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 今年になって壽福寺と覚園寺の境内を案内して頂き、やぐらの発生時期について確信できることが多くなった。<br /> ウィキペディアの「やぐら」には注釈が68、出典が230、参考文献が32冊、資料が10点、発掘等調査報告書が11も参照されているにもかかわらず、記載内容は全くのところ説得力がなく満足の行くものではない。<br /> その設置場所は、(1)寺院、または寺院跡、(2)武家居館跡、(3)切通し周辺、とあるが、尾根道の脇とかその下とかにも相当数ある。墓参が行われたであろうから行けることが前提となり、山中の街道沿いにも営まれた。したがって、(3)山中の街道沿いや切通し周辺、とすべきである。しかし、山道を歩いたり、崖を下りないと目にすることはできない。この項の筆者は自分ではやぐらのある場所を探してはいないのだろう。そのことは、「鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とした山に囲まれた範囲では中心線より東側に多い。」というようなやぐら巡りをしたら決して思い当たらないことを記載している。<br /> 「巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。」としているが、これはお堂であろう。墳墓以前にこうした岩窟にお堂が建てられたと考えるべきである。そうしたことは壽福寺の本山のやぐらや浄光明寺客殿裏庭の隧道を伴う背の高い大型やぐらなどから想定されよう。あるいは、時代が下がるが浄光明寺の網引地蔵やぐら(網引地蔵坐像には正和2年(1313年)銘)のように、地蔵堂や薬師堂などが岩窟内に造られ、その後に、その岩窟(横穴)の横に横穴(やぐら)を掘って旦那衆の墳墓を設けたのではないか?そうだとすると、巌堂に岩窟不動が祀られた文治4年(1188年)以前(、岩殿寺が創建された時期(721年)では遡り過ぎではあるが、)にまでやぐらの発生を引き上げられる可能性がある。<br /> 「やぐらが最盛期を迎えるのは鎌倉時代末と考えられている。 これは鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致する。」とあるが、初期のやぐらと最盛期のやぐらでは違いがあって当然である。また、新な墓制としてのやぐらの発生から普及までには何世代かの時代が必要とされるであろう。今日から、明日からなどと墓制が変更され、それが受け入れられることなど考えられないことである。<br /> やぐらの発生は臨済宗が鎌倉に進出してのことではあるまいか?壽福寺にはお堂があったと見られる背の高い大型やぐらが残っており、塔頭跡には多くの大型やぐら(https://4travel.jp/travelogue/10647483)と古いと考えられるやぐら(https://4travel.jp/travelogue/11459045)が相当数残っている。また、相馬師常(保延5年(1139年)~元久2年(1205年))やぐら墓が浄光明寺(建長3年(1251年)創建)ではなく、壽福寺(正治2年(1200年)創建)がお祀りしていることとも無縁ではないだろう。<br /> 相馬師常墓やぐら群(https://4travel.jp/travelogue/10726386)など扇ガ谷には大型やぐら(https://4travel.jp/travelogue/10647488)が残っており、初期の墳墓としてのやぐらは大型のものが多かったはずだ。それが時代が下がりやぐらの墓制の終末期になるとまんだらやぐら群のように均等で狭いやぐらが4層に並ぶようになる。<br /> 「新御成敗状」が鎌倉の法令ではないとするのは納得が行く。鎌倉中には畠山重保の墓とされる宝篋印塔(由比ガ浜2)(https://4travel.jp/travelogue/10608761)が建っていたり、覚園寺の境内を見れば分かるように中世のやぐらとは無縁なお寺があり、長谷の寺院群でもやぐらは見掛けない。律宗関連の寺院でも中世のやぐらとは無縁な寺があるのだ。鎌倉中で確実にやぐらを伴うのは臨済宗の寺院の方だろうか。<br />(表紙写真は浄光明寺の網引地蔵やぐら)

鎌倉のやぐらの発生

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2019/01/01 - 2019/02/15

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 今年になって壽福寺と覚園寺の境内を案内して頂き、やぐらの発生時期について確信できることが多くなった。
 ウィキペディアの「やぐら」には注釈が68、出典が230、参考文献が32冊、資料が10点、発掘等調査報告書が11も参照されているにもかかわらず、記載内容は全くのところ説得力がなく満足の行くものではない。
 その設置場所は、(1)寺院、または寺院跡、(2)武家居館跡、(3)切通し周辺、とあるが、尾根道の脇とかその下とかにも相当数ある。墓参が行われたであろうから行けることが前提となり、山中の街道沿いにも営まれた。したがって、(3)山中の街道沿いや切通し周辺、とすべきである。しかし、山道を歩いたり、崖を下りないと目にすることはできない。この項の筆者は自分ではやぐらのある場所を探してはいないのだろう。そのことは、「鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とした山に囲まれた範囲では中心線より東側に多い。」というようなやぐら巡りをしたら決して思い当たらないことを記載している。
 「巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。」としているが、これはお堂であろう。墳墓以前にこうした岩窟にお堂が建てられたと考えるべきである。そうしたことは壽福寺の本山のやぐらや浄光明寺客殿裏庭の隧道を伴う背の高い大型やぐらなどから想定されよう。あるいは、時代が下がるが浄光明寺の網引地蔵やぐら(網引地蔵坐像には正和2年(1313年)銘)のように、地蔵堂や薬師堂などが岩窟内に造られ、その後に、その岩窟(横穴)の横に横穴(やぐら)を掘って旦那衆の墳墓を設けたのではないか?そうだとすると、巌堂に岩窟不動が祀られた文治4年(1188年)以前(、岩殿寺が創建された時期(721年)では遡り過ぎではあるが、)にまでやぐらの発生を引き上げられる可能性がある。
 「やぐらが最盛期を迎えるのは鎌倉時代末と考えられている。 これは鎌倉への律宗の進出時期とほぼ一致する。」とあるが、初期のやぐらと最盛期のやぐらでは違いがあって当然である。また、新な墓制としてのやぐらの発生から普及までには何世代かの時代が必要とされるであろう。今日から、明日からなどと墓制が変更され、それが受け入れられることなど考えられないことである。
 やぐらの発生は臨済宗が鎌倉に進出してのことではあるまいか?壽福寺にはお堂があったと見られる背の高い大型やぐらが残っており、塔頭跡には多くの大型やぐら(https://4travel.jp/travelogue/10647483)と古いと考えられるやぐら(https://4travel.jp/travelogue/11459045)が相当数残っている。また、相馬師常(保延5年(1139年)~元久2年(1205年))やぐら墓が浄光明寺(建長3年(1251年)創建)ではなく、壽福寺(正治2年(1200年)創建)がお祀りしていることとも無縁ではないだろう。
 相馬師常墓やぐら群(https://4travel.jp/travelogue/10726386)など扇ガ谷には大型やぐら(https://4travel.jp/travelogue/10647488)が残っており、初期の墳墓としてのやぐらは大型のものが多かったはずだ。それが時代が下がりやぐらの墓制の終末期になるとまんだらやぐら群のように均等で狭いやぐらが4層に並ぶようになる。
 「新御成敗状」が鎌倉の法令ではないとするのは納得が行く。鎌倉中には畠山重保の墓とされる宝篋印塔(由比ガ浜2)(https://4travel.jp/travelogue/10608761)が建っていたり、覚園寺の境内を見れば分かるように中世のやぐらとは無縁なお寺があり、長谷の寺院群でもやぐらは見掛けない。律宗関連の寺院でも中世のやぐらとは無縁な寺があるのだ。鎌倉中で確実にやぐらを伴うのは臨済宗の寺院の方だろうか。
(表紙写真は浄光明寺の網引地蔵やぐら)

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  • 浄光明寺の網引地蔵やぐら。<br /><br />頼朝没後は狭い谷戸の山裾を削って崖(切岸)にし、平地を増やして伽藍を建てる寺院が出てくる。この崖に背の高い大型の横穴を掘ってその中に地蔵堂などのお堂を建てたのであろう。したがって、13世紀初頭から巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院を真似て造られた中世の横穴式お堂が始まりであろう。天井が平天井なのは、鎌倉石を石材として利用するためであろう。<br />次に、横穴式墳墓は古墳時代末期にここ鎌倉中や鎌倉郡内に数多く造られた横穴墓(横穴古墳)を習って普及していったのであろう。壽福寺のやぐらには入口が横穴墓(横穴古墳)のようにアーチ形をした入口を持つものが相当数見られる。ただし、中は平天井であるのは、掘り出される鎌倉石を石材として利用するためであろう。また、古代の横穴墓(横穴古墳)を中世のやぐらとして再利用している場合も少なくない。これは鎌倉人が横穴墓(横穴古墳)とやぐらのいずれも墳墓として掘られたと認識していたことが伺える。<br />しかし、やぐらの最盛期にはこのアーチ形をした入口も四角くなる。そして次第に横穴式お堂のような入口と中に区切りがない四角い横穴(、背丈や広さはせばまるが)に変わって行く。<br />あるいは、横穴式お堂の中に墳墓を併設するやぐらも現れ、横幅が広いやぐらも出現する。そうしたやぐらには五輪塔が彫られたり、仏像が彫られたりする装飾性が高いやぐらも現れてくる。<br />その後、やぐらの終末期には小型の均一な横穴を墳墓として並べた戦後の団地のような4階のやぐらがまんだら堂に出現する。それ以降は鎌倉中の人口が減少し、やぐらが営まれることはなくなった。

    浄光明寺の網引地蔵やぐら。

    頼朝没後は狭い谷戸の山裾を削って崖(切岸)にし、平地を増やして伽藍を建てる寺院が出てくる。この崖に背の高い大型の横穴を掘ってその中に地蔵堂などのお堂を建てたのであろう。したがって、13世紀初頭から巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院を真似て造られた中世の横穴式お堂が始まりであろう。天井が平天井なのは、鎌倉石を石材として利用するためであろう。
    次に、横穴式墳墓は古墳時代末期にここ鎌倉中や鎌倉郡内に数多く造られた横穴墓(横穴古墳)を習って普及していったのであろう。壽福寺のやぐらには入口が横穴墓(横穴古墳)のようにアーチ形をした入口を持つものが相当数見られる。ただし、中は平天井であるのは、掘り出される鎌倉石を石材として利用するためであろう。また、古代の横穴墓(横穴古墳)を中世のやぐらとして再利用している場合も少なくない。これは鎌倉人が横穴墓(横穴古墳)とやぐらのいずれも墳墓として掘られたと認識していたことが伺える。
    しかし、やぐらの最盛期にはこのアーチ形をした入口も四角くなる。そして次第に横穴式お堂のような入口と中に区切りがない四角い横穴(、背丈や広さはせばまるが)に変わって行く。
    あるいは、横穴式お堂の中に墳墓を併設するやぐらも現れ、横幅が広いやぐらも出現する。そうしたやぐらには五輪塔が彫られたり、仏像が彫られたりする装飾性が高いやぐらも現れてくる。
    その後、やぐらの終末期には小型の均一な横穴を墳墓として並べた戦後の団地のような4階のやぐらがまんだら堂に出現する。それ以降は鎌倉中の人口が減少し、やぐらが営まれることはなくなった。

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