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4年ぶりに新見南吉にふれて、また新たな印象を感じました。<br />南吉の才能に改めて驚きましたし、前回あまり触れなかった南吉個人の姿も少しだけ分かってきたような気がします。<br /><br />そして、南吉研究の本も少し読んでみました。これは意外でした。<br />作品研究と言うよりも、南吉の個人研究みたいな感触がして・・。もちろん、それは特色ある南吉作品を解明するためかと思いますけど・・。でも、もう少し広い視点で、南吉作品の特徴を議論して欲しかったなぁという印象をもちましたね。<br /><br />さて、午後は南吉が暮らした地域を見て回ります。

新美南吉を訪ねて(その2・新見南吉の里・最終回)

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2013/11/08 - 2013/11/08

47位(同エリア419件中)

6

92

カメちゃん

カメちゃんさん

4年ぶりに新見南吉にふれて、また新たな印象を感じました。
南吉の才能に改めて驚きましたし、前回あまり触れなかった南吉個人の姿も少しだけ分かってきたような気がします。

そして、南吉研究の本も少し読んでみました。これは意外でした。
作品研究と言うよりも、南吉の個人研究みたいな感触がして・・。もちろん、それは特色ある南吉作品を解明するためかと思いますけど・・。でも、もう少し広い視点で、南吉作品の特徴を議論して欲しかったなぁという印象をもちましたね。

さて、午後は南吉が暮らした地域を見て回ります。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
友人
交通手段
レンタカー 徒歩
  • これは南吉作品の中でも代表作として関心の高い、「手袋を買ひに」の母子狐ですね。<br /><br />台座には、<br />「『坊、間違へてほんたうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの』と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。」<br />と南吉の字で書いてありました。

    これは南吉作品の中でも代表作として関心の高い、「手袋を買ひに」の母子狐ですね。

    台座には、
    「『坊、間違へてほんたうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの』と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。」
    と南吉の字で書いてありました。

  • まず、新美南吉記念館の周りを見てみましょう。<br /><br />これは「ごん」が隠れた六地蔵さんですね。<br />見たところ新しいですよ。<br /><br />六地蔵さんの後ろ(黄色と黒のロープのあるところ)には、「花のき広場」へ行く歩道があります。

    まず、新美南吉記念館の周りを見てみましょう。

    これは「ごん」が隠れた六地蔵さんですね。
    見たところ新しいですよ。

    六地蔵さんの後ろ(黄色と黒のロープのあるところ)には、「花のき広場」へ行く歩道があります。

  • 六地蔵付近から見た新美南吉記念館です。<br /><br />このように緩い丘のような形をしていますので、初めて来た人には分かりにくいですよ。

    六地蔵付近から見た新美南吉記念館です。

    このように緩い丘のような形をしていますので、初めて来た人には分かりにくいですよ。

  • 六地蔵の裏手(南側)は「童話の森」になっています。<br /><br />私も「花のき広場」まで行ってみました。

    六地蔵の裏手(南側)は「童話の森」になっています。

    私も「花のき広場」まで行ってみました。

  • 「花のき広場」へ行く途中、こんな立て看板がありました。

    「花のき広場」へ行く途中、こんな立て看板がありました。

  • 立て看板の詳しい内容です。<br />

    立て看板の詳しい内容です。

  • 「花のき広場」に到着したようです。<br /><br />そこには、二つの石に文章が刻んでありました。<br />これは「権狐草稿碑」と言われているようです。<br /><br />ちょっと見てみますかね。

    「花のき広場」に到着したようです。

    そこには、二つの石に文章が刻んでありました。
    これは「権狐草稿碑」と言われているようです。

    ちょっと見てみますかね。

  • こちらには、この碑を建立した経緯が書いてありました。<br /><br />童話や童謡などを書いてきた新美南吉に関わる施設にしては、ちょっと達筆すぎますね。<br /><br />これでは、新見南吉記念館の主な来訪者である子供たちには、ちょっと分かりにくいですよね。読みやすいように、楷書で書いて欲しいですね。

    こちらには、この碑を建立した経緯が書いてありました。

    童話や童謡などを書いてきた新美南吉に関わる施設にしては、ちょっと達筆すぎますね。

    これでは、新見南吉記念館の主な来訪者である子供たちには、ちょっと分かりにくいですよね。読みやすいように、楷書で書いて欲しいですね。

  • 「ごんぎつね」の下書きと見られる文章が、石の表面に彫り込んでありました(拡大してご覧下さいね)。<br />ここに書いてある文章は、(その1)でご紹介しましたノートに書いてある下書きとは全く違っています。<br /><br />ノートの方の書き出しでは、「茂助と云ふお爺さんが・・」と言う書き出しになっていました。1ページの中に「茂助爺」という言葉が何度も書いてありましたね。<br />それが、こちらの書き出しでは「むかし、徳川様が、世をお治めになってゐられた頃に・・」となっています。<br /><br />どちらが先に書かれたのかは分かりませんが、南吉はこの書き出し部分でだいぶ迷ったようですね。それとも、「赤い鳥」の編集者から書き換えを求められたのか?そこは、私には分かりません。<br />この二つの書き出しを較べると、「徳川様・・」の文章は取って付けたような印象がします。「茂助爺・・」の方が気持ちに馴染みやすいですね。<br /><br />(その1)でも触れましたが、「ごんぎつね」の最終原稿が残っていないので確たることは言えないものの、この書き出し部分全体が鈴木三重吉などによってカットされていると推定する研究者が多いようです。南吉自身が「ごんぎつね」の冒頭部分で考え方が揺れ動いていたのを見ますと、そのカットの理由が分かるような気がします。<br /><br />現在の学校教科書では、「ごんぎつね」の冒頭部分がどのように扱われているのか?興味あるところです。<br /><br />★↓はノートに下書きされていた「ごんぎつね(権狐)」です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31945302

    「ごんぎつね」の下書きと見られる文章が、石の表面に彫り込んでありました(拡大してご覧下さいね)。
    ここに書いてある文章は、(その1)でご紹介しましたノートに書いてある下書きとは全く違っています。

    ノートの方の書き出しでは、「茂助と云ふお爺さんが・・」と言う書き出しになっていました。1ページの中に「茂助爺」という言葉が何度も書いてありましたね。
    それが、こちらの書き出しでは「むかし、徳川様が、世をお治めになってゐられた頃に・・」となっています。

    どちらが先に書かれたのかは分かりませんが、南吉はこの書き出し部分でだいぶ迷ったようですね。それとも、「赤い鳥」の編集者から書き換えを求められたのか?そこは、私には分かりません。
    この二つの書き出しを較べると、「徳川様・・」の文章は取って付けたような印象がします。「茂助爺・・」の方が気持ちに馴染みやすいですね。

    (その1)でも触れましたが、「ごんぎつね」の最終原稿が残っていないので確たることは言えないものの、この書き出し部分全体が鈴木三重吉などによってカットされていると推定する研究者が多いようです。南吉自身が「ごんぎつね」の冒頭部分で考え方が揺れ動いていたのを見ますと、そのカットの理由が分かるような気がします。

    現在の学校教科書では、「ごんぎつね」の冒頭部分がどのように扱われているのか?興味あるところです。

    ★↓はノートに下書きされていた「ごんぎつね(権狐)」です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31945302

  • 「花のき広場」から帰ってきてから、記念館近くにも石の碑のあるのを見つけました。<br /><br />天皇夫妻が来た時の記念のようです。<br />ちょっと見てみましょうか。

    「花のき広場」から帰ってきてから、記念館近くにも石の碑のあるのを見つけました。

    天皇夫妻が来た時の記念のようです。
    ちょっと見てみましょうか。

  • ちょっと見にくいですが、「デンデンムシノカナシミ」の原稿文が彫り込んであります。<br />それを、ご紹介しましょう。<br /><br />「イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。<br /> アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。<br />『ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ』<br /> コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。<br /> デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ ヤツテ イキマシタ。<br />『ワタシハ モウ イキテ ヰラレマセン』」<br /><br />以上が彫り込んであった文章です。<br />日付は「10・5・15」となっていて、南吉が東京外国語学校在学中の22歳の時の作品です。南吉はこの前の年に最初の喀血をしています。また、この翌年にも2度目の喀血をしています。<br />そんな身体でも、これといった治療もせず、生活費と学費を得るために童話や小説を書いていた中での作品ですから、南吉の気持ちが出ているような気がしますね。

    ちょっと見にくいですが、「デンデンムシノカナシミ」の原稿文が彫り込んであります。
    それを、ご紹介しましょう。

    「イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。
     アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。
    『ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ』
     コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。
     デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ ヤツテ イキマシタ。
    『ワタシハ モウ イキテ ヰラレマセン』」

    以上が彫り込んであった文章です。
    日付は「10・5・15」となっていて、南吉が東京外国語学校在学中の22歳の時の作品です。南吉はこの前の年に最初の喀血をしています。また、この翌年にも2度目の喀血をしています。
    そんな身体でも、これといった治療もせず、生活費と学費を得るために童話や小説を書いていた中での作品ですから、南吉の気持ちが出ているような気がしますね。

  • 南吉の生家へやって来ました。<br />左側の平屋の家がそうです。<br /><br />南吉の時代では、この道は「街道」だったようで、真っ直ぐに行きますと知多半島の先端の港町・師崎(もろざき)へ通じていたのです。<br /><br />★↓は師崎港のある場所です。<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.697678,136.973376&amp;spn=0.005297,0.005794&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,00047b5d5762a4354cc1a,34.697696,136.972561,0,-32

    南吉の生家へやって来ました。
    左側の平屋の家がそうです。

    南吉の時代では、この道は「街道」だったようで、真っ直ぐに行きますと知多半島の先端の港町・師崎(もろざき)へ通じていたのです。

    ★↓は師崎港のある場所です。
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.697678,136.973376&spn=0.005297,0.005794&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,00047b5d5762a4354cc1a,34.697696,136.972561,0,-32

  • 「新美南吉の生家」の説明板です。<br />拡大してご覧下さいね。<br /><br />この説明によれば、南吉はここで生まれたようです。<br />左下の間取り図ですが1階と2階になっていますけれど、↑の写真が2階部分になります。感覚的には、この間取り図の2階が“1階”で、間取り図の1階は、「1階の階下(階段の下)」という風に見えます。<br /><br />説明がややこしいので、間取り図の説明もこうなったと思いますが、チョット分かりにくいですね。<br /><br />左下のカラー地図は、左側が北の方角になります。<br />この地図は、“北”を上にした表示にすべきですね。

    「新美南吉の生家」の説明板です。
    拡大してご覧下さいね。

    この説明によれば、南吉はここで生まれたようです。
    左下の間取り図ですが1階と2階になっていますけれど、↑の写真が2階部分になります。感覚的には、この間取り図の2階が“1階”で、間取り図の1階は、「1階の階下(階段の下)」という風に見えます。

    説明がややこしいので、間取り図の説明もこうなったと思いますが、チョット分かりにくいですね。

    左下のカラー地図は、左側が北の方角になります。
    この地図は、“北”を上にした表示にすべきですね。

  • ↑の説明板のさらに左側には、このような石碑が建っていました。<br /><br />南吉はこの地で育ったということですね。<br /><br />★南吉の生家の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.909867,136.923892&amp;spn=0.001171,0.001155&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,00047d6a34e98db49907e,34.910035,136.923688,0,-32

    ↑の説明板のさらに左側には、このような石碑が建っていました。

    南吉はこの地で育ったということですね。

    ★南吉の生家の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.909867,136.923892&spn=0.001171,0.001155&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,00047d6a34e98db49907e,34.910035,136.923688,0,-32

  • 南吉生家の中に入りました。<br /><br />ここは居間ですね。<br />ただ、南吉の継母が来てから、継母がここで下駄を売る商売をはじめましたから、部屋の土間側がお店になっていたようです。<br /><br />向こうの壁側の棚には行李やラジオ・カンテラがあり、その下には土瓶や小机・火鉢あって、とても懐かしい感じがしました。<br />特に、あの火鉢が懐かしいです!!私達が子供の頃の冬の暖房といえば、あの火鉢でしたからね。餅も焼きましたし、ぎんなんも焼きましたね。もちろん、やかんをかけてお湯も沸かしました。<br /><br />田舎生まれの、現在の「前期高齢者」以上の方々であれば、子供時代にこのような生活用具を見たり、実際に使ったりした体験もあると思います。

    南吉生家の中に入りました。

    ここは居間ですね。
    ただ、南吉の継母が来てから、継母がここで下駄を売る商売をはじめましたから、部屋の土間側がお店になっていたようです。

    向こうの壁側の棚には行李やラジオ・カンテラがあり、その下には土瓶や小机・火鉢あって、とても懐かしい感じがしました。
    特に、あの火鉢が懐かしいです!!私達が子供の頃の冬の暖房といえば、あの火鉢でしたからね。餅も焼きましたし、ぎんなんも焼きましたね。もちろん、やかんをかけてお湯も沸かしました。

    田舎生まれの、現在の「前期高齢者」以上の方々であれば、子供時代にこのような生活用具を見たり、実際に使ったりした体験もあると思います。

  • 道路側の方の様子です。<br /><br />この家は“縁側”がないですね。<br />この家の屋敷(敷地)の形が道路に沿って細長く、家の裏側になる畑側の方が一段低くなっているために、縁側を付ける余裕がなかったみたいですね。<br /><br />↑でも触れましたが、この部屋は居間と同時に下駄を売るお店でもあったのです。南吉の継母「志ん」はここで下駄屋をはじめたのです。ガラス戸棚があって商売品である下駄などのはき物が陳列されていたのも、そのためでした。<br /><br />南吉の童話「狐」に何度も登場している道ばたの「下駄屋さん」は、「お宮」とか「山車」と併せてこの家をイメージしていると思われますね。南吉の小説「雀」「帰郷」の舞台にもなっているとのことです。

    道路側の方の様子です。

    この家は“縁側”がないですね。
    この家の屋敷(敷地)の形が道路に沿って細長く、家の裏側になる畑側の方が一段低くなっているために、縁側を付ける余裕がなかったみたいですね。

    ↑でも触れましたが、この部屋は居間と同時に下駄を売るお店でもあったのです。南吉の継母「志ん」はここで下駄屋をはじめたのです。ガラス戸棚があって商売品である下駄などのはき物が陳列されていたのも、そのためでした。

    南吉の童話「狐」に何度も登場している道ばたの「下駄屋さん」は、「お宮」とか「山車」と併せてこの家をイメージしていると思われますね。南吉の小説「雀」「帰郷」の舞台にもなっているとのことです。

  • そして、先ほどから見えているこの火鉢です。<br /><br />結核に身体を冒された南吉が、真冬の1月にこの火鉢にあたりながら、最後の力を振り絞って「狐」や「小さい太郎の悲しみ」「疣」「天狗(中途で未完)」を書いたと言われています。<br /><br />あの頃の暖房と言えば、このような火鉢しかありませんでした。綿入りのはんてんを着て、背中を丸めるようにして火鉢に手をかざしたものです。もちろん、部屋全体が暖まることはホンの僅かで、手は暖まれども、身体まではあまり暖まりません。<br /><br />医者もあきらめた結核の身体で、火鉢に手をかざし乍ら童話を書く南吉には、書くことが「生きている」こと同じ感覚だったと思います。なぜなら、小学校の時から求められなくても書いてきた人ですからね。<br />「使命感」という言い方もあるかと思いますが、それだったら、或る時点で捨てることも諦めることも出来ますからね(もちろん、捨てたり諦めたりしないから“使命感”と言うのでしょうけど)。

    そして、先ほどから見えているこの火鉢です。

    結核に身体を冒された南吉が、真冬の1月にこの火鉢にあたりながら、最後の力を振り絞って「狐」や「小さい太郎の悲しみ」「疣」「天狗(中途で未完)」を書いたと言われています。

    あの頃の暖房と言えば、このような火鉢しかありませんでした。綿入りのはんてんを着て、背中を丸めるようにして火鉢に手をかざしたものです。もちろん、部屋全体が暖まることはホンの僅かで、手は暖まれども、身体まではあまり暖まりません。

    医者もあきらめた結核の身体で、火鉢に手をかざし乍ら童話を書く南吉には、書くことが「生きている」こと同じ感覚だったと思います。なぜなら、小学校の時から求められなくても書いてきた人ですからね。
    「使命感」という言い方もあるかと思いますが、それだったら、或る時点で捨てることも諦めることも出来ますからね(もちろん、捨てたり諦めたりしないから“使命感”と言うのでしょうけど)。

  • ↑の写真の右奥の方です。<br /><br />一番奥には、ちょっと狭い「居間」がありました。<br />私の実家とは造りが違っていましたね。あの頃の多くの家では土間に入ると左または右に、大黒柱を中心に4つの部屋が配置されていた家が多かったですね。<br />南吉の生家は、それとはちょっと違っていました。<br /><br />南吉の父・多蔵は読書好きだったようで、講談などの本を貸本屋から借りては読んでいたようです。とにかく、多蔵は貸本屋の常連だったようです。<br />南吉の本名「正八」は、その講談の中に出てくる英雄・梁川庄八にちなんで付けられたと言うほどですからね。<br /><br />講談の本は、まぁ大人の童話みたいなところがありますから、南吉の父親がこのような本を好んで家に置いていたことも、南吉の成長に影響があったかも知れませんね。

    ↑の写真の右奥の方です。

    一番奥には、ちょっと狭い「居間」がありました。
    私の実家とは造りが違っていましたね。あの頃の多くの家では土間に入ると左または右に、大黒柱を中心に4つの部屋が配置されていた家が多かったですね。
    南吉の生家は、それとはちょっと違っていました。

    南吉の父・多蔵は読書好きだったようで、講談などの本を貸本屋から借りては読んでいたようです。とにかく、多蔵は貸本屋の常連だったようです。
    南吉の本名「正八」は、その講談の中に出てくる英雄・梁川庄八にちなんで付けられたと言うほどですからね。

    講談の本は、まぁ大人の童話みたいなところがありますから、南吉の父親がこのような本を好んで家に置いていたことも、南吉の成長に影響があったかも知れませんね。

  • 私が描いた下手な絵ですが、あの頃の農家の間取りによくある形です。<br /><br />このような間取りの取り方は「田の字形式」「四間取り形式」と言われるようです。<br /><br />「ほらあな」とは、縁の下の地面に掘ってある畳一枚ほどの広さで、深さ7、80cmほどの穴です。そこにお米を脱穀して出た“籾”を入れ、その中にサツマイモを保存するのです。土間の物置には、それぞれ時期によって、色々なものが保管されます。<br /><br />“だいどころ”と“おでえ”の間の襖は、外して一つの広い広い部屋にすることが出来ます(14〜16畳くらいが普通)。<br /><br />4つの部屋は戸や障子・襖で仕切られておりますから、真ん中にある大黒柱に縄をかけることが出来ます。<br />親たちが農作業にでる時は幼児を連れて行けないので、幼児の身体に縄をかけ、一方の縄の端を幼児が土間などに落ちない長さにして大黒柱に結わえてから、農作業に出たという話も聞きました。そうすれば子供が土間に落ちることもなく、1人でいても安全ですからね。<br /><br />★この件では、「農家の間取 愛知県の農家の様式」で検索されますと、似たような間取りが幾つか出てくると思います。

    私が描いた下手な絵ですが、あの頃の農家の間取りによくある形です。

    このような間取りの取り方は「田の字形式」「四間取り形式」と言われるようです。

    「ほらあな」とは、縁の下の地面に掘ってある畳一枚ほどの広さで、深さ7、80cmほどの穴です。そこにお米を脱穀して出た“籾”を入れ、その中にサツマイモを保存するのです。土間の物置には、それぞれ時期によって、色々なものが保管されます。

    “だいどころ”と“おでえ”の間の襖は、外して一つの広い広い部屋にすることが出来ます(14〜16畳くらいが普通)。

    4つの部屋は戸や障子・襖で仕切られておりますから、真ん中にある大黒柱に縄をかけることが出来ます。
    親たちが農作業にでる時は幼児を連れて行けないので、幼児の身体に縄をかけ、一方の縄の端を幼児が土間などに落ちない長さにして大黒柱に結わえてから、農作業に出たという話も聞きました。そうすれば子供が土間に落ちることもなく、1人でいても安全ですからね。

    ★この件では、「農家の間取 愛知県の農家の様式」で検索されますと、似たような間取りが幾つか出てくると思います。

  • 当時の「わらじ」ですね。<br />下駄やさんですからね、わらじも売っています(^^)<br /><br />私の実家でも、私が小学校低学年の頃までは父が「わらじ」を作っていました。<br />農村部の生活の実際は、大都市部と違って昭和20年代の後半の頃(サンフランシスコ講和条約がが締結された頃)でも、江戸時代や明治時代の名残をかなり残していたと思います。<br /><br />★↓は高山の陣屋の様子です。&gt;マークをクリックされて、4、5枚の写真をご覧下さい。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=22038555

    当時の「わらじ」ですね。
    下駄やさんですからね、わらじも売っています(^^)

    私の実家でも、私が小学校低学年の頃までは父が「わらじ」を作っていました。
    農村部の生活の実際は、大都市部と違って昭和20年代の後半の頃(サンフランシスコ講和条約がが締結された頃)でも、江戸時代や明治時代の名残をかなり残していたと思います。

    ★↓は高山の陣屋の様子です。>マークをクリックされて、4、5枚の写真をご覧下さい。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=22038555

  • スマートな形と鼻緒の色からして、女性用の下駄のようですね。<br /><br />下駄は日本特有の風流な文化だと思いますが、最近では下駄を履く機会が無くなってきていますね。<br />私は独身の頃、一時期を除いて車を持たなかったので、下駄を愛用しました。周囲から「下駄男」なんていわれたこともありました。デートの時も真新しい下駄を降ろしていったモンです(職場の先輩に笑われましたけどね)。<br /><br />★あの時も下駄を履いて行きました(^o^)。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=18830390

    スマートな形と鼻緒の色からして、女性用の下駄のようですね。

    下駄は日本特有の風流な文化だと思いますが、最近では下駄を履く機会が無くなってきていますね。
    私は独身の頃、一時期を除いて車を持たなかったので、下駄を愛用しました。周囲から「下駄男」なんていわれたこともありました。デートの時も真新しい下駄を降ろしていったモンです(職場の先輩に笑われましたけどね)。

    ★あの時も下駄を履いて行きました(^o^)。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=18830390

  • 懐かしい時計ですね。<br /><br />私が子供の時の実家の時計と殆ど同型です。<br />?と?のところの丸い穴は、ネジ(ゼンマイ)巻き用の穴ですよ。そう、時々ネジを巻いたものです。

    懐かしい時計ですね。

    私が子供の時の実家の時計と殆ど同型です。
    ?と?のところの丸い穴は、ネジ(ゼンマイ)巻き用の穴ですよ。そう、時々ネジを巻いたものです。

  • ここにも、南吉の生家という説明がありました。<br /><br />ここにも書いてありますように、消えゆく命と闘いながら「耳」や「狐」・「小さい太郎の悲しみ」「疣」「天狗(中途絶筆)」などを、この家で書いたのですね〜(T_T)<br /><br />南吉は3度この家を離れています。<br />一度目は東京外国語学校入学(昭和7年4月)から2回目の喀血の翌月(昭和11年11月)までの4年半余を東京で過ごしています。 2度目は、杉治商店で住み込みで働いていた時です。3度目は安城高等女学校教師時代の昭和14年4月から、病状が悪化してきた昭和17年10月頃までの約3年半で、安城市内の下宿でで過ごしていたようです。<br /><br />しかし、そのどれもが体調が悪くなって、この家に帰ってきたのですから、この家で過ごす南吉の心には重苦しいものがあったと思いますね。<br />実際、昭和11年秋の2度目の喀血の後に帰ってきてからは、継母から「いい若いモンがゴロゴロ寝ころんで……英語が出来てもなんにもならん。いい穀潰しだよ」というようなイヤミを言われるなど、南吉を巡って家庭不和が絶えなかったというのです。<br /><br />よほど良い人でない限り、これが普通の田舎の雰囲気だったと言っても過言ではないですね。

    ここにも、南吉の生家という説明がありました。

    ここにも書いてありますように、消えゆく命と闘いながら「耳」や「狐」・「小さい太郎の悲しみ」「疣」「天狗(中途絶筆)」などを、この家で書いたのですね〜(T_T)

    南吉は3度この家を離れています。
    一度目は東京外国語学校入学(昭和7年4月)から2回目の喀血の翌月(昭和11年11月)までの4年半余を東京で過ごしています。 2度目は、杉治商店で住み込みで働いていた時です。3度目は安城高等女学校教師時代の昭和14年4月から、病状が悪化してきた昭和17年10月頃までの約3年半で、安城市内の下宿でで過ごしていたようです。

    しかし、そのどれもが体調が悪くなって、この家に帰ってきたのですから、この家で過ごす南吉の心には重苦しいものがあったと思いますね。
    実際、昭和11年秋の2度目の喀血の後に帰ってきてからは、継母から「いい若いモンがゴロゴロ寝ころんで……英語が出来てもなんにもならん。いい穀潰しだよ」というようなイヤミを言われるなど、南吉を巡って家庭不和が絶えなかったというのです。

    よほど良い人でない限り、これが普通の田舎の雰囲気だったと言っても過言ではないですね。

  • 生家に飾ってあった南吉の写真です。<br /><br />左が小学校卒業時の写真で、右は中学卒業後の半田第二尋常小学校での代用教員の頃のものです。凛々しい顔をした少年&青年でしたね。<br /><br />南吉の継母については、南吉にイヤミを繰り返し言ったことが多々取り上げられていますし、私もその一部を書きました。<br />しかし、継母のそうした言動は、普通の人々の日常会話(生活感情・生活意識)そのものであって、南吉の継母が普通の人より悪い人ではないと思います。具体的な人間関係や言葉の現れ方こそ違えど、今でもどこでも見られることだと思っています。<br />継母の一般的な姿は、世間ではどちらかと言えばよく評価されていたようです。<br /><br />ただ、南吉にとって気の毒だったことは、実母の言うイヤミや小言だったら何でも言い合って来られたものを、継母ゆえにそれが出来ず、胸の中に蓄積してしまったことですね。それと、身体が弱かったことでしょうか。<br />いずれにしても、南吉の不幸は生母が早くに亡くなったことに尽きると思います。

    生家に飾ってあった南吉の写真です。

    左が小学校卒業時の写真で、右は中学卒業後の半田第二尋常小学校での代用教員の頃のものです。凛々しい顔をした少年&青年でしたね。

    南吉の継母については、南吉にイヤミを繰り返し言ったことが多々取り上げられていますし、私もその一部を書きました。
    しかし、継母のそうした言動は、普通の人々の日常会話(生活感情・生活意識)そのものであって、南吉の継母が普通の人より悪い人ではないと思います。具体的な人間関係や言葉の現れ方こそ違えど、今でもどこでも見られることだと思っています。
    継母の一般的な姿は、世間ではどちらかと言えばよく評価されていたようです。

    ただ、南吉にとって気の毒だったことは、実母の言うイヤミや小言だったら何でも言い合って来られたものを、継母ゆえにそれが出来ず、胸の中に蓄積してしまったことですね。それと、身体が弱かったことでしょうか。
    いずれにしても、南吉の不幸は生母が早くに亡くなったことに尽きると思います。

  • これも生家に飾ってありました。<br /><br />左は東京外国語学校卒業の頃の写真で、右は半田第二尋常小学校時代の写真です。↑の右の写真と殆ど同じ時期の写真ですが、こちらは何かの記念でしょうか?ちゃんとした服装です。

    これも生家に飾ってありました。

    左は東京外国語学校卒業の頃の写真で、右は半田第二尋常小学校時代の写真です。↑の右の写真と殆ど同じ時期の写真ですが、こちらは何かの記念でしょうか?ちゃんとした服装です。

  • 南吉の父、多蔵の畳づくりの仕事場です。<br />こんな狭い台の上で、一枚一枚作るんですね。<br /><br />本来なら、畳表用のイ草とか、畳縁とか、稲藁とか、或いはそれらの中間製品などが所狭しと置いてあるんでしょうが、そういう状況にはなっていないですね。<br /><br />多蔵は口数の少ない人だったようです。それに較べて継母は口数の多い人だったとか。<br />「男は黙って・・」と言うのが、男のあるべき姿ですよね〜(^^)<br />でもね、ここ一番という時には全身全霊を傾けて、ちょっとだけ意見を言ってもいいのですよね。<br />継母も普通の人であれば、時々は不満や愚痴にイヤミを言ったりしてしまうもの。南吉の療養にも厳しいイヤミを言った時には、南吉の実父である多蔵は「バシッ!!」と注意すべきですよね。<br /><br />多蔵はそんな大事な時にも、無口だったようです。<br />南吉のもう一つの不幸は、父親のそうした資質にあったかと思われてしまうのです。

    南吉の父、多蔵の畳づくりの仕事場です。
    こんな狭い台の上で、一枚一枚作るんですね。

    本来なら、畳表用のイ草とか、畳縁とか、稲藁とか、或いはそれらの中間製品などが所狭しと置いてあるんでしょうが、そういう状況にはなっていないですね。

    多蔵は口数の少ない人だったようです。それに較べて継母は口数の多い人だったとか。
    「男は黙って・・」と言うのが、男のあるべき姿ですよね〜(^^)
    でもね、ここ一番という時には全身全霊を傾けて、ちょっとだけ意見を言ってもいいのですよね。
    継母も普通の人であれば、時々は不満や愚痴にイヤミを言ったりしてしまうもの。南吉の療養にも厳しいイヤミを言った時には、南吉の実父である多蔵は「バシッ!!」と注意すべきですよね。

    多蔵はそんな大事な時にも、無口だったようです。
    南吉のもう一つの不幸は、父親のそうした資質にあったかと思われてしまうのです。

  • 作業場隅の板の間に、箪笥と畳の材料?でしょうか?<br />あの箪笥には、作業着とか、ちょっとした書類とかが入っていたのでしょうか。

    作業場隅の板の間に、箪笥と畳の材料?でしょうか?
    あの箪笥には、作業着とか、ちょっとした書類とかが入っていたのでしょうか。

  • これは、畳づくりに使われる道具かと思います。<br /><br />南吉も昭和11年秋に、喀血後仕事を辞めて帰ってきたのですが、療養していると、継母に横着をしているように見られてイヤミを言われ、父親の畳づくりの仕事を手伝ったようです。

    これは、畳づくりに使われる道具かと思います。

    南吉も昭和11年秋に、喀血後仕事を辞めて帰ってきたのですが、療養していると、継母に横着をしているように見られてイヤミを言われ、父親の畳づくりの仕事を手伝ったようです。

  • 当時の?自転車です。<br /><br />畳屋に下駄屋を営んでいた渡辺家には、必須の交通手段だったことと思います。<br />自転車自体は、昔も今もあんまり変わりませんね。

    当時の?自転車です。

    畳屋に下駄屋を営んでいた渡辺家には、必須の交通手段だったことと思います。
    自転車自体は、昔も今もあんまり変わりませんね。

  • 階下への降り口です。<br /><br />↑で見た間取り図では、下に見えるところが1階で、この時私たちのいるところが2階になっています。<br />あの丸く見えるところは井戸で、手押しポンプが付けられていますね。<br />これも懐かしいです。<br /><br />私の実家では、早くから屋根に太陽熱温水器を付けたので、このような形のポンプから、少し大型の「手押し押し上げポンプ」に変わりました。ですから、お風呂に水を運ぶことは早くになくなりました。

    階下への降り口です。

    ↑で見た間取り図では、下に見えるところが1階で、この時私たちのいるところが2階になっています。
    あの丸く見えるところは井戸で、手押しポンプが付けられていますね。
    これも懐かしいです。

    私の実家では、早くから屋根に太陽熱温水器を付けたので、このような形のポンプから、少し大型の「手押し押し上げポンプ」に変わりました。ですから、お風呂に水を運ぶことは早くになくなりました。

  • 【※】ここは階下(1階)です。<br /><br />これは煮炊きをする「くど(竃・かまど)」です。<br /><br />私の昔の実家では、真ん中に茶釜用の小さい釜口がありましたよ。両側の焚き口の火(煙)が茶釜用の釜口を経由して煙突に抜けるようになっていたのですよ。

    【※】ここは階下(1階)です。

    これは煮炊きをする「くど(竃・かまど)」です。

    私の昔の実家では、真ん中に茶釜用の小さい釜口がありましたよ。両側の焚き口の火(煙)が茶釜用の釜口を経由して煙突に抜けるようになっていたのですよ。

  • 【※】ここは階下(1階)です。<br /><br />これは流し台ですね。<br /><br />これでは、使用状態を表していないですね。<br />井戸から来るパイプの先の高さは、普通の蛇口の高さにしておいて欲しいですね。<br />流し台上にある“ざる”も1つだけにして、跡は物置の方に置いて欲しいです。ここに住んでいたという「生活の匂い」を醸し出す工夫をして欲しいモンですね。<br /><br />これらの“ざる”のうち、一番下の”ざる”に似たものに「箕(み)」というものがあります(ヨーロッパでも同じようなものがあったようです)。<br /><br />★箕(み)と言う農具もご覧下さい。<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95

    【※】ここは階下(1階)です。

    これは流し台ですね。

    これでは、使用状態を表していないですね。
    井戸から来るパイプの先の高さは、普通の蛇口の高さにしておいて欲しいですね。
    流し台上にある“ざる”も1つだけにして、跡は物置の方に置いて欲しいです。ここに住んでいたという「生活の匂い」を醸し出す工夫をして欲しいモンですね。

    これらの“ざる”のうち、一番下の”ざる”に似たものに「箕(み)」というものがあります(ヨーロッパでも同じようなものがあったようです)。

    ★箕(み)と言う農具もご覧下さい。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95

  • 【※】ここは階下(1階)です。<br /><br />階下の左側の小部屋です。<br />南吉家族はここで食事をしたとのことです。<br />もちろん食事だけでなく、ここで休憩したり本を読んだりもしたとのことです。

    【※】ここは階下(1階)です。

    階下の左側の小部屋です。
    南吉家族はここで食事をしたとのことです。
    もちろん食事だけでなく、ここで休憩したり本を読んだりもしたとのことです。

  • 【※】ここは階下(1階)です。<br /><br />ここに風呂桶が置いてあります。<br />この風呂桶には穴が2つありますから、“鉄砲風呂”といわれる形の木桶風呂ですね。<br /><br />私の子供の頃の実家の風呂(木桶風呂)は、鉄砲風呂と違って、五右衛門風呂でした。ただ釜の形が深さ7〜8cm、直径70〜80cmほど鉄釜を伏せたようなものだったのです(丸い平型の釜)、釜と木桶隙を布の縄で埋めながら固定していました。そういう訳で、風呂桶の下に焚き口がある構造なのでした。<br /><br />これですと、追いだきをすると釜が熱くなりますから「底板」を入れ、人はその上に乗って入ります。五右衛門風呂の形は本当に様々です。<br /><br />★風呂の詳しいことは↓にて(木桶風呂の項目をご覧下さい))<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82#.E9.87.9C.E9.A2.A8.E5.91.82

    【※】ここは階下(1階)です。

    ここに風呂桶が置いてあります。
    この風呂桶には穴が2つありますから、“鉄砲風呂”といわれる形の木桶風呂ですね。

    私の子供の頃の実家の風呂(木桶風呂)は、鉄砲風呂と違って、五右衛門風呂でした。ただ釜の形が深さ7〜8cm、直径70〜80cmほど鉄釜を伏せたようなものだったのです(丸い平型の釜)、釜と木桶隙を布の縄で埋めながら固定していました。そういう訳で、風呂桶の下に焚き口がある構造なのでした。

    これですと、追いだきをすると釜が熱くなりますから「底板」を入れ、人はその上に乗って入ります。五右衛門風呂の形は本当に様々です。

    ★風呂の詳しいことは↓にて(木桶風呂の項目をご覧下さい))
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82#.E9.87.9C.E9.A2.A8.E5.91.82

  • 昔はこれでしたね。<br /><br />“おでえ”と“へや”には天井板がありましたが、ほかの部屋にはそれもなかったですね。<br />あたたかい時期になると、あの太い木の上をヘビが這っていたりしたモンです(&gt;_&lt;)<br />たまに、そのヘビが落ちてきたなんて言う話も聞いたモンです。マムシだったら、大へんですよね(*_*)<br />

    昔はこれでしたね。

    “おでえ”と“へや”には天井板がありましたが、ほかの部屋にはそれもなかったですね。
    あたたかい時期になると、あの太い木の上をヘビが這っていたりしたモンです(>_<)
    たまに、そのヘビが落ちてきたなんて言う話も聞いたモンです。マムシだったら、大へんですよね(*_*)

  • 南吉の家のトイレは、屋外にあったのですね。<br /><br />この屋外トイレというのが曲者で、夜になるとトイレに行くのが怖くなるのですよ!!(=_=)<br />当時の小・中学校の先生なんて(特に中学の先生)、授業の時間に怖い話をよくしたモンですからね。父も怖い話をしたことがありました。 それもトイレに関わる怪談が多くて(&gt;_&lt;)(*_*)<br /><br />私の小さい頃には、人魂や幽霊が出たというお宮さんがトイレから見えたんですよ。<br />ですから、夜、それも夜中にトイレに行くのが本当に怖かったね。<br />皆さんには、そんな経験はありませんか?<br /><br />南吉の童話にトイレの話があったかどうかまでは知りませんが、そういう話があったとしても不思議ではないですし、あってもいいと思いますね。

    南吉の家のトイレは、屋外にあったのですね。

    この屋外トイレというのが曲者で、夜になるとトイレに行くのが怖くなるのですよ!!(=_=)
    当時の小・中学校の先生なんて(特に中学の先生)、授業の時間に怖い話をよくしたモンですからね。父も怖い話をしたことがありました。 それもトイレに関わる怪談が多くて(>_<)(*_*)

    私の小さい頃には、人魂や幽霊が出たというお宮さんがトイレから見えたんですよ。
    ですから、夜、それも夜中にトイレに行くのが本当に怖かったね。
    皆さんには、そんな経験はありませんか?

    南吉の童話にトイレの話があったかどうかまでは知りませんが、そういう話があったとしても不思議ではないですし、あってもいいと思いますね。

  • 南吉の詩です。<br />「冬ばれや 大丸煎餅 屋根に干す」<br /><br />この碑は、トイレの右側にあります。

    南吉の詩です。
    「冬ばれや 大丸煎餅 屋根に干す」

    この碑は、トイレの右側にあります。

  • 南吉の生家から南へ10mほどのところで道が分かれています。<br /><br />南吉の生家は街道沿いにあったので、下駄屋などがやれたのですね。<br />南吉の話の中にも、家の前を通る人の描写がありますが、家の前が街道だったからですね。<br /><br />ここで道路が二手に分かれていたとのことです。

    南吉の生家から南へ10mほどのところで道が分かれています。

    南吉の生家は街道沿いにあったので、下駄屋などがやれたのですね。
    南吉の話の中にも、家の前を通る人の描写がありますが、家の前が街道だったからですね。

    ここで道路が二手に分かれていたとのことです。

  • これが道標です。<br /><br />「右 半田・もろさき<br /> 左 かめさき」<br />となっています。<br /><br />「もろさき」は、知多半島の先端にある港町です。<br />「かめさき」は、JR武豊線の「亀崎駅」近辺の町かと思います。<br /><br />★↓は「かめさき」あたりの街です。<br />https://maps.google.co.jp/maps/myplaces?hl=ja&amp;ll=34.913684,136.971831&amp;spn=0.021115,0.035255&amp;ctz=-540&amp;brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&amp;num=10&amp;t=m&amp;z=16

    これが道標です。

    「右 半田・もろさき
     左 かめさき」
    となっています。

    「もろさき」は、知多半島の先端にある港町です。
    「かめさき」は、JR武豊線の「亀崎駅」近辺の町かと思います。

    ★↓は「かめさき」あたりの街です。
    https://maps.google.co.jp/maps/myplaces?hl=ja&ll=34.913684,136.971831&spn=0.021115,0.035255&ctz=-540&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,0&num=10&t=m&z=16

  • 皆さんの見学風景です。<br /><br />カバンを掛けているおじさんがガイドさんです。

    皆さんの見学風景です。

    カバンを掛けているおじさんがガイドさんです。

  • 南吉生家の向かいにある、常夜燈です。<br /><br />江戸時代も後半になってきた文化5年(1808年)に、この部落の秋葉講が建立したという常夜燈です。出来てから205年にもなるんですね。常夜燈の下の方の丸い凹みは、そこで子どもたちが「草つき」をして遊んだところと言われています。<br /><br />南吉がここで生まれたのは大正2年(1913年)ですから、この付近で遊んだのは大正時代のことだったようですね。常夜燈付近で遊んだ南吉の経験が、彼の作品「花をうめる」にも反映され、そこには何度も常夜燈が登場します。例えば「常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。」という場面もあります。 また、「音ちゃんは豆を煮ていた」などの作品にも登場してくるとのことです。<br /><br />★常夜燈の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.909867,136.923837&amp;spn=0.001171,0.001155&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eacdf11cad3198bf7,34.910058,136.92353,0,-32

    南吉生家の向かいにある、常夜燈です。

    江戸時代も後半になってきた文化5年(1808年)に、この部落の秋葉講が建立したという常夜燈です。出来てから205年にもなるんですね。常夜燈の下の方の丸い凹みは、そこで子どもたちが「草つき」をして遊んだところと言われています。

    南吉がここで生まれたのは大正2年(1913年)ですから、この付近で遊んだのは大正時代のことだったようですね。常夜燈付近で遊んだ南吉の経験が、彼の作品「花をうめる」にも反映され、そこには何度も常夜燈が登場します。例えば「常夜燈の下にツルのかくしたその花があるという思いは私を元気づけた。」という場面もあります。 また、「音ちゃんは豆を煮ていた」などの作品にも登場してくるとのことです。

    ★常夜燈の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.909867,136.923837&spn=0.001171,0.001155&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eacdf11cad3198bf7,34.910058,136.92353,0,-32

  • 南吉の生家から近い八幡神社で、部落の氏神さんです。<br /><br />渡辺家には“はなれ”があって、この正面の神社の境内から左に7、80mほど行ったところにあったとのことです。<br />南吉はある年齢から義弟とともに“はなれ”で寝起きしてたようで、生家とはなれを行き来するのに、毎日この道を通っていたそうです。<br /><br />この八幡社あたりは、童話「狐」「久助君の話」「疣」などに登場してきますよ。<br /><br />★八幡神社の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.910927,136.92353&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eaba69eabc9f89a2d

    南吉の生家から近い八幡神社で、部落の氏神さんです。

    渡辺家には“はなれ”があって、この正面の神社の境内から左に7、80mほど行ったところにあったとのことです。
    南吉はある年齢から義弟とともに“はなれ”で寝起きしてたようで、生家とはなれを行き来するのに、毎日この道を通っていたそうです。

    この八幡社あたりは、童話「狐」「久助君の話」「疣」などに登場してきますよ。

    ★八幡神社の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.910927,136.92353&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eaba69eabc9f89a2d

  • このトラックの止まっているところあたりに「宝蔵倉」があったようです。<br /><br />この宝蔵村の前を通って生家と“はなれ”を毎日行き来していた南吉には、村の人たちとの出会いも多々あったはずですね。「ごんぎつね」の下書きの「権狐」には、子守ばかりをしている茂助爺の話があるように、子供から老人まで様々な出会いがあったものと思いますね。<br /><br />この「生家と“はなれ”を毎日行き来していた」という事実は、南吉にとって様々なイメージを生み出す要因になったという気がします。

    このトラックの止まっているところあたりに「宝蔵倉」があったようです。

    この宝蔵村の前を通って生家と“はなれ”を毎日行き来していた南吉には、村の人たちとの出会いも多々あったはずですね。「ごんぎつね」の下書きの「権狐」には、子守ばかりをしている茂助爺の話があるように、子供から老人まで様々な出会いがあったものと思いますね。

    この「生家と“はなれ”を毎日行き来していた」という事実は、南吉にとって様々なイメージを生み出す要因になったという気がします。

  • 拡大して、読んでみて下さいね。<br /><br />南吉の代表作「ごんぎつね」は、この宝蔵村の前で老人から聞いた話という設定だったとのことです。<br />また、宝蔵倉は南吉童話の舞台ともなり、「久助君の話」「和太郎さんと牛」などにも登場してきます。<br /><br />★宝蔵倉の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.910205,136.923471&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004ee304e832d35d9712

    拡大して、読んでみて下さいね。

    南吉の代表作「ごんぎつね」は、この宝蔵村の前で老人から聞いた話という設定だったとのことです。
    また、宝蔵倉は南吉童話の舞台ともなり、「久助君の話」「和太郎さんと牛」などにも登場してきます。

    ★宝蔵倉の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.910205,136.923471&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004ee304e832d35d9712

  • 八幡神社の正面左にある芝居小屋です。<br /><br />秋祭りの時に、この小屋を開けてお芝居をします。<br />地元の人々による芝居なのか、地方回りをしている劇団を呼んでそれを見るのか? そこは分かりませんが、年に一度の楽しいお祭りです。周りにはお店も並んで、祭り気分はさらに盛り上がったことと思いますね。<br /><br />こんなことを言えるのも、私の実家の部落にもこのような芝居小屋があったのですよ。<br />収穫の終わった10月後半、プロの劇団を呼んで人情時代劇をやってもらったモンです。<br />芝居当日は芝居小屋前の広場の上に天幕を張って、風や雨を防ぎます。小屋の前には朝から場所取りのむしろが敷かれ、夕方の開演時刻が近くなると、人々は自家製のお寿司や菓子などを持参して自分たちのむしろに座ります。<br />そのころには夜店も並んで大賑わいになったもんです。<br />お芝居も、今にしてみれば本当に良かったですね。日本の伝統文化が生き生きしていたようにも感じますね。<br /><br />それが、伊勢湾台風襲来の年からお芝居行事が無くなってしまったのです。秋のお祭りの日になってもそういう行事もなく、地域の役員が神社に集まって神事の後にお酒を飲むだけで、あとは自宅でお寿司を戴くだけの祭日になってしまいました。<br />田舎の部落にとって、年に一度の部落を挙げての祭礼がなくなったことは、人々の心の芯棒が抜かれてしまったような感じになりましたね。<br /><br />伊勢湾台風襲来後のお芝居行事中止の動きは、南吉のいた地域でも同じだったようです。その意味では、伊勢湾台風が残した影響は計り知れないものがあったと思いますね。

    八幡神社の正面左にある芝居小屋です。

    秋祭りの時に、この小屋を開けてお芝居をします。
    地元の人々による芝居なのか、地方回りをしている劇団を呼んでそれを見るのか? そこは分かりませんが、年に一度の楽しいお祭りです。周りにはお店も並んで、祭り気分はさらに盛り上がったことと思いますね。

    こんなことを言えるのも、私の実家の部落にもこのような芝居小屋があったのですよ。
    収穫の終わった10月後半、プロの劇団を呼んで人情時代劇をやってもらったモンです。
    芝居当日は芝居小屋前の広場の上に天幕を張って、風や雨を防ぎます。小屋の前には朝から場所取りのむしろが敷かれ、夕方の開演時刻が近くなると、人々は自家製のお寿司や菓子などを持参して自分たちのむしろに座ります。
    そのころには夜店も並んで大賑わいになったもんです。
    お芝居も、今にしてみれば本当に良かったですね。日本の伝統文化が生き生きしていたようにも感じますね。

    それが、伊勢湾台風襲来の年からお芝居行事が無くなってしまったのです。秋のお祭りの日になってもそういう行事もなく、地域の役員が神社に集まって神事の後にお酒を飲むだけで、あとは自宅でお寿司を戴くだけの祭日になってしまいました。
    田舎の部落にとって、年に一度の部落を挙げての祭礼がなくなったことは、人々の心の芯棒が抜かれてしまったような感じになりましたね。

    伊勢湾台風襲来後のお芝居行事中止の動きは、南吉のいた地域でも同じだったようです。その意味では、伊勢湾台風が残した影響は計り知れないものがあったと思いますね。

  • この建物には、2台の山車が格納されているそうです。<br /><br />右には御福車という山車が、左には八幡社という山車が保管されているとのことです。<br />天明年間(1781年〜1788年)以前の頃から山車の引き回しがあったとのことですから、長い伝統のある祭りですね。<br /><br />ここ岩滑地区の祭礼には、山車(三番叟)が出て、巫女の舞もあったりするので、南吉の童話・「狐」では、この八幡神社の祭りをイメージしていると言えるでしょう。<br /><br /><br />半田には、祭りの31台もあるとのことです。3月下旬から5月のGWにかけて、半田市内10の地区で山車祭りが行われるとのことです。<br /><br />山車が使われる祭りは、青森県から九州までの全国各地で行われているのですね。私は犬山市の山車が勢揃いしている様子を見たことがありますが、なかなか壮観でした。<br /><br />★↓は半田市の山車祭りの広告です。<br />http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/28/13/44/src_28134473.jpg

    この建物には、2台の山車が格納されているそうです。

    右には御福車という山車が、左には八幡社という山車が保管されているとのことです。
    天明年間(1781年〜1788年)以前の頃から山車の引き回しがあったとのことですから、長い伝統のある祭りですね。

    ここ岩滑地区の祭礼には、山車(三番叟)が出て、巫女の舞もあったりするので、南吉の童話・「狐」では、この八幡神社の祭りをイメージしていると言えるでしょう。


    半田には、祭りの31台もあるとのことです。3月下旬から5月のGWにかけて、半田市内10の地区で山車祭りが行われるとのことです。

    山車が使われる祭りは、青森県から九州までの全国各地で行われているのですね。私は犬山市の山車が勢揃いしている様子を見たことがありますが、なかなか壮観でした。

    ★↓は半田市の山車祭りの広告です。
    http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/28/13/44/src_28134473.jpg

  • 八幡社本殿から西へ向かう際、本殿の左側(西側)に熱田神社と知立神社の可愛い祠がありました。二つの神社とも初めて知る神社ですが、熱田神社って熱田神宮のこと?って思ってしまいました。 それがそうではなくて、熱田神社と熱田神宮とは全然別なんですね。<br /><br />どっちにしても、こんなところでチョコンと控えているなんて、たぶん八幡神社の攝末社なんですね。私もどちらかと言えば、カミさんの横に小さくなっている攝末社的存在なんですよ(-_-;)<br /><br />それはさておき、海外でも大聖堂のすぐ横に別の教会があったりしますけど、これはどういう関係になるのでしょうかね? 横にある教会が攝末社だったりして??<br />

    八幡社本殿から西へ向かう際、本殿の左側(西側)に熱田神社と知立神社の可愛い祠がありました。二つの神社とも初めて知る神社ですが、熱田神社って熱田神宮のこと?って思ってしまいました。 それがそうではなくて、熱田神社と熱田神宮とは全然別なんですね。

    どっちにしても、こんなところでチョコンと控えているなんて、たぶん八幡神社の攝末社なんですね。私もどちらかと言えば、カミさんの横に小さくなっている攝末社的存在なんですよ(-_-;)

    それはさておき、海外でも大聖堂のすぐ横に別の教会があったりしますけど、これはどういう関係になるのでしょうかね? 横にある教会が攝末社だったりして??

  • 八幡神社から西に100mほども行きますと、常福院が見えてきます。<br /><br />常福院はだいぶ古いお寺で、永禄年間(西暦1558〜1570年)川家康の叔父で岩滑城主の中山勝時によって創建されたお寺さんで、宗派は浄土宗西山派だそうです。<br /><br />南吉が居た頃は、幼い頃の遊び場であったり、境内で盆踊りもやっていたそうです。<br />このお寺さんは、南吉の童話「ひよりげた」のなかに、「ジョウフクインの おしょうさん そっくりでしたが……」などと登場してきます。ほかにも、「ごんぎつね」の冒頭で中で「中山様」として登場してきます。さらには、「久助君の話」「塀」など登場してくるとのことです。<br /><br />常福院の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.911271,136.92237&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eaba7115b9aa8dfae

    八幡神社から西に100mほども行きますと、常福院が見えてきます。

    常福院はだいぶ古いお寺で、永禄年間(西暦1558〜1570年)川家康の叔父で岩滑城主の中山勝時によって創建されたお寺さんで、宗派は浄土宗西山派だそうです。

    南吉が居た頃は、幼い頃の遊び場であったり、境内で盆踊りもやっていたそうです。
    このお寺さんは、南吉の童話「ひよりげた」のなかに、「ジョウフクインの おしょうさん そっくりでしたが……」などと登場してきます。ほかにも、「ごんぎつね」の冒頭で中で「中山様」として登場してきます。さらには、「久助君の話」「塀」など登場してくるとのことです。

    常福院の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.911271,136.92237&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eaba7115b9aa8dfae

  • これは、皆さんがこの大きな木を見て何かを言っておられたので、とにかく撮っておきましょうと思ってカメラに収めただけの写真だったのですよ。<br /><br />それが何と、この常福院を建立されたころに植えられたという樹齢400年以上のソテツだというのです。現在は半田市の指定文化財になっているようです。<br /><br />ソテツと言えば奄美大島など南西諸島の光景が頭に浮かぶのですが、調べてみると東海道筋にも意外に多いですね。<br /><br />★ソテツの詳しいことは↓にて<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84

    これは、皆さんがこの大きな木を見て何かを言っておられたので、とにかく撮っておきましょうと思ってカメラに収めただけの写真だったのですよ。

    それが何と、この常福院を建立されたころに植えられたという樹齢400年以上のソテツだというのです。現在は半田市の指定文化財になっているようです。

    ソテツと言えば奄美大島など南西諸島の光景が頭に浮かぶのですが、調べてみると東海道筋にも意外に多いですね。

    ★ソテツの詳しいことは↓にて
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84

  • 常福寺の屋根を見ましたら、立派で面白い形の鬼瓦?がありました。<br /><br />上は花の形ですね。何の花かは分かりませんけど(-_-;)<br />下は獅子のようですね。目の玉もたてがみも尻尾も渦巻き模様がになっています。<br />こんなに動的な形をした面白い瓦を見たのは初めてです。<br /><br />これらを見て、“三河の鬼瓦”と言って賞賛される方もおられるようです。三河の瓦は「三州瓦」とも言われて、その生産量は日本最大のようですね。<br />最近では、日本の住宅も洋風になって来たり、瓦を使っていても棟筋の瓦の高さが低くなってきて、鬼瓦を使わない住宅が本当に増えました。<br /><br />住宅建築の合理性だけでなくて、日本の瓦文化の良さを取り入れて欲しいものですね。<br /><br />★三州瓦の詳しいことは↓にて<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B7%9E%E7%93%A6

    常福寺の屋根を見ましたら、立派で面白い形の鬼瓦?がありました。

    上は花の形ですね。何の花かは分かりませんけど(-_-;)
    下は獅子のようですね。目の玉もたてがみも尻尾も渦巻き模様がになっています。
    こんなに動的な形をした面白い瓦を見たのは初めてです。

    これらを見て、“三河の鬼瓦”と言って賞賛される方もおられるようです。三河の瓦は「三州瓦」とも言われて、その生産量は日本最大のようですね。
    最近では、日本の住宅も洋風になって来たり、瓦を使っていても棟筋の瓦の高さが低くなってきて、鬼瓦を使わない住宅が本当に増えました。

    住宅建築の合理性だけでなくて、日本の瓦文化の良さを取り入れて欲しいものですね。

    ★三州瓦の詳しいことは↓にて
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B7%9E%E7%93%A6

  • “はなれ”の家があったところです(現在、“はなれ”の跡はありません)。<br /><br />この場所(常福院の前の道を挟んだ向かい側〈南側〉)には、南吉の実家(渡辺家)の「はなれ」があったそうです。現在はその形跡もなく、写真のように普通の個人宅がありました。<br />上でもお話ししましたが、南吉はいつ頃からかこの「はなれ」で義弟と一緒に寝起きしていたのです。<br /><br />昭和18年、南吉が最後の病床についたのも、ここだったと言うことです。両親のいる家でなく、結核の伝染予防から「隔離」の事情もあった思いますが、南吉はこの“はなれ”で息を引き取ったのです(-_-;)<br /><br />南吉が寝込んでいる間、継母はご飯を運んで介抱したそうです。養母の志もさんも、病の南吉を看にここへよく通ったとのことです。<br />南吉を見舞いに来た女学生が、南吉の世話をする継母を見て「優しいお母さんね」と言ったところ、南吉は「許せん」と言ったそうです。<br /><br />南吉は最終盤になって、人の心が通じ合い・和解し合う童話を書いたのですが、継母についてはついに許せなかったのでしょうか。南吉の不幸な姿の一端を、強烈に印象づけられた話でした。

    “はなれ”の家があったところです(現在、“はなれ”の跡はありません)。

    この場所(常福院の前の道を挟んだ向かい側〈南側〉)には、南吉の実家(渡辺家)の「はなれ」があったそうです。現在はその形跡もなく、写真のように普通の個人宅がありました。
    上でもお話ししましたが、南吉はいつ頃からかこの「はなれ」で義弟と一緒に寝起きしていたのです。

    昭和18年、南吉が最後の病床についたのも、ここだったと言うことです。両親のいる家でなく、結核の伝染予防から「隔離」の事情もあった思いますが、南吉はこの“はなれ”で息を引き取ったのです(-_-;)

    南吉が寝込んでいる間、継母はご飯を運んで介抱したそうです。養母の志もさんも、病の南吉を看にここへよく通ったとのことです。
    南吉を見舞いに来た女学生が、南吉の世話をする継母を見て「優しいお母さんね」と言ったところ、南吉は「許せん」と言ったそうです。

    南吉は最終盤になって、人の心が通じ合い・和解し合う童話を書いたのですが、継母についてはついに許せなかったのでしょうか。南吉の不幸な姿の一端を、強烈に印象づけられた話でした。

  • この説明を見て感じたことですが・・。<br /><br />南吉は、東京外国語学校在学中には学費や家賃ほか生活費のために、喀血しながらも童話や小説を書いていたのです。<br />一方、実家である渡辺家は豊かではなかったですけど、底辺の貧乏家庭でもなかったとのことです。実際、この“はなれ”を消失した時、すぐに建て直していましたからね。それだけの稼ぎがあったなら、南吉の学費をもうちょっと出してやれば、彼も無理を減らして節約しながら暮らせたかも?と思いますね。<br /><br />もちろん、当時の学生もアルバイトをしていたのですが(その稼ぎを遊興費にも使っていた)、南吉の身体が弱すぎたのです。両親がそこを察してやれなかったことは、残念なことと思います。<br /><br />継母が南吉のためにカネを出すのを惜しんだ傾向があったようです。父である多蔵は「カカア天下」に歯が立たなかったようで、「出せ!!」とは言えなかった?ようですね。<br />なんか、他人事ではない話になってきてしまいました(^^;)

    この説明を見て感じたことですが・・。

    南吉は、東京外国語学校在学中には学費や家賃ほか生活費のために、喀血しながらも童話や小説を書いていたのです。
    一方、実家である渡辺家は豊かではなかったですけど、底辺の貧乏家庭でもなかったとのことです。実際、この“はなれ”を消失した時、すぐに建て直していましたからね。それだけの稼ぎがあったなら、南吉の学費をもうちょっと出してやれば、彼も無理を減らして節約しながら暮らせたかも?と思いますね。

    もちろん、当時の学生もアルバイトをしていたのですが(その稼ぎを遊興費にも使っていた)、南吉の身体が弱すぎたのです。両親がそこを察してやれなかったことは、残念なことと思います。

    継母が南吉のためにカネを出すのを惜しんだ傾向があったようです。父である多蔵は「カカア天下」に歯が立たなかったようで、「出せ!!」とは言えなかった?ようですね。
    なんか、他人事ではない話になってきてしまいました(^^;)

  • ここは光蓮寺の山門です。なかなか立派な造りです。<br />この山門は通りに面していますから、突然現れるって感じです。<br /><br />光連寺の始まりは文亀2年(1502年)に遡ると言われています。そして、寛永3年に大野村光明寺境内に場所を変えて、17世紀に光連寺という名になったそうです。<br />さらに明治中期になってここへ移動したというのです。これまた、 由緒あるお寺さんですね。<br />立派な造りが、それを物語っています。<br /><br />★光蓮寺の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.909384,136.921423&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eaba8dbece914f9a0

    ここは光蓮寺の山門です。なかなか立派な造りです。
    この山門は通りに面していますから、突然現れるって感じです。

    光連寺の始まりは文亀2年(1502年)に遡ると言われています。そして、寛永3年に大野村光明寺境内に場所を変えて、17世紀に光連寺という名になったそうです。
    さらに明治中期になってここへ移動したというのです。これまた、 由緒あるお寺さんですね。
    立派な造りが、それを物語っています。

    ★光蓮寺の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.909384,136.921423&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eaba8dbece914f9a0

  • 南吉と光蓮寺との関わりは、南吉の実家が光蓮寺に出入りしていことが多かったこともあって、南吉が子供の頃ここでお経を習ったりしたご縁など、多々あったようです。<br /><br />また、ここの住職は知識豊富な人で、南吉が中学時代に作っていた同人誌「オリオン」を買ってくれたり、南吉が東京外国語学校受験の際には住職から英語の聞き取りを教えてもらったりもしていたようです。<br /><br />光蓮寺での南吉のこのような経験が、「百姓の足 坊さんの足」、「ごんごろ鐘」等に活かされていったのです。

    南吉と光蓮寺との関わりは、南吉の実家が光蓮寺に出入りしていことが多かったこともあって、南吉が子供の頃ここでお経を習ったりしたご縁など、多々あったようです。

    また、ここの住職は知識豊富な人で、南吉が中学時代に作っていた同人誌「オリオン」を買ってくれたり、南吉が東京外国語学校受験の際には住職から英語の聞き取りを教えてもらったりもしていたようです。

    光蓮寺での南吉のこのような経験が、「百姓の足 坊さんの足」、「ごんごろ鐘」等に活かされていったのです。

  • 光蓮寺の鐘が供出される時の記念写真です。<br /><br />あの太平洋戦争の最中に家庭の鍋や釜をはじめ、様々な金属製用具が供出させられたようです。 この光蓮寺でもお寺の大事な鐘までが供出させられたようです。<br /><br />南吉の童話にも、このような時代の体験が「ごんごろ鐘」で“尼寺の庭の鐘楼”となって登場しているのです。カネを降ろして供出する時の情景が、とてもよく書いてありますよ。

    光蓮寺の鐘が供出される時の記念写真です。

    あの太平洋戦争の最中に家庭の鍋や釜をはじめ、様々な金属製用具が供出させられたようです。 この光蓮寺でもお寺の大事な鐘までが供出させられたようです。

    南吉の童話にも、このような時代の体験が「ごんごろ鐘」で“尼寺の庭の鐘楼”となって登場しているのです。カネを降ろして供出する時の情景が、とてもよく書いてありますよ。

  • 南吉の養家は、現在でも平和町という部落の北端にあって、ちょっと淋しいところです。<br /><br />南吉はそのあたりのことを、無題作品「常夜燈の下で」の中で「おばあさんの家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮があり、前には広い庭と畑があり、右隣は半町も距たってをり、左隣だけは軒を接していた。そのような寂しい所にあって・・」と、書いています。<br /><br />南吉は養家の志もさんを「おばあさん」と言っていますが、南吉が養子に来たころは40歳なるかならないかの若さだと思います。志もさんは南吉をシッカリ育てなきゃとの責任を感じていたようです。それだけに、南吉には厳しい面もあったかも知れませんね。<br /><br />★南吉の養家の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.911046,136.899374&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eab9465ca9392fad4

    南吉の養家は、現在でも平和町という部落の北端にあって、ちょっと淋しいところです。

    南吉はそのあたりのことを、無題作品「常夜燈の下で」の中で「おばあさんの家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮があり、前には広い庭と畑があり、右隣は半町も距たってをり、左隣だけは軒を接していた。そのような寂しい所にあって・・」と、書いています。

    南吉は養家の志もさんを「おばあさん」と言っていますが、南吉が養子に来たころは40歳なるかならないかの若さだと思います。志もさんは南吉をシッカリ育てなきゃとの責任を感じていたようです。それだけに、南吉には厳しい面もあったかも知れませんね。

    ★南吉の養家の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.911046,136.899374&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eab9465ca9392fad4

  • 南吉の養家です。<br />右の茅葺き屋根が住宅で、左の白壁のある家が土蔵です。<br />現在は半田市の指定文化財になっています。<br /><br />この家は昭和36年に養母志もさんが亡くなってから空き屋になっていたのを、半田市の「かみや美術館館」長の神谷幸之さんと画家の北川民次さんが買い取って修繕し、一般に公開しているのだそうです。<br />ですから、南吉生家と違って半田市の所有・管理ではなく、「かみや美術館」が所有しています。それで、ここは「かみや美術館」の「分館」になっているそうです。見学するためには「かみや美術館」に連絡しないと、養家の内部を見ることは出来ません。依頼すれば学芸員が説明してくれるようです(要確認)。

    南吉の養家です。
    右の茅葺き屋根が住宅で、左の白壁のある家が土蔵です。
    現在は半田市の指定文化財になっています。

    この家は昭和36年に養母志もさんが亡くなってから空き屋になっていたのを、半田市の「かみや美術館館」長の神谷幸之さんと画家の北川民次さんが買い取って修繕し、一般に公開しているのだそうです。
    ですから、南吉生家と違って半田市の所有・管理ではなく、「かみや美術館」が所有しています。それで、ここは「かみや美術館」の「分館」になっているそうです。見学するためには「かみや美術館」に連絡しないと、養家の内部を見ることは出来ません。依頼すれば学芸員が説明してくれるようです(要確認)。

  • 「墓碑銘」詩碑です。 <br /><br />この碑は比較的新しく、昭和48年の南吉の命日に除幕されたようです。<br />碑文を書いた人は、かみや美術館を設立した神谷幸之さんとのことです。<br /><br />「この石の上を過ぎる 小鳥たちよ しばしここに翼をやすめよ」<br />と言う文字が刻まれています。これは南吉が22歳の時の作品である「墓碑銘」の冒頭部分です。<br /><br />「墓碑銘」が書かれたのは最初の喀血の翌年で、この年には「デンデンムシノカナシミ」を出しています。南吉には少し辛い時期だったのでしょうか。<br />「墓誌銘」を読んでみますと、「けれども何かのまちがいで、彼は人間の世界に生まれてしまった。」という、この世を儚むところが数ヶ所見られます。私も同じ思いをもちながらも、あそこまでハッキリと書いてしまったかという印象を持ちました。<br /><br />でもね、そう書かざるを得ないというか、書かないではいられない気持ちと環境があっただろうことは、分かるような気がします。

    「墓碑銘」詩碑です。 

    この碑は比較的新しく、昭和48年の南吉の命日に除幕されたようです。
    碑文を書いた人は、かみや美術館を設立した神谷幸之さんとのことです。

    「この石の上を過ぎる 小鳥たちよ しばしここに翼をやすめよ」
    と言う文字が刻まれています。これは南吉が22歳の時の作品である「墓碑銘」の冒頭部分です。

    「墓碑銘」が書かれたのは最初の喀血の翌年で、この年には「デンデンムシノカナシミ」を出しています。南吉には少し辛い時期だったのでしょうか。
    「墓誌銘」を読んでみますと、「けれども何かのまちがいで、彼は人間の世界に生まれてしまった。」という、この世を儚むところが数ヶ所見られます。私も同じ思いをもちながらも、あそこまでハッキリと書いてしまったかという印象を持ちました。

    でもね、そう書かざるを得ないというか、書かないではいられない気持ちと環境があっただろうことは、分かるような気がします。

  • 養家(住宅側)の全景です。<br />茅葺き屋根を見ますと、時代を感じさせますね。<br /><br />南吉がこの家(新美家)に養子に来ることになったのも、渡辺家の相続を巡る多蔵と継母・「志ん」との争いが原因だったのです。<br /><br />南吉がこの家に来たのは8歳の夏(7月)と言われています。生家からは直線で2Kmほど離れています。道沿いに行けば、恐らく2.5Km近い距離があったかも知れません。母親は継母とは言え、実父と一緒に8年間暮らしてきた家を8歳にして出されて、この家にやってきたのです。<br /><br />ところが、養母とうまくいかず、土地柄も淋しいところで長くはおれず、12月の初め頃に渡辺家に帰ってしまいます。ここにいた期間は正味4ヶ月ちょっとだろうと思います。しかし、「渡辺正八」から「新美正八」に変わったその名は変わることなく、南吉は終生渡辺家への居候という形になってしまいます。<br /><br />こうしたことが、後になってことある毎に南吉の胸をよぎり、孤立感を深めていったのではないでしょうか。

    養家(住宅側)の全景です。
    茅葺き屋根を見ますと、時代を感じさせますね。

    南吉がこの家(新美家)に養子に来ることになったのも、渡辺家の相続を巡る多蔵と継母・「志ん」との争いが原因だったのです。

    南吉がこの家に来たのは8歳の夏(7月)と言われています。生家からは直線で2Kmほど離れています。道沿いに行けば、恐らく2.5Km近い距離があったかも知れません。母親は継母とは言え、実父と一緒に8年間暮らしてきた家を8歳にして出されて、この家にやってきたのです。

    ところが、養母とうまくいかず、土地柄も淋しいところで長くはおれず、12月の初め頃に渡辺家に帰ってしまいます。ここにいた期間は正味4ヶ月ちょっとだろうと思います。しかし、「渡辺正八」から「新美正八」に変わったその名は変わることなく、南吉は終生渡辺家への居候という形になってしまいます。

    こうしたことが、後になってことある毎に南吉の胸をよぎり、孤立感を深めていったのではないでしょうか。

  • 養家の中の様子です。古い家ですから、造りとしてはこんなものでしょう。<br />何となく生活感のない情景ですが、ここにも小さな机が置いてありました。<br /><br />そう言えば、この時代に小さいながらも机があったと言うことは、それなりに裕福な暮らしだったと言えますね。この時代もそうですが、戦後の昭和20年代頃までの田舎では、ミカン箱をを横にして机の代わりにしたようなモンでした。<br /><br />この時代の家は、すきま風がけっこう入るんですね(特に農家など)。私たちの経験でも、夜に戸締まりして寝るのですが、それでも夜中に猫が外から帰ってきて私の布団にもぐってくるほど、家のあちこちに隙間があるんです(^^;)<br />ですから、冬場の木枯らしがまともに当たる養家では、身体の細い南吉にはかなり辛かったと思います。

    養家の中の様子です。古い家ですから、造りとしてはこんなものでしょう。
    何となく生活感のない情景ですが、ここにも小さな机が置いてありました。

    そう言えば、この時代に小さいながらも机があったと言うことは、それなりに裕福な暮らしだったと言えますね。この時代もそうですが、戦後の昭和20年代頃までの田舎では、ミカン箱をを横にして机の代わりにしたようなモンでした。

    この時代の家は、すきま風がけっこう入るんですね(特に農家など)。私たちの経験でも、夜に戸締まりして寝るのですが、それでも夜中に猫が外から帰ってきて私の布団にもぐってくるほど、家のあちこちに隙間があるんです(^^;)
    ですから、冬場の木枯らしがまともに当たる養家では、身体の細い南吉にはかなり辛かったと思います。

  • 南吉の養家は「かみや美術館」の所有ということで、ここの説明には「かみや美術館」の学芸員さんが来て下さっています。詳しいご説明がありましたよ。<br /><br />この家の面白いのは、梁?が天井板の下に丸見えになっていることです。 内側の梁から外に向かって屋根の傾斜が見えているのも、珍しいです。

    南吉の養家は「かみや美術館」の所有ということで、ここの説明には「かみや美術館」の学芸員さんが来て下さっています。詳しいご説明がありましたよ。

    この家の面白いのは、梁?が天井板の下に丸見えになっていることです。 内側の梁から外に向かって屋根の傾斜が見えているのも、珍しいです。

  • 襖になにか書いてあるようです。<br />左端には、「南吉 昭和一四作」とありましたから、これも南吉の作品ですね。<br />タイトルは「ひらがな幻想」です。でも、ひらがなばっかりではないですね。<br /><br />↓に、襖一枚ずつ書き出してみますね。詰まり音の大きい「つ」は、小さい「っ」で書きます。

    襖になにか書いてあるようです。
    左端には、「南吉 昭和一四作」とありましたから、これも南吉の作品ですね。
    タイトルは「ひらがな幻想」です。でも、ひらがなばっかりではないですね。

    ↓に、襖一枚ずつ書き出してみますね。詰まり音の大きい「つ」は、小さい「っ」で書きます。

  • ひらがな幻想1<br /><br />「おばあさんの家では、おおさわぎでした。みんな押し入れの中にはいって、小さくなっていました。しまったと」

    ひらがな幻想1

    「おばあさんの家では、おおさわぎでした。みんな押し入れの中にはいって、小さくなっていました。しまったと」

  • ひらがな幻想2<br /><br />「いって、ひとりが井戸のふたをしめてきました。しまったといってだれかがかまどの上に、ろうそくを立てました。前山の竹が、さあさあと鳴ると、みんなふるえました。こう」

    ひらがな幻想2

    「いって、ひとりが井戸のふたをしめてきました。しまったといってだれかがかまどの上に、ろうそくを立てました。前山の竹が、さあさあと鳴ると、みんなふるえました。こう」

  • ひらがな幻想3<br /><br />「じんさまをだいじにしないからだと、おばあさんがいいました。くるだろうか虎は、といいました。くるはずだ、きっとくるよといいました。へりつきの畳に ぱっと日がつきま」

    ひらがな幻想3

    「じんさまをだいじにしないからだと、おばあさんがいいました。くるだろうか虎は、といいました。くるはずだ、きっとくるよといいました。へりつきの畳に ぱっと日がつきま」

  • ひらがな幻想4<br /><br />「した。前山から虎がきました。あばれまわって、みんな食ってしまって、あとに櫛を落といていきました。 南吉   昭和一四年作  農夫也書刻」<br /><br /><br /><br />昭和14年は、南吉が安城高等女学校に勤務して2年目の時で、南吉が比較的元気で落ち着いていた時かと思います。<br />これを書いた「飯野農夫也」さんは、茨城県西市上平塚の農家出身の版画家のようです。昭和48年に、この「ひらがな幻想」を書刻したとのことです。<br /><br />★飯野農夫也さんの詳しことは、「飯野農夫也」にて検索されて下さいね。

    ひらがな幻想4

    「した。前山から虎がきました。あばれまわって、みんな食ってしまって、あとに櫛を落といていきました。 南吉 昭和一四年作 農夫也書刻」



    昭和14年は、南吉が安城高等女学校に勤務して2年目の時で、南吉が比較的元気で落ち着いていた時かと思います。
    これを書いた「飯野農夫也」さんは、茨城県西市上平塚の農家出身の版画家のようです。昭和48年に、この「ひらがな幻想」を書刻したとのことです。

    ★飯野農夫也さんの詳しことは、「飯野農夫也」にて検索されて下さいね。

  • 養家縁側です。<br />縁側があると無いとでは、住み心地に大きな違いがありますね。縁側でネコと一緒に日向ぼっこなんてことが出来ますからね〜(^^)<br /><br />南吉は8歳にして、1人この家に来て養母志もさんと2人きりで暮らしたようです。<br />志もさんは明治8年生まれの人で、一般の評判ではとてもいい人だったようす。利口で優しく、他家の嫁姑の争いにも仲裁に入ったり、子供との付き合いもよかったみたいです。<br /><br />それなのに、南吉とは上手くやれず、細かいことで叱ることが多かったようです。<br />寒い日に叱られて外へ出されて凍え死ぬかと思ったこともあったようです。南吉をキチンと育てようとしたのが、裏目に出てしまったのかも知れません。これについては、志もさんが後妻で新美家に入ったため子育ての経験がなく、繊細で頭の良い南吉をどう扱ったらよいのか分からなかったのではと言われています。<br /><br />南吉の志もさんに対する印象は、彼の記述によれば「おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に分れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂寞の中に生きて来たためだろうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温(ぬくい)ものをもっていなかった。」ような人だったとか。南吉自身の性格との関わりもありますから、それを100%信ずるわけではありませんが、いずれにしても南吉には辛かったようです。<br /><br />当たり前の暮らしでも、生活の細々したことでガミガミ言われるのはどこでもよくあることです。頭がよくて心が繊細で言葉に敏感な南吉には、それは大きな負担になったようです。ましてや二人だけですから、気の紛れることも、助け船を出してくれる人もおらず、本当に居たたまれなかったと思います。<br /><br />実家には既に継母が帰っており、南吉の心休まるところは無かったのです。それでも養家で志もさんと暮らせなければ、実家に帰るしかありません。こんな時、天涯孤独な気持ちをひしと感じたと思います。<br />そうした孤独感が南吉の心の奥底に積もり積もって、その孤独をなめるようになってしまったように思いますね。

    養家縁側です。
    縁側があると無いとでは、住み心地に大きな違いがありますね。縁側でネコと一緒に日向ぼっこなんてことが出来ますからね〜(^^)

    南吉は8歳にして、1人この家に来て養母志もさんと2人きりで暮らしたようです。
    志もさんは明治8年生まれの人で、一般の評判ではとてもいい人だったようす。利口で優しく、他家の嫁姑の争いにも仲裁に入ったり、子供との付き合いもよかったみたいです。

    それなのに、南吉とは上手くやれず、細かいことで叱ることが多かったようです。
    寒い日に叱られて外へ出されて凍え死ぬかと思ったこともあったようです。南吉をキチンと育てようとしたのが、裏目に出てしまったのかも知れません。これについては、志もさんが後妻で新美家に入ったため子育ての経験がなく、繊細で頭の良い南吉をどう扱ったらよいのか分からなかったのではと言われています。

    南吉の志もさんに対する印象は、彼の記述によれば「おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に分れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂寞の中に生きて来たためだろうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温(ぬくい)ものをもっていなかった。」ような人だったとか。南吉自身の性格との関わりもありますから、それを100%信ずるわけではありませんが、いずれにしても南吉には辛かったようです。

    当たり前の暮らしでも、生活の細々したことでガミガミ言われるのはどこでもよくあることです。頭がよくて心が繊細で言葉に敏感な南吉には、それは大きな負担になったようです。ましてや二人だけですから、気の紛れることも、助け船を出してくれる人もおらず、本当に居たたまれなかったと思います。

    実家には既に継母が帰っており、南吉の心休まるところは無かったのです。それでも養家で志もさんと暮らせなければ、実家に帰るしかありません。こんな時、天涯孤独な気持ちをひしと感じたと思います。
    そうした孤独感が南吉の心の奥底に積もり積もって、その孤独をなめるようになってしまったように思いますね。

  • 居間から見た土間の様子です。<br />これを見ますと、「ごんぎつね」の時代を地でいくような感じがします。<br /><br />志もさんと2人きりで住むには、このあたりは静かすぎるところだったとのこと。<br />その上、ガランとして暗いこの土間などは、南吉にとって不気味な感じだったようです。<br />電気はこの頃にはきていたようで、あんまり明るくない電灯が居間に一つあっただけのようです。戸口を閉めたり夜になったりすると、土間の奥も暗くなって子供心には不気味な感じがしたかも知れません。夜に暗い部屋へ行く時は、カンテラを灯して行ったとか。<br /><br />それが、両親をはじめ家族と一緒の暮らしならともかく、僅か8歳の子供が家族にとって要らぬ子となって、他家に養子に出されておばさんと2人きりで住むことになったのです。その時の子供心に感じた寂しさ怖さは、養子に出された孤独感と重なって、想像を超えるものがあったと思いますよ。

    居間から見た土間の様子です。
    これを見ますと、「ごんぎつね」の時代を地でいくような感じがします。

    志もさんと2人きりで住むには、このあたりは静かすぎるところだったとのこと。
    その上、ガランとして暗いこの土間などは、南吉にとって不気味な感じだったようです。
    電気はこの頃にはきていたようで、あんまり明るくない電灯が居間に一つあっただけのようです。戸口を閉めたり夜になったりすると、土間の奥も暗くなって子供心には不気味な感じがしたかも知れません。夜に暗い部屋へ行く時は、カンテラを灯して行ったとか。

    それが、両親をはじめ家族と一緒の暮らしならともかく、僅か8歳の子供が家族にとって要らぬ子となって、他家に養子に出されておばさんと2人きりで住むことになったのです。その時の子供心に感じた寂しさ怖さは、養子に出された孤独感と重なって、想像を超えるものがあったと思いますよ。

  • 縦・横の梁が裸で出ていた当時の農家では、ハシゴとか、竿などの長いものを縦横の梁に載せて、こんな風に「保管場所」として利用されたモンです。私の実家もこんな感じでしたよ。<br />こんなところにヤマカガシやマムシでも巻き付いていた日にゃ、そりゃもう、背筋が凍り付いてしまいますよ。<br /><br />ところで、南吉が国語の教科書にも採用されたり、広く人々に読まれるようになったこともあって、南吉作品の研究と南吉自身の生活と性格について研究がたくさん見られます。<br /><br />作品研究に関しては、南吉が「童話らしく、童話の形で(明るく・楽しく)」という通例に拘らず、「ごんぎつね」や「最後の胡弓弾き」などのような意外な結末となる童話を世に出していったことに関心を持たれました。また、晩年の一部の作品を除いて、孤独な主人公を書くことが多かったとも言われていますね。<br /><br />日本的な通例に拘らなかったのは、なぜなのか? 南吉が新しい型の童話を創造しようと考えてのことか、或いは欧米の童話の影響があったのか? それとも南吉の個性がそうさせたのか?これについての研究者の話はあんまり聞こえてきません。ちょっと残念ですね。

    縦・横の梁が裸で出ていた当時の農家では、ハシゴとか、竿などの長いものを縦横の梁に載せて、こんな風に「保管場所」として利用されたモンです。私の実家もこんな感じでしたよ。
    こんなところにヤマカガシやマムシでも巻き付いていた日にゃ、そりゃもう、背筋が凍り付いてしまいますよ。

    ところで、南吉が国語の教科書にも採用されたり、広く人々に読まれるようになったこともあって、南吉作品の研究と南吉自身の生活と性格について研究がたくさん見られます。

    作品研究に関しては、南吉が「童話らしく、童話の形で(明るく・楽しく)」という通例に拘らず、「ごんぎつね」や「最後の胡弓弾き」などのような意外な結末となる童話を世に出していったことに関心を持たれました。また、晩年の一部の作品を除いて、孤独な主人公を書くことが多かったとも言われていますね。

    日本的な通例に拘らなかったのは、なぜなのか? 南吉が新しい型の童話を創造しようと考えてのことか、或いは欧米の童話の影響があったのか? それとも南吉の個性がそうさせたのか?これについての研究者の話はあんまり聞こえてきません。ちょっと残念ですね。

  • この井戸も夜ともなれば、暗い中にパックリと口を開けているように見えて、やはり怖かったみたいですね。授業のヒマな時?先生がよく怪談を話されましたが、そこに井戸やトイレがたまに登場するんですね。ですから、夜の井戸とかトイレは本当に恐かったものです。<br />そんな時に、犬の遠吠えや「ゴーン」というウシガエル不気味な声が聞こえようものなら、怖くなって走り出してしまいますね。8歳の南吉にしてみれば、それはそれは怖い環境だったと思います。<br /><br />精神形成においても身体形成においても、4歳から8歳という年齢は決定的に重要な時だと言われています。<br />南吉は、そういう時期に実母を失い、継母を迎え、義弟が生まれて養子に出され、養家での不慣れな人間関係と新たな地理的環境に追い込まれ、結局なじめず「新美」姓のまま「渡辺家」に帰ります。<br /><br />幼少期のこのような体験は、南吉の心底深くに孤独感を植え付け、最も大切な場面での「人への信頼」という心までも、傷つけてしまったように思います。<br />不幸なことに結核にも冒されて、人にも言えない秘密と苦悩・苦労を、さらに背負い込んでしまいます。<br /><br />南吉研究の中で彼の性格が取り上げられ、「孤高」「優越感」「陰険」「無口」「自分のことは打ち明けない」という面のあることが指摘されます。 確かにそうであっても、厳しい境遇の中を耐え、頑張り抜きながら、30歳に満たずして夭折してしまった南吉に対する言葉にしては、あまりに身勝手な気がしてくるのです。<br /><br />そう言う人に対して、「南吉と同じ境遇で育ったなら、あなたはどうなったでしょうか?」と問い返したくなるのです。

    この井戸も夜ともなれば、暗い中にパックリと口を開けているように見えて、やはり怖かったみたいですね。授業のヒマな時?先生がよく怪談を話されましたが、そこに井戸やトイレがたまに登場するんですね。ですから、夜の井戸とかトイレは本当に恐かったものです。
    そんな時に、犬の遠吠えや「ゴーン」というウシガエル不気味な声が聞こえようものなら、怖くなって走り出してしまいますね。8歳の南吉にしてみれば、それはそれは怖い環境だったと思います。

    精神形成においても身体形成においても、4歳から8歳という年齢は決定的に重要な時だと言われています。
    南吉は、そういう時期に実母を失い、継母を迎え、義弟が生まれて養子に出され、養家での不慣れな人間関係と新たな地理的環境に追い込まれ、結局なじめず「新美」姓のまま「渡辺家」に帰ります。

    幼少期のこのような体験は、南吉の心底深くに孤独感を植え付け、最も大切な場面での「人への信頼」という心までも、傷つけてしまったように思います。
    不幸なことに結核にも冒されて、人にも言えない秘密と苦悩・苦労を、さらに背負い込んでしまいます。

    南吉研究の中で彼の性格が取り上げられ、「孤高」「優越感」「陰険」「無口」「自分のことは打ち明けない」という面のあることが指摘されます。 確かにそうであっても、厳しい境遇の中を耐え、頑張り抜きながら、30歳に満たずして夭折してしまった南吉に対する言葉にしては、あまりに身勝手な気がしてくるのです。

    そう言う人に対して、「南吉と同じ境遇で育ったなら、あなたはどうなったでしょうか?」と問い返したくなるのです。

  • これは、南吉養家の背戸にある「かみや美術館」の分館のドアです。<br /><br />取っ手のところに、何かイタチが喰い付いているように見えませんか?<br />ところが、「ごんぎつね」の「ごん」がウナギを咥えて逃げる時の様子だったのですよ。<br /><br />この「ごんぎつね」のストーリーについては、その劇的な最後のまとめ方について積極的な評価が多くあるようです。<br /><br />あの時代は、昭和初期から太平洋戦争へと続く戦争真っ只中という時代で、時代そのものが閉鎖的で自由のない環境にあったと言われています、そのもとで、南吉はお定まりのストーリーや国策童話の方向に流されず、「ごんぎつね」のような個性的な作品を世に送り出してきたのです。これは、南吉作品の特徴的なことだと言われています。<br /><br />一説によれば、この時期には児童文学が政府によって奨励されたこともあったようで、その点では活動しやすかったようです。また「赤い鳥」などでの新しい児童文学への流れのあったことも、南吉の独自の文学活動を結果として支えたと言えるようです。

    これは、南吉養家の背戸にある「かみや美術館」の分館のドアです。

    取っ手のところに、何かイタチが喰い付いているように見えませんか?
    ところが、「ごんぎつね」の「ごん」がウナギを咥えて逃げる時の様子だったのですよ。

    この「ごんぎつね」のストーリーについては、その劇的な最後のまとめ方について積極的な評価が多くあるようです。

    あの時代は、昭和初期から太平洋戦争へと続く戦争真っ只中という時代で、時代そのものが閉鎖的で自由のない環境にあったと言われています、そのもとで、南吉はお定まりのストーリーや国策童話の方向に流されず、「ごんぎつね」のような個性的な作品を世に送り出してきたのです。これは、南吉作品の特徴的なことだと言われています。

    一説によれば、この時期には児童文学が政府によって奨励されたこともあったようで、その点では活動しやすかったようです。また「赤い鳥」などでの新しい児童文学への流れのあったことも、南吉の独自の文学活動を結果として支えたと言えるようです。

  • 取っ手を拡大してみました。<br /><br />「ごんぎつね」のストーリーですと、ウナギは「ごん」の首に巻き付いていたのですが、そこは省略してあるようです。<br /><br />「ごんぎつね」は小学校4年の国語の教科書に採用されているようです。<br />そこで、「ごんぎつね」の授業の時には、子供たちに読ませ、感想を言い合うようです。9〜10歳の子供には、ちょっと難しいようですね。<br /><br />子供に率直な感想・疑問を尋ねたところ、「『ごん』は悪いことをしたのだから撃たれて当然」とか、「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足」「『ごん』は兵十に謝ればよかった」とかの感想が出てきて、それに驚いたという話があります。<br />子供達が育った環境がまるで違う現代の子供にしてみれば、子供達のそうした反応は充分ありうることだと思います。いや、大人だって、ごく少数にそう言う人はいると思います。<br />それにしても、「撃たれて当然」という反応には、子供とは言え、空恐ろしいものを感じます。<br /><br />よくあることですが、読ませて感想を求める。すると、何かを言わなきゃならないから、全体の理解が進まないうちに部分に目がいって、あのような「感想」を言うことになることもあり得ます。 教育だからと言って性急に感想を言わせるのではなく、シッカリ読み込ませて、全体の理解を深める指導をして欲しいモンだと思います。

    取っ手を拡大してみました。

    「ごんぎつね」のストーリーですと、ウナギは「ごん」の首に巻き付いていたのですが、そこは省略してあるようです。

    「ごんぎつね」は小学校4年の国語の教科書に採用されているようです。
    そこで、「ごんぎつね」の授業の時には、子供たちに読ませ、感想を言い合うようです。9〜10歳の子供には、ちょっと難しいようですね。

    子供に率直な感想・疑問を尋ねたところ、「『ごん』は悪いことをしたのだから撃たれて当然」とか、「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足」「『ごん』は兵十に謝ればよかった」とかの感想が出てきて、それに驚いたという話があります。
    子供達が育った環境がまるで違う現代の子供にしてみれば、子供達のそうした反応は充分ありうることだと思います。いや、大人だって、ごく少数にそう言う人はいると思います。
    それにしても、「撃たれて当然」という反応には、子供とは言え、空恐ろしいものを感じます。

    よくあることですが、読ませて感想を求める。すると、何かを言わなきゃならないから、全体の理解が進まないうちに部分に目がいって、あのような「感想」を言うことになることもあり得ます。 教育だからと言って性急に感想を言わせるのではなく、シッカリ読み込ませて、全体の理解を深める指導をして欲しいモンだと思います。

  • 珍しいものを見つけました。<br /><br />入る時は全開になっていたために気がつかなったですけど、この家の出入り口の戸です。「引き戸」になっていますね。<br />この「戸」の何が珍しいかと言いますと、「戸」が「潜り戸(くぐりど・黄色点線)」と一体になった「大戸(おおど・赤の点線)」だったことです。昔の農家の出入り口には、このような「潜り戸」の付いた「大戸」が多かったのです。<br /><br />なぜかと言えば、収穫期だけしか使わない機械類を土間に運び入れたり、大きく纏めた農作物(脱穀前の稲・麦を大きく束ねたものなど)、(特に天気の悪い時などに)大きな道具・用具を運び入れるのに、大きな出入り口が必要だったのです。<br />普段は「大戸」を閉めて、「潜り戸」から出入りしていたのです。「潜り戸」は小さいですから、名の通り潜るようにして出入りします。<br />この写真は、「大戸」が開けられている様子です。<br /><br />現在、古い農村を見ても、殆どの家の出入り口が今風に「改良?」されていて、このような「大戸」の付いている家を見つけるのは難しいですね。

    珍しいものを見つけました。

    入る時は全開になっていたために気がつかなったですけど、この家の出入り口の戸です。「引き戸」になっていますね。
    この「戸」の何が珍しいかと言いますと、「戸」が「潜り戸(くぐりど・黄色点線)」と一体になった「大戸(おおど・赤の点線)」だったことです。昔の農家の出入り口には、このような「潜り戸」の付いた「大戸」が多かったのです。

    なぜかと言えば、収穫期だけしか使わない機械類を土間に運び入れたり、大きく纏めた農作物(脱穀前の稲・麦を大きく束ねたものなど)、(特に天気の悪い時などに)大きな道具・用具を運び入れるのに、大きな出入り口が必要だったのです。
    普段は「大戸」を閉めて、「潜り戸」から出入りしていたのです。「潜り戸」は小さいですから、名の通り潜るようにして出入りします。
    この写真は、「大戸」が開けられている様子です。

    現在、古い農村を見ても、殆どの家の出入り口が今風に「改良?」されていて、このような「大戸」の付いている家を見つけるのは難しいですね。

  • 私達が見学を終えて、大戸を閉めた状態です。<br /><br />日常はこのような状態で、潜り戸から出入りするのです。恐らく、南吉も養家にいた時はこの「潜り戸」から出入りしていたと思います。<br /><br />これも1つの工夫なんですね。そして、農家の建築スタイルでもあったわけで、その意味では「文化」の形でもあるのですね。<br />私は珍しいものを見つけられてちょっと興奮したのですが、ガイドさんには興味がなかったようです。<br /><br />ガイドさんに注文したいのは、こういうことも説明して欲しいと言うことです。ヨーロッパでもそうですが、ガイドさんは、教えられたこととかマニュアルに書いてあること以外のことは、意外なほど知らないのですね。時には、木で鼻を括るような無礼な話でごまかすこともあります。

    私達が見学を終えて、大戸を閉めた状態です。

    日常はこのような状態で、潜り戸から出入りするのです。恐らく、南吉も養家にいた時はこの「潜り戸」から出入りしていたと思います。

    これも1つの工夫なんですね。そして、農家の建築スタイルでもあったわけで、その意味では「文化」の形でもあるのですね。
    私は珍しいものを見つけられてちょっと興奮したのですが、ガイドさんには興味がなかったようです。

    ガイドさんに注文したいのは、こういうことも説明して欲しいと言うことです。ヨーロッパでもそうですが、ガイドさんは、教えられたこととかマニュアルに書いてあること以外のことは、意外なほど知らないのですね。時には、木で鼻を括るような無礼な話でごまかすこともあります。

  • 南吉の墓地へとやって来ました。<br /><br />これは墓地への入り口の左にあるお地蔵さんです。<br />「ごんぎつね」で、「ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。」という墓地は、他の三つの墓地と一緒に集約されてここに引っ越してきたとのことで、「ごんぎつね」の六地蔵さんもここに引っ越しをされて、並んでおられるとのことです。<br /><br />このお地蔵さんの後ろに「ごん」が隠れていたと想像してみると、「ごん」の気持ちが分かるような気がします。<br /><br />★地蔵さんの場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.901694,136.912891&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eabca88f9b1f15dd0

    南吉の墓地へとやって来ました。

    これは墓地への入り口の左にあるお地蔵さんです。
    「ごんぎつね」で、「ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。」という墓地は、他の三つの墓地と一緒に集約されてここに引っ越してきたとのことで、「ごんぎつね」の六地蔵さんもここに引っ越しをされて、並んでおられるとのことです。

    このお地蔵さんの後ろに「ごん」が隠れていたと想像してみると、「ごん」の気持ちが分かるような気がします。

    ★地蔵さんの場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.901694,136.912891&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eabca88f9b1f15dd0

  • 南吉のお墓へ行く途中に、このような道標があります。<br /><br />南吉が有名なだけに、本当に様々に研究されてきたようです。中には、南吉は実力以上に評価されているとか・・(-_-;) 南吉個人については「想像を絶する孤独と喪失感」などと指摘されています。<br /><br />研究者の多くが、南吉個人の性格分析に、また南吉の作品の一字一句の解明に拘りすぎているように感じられてなりません。そうではなく、もう少し現実社会を見て欲しいと思います。<br />と言うのも、南吉個人も南吉の作品も、社会との関わりを無視しては存在しないからです。<br /><br />南吉の性格については、南吉自身が好んでその性格を強めたわけではありません。ですから、南吉の性格を形成させてきた周囲の状況をも分析してみる必要があります。<br /><br />たとえば父や継母・養母の性格や言動とその背景にある生活感情や風習、自分とは異質の人を避ける日本人の習慣、あの時代特に強まっていた地域社会での強い集団性と、それ故の個性の排除が南吉にどう作用していたのかいなかったのかという検討もあっていいと思います。<br /><br />また、社会全体で見れば、未だ個人が成立し得ていない日本社会の特質とか、近代化と言いながら古い権威に拘る社会とか、総合性の欠けた知識偏重の教育等が、南吉と周囲の人々に影響していたかどうかも考えてみる必要があります。<br /><br />それと、何と言っても南吉が若いこと。「ごんぎつね」は16〜18歳で書いています。才能のある南吉と言えども、微に入り細にわたって正確な文章が書けなかったとしても不思議ではないですね。また、そのころにはM子との別れや師範学校不合格、代用教員での屈辱感などの精神的揺れもあったのです。<br /><br />「手袋を買いに」は20歳で書いています。「手袋を買いに」は、最初の吐血の数ヶ月前に書いており、体調はかなり悪かったと思います。<br /><br />南吉は、結婚もしておらず、家庭も持っておらず、ましてや子供もない年齢で、これらの童話を書いているのです。<br /><br />だから、少々のことは見過ごせと言っているのではないのです。南吉のことを、もっと広い目で見るべきだと言いたいのです。

    南吉のお墓へ行く途中に、このような道標があります。

    南吉が有名なだけに、本当に様々に研究されてきたようです。中には、南吉は実力以上に評価されているとか・・(-_-;) 南吉個人については「想像を絶する孤独と喪失感」などと指摘されています。

    研究者の多くが、南吉個人の性格分析に、また南吉の作品の一字一句の解明に拘りすぎているように感じられてなりません。そうではなく、もう少し現実社会を見て欲しいと思います。
    と言うのも、南吉個人も南吉の作品も、社会との関わりを無視しては存在しないからです。

    南吉の性格については、南吉自身が好んでその性格を強めたわけではありません。ですから、南吉の性格を形成させてきた周囲の状況をも分析してみる必要があります。

    たとえば父や継母・養母の性格や言動とその背景にある生活感情や風習、自分とは異質の人を避ける日本人の習慣、あの時代特に強まっていた地域社会での強い集団性と、それ故の個性の排除が南吉にどう作用していたのかいなかったのかという検討もあっていいと思います。

    また、社会全体で見れば、未だ個人が成立し得ていない日本社会の特質とか、近代化と言いながら古い権威に拘る社会とか、総合性の欠けた知識偏重の教育等が、南吉と周囲の人々に影響していたかどうかも考えてみる必要があります。

    それと、何と言っても南吉が若いこと。「ごんぎつね」は16〜18歳で書いています。才能のある南吉と言えども、微に入り細にわたって正確な文章が書けなかったとしても不思議ではないですね。また、そのころにはM子との別れや師範学校不合格、代用教員での屈辱感などの精神的揺れもあったのです。

    「手袋を買いに」は20歳で書いています。「手袋を買いに」は、最初の吐血の数ヶ月前に書いており、体調はかなり悪かったと思います。

    南吉は、結婚もしておらず、家庭も持っておらず、ましてや子供もない年齢で、これらの童話を書いているのです。

    だから、少々のことは見過ごせと言っているのではないのです。南吉のことを、もっと広い目で見るべきだと言いたいのです。

  • 南吉の墓です。<br />どなたかが、花を手向けて下さっているのですね。<br /><br />南吉作品が「実力以上」の評価をされていると言う人もおれば、「社会人として未熟」だったという人もいます。このような評価に至っては、南吉が可哀想に思えてきます。<br /><br />人々からの「実力以上」の評価に関しては、南吉の責任ではありません。彼の作品を評価した社会そのものが問われなければなりません。<br />そもそも、「上手く書いた」と評価されるものが何なのかは、大いに疑問のあるところです。真剣に書けば書くほど、的外れな評価に遭遇することが実に多いですからね。<br /><br />社会人としての南吉の評価についても、確かにそう言う感じは否定できません。しかし、あの当時の、いや現在の日本人全体の生活意識に対しても、南吉と南吉作品はどう位置づけられるのか?と、尋ねたいですね。 また、社会人としての評価と作品の評価とがどういう関係にあるのか? が、明確にされなければならないと思います。<br /><br />(その1)でも述べましたが、南吉に較べて健康面でも金銭面でも家庭面でも研究・執筆環境でも遙かにめぐまれた人々が、南吉の作品と彼の性格を文学者という狭い枠の中で捉えて、詮索してきたことに、強い違和感を持ちます。そうした人々の群像を想いますと、現場も見ないで研究会ばかりをしている学者・研究者・アナリストの姿が重なってきます。<br /><br />研究するなら、内外の童話作品の中での特徴と位置づけ、研究者自身も含めた日本文学の特色と、南吉文学の特徴を打ち出して欲しいと思いますね。例えば、グリム童話やアンデルセンの童話・日本の他の作家の童話とどう違うのかを、地域風土や宗教・時代を踏まえて研究して欲しいですね。<br />文学者といえども作品の研究をする以上は、社会を見る目をより広めて、より広い視野で取り組んで欲しいと思いましたね。 <br /><br /> そう、「思いやり」も含めてね!!<br /><br />南吉の墓の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.902308,136.913221&amp;spn=0.001124,0.001155&amp;iwloc=0004eabca4f8917335191

    南吉の墓です。
    どなたかが、花を手向けて下さっているのですね。

    南吉作品が「実力以上」の評価をされていると言う人もおれば、「社会人として未熟」だったという人もいます。このような評価に至っては、南吉が可哀想に思えてきます。

    人々からの「実力以上」の評価に関しては、南吉の責任ではありません。彼の作品を評価した社会そのものが問われなければなりません。
    そもそも、「上手く書いた」と評価されるものが何なのかは、大いに疑問のあるところです。真剣に書けば書くほど、的外れな評価に遭遇することが実に多いですからね。

    社会人としての南吉の評価についても、確かにそう言う感じは否定できません。しかし、あの当時の、いや現在の日本人全体の生活意識に対しても、南吉と南吉作品はどう位置づけられるのか?と、尋ねたいですね。 また、社会人としての評価と作品の評価とがどういう関係にあるのか? が、明確にされなければならないと思います。

    (その1)でも述べましたが、南吉に較べて健康面でも金銭面でも家庭面でも研究・執筆環境でも遙かにめぐまれた人々が、南吉の作品と彼の性格を文学者という狭い枠の中で捉えて、詮索してきたことに、強い違和感を持ちます。そうした人々の群像を想いますと、現場も見ないで研究会ばかりをしている学者・研究者・アナリストの姿が重なってきます。

    研究するなら、内外の童話作品の中での特徴と位置づけ、研究者自身も含めた日本文学の特色と、南吉文学の特徴を打ち出して欲しいと思いますね。例えば、グリム童話やアンデルセンの童話・日本の他の作家の童話とどう違うのかを、地域風土や宗教・時代を踏まえて研究して欲しいですね。
    文学者といえども作品の研究をする以上は、社会を見る目をより広めて、より広い視野で取り組んで欲しいと思いましたね。

    そう、「思いやり」も含めてね!!

    南吉の墓の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.902308,136.913221&spn=0.001124,0.001155&iwloc=0004eabca4f8917335191

  • お墓の裏面です。<br />行年31才となっていますが、昔風の「数え年」ですね。<br /><br />「童話、詩、小説の作家歿後名声高まる」と彫ってありました。 建立の年月は昭和35年12月となっています。あの伊勢湾台風が来襲した翌年で、南吉歿後17年と9ヶ月ほど経過した日付になっています。<br />建立者には南吉の父、渡辺多蔵の名前もありますが、多蔵はこの墓の出来る前の年の昭和34年の南吉17回忌の法要から2ヶ月後の5月20日(21日とも)に、息子の立派な墓を見ることなく亡くなっています。養母の志もさんは昭和36年に70歳台後半で亡くなっています。<br /><br />南吉は8歳の時に新美家に養子に出されて以来、渡辺姓に戻ることはなかったのです。このことが南吉をして孤独な生涯を歩ませた決定的な要因になったと思いますね。<br />渡辺家の後を継ぐはずだった継母の息子も戦死し、渡辺家は断絶していったのでした。

    お墓の裏面です。
    行年31才となっていますが、昔風の「数え年」ですね。

    「童話、詩、小説の作家歿後名声高まる」と彫ってありました。 建立の年月は昭和35年12月となっています。あの伊勢湾台風が来襲した翌年で、南吉歿後17年と9ヶ月ほど経過した日付になっています。
    建立者には南吉の父、渡辺多蔵の名前もありますが、多蔵はこの墓の出来る前の年の昭和34年の南吉17回忌の法要から2ヶ月後の5月20日(21日とも)に、息子の立派な墓を見ることなく亡くなっています。養母の志もさんは昭和36年に70歳台後半で亡くなっています。

    南吉は8歳の時に新美家に養子に出されて以来、渡辺姓に戻ることはなかったのです。このことが南吉をして孤独な生涯を歩ませた決定的な要因になったと思いますね。
    渡辺家の後を継ぐはずだった継母の息子も戦死し、渡辺家は断絶していったのでした。

  • JR武豊線の半田駅です。今から、JRの電車で帰るのではないですよ。<br /><br />武豊線はJR東海では最も古い路線とのことですが、この跨線橋も、明治43年11月に建造された全国で最も古い跨線橋とのことです。<br /><br />南吉が生まれる以前からあったこの駅と跨線橋ですから、南吉もこの跨線橋を渡っているかも知れませんね(^^)<br /><br />この頃の童話の特徴は、作者が暮らした地域の様子がたびたび登場すると言われています。<br />本当に当時の子供達の動きや心の様子、街や川・山の様子がそのまま書かれているようで、読んでいる私達も違和感なく読み進むことが出来ます。<br /><br />南吉の作品もそうでした。私自身の幼少の頃も、道路やお店の前とかお宮、川などで遊んだものです。道路も自動車が走ることは少なく、立派な??遊び場でしたね。ですから、南吉の少年時代が数多く反映されている童話は、とても身近に感じます。<br /><br />そう思いますと、最近の子供は戸外で遊ぶことが少ないですね。若い童話作家自身も幼少時に戸外で遊んだ経験が少ないと思いますから、どんな童話を書いているのか?ちょっと考えてしまいました。一度、図書館でのぞいて見たいと思いました。

    JR武豊線の半田駅です。今から、JRの電車で帰るのではないですよ。

    武豊線はJR東海では最も古い路線とのことですが、この跨線橋も、明治43年11月に建造された全国で最も古い跨線橋とのことです。

    南吉が生まれる以前からあったこの駅と跨線橋ですから、南吉もこの跨線橋を渡っているかも知れませんね(^^)

    この頃の童話の特徴は、作者が暮らした地域の様子がたびたび登場すると言われています。
    本当に当時の子供達の動きや心の様子、街や川・山の様子がそのまま書かれているようで、読んでいる私達も違和感なく読み進むことが出来ます。

    南吉の作品もそうでした。私自身の幼少の頃も、道路やお店の前とかお宮、川などで遊んだものです。道路も自動車が走ることは少なく、立派な??遊び場でしたね。ですから、南吉の少年時代が数多く反映されている童話は、とても身近に感じます。

    そう思いますと、最近の子供は戸外で遊ぶことが少ないですね。若い童話作家自身も幼少時に戸外で遊んだ経験が少ないと思いますから、どんな童話を書いているのか?ちょっと考えてしまいました。一度、図書館でのぞいて見たいと思いました。

  • 南吉関連の見学を終えて、帰途につきました。<br />また車窓の光景をご覧下さいね。<br /><br />朝行く時にも見た、アイシン高丘の本社工場です。<br /><br />生産しているものは自動車部品が多いようです。<br />屋根の高いこの工場建屋は、プレス関連の工場かも知れませんね。<br /><br />★アイシン高丘の場所は↓にて(再掲)<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=35.027598,137.071309&amp;spn=0.004489,0.004619&amp;iwloc=0004eacf8fc1302bb9ebc

    南吉関連の見学を終えて、帰途につきました。
    また車窓の光景をご覧下さいね。

    朝行く時にも見た、アイシン高丘の本社工場です。

    生産しているものは自動車部品が多いようです。
    屋根の高いこの工場建屋は、プレス関連の工場かも知れませんね。

    ★アイシン高丘の場所は↓にて(再掲)
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.027598,137.071309&spn=0.004489,0.004619&iwloc=0004eacf8fc1302bb9ebc

  • 豊田市は産業の町として世界的に有名ですが、大学もちょっとばかりあるのです(^o^)<br />現在時点では5〜6校の大学が校舎又は本部を置いていますよ。<br /><br />あの建物は、現地では有名な愛知学泉大学です。豊田市に本部を置いてがんばっている大学です。<br /><br />★愛知学泉大学の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=35.104113,137.124524&amp;spn=0.0026,0.002739&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace8d9f4495a996e,35.104532,137.124138,0,-32

    豊田市は産業の町として世界的に有名ですが、大学もちょっとばかりあるのです(^o^)
    現在時点では5〜6校の大学が校舎又は本部を置いていますよ。

    あの建物は、現地では有名な愛知学泉大学です。豊田市に本部を置いてがんばっている大学です。

    ★愛知学泉大学の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.104113,137.124524&spn=0.0026,0.002739&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace8d9f4495a996e,35.104532,137.124138,0,-32

  • ここに見える工場は、トヨタの貞宝工場です。<br />堤工場や元町工場のような車両生産一貫工場ではなくて、いわゆる間接部門の工場で、工機部門の工場のようです。<br /><br />★トヨタの貞宝工場の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=35.1011,137.135918&amp;spn=0.010402,0.010954&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace70de3d438f440,35.103022,137.134073,0,-32

    ここに見える工場は、トヨタの貞宝工場です。
    堤工場や元町工場のような車両生産一貫工場ではなくて、いわゆる間接部門の工場で、工機部門の工場のようです。

    ★トヨタの貞宝工場の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.1011,137.135918&spn=0.010402,0.010954&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace70de3d438f440,35.103022,137.134073,0,-32

  • こちらの建物は「豊田工業高等専門学校(略称・トヨタ高専)」です。<br />テレビの放送でやる「全国高専ロボットコンテスト」にも出場していますよ。<br /><br />★豊田工業高等専門学校の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=35.102735,137.148677&amp;spn=0.0026,0.002739&amp;iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace66158e48fbe9c,35.103198,137.148192,0,-32

    こちらの建物は「豊田工業高等専門学校(略称・トヨタ高専)」です。
    テレビの放送でやる「全国高専ロボットコンテスト」にも出場していますよ。

    ★豊田工業高等専門学校の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=35.102735,137.148677&spn=0.0026,0.002739&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f,0004eace66158e48fbe9c,35.103198,137.148192,0,-32

  • この時期はススキの綺麗な季節でした。<br /><br />きょうは新美南吉の記念館と生家・養家をはじめ、南吉関連の展示と地域を見学しました。<br />何ごとにも浅はかで、ましてや文学なんて遠い宇宙の果てのコトと思っていた私ですが、今回はその文学を書く人に初めて触れました。<br /><br />それにしても、文学というのは大変なもんだと思いました。作品研究と言いながら、本人はともかく、既に亡くなっている親族まで引っ張り出されるのですからね〜(-_-;) こうなると、やっぱり当たり障りのない、目出度しメデタシのストーリーを書いているのが、無難というものですね。でも、それでは下味や隠し味のない料理みたいなもんで、面白くない(^^;)<br /><br />どこかで読んだ話ですと、ある人が橋の向こうに沈み行く夕陽を見たとして、疲れて空腹でカネもない時の感じ方と、満腹で財布にもおカネがある時の感じ方とは、全然違うとのことでした。文学的に感じるのは、絶対に前者の方だとか(^O^)(~o~)<br /><br />私が新見南吉のことをアレコレ書いてしまったのは、大変おこがましいことだと思います。<br />しかし、意外なところに意外な評論のあることを知ってしまいますと、ちょっと疑問を感じてしまったのです。<br /><br />もう一つ感じたことは、作品自体をもっとよく読み、味わって欲しいなぁということです。そして、南吉作品を広い世界の中に分かりやすく位置づけて欲しいということです。「どうまん」を「びく」と言い換えたり、「納屋」を「物置」に変えてしまうのは分かりやすい例ですが、こういう作者軽視の姿勢が作品研究の根底にあるとしたら、作品評価そのものを歪めてしまいますよね。<br /><br />色々なことを感じてしまった今回の「新見南吉ツアー」でした。

    この時期はススキの綺麗な季節でした。

    きょうは新美南吉の記念館と生家・養家をはじめ、南吉関連の展示と地域を見学しました。
    何ごとにも浅はかで、ましてや文学なんて遠い宇宙の果てのコトと思っていた私ですが、今回はその文学を書く人に初めて触れました。

    それにしても、文学というのは大変なもんだと思いました。作品研究と言いながら、本人はともかく、既に亡くなっている親族まで引っ張り出されるのですからね〜(-_-;) こうなると、やっぱり当たり障りのない、目出度しメデタシのストーリーを書いているのが、無難というものですね。でも、それでは下味や隠し味のない料理みたいなもんで、面白くない(^^;)

    どこかで読んだ話ですと、ある人が橋の向こうに沈み行く夕陽を見たとして、疲れて空腹でカネもない時の感じ方と、満腹で財布にもおカネがある時の感じ方とは、全然違うとのことでした。文学的に感じるのは、絶対に前者の方だとか(^O^)(~o~)

    私が新見南吉のことをアレコレ書いてしまったのは、大変おこがましいことだと思います。
    しかし、意外なところに意外な評論のあることを知ってしまいますと、ちょっと疑問を感じてしまったのです。

    もう一つ感じたことは、作品自体をもっとよく読み、味わって欲しいなぁということです。そして、南吉作品を広い世界の中に分かりやすく位置づけて欲しいということです。「どうまん」を「びく」と言い換えたり、「納屋」を「物置」に変えてしまうのは分かりやすい例ですが、こういう作者軽視の姿勢が作品研究の根底にあるとしたら、作品評価そのものを歪めてしまいますよね。

    色々なことを感じてしまった今回の「新見南吉ツアー」でした。

  • 最後に、南吉の晩年の作品で、名作と言われている「おぢいさんのランプ」を、ミニチュアセットでご紹介したいと思います。<br /><br />−−−−−−−−−−−−−−−−−−<br /><br />おぢいさんのランプ <その1><br /><br />かくれんぼで、倉の隅っこにもぐりこんだ東一君がランプを持って出てきました。それはめずらしい形のランプでした。太い竹の筒が台になっていて、そのうえにちょっぴり灯の点る細いガラスの筒がくっついていたのです。<br /><br />東一君のおじいさんがそれを見た時、初めは何だかわからなかったのですが、それがランプであることが分かると、<br />「こらこら、お前達は何を持ち出すか。黙って遊ばせておけば何を持ち出すやら・・。」<br /><br />と、子供達を?りはじめたのです。

    最後に、南吉の晩年の作品で、名作と言われている「おぢいさんのランプ」を、ミニチュアセットでご紹介したいと思います。

    −−−−−−−−−−−−−−−−−−

    おぢいさんのランプ <その1>

    かくれんぼで、倉の隅っこにもぐりこんだ東一君がランプを持って出てきました。それはめずらしい形のランプでした。太い竹の筒が台になっていて、そのうえにちょっぴり灯の点る細いガラスの筒がくっついていたのです。

    東一君のおじいさんがそれを見た時、初めは何だかわからなかったのですが、それがランプであることが分かると、
    「こらこら、お前達は何を持ち出すか。黙って遊ばせておけば何を持ち出すやら・・。」

    と、子供達を?りはじめたのです。

  • <その2><br /><br />夕飯のあと、東一君は居間の隅に置いてあったランプのところへ行って、ランプをいじくってみました。<br />おじいさんはそんな東一君を見て、「ここへ座れ」と言って昔の話を聞かせてやりました。おじいさんにとって、このランプはとてもなつかしいものでした。<br />「今から50年くらい前の日露戦争のころ、岩滑新田の村に巳之助という少年がいました」<br />東一君は話が好きだから、おじいさんの前にいつもの姿勢をとって聞き始めました。

    <その2>

    夕飯のあと、東一君は居間の隅に置いてあったランプのところへ行って、ランプをいじくってみました。
    おじいさんはそんな東一君を見て、「ここへ座れ」と言って昔の話を聞かせてやりました。おじいさんにとって、このランプはとてもなつかしいものでした。
    「今から50年くらい前の日露戦争のころ、岩滑新田の村に巳之助という少年がいました」
    東一君は話が好きだから、おじいさんの前にいつもの姿勢をとって聞き始めました。

  • <その3><br /><br />巳之助は、父母や兄弟もなく、親戚もいない全くのみなし子でした。それで、村の人達の使い走りをしたり、米を搗いてあげたり、自分の出来ることなら何でもお手伝いをして、村の衆のお世話になって生活していました。<br /><br />ある夏の日、巳之助は急ぎの客の人力車の先綱(さきづな)を頼まれました。村から一歩も出たことがない巳之助にとって、峠の向こうに何があるのかと、好奇心いっぱいの仕事でした。<br /><br />【※】先綱……人力車や大八車の柄に結わえた縄の先端を肩に担いで、人力車や大八車をを引っ張る人(こうすると、二人で車を引くことになります。人力車の場合、先綱をつけると、乗客は割増金を請求されるようです)。

    <その3>

    巳之助は、父母や兄弟もなく、親戚もいない全くのみなし子でした。それで、村の人達の使い走りをしたり、米を搗いてあげたり、自分の出来ることなら何でもお手伝いをして、村の衆のお世話になって生活していました。

    ある夏の日、巳之助は急ぎの客の人力車の先綱(さきづな)を頼まれました。村から一歩も出たことがない巳之助にとって、峠の向こうに何があるのかと、好奇心いっぱいの仕事でした。

    【※】先綱……人力車や大八車の柄に結わえた縄の先端を肩に担いで、人力車や大八車をを引っ張る人(こうすると、二人で車を引くことになります。人力車の場合、先綱をつけると、乗客は割増金を請求されるようです)。

  • <その4><br /><br />日暮れ頃、人力車は大野の町に着きました。巳之助の村には小さな店が一軒しかなかったけど、大野では大きな店が軒を並べているのが珍しかったのでした。巳之助を一番おどろかしたのは、花のように明るいガラスのランプでした。<br /><br />巳之助の村では夜には灯りの無い家が多くて、何でも手探りで探していました。少し贅沢な家ではあんどんを使っていました。そのため、明るいランプの点いた大野の町は、まるで竜宮城のように感じたのです。<br /><br />それで、巳之助はランプを売っている店に行って、ランプの扱い方を教えてもらってランプを買い、ランプ屋を始めました。ランプを吊した車をしたてて売りにでかけました。ランプは大変な評判で、巳之助はこれまで暗かった家々に文明開化の火をともしていくような気がしたのでした。<br /><br />商売が繁盛して、家も造って、お嫁さんももらったのでした。

    <その4>

    日暮れ頃、人力車は大野の町に着きました。巳之助の村には小さな店が一軒しかなかったけど、大野では大きな店が軒を並べているのが珍しかったのでした。巳之助を一番おどろかしたのは、花のように明るいガラスのランプでした。

    巳之助の村では夜には灯りの無い家が多くて、何でも手探りで探していました。少し贅沢な家ではあんどんを使っていました。そのため、明るいランプの点いた大野の町は、まるで竜宮城のように感じたのです。

    それで、巳之助はランプを売っている店に行って、ランプの扱い方を教えてもらってランプを買い、ランプ屋を始めました。ランプを吊した車をしたてて売りにでかけました。ランプは大変な評判で、巳之助はこれまで暗かった家々に文明開化の火をともしていくような気がしたのでした。

    商売が繁盛して、家も造って、お嫁さんももらったのでした。

  • <その5><br /><br />明るいランプの下で新聞の字もはっきり見えるようになりました。けど、巳之助は字が読めませんでした。そこで、毎晩区長さんのところへ字を教えてもらいに行き、一生懸命に勉強したので1年で新聞が読めるようになりました。<br /><br />そんなある日、巳之助が大野へ出掛けた時に、柱を立てる工事を見ました。おじさんに尋ねると「電気というもんがひけて、ランプはいらなくなるげな」という話でした。また別の日に行くと、柱が黒い綱でどこまでも繋がれて、その柱から黒い綱が2本家の軒端につながれていました。<br /><br />巳之助が知り合いの甘酒屋に入って行くと、ランプが片付けられて、変な形のランプが天井から吊ってありました。夜になると、だれも火を点けないのに店の中が突然昼間のように明るくなったので、巳之助はびっくりしました。<br /><br />「巳之さん、これが電気だよ」<br />電気を知った巳之助は、悔しさに肩で息をしながら長い間ながめていました。

    <その5>

    明るいランプの下で新聞の字もはっきり見えるようになりました。けど、巳之助は字が読めませんでした。そこで、毎晩区長さんのところへ字を教えてもらいに行き、一生懸命に勉強したので1年で新聞が読めるようになりました。

    そんなある日、巳之助が大野へ出掛けた時に、柱を立てる工事を見ました。おじさんに尋ねると「電気というもんがひけて、ランプはいらなくなるげな」という話でした。また別の日に行くと、柱が黒い綱でどこまでも繋がれて、その柱から黒い綱が2本家の軒端につながれていました。

    巳之助が知り合いの甘酒屋に入って行くと、ランプが片付けられて、変な形のランプが天井から吊ってありました。夜になると、だれも火を点けないのに店の中が突然昼間のように明るくなったので、巳之助はびっくりしました。

    「巳之さん、これが電気だよ」
    電気を知った巳之助は、悔しさに肩で息をしながら長い間ながめていました。

  • <その6><br /><br />巳之助は文明開化という言葉が好きでしたが、電燈が文明開化だとは思えませんでした。<br />それからというもの、巳之助は電燈が自分の村に引かれることを恐れるようになりました。しばらくして、「村会で、電燈を引くかどうか決めるげな」という噂が立ち、まもなく岩滑新田の村にも電燈を引くことに決まりました。<br /><br />電燈がひかれると聞いた巳之助は頭がおかしくなって、村会で議長をした区長をうらむことにしました。そこで、区長の牛小屋に火をつけようとしました。巳之助はマッチを探したけど見つからなかったので、近くにあった火打ち道具を持ってきました。<br />でも、なかなか火がつきません。「マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなァ、いざというとき間にあわねえだなァ」と、つぶやきました。<br /><br />「古くせえもなァ間にあわねえ・・」この言葉をキッカケに、巳之助の心は明るく晴れてきたのでした。

    <その6>

    巳之助は文明開化という言葉が好きでしたが、電燈が文明開化だとは思えませんでした。
    それからというもの、巳之助は電燈が自分の村に引かれることを恐れるようになりました。しばらくして、「村会で、電燈を引くかどうか決めるげな」という噂が立ち、まもなく岩滑新田の村にも電燈を引くことに決まりました。

    電燈がひかれると聞いた巳之助は頭がおかしくなって、村会で議長をした区長をうらむことにしました。そこで、区長の牛小屋に火をつけようとしました。巳之助はマッチを探したけど見つからなかったので、近くにあった火打ち道具を持ってきました。
    でも、なかなか火がつきません。「マッチを持って来りゃよかった。こげな火打みてえな古くせえもなァ、いざというとき間にあわねえだなァ」と、つぶやきました。

    「古くせえもなァ間にあわねえ・・」この言葉をキッカケに、巳之助の心は明るく晴れてきたのでした。

  • <その7><br /><br />世の中は文明開化が進んだのでした。巳之助は今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかりました。<br /><br />世の中の進むのを邪魔したり、何の怨みもない人を怨んだりしたのは、恥ずかしいことでした。世の中が進んだのだから、古い商売はすっぱり捨てて、世の中のためになる新しい商売に変わることにしました。<br /><br />巳之助は、家にあるすべてのランプを半田池の3本の木の枝に吊しました。全てのランプに火を点けると、あたりは昼のように明るくなって、池の魚も集まってきました。<br /><br />「わしの、商売のやめ方はこれだ!」と言って、ランプを目指して石ころを投げつけると、パリーンと音がしてランプの一つの火が消えました。三番目のランプが割れたとき、もう涙でねらいを定めることはできませんでした。<br /><br />こうして、巳之助はこれまでの商売をやめたのでした。それから町に出て、新しい商売をはじめました。本屋になったのです。

    <その7>

    世の中は文明開化が進んだのでした。巳之助は今になって、自分のまちがっていたことがはっきりとわかりました。

    世の中の進むのを邪魔したり、何の怨みもない人を怨んだりしたのは、恥ずかしいことでした。世の中が進んだのだから、古い商売はすっぱり捨てて、世の中のためになる新しい商売に変わることにしました。

    巳之助は、家にあるすべてのランプを半田池の3本の木の枝に吊しました。全てのランプに火を点けると、あたりは昼のように明るくなって、池の魚も集まってきました。

    「わしの、商売のやめ方はこれだ!」と言って、ランプを目指して石ころを投げつけると、パリーンと音がしてランプの一つの火が消えました。三番目のランプが割れたとき、もう涙でねらいを定めることはできませんでした。

    こうして、巳之助はこれまでの商売をやめたのでした。それから町に出て、新しい商売をはじめました。本屋になったのです。

  • <その8・最終><br /><br />「巳之助さんは今でもまだ本屋をしている。もっとも今じゃだいぶ年とったので、息子が店はやっているがね」<br />そう言って、おじいさんのお話は終わりました。<br />巳之助さんは東一君のおじいさんだったのです。東一君はおじいさんの顔を見て言いました。<br />「おじいさんは、えらかったんだね。」<br /><br /><おぢいさんのランプ>おわり<br />−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−<br />★大野の町の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.936038,136.827309&amp;spn=0.002487,0.002773&amp;iwloc=0004eefb8e8643533f023<br />★半田池の場所は↓にて<br />https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&amp;msa=0&amp;ll=34.915083,136.882948&amp;spn=0.004975,0.005547&amp;iwloc=00047b65b05c25eddba90<br /><br /><br />南吉の職業は?と問われれば、学校の先生と答えます。そう、教員でした。<br />でも、南吉の職業は童話作家だったと言う人もいます。彼は童話で食べていける収入はなかったけど、童話に命を捧げた人だったから、彼の職業は童話作家だということでした。<br /><br /><おわり><br />

    <その8・最終>

    「巳之助さんは今でもまだ本屋をしている。もっとも今じゃだいぶ年とったので、息子が店はやっているがね」
    そう言って、おじいさんのお話は終わりました。
    巳之助さんは東一君のおじいさんだったのです。東一君はおじいさんの顔を見て言いました。
    「おじいさんは、えらかったんだね。」

    <おぢいさんのランプ>おわり
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    ★大野の町の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.936038,136.827309&spn=0.002487,0.002773&iwloc=0004eefb8e8643533f023
    ★半田池の場所は↓にて
    https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00047b52641a3d30aa61f&msa=0&ll=34.915083,136.882948&spn=0.004975,0.005547&iwloc=00047b65b05c25eddba90


    南吉の職業は?と問われれば、学校の先生と答えます。そう、教員でした。
    でも、南吉の職業は童話作家だったと言う人もいます。彼は童話で食べていける収入はなかったけど、童話に命を捧げた人だったから、彼の職業は童話作家だということでした。

    <おわり>

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この旅行記へのコメント (6)

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  • pedaruさん 2014/01/14 06:44:58
    新美南吉
    カメちゃんさん お早うございます。

    新美南吉という名は初めての耳にしました。ごん狐の話はおぼろげに憶えています。
    私が今回この旅行記を読んで(まさに読むという言葉が相応しい内容です。)驚いたことは、旅行記全体を貫いている誠実さです。丁寧な記述と検証、・・私は一字一句忽せに出来ないと思い、読み進めました。お陰で他の旅行記を見る時間が犠牲(笑)になりました。

    色んなタイプの旅行記の中で、これには、久しぶりに感銘を受けました。もっと早く訪問すべきだったと後悔しています。

    特に私の心に響いたのは、内容に共通点がある事や筆者の年代が近い所かも知れません。

    家の外にある便所、かまど、家の作り、調度品など懐かしく思います。それをご自分の経験や感想を交えての文章はとても惹きつけられるものがあります。

    我が家にも妻の実家から貰ってきた掛け時計がありますが、振り子の棒の部分が竹製なのには驚きます。懐かしいものが沢山出てきました。有難うございました。  また訪問します。

    pedaru

    カメちゃん

    カメちゃんさん からの返信 2014/01/14 17:18:40
    RE: 嬉しいコメントをありがとう御座いました。
    pedaruさん こんにちは

    所用でお返事が遅くなりまして、申し訳ありません。

    新美南吉の旅行記を読んで下さって、取っても嬉しくて!!
    感謝と御礼の気持ちでいっぱいです!!
    本当にありがとうございました。

    > 特に私の心に響いたのは、内容に共通点がある事や筆者の年代が近い所かも知れません。

    お話の通りですね。
    昨年が南吉生誕100年と言うことですから、私は彼よりも一世代若いということになります。
    しかし、田舎の暮らしの変化は遅々としたもので、戦後まもない私の子供の頃と南吉の暮らした地域の様子とはそんなに大きな違いはなく、また「三河湾」沿岸だったという共通項もあって、彼の話はとても身近に感じたものです。

    ですから、彼の童話の中での方言とか物の呼び方などが、編集者などによって差し替えられていますと、ちょっと疑問を感じてしまうこともありましたね。「どうまん」→「びく」などはその典型のように感じます。
    その分、南吉への共感も感じるのかな〜と思ってもみます。

    > 我が家にも妻の実家から貰ってきた掛け時計がありますが、振り子の棒の部分が竹製なのには驚きます。懐かしいものが沢山出てきました。有難うございました。

    木とか竹とかを利用して作られたものは、本当に懐かしいですね。
    人の心と技が感じられる時代だったなぁと、妙に感傷的なったりもします。

    南吉関連の物を見学して・読んで、感じたことは、評論家諸氏の批評内容ですね。
    彼らの言ってることの一つ一つは分かるのですが、南吉の生涯を思いますと、何となく心に引っかかりを感じてしまいました。

    pedaruさんにはご丁寧に読んでいただいて、本当に有り難うございました。
    これからもよろしくお願いします。
    カメちゃん
  • 白い華さん 2014/01/10 21:03:27
    「新美南吉の スペシャルな・・・文学ツアー」に 参加。
    こんばんは。

    学校で 新美南吉 作 『 ごんぎつね 』 は、 習った!記憶・・・が ある。のですが、
    どうゆう 内容だったか?は、 覚えていない・・・私。

    でも、今回・・・「カメちゃん ご夫妻!が 新美南吉 スペシャル・ツアー」に 参加して、 「記念館 実家や 墓地など」と 南吉の 生涯!を 「建築物など・・・の 形」を 眺めて・・・の 「文学 散歩」は、
    『 南吉ファン 』 には、最高〜!の 旅。って 思いました。

    ところで、 南吉は、「東京外語大学に 進んだ」って、 スゴい!ですね〜。
    まぁ〜 若くして、「不治の病」に 侵されてしまい、 生活してたら、よっぽど・・・気をつけていない。と、
    大昔・・の 暮らし!の 貧しさ。を 考えたら、 「穀潰し!」って 継母にも 罵られる。のは、ほんと・・・「皆、 そうゆう・・・言葉尻」って 出てしまう。って 解ります。 カメちゃんも そう〜!おもうのですね。(笑)

    「田の字・形・・・の 土間付き!の 家」の 火鉢。高〜い! 梁木・・・に ヘビ君。ですか〜〜〜っ ?
    でも、隙間が 多い・・・「昔ながら・・・の 家」では、 そんなコト!も 聞いたこと。が あります。

    新美南吉の お話・・・と、 カメちゃんの 懐かしい〜!子供時代(体験)が 交差した・・・この 旅行記。
    私も、「懐かしい〜 建物!ファン」なので、
    カメちゃんの 子供時代・・・の お話。も とても、勉強に なって、マスマス・・・「歴史的な 建物!を 見る時の おもしろさ」が 増してくるみたい!に 思えました。

    最後は、「新美南吉の 墓地」で お参り。。。

    一日掛かり!で  「新美南吉の スペシャルな・・・文学ツアー」に 参加。は、 とても、いい〜 時間。そして、 いい〜! 旅。って 思いました。

    お天気に 恵まれた・・・ 近場!なのに、「知らなかったこと!を 突き詰める・・・ 小さな 旅」。
    こうゆう・・・旅!も いいもんだ。
    でも、 なかなか・・・巡り会えない。
    素敵!な 「文学 散歩」・・・でしたね。 (♪)

       これからも よろしくお願いします。

    カメちゃん

    カメちゃんさん からの返信 2014/01/10 22:49:26
    RE: 勉強になりましたよ(^^)
    白い華さん こんばんは(^^)

    長々と書いてしまった新美南吉の旅行記をご覧下さって、ありがとう御座います!!

    白い華さんも小学校で「ごんぎつね」を習ったご様子とか(^^)
    内容までは、そりゃもう忘れてしまいますよね〜。

    新美南吉記念館を訪れたのは2度目のことでしたので、今回は南吉のことをご紹介しようと思いました。そうしたら、意外な話がどんどん出てきて、長いコメントがますます長くなってしまいました(-_-)

    > 『 南吉ファン 』 には、最高〜!の 旅。って 思いました。

    新美南吉記念館と南吉のふるさとを巡るツアーは、南吉ファンには最高ですよね(^^)
    彼岸花の咲く時には、もっと良いですよ!!
    そんな時には、半田の歴史散歩も含めて2日間の日程を取りますと、ゆっくり楽しめます。

    > ところで、 南吉は、「東京外語大学に 進んだ」って、 スゴい!ですね〜。

    とにかく、アタマがよい!!
    小学校は首席で、中学は次席で卒業なんて、私からみたら神様ですよ!!
    師範学校を落ちて、外国文学も学べる東京外語大学に行けたことの方がよかったですね。
    しかし、何と言っても健康でなくっちゃね〜(-_-)。30歳にならずして他界とは、才能が才能だけに本当にモッタイナイですね。

    > 大昔・・の 暮らし!の 貧しさ。を 考えたら、 「穀潰し!」って 継母にも 罵られる。のは、ほんと・・・「皆、 そうゆう・・・言葉尻」って 出てしまう。って 解ります。 カメちゃんも そう〜!おもうのですね。(笑)

    これなんですよね〜(-_-;)
    皆さんは継母や養母を責めることが多いですが、現在でもそうですけど、よほどの才能と優しさを兼ね備えて人でないと、ついつい愚痴やイヤミが出てしまうと思いますよ。そういう社会の底辺に抜けがたく残っている生活感情への視点と位置づけ、時代の観点が、南吉分析の中にあんまり見られないんですよね〜(>_<)

    > 新美南吉の お話・・・と、 カメちゃんの 懐かしい〜!子供時代(体験)が 交差した・・・この 旅行記。

    私が子供の頃の生活は、あの高山の陣屋を見た時も感じたものですけど、けっこう古い時代の生活用具が残っています。あの時代の南吉の地域も、それと殆ど同じでしたね。
    ですから、南吉の子供時代の体験は、そのまま私達の子供時代の体験とよく似ているんですよ。そんなワケで、ついつい私の子供時代のことまで書いてしまいました(^^)

    文学なんて全然縁もゆかりもないのに、ずいぶん書いてしまいました(^^;)

    それにしても、南吉は苦労をしましたね〜(=_=)
    私は15歳まで看病をしながら母の傍にいましたから、南吉の寂しさは分かるような気がします。

    嬉しいコメントをありがとう御座いました。
    これからもよろしくお願いします。
    カメちゃん
  • みかりさん 2014/01/07 23:28:12
    新見南吉ツアー
    カメちゃんさん、こんばんは〜。

    新見南吉ツアー、とっても見応えがありました。
    私も昨年、生家と記念館のお土産コーナーだけ見に行ったので・・・
    半分、懐かしく思いながら見ていました。

    新見南吉は才能のある方ですね。子供向の童話のはずなのに
    話の内容は色々と考えさせられる所もあり、その場面・風景も
    頭に浮かぶ感じで・・・素敵なお話を書かれていたんだなと思います。

    普通に記念館を見学するだけじゃない、今回のツアーは色々と
    勉強になるし、勉強した後に話の場面の風景を眺めると、思いも
    また違ってきますよね〜。私は時間が無くて慌ただしい見学だったので
    こんな感じだったのかと、色々と勉強になりました。

    南吉の童話も改めて読んでみたくなりました。でもごん狐だけは
    泣けてしまうから、無理かな・・・(笑)

    みかり

    カメちゃん

    カメちゃんさん からの返信 2014/01/08 00:57:35
    RE: 新見南吉ツアー
    みかりさん こんばんは(^^)

    新見南吉ツアーをご覧下さって有り難うございます。

    > 私も昨年、生家と記念館のお土産コーナーだけ見に行ったので・・・
    > 半分、懐かしく思いながら見ていました。

    そうでしたよね。
    次回お越しの際には、ゆっくりご覧下さいね。
    とっても見応えがありますよ〜(^^)

    > 新見南吉は才能のある方ですね。子供向の童話のはずなのに
    > 話の内容は色々と考えさせられる所もあり、その場面・風景も
    > 頭に浮かぶ感じで・・・素敵なお話を書かれていたんだなと思います。

    お話の通りですよね。
    小学校3年生の時から先生に褒められて・・。
    観察力・表現力ともに豊かだったんですね。私には想像もつかないことです。
    厳しい生育環境の中にあって、あのように人々の共感を呼ぶ作品を多数書いている
    心を思いますと、本当に広い視野と才能のあることが分かりますね。

    南吉のことに関しては、逆境の中で、しかも若い年齢で頑張っていたことを思いますと、
    旅行記の内容もいつの間にかあのような内容になってしまいました。
    「書くこと」は、そのまま自らの命の表現であるかのような南吉の生きざまには、
    私が言うのも憚れることながら、勉強させられました。

    > 南吉の童話も改めて読んでみたくなりました。でもごん狐だけは
    > 泣けてしまうから、無理かな・・・(笑)

    私は4年前に訪れるまでは、南吉のことは全く知りませんでした。
    ですから、全く泥縄式に読んできたようなことで、恥ずかしい限りです。
    間をみて南吉の「小説」の方も読んでみたいと思っているところです。

    「ごんぎつね」とかは、ホントに泣けてしまいますよね〜。
    南吉文学の神髄である「愛」の切なさ哀しさに、清らかな涙を流して下さいね(^^)

    嬉しいお話を有り難うございました(^_^)v
    これからもよろしくお願いしますね。
    カメちゃん

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