2019/05/02 - 2019/05/02
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montsaintmichelさん
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奈良県桜井市初瀬、長谷寺の門前町筋から少し奥まった所に法起院が鎮まります。正式名称を「真言宗豊山(ぶざん)派 総本山長谷寺開山坊 法起院」と言い、西国巡礼霊場の中でも一際小さく、ひっそりとしたお寺です。長谷寺を開基し、また西国観音巡礼の元祖でもある徳道上人が余生を過し、松の木で自己像の法起菩薩を刻んで世を去った終焉の地であり、徳道上人の御廟所ともなっています。
こうした縁起から、法起院は西国三十三所「番外札所」に数えられています。因みに、「番外札所」と呼ばれる寺院は3寺あり、法起院の他は西国巡礼を復興させた花山(かざん)法皇が隠棲した兵庫県三田市「東光山 花山院菩提寺」と出家した京都市山科区「華頂山 元慶寺」です。「番外札所」の意味合いは諸説ありますが、一説には西国三十三所観音巡礼を満願できたことへのお礼参りに行く寺院とされます。
「番外」であるが故に一時は参詣客が減り、寂れていましたが、随筆家 白洲正子女史ら関東の文化人によって紹介されたのが奏功し、三十三所巡礼のルーツとなる寺院として再び注目されるようになりました。
http://www.houkiin.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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與喜天満神社へと誘う石段の参道の手前、右側にこの看板がありますので見落とさないようにしてください。
参道を挟んで反対側にある草餅屋さんに気を取られていると、スルーしてしまうかもしれません。 -
山門
白い筋塀に挟まれて建つ、切妻造、本瓦葺の山門です。柱の左側には半浮き金泥塗りで『長谷寺開山 徳道上人御廟所』、右側には寺号札『総本山長谷寺開山坊 法起院』と掲げられています。これらから、長谷寺の塔頭であり、開山堂であり、徳道上人の御廟所でもあるとの位置付けが判ります。
山門幕は、長谷寺と同様に「輪違紋」です。「五七の桐紋」は 豊山派祖 専誉を招いた豊臣秀長への感謝の意を表したものでしょうか?他の真言宗各宗派と同様に、「五七の桐紋」も併用されているようです。 -
山門
山門脇の塀に置かれた飾り瓦は、長谷寺開山坊という性格からか、長谷寺のトレードマークである牡丹をあしらっています。
まだ蕾のままであることが、開山当初の長谷寺の状態を黙して語っているのかもしれません。 -
本堂
徳道上人により735(天平7)年に創建され、総本山長谷寺塔頭開山堂として現在に至ります。現在の本堂は1696(元禄8)年に長谷寺第14世能化(住職)芙岳僧正により再建された堂宇ですが、三間四方の小棟造の寂びた佇まいがしみじみとさせる庵です。 -
本堂
白州正子女史もこの寺を訪ねられており、『西国巡礼』には次のように綴られています。
「上人のご廟所は門前町を少し下がった南側にある。正しくは『法起院』と称し、ささやかなお堂と、石塔が崩れたままで残っている。上人が閻魔大王の啓示を受け、巡礼を思い立ったのは、ここであろうか。ここでなくても、こんな庵室だったに違いない。七堂伽藍が美々しくととのった長谷寺より、この寂れたお堂の方が今度の旅では印象的に残った」。 -
本堂
寺伝によると、本尊 徳道上人合掌像は徳道上人が自ら彫ったものだそうです。
本尊が観音様でないのは西国巡礼霊場に相応しくないように思えますが、この徳道こそ三十三所巡礼の生みの親ですから「番外札所」になっています。番外が他の三十三札所と決定的に違うのは、本尊が観音様ではないことです。 -
本堂 扁額「開山堂」
徳道上人は、近畿や岐阜県に点在する観音霊場を巡礼する西国三十三所観音霊場巡礼の開祖と伝わり、長谷寺は観音信仰の発祥の地、また聖地として発展してきました。
『中山寺由来記』や『谷汲山根元由来記』によると、718(養老2)年、徳道上人は、62歳の時に病のため生死を彷徨う危篤状態に陥りますが、夢に現れた閻魔大王から「三十三所観音霊場を世に広めよ」とのお告げを受け、起請文と33の宝印を授かって生き返ったとあります。
その後、徳道は観音菩薩の霊験所や寺院に巡礼を説いて回りましたが、なかなか受け入れてもらえず、やむなく兵庫県宝塚市にある中山寺の横穴古墳「石の唐戸」の石棺に宝印を納め、機が熟すのを待ちました。そして歳月が経ち、徳道は隠棲していた法起院で80歳にて示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきました。それから約270年後の988(永延2)年、その宝印を見つけ出して西国巡礼を復興させたのが花山(かざん)法皇です。 -
本堂 隠し鬼瓦
本堂でもある開山堂は、本尊を祀る堂宇としては珍しく北の方角に向けられています。これは、長谷寺の本尊 十一面観世音菩薩像に対面する方角に向けられたと伝わります。そのため、左側の鬼瓦が與喜天満神社に対面することになり、苦肉の策として鬼瓦を衝立のような瓦板で隠しています。
與喜天満神社は、菅原道真を祀る最古の天満宮とされ、天照大神が降臨した聖地とも伝わります。こうした由緒ある天満宮に鬼の顔を向けるのを躊躇した造作と考えられています。 -
本堂
霊場が三十三ヶ所に定められたのは、『法華経』の「普門品(ふもんぼん:観音経)」に説かれた観音菩薩が33の姿を現して衆生を救済するという教えに基づきます。また、往時の巡礼は僧侶や修験者が行なう厳しい修行の一環であり、庶民に西国巡礼が広まったのは仏教が普及した鎌倉・室町時代とされます。 -
本堂
本堂には提灯を彷彿とさせる風雅な長谷型燈籠が吊るされています。
また、本堂の左側面にはささやかながら牡丹園と藤棚があり、参詣客の癒しの場となっています。 -
本堂
立派な大牡丹ですが、無惨にも昨日の大雨に打たれ、頭を垂れてしまっているのが花の命の儚さを感じさせます。 -
僅か一本だけの藤ですが、丁度、見頃を迎えていました。
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納経所
こちらで御朱印を授与していただきます。
手前には、優しげな慈抱観音像が佇みます。奉納された方の思いでしょうか、「母の愛を思わせる慈抱観音」という説明があります。
〔御墨書〕「奉拝」「開山堂」「法起院」
〔御朱印〕「西國三十三霊場開基徳道上人」
「一番始め」という意味で、丸に梵字の「ア」
「大和國長谷寺開山坊」 -
御詠歌の書
納経所の左奥にある庫裏への通路には、書道家 紫舟(ししゅう)女史の手による徳道上人の御詠歌が飾られています。
「極楽は よそにはあらじ 我が心 おなじ蓮の へだてやはある 」。
この世に咲く蓮の花とあの世に咲く蓮の花が同じ蓮の花であるように、極楽は何処か遠くにあるのではなく、他でもないあなたの心の中にあるのですよ。
余談ですが、2019年の24時間テレビのテーマ「人と人 ともに新たな時代へ」は、紫舟さんによる書のパフォーマンスでセンセーショナルに発表されたのが印象的でした。 -
道標
山門の右隅には古い道標が立っています。
「右 伊勢道」と刻まれ、長谷寺がお伊勢参りの立ち寄り地だったことを裏付けています。 -
仏足石
釈迦の入滅後、現在のような仏像がなかった時代に、釈迦の姿を拝みたいとの願いにより御足を拝む信仰が生まれました。そのために天竺招来の「仏足石」が制作されるようにまりました。仏足跡に合掌し、礼拝した手で身体の悪い箇所を撫でると罪障を滅し、諸願を成就すると言われています。
この「仏足石」は、故 壺阪寺長老 常磐勝憲師の好意により、本場インドで制作されたものです。
勝憲師は、社会福祉を仏教の側面から説いて広めた僧とされ、その一環でインドにおけるハンセン氏病患者の救済活動などを行い、当時のガンジー首相とも信頼関係にあった高僧です。勝憲師の浄行に対し、インド政府は謝意をこめて『以伝図』と『石造大観音像』を造って壺坂寺に贈呈したそうです。 -
地蔵尊
信者から寄進された地蔵尊が並んでいます。
2人寄り添った地蔵尊のほのぼのとした姿には、自然に頬が弛みます。
手前には、水子供養を回向する小さな地蔵尊が多数奉納されています。 -
地蔵尊
必死に地蔵尊の台座へよじ登ろうとする小僧さんの姿がけなげです。 -
徳道上人御廟所でもあるため、上人所縁の品々が安置されています。
正面の松の下にあるのが上人沓脱ぎ石です。 -
上人沓脱ぎ石
上人が法起菩薩となる直前に松の木に登られた際、この場所で草鞋を脱がれたとされ、「草鞋の跡が残された石」と語り継がれています。まんとなく草鞋の跡が見えるような気もしないでは・・・。また、この石に触れると願い事が叶うとされる、とてもスピリチュアルな石です。
上人は境内にあった松の木に登り、法起菩薩に化身して飛び去ったとの逸話があり、「法起院」の名もこの古事に因みます。
実際の所は、松の木で法起菩薩像(=徳道上人像)を彫ったということなのでしょう。
因みに、法起菩薩像を祀る寺院は、金剛山の転法輪寺などに限られています。金剛山は役小角によって開かれましたが、役小角が金剛山で修業中に現れたのが法起菩薩です。両目の上に2つの目と眉間にも目を持ち、鋤や鍬などを握る腕が6本ある5眼6臂の農耕神です。 -
はせ庚申堂
秘仏 長谷庚申青面(しょうめん)金剛像を祀っており、病魔を退け、健康長寿のご利益を求めて信仰されています。
青面金剛とは中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰に揉まれて独自に発展した尊像とされます。 -
はせ庚申堂
奈良県では「ならまち」エリアにある奈良町庚申堂が知られています。
青面金剛像を祭祀する祠で、青面金剛の使いの猿を象ったお守りは魔除けとされ、飛騨の「さるぼぼ」に似たものです。奈良では「願い猿」と言いますが、庚申信仰発祥の地 京都 八坂庚申堂では「くくり猿」と言います。 -
はせ庚申堂
秘仏 長谷庚申青面金剛像です。
こちらの画像は、法起院HPから引用いたしました。
http://www.houkiin.or.jp/guide.html -
徳道上人御廟
本堂の左手奥に徳道上人御霊廟があり、供養塔「十三重石塔」を中心に西国霊場各寺院の名を刻んだ石板を敷き詰め、御砂踏みができるようになっています。 -
徳道上人御廟 十三重石塔
上人は往時には珍しく80歳まで長生きしたと伝わります。また、735(天平7)年、当院の松の木に登り法起菩薩に化身しこの世を去ったと伝わり、この年を法起院の創建年としています。
冥土からの生還や閻魔大王の命による三十三所霊場の開設、法起菩薩への化身など、徳動の生涯は伝説に満ちており、詳しいことは判っていない謎めいた人物のようです。渡来人、伝説上の人物、 空飛ぶ鉢と米俵で知られる法道仙人と同一人物だとか、諸説紛々です。 -
徳道上人御廟 多羅葉樹
法起院は、「葉書き祈願のお寺」としても知られます。その由来がこのモチノキ科の常緑高木です。葉の裏に木切れなど尖ったもので文字を書くと浮かび上がり、昔はこれに文字を刻んで通信に用いたとも伝わり、「はがき」の語源となったとされる木です。「郵便局の木」に定められており、東京都中央郵便局の前などにも植樹されています。
この葉に願い事を書くと叶うと言われているのですが、手が届く範囲には何も書かれていない無垢の葉は見当たらず、願掛けは諦めました。 -
徳道上人御廟 御砂踏み
徳道上人は656(斎明天皇2)年に播磨国揖保郡矢田部で生まれ、幼少の頃から読書を好む聡明な子供として近在では知らぬ者が無かったといいます。11歳で父親を、更に19歳で母親を亡くした後、21歳で両親の菩提を弔うために仏の道に入りました。その時、往時日本随一の大名僧であった大和初瀬 弘福寺の道明上人の弟子になりました。約10年間の修行を積み、高僧として名を上げた徳道上人は、聖武天皇の勅命を受け、長谷寺を開山したと伝わります。その後、鎌倉国の長谷寺の他、49もの寺院を建立しました。 -
徳道上人御廟
ここの瓦の紋は、由来は不詳ですが「三つ葉柏」です。
因みに、新義真言宗本山根来寺の寺紋も「三つ葉柏」です。この柏紋は日本の10大家紋とされ、その理由は、柏が木々の葉を守る「葉守の神」や「神が宿る木」とされているからです。古くは食器の代用にされ、現在の宮中行事でも「神様に捧げる食器」として柏の葉が用いられています。このように、神に縁がある柏が家紋として使用されるのは至極当然なことです。
余談ですが、14世紀に成立した『峯相記』にも、「矢田部村に武吉丸と云う者有り、出家して徳道上人という」とあります。父は辛矢田部(からやたべ)の造、蘇我の諸人で、幼名を武若丸と言いました。また、 晩年には、生まれ故郷の矢田部の地に草庵を結んで暫く隠棲したとの伝承もあります。その草庵跡と伝わる地には清光寺(兵庫県太子町)が建ち、上人の生誕地と伝わる場所には徳道上人堂が建立されています。傍らには、上人が使ったと伝わる「産湯の井戸」もあります。
また、太子町の里山となる檀特山にも『感動岩伝説』や『狐塚』など、徳道上人の伝説が残されています。 -
大きな布袋さん
檀特山に伝承されている徳道上人の伝説をダイジェストで紹介しておきます。
『感動岩伝説』
檀特山の登山口にある巨岩ですが、徳道上人の偉業に感じ入って自然に動いたという奇瑞を讃えて名付けられています。太子町のガイドマップでは「太子感動岩(涙岩)」と呼ばれています。
『狐塚』
千年坊という古狐が村人たちに危害を加えていましたが、徳道上人の徳力により感動岩の下敷きになって死んでしまいました。それを村人たちが葬った塚と伝わります。
『鴻之巣』
徳道上人の誕生を予告するため、生誕の前夜来、鴻が巣を作っていたと伝わります。
『篭り塚』
徳道上人が若年の頃、専心修業した跡とされ、内部の広さは8畳程あります。 -
ヤマブキ
太田道灌が農家で蓑を借りようとすると、娘が蓑の代わりにヤマブキの枝を差し出しました。しかし道灌は『後拾遺和歌集』(1086年)の「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」(八重のヤマブキは雄しべが花弁に変化し、雌しべも退化したために実が成らない。「実の=蓑」は一つもありません。)の歌を知らなかったため娘に立腹します。後にその無知を恥じた話は有名です。この時代、すでに八重のヤマブキがあったことがこの逸話から窺えます。 -
庫裏
布袋さんのナビゲートで、納経所の裏手にある庫裏とその前庭を拝観させていただきます。
庫裏の左手奥にトイレがあります。 -
本堂
庫裏から見た本堂です。 -
本堂
西向きの鬼瓦です。
こんな厳つい形相の鬼が與喜天満神社を睨んでいては、顔を覆いたくなるのも無理はありません。 -
庫裏の前庭
手水鉢と明り取りの燈籠が置かれています。
興味深いことに、この燈籠は竿の形が織部(キリシタン)燈籠風です。 -
庫裏の前庭
負けじと雪見燈籠も存在感を顕わにしています。 -
初瀬川の清流
せせらぎの音のする方を見やると、初瀬川が與喜山原生林と法起院の間を蛇行するように流れています。初夏には蛍も飛び交う清流だそうです。
泊瀬川は、長谷寺の東北奥、神山 滝蔵山を源流とし、三輪山の麓では三輪川、海柘榴市辺りでは大和川と呼ばれ、やがて淀川に合流する一級河川です。
現在は水量が少ないため想像すらできませんが、古代は遣隋使や遣唐使船が着岸したり、藤原京造営の資材運搬に利用されるなど重要な水路とされ、川幅は今の2倍以上あったとされます。そして、時には氾濫を起こし、民衆を悩ませる暴れ川にもなりました。これが長谷寺草創の起源ともされます。 -
初瀬川の清流
陽に照らされた青紅葉が濃紺の清流と白い水飛沫に映えます。
「泊瀬川 速み早瀬を むすびあげて あかずや妹と とひし公はも」(『万葉集』(詠み人知らず))。
泊瀬川の清流が速いため、私に代わって早瀬の水を手に掬い上げてくれ、「まだ飲み飽きないか、もっと欲しいか?」とやさしく尋ねてくださったあの方は、今はどうしておられるのでしょう。
旅行く人達は、泊瀬川の畔で疲れを癒しながら滔々と流れる川を眺め、その後、初瀬の山に分け入って四季折々の風情を愉しんだのでしょう。 -
わらべ地蔵
境内は至ってコンパクトですが、塵ひとつなく、清々しい気持ちになれた寺院でした。
山門の先の細い参道に佇む「わらべ地蔵」に見送られながら長谷寺へと向かいます。
この続きは、あをによし 隠国の泊瀬逍遥③長谷寺<前編>でお届けいたします。
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