2017/10/27 - 2017/10/27
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カメちゃんさん
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眠れない夜は長く長く感じるものですが、奄美の夜はぐっすり眠れてしまいましたから、アッと言う間に朝を迎えてしまいました。
今朝はホテルの前に広がる海の写真を撮り忘れてしまいましたが、朝一番にカーテンを開ければ広いお庭と海が見えるって、とっても清々しいですね。海から遠い私達には、本当に別世界に来たような感覚になり、「奄美に来た!!」ということを実感しましたよ!!
台風が近づきつつあるとの情報ですが、起床した時よりは風が少し出てきて、雨も降ってきました。でも、観光の方は何とか行けるとのこと。こんなお天気でも、そんなに気にしていません。
そう、心の方は晴天なのです!!きのう、奄美の素晴らしい風景と、奄美の方々の明るく楽しい御心に触れ、奄美にすっかり惹かれてしまったからですよ(^-^)
とにかく、朝食をいただきましょう!!
そして、きょう1日の行動開始です(^^)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- 団体旅行
PR
-
朝食をいただきにレストランへ来ました。
私の普段の朝は、体調づくりに忙しいのですけど、旅先ではこんな調子です。
旅に出ると良く歩きますから、体長も良い方に変わってくるんですね(^^)
今朝はT先生と差し向かいで、楽しい朝食となりました。 -
ご一緒に旅をさせていただいている皆さんです。
とっても感じの良い方々なので、これからご一緒するのが楽しみです(^^)
実は本来の旅行日程では、すでにお話しましたように、今朝は徳之島のホテルで朝食を頂いているハズなんです。徳之島の闘牛なんかを楽しみにしていたし、フェリーの旅も楽しみにしていたので、今さらながら残念に思っています。
来年も体が元気であれば、沖縄・徳之島・奄美の旅を計画したいですね。
でも、昨日の訪問先も良かったし、今の私としては満足していますよ~(^^) -
バスでお出掛けです。
きょうはバスガイドさんが付きました。
こんなに可愛いガイドさんですよ~~(^_^)v
やっぱり、ガイドさんがいて下さると雰囲気がいいですし、風景や施設のご説明もして下さるので助かりますよね。 -
最初に来たところは、「大島紬村」です。
ここは「泥染め発祥の地」でした。
この説明板によれば、「その昔この赤尾木の地に天から白馬が降り立ち美しい湖が出来ました。(略)天の川から(天馬)彗星が降下した時隕石の細かい粒子が土となり・・(略)」
「天の川伝説」による話ながらも、神社の説明のような神話的な説明に??と思ってしまいました。
「国宝的文化遺産」とはなんでしょうか? 遠くから来た客には、泥染めが発生した事情と理由、技術の変遷とかを、時代にそって分かりやすく伝えて欲しいと思いました。 -
大島紬の要とも言える泥染めの様子を、これより見学しますね。
泥ならどこでもありますから、全国どこでもやれるかも知れない。しかし、奄美の泥はどこかが違う。その泥の性質とか、大島紬の原材料となっている絹糸との相性とかに、他の地域と違った条件があったのではないでしょうか。
ま、そのことはこれから勉強しましょう(^^) -
「泥染め技術保存館」の内部です。
博物館とか展示館のようなところかと思いきや、作業場のような感じでした。
札がたくさんぶら下がっていますけど、大島紬用の糸を染める工程のようです。
写真では見にくいので、最初の工程から書きだしてみますね。
★1番(一番左)が、白絹糸のようです。絹糸ってお蚕さんの繭から動物繊維の糸ですよね。
★2番は、「シャリンバイ」というやつで4回染めた糸です。ちょっと色が付いていますね。
★3番は「シャリンバイ8回染」の糸です。薄茶色になりました。
ところで、シャリンバイって染め物薬のこと?って思いますね。 実はそうではなくて、「車輪梅(“テーチ木”とも)」というバラ科常緑低木の幹や根を細かく切って、大釜で煮立たせて出来た「赤い汁」のことみたいです。
★4番目は「シャリンバイ16回染」の糸です。まだ色が浅いですね。
★5番目は「シャリンバイ20回染」で、焦げ茶色になって来ました。
★6番目は「シャリンバイ20回泥田1回」で、黒っぽくなってきました。
★7番目は「シャリンバイ80回泥田5回」を終えた糸で、殆ど黒く見えます。
その次は 番号はなく「染上り絣糸」で、「泥大島」と「泥藍大島」となっています。
白絹糸をシャリンバイで染める回数はおよそ80回ほどとのこと。泥染めも6回繰り返すようですね。
これだけ見ても、大島紬の糸を染める作業は、実に手間の掛かる大変な仕事だと思います。その手間を惜しまない大島の方々の根性に、頭が下がります!!
★絣(かすり)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%A3
★大島紬村のことは↓にて
http://www.tumugi.co.jp/
★「泥染め」のことは、「泥染め」にて検索して下さい。 -
絹糸を染める手順の説明です。
左側では「テーチ木染め」の説明です(「テーチ木」は方言で、和名では「車輪梅」ばいです)。細かく砕いた車輪梅を10~12時間ほど煮て、その煮汁を鉢に移し絹糸を入れて揉み込むとのこと。
大島紬には絣糸と地糸とがあるが、どちらも60回から80回車輪梅の煮汁で染められるとのことです。手間のかかる染め物ですね。
右側では、泥染めの説明です。
どこの泥でも良いワケではなく、「鉄分」の多い泥が条件です。泥の鉄分が車輪木に含まれる「タンニン酸」に反応して黒色に染まるそうです。泥で揉み込んでから綺麗な水で洗い、再び泥で揉み込むことを3~5回繰り返すようです。
これじゃあ、値段のことは言えませんね~(^_^;)
(写真は合成してあります) -
細かく切った車輪梅(右の鋼製籠)と、それを煮込む鍋かと思います。
恐らく、細かくした車輪梅を籠ごと鍋に入れて、10~12時間ほど煮込むのでしょう。それも、昔の竈に大きい釜を据えて薪を焚いて煮込むようです。長時間煮込んで「煮汁」を作るのも、根気と費用の掛かる仕事ですね。 薪を焚き続けるだけでも、大変な作業ですよね~!!!
魚や肉をこれだけの時間に込んだらどうなるのか?
そんな余計なことを言いいますと、「お前はアホか!!」なんて言われてしまいますね(^O^) -
↑の写真で少し見えていた説明板です。
この写真の内容は、すでにすでに上でもお話しています。その話は省略して、車輪梅、タンニン、カテキンに拘って見たいと思います(^o^)
車輪梅の名の由来は、木の枝分かれの仕方が放射状に延びる車の車輪のスポークに似ているとのことから、「車輪梅」と言われるようになったとか。であるなら、「シャリンバイ」とカタカナで書くのではなく、漢字で「車輪梅」と書いて欲しいですね。
「車輪梅」について、「シャリンバイ」「テーチ木」「テーチ(鉄)」などと、合計4種類の名称がコチいられるのはちょっと分かりづらいですね。
この「車輪梅」の幹と枝そして葉には、私たちの身体の健康に良いと言われている「タンニン」と「カテキン」が含まれているんですね。実際、車輪梅の葉からそれらを抽出してお茶や薬用に利用しているようです。
緑茶ほかのお茶類などにもこれらが含まれているようですが、健康に良い飲み方は冷水(5℃以下)を用いると良いようですよ。但し、飲み過ぎには注意して下さいね。
★タンニン、カテキンの詳しいことは↓にて
https://blog.kenko.com/kenkotopics/2013/10/post-fb1c.htmlタンニン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%83%B3カテキン
★車輪梅の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A4 -
別の建物に移動する時に見えた光景です。
ここでは、おじさんが実際に泥染めをしておられます。絹糸を泥水の中に入れて、手で揉むのですね。 大事なお仕事なんですが、この方の腰が心配になってしまいます。ホントに、腰痛になってしまうのではないでしょうか(-_-;) 私は10年以上も腰痛持ちなモンですから、本当に心配になってしまいます。
近くの低い場所に川の水と泥を引き込んで、立ち姿勢か着座姿勢でやれる工夫はないか?是非考えて欲しいと思います。 -
こんどはこちらの方を見学しますね。
-
こちらは大島紬を織るところです。
たくさんの糸から布を織る!!
方法は違っていても、人々は数千年も前から布を織って寒さをしのぎ、また山野を行く時に身体を守ってきたのですね。
そう言うことは分かっていても、実際に布を織るなんて作業は、私にはまだまだ良く分かっていないのですよ(^^;)
最近では自動織機で織る時代。
布を織るなんてことは、別世界の話のように思えていましたからね。
★↓では自動織機の見学をしました。
https://4travel.jp/travelogue/10415700 -
こんな風にして、大島紬を織る様子を見せてくれています。
見せてくれると同時に、実際の作業もして大島紬を作っているんですよ。 -
こんな説明もありました。
-
大島紬の出来るまでの工程表でしょうか。
個々の言葉や工程名の意味は簡単には分かりませんけど、機織り機にかけるまでに30程の工程があるのです。
これまで見てきた「シャリンバイ染」と「泥染」の工程は、このパネルに於いては12番目の「染色(泥染)」のところに該当するでしょうか。ちょっと分かり易いですね。ここでは()付きでも良いですから、「シャリンバイ染と泥染の繰り返し」と書き込んで欲しいですね。
殆どが手作業に近い仕事のようですから、これを見ますと大変な仕事だな~!!と思います。そんな風にしか言えないのが、ちょっと辛いところです。 -
図案に従い、糊張りした絹糸の絣模様となる部分に木綿糸を織りこんで筵状(むしろじょう)に仕上げます。これを絣筵(かすりむしろ)といいます。ここで木綿糸を織りこんだ部分の絹糸は防染(ぼうせん)され、次の染色の工程でも染まりません。
-
↑の工程表の中の、「糊張り」の説明です。「締機」の説明です。
絣模様(かすりもよう)を作るためには、経糸(たていと)・緯糸(よこいと)ともに糊で固めておく必要があるのです。糊を付けて日光で乾かした後、室内で10日ほど自然乾燥させて、糸の縮みを一定に落ち着かせるそうです。 -
こちらは「締機」の説明です。
絣模様を付けた後、「締機(しめばた)」で絣模様を付けるのです。
図案に合わせながら、経糸の模様になる部分(=染めない部分←その後の工程で染めることがある)の絹糸を、木綿糸で強く締めていくのです。強く締めないと、綺麗な絣模様が出来ないとか。パンパンと締めるのに力が要るから、この仕事は男性の仕事だとか。オトコは辛いね~(-_-;)
それがね自宅に帰れば、カカア天下で奥様の尻に敷かれる・・(-_-;) やっぱり、オトコというのは辛いね~(T_T) -
途中の諸工程の話は省略して、いよいよ機(はた)で織るところに来ました。現代的な自動織機で織るのではなく、手織り用の機械で織るようですね。 それも針で一本一本丁寧に経糸と緯糸を合わせながら織るとか。これが大変に難しいようで、指先が器用でないとやれないとか。
それだけに織り上げていくのも時間が掛かり、一反の反物を織り上げるのに40日も掛かるとのことです。 自動織機の時代に逆らうかのように、昔からの伝統と技能を守り続けていることに、感動させられますね。
ちなみに、一反の織物を織る上げるのに使われる糸の長さは、少なくとも390万m(3900km)にも及ぶとのことです。
★一反(いったん)の大きさの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D -
機織り機で織っている様子です。
左端から経糸が、そして緯糸が織り込まれて、布地になって行く様子が分かりますね。 -
織り上がった大島紬の一例です。
--------------
ところで、紬(つむぎ)って何でしょうか?
Wikipediaの記事によれば、「生糸を引き出せない品質のくず繭をつぶして真綿にし、真綿より糸を紡ぎだしたものが紬糸である」とあります。
「くず繭」には種々ありますが、くず繭から取った不均一な糸を紡いで繫ぐ為、太さが一定ではなく、節(凹凸)もある糸になる。当然に、その絹糸で織った生地は艶も冴えず、表面も凹凸があったりするものの、耐久性があり独特の風合いが感じられるというのです。
ところが、絹織物ながら贅沢な絹織物には見えない(木綿に見えた)ことから、高価な絹織物を買えない庶民には、歓迎されたというのですから面白いですね。
そこで、大島紬はこうした「くず繭」から取った絹糸を使用しているのか?そこは、ちょっと説明があったか無かったか?確認はしておりません。 まぁ、この時代ですから、くず繭からの糸を使っているとは思われませんけどね。
--------------
このことを知って、私は思い出しました。
戦前からのものを着ていた母の着物には(普段着も含めて)、艶のない表面も凹凸したような生地のものがあったことを思い出しました。絹糸だけでなくて、木綿でも捨てるが勿体なくて撚り合わせて利用していたかも知れませんね。
★紬の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AC -
最後は検査です。
織り上がった大島紬は、全て組合の検査場に持ち込まれて、20項目に及ぶ厳しい検査がなされるようです。
合格品には品質表示のマークや商標などが付けられるのです。奄美産には地球印の商標が貼られるとのことです。 -
大島紬の織布工程の見学を終えて、移動します。
きょうはこんなお天気です。
奄美大島ですから、寒くもなくしっとりした感じにさえ思いましたよ(^o^) -
途中、こんなのがありました、
大きな甕と足踏み脱穀機ですね。
この甕と脱穀機の方に関心が向いてしまって、文章も読まないまま、これが「高倉」なんて思いもしませんでした(^O^) とにかく、足踏み脱穀機と大きな甕は貴重な文化財だと思って写真を撮りました。
足踏み脱穀機は懐かしいですね。大きな甕も懐かしいです。
あのねぇ、文章だけでなくて、絵なり写真なりを添えて欲しいんですよね。
後で分かったことなんですけど、この写真は「高倉」の基礎部分(地表付近)だったのですけど、高倉そのものを知らないから、高倉全体を撮らずに地表に置いてあるものに目が行ってしまったんですよ。←だから~!、高倉の全体図をチョットでも付けて欲しかったんですよ。 -
お土産物屋さんに入ってしまいました。
「bean to bar chocolate」
これって、何のチョコレート? グーグルで翻訳すると、「豆とチョコレートのバー」だって。豆とチョコレートがどうなってるのかね? バーでお酒でも飲みながら食べるチョコレートかな?
試食品があったけど、これとは違うのかな? -
左がピアスで、右がバレッタだって。
ピアスって、耳飾りだね。
バレッタと言えば地中海の島国「マルタ」の首都で、私はクルーズで2度行ったことがあります。観光にはもってこいの歴史豊かな町で、みなさんも是非お出掛けになってみて下さいね。それで、この町を思い出してしまいました(^^)
でも、このバレッタは女性の髪留めみたいなモンですね。私も、バレッタで止めるほどの髪があると良いんだけど、それはとてもじゃ無いけど無理というモンです(T_T)
バレッタなんて書かないで、日本名で書いて欲しいですよ!! -
結局これと言ったお土産も買わずに退出しました。
バスに帰る途中、「越間絹織物」と表示のある建物の前を通りました。内部を拝見する時間はありませんでした。 -
バスで移動中に、茅葺きの東屋がありました。
車窓から見たときに、東屋ならば椅子でもちょっと置いて欲しいと思いましたよ。
↑でもお話しましたように、先ほど脱穀機と大きな甕の置いてあったところの建物は、こういう形の建物だったかと思います。これが「高倉」という建物のようです。茅葺き屋根の「屋根裏」に当たる部分が倉庫になっているとのことです。
★高倉(高床式倉庫)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%8A%E5%BC%8F%E5%80%89%E5%BA%AB -
丸屋根の変わった建物が見えて来ました。
そう言えば、昨日飛行機が奄美空港に着陸寸前に見えた建物に似ていますよね。 -
私たちは、あの丸屋根の建物に入りました。ここは「いもーれ 奄美パーク」というところでした。
そうそう、「いもーれ・いもーれ・いもーれ・ミオ・・」だね。 奄美の人々は、死ぬほど愛する人に会いに行くとき、お芋を持っていって食べさせてあげたんだね(^-^)
当家のカミさんも、時々美味しい「焼き芋」を買ってきてくれますからね。これも大事な愛の表現だと思いますよ!(^^)! -
「いもーれ 奄美パーク」って、こんなに大きな建物なんですよ。丸い天井が繫がっているって感じです。
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↑の反対方向には、茅葺き民家が作られていました。
手前には踊りや講演の出来そうな舞台がありますよ。
ここはどういうところかと思って調べてみましたら、鹿児島県が旧奄美空港跡地に設置した観光施設で、「奄美パーク」って言うんですね。「いもーれ 奄美パーク」ではなかったのでした。
★奄美パークの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF -
私達は、奄美パーク内の水族館のようなところに入りました。
これは、海底の何でしょうか。
説明も見ないでは、分かるわけがないですね(^^;) -
こちらは、島の暮らしの様子のようですね。
お正月には、写真の闘牛もやるのでしょうか? -
こちらは、奄美市の名瀬新港からフェリーで110km南の方にある「徳之島」で行われている闘牛の様子です。
実は、私たちの本来の日程では、今日の午後に徳之島で闘牛が見られることになっていたのに、沖合にいる台風がこちらに来ると言うので、徳之島行きを断念することになったんですよ。
闘牛は本当に見たかったです!!
身体の調子を取り戻して、沖縄・徳之島・奄美大島を訪ねたいです!!もちろん、闘牛も見に行きますよ!!(^_^)v -
ここでちょっと記念写真を・・(^o^)
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皆さんが手拍子を取りながら、歌でも歌っているのでしょうか?
昨日の歓迎会の楽しい様子を思い出してしまいました。 -
この情景はとっても良いですね!!
田舎の暮らしだね~。
篭も、手前のおばさんが使っている「押切り」も、鍋も、そして山羊さんも!!(^-^)
私達の子供の頃の暮らしそのものですよ!! 懐かしい!!
山羊は温和しくてお利口な家畜なんですよ!!私は良くヤギさんのお乳を絞りました。山羊のお乳は私たちには消化・吸収率が良く、健康にとって牛乳に勝るとも劣らないと言われていますよ!! 農家が、そんな山羊のお乳になぜ着目しないのか??不思議でならないのです。日本では山羊乳の研究自体があまりなされていないという話がありますね(-_-;)
★羊乳(山羊乳)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E4%B9%B3 -
ソテツの実を切る道具は、愛知県の三河とは形が違いますけど、私達は「押し切り」と言いました。
姿も、道具も昔のままですね。
そうそう、ソテツの実って食べられるんですね。幹も。
そればかりか、お味噌にもなるとか。
でも、有毒で発癌性の物質が含まれるので、素人には要注意です。
Wikipediaの記事によれば、「幹の皮を剥ぎ、時間をかけて充分に水に晒し、発酵させ、乾燥するなどの処理を経てサイカシンを除去すれば食用が可能になる。」とのことです。
もしまた、奄美に来ることがあったら、是非食べてみたいです!!
★ソテツの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84 -
可愛いヤギさんです。
私が子供の頃のヤギさんは、角を切られていました。ですから、さらに優しい感じのヤギさんでした。 ヤギはとっても人なつこくて、可愛い動物です。私を見ると「メ~~」と声を掛けてくれて、今思うとペットみたいな存在だったとも言えますね。
そればかりか、雑草は食べてくれるし、毎日お乳が絞れます。
山羊のお乳は、牛乳よりも脂肪球が小さいので消化に良く、栄養も豊富で、骨粗鬆症、情緒不安定、不眠症、ホルモンバランスの乱れ、胃潰瘍(いかいよう)、虚弱体質などの改善に効果が期待できるとか。さらに肥満予防にもなり、牛乳アレルギーの人でも飲める場合が多いとのことです。
そう、牛乳に勝るお乳なんですよ。ネットでも売っていますから、一度是非お試し下さいね。
だからね、ヤギさんは家族の食生活を豊かにしてくれるし、栄養摂取にも協力してくれるんですよ!! その上、糞は畑の有機肥料にもなる。ホント!!山羊を飼っていて悪いコトって、何もないですよ。
ヤギとウサギと鶏と猫などの動物と一緒に暮らしていた子供時代が、今思い出せば本当に幸せな時代だったと思います。
★ヤギさんの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AE -
子供が「めんこ」で遊んでいます(^^)。
私が小学生のころ、このメンコ遊びもよくやりました。懐かしいね~。
あの時代は、遊びといえばそれぞれの住宅前の庭や道端、お宮の広場などで皆と楽しんだものでした。
大人も田植え・盆踊り・稲刈り・秋の祭り・正月等々の仕事、祀り、行事等を親戚や部落の人たちが集まってやったモンです。戦後の発展期でしたから、何かと行事も多かったですよ。
人間関係という点で見れば、子供の年代から豊かな時代でしたね。
★「めんこ」の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%93 -
こちらでも、↑でお話したような行事がたくさんありますね。
-
こちらでは、ソテツを採っています。
ちゃんと処理してから、いただきましょうね(^^) -
おじいちゃんが一服しています(^o^)
年齢のころは私と同じくらいかな?
ヘアーがまだ残っているから、私よりも若いかも知れないね。
「縁側」のあるこのような造りも、懐かしいです!!。
我が家もそうですが、最近の住宅には「縁側」が殆どないですね~(-_-;) -
それじゃあ、おじいちゃんと一緒に記念写真でも・・(^^)
「おじいちゃん! よろしくね~」(^^) -
奄美パーク内の見学を終えて、別の施設に向かいます。
何が見られるのでしょうかね? -
着いたところは、「田中一村記念美術館」でした。
恥ずかしいことながら、私は田中一村と言う画家を知らなかったのです。 -
こちらに説明板がありました。
明治41年に生まれ、奄美の自然に惚れ込んで、奄美の植物や魚を描きながら日本画の新境地を開いた人なんですね。数々の傑作をの描いたにも拘わらず、無名のまま69歳の時に借家で倒れ生涯を終えたとのこと。
田中一村にしては全く不遇な生涯でしたね。
日本の社会が、人々が、田中一村を評価できるレベルに達していなかったと言えると思います。このことは、現在時点の日本社会についても、様々な分野で厳しく指摘できることだと思っています。
★田中一村の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91 -
展示場へ向かい途中で見た、美術館の建物の様子です。
なんか、独特の形をしていますね。
近代建築家という人たちは日本文化に目もくれず、こういう形を造るんですね。ここでの「奄美パーク」もそうですけど、日本の殆どの美術館・科学館がそうですし、それをまた日本人は受け入れる。田中一村はこうしたは西洋傾倒、西洋的な幾何学模様への流れを望んだだろうかと考えてしまいます。
毎年赤字を出している豊田市のサッカースタジアムではないけど、こんなに大きな施設をつくって、経営は如何に?と考えてしまいます。心配している人もいるようですね。 -
一村が書いた絵です。
そうですねぇ、奄美の自然を書いていますね。
それも、枝葉の一つ一つが精緻に描いてあります。 -
写真がボケボケになってしまいましたけど・・(-_-;) 青年時代までの一村の紹介文です。ちょっと書きだしておきますね(間違いがあるかも知れません。)
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「彫刻家だった父・稲村は幼い孝(一村の幼名)がの画才を現したのを喜び「米邨(べいそん)」の雅号を与える。米邨童は既に稚気を脱していて、わび・さびの趣を体し、大人顔負けの才能を見せ神童ぶりを発揮したといわれる。
大正14年発刊の「全国美術家名鑑」には日本画部の「超然並びに余技」の項に最年少の田中米邨(独学、19歳、四谷坂44」の名が出てくる。
この頃、米邨を支持する人たちによって「田中米邨画伯賛奬会」が結成されて、数多くの作品を描いた。
若くして南画家として順風満帆のスタートを切ったかに見えたが、自らの病との闘い、相次ぐ家族の不幸、度重なる転居等、満足に絵が描けない状態になっていく」
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これを読みますと、田中一村は南画を描く画家だったのですね。南画というのは初めて知りましたが、中国の南宗画に由来するようです。
それにしても、生まれながらの才能に恵まれながら、
「自らの病との闘い、相次ぐ家族の不幸、度重なる転居等、満足に絵が描けない状態になっていく」
と書かれたような不運・不幸に襲われ続けた田中一村は、本当に不運な人だったのですね。
★南画の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%94%BB -
田中一村が子供のとき、父から米邨の号をもらってから、東京美術学校を退学するまでのことが書いてあります。
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東京美術学校に入学したものの、わずか2ヶ月ほどでが退学とか。
その理由には「家事」とあるだけで、詳しい理由はわからないようです。しかし世間には家事以外にも2~3の理由(米邨のがあると指摘する人もおられます。
とは言え米邨は、退学した翌年の19歳で弟を失い、さらにその翌年の20歳でもう一人の弟と母を失い、27歳で父と3人目の弟を失っているのです。
これらのことを考えますと、東京美術学校を早期退学したのを「家事(家庭の事情)」と考えるのも、なんとなく分かるような気がしますね。
★東京美術学校 (旧制)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6) -
母と父、そして3人の弟を次々と失った米邨は、30歳にして千葉市千葉寺に転居し、農業をしながら姉、妹、祖母と暮らすようになったのです。
この時期には美術愛好家との付き合いもあって、たまには絵を描いていたようですが展覧会への出品はしていなかったようです。
時代が太平洋戦争に突入して行く中で、徴用工として働くことになり、絵を描くどころか身体まで壊すようになったようです。 -
↑の話と重複するところもありますが、ご覧下さいね。
ここで私が関心を持ったは、「一村が繰り返し描いた風景は、実際に住んでいた家の身近な光景であり、一村が慣れ親しんで歩いた道や、近隣住人の様子などを知ることができます」という部分です。
生活上の理由で景色の良いところへ行く暇もなかったかも知れませんが、身近な風景をと人々の様子を描いた一村の地道な姿勢に惹かれたのです。あの渡辺崋山も身近な人々の生活を描写していましたね。
作家も画家も俳人も写真家も題材を遠くに求めるのではなく、身近な自然と暮らしに目を向けて欲しいですね。もちろん、政治家も、経済人も、学者も同じです!!
★渡辺崋山を描いた旅行記は↓にて
https://4travel.jp/travelogue/10415791 -
一村が書いた絵です。
絵のタイトルを見ていませんので、何時、どこで書いた絵なのかは分かりません。しかし、農村の暮らしの様子が良く描いてありますね。 -
米邨39歳のとき、「白い花」を清瀧展に出品して入選したことがあります。米邨はその年のうちに画号を「米邨」から「柳一村」に改号しました。その後も出品したようですが、その時は落選しています。
その翌年には「田中一村」に改号したのです。その改号への想いを、ご覧になって下さいね。「一村」という名付けもまた良いですね。
絵画でも、色々な流派がありますから、それらの流派に属する審査員の主観を刺激しすぎない程度に美味く描けば入選していくと思いますよ。
「審査員の主観を刺激しすぎない程度に・・」←どんな分野でもそうですけど、これをやれる人は出世もするし賞も取れますよ(^o^) 自分の意志を通してしまう人は、出世もするし賞も取れないけど、良い人生が送れると思いますよ(^^)(^o^) -
一村の九州・四国・紀州の旅コースです。
一村は、昭和30年6月に行き詰まった現状を打開するために、九州・四国・紀州の旅に出て、たくさんのスケッチを描いたのでした。
花鳥画を得意とした一村らしく? 富士山とか日本アルプス方面ではなく、温暖で緑豊かな地域を選んでいますね。このコースは、私もほぼ全部回ってますので、分かるような気がします。
一村は、こうして南国の人情・光景に触れて、新しい見方・考え方に繫がるヒントを得たかも知れません。そうです!!旅をして行った先々を吟味することによって、新たな視点を得ることがありますからね。
一村はこの旅に出る前に、天井画制作のため石川県に足掛け3ヶ月滞在していたのです。そのついでなのかも知れません。
★花鳥画の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E7%94%BB -
だいぶ年齢を重ねたようすですね。
やせ細って疲れてしまったようにも見えるところが、気になります。
まだ髪の毛があるだけ、元気があったかも知れませんけど・・。
このような姿になるまでには、色々苦労があったようです。
昭和33年の50歳の時には奄美に渡り、昭和37年には大島紬の染色工として働いて、生計を立てたようです。昭和42年には紬工場を辞めて絵を描くのに専念し、昭和45年(大阪万博の年)には再び働いて、また製作に取り組むなどしていたようです。
そして、昭和51年6月下旬には畑作業中に倒れて一週間入院となり、その翌年の昭和52年(1977年)9月1日に一軒家に引っ越して「御殿のようだ」と喜んだのも束の間、その10日後の11日に夕食の準備中に倒れ、69歳の生涯を閉じてしまったのです。
「田中一村終焉の家」の所在地は、Google mapに↓の住所をコピーされてご覧下さい。
奄美市名瀬有屋38番地3 -
ここからは、田中一村のことをもう少し振り返ってみたいと思います。
奄美での一村の様子です。
奄美に引っ越してきた当初は、いずれ東京で個展を開こうという意気込みもあったようですが、物価高等で資金面の計画が狂い、健康問題とも重なって思うように派進まなかったようです。
結局、奄美で暮らした20年のうち、一応満足に絵が描けたのは9年足らずだったようで、本画と言われる正規の作品は30点にも満たなかったようです。
姉との死別も精神的な負担になり、次第に意欲も遠のいたようです。そんなことから、奄美での作品は、全く未発表のまま残されたというのです。これでは一村が奄美に惚れ込んで移住までした意気込みさえも、彼の生存中に自分の作品を通して知らせることができなかったと言えますね。彼自身、非常に残念に思っていたことでしょう。
★田中一村の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91 -
昭和33年の暮れに奄美に着いた一村は、すぐに島々を見て回ったようです。その様子を手紙にしたためたのです。
7頁と8頁は一部省略してありますが、内容は島の人々の様子を具体的に面白く描いています(字がかすれて一部読めませんが)。
四ページの読めるところを、一部を書き出してみますね(一部間違いがあるかも)。
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「千葉ではどんな歌を歌って(餅を)搗くかと聞かれましたので、歌はぬと答えれば、それでは黙って搗くのか、面白くなかろうと笑われました。この拍子歌のリズムはまことに古風で琉球の面影も偲ばれ、嘗てNHKで録音放送された由です」
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字の読めないところだけをとばして読んでみても、結構面白いですよ。 -
↑の手紙の中の2頁目です。
拡大してご覧になってみて下さいね。
きっと面白いと思いますよ。
ここも、冒頭部分の読めるところを書きだしてみますね(一部間違っているかも知れませんけど)。
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「かや葺き建は低く常緑闊葉樹の茂みの中に屋根の頂がわづかに見えるだけで如何に台風の強きかが想像されます
海辺の小経を行きますと杵の音が聞こえます 榕樹の葉陰に牛は寝そべり、庭には赤い蘇鉄の実が乾してあり、兎の餅搗のような縦杵で変わった形の臼で老婆が何か歌ひながら搗いています。 図々しく入って見学を乞えば心よく迎へてくれ 茶と南瓜の煮ものなど出され30分程十二月とはとても思へぬ麗らかな日差しを浴びて・・」
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あとは、少しだけですので読んで下さいね(^^)
奄美の人々の明るい人柄が伝わってくるような内容ですね。 -
ここも面白いので、ちょっと書きだしてみますね。一文が非常に長く、読点も少ないので読むにも息切れする書き方ですね。(3行目からです)
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「私は昼の疲れで寝て居たのですが起きて一寸ほど板戸をあけて隙見すれば半白の老紳士蛇皮線を引き四十代の壮者太鼓の代わりに洗面器を左手に差し上げて右手はたきの柄でこれを軽く敲きて伴奏をつとめ一座皆歌ひ老若男女、紋付き姿の老人より、スーツ、スカートの奥様から宿の小女より宿の老女将が頭に琉球徳利を載せて踊るまで、かわるがわる立ちて
(以下6頁・写真はありません)踊り、十時となって電灯が消えればランプのあかりに変わり、ランプの方が却って情趣ありて面白く、後で聞けば蛇皮線は中学校の校長さん、洗面器は役場の助役さんの由二人共なかなかの芸達者にて校長さんはバチよりも爪弾の方一層面白く、夜は十二時、所は南海の孤島、夜風の身に沁むも忘れて隙見するは流浪画家の私、さながら泉鏡花の小説の一章の様です」
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田中一村は、一人閉じこもって孤独で頑張る人ではなく、人々との出会いを大事にしていた人のような印象を受けました。 -
一村は手紙をよく書いたようです。
これも一部書き出してみますね(部分的に短縮しています)。
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「その時折角心に芽生えた真実の絵の芽を涙をのんで自らふみにじりました。‥最近六ヶ年の苦闘によって再び芽ぶき‥私の軌道もはっきりして来ました。‥この軌道を進むことは絶対に素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬくことです。」
「“えかき”は我儘勝手に描くところに“えかき”の値打ちがあるので、もしお客様の鼻息を窺って描くようになったときはそれは生活の為の奴隷に転落したものと信じます。」
「私の絵の最終決定版の絵がヒューマニティーであろうが、悪魔的であろうが、絵の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せるために描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから‥」
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手紙なればこそ、心に持っていることを真剣に書いた内容のように思います。
最初のところで「折角心に芽生えた真実の絵の芽を涙をのんで自らふみにじりました。」と訴えていますが、「真実の絵を描く」という一村の強い想いと信念が感じとれます。
この「信念」を、体調を崩したの為か、他人からの評価を気にしてか、絵に対する自分の考えを曲げてしまったことがあったようです。
それだけに、人の評価を気遣って、絵に対する自分の信念を曲げることは二度としたくない!!という強い想いが、訴えられています。
私は一村のこうした姿勢を、立派だと思います。同時に羨ましく思います。絵画の世界だけでなく、他の分野でも自分の考え方や意志・信念を持ち、世間の評価や権威におもねることなく日々努力している人がおられることを、私は信じています。
私もそうした方々に是非あやかりたいのです。しかし、なかなか難しいことですね(>_<)(T_T) -
一村は画家の目で見た印象をメモに残したようです。
その一部を描き出してみますね。
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奄美流寓 二階に娼婦 下に吾
恋文の代筆果たす 吾五十二
小春日を 小夏と聞けり 奄美島
梅花なし 桃花亦なし 島の春
黄に赤 もみじ葉散りつ 桜咲く
若葉見えず 杜鵑聞かず 鰹食う
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最後に一村の屛風画を見ていきましょう。
戦争が終わったのち、一村は幾つかの作品を日展や院展等に出品しますが、落選も続いたようです。
そんな中、襖絵や屛風画、天井画などを手がけており、見事な作品を残していたのです。南画風山水図とか琳派的な「燕子花図」、「花と軍鶏」「草花図天井画」等々とのことです。
一村は↑の手紙でも書いていたように、世間の気に入られる絵を描くのではなく、自らの絵を精力的に描き続けたのですね。そういう一村を尊敬したいと思います。
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余計な話ながら、展覧会とかコンクールなどに出品すれば、当然に入選・落選をするのですが、その際の評価が如何なるものであるかは、実に曖昧なものです。
私も経験しています。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んで、「釈迦の思いつきで糸を垂らしたあのやり方は、カンダタにはちょっと可哀想。カンダタを助けるなら、蜘蛛の糸で上がれる人をカンダタだけにするべきだ」というような内容を含んだ感想文を提出したのです。
ところが、地元の先生は私の文章そのものは褒めてくれたのですが、「お釈迦さんを責めちゃったら、審査員はよく思わないよ」と指摘され、内容をカンダタの心の持ち方に変更したのです。その結果カンダタを責めるような焦点のぼけた内容になってしまい、私自身はいささか不満でした。
自分の思ったことを真剣に文章化すれば良いのではなく、世間と審査員に認められる文章を書くことが上位に入選していく方法なんですね。残念ことです!!
絵画でも、一村個人の視点と画法が優れたものであったとしても、絵画界の雰囲気と審査員の好みに合わなければ良い点は付かないでしょう。それは、様々な政治・社会問題でもそうです。問題の基本原因に触れると異端に見られ易く、結局は基本問題の指摘を避けて、問題の表面上の指摘と対策だけでことを済ませるようなものです。
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ゴッホもそうでしたが、亡くなってから評価されるということが歴史上では度々ありますね。残念なことです。 -
それでは、一村が残した屛風画です。
しっかり味わってご覧下さいね(^_^)v
一村は、家族の不幸に見舞われることが多く、長男として祖母や姉妹の暮らしを支えるために、農作業などもしていました。絵を描く時間さえもない時期がかなりあったと思います。そんな時こそ、「売れる絵」かけば「カネ」も稼げたのに!! しかし、それもしなかった一村の姿勢に心打たれれました。
そんなこんなで必死になっている中で、結婚をしたのかしなかったのか? 恐らく、一村は生涯独身だったのではないかと思います。
そんな一村を考えていますと、やはり才能がありながら苦労を強いられ、結婚も出来なかった新美南吉のことを思い起こしました。
絵のことは分からない私です。
大変な暮らしを送りながらも、世間に妥協した絵は描かないという確かな信念を貫いた一村のことを思いながら、この屛風画を見ている私です。
★新美南吉の話は下にて
https://4travel.jp/travelogue/10846603
https://4travel.jp/travelogue/10846744 -
「おかあさん 一枚撮ろう!」
ここで、記念写真でも撮りましょう(^^) -
T先生も一枚撮りましょう。
-
ただいま移動中。
お昼を少し過ぎたころ。
海はうねりが押し寄せています。
台風が近づいていることが心配になります。 -
奄美パークから、海岸沿いに走って道なり5~6km程西の方にある「レストラン アマネシア」へ来ました。
私達は、ここでお昼をいただくのですよ。
食べることになると、もともと食い意地のある私のこと(^o^) 奄美のご馳走はどんなのが出るのか?楽しみですね~(^^) -
ほら、お昼のご馳走だよ(^^)
まずは、こういう感じだね。 -
「おかあさん、撮るよ~」
-
「T先生も撮りますよ~(^^)」
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ウ~~ン、ここのお水は美味しいなぁ(^^)
味わうのは、お酒ばかりではありませんよ(^o^) -
おかあさん、美味しいですか??(^^)
この顔なら、美味しいに決まってるよね~。
「うがみしょーら」って、どういう言葉かな??
ここがレストランであることを考えると、「美味しいでしょ」と言う意味かも知れないね。
確かに美味しいのですけど、本当のところは、奄美の方にお聞きしてみないと分かりませんね(^o^) -
知らない草が生えています。
ただ一つ言えるとは、奄美が気に入ってここで生活している花だと言うことです。 -
お昼も終わって、またドライブですよ~。
長い砂浜が続いているこのあたりの海岸が、「用安海岸」かな~と思いますけど、如何でしょうか? -
お昼をいただいたレストランから7km弱ほど移動して、龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」へやってきました。私達が今いるのは、その建物の2階にある文化財展示室「奄美・龍郷 島ミュージアム」というところです。
これは「奄美・龍郷(たつごう) 島ミュージアム」で最初に撮った写真です。
時計かなと思いましたが、1月から12月までの「龍郷町の年中行事」が書いてあります。
1月では7日に「七皮節句」があります。15日は「小正月」
4月は、「虫遊び」
7月には、7日が「七夕」 13日が迎え盆 14日が盆の中日 15日が送り盆
16日は「盆休み」となっています。
7月にお盆なの?と思って、真ん中の説明を見ましたらこれらは「旧暦」で書いてあるのでした。
旧暦というのも懐かしいですね。
私達が子供の頃は旧暦のお正月もやりましたし、雛祭りは旧暦でしたね。私達の実家の方では、もうこのような行事自体が殆どなくなってきました。実家から出た私達となるとその傾向は一層強く、年間の行事と言えば太陽暦のお正月くらないモンです。
その代わりと言っちゃあナンですが、新年会とか結婚記念とか誕生日などの記念日行事が沢山あります!(^^)!
私の方では、来年3月の結婚記念日まで元気でおれば、「サファイヤ婚」の楽しみもあるのですよ(^_^)v -
私達が訪れた旧暦の9月では、 1.いまい権現大祭 2.種下ろし 写真3は、その際のヤーマワリ(各家庭を一軒ずつ回って楽しむ行事) 同じく、種下ろしの際の振る舞い料理(写真4)という行事があるようです。
-
歴史年表です。
奄美大島の先史時代ですね。
私達には余りに遠い過去のこと、詳しいことは分かりませ~~ん(^O^)
でも、よ~く見ると、先史時代?の7000~6000年前のイャンヤ洞穴遺跡をはじめ、4500年~3500年前の縄文遺跡をはじめ、弥生時代の遺跡、古墳時代の遺跡等々があるんですね。
今回は遺跡を見ていないので、詳しいことは分かりません。また、機会が見たいものですね。縄文時代以前のこのあたりの地形はどうなっていたのか? そんなことにも関心を持ちます。
★青森県の三内丸山遺跡の旅行記は↓にて。
https://4travel.jp/travelogue/11269054 -
ここは龍郷の歴史について紹介しています。
これによれば、7世紀末には奄美から大和朝廷に貢ぎ物を献上していたとのこと。8世紀初めの頃には、遣唐使や漂着船のこともあって大和朝廷との関係があったのですね。 地理的条件を考えてみれば、あり得ることですね。
また、奄美には先史時代の遺跡が80ヶ所もあるとか。歴史豊かなところですね。 -
ウフタ遺跡の詳しい話です。
1981年に発見されて以来、Ⅰ~Ⅳの遺跡が発見?調査されるなど、遺跡の宝庫みたいですね。縄文前期からの歴史を持ち、サンゴを組み合わせて幾つかの部屋まで造った縦穴住居跡まであるなんて、気候が大きく違う青森の三内丸山遺跡とは違った暮らしぶりが伺えますね。 -
ウフタ遺跡のもう一つの説明と写真です。
遺跡からは約2300年前の土器・石器・貝製品・獣骨・漁骨が出土し、貝溜まりや石積み縦穴住居跡が発見されたとのことです。
こうした遺跡は標高約20mの砂丘の地表から10mほど掘り下げた旧砂丘に形成されていたとか。これでは、数千年前の遺跡はなかなか見つからないですね。
★ウフタ遺跡のことは「ウフタ遺跡」にて検索下さいね。 -
今度は半川(はんごう)遺跡です。
この遺跡は道路工事中に見つかった遺跡だったのですね。
縄文時代中期~晩期、及び古墳時代の遺跡が見つかったとか。 遺物の一つの黒曜石は九州佐賀県産のものだったとか。
青森の三内丸山遺跡同様、ここでも縄文時代に海を隔てた交易があったのですね。交易があったと言うことは、意思を伝達する手段があったことを想像させますが、調べてみるとやっぱりあったようですね。
その文字は「ヲシテ」といわれているようです。
青森の三内丸山遺跡でも考えさせられましたが、縄文時代は思っていたよりも進んでいたのですね。
★「ヲシテ」の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B2%E3%82%B7%E3%83%86 -
次は手広(てびろ)遺跡です。
昭和51年に発見され、その2年後から発掘調査が行われ、その結果、縄文時代後期から古代並行期までの遺物や遺構が出土したとのことです。
古代の遺構として、楕円形の掘立柱建物跡が検出されているとのこと。
現在、遺跡は完全に消失し、手広ドームや宿泊施設が建てられているとのことです。
【※】写真右側の写真は、半川遺跡の写真です。 -
手広遺跡での住居跡とか、出土品です。
拡大してご覧下さいね。 -
古代・中世期の歴史年表です。
7世紀中頃の657年には、奄美は「日本書紀」に「海見嶋(あまみしま)」として書かれるようになっていたのですね。 その26年後には、多禰人(種子島の人)、掖玖人(種子島の人)、阿麻彌人(奄美の人)たちに朝廷より禄を支給されるようになっていたようです。
この頃から、多禰島が大隅国に編入されたり、僧侶の俊寛が喜界島に流されたり、平家の残党が喜界島に逃れたり、1265年には日本の平仮名文字が導入されたりと、奄美と日本との繫がりが断続的に続いたようです。
奄美と琉球との関係では、1266年には琉球の王朝に貢ぎ物を渡すなど、琉球との関係が深まって以来、およそ340年余琉球の統治下にあったようです。この時代は比較的安穏な時代だったと言われています。
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写真の3枚のうちの下2枚は、貝匙(ヤコウガイの殻で作った匙)です。
3枚中の真ん中の写真は、匙を大写ししたものと思います。↓の写真は、その匙を円形状に並べたものと思います(一部の匙は柄の部分が無くなっています)。 -
↑の歴史年表での、「1266年 大島から初めて琉球に入貢」以前の時代です(この場合の入貢という言葉の使い方が良く分からないのですが、「進貢(貢物を捧げる)」で良いのでは?と思います。
奄美大島では11世紀後半頃に農耕が伝えられたというのが、一般的は話です。農耕文化がいつ頃、どのような形で奄美にの伝わってきたのかという説には、2~3の考え方があるようなんですよ。
しかし、農耕文化の定着は、人々の定住と、次第に集団性が形成され、そこにおける較差と有力者(権威)の生成を促します。
当然に生活用具、生産用具も高度化します。同時に人々の生活も何らかの行事を通じて組織化されますね。そこに、個人的にも、地域的にも、階層化が成立していくのでしょうね。
写真の壺のようなものは、徳之島で焼かれた「カムィヤキ」と言われるものです。 -
ここは、琉球王国の統治下時代の話です。
李氏朝鮮での記録によれば、遅くとも1447年までに琉球王国に征服されたようです。征服という言葉からすれば、「武力制圧」されたと言うことでしょうか。
奄美は琉球国の三山時代の中山王だった英祖王に進貢していたのに、1429年の琉球王国の成立後に進貢を止めていたのでしょうか?
奄美では、この時代頃から「間切」と言う行政区分を設定し、奄美を7間切に区分して「間切役人」を配置し、行政を取り仕切ったようです。 また、「ノロ」という神女職が制度化されて、各地の固有信仰に基づく祭祀を組織化していたとのこと。それぞれには、琉球王府から辞令書が渡されていたようです。
奄美の神官は女性だったのですね。
であれば、奄美の家庭では「カカア天下」が多かったかも??知れませんね。
奄美の龍郷地域に平家の落人がやってきたなんて、初めて知った話です。平家の落人って、東北地方から琉球まで落ち延びたんですね。これだけ命を大事にして「生きる」ことへ拘り続けた皆さんは、大丈夫だと思いますよ。
★奄美群島の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E7%BE%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
★琉球王国の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
★三山時代の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3
★ノロの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AD -
ノロとユタ
ノロとユタの役割の違いです。
↑のノロについてのWikipediaの記事も参考にされて下さいね。
★ユタの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%BF -
ところが、平家の落人も「奄美まで逃げ延びれば、もう大丈夫」と安心していたわけではなかったようですね。
いつ源氏が攻めてくるかも知れないというわけで、平行盛は笠利湾の入り口にある今井崎と蒲生崎に見張りを立てて、用心をさせたのです。ところが、今井崎の見張り役の今井権太夫は地元の娘さんに惚れ込んで、娘さんの家に泊まりに行ったりしていたのです(オトコの弱さだね~)。
数日、権太夫からの連絡がなかったので、源氏が攻めてきたと思い込んで切腹してしまったという話です。(別の話では、「権太夫が娘さんの家で泊まっている隙に、源氏の船が攻め込んできて、平家の落人はことごとく討ち滅ぼされてしまった」とあります)。見張りをサボった番人は責任を感じて、腹を切ったとのこと。
安木屋集落には、娘さんと寝てしまった今井権太夫を祀っているとのことです。←見張りをサボって娘さんと寝た今井権太夫を、神社を作っまで祀った話は理解しにくいですね(^^;)
(このでの、説明は少し分かりにくいです)
★平家の落人の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA#%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9C%B0%E6%96%B9 -
ここからは、「薩摩藩時代の龍郷」です。
奄美は、これまでも日本書紀に取り上げられたり、朝廷から禄をもらったり、遣唐使が奄美経由で唐に渡ったり、豊臣秀吉に使節を送ったりするなど、日本とのお付き合いは結構あったようです。しかし、日本に組み込まれたり支配されたりすることはなかったとのことです。
ところが、ついに薩摩藩が手を出したようですね。なんだかんだと行き来のあった奄美も、知るほどに手を出したくなってきたようですね。美人を見ると放っておけない気分なんでしょうか?でも、奄美には迷惑だったことでしょう。
私はカミさんに支配されて結構苦労をしているんですよ。奄美と薩摩の関係に似ているかもね。 -
ここでは、薩摩の島津軍が琉球・奄美大島を整復したことのキッカケが書かれていないですね。これは歴史的にも重要なことなので、書いて欲しいですね。
↓に、このあたりのことをお話してみたいと思います。
薩摩藩の奄美侵攻の直接の切っ掛けとなったのは、仙台藩領に漂着した琉球船を幕府が琉球に送還したことに対して、琉球側が幕府へのちゃんとしたお礼を事実上断ったことに幕府側がカチンときたことのようですね。 私でも1日に6回ほど、「おかあさん ありがとう」「おかあさん ごめんなさい」と言ってるのにね。
間接的には、琉球皇国の明国との朝貢貿易による利益に、薩摩が目を付けたことが指摘されていますね。
薩摩軍は3000人の兵と80隻余りの船で南下し、先ずは奄美群島を、そして沖縄本島へ向かったようです。琉球王国の統治下にあった奄美群島でしたけど、琉球王国は奄美群島を薩摩に明け渡してしまいました。3000もの兵で攻められては、敵いませんよね。その後、薩摩軍は琉球王国にも向かい、琉球を統治下に置きます。
この薩摩侵攻によって、奄美は琉球王国の支配から薩摩藩の支配下に置かれるようになり、サトウキビなどからの利益を黒糖の専売制度を実施したりしたこともあったようです。
しかし、一方では大規模な干拓・開拓・埋め立てをしたりして、奄美の人々の暮らしに役立つこともあったようです。
★琉球侵攻の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB -
いわゆる「天保の改革」と言われた財政再建ですが、幕府は本当に苦労したようですね。数々の奢侈禁止令を出す一方で、多くの改革・開発をしたものの上手くはいかなかったようです。
薩摩藩でも、調所笑左衛門広(ずしょ しょうざえもんひろさと)によってかなり強引な財政立て直し策が推し進められたのですが、こっちは何とか成功したようですね。なんせ500万両の借金を、商人を脅迫して無利子で250年!!の分割払いなんてことをやり抜いてしまったんですね!! さらに行政改革・農政改革・財政改革をやり、奄美の砂糖も問屋を排除して専売制にしたり、清国との密貿易からも収益を取ったようですね。
そんなこんなで、500万両の借金を200万両の蓄えに転換させたというのです。財政改革のやり方は色々あるけど、強権に頼った島津のやり方は、だいぶ酷いですね。
調所の強引な改革が失敗していたら、薩摩藩はひ弱な藩となって、徳川幕府を倒したあの戊辰戦争はやれないどころか、話にさえならなかったと思いますよ。歴史というものは、色々な偶然が重なり合ってつくられていくのですね。人生もそうですけどね。
★調所笑左衛門広の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7
天保の改革の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
★上知令の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9F%A5%E4%BB%A4 -
明治初期から太平洋戦争敗戦までの年表です。
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明治維新後の龍郷。
これからどうなっていくのでしょうかね。 -
明治の廃藩置県後、鹿児島県の一部となり、1908年の町村制実施によって、8つの村に編成され、日本の行政に完全に組み込まれました。
大島の主要産品である砂糖も、鹿児島藩専売から解放され、行政によって専売商社が設立されたけれど、それも脱皮して自由販売へと発展していったのですね。 -
黒砂糖を巡る葛藤が語られています。
商売というものは生産者の暮らしも保証しながら、商売としての利益も争う仕事ですから、なかなかな難しいですね。
せっかく新納中三(にいろちゅうぞう)が努力してくれたのに、これまでの商人との調整が不十分だったのか鹿児島商人の反感を買い、翌年には解任されてしまいました。
その後、農民たちは頑張って、商人側との競争に・・。商人側は法的手段まで利用したので大変な闘いに・・。
その中から、提起されてきたのが「三方法運動」で、
①不当な借金支払いは拒否する。
②栽培方法を工夫して生産量を増やす。
③質素な生活を送り貯蓄をする。
しかし、いろいろな紛争で生産・加工・販売のサイクルが狂ったのか、全体がうまく行かなかったようで、法廷闘争の熱気も、日清戦争の「挙国一致」の体制の中に吸収されて行ってしまったとかです。 -
↑の写真の下に写っていた4人です。
どの人も本当に「エライ!!」人ですね~(^^;)
東大卒が二人、京大卒が一人、日大卒が一人ですね。あの時代の人々は、このような大学を卒業した人を「雲上」の人にように捉え、非常にへりくだった姿勢を見せたものです。ホント、「権威」の塊みたいにも見えます。
日本の特徴かと思いますが(外国のことは知りませんが)、これらの人物の紹介は学歴と役職を中心に書かれていますね。明治以後の日本は、良くも悪くもこうした「権威ある」人々によってつくられてきたと言えるでしょう。
この4人の紹介の仕方は、日本社会が未だに「学歴と肩書き」で人を評価していることを表しいるとも言えますね。ホント、「権威」を基準としているようにも見える資料です。ご本人も迷惑しているかも??
それより、「何を如何に学び、人々の為に何をしたか」を書いて欲しいですね。人の評価は、正にそこにあるのですから!! それともう一つ、社会の底辺で黙々と人々を支えて来た方々にも、目を向けて欲しいと思います!! -
「戦時下の龍郷」というタイトルです。
私達は戦時下の奄美大島のことについては、殆ど知りませんでした(沖縄のことは、に度々メディアで取り上げられるので、少しばかり知っていますけど)。
龍郷でも特攻兵器「震洋」の格納庫が用意されたようです(使用されることなく、戦争が終わったのは良かったです)。
奄美大島全体でいえば、瀬戸内町などの南部では日本軍の守備隊がたくさん居たり、震洋などの特攻兵器の出撃基地が造られらたりしたようですから、米軍の攻撃も酷かったかも知れませんね。
龍郷でも米軍機からの銃爆撃があったようで、大変なようでした。 -
太平洋戦争が終わってから、奄美諸島は米軍の統治下に置かれたために日本本土との往来が途絶え、戦後の復旧は思うようには進まなかったようです。そのために随分貧しい暮らしを余儀なくされたという話もあります。
そんな事情も加わって、日本への復帰運動が高まり、1953年には日本復帰を実現したとのことです。
左側の大きい写真は、昭和28年8月8日米国のダレス国務長官が朝鮮からの帰国の帰途に、日本に立ち寄った際の声明で、「奄美群島を日本に返還する」発表したことを歓迎した奄美の人々の様子です。 -
戦争が終わってから今日に至る年表です。
戦後、行政は本土から分離されましたが、国会議員選挙は可能だったようですね。
この年表を見ますと、諸施設や公の出来事、災害などを書き並べているような感じがします。
あの戦争に関する奄美大島の実態について、私達は殆ど知ることもなかったです。そのあたりのことを、年表の中に一言書いて欲しいですね。 また、人々が苦労してきた「黒糖」をはじめ奄美の産業は、戦後にどうなったでしょうか? また行政のあり方、住民の行政への参加と地域活動の様子はどう変わったのでしょうか? そうしたことも書いて欲しいですね。
★奄美群島の歴史のことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E7%BE%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
★奄美群島の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E7%BE%A4%E5%B3%B6 -
日本復帰後の奄美の様子です。
日本復帰後には、道路・橋梁・河川・港湾・埋め立て・学校と役場建設などによって、経済・暮らし共に活気を帯びてきたようです。 -
これからの龍郷。
頑張ってもらいたいですね。 -
館内展示の様子です。
奄美大島の暮らしの様子が、このように分かりやすく紹介されていました。 -
地図の明るい部分が、奄美大島の龍郷町です。
龍郷町の左右は奄美市で、奄美市に挟まれているなりますよ(奄美大島には全部で5ッの市町村があります)。
西郷さんが最初に「島流し」にされたとき、ここ龍郷町にやってきたのです。
【※】この「島流し」については、さまざまな見解があります。 -
奄美の気候の様子です。
奄美群島は1163万年より以前は、ユーラシア大陸の一部だったとのこと。それが、それから200万年前頃までの地殻変動で大陸や日本列島から切り放されたか。
現在の地形になったのは約2万年のこととの説明です。地球の長い歴史から見ますと、意外に最近?のことだったのですね。
奄美群島は8つの有人島から成り立っていて、気候は亜熱帯性気候と言われ、年間降水量は2800mm以上、6~9月の平均気温は25°を越え、真冬でも15°ほどです。
私達にとっては、1~2月に奄美・沖縄へ旅行しますと、丁度よい寒さよけになりますね。 -
奄美大島へ行ったからには、この奄美黒糖焼酎を飲みたい!!ですね!(^^)!
奄美黒糖焼酎は黒砂糖のように甘いお酒かと思いましたけど、そうではなかったです。本当の「黒糖焼酎」にしたのであれば、黒砂糖をドカン!!とブチ込んで(^-^)コッテリと甘い味にしたいですね。 -
奄美の伝統を書いているようですね。
「ショチョガマ」とは、奄美特有のお釜の一種。アラセツとは、荒っぽい説教。
平瀬マンカイは、春になって桜が満開になること。私はそんなふうに推量しましたね。
それがなんと、若干違っていたのです。
「ショチョガマ」とは奄美のお釜ではなくて、男どもが高いところに造った藁葺き小屋風の舞台に登って太鼓と歌に合わせて踊ることなんですね。そして、皆で小屋を揺らせて小屋を倒すのです。その倒れる方向で農作物の縁起を占うという豪快な伝統行事です。
「アラセツ」は「新節」と書き、旧暦の8月初丙の日(太陽暦では9月下旬頃)で、奄美諸島の生産暦による「新年」の行事が行われるようです。
「平瀬マンカイ」は、花が満開になるのではなく、人間の心が満開になったつもりで、男女7人の神役が海岸の岩の上に登り、交互に歌を唄いながら稲魂を手招く仕草を繰り返すとのことです。
ショチョガマもマンカイも、アラセツの日に催行されるみたいです。
こういう伝統行事が残し、伝統文化を守っていることは良いことですね。 -
そして、西郷さんです。
なぜか、写真を撮られるのが嫌だったようで、写真は一枚も撮っていないとか。
西郷さんの顔と姿は、西洋画家が西郷従道をモデルにしながら、西郷さんの縁者の意見を聞きながら描いたようですね。他にも何人かの画家が西郷さんの絵を描いています。この西郷像もその延長線上にある絵だと思います。
上野の西郷像は、多分このような絵を元にして制作されたみたいで、西郷の象をみた3番目の妻だった糸子さんは、西郷本人との違いにビックリして「こんなお人じゃなかったですよ」と声を上げたとか。
「あんな奴が…」と言われてきた私でも、たくさんの写真を撮ってもらっているのに、あの男っぷりの良い西郷さんが写真を嫌っていたなんて、とっても不思議ですね。
西郷さんの写真の下に「潜居に至る経緯」という記事があります。
ここでは、西郷さんが勤王派の京都のお坊さん「月照」と共に鹿児島湾で入水自殺を図ったのですが、最近これが話題になっているようです。
それは、最近色々なことが分かってきて、「あの入水事件は西郷による月照殺しだった」と言うものです。もちろん他方で、「明治維新やり遂げ、『敬天愛人』を言う人がそんなことするはずがない」人もいます。どちらもそれなりに分かる話ですが、月照殺人説が結構出ていますね。
確かに、日頃から「死することは塵埃の如く」などと言い、いつでも命を捨てることを厭わないと言い続けていた西郷さんだから、入水自殺に失敗したなら自分で腹を切れば済むことと思いませんか? それをしないでアレコレ言っていたのですから、疑われるのも当然だと思います。
結局色々あって、薩摩藩は西郷さんを奄美大島に送り込んで、幕府の目から隠しました。それが、西郷さんには二番目の妻となる「愛加那」さんとの出会いに繫がったと言うことです。
私は、未だに一番目の妻の尻に敷かれて、「カカア天下」逃げられずにいるのですけどね(-_-;)
★西郷隆盛の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B -
西郷さんは、まず鹿児島の薩摩半島の南西端で大隅半島と向き合っている「山川港」から、直線で330km弱ほどの南にある奄美大島の「龍郷」という村までやってきたのですよ(赤い線の①です)。東京からですと直線で琵琶湖のド真ん中までの距離ですね。
現在のフェリーなら鹿児島→奄美(名瀬)間を9時間で行ってしまうけれど、風が頼りの当時の船のことですから、山川から龍郷まで足かけ8日もかかったんです。並みの人なら船酔いになってしまいますよね。
ちなみに、青い線②で表示されている二度目の遠島の時の山川から徳之島へは、途中の七島灘で漂流してしまったため(風まかせの船は、これが辛いですね~)、21日もの船旅になってしまったんですね。
【※】「七島灘」は屋久島と奄美大島間の7つの島がある海域です。
私は神戸→バンクーバーの20間のクルーズをしたことがありますけど、結構ゆとりある船旅でしたね(^o^) 西郷さんも、ヒョッとしてクルーズファンになっていたかも知れないですね(^-^)
★↓は神戸→バンクーバーのクルーズです。
https://4travel.jp/travelogue/10352140 -
西郷さんが奄美大島の龍郷にやってきたときの、住み処とその変遷の図です。
西郷さんは、まず地図の下の方にある①のことろに到着しました。その港の松に船からの縄(ロープ)を繫いだことから「西郷松」と言われています。
船を降りてから、②のところの空き家に住み、愛加那さんと結婚します。その後③のところに家を建てて落ち着いたと言うことですね。
写真を拡大してご覧下さいね。 -
愛加那さんと結婚したのは、1859年の11月とか。西郷さんが離島したのは1862年の1月14日でしたから、愛加那さんとの島での暮らしは2年と少々だったのですね。
愛加那さんとの結婚については、島に来て一般には島の長老たちが西郷さんに不自由をさせないようにと、愛加那さんに身の回りの世話をさせたという話があります。
と言うのも、西郷さんは島の気候や生活に慣れず、酒を飲んだり、島の人々を「毛唐人(けとうじん)」などと言って罵ったりして、はなはだ荒れていたとか。それでは具合が悪いと言うことで(西郷さんを)酔っ払わせておいて、一人の女性を人身御供のように西郷さんの家に入れてしまったとのこと。西郷さんはその責任をとって愛加那さんと、結婚したという話もあります。
まだまだ戦前社会の雰囲気が色濃く残っていた私の子供時代の社会を思い出せば、村の長老や男衆が女性をそのように扱うという話は、なんとなく分かります。
この話を聞きますと、西郷さんの本音としての人柄・レベルが察せられます。また、あの下田の「唐人お吉」と言われたお吉さんのことを思い出します。
米国公使・ハリスの面倒見のために強引に説教されて、米国公使館に行くことになったお吉さんを、周囲の人々は「唐人」「唐人お吉」「らしゃめん」などと言って蔑んだというのです。
(米国側は看護婦を要請したのに、日本は「看護婦」を知らない時代だったので「妾」と思い込み、お吉さんを派遣したのです)。
★愛加那さんの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%8A%A0%E9%82%A3
★お吉さんに関する旅行記は↓にて
https://4travel.jp/travelogue/11072777 -
愛加那さんとの2年少々のラブラブ生活の成果が、こちらのお二人。
その短い期間に二人も子供をつくってしまったなんて、西郷さんも良く頑張ったね~(*^_^*)!(^^)!
写真の上は、ご覧の通り西郷さんの長男です。
ご覧の通りの略歴ですが、12歳の時(明治5年頃?)から約2年半のアメリカ留学をし、西郷さんが命を落とした西南戦争後には、外務省に入って在米公使館員となって青年時代を過ごします。
12歳の頃からの米国留学を含めてのこのような米国経験は、当然のこととしてアメリカの産業や社会、政治システムへの知見を広めたことと思います。そうした知識が、ここにも描いてあるようなインフラ整備に役立ったのかも知れませんね。
娘の菊子さんが生まれたのは、西郷さんが奄美大島を離れた半年後です。西郷さんは可愛い我が娘と会えなかったかと思えば、2度目の遠島(徳之島・沖永良部島、1862年6月~1864年2月21日)となる徳之島へ愛加那さんが連れてきてくれたんですよ。
★西郷菊次郎の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E8%8F%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
★菊子さんのことは、「西郷菊子」または「大山菊子」にて検索してみて下さい。 -
愛加那さんへの手紙かと思って撮影してのですけど、息子・菊次郎に宛てた西郷さんの手紙です(現代用語で書き換えてあります)。
この手紙の日付をみますと、西郷さんが島を出てから7年後のことです。 -
↑の写真では読みにくいので、ちょっと組み替えました。
手紙の宛先氏名は西郷さんの長男、菊次郎になっています。
この時期の西郷さんは病気がちだったのか、「生きている間に一度は会いたい。」と書いていますね。その気持ちは痛いほど分かりますよ!!
私も、「今の内に会っておきたいという方」がたくさんおられます。でも、「もう無理!!!」(>_<)と、自分に言い聞かせております(*_*)(T_T)
この時の菊次郎は、まだ9歳の頃かと思います。今で言えば小学校4年生ほどです。菊次郎が習字で頑張って字会(習字作品の展示会でしょうか?)で高位の成績を取ったことが、西郷さんも嬉しかったようで習字用具を送る手紙を書いたのですね。
現代ならば、「送ったよ~」とメールするだけなので、こういう資料は残りませんね。 -
「奄美・龍郷 島ミュージアム」の見学を終え、バスに乗りました。
台風が近づいているからでしょうか、お天気はよろしくありません(-_-;)
ここは「奄美・龍郷 島ミュージアム」から南に4kmほどのところにある、「ビッグⅡ」という大きなスーパーです。 「ビッグⅠ(ワン)」と言わずに、一歩引いて「ビッグⅡ(ツー)」と名乗ってるところが、奥ゆかしいですね(^^)
「ビッグⅡ」の場所は、Google mapにて、「大島郡龍郷町中勝字奥間前」にて検索されますと分かりますよ。 -
私達は土産物コーナー?を見て回りました。
「黒糖豆」がこんなに積んであります。黒砂糖と一緒に豆を食べている感じです。大の甘党の私の為につくったような菓子だと思いましたね。 -
こっちは「黒糖ピーナッツ」と、「みそぴ~なつ」です。
味噌は身体によいので、これまたお勧めですね。 -
「ばばちゃんの ピーナッツ黒糖」「ばばちゃんの豆な手づくり アーモンド黒糖」「ばばちゃんの豆な手づくり カシュー&アーモンド黒糖」
「ばばちゃん」が丹精込めた手づくり黒糖菓子の色々・・。コレも欲しいですね。
欲しいと思っても、問題はカミさんが買ってくれるかどうかにかかっているのですから、そこが亭主の辛いところですね。
取り敢えず、試食品を頂いてみたのであります!!(^o^)
コクのある黒砂糖の味がピーナッツやアーモンドに絡んで、とっても良かったですよ(^^) -
こちらも黒糖関係のお菓子がたくさん並んでいました。
白砂糖は一種の化学製品のようになってしまって(白い塩も同様)、身体に良くないと言われることが良くありますね。私も色々調べるうちにそう思うようになりました。
しかし、黒砂糖は白砂糖に較べると、身体への悪影響が2割ほど少ないとのことです。また、黒砂糖のコクのある甘味は美味しいと思いますよ。ですから黒糖を使った菓子などは、時々食べたくなります(^^) -
今夜から奄美市名瀬入舟町にある「ホテルウエストコート奄美」に泊まります。
夕食をと思ってレストランへやってきましたら、先客あり(^^)
楽しかった1日を、一杯のビールで締めくくるって幸せなことですね。
★「ホテルウエストコート奄美」のことは↓にて
http://ass-provisional.net/ -
今夜は豚肉のステーキです。
私は豚肉ステーキも大好きです(^^) 鶏肉ステーキも好きなんです(^o^) サーモンステーキも大好き!(^^)! 何しろ、食べることには卑しい人間ですからね。
最近は身体のことを考えて、牛のステーキよりも豚や鶏のステーキを選ぶことが多くなりました。豚肉は牛肉よりビタミンが多いとか。 -
こちらは、デザートです。
こういう甘いアイスも大好き!!
「カメちゃんは、身体のことを言うわりには、何でも食べちゃうんだね?」
そうなんです!!元来が食べることに目がない人間ですからね(^O^) -
お隣の席におられた方にお声を掛けさせて頂いて、私達のテーブルに来ていただきました。同じ旅を楽しんでいるんですからね。
お蔭様で、さらに楽しい夕食会になりましたよ(^-^) -
食事後、雨が止んでいたので、外に出てホテルの正面玄関を撮ってみました。
これじゃあ、サッパリ分かりませんね(^^;) -
私達の部屋からの眺めです。
台風が接近中ですので、お天気は変わり易いです。
きょうはたくさん見学させて頂きました。
泥染め技術保存館では、トヨタ産業技術祈念館で見た目を見張るような超高速機織り技術のある時代に、昔からの手法を守り続けることで、大島絣の素晴らしい品質を世に送り出していることに感心しました。
奄美パークででは、過ぎし日の人々の暮らしぶりを拝見し、私自身の子供の頃を思い出しました。幸せだったあの頃の想いと合わせて本当に嬉しく思いました。
田中一村のことを全く知らなかった私でしたが、その後感じたこととして一村は美術家としての並外れた作画能力を若いときから持っていた人だと思いました。私が心打たれたのは、一村がその「並外れた作画能力」を、世間の月並みな評価に妥協することなくせず絵の真実を求め続けたことです。そうです!!「生活の為の奴隷」になることを拒否して、絵描きとして、人として、「絵描きの値打ち」を求め続けた人でした。初めて知った一村でしたが、私は一村の真剣な姿勢に心打たれたのでした。
言いにくいことですが、日本の人と社会が未熟なために、一村のような努力家は社会から孤立しやすいです。
龍郷町生涯学習センターでは、これまで知らなかった奄美の歴史に触れることが出来て、とても良かったと思っています。
縄文時代からの遺跡があるなど、本当に勉強になりました。
最後に、嬉しかったことを一言!!
奄美に来て、私の念願だった豚のステーキが漸く食べられました!!それも、豚肉らしく柔らかく、お味も良かった!!
勉強にもなり、楽しくもあった2日目の旅。
ここで、終わりです(^^)/~~~
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