明~寛政年間(1781~1802年)にまとめられたことわざ辞典『譬喩尽(たとえづくし)』には、「立てば芍薬 居(とと)すりゃ牡丹 歩く姿は百合の花」とあります。
    いずれの花も婦人向の薬草であるのが興味深いところです。実際に漢方の世界では、これは美人や花の美しさを競った言葉ではなく、「生薬の用い方」を喩えたと説明されています。
    「立てば芍薬」の「立て」とはイライラして気の立っている女性を指し、芍薬の根を用いて痛みや筋肉の凝りを取る。
    「座れば牡丹」の「座れ」はペッたりと座り込んでいる女性を指し、腹部に血が滞った状態のことで血行不良が原因となっている場合は牡丹皮を用いて改善する。
    百合の花が風に揺れるようにナヨナヨとした様子で歩くのは心身症である場合が多く、「歩く姿は百合の花」と喩えた。この場合は、百合の麟茎を用いると健康を取り戻せるといいます。

  • 左手に梅心院、右手に宿舎 昭和寮を眺めながら登廊へトラバースします。<br />その途中には純白のオオデマリ(大手鞠)が手招きするように咲き誇っています。

    左手に梅心院、右手に宿舎 昭和寮を眺めながら登廊へトラバースします。
    その途中には純白のオオデマリ(大手鞠)が手招きするように咲き誇っています。

  • オオデマリ<br />近接写真がこれしかないので・・・。<br />真っ白なボール状の花を咲かせる、スイカズラ科ガマズミ属の落葉低木です。<br /> 花言葉は、「優雅なたしなみ」「華やかな恋」「約束」「天国」。<br />「天国」という花言葉は、オオデマリの花が緑色の葉の間に咲いた様が天国にいるような優美さがあるということに因みます。

    オオデマリ
    近接写真がこれしかないので・・・。
    真っ白なボール状の花を咲かせる、スイカズラ科ガマズミ属の落葉低木です。
    花言葉は、「優雅なたしなみ」「華やかな恋」「約束」「天国」。
    「天国」という花言葉は、オオデマリの花が緑色の葉の間に咲いた様が天国にいるような優美さがあるということに因みます。

  • 歓喜院<br />普段は拝観できない所だそうですが、真言宗豊山派布教師による特別法話が催されていたため、寄り道してみました。<br />門を潜った先から仁王門方向を眺めた様子です。

    歓喜院
    普段は拝観できない所だそうですが、真言宗豊山派布教師による特別法話が催されていたため、寄り道してみました。
    門を潜った先から仁王門方向を眺めた様子です。

  • 歓喜院<br />子弟教育を含め様々な目的に使われる昭和寮を併設しており、修行僧が夕勤行を行います。<br />4月上旬~中旬には初瀬桜、この時期は八重山吹やハナミズキ、夏にはキョウチクトウの花が愛でられます。

    歓喜院
    子弟教育を含め様々な目的に使われる昭和寮を併設しており、修行僧が夕勤行を行います。
    4月上旬~中旬には初瀬桜、この時期は八重山吹やハナミズキ、夏にはキョウチクトウの花が愛でられます。

  • 歓喜院<br />唐破風向拝にある扁額の額字は、本堂同様に書道家・篆刻家 大久保翠洞師のようです。

    歓喜院
    唐破風向拝にある扁額の額字は、本堂同様に書道家・篆刻家 大久保翠洞師のようです。

  • 歓喜院<br />カミさんが法話に傾聴している間、当方は庭の周囲で撮影に勤しみます。<br />マイクを使われているため、庭にいてもありがたい法話を聞くことができます。<br />堂宇の南側奥に鄙びた門が佇みます。<br />その奥は、茶室のようです。<br />

    歓喜院
    カミさんが法話に傾聴している間、当方は庭の周囲で撮影に勤しみます。
    マイクを使われているため、庭にいてもありがたい法話を聞くことができます。
    堂宇の南側奥に鄙びた門が佇みます。
    その奥は、茶室のようです。

  • 茶室「茄藻庵(かそうあん)」<br />長谷寺の茶室です。<br />境内マップにも載せられていましたが、ここが入口とは思いませんでした。<br />長谷寺の資料によると、1942(昭和17)年に建立されたもので、茶室は四畳半切、下座床構え席のようです。<br />茶室内は上塗りの壁土に鉄粉または古釘の煮出し汁を混ぜた錆壁(さびかべ)で仕上げられ、天井の廻り縁には四方違った材を用い趣向を凝らした造りになっているそうです。新築から年を数える毎に趣が滲み出てくるという何とも奥が深い壁です。残念ながらここから先の見学はできません。

    茶室「茄藻庵(かそうあん)」
    長谷寺の茶室です。
    境内マップにも載せられていましたが、ここが入口とは思いませんでした。
    長谷寺の資料によると、1942(昭和17)年に建立されたもので、茶室は四畳半切、下座床構え席のようです。
    茶室内は上塗りの壁土に鉄粉または古釘の煮出し汁を混ぜた錆壁(さびかべ)で仕上げられ、天井の廻り縁には四方違った材を用い趣向を凝らした造りになっているそうです。新築から年を数える毎に趣が滲み出てくるという何とも奥が深い壁です。残念ながらここから先の見学はできません。

  • 茶室「茄藻庵」<br />「茄藻」をネットで調べてみると、小さな茄子のような形をした嚢が幾つも連なったクラスター状の海洋緑藻を言うようです。中国や台湾では外観がバナナの房に似ていることから「香蕉(バナナ)菜」とも呼ばれます。<br />信仰心がバナナの房のように沢山実ることを願っての命名でしょうか?

    茶室「茄藻庵」
    「茄藻」をネットで調べてみると、小さな茄子のような形をした嚢が幾つも連なったクラスター状の海洋緑藻を言うようです。中国や台湾では外観がバナナの房に似ていることから「香蕉(バナナ)菜」とも呼ばれます。
    信仰心がバナナの房のように沢山実ることを願っての命名でしょうか?

  • 歓喜院<br />堂宇の前には、まだ八重の名残桜が咲いています。

    歓喜院
    堂宇の前には、まだ八重の名残桜が咲いています。

  • 歓喜院 ハナズオウ(花蘇芳)<br />中国原産のマメ科ジャケツイバラ亜科の落葉低木です。江戸時代初期から日本各地で庭木として親しまれてきた、春を代表する花のひとつです。<br />花には花柄がなく、枝から直接花が着きます。花は紅色~赤紫色をしており、長さ1cmほどの蝶形をしています。<br />名は、花弁の色がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ていることに因みます。 <br />紫がかったピンク色の花をたわわに咲かせる花姿は日本人好みですが、同じハナズオウ属でも地中海付近原産のセイヨウハナズオウは「ユダの木」とも呼ばれます。由来は、イエスを裏切って磔刑にさせたイスカリオテのユダが、この木で首を吊ったという伝説に因みます。白花だったハナズオウは、裏切者の死に場所にされたことを恥じ、赤紫色に変化したとする伝説もあります。<br />花言葉は、日本のポジティブな印象から生まれたものと、西洋のネガティブなものの両方あります。<br />「喜び」「目覚め」「豊かな生涯」「裏切り」「不信仰」「疑惑」。<br />花が終わると出てくる葉がハート形をしていることから、人の生を象徴する「生涯」という花言葉になったと解説する方もおられます。

    歓喜院 ハナズオウ(花蘇芳)
    中国原産のマメ科ジャケツイバラ亜科の落葉低木です。江戸時代初期から日本各地で庭木として親しまれてきた、春を代表する花のひとつです。
    花には花柄がなく、枝から直接花が着きます。花は紅色~赤紫色をしており、長さ1cmほどの蝶形をしています。
    名は、花弁の色がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ていることに因みます。
    紫がかったピンク色の花をたわわに咲かせる花姿は日本人好みですが、同じハナズオウ属でも地中海付近原産のセイヨウハナズオウは「ユダの木」とも呼ばれます。由来は、イエスを裏切って磔刑にさせたイスカリオテのユダが、この木で首を吊ったという伝説に因みます。白花だったハナズオウは、裏切者の死に場所にされたことを恥じ、赤紫色に変化したとする伝説もあります。
    花言葉は、日本のポジティブな印象から生まれたものと、西洋のネガティブなものの両方あります。
    「喜び」「目覚め」「豊かな生涯」「裏切り」「不信仰」「疑惑」。
    花が終わると出てくる葉がハート形をしていることから、人の生を象徴する「生涯」という花言葉になったと解説する方もおられます。

  • 歓喜院<br />意外にも、ここは仁王門の絶好のビューポイントでもあります。<br />普段は入れないのが残念です。

    歓喜院
    意外にも、ここは仁王門の絶好のビューポイントでもあります。
    普段は入れないのが残念です。

  • 歓喜院<br />仁王門、登廊、本堂がきっちりとフレームに収まります。

    歓喜院
    仁王門、登廊、本堂がきっちりとフレームに収まります。

  • 歓喜院<br />初瀬山の中腹に籠る本堂をズームアップです。

    歓喜院
    初瀬山の中腹に籠る本堂をズームアップです。

  • 歓喜院<br />仁王門の上階には釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られているのですが、非公開です。

    歓喜院
    仁王門の上階には釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られているのですが、非公開です。

  • 歓喜院<br />仁王門の蟇股は唐獅子牡丹です。

    歓喜院
    仁王門の蟇股は唐獅子牡丹です。

  • 歓喜院<br />仁王門の屋根の四隅には、阿吽形の龍の彫刻が配されています。

    歓喜院
    仁王門の屋根の四隅には、阿吽形の龍の彫刻が配されています。

  • 仁王門<br />歓喜院を後にし、登廊から仁王門を潜って帰途に着きます。<br />ふと見上げると仁王門の虹梁の上には躍動感に満ち溢れた龍が彫られています。<br />仁王門の屋根の四隅と仁王門が対峙する登廊の獅子口にも龍が配され、どうやら曲がりくねった登廊は龍の胴体を表わしていると語りたげです。そうならば、仁王門を龍の頭として「降り龍」をなぞらえているようにも思えます。<br />つまり、登廊を登る際には鐘楼が龍の頭になり「昇り龍」、登廊を降りる際には仁王門が頭となり「降り龍」となる舞台装置のようです。<br />これでひとつモヤモヤしていたものが霧散しました。

    仁王門
    歓喜院を後にし、登廊から仁王門を潜って帰途に着きます。
    ふと見上げると仁王門の虹梁の上には躍動感に満ち溢れた龍が彫られています。
    仁王門の屋根の四隅と仁王門が対峙する登廊の獅子口にも龍が配され、どうやら曲がりくねった登廊は龍の胴体を表わしていると語りたげです。そうならば、仁王門を龍の頭として「降り龍」をなぞらえているようにも思えます。
    つまり、登廊を登る際には鐘楼が龍の頭になり「昇り龍」、登廊を降りる際には仁王門が頭となり「降り龍」となる舞台装置のようです。
    これでひとつモヤモヤしていたものが霧散しました。

  • 仁王門でしばし足を止め、人でごった返した俗界を見下ろしながら一息つきました。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    仁王門でしばし足を止め、人でごった返した俗界を見下ろしながら一息つきました。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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