2018/10/26 - 2018/10/27
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旅人のくまさんさん
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群馬の『名胡桃城』の紹介です。現在の群馬県利根郡みなかみ町下津に位置し、1949年(昭和24年)に『名胡桃城址』として群馬県指定史跡に指定され増した。利根川上流の右岸断崖部に位置し、川を挟んで北東の明徳寺城と対峙する城です。
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現地で入手した、地元の名城紹介のパンフレットの紹介です。『上州真田三名城』のタイトルで紹介されていたのは、写真の上から、このあと見学する沼田城、今、見学にやって来た名胡桃城と、既に見学した岩櫃城の続日本百名城の三名城です。群馬県には、このほかに日本百名城の箕輪城と金山城があります。
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赤い線で引かれた、真田街道脇に記された上州真田三名城です。東側から沼田城、名胡桃城と岩櫃城が街道の北側に記されていました。真田街道の西北端に現在の長野市、西南端に上田市が表示されていました。
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『名胡桃城址』のタイトルがあったページの紹介です。中見出しは、『日本の歴史を動かした『名胡桃城事件』でした。豊臣秀吉により裁定された、真田氏の名胡桃城を沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城代鈴木重則家臣の中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に名胡桃城を占領した出来事です。秀吉の小田原平定のきっかけとなりました。
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『名胡桃城址』の再建縄張想像図です。六つほどの郭の中に、建物の再建想像図が描かれていました。発掘調査結果を踏まえたもののようでした。右側の列の縄張りが、手前から馬出、三郭、二郭、本郭とささ郭、左側が般若郭です。関東のお城に多い、石垣が使われていない山城です。『名胡桃城事件』を、秀吉が小田原平定の口実にしたのは、天正15年(1587年12月)に、関東・奥羽地方に向けて大名間の私闘を禁ずる『惣無事令』を発令していたためです。つまり、領土紛争においては、全て豊臣政権がその最高処理機関として処理にあたり、これに違反する大名には厳しい処分を下すという法令です。
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『上州みなかみ町・名胡桃城址』のタイトルがあった、縄張り跡の実測平面図のページです。『小さな山城が、戦国時代の終焉をよんだ』のサブタイトルがありました。秀吉の『惣無事令』は、九州地方には1585年(天正13年10月)に出され、九州平定の根拠に使われました。秀吉は関白の立場を明確に示す形で、あくまでも天皇の命令(勅定)によって私闘禁止を指令するという立場を掲げました。
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『豊臣秀吉の天下統一と名胡桃城』のタイトルがあったページの紹介です。『惣無事令』をめぐる議論の背景には、豊臣政権の基本的な性格をめぐる学説の対立があるようです。秀吉が武力による強硬な外交政策を進めたという見解と、秀吉の政策基調を社会の『平和化』にあるとする見解の対立です。『平和化』路線説で連想するのが、ローマ帝国時代の『パスク・ロマーナ(ローマの平和)』の歴史です。その期間は、およそ300年とされます。塩野七生さんの『ローマ人の物語』で知ったことですが、植民地に置かれた地域からも、能力に応じてローマ皇帝が誕生したとの記述には驚かされました。
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右側が『沼田城址公園・かつて沼田城には五層の天守閣があった』のタイトルのページです。沼田城の初代城主になった真田信之は、城郭の改修を手掛け、五層の天守閣を造ったことが紹介されていました。当時の関東以北では、江戸城と沼田城だけとされます。見どころとして、平八石と旧生方家住宅が写真紹介されていました。
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『沼田の真田の物語』のタイトルがあったページの紹介です。右側の正装した人物が真田信之公(1566~1658年)、左側の武者姿が、信之公を支えた小松姫(1573~1620年)です。小松姫の父は、雄猛で有名な本多忠勝こと、平八郎です。信長、秀吉、家康に誉めそやされた稀有な武将です。武田家所縁の武人からも『家康に過ぎたるものの二つあり、唐のかしらに本多平八』と狂歌で称えられました。
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お子さんを対象にした『戦国の城・名胡桃城址』のタイトルがあったパンフレットの紹介です。真田氏の城だった名胡桃城を北条氏が攻め落としたことが、豊臣秀吉による北条氏の小田原城攻めになったと解説されていました。下は、その歴史年表です。秀吉に四津小田原攻めが始まったのが、天正18年(1590年)3月のことです。22万とも言われる豊臣軍の圧倒的な兵力の前に、4カ月の籠城の後、北条氏は降伏・開城しました。
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お子さんを対象にした『戦国の城・名胡桃城址』のタイトルがあったパンフレットの裏面の紹介です。『マンガで見る名胡桃城址の歴史』のタイトルがありました。秀吉による小田原征伐で、北条氏が滅びたことで、120年間の戦国時代が終焉しました。そのきっかけとなったのが名胡桃城の戦いでした。個人的には、敗者(北条氏)に厳しい歴史解説のようにも思えました。
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休憩所兼ゲストハウスの建物光景です。この建物の中で現地のボランティアガイドさんの説明をお聴きした後、ご一緒に現地見学しました。豊富な配布資料なども用意され、活気が感じられました。
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イチオシ
同じく、休憩所兼ゲストハウスの建物の玄関先の光景です。入口前に、よく目立つ『名胡桃城』の看板が置いてありました。
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『県指定史跡・名胡桃城址』の文字が記された道案内標識の光景です。1949年(昭和24年)に『名胡桃城址』として群馬県指定史跡に指定され、2017年(平成29年)に『続日本百名城』の115番に選ばれました。
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イチオシ
『群馬県指定史跡・名胡桃城址』の文字が記された標識の光景です。戦国時代、沼田城は関東支配の重要拠点として、北条氏、上杉氏と武田氏がx争奪戦を繰り広げました。『名胡桃城』はその沼田城の攻略のために、武田氏の命により真田氏が天正7年(1579年)に築いたものです。
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『般若郭(はんにゃくるわ)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『名胡桃城』の中では。最も広い郭ですが、連郭部分より以前に造られていた可能性が指摘されています。掃く津調査の後埋め戻されて、現在は駐車場の下になっています。現地ガイドさんの案内で、最初に見学した郭です。
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『群馬県指定史跡・名胡桃城址』のタイトルがあった、一連の説明パネルのトップ部分の紹介です。左上の図が『名胡桃城址全体図』、右上が『名胡桃城関連年表』です。天正7年(1579年)、沼田城の攻略のために真田正幸が築き、天正18年(1590年)の小田原攻めの後には以上になったことなどが記されていました。
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一連の説明パネルの次のページの紹介です。左上の図は『名胡桃城址周辺地形図』です。赤く記された左側が『名胡桃城址』、右側が『富士浅間砦址』です。右上の図は、『周辺城跡分布図』です。『名胡桃城址』を中心に、城や砦が20箇所ほど記されていました。
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一連の説明パネルの3ページ目の紹介です。左上の図面は『発掘調査概要図』、右上のイラストは『全体復元想像図』です。平成4年~12年の発掘調査結果の成果が紹介されていました。
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一連の説明パネルの4ページ目の紹介です。発掘調査で判明した、3期に区分される名胡桃城址の辺千図です。
第1期:築城~天正年間半ば頃:三郭がなかった時代
第2期:天正年間後半頃:大きく改築補強、三郭と新たな馬出
第3期:天正年間以降:近世以降も屋敷が存在 -
一連の説明パネルの5ページ目の紹介です。左上の写真が『名胡桃城址全景空撮1』、右上が『名胡桃城址全景空撮2』です。左下の写真は、発掘調査で出土した陶磁器と鉄砲玉です。右下は、見学上の注意事項の箇条書きでした。
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一連の説明パネルの最後になる6ページ目の紹介です。左上の植物写真が『名胡桃城址周辺の自然植生』で、コナラとシラカシの紹介、右上が『名胡桃城址の人的な植生』で、マキとケヤキの紹介、右下の写真が『名胡桃城址の花々』で、タチツボスミレ、フタリシズカとアケビの紹介、左下が『名胡桃城址の植生整備』のタイトルでのコグマザサやクマザサの紹介でした。
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『馬出(うまだし)』のタイトルがあった説明看板の光景です。左上の図面が、発掘調査を踏まえた現在の実測平面図、右側が、馬出の説明図と発掘調査時の写真と、復元想定図です。左上の図面は、掃く津調査時の馬出の平面図です。大阪城に真田信繁(幸村)が築いた大型の出丸の『真田丸』のことも紹介されていました。
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『外郭(そとくるわ)』と『三郭(さんのくるわ)』との間に掘られた堀切の光景です。その規模は、幅約12メートル、深さ5~7メートルです。こちらが『般若郭(はんにゃくるわ)』がある西側方面になるようです。
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通路が整備され、その先に見えるのが、再建された『外郭(そとくるわ)』と『三郭(さんのくるわ)』との間に架かる木橋の光景です。
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『外郭(そとくるわ)』と『三郭(さんのくるわ)』との間に掘られた堀切の光景です。こちらが東側方面になるようです。左側が『三郭(さんのくるわ)』です。
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イチオシ
『外郭(そとくるわ)』と『三郭(さんのくるわ)』との間に架かる木橋の光景です。写真撮影している手前側が『外郭』、橋を渡った先が『三郭』になります。
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『三郭(さんのくるわ)』のタイトルが記された説明看板の光景です。右側には航空写真、発掘調査時の写真や想定復元図が紹介されていました。発掘調査時の写真は、掘立建物の柱穴や二郭の三日月堀跡の紹介です。左側の図面は、約64×24メートルの三郭の発掘調査を踏まえた平面図です。
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簡易舗装で整備された観光用の通路の光景です。『名胡桃城址』の縄張りは、南北に長い構造となっています。ただし、この曲線は、『外郭(そとくるわ)』の中の通路だったかもしれません。
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『三郭(さんのかく)』と『二郭(にのかく)』との間に掘られた堀切の光景です。東側方面の光景になるようです。堀切の先は断崖のようでした。
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『三郭(さんのかく)』と『二郭(にのかく)』との間に架かる木橋の光景です。発掘調査を踏まえて再建された橋です。私はTVを見ていませんが、『真田丸』の撮影で使われた橋のようでした。
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