2017/04/28 - 2017/04/28
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きょうはクルーズ7日目です。
寄港するところは、本州北端の青森です。
青森も、どちらかと言えば、北海道への中継地になりやすいところ。私たちも北海道へ行く途中に、2度ここで乗り換えています。1度目は新婚旅行の時で、青函連絡船へ乗り換えでした。2度目は5年前の秋で、北海道へ行く時に新幹線から特急列車への乗り換えです。
それがね、クルーズでは2009年春に青森へ来ているんです。今回もクルーズで青森へ来たんです!!(^_^) やっぱり、クルーズでないとダメですね~(^o^)(~o~)
そういうワケで、「青森を見る」という点では2度目の青森下船!となるのです。
その時は、やっぱり新婚旅行の思い出として青函連絡船を見たかったので、それを見にいきました。行ってみて、とっても良かったですよ!!
今回の青森観光はどこにしようか?
一番人気は、桜が満開の時期だったこともあって、桜でも超有名な「弘前城」へのツアーでした。でも混雑が予想されたことで、泣く泣く諦めました。その次ぎに「青森らしい」ところと言うことで、皆さんとご一緒に「三内丸山(さんないまるやま)遺跡とねぶたの家・ワラッセ」のツアーを選びました。
当家のカミさんも私も、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)や「ねぶた」を見たことがなかったので、大歓迎のコースです。行き先も近いので、オシッコの近い私には助かります。
ミレニアム号は津軽半島を回り込んで、陸奥湾へと進んでいきます。
それでは、青森の1日をご覧下さいね。
★↓は8年前の青森旅行記です。
http://4travel.jp/travelogue/10355875
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
4月28日、クルーズ7日目。
ミレニアム号は津軽半島をまわりこんで、平舘海峡(たいらだてかいきょう)に入ってきたようです。
現在時刻は午前4時57分、下北半島西南部から天と地、そして海を照らしながら昇る太陽は、きょう一日の幸福を約束するかの如く輝いていました。
★平舘海峡の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%88%98%E6%B5%B7%E5%B3%A1
(Kさんご提供の写真です) -
太陽が少し昇って、山々の稜線がくっきり見えてきました。
きょうも良いお天気のようですね。
(Kさんご提供の写真です) -
下北半島の稜線が、海に落ちています。
下北半島の大間崎から南に延びる海岸線は、ここから東に急転回して陸奥湾を囲い込むようになると思います。
(Kさんご提供の写真です) -
ここは下北半島の南西端の「牛の首岬」のようです。すぐ右手の島は「鯛島(弁天島)」と「立岩」です。ちょうど鯛が海面に頭と尻尾を出したような形をしていると言われています。
この鯛島には、坂上田村麻呂と村の娘の悲恋伝説が残っているとのこと。 島の付近は海中公園に指定され観光遊覧船で見ることも可能なようです。
↑にも述べましたように、大間崎からの海岸線は「牛の首岬」で、急転回します。
ミレニアム号は間もなく平舘海峡を通過して、陸奥湾(青森湾)に進んでいきます。
★青森湾の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E6%B9%BE
(Kさんご提供の写真です) -
フェリーと行き違いました。
この船は青森と函館(約110km余)を結ぶフェリーで、早朝5時20分に青森港を出港してきたのです。
調べてみると、「ブルードルフィン2」という船で、津軽海峡フェリーのサイトによれば、この船の大きさ等は、総トン数7003トン、全長136.6m、乗客定員586名、速力:約20ノットのようです。
一度はこの船に乗って、津軽海峡を渡ってみたいです!!
そう、新婚旅行で青函連絡船に乗りながら、平舘海峡や津軽海峡の展望を楽しめなかったあの悔しさを、晴らしたいのですよ(^^) -
只今6時ちょうどです。
こんな時間に、もうウォーキングをしているんですねぇ(^^;)
ヒマと言うか、マジメというか、良くやるよ(^^) 私はお部屋でまだ眠っていましたからね。
まぁね、早朝のデッキで海風を受けながら歩くのは、気分の良いことと思いますけど。
(Kさんご提供の写真です) -
牛の首岬通過後およそ1時間で、青森市街が見えてきました。
写真の場所は、青森港から数キロ東のあたりかな?と思いますが、自信はありません(-_-;) -
青森港正面の三角ビル(青森県観光物産館アスパム)と、青森ベイブリッジ(写真右の橋)が見えてきました。
★青森県観光物産館アスパムの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C%E8%A6%B3%E5%85%89%E7%89%A9%E7%94%A3%E9%A4%A8%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%A0
★青森ベイブリッジの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8 -
タグボートがやってきましたよ。
-
運動したあとに、船から青森湾の眺めを楽しみながらゆっくり食事をいただくのも、至福にひとときと言えますね。
(Kさんご提供の写真です) -
こちらはフェリー埠頭の方です。
写真右端から二つ目の白いガラス張りのビルは、津軽海峡フェリーの青森フェリーターミナルのようです。
街の後ろに左右に伸びる白い線は、東北新幹線の高架橋です。その終点の新青森駅が右端に少しだけ見えています(フェリーターミナルの右後)。 -
↑のフェリー埠頭からもう一つ西の埠頭のようです。
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1時間ほど前に見た埠頭の様子が変わっていますね。
2隻の津軽海峡フェリーが接岸していて、6時20分頃にいた船は出港して行ってしまったようです。
手前のフェリー船は「ブルードルフィン(8850トン)」で、むこうのフェリー船は「ブルーハピネス(8851トン)」のようです。 -
船上から雪を被った単独峰が見えました。
方角からして、恐らく岩木山だと思います。懐かしいです!!
私たち夫婦は、岩木山には思い出があります。
私は独身だった27歳頃?に、2週間の東北一周旅行をしたことがあります。その際夏の岩木山を登頂しているのです(8合目くらいまでバスで行き、街歩きスタイルでの登頂でしたけど)。
以来、カミさんと一緒の「定年退職記念旅行」や「カミさんのハタチの還暦記念クルーズ」で、岩木山を近くに、遠くに、見ています。
岩木山のある風景はテレビでもよく出てきますので、カミさんもテレビで岩木山を見るたびに、
「おとうさん、岩木山だよ!」
と言って、楽しく見ていますよ(^^)
岩木山の下に見える左右に長い建物は、東北新幹線と北海道新幹線との接続点である新青森駅です。
★↓は、定年退職記念旅行で見た岩木山です。
http://4travel.jp/travelogue/10241804
★新青森駅の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%9D%92%E6%A3%AE%E9%A7%85 -
埠頭の様子です。埠頭に積まれている泥のようなモノです。
いったい何なのか分かりませんが、こういう貨物埠頭を片付けて、大型クルーズ船用に使用しているようです。
青森港では、今年(2017年4月~10月)のクルーズ船寄港予定は、23回のようです。
そのうち77000トン以上の大型船は7回寄港し、それらの船はこの埠頭に着岸させる予定です。ミレニアム号の青森寄港は、今回が初めてのようです。
現状はこんな様子ですが、将来は年間に100隻の寄港を目指して、2016年秋に青森港クルーズ客船寄港促進部会を設置、今年の7月13日にクルーズ客船寄港100隻、旅客数10万人を目指すための基本方針、「青森港クルーズ船寄港促進アクションプラン」を策定したようです。どんな岸壁を造成するのか?興味ありますね(^^)
今、多くの港湾でクルーズ船寄港推進を進めているのですが、青森もその気になってきているのですねぇ。
★青森港の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E6%B8%AF -
12デッキ前方から、都心部の方を眺めてみました。
-
船の前で、寄港歓迎してくれる鼓笛隊が頑張っていてくれます。
揃いのはっぴ姿の五人を良く見ますと、女性もお一人おられますね!!(^_-) -
8時20分頃下船しましたよ。
新潟と違って「入国手続き」はありませんからね(^o^) 日本人なのに「入国手続き」なんて、未だに納得出来ませんね(^_^;)
この人は船の乗組員ですね。 -
この人も乗組員です。ミレニアム号のカメラマンです。
長崎でもやりましたけど(^o^)、カメラマンに撮られるのではなく、カメラマンを「撮る」のです(^^)
こんなことをする船客は少ないでしょうね(^O^) -
鼓笛隊が頑張っている中に、当家のカミさんが割って入りました。
(Kさんご提供の写真です) -
「おかあさん、撮るよ~。お兄さんもね~!(^^)!」
楽しいですね~(*^_^*) -
こんどは4人で!!(^o^)
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奥さん3人入って、もう一枚!!
どの港でも、歓迎して下さる方々は、こうして気持ちよく対応して下さるのですよ。
新潟港では、埠頭が広すぎて歓迎隊の皆さんと出会えなかったモンね(^^;)
(Kさんご提供の写真です) -
お二人さん、記念写真を撮らせてね~(^^)
青森港のステキな記念になりました(^_-)!(^^)! -
それでは、バスに向かいます。
きょうは観光ツアーに申し込んだのですよ。
行き先は、「三内丸山遺跡」と「ねぶたの家 ワ・ラッセ」を見にいくのです。
「三内丸山遺跡」は、どこかで聞いたか?読んだか?というボンヤリとした記憶があるだけで、それ以外は全然知りません(^^;) 「ねぶたの家 ワ・ラッセ」も、同じです。
どんなものが見られるのか?楽しみです。 -
バスはフェリー埠頭の方に回って、市街地を避けて新城川に近い太い道路を行くようです。
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JR在来線の車両基地ですね。
2012年の秋に乗った特急列車は、どの列車だったかな?? ウ~ン、ちょっと思い出せません(-_-;) そんな過ぎたことを思い出しました。 -
時間が過ぎて明るくなってきたせいか、岩木山が奇麗に見えて来ました。
★岩木山の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E5%B1%B1 -
桜はちょうど満開の時期を迎えていました!(^^)!
ほんとに見事に満開でした。
私たちの愛知県では4月10日前後が満開でしたから、満開時期が2週間半ほど違っているようですね。 -
三内丸山遺跡の「縄文時遊館」に到着しました。
-
施設のエントランスです。
(Kさんご提供の写真です) -
エントランスに飾ってあった「ねぶた」です。
私がねぶたの実物を見るのは、これが初めてです。スゴイ迫力ですね!(^^)!
私も、こんなに気迫に満ちた男になりたいけど、「カカア天下」のカミさんに押さえ込まれていていは、泣き顔になるしかないね(T_T) 気迫に満ちた男なんて、到底無理だね(-_-;) -
エントランスにあった地図です(ちょっと書き込みました)。
三内丸山遺跡は、もっと山の方ではないか?と勝手に想像していたのです。ところが、意外に市街地に近かったですね。地図では、私たちの接岸地から直線で4キロ強、道なり7キロ未満という距離で、山の麓という感じのところでした。
でも、来てみると緑に囲まれた丘の上って感じでしたね。 -
青森市内の諸施設の案内地図です。
ミレニアム号が接岸したところは、左上のフェリーターミナルのすぐ近くにある、「あおもり北のまほろば歴史館」の前の埠頭です。
これらの施設では、「あおもり北のまほろば歴史館」に「棟方志功記念館」とか、「県立郷土館」などに行ってみたいです。 -
写真も画質もちょっと無理しましたけど、地図を見やすくしてみました(拡大してご覧下さい)。
史跡内の地図です(写真を組み替えています)。
私たちは下の縄文時遊館から、右手の太い通路に出て円内地図の方へ向かっていきました。
そして、①から②、③、④という風に見て回りました。
Google mapでこの遺跡の公開されている範囲の部分(円内部分)だけを見ますと、おおよその範囲は5ヘクタール弱だと思います。発掘中の場所や森林部分、公園部分全体では40ヘクタールほどもあるようです。 -
三内丸山遺跡の立体風景模型です。
左の方の建物があるところが、私たちの見学した範囲です。
見学してから、改めて重点部分を撮影すれば良かったなぁと反省しております。左端上と写真下の水色の面は、湖か海のように見えますが如何でしょうか? -
私たちが見学した部分を切り取って、拡大してみました。
ここには現在の施設がありませんので、数千年前の村落の様子を再現しているものかも知れません。 -
遺跡を見にいきますよ。
私にとって、遺跡見物って初めてのことですから、先ほどの風景模型を見てもまだ現実感が湧いてこないんですよ(^_^;) なんせ、鈍感な人間ですからね。
とにかく、行ってみましょう(^^)
(Kさんご提供の写真です) -
遺跡見物へと歩き始めて間もなく、このような説明板が立っていました。
「環状配石墓と道路跡」の説明です。拡大してご覧下さいね。「環状配石墓と道路跡」の場所は、3つ上の画像の「道路跡」「大人の墓」をご覧下さい。
これは、字の通り直径約4mの円形のお墓で、お墓の回りに石を置いたことで「環状配石」のお墓となったようです。直径約4mと言えば、有史時代の支配者の古墳よりは遙かに小さいですが、普通のお墓に較べればかなり大きいですね。
これが、一人分のお墓とすれば、それなりに権威ある人の墓だったというように考えられます。 もうちょっと詳しい説明を書いて欲しいですね。
道路は幅が7~12mもあったようで、この時代にしてはかなり立派な道路でしたね。
私が子供の頃、大八車で山へ芝刈りに行った頃の道でも幅が2m前後で、大八車のすれ違いが大変だったことを思い出しますと、広いですね~。今のわが家に通じる私道なんかは、せいぜい2m弱ですから、あの時代に7~12mなんて、ホントにスゴイです!!
このお墓が道路に沿ってつくられていたとのことですが、お墓や道路が土盛りしてあったのか、平らだったのかが、この説明ではわかりませんね。
★縄文時代の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 -
この説明では、三内丸山遺跡は5500年前から4千年前頃の、縄文時代前期から中期にかけて存在していた集落とのことです。
写真上が南方向で、北側から南南西方向を見ている感じです。 -
遺跡がみえて来ました。
写真右手側には三角形の住居や屋根付き風の住居が見えます。 写真左手のかまぼこ形の白くて長い屋根の建物は、約1千年間もゴミや残土が積み上げられた「南盛土」の見学館です。その「盛土」は、あの時代のゴミとか食事の残り物、土器などの生活廃棄物、穴を掘ったりした不要土を捨てて出来たとのことです。
ゴミや廃棄物、残土は正に、歴史の証人ですね。それを調べれば、4千年以上の昔に何を食べ、何を着て、何を使っていたかが分かりますからね。
私が小学生の頃は、生ものは生ゴミだけの「ゴミ捨て場」に捨てて堆肥にしていました。ですから、その家庭の「ゴミ捨て場」を見れば、生活水準が分かろうというものでしたね。 -
「盛土」と言いますが、東京の築地移転先・豊洲市場の「盛土」とは違いますよ~(^O^) こっちの盛土は歴史の証人という立派な価値があるものなんですよ!(^^)!
説明には、このような盛土が3ヶ所もあるようです。場所によって廃棄される物が違うようで、北盛土と南盛土では「土偶」が多くあったようです。
土偶は、あの当時においても願い事を祈る神や仏のようなものだったかと思います。
願い事は、恐らく今も昔も変わらないと思いますね。子孫繁栄・先祖崇拝・五穀豊穣・家内安全などなど・・。そんな土偶を捨ててしまうと言うのは、何かの事情があるのですね。土で作ったものですから、落として割れてしまうこともあったでしょう。他部族との争いがあって捨てられたとか・・。
いろいろな話では、土偶は女性の姿をしたものが多いとか。
やっぱりねぇ(^^) 男じゃしょうがないよ(^O^) 当家も「カカア天下」ですからね。
★土偶の詳しいことは↓にて
https://www.google.co.jp/search?rlz=1C2PQCZ_jaJP745JP751&site=&source=hp&q=%E5%9C%9F%E5%81%B6&oq=%E5%9C%9F%E5%81%B6&gs_l=psy-ab.1.0.0l8.2299.2299.0.4169.1.1.0.0.0.0.105.105.0j1.1.0....0...1.2.64.psy-ab..0.1.105.w3pUNr3J5Y0
★遮光器土偶の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%AE%E5%85%89%E5%99%A8%E5%9C%9F%E5%81%B6 -
盛土をこのように断面状に掘ってみた様子です。
1千年も廃棄場所となっていたところですから、10世紀もの時代の流れの断面を見る感じです。その意味ではほんとうに貴重な歴史遺産かと思います。
こうしてみますと、いろいろなものが随分見られますね。土器や石器はもちろん、土偶とかヒスイもあったようです。
当時の食べ物は見つかったのでしょうか?
大型の動物(シカやイノシシ・ササビ・ノウサギほか)や、魚(マダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメほか)などが多かったようです。
さらに、栗やクルミなどが発見されています。ほかにイモ類や豆類、エゴマ・ヒョウタンなどが栽培されていたようです。栗の木も手入れして良い実のなる木を育てていたようです。
調理法は、焼くよりも「煮る」ことが多かったかも?ということです。
お酒はとっても大事なもの(*^_^*) これがないと、オトコは生きていけない(^O^)(~o~)
サルナシ・クワ・キイチゴなどから果実酒が作られていたようです。果物を発酵させる智恵と方法が既に確立していたのですね。
このような飲食物は、当時の生活の水準と質と寿命を知る大事な手がかりですね。
(Kさんご提供の写真です) -
ちょっと遠いですが、こんなに大きな建物もありましたよ。
今時で言うならば、「市民会館」なのかも知れませんね。
(後で知ったことですが、「大型立穴建物(大型竪穴住居)」でした)
(Kさんご提供の写真です) -
皆さんの見学風景です。
こんなに多くの方々が、お一人のガイドさんのお話をお聞きするのです。
ちょっと2~3枚写真を撮っていますと、もうガイドさん見失ってしまいます。
京都へ行った時は、ネットで観光タクシーを依頼しておいたので、ガイドさんのお話をちゃんとお聞き出来ましたけどね。
次回は、当家のカミさんと二人出来て、ガイドさんのお話をしっかりお聞きしたいと思います。その時には、女性のガイドさんをお願いしようかな?(^_^)v -
ここで、ちょっと記念写真を・・。
写真を撮れば、どれでも記念になりますから、皆さんもどんどん「記念写真」を撮って下さいね(^o^)
(Kさんご提供の写真です) -
たくさんの住居があります。
写真右手、道路正面の三角形の二つの住居は、樹木の皮で三角形の住居を覆って、細い木でその樹皮を抑えている構造ですね。この住居は「樹皮葺き竪穴式住居」と言われているようです。
そのすぐ左手と奥(向こう側)の建物は、「茅葺き竪穴式住居」と言うようです。
写真左端の建物は土をかぶせていますので「土葺き竪穴式住居」と言われているようです。
「樹皮葺き竪穴式住居」が一番簡単なつくり方で、風も通りやすいように感じます。それに較べて、「茅葺き竪穴式住居」と「土葺き竪穴式住居」の方は、重厚な感じがします。この違いは何だろうかと思いますね。 -
↑の3種類の住居の説明です。
写真の一番上は、竪穴式住居跡の様子です。家の形に合わせて、地面が掘ってある様子です。
写真の中央は、「茅葺き竪穴式住居」です。
写真の下は、「土葺き竪穴式住居」(手前側)と、「樹皮葺き竪穴式住居」(写真左奥)です。
これらの住居は地面を掘って床面を作り、柱を立てて屋根を掛けているようです。そして、その床面の真ん中あたりには、食べ物を煮炊き出来るように、石や土器片を敷き詰めた炉があったようです(冬には暖房に使えたかも知れませんね)。
縄文中期(4500年前)の住居とのことです。
★三内丸山遺跡の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
★竪穴式住居の詳しいことは↓にて
https://www.google.co.jp/search?rlz=1C2PQCZ_jaJP745JP751&q=%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85&oq=%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85&gs_l=psy-ab.1.0.0l8.16399.19214.0.20531.7.5.0.0.0.0.93.237.3.3.0....0...1.1j2.64.psy-ab..5.1.93.TljXDkLZWk8 -
あっ!こんにちは。
縄文時代の住民の方でいらっしゃいますか??(^^) -
奥様はご見学の方でいらっしゃいますか?
記念の写真を撮りますよ~(^^) -
あ、長い冬眠から現代になってお目覚めですか?(^o^)
「いやいや、ミレニアムの4倍も眠っちゃって、で気分爽快だよ!!」
「セレブリティ・ミレニアム号」の4隻分ですか(^^) それはそれは、よろしかったですね(^-^) -
こちらの家は、屋根に一定の長さがあり、出入り口の上には帽子の「ひさし」のようなものを付けちゃって、結構カッコ良いですね。特に真ん中の家は「ひさし」が2重になっていて、立派です。左端の家は、出入り口が向こう側に向いています。
4千年以上も前にしては随分考えた形で、あの当時の「ベストデザイン賞」を取ったかも知れないと思いますね。ホント、マジメな話、面白い形をしていますね。
(Kさんご提供の写真です) -
↑のような住居のうちで、長さが10mを超す住居を「大型竪穴住居」と言うようですが、その住居跡です。長さが18mの住居ですから、おそらくは長円形の大きな住居だろうと思います。中心部の穴の多いところは、火を使う炉のようなものがあったところかも?知れませんね。
柱の位置が外側に移動しているとのことですが、この撮影部分が住居の全体なのか部分なのかが分かりません。住居の全体範囲とか外見の様子を示して、そのどの部分だったったかを、小枠で表示していただけると分かり易いのですけど・・。
この画像を見てちょっと感じがことですけど、住居の床部分の高さが周囲の表面より低いってことは、雨が降った時に水が流れ込んでこないか?ということと、足下が湿っぽくないか?冬場は冷たくないか?と思いましたね。
もちろん、長くそこに住むのですから枯れ草とかを敷いて、その上に板を載せていたかも知れませんけどね。まぁ、そこの詳しいことは分かりませんけどね。 -
あら?もう内部をご見学でしたか?
(Kさんご提供の写真です) -
こちらの竪穴式住居にも皆さんが興味をお持ちのようで、のぞき込んでおられますね。
幾つかの住居は中に入って見物出来そうです。
建物の造りがどうなっているのか? 私たちも中に入ってみたいですね。 -
茅葺き竪穴式住居の内部です。照明もないですから入り口から差し込む光だけが頼りです。
この写真は茅葺き壁の斜面部分の様子です。
太い木材が地面に突き刺されて、屋根の頂点に向かって傾斜し、家が△の形になるように組まれているのですね。
厚~く重ねた茅が、木材に支えられているのをご覧下さいね。 -
この部分を外から見れば、茅の面が丸く回り込んでいるところだと思います。
上の梁に使っている丸太が随分太いですね。わが家も太い梁や桁だけど、この小屋もずいぶん頑張っているね(^^) -
梁と桁を固定しているのは蔓植物の蔓なんでしょうか?
蔓植物では、葛(かずら)がロープ代わりに使われる例が他にもありますが、葛のようなをグルグル巻きにして、しっかり固定していように見えますね。
縄とかロープのようなものを作る時代ではなかったかもです。
今のような建築機材がない時代に、人々はどのようにしてこの家を作ったのかと思いますと、簡単には想像出来ません。あんなに太い梁や桁の丸材をどのようにして持ち上げたのか?どのようにして組み立てたのかと考えますと、現在の私たちよりもむしろ智恵があったのではないか?なんて、真剣に考えてしまいます。 -
縄文時代の竪穴式住居の印象は如何でしたか?
今は一番いい季節なので分かりにくいですが、真夏や真冬の室温を体験したいですね。
それじゃあ、記念写真を撮りましょう(^^) -
これは足を付けて、床を高くしていますね。立派です!!高床式の「掘立柱建物」と言われている建物です。
この建物は当時の高級住宅かも知れませんね。ご主人は高級自家用車を乗り回していたりして・・(^o^)
それがね、住宅じゃないみたいです。地面に竪穴式住居のような生活の痕跡が無かったことから、食糧保管の倉庫(湿気やネズミなどの被害を避ける)、宗教的儀式の用具保管、夏期に住居として使っただろうという説があるようです。
そんなことなら、周りを掘って住居を造るのではなくて、10センチでも良いから高く造って、炉のところだけ低くすれば良かったのにねぇ(^^)
面白いのは床下から出入り出来る工夫もあることです。 -
↑の建物の説明です。
柱の間隔の寸法は35センチを基準に測っているみたいですね。その単位を何と言ったのでしょうかね? -
これは大人の墓(土坑墓・どこうぼ)だと思います。
墓の平均的なサイズは、長さ1.4m、幅は0.7m、深さは0.3m程度ほどの長円形(または楕円形)で、身体を曲げずに埋葬されたようです。墓は、それと分かるように少し盛り土して、道沿いに直角に並んでいたようです。
環状配石墓でのご説明では直径4mの円形のお墓でしたけど、こちらのお墓はだいぶ小さいですね(-_-) あっちが指導者で、こっちが平民なのかも知れませんね。 私みたいなカミさんに天下を取られた「代表取り締まられ役亭主」は、まともな墓もなくて、小さい穴に押し込まれるか、森に捨てられるか(-_-;)のどちらかと思いますよ(-_-;)
副葬品には、「ヒスイ」製の装飾品や石皿、石冠、石鏃ほかのものが一つあったようです(たまには複数の副葬品も)。
「ヒスイ」製品があるということは、地元で採れるってこと? それが、そうではなくて、新潟県糸魚川周辺から運ばれてきたようです。4千年以上もの昔に600kmもの遠くから運ばれてくるってどういうこと?? 運送手段のこともさることながら、600kmもの距離を運んで来て得る利益とは何なのか? そこには「物々交換」を越える魅力と取引があったというこになりますね。ホントに考えさせられますね。
別の話では、墓なのに発掘してみたら人骨が見つからなかったという例もあるようです。特に幼児の骨などは4千年以上の時間経過のうちに形が無くなってしまうという話もあります。
★土坑墓の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%9D%91%E5%A2%93 -
この遺跡から見える風景です。
この風景は、5千年前も今もそんなに変わらないと思いますけどね。
ある話では、5千年前ごろは、最終氷期以降の今より温暖な「完新世」の気候だったようです。このような気候で雪を被った白い山が見られたかどうか?なんて思いますね。
そういう温暖な時代だったからこそ、私たちが冬場には寒いと思う青森に古代の人々が住み着いたとも言えますね。
ちなみに、温暖な気候だったために海水面も今より3~5m高く、この三内丸山遺跡周辺あたり(現在の遺跡周辺の市街地)まで海になっていたという話もあります。 三内丸山遺跡の立体風景模型で、湖か海かと悩んだところは海だったのですね。
三内丸山遺跡で釣り針や魚の骨が出土したという話も、これで理解出来ました。
★最終氷期の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%B0%B7%E6%9C%9F
★完新世の気候の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E6%96%B0%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E6%9C%80%E6%B8%A9%E6%9A%96%E6%9C%9F -
八重桜?を前景に遺跡の風景を・・(^-^)
(Kさんご提供の写真です) -
(この写真は組み替えています)
「北の谷」の発掘の様子と出土品です。
三内丸山遺跡には不要品を捨てる場所が数ヶ所ほどあり、この北の谷も一つです。
ここでの特徴は土の性質が泥炭層であったために保存が良く、当時のモノが比較的良好な状態で出土し、その頃の食生活とか自然環境を調べる上で重要な意味を持っているそうです。
前期層からは漆器、漆塗りの櫛、土堀の棒、編み物、織物、丸木船の櫂など、非常に貴重なものが出土しているようです。
さらに、川に向かう道路の跡があったりして、船着き場がその先にあったと考えられています。
上の写真は、発掘(調査)の様子です。
下の写真の左は、杭の列で、杭は表面を火で焼いて腐食しないようにしてあったようです。土盛りとか、堤防とか、道路などを作る際の杭かも知れませんね。下の写真の右は、赤い漆塗りの木製皿ことですが、あのように綺麗な色彩のものもあったようです。
また、木の皮を使って編んだカバンのような形ものもあったようです。 -
(この写真は組み替えています)
こちらも、不要物が千年近い長期間に亘って捨てられ、盛り上がっていたところです。
左上の写真は調査途中の状態のようです。 格子状の建物の基礎みたいに見えるのは、何なのか??ちょっと分かりません(^^) あの時代に粘土か何かで作った仕切りなのでしょうか。そこだけは悩み、だいぶ時間を浪費してしまいました。
ご存知の方、教えて下さいね。
下の二つの写真は説明の通りです。
これらのものは、遺跡保存のために建てられた施設内にあります。 -
北盛土の保存施設内での撮影です。
これも、北盛土で発掘された漆器や土器などです。相当な量ですね。
お皿や壺、甕と言ったものでしょうか? 何を模っているのか分かりませんが、曲線の複雑な模様付きのものも随分あります。
この時代でも(と言ってしまっては失礼だけど・・)、芸術的な感覚はちゃんとあったようにも見えますけど、如何でしょうか。
★縄文土器の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8 -
こちらは子供の墓です。
子供の遺体はこのような土器に入れて埋葬されたようです。「子供」と言っても、土器に入ってしまう程度の大きさであれば、生まれた直後から1年くらいまでのようです。
写真のような土器型の棺に収めた墓が多かったことは、出産直後から1年ほどまでの乳児の死亡率が相当に高かったのでは?と思われますね。こうした子供の墓は、住居区域の近くにあるようです。また、墓の周りに土器なども埋めており、550個以上見つかっているようです。私流に考えますと、「外部副葬品」のような感じがしますけど・・。
子供の遺体を入れた土器には、底を欠いたり、穴を開けたりしているものもあるとのことです。また、こぶし大の丸石が1~2個入っているものが多いとのことです。何かのお呪いを伴った習慣があったのでしょうか。
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時代は変わりますが・・
昭和15年頃の新生児死亡率を含めた乳児死亡率はおよそ14%ほどで、死産率を含めると約20%ほどもありましたから、縄文時代の子供の墓の多かったことは分かります。 -
子供の墓があったところの様子です。
ほぼU字型の甕のような容器に入れられて、横にせず垂直に埋められていたようです。墓の数は800基以上とのことですが、900基以上という記事もあります(調査時期不明・調査の進行と共に増えると思います)。
甕のような丸い形のあるところが、墓ではないかと思います。
子供の死亡率が高いと言うことは、人々の平均的な生存年数を引き下げるコトになります。
この頃の平均年齢はどれほどか?という議論がありますけど、三内丸山遺跡の人々の平均年齢は約31歳だったという説と、約12歳とか約14歳という説があります。
31歳という説は、15歳以上生きた人の平均年齢のようです。 約12歳とか約14歳という説は15歳までに亡くなった人々も加えたトータルな平均寿命とのことです。現在の感覚で言えば、後者ですね。 -
写真は子供の墓です。
子供の墓のことに触れてきましたが、大人の墓はどれほどあったのか。
いろいろな数字(235から500まで)があって決められませんが、縄文時代の平均で行きますと、生まれてから10歳までしか生存出来なかった割合は、約25%前後とか。15歳までにはほぼ半数が他界する時代でしたから、「大人」として扱われる年齢は何歳なのか? 非常に興味を感じるところです。この議論での記事はなかなか見つからないのですが、大人(成人)になるのは、およそ15歳くらいではないかという話はあります。
話はちょっと変わりますが・・
ある研究者は、縄文時代も50~60歳代の高齢者が思ったよりも多かったという研究結果を発表しています。50~60歳代の高齢者が極端に少ないと、社会が維持出来ないという観点からみれば、納得出来る話ですね。
狩猟・農業・設備作り・社会経験・集団活動など、いろいろな経験を経て何が問題で、何が必要か、何をどうするかに気が付くには、「子を持ち孫をもって、父母や祖父母の恩を知る」と言われるように、長い経験の積み重ねと、それらを振り返られる知識と時間が必要かと思います。
そうした認識が得られ、それを総括して、物事のありようを次世代に伝えていくには、50歳代以上の人々の存在が不可欠だという話が他方にあります。
このような話を聞きますと、これまで見てきた住居、倉庫、大型施設、各種の土器、表面を焼いて保存処理をした杭、建物やや墓の並べ方等々・・を見ますと、50歳代以上の人々の豊富な経験と能力と指導力も必要なのかも知れないなと思いましたね。
そういう高齢の人が増える中で、知識や経験を総括して社会に活かし次世代に伝えていける能力を持った人が、一部とは言え増えてくるという話です。 -
ワ~ォ!(^^)!
これは何でしょうか!!
火の見櫓? 演説台?お祭りや盆踊り用の櫓?いろいろに想像されますよね~。
この時代の「超高層ビル」ですね~(^^) なんとなく威厳を感じますね。
説明資料では、「大型掘立柱建物」とだけ書いてありました(-_-;)
だいぶ高いようですが、ちょっと調べますと、高さは14.7mほどとのことです。4階建てのビルくらいになりますかね? -
この説明では、あの太い柱を立てる為の穴は、直径約2m、深さ約2mで、3個×2列に掘られていたのです。その太い柱の間隔は、4.2mだそうです。
この4.2mの間隔ですが、その元となる基準は堀立柱建物と同じ35cmだそうです。4.2m(420cm)というのは、35cmの倍数とのこと。
わが家もそうですが、日本家屋は尺貫法(1尺=30.3cm)基準にしていますが、三内丸山遺跡では建築物とか墓のサイズ・位置などを、35cmを基準として、大きさや位置を決める際にその倍数で計っていたようです。
35cm基準を何と呼んでいたか?やっぱり気になりますね(^o^) 取り敢えず「縄文尺」とでも名付けておきますか!(^^)!
そして、柱の穴の中から、直径1mの栗の木が見つかったのです。4200年前にこんなの大きな栗の木があったんでしょうか。
それよりも、太いところで直径1m、長さ16.7mもの栗の木をどのように伐採して、運び、建てたのか? そこを知りたいですね。それを示す文字とか絵とかが発見されていない時代では、それを知ることは難しいですね。
ところが、この太い栗の木は「シベリア産」とのことでした。
これには、超ビックリ!!
外国との取引があったの???誰と誰が話し合って、どうやって運んだの? そんなに大きな船と港があったの?? そういうご説明はなかったですけど、もう疑問は尽きません。「縄文時代って、意外にススンだ時代だったんだ!!」
と言うことで納得するしかないのです。
(この写真も合成してあります) -
説明文の下の写真が中途までしか写っていませんが・・(-_-;)
この説明では、あの太い柱を立てる為の穴は、直径約2m、深さ約2mで、3個×2列に掘られていたのです。その太い柱の間隔は、4.2mだそうです。
この4.2mの間隔ですが、その元となる基準は堀立柱建物と同じ35cmだそうです。4.2m(420cm)というのは、35cmの倍数とのこと。
わが家もそうですが、日本家屋は尺貫法(1尺=30.3cm)基準にしていますが、三内丸山遺跡では建築物とか墓のサイズ・位置などを、35cmを基準として、大きさや位置を決める際にその倍数で計っていたようです。
35cm基準を何と呼んでいたか?やっぱり気になりますね(^o^) 取り敢えず「縄文尺」とでも名付けておきますか!(^^)!
そして、柱の穴の中から、直径1mの栗の木が見つかったのです。4200年前にこんなの大きな栗の木があったんでしょうか。
それよりも、太いところで直径1m、長さ16.7mもの栗の木をどのように伐採して、運び、建てたのか? そこを知りたいですね。それを示す文字とか絵とかが発見されていない時代では、それを知ることは難しいですね。
ところが、この太い栗の木は「シベリア産」とのことでした。
これには、超ビックリ!!
外国との取引があったの???誰と誰が話し合って、どうやって運んだの? そんなに大きな船と港があったの?? そういうご説明はなかったですけど、もう疑問は尽きません。「縄文時代って、意外にススンだ時代だったんだ!!」
と言うことで納得するしかないのです。 -
このようにして建っていたのですね。
大型掘立柱建物について、一番上に屋根が付いていたという話があります。またそのような図も描かれているようです。
しかし、この建物がどのように使われていたのか、建物の形はどうだったかについて様々な研究があることから、ここでは一つに決める事をしなかったようです。 そのため、敢えて屋根付きでの再建をすることをせず、この姿を維持しているとのことです。 -
それでは、ここで記念写真を撮りましょう!!
三内丸山遺跡遺跡での一番代表的な建物ですから、これは良い記念になりますね(^^) -
大型堀立柱建物の保存施設に入りました。
この大きな穴は、大型掘立柱建物の柱を建てた穴とのことです。
穴の間隔は、縦・横共に4.2mでしたね。
恐らくスコップもない時代に、こんな大きな穴をどうやって掘ったのか?
そんなことを思い巡らしながら見ましたよ。
(Kさんご提供の写真です) -
これは、穴の中に残っていた柱の下端の部分です。
この柱の周りや底面は腐らないように焼いて焦がしてあったとか。この柱を立てて固定する埋め土には黄褐色粘土を使うなど(部分的に砂が混じっていたが)、固定しやすい材料を考えていたようです。
さらに、柱を立てる際に真っ直ぐに立てるのではなく、内側に2度ほど傾けていたそうですが、本当によく考えていますね。
そう言えば、あの「パルテノン神殿」も内側に僅かに傾けてありましたね。
★パルテノン神殿の旅行記は↓にて
http://4travel.jp/travelogue/10817239 -
大型竪穴建物(大型竪穴住居とも)の中に入りました、
私たちが最初の遺跡見学をしていた頃、遠くに見えた大きな建物です。
これは大きいでしょう!!長さが32mで幅10mもある大きな建物です。
屋根の方を見てみますと、天井は無く、寄せ棟風になっていますね。
こんな大きな建物が4千年以上も前に作られていたなんて、ホントに、ホントにビックリですね!!それに、良くもまぁ、これだけのものが作れたモンだと感嘆してしまいました。
縄文文化に対する私のこれまでの印象では、ここに来て最初に見たような、三角形の「樹皮葺き竪穴式住居」のような小屋を建てて暮らしている姿でした。そんな勝手な思い込みが、これを見て完全に否定されましたね。
これまで見てきた小さな竪穴住居ならば、踏み台でも作れば屋根に手の届く高さで、建築作業も何とかやれますね。
しかし、この建物を作るのは簡単ではないです!! こんなに高い家の棟木や軒桁・垂木・梁などをどうやって載せて、固定したのか?そう思うだけでホントに気が遠くなりますよ。
写真を見て気が付いていてはイケナイのですが、奥の茅の壁がなんとなく緩い丸みを帯びているように感じるのですね。建物の両端を長方形の端のようにコの字型にした方が簡単だと思うのですが、どうも丸みを帯びているように感じます。←ご存知の方、教えて下さいね。
(Kさんご提供の写真です) -
こっちは、反対側です。
建物の奥の方を見ますと、こちらも長手方向の壁に対して奥の形がコの字型でなく、丸くなっているように見えます。確かに、この建物は東側が寄せ棟風に、西側が入母屋風で屋根を見ますと少し先細りに造ってあります。ですから内部の造り方も両端が少しだけ先細りになっていて当然ですね。
それから、上を見ますと、天井があるような平らな造りになっています。と言うことは天井裏があることになります。であれば、建物の造りはさらに複雑になるのですが、これは何かの目的があったのでしょうか。←ご存知の方、教えて下さいね。
この家の屋根も壁も茅葺きになっているそうです。下から1m少々の黒い部分は地面から下の部分です。
こんなに大きな建物は何に使われていたのか?ですが、村人たちの集まりや祭り、作業場に使用したという説、冬場の寒い時に村人たちがここで暖をとったという話など多々あります。
茅葺き竪穴式住居の内部を見た時も思ったことですが、人の考える力は大したモンだと思います。猿のような動物から人類へと発達したのが、600~700万年前とか。その時間の間隔・感覚から考えれば、今から4千~5千年前なんてほんの一瞬の時間のように思えます。
三内丸山遺跡での諸施設・発掘物を見ますと、学校や情報、機械・道具も無い中で、創意と工夫の積み重ねによって、これだけの仕事を成し遂げた縄文人の智恵は、本当に大したモンだと思います。私たちが、縄文の人々と同じような条件で同じものを造るとしたら、果たしてやれるでしょうか??
もし、縄文人が今の時代に生を受け、私たちと同じ教育・訓練・情報を得たたなら、どれほどの才能と行動力を持っただろうかと思えてなりません。
現代人が固有の文化や歴史を無視して、他民族や過去の人々を軽々しく見るなんてことは、恥ずかしいことのように思えてきました。 -
最後に、私たちが見て回った三内丸山遺跡をもう一度振り返ってみたいと思います。
この立体模型の写真は、4千年以上まえの三内丸山遺跡の様子を再現したものかと思います。ここに住んでいた人は500人以上だったようです(情報によって人数の違いが大きいですが)。また、住居数は500棟もあったようですが(もっと多い話もあります)、常に使われていたのは100棟前後だと思います。
これだけの村落規模で、大型建築をも備えられた村落を見て思ったことは、先ずは人々の集団が形成されていたこと、大型施設から推察すれば何らかの集団行動や行事があっただろうということ、その中で指導と被指導の関係(階層の始まり)が少しづつ形成されていただろうということ、そこにはある程度の権威の存在があり、集団の規律があっただろうということでした。
あまりに当然すぎる話で恥ずかしいですが、人々がここに定住し集団で生活する中で階層と権威が僅かながら形成されつつあったかも?と想像するほどに、より大きな集団形成と、その後の国家成立の道のりへの一つの初期モデルを見たように感じたのでした。
★縄文社会のことは↓にて(縄文社会の項をご覧下さい)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2_%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
(Kさんご提供の写真です) -
それでは、縄文時代の村落風景をバックに、記念の写真を撮りましょう!!(^^)
-
あの「三内丸山遺跡」の文字ををバックに、記念の一枚を!!(^^)
ここに来ることになって、本当に良かったと思いました(^-^) -
きょうは良い勉強をさせてもらいましたね。
この道を、縄文時代の人々はどんな思いで歩いたのか?
そんなことを思いながら、三内丸山遺跡からお別れです。
(Kさんご提供の写真です) -
もうこんなところにまで帰ってきたんだねぇ。8年前に、あの船を訪ねたことが懐かしく思い出されます。
あの船は、ずっと以前に青函連絡船だった「八甲田丸」です。
今では、連絡船の展示館になっています。是非、お尋ねになって内部をご覧下さいね。
------------------
三内丸山遺跡を訪れて、復元されたとは言え、この歳になってあの時代の姿にようやく出会えたことは、大いに勉強になりました。それも、一人だけでなく友人と御一緒に楽し見ながら見学出来て・・(^-^) これも、幸せ(*^_^*)なこと!! 本当に有り難いことと思っております。
縄文時遊館でいただいた資料によりますと、東北地方北部と北海道(ここでは道南ですが)には縄文時代の遺跡や貝塚が少なくとも17ヶ所もあるんですね(青森県だけで8ヶ所)。
三内丸山遺跡を訪れるまでは、こんな北の寒いところに古代人が住むわけがないと思っていたのですけど、意外に多いですね。
遠い遺跡も良いのですが、近くにはないの?と思って調べますと、数としては随分あるのですけど、古代の建物、状態を形で保存したり復元しているところは、極めて少ないですね。まぁ比較的近くて復元された住居もあるのは登呂遺跡でしょうか? あちらの方へ行く時があったら、途中下車して見にいきたいですね。
「歴史に学ぶ」
日本の優秀性とか美しさを主張したいためではなく、人々の歩んだ道を、苦労して切り開いてきた道を、時には問題を起こした経験を、素直に誠実に学びたいですね。その学びには、「一人一人の自立と主体性、お互いの理解と共同、そして『愛と命の尊厳』」を大切にすること!!この思いを基礎に!!と思います。
★↓は日本の特別史跡一覧です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7
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間もなくバスを降りて見物に行くところは、青森港に近い「ねぶたの家
ワ・ラッセ館」です。
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この旅行記へのコメント (4)
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- 白い華さん 2017/09/04 11:07:17
- また・・・「思い出!の 岩木山」に 会えましたね。
- 今日は。
セレブリティ・クルーズは、『 青森港 』 に 入港。
「愛知で 見た・・・満開の 桜」に また、会えた」って 得した・・・気分。 (笑)
カメちゃん・ご夫妻には、 若き・・「北海道 ハネムーン」の 時。 そして、その後の 「青森 通過」で 見た・・・ 『 岩木山 』 に、 またまた、会えたこと。
これ!は 「人生・・・の 思い出!の 一コマ」で 嬉しかったでしょうね。
ホント・・・。 旅行に 行って、「その 思い出!シーン。が テレビで 出てくる」と 「とっても、嬉しい〜」デスヨネ。
そして、 日本国も、 ここんところ・・・で 本気で 「クルーズの 港!を 整備したり」が 多くなっているんですね〜。
『 青森県 』 も、 「クルーズ客に 来てもらいたい。 観光客を 増やしたい」って 思っているんでしょうね。
お迎え!の 笛・太鼓・・・の 法被姿!が 「セレブリティ号」に ピッタリ!な カラー。
ーーーーーーーーーーーーー
『 三内丸山 遺跡 』 は、
「5、000年前は、 今より・・・温暖化。また、海も 至近距離」と 裸同然!で 住まい・・・も 貧弱。
だから、「青森・・・にも 縄文人!が 住まい。と していた」と 理解できました。
カメちゃんの 詳しい〜!解説・・・を 聞いていたら、
私も 『 縄文時代 』 に、 興味が わきてきましたよ〜。
「竪穴式 住居」にも、 素材。 デザインが 凝っている!造り・・・など、 いろいろ、あるモン!なんですねぇ〜。
村の 住民同士!の 「レベル・・・とか、で 違うんでしょうか ?」
現在、「我が家!は 夫婦・ふたりきり・・・の 静か〜!な 暮らしぶり。の 毎日」なので、 あまり、人・・・と 接すること!も なくて、
ほんと、『 完全!に マイ・ペース 』 で、 暮らしてて、
「他人!と 比べる。 気にする」って 無〜〜い。 (笑)
特に、「旅行! 欲だけ・・・は あるもの。の、 なかなか、行かれない」し、
まぁ〜 「地味〜っ!に 日々・・・過ごしていかれれば、 良し」と 思っていますヨ。
カメちゃんも、 「お体・・・に、気をつけて、 また、ご夫婦で 旅行に 行ってくださいね」。
それでは また
- カメちゃんさん からの返信 2017/09/04 13:56:51
- RE: 青森寄港は予想以上に楽しかったですよ。
- 白い華さん こんにちは(^^)
青森の三内丸山遺跡編をご覧下さってありがとう御座いました。
昨秋の段階で、青森寄港は当然分かっていたのですけど、青森にはそれほどの興味も感じていませんでした。
「八甲田丸もしっかり見たし、弘前も一応見たことだし、まぁ、五所川原でも行ってみようか」
なんて、感じでした。
勝手に考えているよりも、やっぱり行ってみるモンですね。
懐かしくも美しい岩木山を再び見た時には感激しましたね。三内丸山遺跡を見た後に八甲田丸を見た時も、やっぱり嬉しかったです。遠い遠い青森だけに、実際に見ると感じ方が違うモンですね。
三内丸山遺跡のことも、行く前までは軽〜く考えていたのですけど(^_^;) 遺跡の広さと幾種類もの建物、住居の数(再建されているものは少ないですが)とか墓の大小及び並べ方等々を見る程に、集団と権威の萌芽を見る感じがして、胸に迫るものを感じましたね。
お話のような「住民同士のレベル」を考えますと、あれだけの大型建築をつくったり、堤防や道路つくったり、祭祀行為があったらしいことを想定すれば、親から子への伝承を越えた、住民間のレベルと役割の違いは既に発生していたと思います。
生涯を通じて、社会を常に下から見ざるを得なかった私からすると、それは痛い程に感じますけどね〜。
それにしても、機械なんかが全く無かったあの時代に、大型建築をつくったことにビックリしましたね。どのようにして建設したのかって思いますと、かなりの大昔から人は凄い智恵を持っていたんだな〜と、思いますね。
> ほんと、『 完全!に マイ・ペース 』 で、 暮らしてて、
> 「他人!と 比べる。 気にする」って 無〜〜い。 (笑)」
白い華さん宅では、「周囲に囚われず、自分の意志で考え・行動され」ている(^^)
素晴らしいことと思います。
私達の田舎では、周囲を気にして暮らしておられる方がまだまだ多いですよ。その点では、お互いを尊重し、認めあえる社会なって欲しいものと、切に願っています。
嬉しいお話をありがとう御座いました!!
これからもよろしくお願いしますね(^_^)v
カメちゃん
-
- ガブリエラさん 2017/08/10 17:05:30
- 竪穴住居とか、興味あります♪
- カメちゃん☆
こんにちは♪
青森県は、本当は今年1人旅しようかな〜なんて思ってた所でした(*^_^*)
交通の便とか、値段とか、ホテルとか、色々考えて断念しちゃったのですが、いつか行きたい場所です!
古いものが大好きで、遺跡とかも大好きなので、竪穴住居とか見たいです〜♪
復元された建物、いっぱいあるんですねヽ(^o^)丿
クルーズだと、こんな綺麗な朝日が見られるっていうのがいいですね!!!
たまに、クルーズのパンフレットが送られてくるのですが、やはり国内を廻るクルーズでも、1人部屋追加料金は10万円以上で、宝くじが当たるのを待っています(^_-)-☆
ガブ(^_^)v
- カメちゃんさん からの返信 2017/08/11 12:34:59
- RE: 初めての遺跡見学でした(^^)
- ガブちゃん
返信が遅くなってしまってごめんなさいね。
三内丸山遺跡編を見て下さって、嬉しいです!!
縄文時代とか弥生時代の遺跡を見たなんて、初めてのことでした。
縄文時代なんて、三角形の簡素な姿であった「樹皮葺き竪穴式住居」が建っているだけ時代だと思っていたんですよ。
旅行記中にも書いていますが、三内丸山遺跡を訪れて、そういう勝手で無知な先入観を見事に吹き飛ばされましたね。どんなことでも一度は見ておくものだと思いましたね。
一度も見ないで、ちょっとだけ目にした写真をもとに推量していてはイケマセンね。
竪穴住居と言っても、イザ造る!!となると、現代人でも知恵が要りますよ!!クレーンもショベルカーもスコップもない時代に、どうやって造ったか??などと、真剣に考えてしまいましたね。でも、答えが見つからない(-_-;)
そこにこそ、縄文時代の人々の智恵が活かされていた!!と言うしかないですね。
ガブちゃんも遺跡をお訪ねになりたいとのお話。
お時間のある時に、ごゆっくり見学してみると良いですね〜(^^)
クルーズに行きますと、朝日や夕日をたのしめる機会に良く恵まれますよ。水平線から昇る太陽や、水平線に沈む太陽は、クルーズならチョクチョク見られますからね。それに加えて出港時や入港時の風景や雰囲気も、列車の旅とは違った雰囲気を楽しむことが出来ますよ。
宝くじが当たるのを、私も祈っていますよ〜〜(^_^)/~
ありがとう御座いました。
それでは、また・・
カメちゃん
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