2019/03/07 - 2019/03/07
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ガッサンさん
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山の辺の道を踏破し、藤原京跡、大和三山・吉野・東大寺・春日大社などを歩き、飛鳥時代に日本史のロマンを感じ、吸い寄せられました。
飛鳥は、大和国高市郡にあった地域で、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指します。飛鳥は宮都が置かれていた所です。言うなれば、日本の古代国家の原点とも言える飛鳥地方。当時の首都だった所、誰もが興味をそそられる地域だと思います。日本史をかじってみようと旅に出ました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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午前9時頃、近鉄吉野線「飛鳥駅」に到着しました。駅前の飛鳥観光協会の「飛鳥びとの館」に寄り、観光情報を仕入れました。ちなみに「飛鳥びとの館」は飛鳥総合案内所です。「明日香村観光マップ」を頂き、その地図を使い、レクチャーを受けました。
近鉄「飛鳥駅」から歩き始めました。全て歩いて廻る予定です。写真は「高松塚壁画館」がある国営飛鳥歴史公園です。国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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時間的制約があるため、「キトラ古墳」へ行くべきか「高松塚壁画館」へ行くべきか、迷いました。キトラ古墳を見たかったが計画ルートよりだいぶ外れるため「高松塚壁画館」を選びました。
県道209号を挟んで左側に「国営飛鳥歴史公園館」、右側に「国営飛鳥歴史公園」の中に「高松塚壁画館」と「高松塚古墳」があります。国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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県道209号線から右側「国営飛鳥歴史公園」に入るとすぐ「中尾山古墳」があります。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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「中尾山古墳」です。中尾山古墳は別名「中尾石墓」と呼ばれる終末期古墳と言われています。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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「飛鳥観光周辺案内図」です。「国営飛鳥歴史公園」らしく立派な案内図です。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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綺麗な道標です。よく整備されている「国営飛鳥歴史公園」です。「高松塚壁画館」まで490mと表記がありました。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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「国営飛鳥歴史公園」の中を歩いています。「高松塚壁画館」を目指し歩いています。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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日本の古代国家の原点とも言える飛鳥地方。国営飛鳥歴史公園は、その豊かな自然と文化的遺産の保護、活用を図る一環として整備している公園です。「甘樫丘」「祝戸」「石舞台」「高松塚周辺」「キトラ古墳周辺」地区の5地区からなり、総面積59.9ha、甲子園球場が約15個分近くの広さがあるそうです。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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案内地図と道標です。「高松塚壁画館」まで200mです。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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「高松塚壁画館」の正面です。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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「高松塚壁画館」と彫り込んだ看板石碑が立っています。
高松塚壁画館 美術館・博物館
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高松塚壁画館の観覧料は大人個人250円です。中に入ると地元ガイドさんが地元の皆様に説明していました。
壁画は「原寸・原色で再現した」もので、本物ではありません。写真撮影は禁止されています。
高松塚古墳壁画は昭和47年3月、橿原考古学研究所の調査により発見された。その後壁画は国宝に指定され、保存上いっさい公開されませんので、古墳の隣接地に壁画館を建設し、石槨内部の模型と壁画の忠実な模写・模造を展示することになったものです。高松塚壁画館 美術館・博物館
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県道209号線沿いにある「天武・持統天皇陵」まで歩いて行きました。明日香村が立てた案内を少し読んでみました。
「壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇としてはじめて火葬された、持統天皇が合葬されている御陵(檜隈大内陵)である。」とあった。天武 持統天皇陵 名所・史跡
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陵の前に宮内庁が立てた案内板もありました。
天武 持統天皇陵 名所・史跡
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天武・持統天皇陵です。
天武 持統天皇陵 名所・史跡
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県道209号線から見た、天武・持統天皇陵です。こんもりした森が天武・持統天皇陵です。
天武 持統天皇陵 名所・史跡
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県道209号線と県道155号線の交差点近くに「亀石」があります。明日香村が立てた案内板を少し読んでみました。
「亀石」
亀石と呼ばれる石造物は、いつ何の目的で作られたのか明らかでないが、川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。亀石 名所・史跡
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イチオシ
亀石です。近くまで民家が迫っています。
亀石 名所・史跡
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亀石の次に「川原寺(弘福寺ぐふくじ)」を目指したが川原バス停付近を歩き廻ったが発見することが出来なかった。明日香村観光マップの表記は「川原寺跡」、その表記界隈を歩いたが発見できなかった。
仕方なく橘寺を目指した。田んぼの方へ出ると石碑があり「聖徳太子御誕生所」と彫り込んだ字が読み取れた。橘寺の方向で間違いない、と考え突き進んだ。橘寺 寺・神社・教会
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柿本人麻呂の歌碑のようだった。
橘寺 寺・神社・教会
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左側の歌碑には「柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に泣血哀慟して作る歌」とあった。柿本人麻呂の意外な一面に触れたような気がしました。
橘寺 寺・神社・教会
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右側の小さい歌碑には三山(巻向山・三輪山・龍王山)が描かれ、「柿本人麻呂が妻を亡くした後に作った「泣血哀慟歌」と称される…中略 とあった。
橘寺 寺・神社・教会
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イチオシ
門柱のような石碑には「聖徳太子御誕生所」とあった。この付近で聖徳太子様は生まれたのであろう。
橘寺 寺・神社・教会
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「聖徳太子御誕生所」にある「龍神王」の石碑です。
橘寺 寺・神社・教会
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イチオシ
正面の建物が橘寺です。
橘寺 寺・神社・教会
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橘寺の西門から覗いて見ました。
橘寺 寺・神社・教会
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橘寺の西門近くに歌碑が立っていました。
橘寺 寺・神社・教会
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橘寺を出て来るとほぼ向いに川原寺跡が見えました。だいぶ前で探していました。
川原寺跡 名所・史跡
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ここにも「聖徳太子御誕生所」の石碑が立っていました。
橘寺 寺・神社・教会
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橘寺から石舞台古墳に向い歩いています。途中に「飛鳥川」の石碑と作者不詳の歌碑が立っていました。
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下を流れる川は飛鳥川です。
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遠方に見える建物群は橘寺です。
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「日本の飛鳥から世界の飛鳥へ」「飛鳥・藤原の宮都とその関連資料群」を世界遺産へ と書かれた大きな看板が立っていました。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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日本国創生のとき ~飛鳥を翔けた女性たち~の美しい案内板がありました。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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こちらは「飛鳥観光広域案内図」です。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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一帯は「国営飛鳥歴史公園 石舞台地区」です。広大な地区を綺麗に整備したものです。
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飛鳥観光周辺案内図です。流石に国営公園です。案内図はよく整備されています。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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「特別史跡 石舞台古墳」の案内板があります。読んで、理解してから見るのも良いかもしれません。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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国営飛鳥歴史公園 石舞台地区の石碑が立っていました。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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遠目に石舞台古墳が見えて来ました。階段を上ると石舞台古墳です。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石舞台古墳です。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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現在の見学者は2名です、貸切状態です。天気は小雨模様、それで観光客がいないのでしょう。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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漸く、石舞台古墳と会うことができました。この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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イチオシ
既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。従って、製作した当時は石室の上を土が覆い、巨石は見えなかった、ということです。風雨などで土は流され、現在の形になった、という。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
石舞台古墳の入口はこのようになっています。国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ7.7m、幅約3.5m、高さ4.7mで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2,300tという大規模な古墳であることが判明しました。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石室の最深部です。天井を見上げてみました。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石室入口を遠くから見ると、このように地面は変化しています。この近くを通ると観光協会のおばさんに呼び止められました。バーチャルリアリティを体験して行って下さい、と言われました。VR機を目に付けると石舞台古墳を造っている様子が流れました。疑問に思っていたことが解決しました。料金は無料でした。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石舞台の名の由来については、一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もあります。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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石舞台も見納めです。食事に向います。
国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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昼食は「農村レストラン 夢市茶屋」と決めていました。2階がレストランです。古代米や明日香村で採れた食材を使用した「古代米御膳」が人気です。
夢市茶屋 グルメ・レストラン
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写真を撮り忘れたので店内のポスターを撮影しました。鶏のからあげが大変美味でした。
夢市茶屋 グルメ・レストラン
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レストランの下1階、「明日香の夢市」では手造り感の小物品を扱っていました。
明日香の夢市 グルメ・レストラン
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「手延べさくらめん」や「恋そうめん」などもあります。
明日香の夢市 グルメ・レストラン
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地元の農家が生産した野菜も販売していました。
明日香の夢市 グルメ・レストラン
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石舞台古墳から飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)へ向いました。重厚な塀を廻した品のある家並みが続きます。
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日本伝統の家並みが続き、趣きがあります。ここは明日香村です。
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犬養万葉記念館です。
「万葉集」と明日香村をこよなく愛し、景観保護のために尽力された、明日香村の名誉村民でもある故犬養孝氏(文化功労者)を顕彰した館です。犬養万葉記念館 美術館・博物館
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全国の万葉ファンの情報発信基地でもあり、蔵書を閲覧しながらゆっくりくつろげるカフェも併設しています。
犬養万葉記念館 美術館・博物館
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山吹の 立ちよそひたる 山清水
汲みに行かめど 道の知らなく
高市皇子
と歌碑にありました。奥に見えるテーブルと椅子はカフェです。犬養万葉記念館 美術館・博物館
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「史跡 伝飛鳥板蓋宮跡」の案内板です。奈良県教育委員会が立てたものです。
少し、読んでみます。
先ず、昭和四十七年四月十日指定とあった。
推古天皇から持統天皇に至る七世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまた確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた・・・中略。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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イチオシ
645年と言ったら、誰もが「大化改新(乙巳の変)」と答えるでしょう。まさにこの場所が「大化改新」のはじまりの舞台となった場所です。
飛鳥宮跡は、調査で飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明し、伝飛鳥板蓋宮跡から飛鳥宮跡へ名称が変更された。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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7世紀半ばの皇極天皇の宮殿(飛鳥宮跡)で、中大兄皇子(天智天皇)藤原鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(大化改新)の舞台がこの場所。辺りの景色を見るとのどかで、そんな政変があったのだろうか、と思えてきます。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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飛鳥宮跡(飛鳥板蓋宮跡)に万葉歌碑がありました。
采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風(あすかかぜ)
都を遠みいたづらに吹く飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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日本の古代国家の原点とも言える飛鳥地方、その中で飛鳥宮跡は大和朝廷の支配拠点となった宮跡であろう、と思います。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)の遺構は直線的である。当時の建築技術の高さに感心するばかりである。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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イチオシ
継続的に発掘調査が行われ、 ここには複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものです。
写真は飛鳥浄御原宮期の復元遺構、 石敷井戸です。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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断続的に発掘調査が進められている、という。また、新たな発見に期待して飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)を後にした。
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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「酒船石」へ行くには二つのルートがある。「亀形石造物遺構」側から山道を行く方法と「今西誠進堂」側から階段を上る方法である。
「亀形石造物遺構」側から上がると「酒船石遺跡」で平成4年に発見された石垣を見ることが出来ます。写真の小屋はその石垣を納めた小屋です。酒船石 名所・史跡
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写真はボケてハッキリしませんが、平成4年に発見された石垣です。
平成4年に見つかった石垣は天理から奈良市で採集される砂岩を使用し「日本書紀」の斉明二年の条に記されている「宮の東の山に石を累ねて垣とす」の記事に符合します。酒船石 名所・史跡
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酒船石は長さ5.3m、幅2.27m、厚さ1mの石の平坦な上面に奇妙な溝が彫られています。昔、酒の醸造に使用されたという言い伝えから酒船石と言われるがいろいろな説があるようです。
酒船石 名所・史跡
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酒船石の近くには「史蹟 酒船石」の石碑が立っていました。
酒船石 名所・史跡
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イチオシ
以前、NHKテレビで酒船石を特集で放映していました。酒船石の用途についてです。酒を造ったのではないか、薬の製造に使ったのではないか、と言われ様々な説について色々実験を行い検証を行っていました。何に使用したのか、想像が膨らみます。
酒船石 名所・史跡
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見ているだけで不思議に見えてきます。何の目的でこんな幾何学的な図案を彫ったのか。この時代、彫る道具もままならないときによくも、こんなに綺麗に彫ったものだと感心するばかりです。
酒船石 名所・史跡
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酒船石が置かれている所は小高い丘の上、廻りは竹林です。こんな巨石を山の上まで上げるだけで大変な能力を使います。ここに住んでいた飛鳥人は高い技術力を持っていたのだろう。だから、日本の古代国家の原点を造り得たのでしょう。
酒船石 名所・史跡
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酒船石は亀石と同じく明日香を代表する石造物の一つです。長方形に近い形の花崗岩でできており、平らに加工された表面には、円、隅丸方形、楕円の窪みが彫られ、それらを直線で溝が結ぶ不思議な模様があります。
酒船石 名所・史跡
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江戸時代の国学者・本居宣長の「管笠日記」にも登場する、明日香を代表する謎の石造物です。酒船石を囲む竹林はご覧の通り荒れていました。謎めく魅力的な「酒船石」だけに廻りの環境も整えたいものです。
酒船石 名所・史跡
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近くに酒船石の案内板があります。
酒船石 名所・史跡
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酒船石から飛鳥寺(安居院)へ向いました。田んぼの向うに見える建物は飛鳥寺です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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飛鳥寺の案内板があったので少し読んでみました。
「日本書記」によれば、崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、推古天皇元年(593年)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。同13年には丈六仏像を造り、翌14年に安置したとある。日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が朝鮮半島から渡来してあたったことが記されている。安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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バス停「飛鳥大仏前」から入ると、この門に着きます。これが現在の正門です。正門前には「飛鳥大仏」の石碑が立っています。創建時は南面に正門があったそうです。正門付近に若者の姿を多く見かけました。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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正門から飛鳥寺境内に入りました。「飛鳥寺略縁起」という案内板が掛かっていました。少し読んでみます。
「飛鳥寺略縁起」
崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が創立した日本最初の本格的寺院であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。
拝観受付で担当者と若者たちがしきりに話をしていた。てっきり拝観するものと思っていたが、拝観する若者はいなかった。安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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イチオシ
飛鳥寺の本堂です。本堂に飛鳥大仏は安置されています。創建時、ほぼこの位置に中金堂がありました。現存する本堂は江戸時代の文政8年(1825)に建てられたものです。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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本堂の前に「推古天皇誓願 飛鳥大仏開眼千四百年 飛鳥寺」の立て札が立っていました。その隣りに「創建当初(日本最初)金堂礎石(三個)」の立て札が立っていました。ここに中金堂があったことを証明しています。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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「思惟殿(しゆいでん)」です。本堂の西側に建っています。宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)の小さなお堂です。本尊の聖観音菩薩像を祀っています。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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境内にある万葉池です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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イチオシ
拝観料金を払い中に入りました。本堂には私一人だけでした。若者達は拝観せず、西門から退出したのであろう。
寺の坊さんが来て、飛鳥大仏の脇に座り、色々と説明してくれました。写真は自由に撮って下さい、とのことです。安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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イチオシ
「聖徳太子孝養像」です。室町時代の木像です。太子十六才のとき、父用明天皇のご病気回復を祈願されている姿です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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本堂と母屋を結ぶ通路です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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発掘調査時の写真です。遺構をよく掘り出したものです。創建時の伽藍の大きさに驚きます。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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木箱に「飛鳥寺 釈迦如来坐像」と書かれてありました。飾ってある絵は飛鳥寺の本尊、釈迦如来坐像だと思います。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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飛鳥寺の鐘楼です。西門近くにあります。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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「蘇我入鹿の首塚(ここより西80m先)」の道標が西門近くに立っていました。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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西門です。ここから出て「蘇我入鹿の首塚」へ向います。門の右側がお手洗です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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外側から西門を撮影しました。右側の建物は鐘楼です。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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奥に見える五輪塔は「蘇我入鹿の首塚」です。
蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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墓前には仏花が供えられてあった。
蘇我入鹿は皇極4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという。
皇極天皇の4年(645年)6月12日、に俗に言う「大化の改新」です。蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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首塚付近に「飛鳥寺西門跡」の案内がありました。
蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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「飛鳥寺西門跡」の案内から、写真中央にある二段の石垣が組まれたところに西門があった。
蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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かつて西門があった所から甘樫丘方面を見てみました。
入鹿を謀殺した中大兄皇子と中臣鎌足等は、直ちに飛鳥寺に陣を構え蘇我本宗家の逆襲に備える。蝦夷・入鹿の館は飛鳥寺の西を流れる飛鳥川を挟んだ甘樫丘にあった。そのため飛鳥寺は蘇我蝦夷等の動きを察知しこれを封じるには最適な場所であった、という。蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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奈良県生活環境部風致保全課と明日香村企画課から「歴史的風土特別保存地区内における行為の制限についてのお知らせ」の案内板が立っていました。
蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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飛鳥寺正門前のバス停「飛鳥大仏前」です。「赤かめ」周遊バスは近鉄「橿原神宮前駅東口と飛鳥駅を結び、観光スポットを巡っています。観光客の為に造ったバス路線の為、利用価値の高いバス路線です。
飛鳥寺に来たとき雨は小降りだったが本降りになってきました。仕方なく、ここでバスに乗車し、橿原神宮前駅に向いました。
安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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