2015/06/09 - 2015/06/11
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カメちゃんさん
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東海道筋にありながら、いつも通り過ぎてばかりで、気持ちの上ではズッと遠くに感じていた熱海。
宿願の熱海温泉に来て、見て、温泉にどっぷりと浸かって、泊まって・・!(^^)!
もうこれで思い残すことはありません。たくさんある胸のつかえの一つが取れました(^O^)
もう一つ、「貫一お宮の像」も見たいものです。
事情があったにせよ、お宮さんを足で蹴っ飛ばす貫一。涙の物語でもあり、雄々しい男の姿に見えたりもします。そうなんですよ。 私も貫一に見習って、一度くらいは当家のカミさん蹴っ飛ばしてみたいのです。何と言っても「亭主」ですからね〜。
そして、下田へ・・
なにかの切っ掛けで、「唐人お吉」のお吉さんの記事を読みました。
人の運命とは分からないもの。自分ではどうにもならない運命の出会いが、お吉さんの人生を変えてしまったのですね〜。
お吉さんがいた下田に行ってみたい!!これもまた、私の願いだったのです。幸いにして、宝福寺さんでお吉さんを描いたたくさんの絵と出会うことができました。
熱海から下田へ・・。きょうの一日の始まりです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- タクシー JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
お早うございます。
お部屋から見た「日の出」です。
朝焼けの海と山・・。熱海から見る日の出って、本当に綺麗!!
朝日の左手に見える半島は、三浦にしては近すぎますから「真鶴半島」だと思います。
きょうも良いお天気になりそうですね(^^)
★真鶴半島の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E -
<その1>で、地図の見方をお話しましたが、こちらでも掲載させて頂きます。
−−−−−−−−−−−−−−−
以前と比べて、地図表示が分かりにくくなりました。
それで、写真をご覧戴く際のご説明の図を作成してみました。
図中の「NO.1」では、どちらかをクリックしますと、「NO.2」の表示に変わります。
「NO.2」では、まず「写真枠」をクリックして、航空写真画面にして下さい(この画面は地図画面です)。 そして、左の一覧から当該名をクリックして下さい。すると、「NO.3」の画面に変わります(この図では“地図”画面です)。
「NO.3」の画面では、選択したところを拡大してご覧下さい。 左上の、←印マークをクリックされますと「NO.2」の画面に戻ります。
地図を閉じる時は、タブの×印をクリックして閉じて下さい。
(※)旧Google mapでは、このような表示にならないことがあります。 -
こんなに早い時刻(午前4時36分)なのに、もう船が出て行きます。
たぶん漁船だと思いますけど、頑張っていますね。 -
食事前に、運動を兼ねて散歩に出掛けました。
腰痛もちには、一晩休んだあとの朝が一番“ラク”なんですよ。
ここは、私たちが泊まった「ロイヤル ウイング」というホテルの玄関です。
海沿いの高台にありますから、お部屋からの眺めは素晴らしいですよ。
熱海ですから、もちろん温泉ですよ(^_^)
熱海で泊まったのは、今回が初めて!(^^)!
泊まって良かったと思っています。
★ホテルの場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E -
ホテルから少し歩くと、こんな海岸風景が見られます。
熱海でこんな海岸風景が見られるなんて全く予想もしていませんでしたから、ホントにビックリでした。
だいぶ前に、友人のお誘いで伊豆高原へ行ったことがありましたけど、そこにも険しい海岸風景が見られるとか。でも、私たちはそこには寄らなかったモンですから、こんなに険しい海岸があるなんてことさえ気付くこともなかったです。 -
左手に見えるホテルは、私たちが泊まったホテルの姉妹館「ホテル・ニューアカオ」なんですよ。
海に突き出しているような感じて建っていますから、眺めが良いかもね。
姉妹館と言っても、「ホテル・ニューアカオ」の方が「お姉さん」になるようです。昨日、駅からのシャトルバスに乗りましたら、このホテルにも立ち寄ったんですけど、私たち以外のお客さんは全てこちらで降りてしまわれたのですよ。人気があるんですね。
「ホテル・ニューアカオ」は創業60年になるそうです。創業者は熱海市出身の赤尾蔵之助さんで、昭和29年に「赤尾旅館」を開業されて、現在の立派なホテルにまで発展したという話です。
熱海にまた来る時があったら、そのときはこちらの方に泊まってみようと思います。 -
先ほどの岩で切り立った入り江の見え方が変わってきました。
とっても険しい海岸風景ですね。 -
「ホテル・ニューアカオ」の近くから見た「ロイヤル・ウイング」です。
私たちのお部屋は、客室階の下から3階目のカーテンが開いているところです。
眺めの良いお部屋でした。
★ロイヤル・ウイングの詳しいことは↓にて
http://www.i-akao.com/royalwing/ -
線を下に降ろして、海岸線を撮ってみました。
この写真を元に地図と比べてみますと、写真の上で左方向に半島のように伸びるところは、網代温泉のようです。途中の山裾・海辺に建つ白い建物は「シャトーホテル・赤根崎」かと思います。
あの網代温泉あたりまでが「熱海市」なんですね。 -
「ホテル・ニューアカオ」にお邪魔して(姉妹館ですからね(^^))、熱海の市街地を撮ってみました。
山の斜面に発達したような街で、海辺の街なのに、皆生温泉や瀬波温泉のような広い砂浜がないですね。 -
熱海と言えば、一番有名なのは「貫一お宮」の像ですね。
「来年の今月今夜、オレの涙でこの月を曇らせてやる」
なんて言って、お宮さんを蹴飛ばしたんですね〜。蹴飛ばせる男心の強さがあっただけ、貫一さんはエライと思います。
私がそんなこと言ったら、当家のカミさんに蹴飛ばされてしまいますからね。それに、ひと晩一緒に寝れば、蹴飛ばされたことなんか忘れてしまいますよ(^^;) なんせ、忘れっぽくなりましたからね^^;
皆さんはどうですか??
そんな話はどうでもいいのですけど(半分はマジメですけど)、貫一お宮の像がどこにあるかと思って探してみました。カメラのディスプレイからは分かりにくかったのですが、この写真に貫一の頭が写っているように思います。←たぶん、間違いないと思いますけど・・。 -
こちらは昨日行きました「MOA美術館」です。
この美術館を起こした岡田茂吉は、「美術品は独占するものではなく、より多くの人に見せ・楽しませて人間の品性を向上さてこそ、文化の発展に寄与する」という高邁な信念を持つ人だったようです。
あとで聞いた話ですが、「MOA美術館」はある宗教の施設だとのことでした。それを聞いてビックリしましたね。その宗教というのは「世界救世教」とのことです。その活動は「手かざし」によって「霊を清める」ことと、自然農法の推進、そして芸術活動だそうです。公称信者数は、全世界で300万人を超えるそうです。
あのような信念の持ち主が、新しい宗教を起こしていたなんて、分からないものですね。もちろん、「人助け」を考えて宗教を起こされたと思います。人を騙すものではないこととお察ししています。 -
先ほど、ちょっとトンネルになっているな?と見えた岩場の海面付近ですが、この角度ですとちゃんとトンネルになっているのが見えました。
伊豆半島って海岸沿いの光景に砂浜が少なく、このように岩や山が海に迫り出しているところが多いですね。それで色々調べて見ますと、伊豆半島って押しかけ女房だったみたいです。大昔(2000万年前頃)は硫黄島の近くにあった海底火山群だったとか。それがフィリピン海プレートの移動に乗って来て、日本本土とドッキングしちゃったとか。
これで日本の領土が広がったとか(^^)。戦争で奪い取った領土ではない上に、温泉も出来たし、富士山もこれで出来たし?、南アルプスも高くなったし?まぁ、良かったではないですか(^o^)
そういうワケで、伊豆半島は海底火山の岩や溶岩などで出来ているという感じになってるみたいです。だから、こんな海岸風景が見られるのですね。
いやぁ、こんなこと、全然知りませんでした。 -
車道から海岸の方へ下る歩道がありましたので、降りてきました。急勾配ですから階段も多いです。
下りはじめて数分、ギリシャ神殿風の建物が現れました。
どうしてこんなところに??ここはエーゲ海ではなくて、伊豆半島だよ! それも昔から有名な温泉地だぞ(^^;) 皆さんも、そう思われませんか??
欧米人が見たら、どう思うでしょうか?
「オッ、日本にもこんな歴史があったんだ?」
と思うかも知れませんね。或いは、
「日本に何でこんなものを造るんだ?」
と思うかも知れません。
ここは是非、四阿(あずまや、しあ)を造って欲しいですよ。
そう、日本の風景には四阿がお似合いですよ。松も地中海松ではないですからね。
★四阿(あずまや、しあ)の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%98%BF
★ギリシャ神殿風展望台の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E -
風景画ばかり続いてゴメンナサイね。
こんな光景を楽しみながら、下へと下っているんですよ。
この岩場は「馬の背」と言われているようです。 -
もう少し下りますと、「錦のほこら」という休憩所があります。
ここには、ギリシャ神話の女神様のような像がありました。女神様?の名前も、持っている容器も何なのか?残念ながら分かりません(-_-;) ご存じの方、教えて下さいね。
ンで、ここでも、なぜ美しい日本女性の像を置かないの?って思いましたね。女神様が嫌いじゃないけど、ここは地中海じゃないよ! 女神様が良いというなら、伊豆半島にご縁のある木花之佐久夜毘売命もいらっしゃるし、天女様もおられることだし・・。神様でなくても、近代彫刻の中にも多くの和服の女性像もあるんだし・・。
別に、彫刻の一つ一つを取り上げて文句を言うのではないけどね、↑でもチョット触れたように歴史も古く、人々に愛されてきた熱海温泉ですよ。最近は外人さんもたくさん来る熱海のことだから、美しい和服の女性像でも据えたらどうなの?という思いがしたのです。
国粋主義とか排他主義とかなんてものは私には縁はないけど、自国の歴史や文化にも目を向けて欲しいですね(働く女性像でも、子どもでも、猫ちゃんでも良いのです)。
私たちがタキシードを着用していると、「オッ、それが日本の正装か?」なんて言われます(^^;)この女神像でも「これが日本の神様か?」と言われかねませんね(^^;) 現に、明治時代に日本に来た外国人は、洋装を自慢する日本人や、洋服を着て「日本文化を守ろう」と演説している日本人の風刺画を描いています。
★↓は、日本の天女さんです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A5%B3 -
きょうは海も静かで、船の旅には最高によい日です。いつか、伊豆半島を船で巡ってみたいですね。
横浜→名古屋・神戸を一週間で巡るクルーズで、伊豆半島のどこかに寄港するっていうのはどうでしょうかね? -
ホテルに帰る途中、チラッとお城のようなものが見えました。
熱海にもお城があったんだね〜。
これだけの街だから、お城があってもおかしくないわけです。熱海は何万石の大名がいたのでしょうか?
熱海に再び来ることが出来たら、このお城にも行ってみたいと思います。 -
ホテルに帰ってきました。
このホテルの記念に、当家のカミさんを撮っておきました。
ベッドがWだったら、言うこと無しのホテルでしたけどね(^^;)
「カカア天下」でも、ベッドはダブルで!!(~o~) 皆さんも、そう思われませんか? -
さぁ、朝ご飯をいただきますよ〜(^^)
これは、当家のカミさんの分です。
ちょっと少ないようですけど、勝負はこれからです(~o~)
ソーセージは普段はいただきませんが、きょうは特別のようです(^^) -
こっちは私の分です。
普段よりもだいぶ多いです!(^-^)
いつもは、左手前のサラダにオリーブオイルをちょっと掛けて、他には食パン半分をいただきます。 きょうは特別大サービスで、一皿分の海藻と野菜と焼き魚、それに牛乳と納豆で納得という内容にしました。
旅に出た時くらいは、たらふくいただきましょう!!(^^) -
先ほど散歩したところを、お部屋から見ました。
海岸沿いに「赤潮」のようなものが見えました(-_-;)。
左端の建物が、「ニュー・アカオ」というホテルです。 -
「夕べはマッサージもしないで眠ってしまったでしょ!!」
「おかあさん、許して!!今夜から、ちゃんとマッサージ致しますm(_ _)m」
「ちゃんとマッサージするんだよ!おサボリは許さないからね」
昨日、伊豆山神社で「健全なるカカア天下の発展」をお祈りしたばかりだというに、カミさんの暴力はまだ収まらないんです。お賽銭を5円じゃなくて、10円にしておけば良かったかな??
ある先生のお話では、「日本に於いては、女性の国会議員とか社長は少ないけど、家庭での主導権となると『亭主関白』は少数派で、『かかあ天下』が多数派である」とのことです。
日本では、妻が財布の紐を管理するのは江戸時代からの風習なんですってね。あの二本差しの武士も妻に小遣いをもらっていたなんて、皆さんご存じでしたか?? 今じゃランチに行っても「レディースデー」はあるけど、「メンズデー」とか「亭主の日」っていうのは未だにないですね(-_-;)
儒教社会は「男尊社会」という話がありますが、その中国でもこの頃は「かかあ天下」が増えているようで、上海が中国内の都市別「かかあ天下ランキング」で第一位(*^_^*)だそうです。本当に情けないですね。
時代の流れは女性の側に有利になってきているようです。男の将来は我慢!!(-_-;)しかないのです!!辛いね〜(T_T)。
フランスでは「亭主関白」が多いとか!(^^)! フランスの亭主は幸せですね。
★金色夜叉の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A4%9C%E5%8F%89
★貫一お宮の像の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
貫一を振り切ってお金持ちと結婚しちゃったけど、結局幸せにはなれなかったお宮さん。可哀想だね。ほんと、可哀想!!!(T_T)
これも、尾崎紅葉自身の体験を元に書いたとか。私に言わせれば、女性に振られるだけでも幸せだと思いますよ。私は恋愛の「れ」の字も縁がなかったからね(/_;)
しかしねぇ、女性を蹴っ飛ばすなんてイケナイよね!!
カカア天下の当家では、カミさんを蹴っ飛ばすなんて、とてもじゃ無いけどやれないですよ。それどころか、私は普段からカミさんに蹴っ飛ばされる覚悟でいるんですよ(=_=)
こんな悲しい小説を書いたその文体は、「写実主義」と言われるものだったんですね。絵画にも彫刻にも写実主義的なものが特にヨーロッパで見られましたけど、文章の書き方にも「写実主義」があったなんて、ビックリでしたね〜。
我が家の「カカア天下」の暮らしぶりも「写実主義文学」風に書いたら、どんな形になるんでしょうかね??
★写実主義の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9 -
お宮さんの前で、記念写真です。
お宮さんが幸せになってくれると良いね!!
★尾崎紅葉の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%B4%85%E8%91%89 -
それじゃぁ、全員で記念撮影をしましょう。
「お蔦、別れてくれ(-_-;)」
あれも辛い別れの話でしたねぇ(T_T)
あのお蔦・主税の「湯島の白梅」を書いた「泉鏡花」は、尾崎紅葉に師事した人の作でした。弟子も先生のように、男女の辛い別れの物語を書くなんてねぇ(=_=)
愛し合う男女の別れなんて簡単に言うけど、それは生き地獄に追いやられるのと同じこと!!こんなこと、口にするだけでも涙が出てきますよね〜(>_<)(T_T)
人々は日々平穏にして幸せに暮らせることを祈りながら、小説や映像・画像には、別れや争い・戦争やカッコ良さなどの悲しく厳しい場面を求めるんですね〜(=_=) 変な話だねぇ〜(-_-) -
今度は「お宮の松」をバックに記念写真です。
こういう記念碑的なところでは、記念写真は是非にも撮っておきたいものですね(^^)。
お宮の松は初代からの松ではなくて、二代目らしいです。初代の松は道の真ん中にあったとか。そのせいか車の排ガスの影響で?途中で枯れちゃったようです(=_=)
お宮の松の右の海側に「紅葉山人記念 金色夜叉之碑」と書いてある石碑が建っています。
枝葉の影でちょっと見えないですが、その下には「宮に似た うしろ姿や 春の月」という句が、「風葉」という署名?付きで書いてあります。
「紅葉山人記念」
「紅葉山人」って、誰のこと? 金色夜叉と関係ありそうだなと思って調べて見ると、「紅葉山人」って、尾崎紅葉のことなんですね。一種の芸名みたいなもの?「紅葉」そのものが本名ではないですから、さらにもう一つの洒落た名前を使っていたのですね。
記念碑の句の作者である「風葉」とは、尾崎紅葉のもとに入門した人のようです。尾崎紅葉が「金色夜叉」を未完のまま他界してしまったあと、その続きを書いて完結させたと言われています。だから、あのような句が書けたのですね。
★お宮の松の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%AE%AE%E3%81%AE%E6%9D%BE
★小栗 風葉の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E9%A2%A8%E8%91%89 -
熱海の海岸通りです。
熱海市街を見たのは今回が初めてでした。
海岸付近まで傾斜地が迫っていたなんて、ホントに全然知りませんでした。
伊豆山神社へ行くにも、MOA美術館へ行くにも、バスが傾斜地の曲がりくねった道を走りましたので、意外な感じがしましたね。
そして、このあとタクシーで駅に向かったのですけど、上り坂の連続でした。地図で見ますと平坦な土地に見えますし、距離も近いので、
「まぁ、歩いちゃおうか」
と思えるのですね。そこを横着をしてタクシーに乗ったのが大正解でした。
熱海は「坂の町」だったんです。 -
熱海駅へやってきました。
歴史を感じる駅の佇まいですね。
熱海駅までがJR東海の営業範囲なんですね(新幹線は東京駅まで)。でも、伊東線はJR東日本の範囲になるので、結局、新幹線はJR東海、在来線はJR東日本で共同管理というややこしい駅のようです。
★熱海駅の詳しいことは↓にて。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%B5%B7%E9%A7%85 -
ちょっと疲れちゃたし、温泉でも入ろうか(^^)
駅前に「家康の湯」という足湯があるんですね。
疲れた足を癒やすには、とっても良いですね。足がすご〜く軽くなりますからね(^^)
この「家康の湯」というのは、徳川家康が熱海の温泉の湯を御汲湯(おくみゆ)として江戸まで運ばせたことに由来するとか。江戸まで運ばせたなんて、ちょっと酷いよね。家康が家来たちも連れて熱海に来た方が、地元の人も喜ぶのにねぇ。
この足湯は、徳川家康来熱400年(平成16年3月)を記念して造られたそうです(現在は駅工事のために仮の姿になっています)。 -
家康の湯を管理されておられる方とお話が出来ました。
可愛くてハキハキしたお方で、お話をお聞きするのも楽しい方です。
お湯がちょっと熱いかな?と感じたのですけど、お話ですと「お風呂の温度ならちょっとだけ温め」の感じの温度だそうです。
そう言えば、駅舎内とか駅前、さらにはプラットホームにまで温泉とか足湯のある駅がありますね。私も2、3の駅で見たり体験したりしていますよ。 そういう駅が全国で何カ所あるんでしょうかね? 私は今のところ40ヶ所くらい調べました。 外人旅行客が増えてきていますから、温泉のある駅を大いに宣伝したいものですね!!
「温泉のある駅」で検索してみて下さいね(^_^)v
昔は名古屋駅にも銭湯のような「駅風呂」というのがあって、長旅に出掛ける前にそのお風呂に入ったことがありました。
紀伊勝浦駅や伊豆高原駅の駅前にも足湯の温泉がありました。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=20588235
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=14902126 -
足湯の近くに、現在工事が始まっている駅建て替えの完成図が張ってありました。
現駅舎が、瓦葺き等でないにしても日本的な雰囲気を持っているのに、このような形にしてしまうのはちょっと疑問を感じます。建物の形に、それと分かる日本的な要素を加味して欲しいなと思いますね。建て替えるたびに、伝統的な建築様式や風情が消えていく・・(-_-;) 日本に於ける近代化とは、そういうことなんですね。寂しいことです。
また、駅舎の建て替えだけでなく、駅前再開発も同時にやるということのようです。日本では都心に於ける伝統ある光景が次々に姿を消しているように思います。私たちの豊田市でもそうですが多くの自治体は、「駅前再開発」と称してこのような公共事業を未だに続けているのですね。この事業主体も「第三セクター」などの形を取って、市民の監視が行き届きにくくなっている場合も少なくないと思います。
本来なら。住民要求が多くても不思議ではない時代。 なのに、住民からの積極的な意思表示が弱く、また出しにくいなかでは、自治体の仕事ぶりを見せようとすれば、このような公共事業をやることが一番手っ取り早いですね。住民も「モノ」を見て評価するというのが、まだまだ多いですからね。
↓はアメリカのユニオン駅(ロザンゼルス)とグランド・セントラル駅(ニューヨーク)です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E9%A7%85_(%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E9%A7%85
他にユニオン駅(シカゴ)やユニオン駅(ワシントン)、ハノーファー中央駅(ドイツ)などもご覧になって下さい(アメリカは“ユニオン”という駅名が多いです)。欧米ではやたらと立て替えをせず、歴史と伝統が維持されていますね。 -
下田行きの電車から見た、漁船です。
ヴイに止めている漁船って、どういう船なんでしょうかね。
人が乗っていないような風にも見えます。
伊豆方面の漁船は初めて見る感じですが、船の幅がちょっと広いような感じがします。
★↓は愛知県・赤羽根港の漁船です。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=32612468 -
実は鈍行列車で下田に向かっているんですよ。
事前に切符を買っておいた、「スーパービュー踊り子号」が70分も遅れているというので、急遽特急券を払い戻して、この鈍行列車に乗り換えたんですよ。
乗ってから遅れるよりはましかも知れないけど、どのみち下田到着が遅れることになりました(^^;)
鈍行列車の良いところは、停車のたびに駅や町の様子が見られることですね。 -
下田到着です。
伊豆には3度ほど来ているのですけど、下田まで来たのは初めてのことです。
駅の雰囲気は結構良いですね。
下田へは私鉄の伊豆急行を利用するんですね。
でも、伊豆急下田駅までの切符は、愛知・岡崎駅から伊豆急下田まで通しで買うことが出来ました。通しで買えると手間が省けて助かりますね。これはJRが下田まで乗り入れしているせいかもしれませんね。
★伊豆急下田駅の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
予定の電車が遅れてしまい、遅いお昼となりました(^_^;)
下田に来ましたら、いただくものといえば「海の幸」ですよね!(^^)!
それで、下田駅から西に歩いて80mくらいのところにある「磯料理・寿司」の大漁さんのお店に入りました。 お2階に案内されました。
この時は丁度「下田きんめ祭り」の開催中でした。それで、お姉さんがこの抽選券を下さったのです。
所定の事項を書いてお渡しすると、後日当選した場合には連絡が来るというので、喜んで書いてお渡ししました。希望商品は、もちろん「A 金目丸々1本」でした(^^)
あれから4ヶ月過ぎましたけど、未だに連絡無し(-_-;) 抽選に外れちゃったのかも知れませんね。ヒョッとして、お正月に来るかも??
我が家はくじ運には縁がないですから、こういうことはダメなんですね。
このことを事前に知っていたら、昨日の伊豆山神社にお願いしておくのにね〜。ちょっと残念でした。 -
さてさて、お料理です。
左上は、奥様と私の「ナントカ寿司」です(メニューを撮り忘れました(>_<))もちろん美味しかったですよ!!
でもね、これではどれがどのお魚なのかサッパリ分かりません(-_-;) それをお話しましたら、魚の名前を書いてきて下さいました(^^)
左下は、その書いて下さったやつを大きく撮ったものです(↑の写真にも写っています)。
右上は旦那様と当家のカミさんの「お刺身の盛り合わせ」ですよね〜。
右下は、刺身の盛り合わせを大きく撮ったものです。美味しそうですね。
私も、これにした方が良かったかな?と、ちょっと反省(^O^)
下田へ行って
「下田でステーキとカツ丼を食べてきた」
なんてことを言ったら、
「そんなものは地元の豊田か名古屋で食べればいい。魚を食べてこい!!」
と、言われそうな気がしませんか?(^o^)
下田へ来たら、やっぱり魚ですね〜(^^) そして、何と言っても金目鯛ですよ!!!(^^)!
★↓は富良野の「福寿司」さんのにぎりです。上から見た感じは変わらないけど、「厚さ」があるんですよ。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31069724 -
下田駅前に展示してあった「サスケハナ号(模型)」の前で、記念写真です。
いつも威張っている当家のカミさんには、サスケハナ号がお似合いのようです。
あのペリー提督もハリス領事も、全長80mにも及ばないこんな形の外輪船で、はるばる太平洋を渡ってきたのですね(この写真の「サスケハナ号(模型)」の船体長さは、せいぜい6m前後?と思いますので、実物のサスケハナ号はこの模型の12、3倍はあると思います)。
私たちが6万トンとか11万トンの大型客船に乗っても多少の揺れは感じるというのに、天気も予想できない時代にこんな小さな船で、よく太平洋を渡ってきたモンだと感心しますよ。
余計なことまで言いますと、凡そ500年前に船で世界一周をしたマゼランの船(トリニダード号)は、全長30mそこそこ程度らしいです。それこそ、こんな小さな船で世界を回ったモンだと驚嘆しますね(マゼランはフィリピンのセブ島で戦死)。
★↓は私たちが北太平洋(神戸→バンクーバー)を横断した時の船(約6万トン)です。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=16503471 -
宝福寺へ来ました。
このお寺さんには、「唐人お吉」で知られている「斉藤きち」さんのお墓があるんですよ。
お吉さんが身投げした後の遺体を人々は蔑み、菩提寺までが引き取らなかったのです。3日ほどもお吉さんの遺体が放置される中で、宝福寺のご住職が「如来様の胸に抱かれたきょうだいだ。私がひきとろう」と言って、人夫さんを頼んでお寺に連れてきてあげたのです。
それでも、人々は菩提寺でもないお寺がお吉さんを引き取ったとしてご住職を迫害したため、ご住職はついに下田を去ってしまったのです。
お吉さんの遺体を引き取らなかったお寺は一ヶ寺だけではなかったようで、仏門に帰依する僧職がそんな態度を取るなんて実に情けないことですね。ですから、この話には本当に腹が立ちました。それにしても、人のことを勝手な理由を付けて蔑み、非難し、差別する人にはなりたくないですね。
そんなわけで、お吉さんは斉藤家の菩提寺でもなかった宝福寺で眠っているのです。下田へ来たら、先ずはお吉さんを訪ねようと思っていたのです。
★宝福寺の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
坂本龍馬が下田に?? こんな話は知りませんでした。
坂本龍馬が下田に来たことがあるの??その辺は色々な話があるようです。
しかし、龍馬にとって下田は大事なところだったのです。
というのは、土佐藩の藩主・山内容堂が嵐を避けて下田・宝福寺に逗留していたところへ、これまた幕府軍艦奉行・勝海舟が嵐を避けて下田に避難してきたのです。そのことから、山内容堂と勝海舟があうチャンスが生まれ、そこでの話が坂本龍馬に関わることになったというのです。
勝海舟は、山内容堂に坂本龍馬の脱藩の罪を許してやってくれと、飲めない酒まで飲んで頼んだというのです。海舟の真剣な頼みに折れた容堂は、それを受け入れ龍馬を自由の身にしてやったというわけです。
そういうワケで、龍馬にとって下田は自分が解放された地ということになり、ここ宝福寺こそが龍馬の飛躍の切っ掛けが造られたところと相成ったというのです。
下田は天然の良港で、嵐が吹くと船が避難してくるのです。避難港としての下田が、人々の間に多くの出会いを生み出しているのです。 嵐のお蔭で山内容堂と勝海舟の歴史的な出会いもあったわけで、それが龍馬の運命を開くことに繋がったのですね。
下田での坂本龍馬の件、龍馬の像がここにある理由がようやく納得できたのでした。 -
宝福寺には、幕末時に奉行所が置かれたんです。
お寺さんに奉行所が置かれたなんて、初めて知りました。
二本差しの侍が、仕事場としてお寺さんに出入りする光景は、時代劇でもあんまり見たことがないですね。宝福寺さんにとっては幕府に乗っ取られたと言えるのでしょうか?
すると、お彼岸やお盆の行事、お葬式や喪中ほかのお勤めはどうなったんでしょうかねぇ。
下田の奉行所って、幕末時になって急いで設置されただけかと思っていたら、これが宝福寺への3回目の奉行所設置だったんですね。
最初は元和2年(1616年)からで、2回目は天保13年(1842年)から、そして3回目が嘉永7年 (1854年)3月24日から宝福寺に置かれたというのです。ところが、その年の12月に大地震と大津波に見舞われ、宝福寺は大被害を受け奉行所も移転したという話です。
下田に大地震と大津波!!(>_<)(T_T)
大変なことがあったんですね。 -
こちらには「神子元島(みこもとしま)灯台建設技師異人宿舎跡」の記念碑があります。
宝福寺さんはホテルの役割も担わされたんですね。
神子元島は人も住めない岩ばっかりの島です。日本が開国するようになって、諸外国から航行の安全の為の灯台の設置が求められるようになり、改税約書(江戸条約)によってこの島に灯台の建設となったようです。
この灯台建設の監督にスコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントンがあたり、明治2年2月に着工、完成したのは明治4年旧暦1月1日とのことです。点灯式には当時の太政大臣三条実美や大隈重信、大久保利通などが顔きたようです。
神子元島灯台は今も現役で、「世界歴史的灯台百選」のひとつでもあるそうです。また日本政府により史跡に指定されていいます。等級は第3等群だとか。
★神子元島灯台の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%85%83%E5%B3%B6%E7%81%AF%E5%8F%B0
★神子本島灯台の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
三毛猫ちゃんを見つけました(^^)
可愛い(^-^)
ヒョッとして、宝福寺の見回り担当者なのかな?
真面目な顔して・・、何か言ってるみたいです。
「ここは、歴史上の大事なことがたくさん詰まっているところだから、しっかり勉強するんだよ」
ハイハイ、分かりました。頑張りますね(^^) -
宝福寺では、お吉さんに関連する資料の展示をしていました。これは嬉しかったです。
入場料を払って、早速見学させて頂きました。
先ず、目に飛び込んだのはお吉さんの写真です。宝福時のHPによれば、安政6年のお吉さんが19歳の時のものとのことです(写真と言っても、当時の白黒写真を色づけしたものです)。この写真を見ますと、お吉さんが、若くて、利発で、行動的で、美人だったと言われてきたのも納得できます。アメリカの下田領事となったハリスが一目惚れしたというのも、納得できます。
唐人お吉と言われた人が、どんな人だったのか?それは全く想像もつかないことでしたけど、ここに来てようやく「お吉さん」という人に会うことができ、納得することが出来たのです。 -
坂東玉三郎さんがお吉さんのお墓に参拝されたんですね。
玉三郎さんは松竹創業百年記念公演の一つに、時代の荒波に巻き込まれ人生を狂わせてしまったお吉さんの姿を演ずるお芝居、「女人哀詩」でお吉さんを演じたのです。お吉役は坂東玉三郎さんで、お吉さんの恋人であった「鶴松」役は江守徹さんでした
その上演の前に、お吉さんの墓に参拝されたようです。そうした玉三郎さんの謙虚な姿勢に学びたいと思いますね。 -
佐久間良子さんも、昭和69年に帝劇での「唐人お吉」上演の際、草笛光子さんとともにお吉さんのお墓にお参りされたのでした。
あの激動の時代に、結果として大きな役割を果たしたにもかかわらず、地元の人々からは「唐人お吉」と蔑まされ、苦悩の人生を歩んだお吉さん。そのお吉さんを、佐久間良子さんがどのように演じられたか、是非見たかったですね。 -
こちらでもお吉さんがお芝居などで演じられています。
可哀想なお吉さんが偲ばれますね。 -
島津亜矢さんは、2006年に「お吉」を発表・発売されました。
★「youtube 島津亜矢 お吉」で検索されて、「お吉」をお聞き下さいね。 -
こちらはお吉人形です。
写真をもとに、それに忠実に創られたようです。
髪は京都の芸者さんから提供された本物とか。お着物も幕末当時のものだそうです。
こんな綺麗な娘さんが、ハリス来航という歴史の偶然に巻き込まれて、痛ましい人生を送ったことは本当に可哀想でなりません。
歴史に「もし?」はイケナイのですが、下田領事に、50歳過ぎのオッちゃんで飲んだくれで身体の弱いハリスでなく、もうちょっと若くて健康な人が来ていたなら、お吉さんが行くことはなかったろうにと悔やまれます。 -
安政5年6月にハリスが江戸の向かう時、お吉さんも同行したとのことです。
これはその際にお吉さんが乗った駕籠とのことです。
「唐人お吉物語」によれば、お吉さんが初めて領事館に行ったのは安政4年5月21日ということでした。それから数ヶ月で領事館を離れたあとも、お吉さんはこの時までなにかとハリスを支えてきたようです。そうでなければ、貴婦人同様に駕籠に乗せられて江戸への同行を求められることはなかったと思いますね。
しかし、ハリスは黒船ポーハタン号で江戸に向かったという話もあります。
お吉さんの動向については、色々な話が出てきて私を悩ませます。そのどれについても、残念ながら私には確かめようのないことです。 このあとのお吉さんの動向については、そうした話のズレを踏まえながらも、竹岡範男著・「唐人お吉物語」を中心にしてお話してみたいと思います。 -
お吉さんが領事館に行ってからのこと、ハリスが吐血したことがあったようです。それで、お吉は医者を呼びに走ったというのです。
その医者というのが、この写真に写っている人で、漢方医の「浅岡杏庵(きょうあん)」でした。この人がハリスの病気を治したので、幕府から感謝状と共に「金五百匹(一両と4朱)」が与えられたという史料です。
ハリスの吐血は以前もあったようで、こうしたハリスの健康不安から「看護婦」のような人が欲しくなって、奉行に依頼を出したようでした。ですから、当時の医者のそばで働いていた女性がいたわけですから、そういう人を探してきて日帰り通勤させれば良かったと思いますね。
ところが、「看護婦」を知らなかった幕府は、それを「妾」と勘違いして芸妓であるお吉に白羽の矢を立てたという話があります。 -
アメリカ(女性)とヲロシヤ(ロシア・男性)が手を取りあって・・。とっても仲良しに風に描かれていますね。
当時の日本人、下田の人々にとってはそんな風に感じたとしても無理はないですね。日米和親条約と日露和親条約は1年と違わずに締結されていますし、米・露の艦隊の提督とか領事たちは下田で交流をしていましたからね。
日本が長い鎖国の眠りに耽っているのに、そこを米・露のアベックに蹴飛ばされて、慌てて目を開いた時に見えた姿がこれだったということでしょうか(~o~) -
この図は下田にしては出来過ぎていますね。たぶん長崎だと思います。
下田も、第二の長崎を夢見たのでしょうか? -
お吉さんの寂しい絵が目にとまりました(=_=)
右の絵は、お吉さんが「安直楼」という小料理屋の女将をしていた40代前期頃の姿で、絵の下には「旅人の為酒と女と宿を安直に提供した」との説明があります。
お吉さんは安直楼で寝起きし、若干の女中さんも使っていたようです。そんな小料理屋の女将でありながら、この頃から生きるよすがを失い、「朝から酒でうがいをする」と噂されるほどのアル中になっていたようです。
まだ若すぎる16歳の娘の頃から「唐人」と蔑まされ続けてきたお吉さんの心には、旅人を慰めることはあっても、「この世(世間)を信じて生きてみよう!」という心意気も掻き消されてしまっていたのでしょう。
左の絵の上の方には、「明治二十二年十七人の浮浪者の一人となる。安直楼の頃お吉に救われた大國丸の亀吉が白米一俵を乞食扱いにして施したその無礼を悲しみ怒り米を路傍に投げる 筆者静観」と書いてあります。
お吉さんを思いやる人も全くいなかったワケではないようでしたが、そうした「思いやり」さえも、人々からの誹謗・中傷の声によって閉ざされて、お吉さんの心を変えることは出来なかったのです(>_<)(T_T) -
写真が薄くてスミマセンm(_ _)m
右の小さい方の写真は、お吉さんが40歳、安直楼時代の姿です。
撮影は、水野半兵衛氏です。
左の色の薄い大きい写真は、お吉さんが19歳、安政6年とあります。 -
歌川広重(三代)の「婦人教訓鏡」という絵も掲示してありました。
私たちは名古屋の日展とかを見に行ったことがありますが、美術館や展覧会に行った時に見る絵画の殆どは、洋画または、洋画とあまり区別の付かない「日本画」を見ることが多いですね。
歌川広重のような江戸時代からの伝統を持つ日本画を見たのは、ごくまれです。昨日の「MOA美術館」の展示などは、とても貴重だと思いました(撮影禁止だったのが残念です)。
★↓は北海道・富良野にある後藤純男美術館での「日本画」です。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31119530
★こちらでは、上村松園や川合玉堂、橋本雅邦ほかの伝統的な日本画を見ることが出来ました。
http://4travel.jp/travelogue/10717641 -
「婦人教訓鏡」のうち、幾つかを見てみましょう。
右上に書いてある草書体の文字が読めないものですから、詳しいことはお話できません。
たぶん、生け花をしているところでしょうか。 -
こちらは、見たとおりの田植えの様子です。
女性たちの田植えの様子が生き生きとしていますね。
私が25歳の頃までは、この図の通りの田植えを親戚の応援も頂いてやっていましたよ。
私は田んぼにいる「ヒル」が大嫌いで、「ヒル」を見ると逃げ回ってばかりでした。お蔭で落ち着いて田植えも出来なかったですし、皆にも笑われました。
そんな思い出が懐かしいです。 -
これは着物の仕立をしている婦人に、反物を売っている絵でしょうか。
-
これは、「学校教授の図」です。
学校と言っても、生徒は子どもではないようです。
幕末から明治の頃には、こういうこともやっていたのですね。
この絵では描き手から遠いハズの先生が大きく描いてあります。まぁ、別にそれで良いのですが、ヨーロッパの画法では遠近法とか言って先生を小さく書きますね。
日本の絵では心理遠近法とか逆遠近法と名付けられる描き方があるようですね。また、写実では表しにくい人の感情とかが豊かに表現されているように感じます。 -
これは、詩か短歌でも書いているのでしょうか。
-
川で布をさらしで働いている人たちの図ですね。
★三代目広重の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE) -
お吉さんが駕籠で出掛けてゆく姿ですね。
それが、お吉さんの身の上から、何となくかけ離れた漫画風になっているんですね。
どういう事情でこんな漫画になってしまったのでしょうか。
左に書かれている文を見ますと、
「駕籠で行くのはお吉じゃないか下田港の夜の雨」
となっています。
この文は、昭和28年の、西条八十の作詞「駕籠で行くのはお吉じゃないか 下田港の春の雨 泣けば椿の花が散る」の、「春の雨」を「夜の雨」に変えたもののように考えちゃいますね。どちらかが「盗作」じゃないかと勘ぐってしまうところですが、実際のところは私には分かりません(-_-;)。
お吉さんの辛い人生をこんな風に笑ってしまう(-_-;) なんて、私はいやな感じがしてなりません(>_<) -
ここからは、お吉さんの一生を描いたものをご紹介します。
(お吉さんのことは重要な証拠が少なく、日本国内でも、日米間でも諸説があるようですので、一般的な話になることを、前もってお断りしておきます)
さて、Wikipediaによれば、お吉さんは現在の愛知県の南知多町内海生まれで、4歳の時に一家で下田に来て、7歳で河津城主の愛妾村山せんの養子となって、琴や三味線を習ったとのことです。
これは、お吉さんが若い頃に学問や芸能に励んでいる頃の様子です。この時、簡単な読み書き等のそれなりの知識も仕込まれたと思います。 -
下田というところはどういうところだったのか。
「伊豆の下田に 長居わおよし 縞の財布が空になる」 下田民話
下田は天然の良港で、一時は江戸へ大阪・紀州・高知とか、尾張・三河などから江戸に荷物を運ぶ船を検査する港だったことから、たくさんの船で賑わったりしました。
そんな役割もやがてなくなって寂れたものの、悪天候の時の避難港として、時々は船が来たようです。
そんなときの船乗りたちを相手に、お店もお座敷も商売が出来、街も絶えることなく続いたという話があります。嵐が続けば、船乗りたちはさらに下田に留まり、船の荷も売って遊んだとか(海上で嵐に出会うと積み荷を捨てて船の安全を維持しますから、嵐のせいにして荷を売り、遊べるのです)。
下田の芸妓さんは優しく、カネを使い果たした船乗りを追い返したりせず、良く面倒を見たとのことです。下田の人々の、そんな優しさに惹かれて、ついつい長居をして財布の底まで使い果たしてしまうということのようです。そういうことなら、財布が空になっても悔いは無いかも知れませんね(*^_^*) -
お風呂から帰るお吉を発見したハリスたちの様子です。
あの時代では、自宅にお風呂を持たない庶民は銭湯に行っていましたら、銭湯帰りの人々を見るのは日常のことですね。ただ、そこに下田で一番若くて美しい芸者と言われるお吉さんと出会ったというのです。
そのお吉さんに、ハリスやヒュースケンが心惹かれたというのは、事実かドラマか分かりませんけどね。
女性に心惹かれるのは私だって同じですよ!! でも、私のような男に振り向く女性なんてこの世にいませんから、どうってことは無し(-_-;) 片思いしただけ疲れただけのことでした(T_T) 結婚してみれば、当家のカミさんには天下を取られたし・・(>_<)
とは言え、女性は女神様。ですから、むやみに心を寄せず、遠くから拝見するだけで良いのですよ。 -
写真がボケてしまいましたけど、下田の銭湯の様子です。
このように混浴だったようです。
この時代の日本では、混浴は決して珍しいことではなくて「どこの街にもある」と言えるほどだったようですね。幕末〜明治初期に日本に来た外人たちは、混浴という日本の風習を見て、低俗な風習として見下げる人もいた一方、混浴を卑猥な風習として捉えることなく、自然な日常として理解していた外人さんもいたのです。
混浴の一般的な?は理由は、水・薪の制約があり、浴槽を男女別に造る余裕のないところも多かったという話があります。また、暖かい季節では、男性はふんどし一枚で仕事をし、女性も通りから見えるところで裸で行水していたようですので、裸体への抵抗感は少なかったと考えられているようです。
温泉では今でも混浴の名残があります。これはこれで良いことだと思います。私たちの定年記念旅行の時、新婚のカップルと露天の混浴風呂に入りながら会話した楽しい思い出があります。
最近のニュースでは、若い男女がグループでやってきて混浴の様子をビデオ撮影したとかで、その温泉では混浴を止めたとのことでした。非常に残念ですね(>_<)
マナーを守って、混浴を楽しみたいですね。
昭和30年代初め頃までは、田舎では自宅にお風呂があっても、近所の人たちとまわり番でお風呂を使っていましたからね。薪の節約とかの意味もあったかと思いますよ。 -
下田奉行から、領事館へ行くように説得されるお吉さんです。
↑でもお話しましたように、ハリスは下田に来て以来、生活の変化や幕府との交渉、またストレス等でずいぶん体調を壊したようで、幕府側に看護婦の派遣を要請したようです。
ところが、「看護婦」を「妾」と解釈した幕府は、数え年17歳という若さで下田で一番の美人芸者と言われるお吉に白羽の矢を立て、お吉さんへの説得に乗り出したというのですから、お吉さんにとっては本当に迷惑な話ですね。 -
お吉さんを置いて、江戸へ去る鶴松です。
奉行はお吉さんを何としてもハリスの元へ行かせようとして、お吉さんの恋人の鶴松に「武士にしてやる」と持ちかけて、鶴松をお吉さんから引き離してしまいます。
船大工だった鶴松。身分社会の時代では、一般の農民や大工が武士になることなど到底不可能なこと。そこへ「お吉を諦めれば侍にしてやる」と誘われれば、その話に乗ってしまいますよね。平社員をいきなり課長か部長に取り立てるようなモンですからね。
こうして、お吉さんは鶴松との仲を無理矢理に引き裂かれてしまったのです。 -
下田の大地震と大津波の混乱の中で一人ぼっちになったお吉を助けてくれたのは、幼友達の船大工・鶴松でした。 その鶴松を失ったお吉さんは、苛立ちのなかでハリスの領事館へ行くことを承知してしまったのでした。
武家の娘をハリスのもとに差し出しては、武家の恥・幕府の恥とか。ところが、お吉さんは下田港の漁師を相手にした芸妓の身。
そこで、幕府はお吉さんを「遊女であって大和撫子ではない」として、自己納得していたとか。そうして、ハリスの手前では武家の娘として大枚な支度金を用意し、奉行用の駕籠に乗せて領事館へ向かわせたというのです。
幕府の勝手な振る舞いには、腹が立ちますね。 -
こうして、ハリスの元へ行ったお吉さんです。
幕府から支給された支度金は25両、給金は月額10両(年俸120両)という破格の額でだったようで、幕府の領事館重視とお吉さんの役割への期待度の大きさが表れているように思いますね(支度金が、お吉さんにとって「前借り金」であったという話は、ハリス(米国)の処遇という前提を考えると、一般論としては分かりにくい話です。)
お吉さんが来てくれてハリスはもちろん喜んだと思いますが、お吉さんがどれほどハリス&領事館に貢献したのか?は諸説あって分かりません。
3日で領事館から追い返されたという説や、3ヶ月ほど領事館にいたという話、領事館から返された後も領事館に戻ったり、何かの折(ハリスの危急の時ほか)に領事館に自ら出向いたという話など、様々です。その際、破格の支度金や報酬はどのように扱われたのか?も、詳しくは分かりません。
幕府も、領事館も記録を残していないのですね。
いずれにしても、期間の長短に関わらず、お吉さんがハリスの元に行ったということが、後に地元の人々から「唐人お吉」「らしゃめん」などと軽蔑される切っ掛けとなったのです。ですから、このことが非常に重要だと思います。 -
地元の人々にいじめられるお吉さんです。
奉行(幕府)に無理矢理頼まれて米国領事館へ行ったお吉さんの心の内も察せず、こうした行為に及ぶ住民感情は本当にイヤですね。
このイジメに関して、「お吉以外にも領事館に方向に行った若い娘は虐められないのに、お吉だけが虐められたとするのはおかしい」という話があります。
私は、この話には同意できません。人々のイジメの目標になるものが、お吉さんにはあったとみるべきでしょう。
それは、お吉さんが7歳にして河津城主の愛称の養子となって、琴や三味線を習ってきたという「教養」があったこと、美人であったこと、ハリスの領事館に入るに際して武士の娘という扱いを受けたこと、誰よりも高額の支度金や給金を支払われたこと、ハリスの相手が出来るほどの知識のあったこと、弱音や言い訳を言わなかったこと等々、人々の関心を引き、人々からまた羨み・妬まれるだけのものがお吉さんにあったからだと思いますね。
外国人への偏見のある時代では、それへの妾ということと重なって、一層酷い虐めになり得たと思いますね。
このことは、決してお吉さんだけのことではなく、現代でも十分にあり得ることです。
人と変わったことが出来るだけでも「違った人」として扱われ、馴れ合い的な世間や職場で何かを言えば、「色眼鏡」で人を見たり評価する現実があります(>_<) ネット上では言葉の暴力が氾濫しています。
そんな現実を思いますと、お吉さんへのイジメは決して過去のことではないと思います。震災後に福島へ行った時でも、積極的な支援が叫ばれている状況にも拘わらず、「あんなところへよく行ったね」と言う人々の意識があるのですからね。 -
ハリスが日米修好通商条約の調印を果たすと、幕府はお吉さんに手切れ金を渡したとのことです(金額は分からず)。ということは、形式上ではお吉がハリスの元へ行ってから約1年2ヶ月の間、幕府との契約関係があったということになるのでしょうね。
「唐人お吉物語」によれば、自由になったお吉さんは、ハリスと共に江戸へ行った時の知り合いの武士・松浦武四郎と京都にのぼり、芸妓になったようです。
松浦武四郎は、勤王の志士ながら日本の実力を憂いて開国して国力を強化する必要を感じ、お吉を利用しようとしたという話です。こうしてお吉は、京都に於いて松浦と共に「富国」の必要を説いたというのです。
ここの部分は「唐人お吉物語」で詳しく書いてありますが、出典が明らかでないのが気になるところです(お吉さんに関しては、記録が少ないのが悩みですね。) -
その後、京都を去り三島で芸妓をしたり、横浜へ行って幼なじみの鶴松と再会して一緒に暮らしたり、その鶴松と別れて下田で髪結いをしたり、小料理屋の「安直楼」を始めたりしました。
けれども、地元の人々からのイジメもあって何事もうまくいかず、お酒にのめり込んでアル中状態になってしまったようです。
こういうお吉さんの性格をとらえて、お吉さんを良く言わない方々もおられます。↑でもお話しましたが、ハリスの元へ行くこともなく、お吉さんの気ままな人生でこのようになったなら、それはお吉さんの自業自得というものでしょう。
そうではなく、アメリカの開国要求という歴史の渦に巻き込まれ、ハリスの元へ無理やり侍娼として遣わされたことが、お吉さんの運命を変えてしまったのでした。そういう点で、私はお吉さんに同情してしまうのです。そもそも「唐人お吉」という言い方自体が、人々のお吉さんへの蔑みの心情の表れなんです。
お吉さんを「唐人お吉」と言って憚らない「世間」の風潮は今も健在で、人々の自由にして前向きな発想や提案、そして行動を色眼鏡で見たりするのは、日常茶飯事です。企業や組織・団体で言えば、賃金や昇進での冷遇、意見や提案の無視、組織からの排除などですね〜(*_*)
お吉さんの苦労は、今の私たちに手を変え品を変えて現れていると言って良いと思います。 -
下田の人々にお米を分けるお吉さんです。
お米を近所の人々にあげるお吉さんですが、本当は皆さんのことを思ってしているのではないのです。
かつてお吉さんに救われた船乗りがお吉さんを訪ねて、当時のお礼のつもりでお米1俵を差し入れしたのです。ところが、既に乞食になっていたお吉さんは自分が乞食扱いにされたと勘違いし、やけくそになってお米を路端に投げ出したのです。
人々はそんなお吉さんを「唐人の妾」「罰当たりめが!!」と罵倒しながらも、そのお米を目当てに、おばちゃんたちがお米の入れ物をもって駆けつけた様子を描いたというのが、この絵です。恐らく、明治20年を過ぎた頃の出来事かと思います。
真偽のほどは分かりかねますが、お吉さんの気持ちのほどは察しがつきます。
幕末から明治への激動の時代、多くの戦があり、無数の人々が命を落としました。お吉さんはそんな時代のなか、米国領事館に遣わされて以来、世間の偏見に満ちた視線を浴びて苦しみ続けたのでした。ごく普通の性格の人であれば、人々の視線もいつかは弱くなっていたでしょうが、そこがお吉さんのお人柄なんですね。分かるような気がします。 -
とうとう、希望を失い、世の中を見限ってしまったのですね。
助けてくれる人もいるには居たのです。
しかし、そういう人の善意でさえ素直に受け止められず、却ってかたくなに拒否してしまうほど世を恨み、心を固く閉ざしてしまったのだと思います。
私も地域や職場で体験してきたことですが、幕末の時代では、人々はお吉さんを蔑む人々の動きに同調して、お吉さんを汚く罵ってきたのでしょう。それこそが「世間」というものであり、その恐ろしさでもあるのです。
そういう「世間」の恐ろしさが、17〜18歳の若い頃からズーッと襲い続けてきたのです。よほどの社会的地位があり、知識と自覚・使命感と心の広さをもって理解し支えてくれる人が居ない限り、世間の重圧に耐え抜くことは難しく、誰でも心を閉ざしてしまいますよね。
お吉さんを苦しめた重要な社会的特質の一つに、「世間」がある!!ということを、私は痛切に感じるのです。お吉さんを苦しめた「世間」から、今なお抜け出せない日本人。お吉さんの苦しみは過去のことではなく、現代のテーマでもあると思うのです。
この意味では、「世間」の克服は私たちが越えねばならない深刻な問題かと思います。
★「世間」の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%96%93
★「お吉物語」描いた前田青邨の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E9%9D%92%E9%82%A8
★「世間」のことは、『 「 世間」とは何か 阿部謹也 』 で検索されてみて下さい。 -
心も体も蝕まれたお吉さんが世を儚んで作った都々逸があるというのです。
「どうせ正気ぢゃ世渡りゃできぬ、ままよ剣菱鬼殺し」
他にも、
「盃洗の中に浮かしたあの盃を、誰が身請けをするじゃやら」
という唄もあるようです。こういう都々逸を書くお吉さんの気持ちは、私には痛いほどよく分かります!!!
まだ若すぎる16歳の娘の頃から「唐人」と蔑まされ続けてきたお吉さんの心には、旅人を慰めることはあっても、「この世(世間)を信じて生きてみよう!」という心意気も掻き消されてしまっていたのでしょう。
新美南吉の場合もそうですが、幼くして生母と死別し、継母の元で育てられながらも常に人々からの目線を浴びてきた心の中に、「世間」の影が無意識のうちに形成されていたかも知れません。
南吉の死の少し前の作品には、改めて命を見つめて多くの教えや生き方を学び、自分自身の枠を乗り越えようとしてきた形跡が見られます。
お吉の苦悩と南吉の苦悩は全く別のものですけど、不遇な身の上ゆえの苦労は共通しているように思えるのです。
【※】「剣菱」「鬼殺し」は高級なお酒のようです。
★↓南吉関連の旅行記は↓にて
http://4travel.jp/travelogue/10846603
http://4travel.jp/travelogue/10846744 -
お吉さんは遂に身投げをし(「足を踏み外して落ちた」という説もあります)、この世から去ってしまったのでした(T_T)
しかし、お吉さんの遺体の引き取りを菩提寺さえもが断る始末で、2日ほど川の近くに放置されたとのことです。宝福寺の住職がたまたまそこを通りかかり、近所の人から事情をお聞きになって遺体を引き取られ、ねんごろに葬儀をあげられたというのです。
仏門にいる人までもが、人に遺体に情けを掛けられなかったとは、本当にショックですね。それが、日本の「世間」というものだと思います。
何らかの疑問を感じながらも、まわりの動き(世間)を気にして個人としての意思表示が出来ず、周囲に当たり障りのない言動をとる(>_<) 仏や神に仕える者までが、そういう言動をとってはばからない。今でもあり得ますし、今こそ問われなければならないと思いますね。
★お吉さんが身投げしたと言われる「お吉が淵」の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
「お吉さんは実在の人物であったのか?」
という話もあります。
「唐人お吉」の話は文学という架空世界のつくり話だったのか??
これには正直言ってビックリしました。
これは、お吉さんが実在の人物で、確かに宝福寺で葬られたということを示す「過去帳」です。下の帳面の左から4番目の「貞歓」と書いてあるのがお吉さんの法名だそうです。 -
↑の写真にある過去帳公開の説明文です。
ここでは、お吉さんを歴史から抹殺してしまおうとする論者を、厳しく糾弾しています。お吉さんに関する資料が本当に少なかったことが、過去帳の公開という事態を引き起こしたのだと思いますね。
死してなお、お吉さんの存在を抹殺しようとした人がいたことには、背筋の寒くなる想いがします。
★お吉さんの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1 -
お吉さんのお墓です。
「唐人お吉物語」という本に出会うまでは、お吉さんのお墓のことまでは知らずにいたのです。
お吉さんのお墓は、最初の頃はもっと小さかったようです。
こんなに大きなお墓を作ってもらえて、お吉さんも草葉の陰で喜んでいることでしょう。
詳しいことは、↓写真の説明をご覧下さい -
お吉さんの苦労のことも書かれています。
是非、拡大してご覧下さいね。 -
お吉さんの亡骸が川の傍で放置されているのを見て、お吉さんの旦那寺でもないのに「如来の胸にいだかれたきょうだい」として、その亡骸をお引き取りになったのは宝福寺のご住職・竹岡大乗師です。
人々を「如来の胸にいだかれたきょうだい」としてご理解され、分け隔てなくお情けを掛けられた竹岡大乗師は本当に素晴らしいお方だと思います。私たちは竹岡大乗師のお足元にもよれない小さな存在ですが、たとえ少しでもあやかって、出会いを大切にしたいと思いますね。
僧職・神職にある人にとって、その宗派如何を問わず人々の生ける命とその霊を大事にするのは、当然すぎるほどの責務だと思います。しかし、現実は本当に複雑で難しいですね。
そのせいで? お吉さんの亡骸は2日も放置されてしまいました(>_<)(T_T)
そればかりか、お吉さんを引き取られた竹岡大乗師にまで、「よそのお寺で引き取らぬお吉を引き取った」ということで、寺院仲間らが反感を抱き、住民も竹岡大乗師を迫害したようです。
そのために、竹岡大乗師さえもが下田に居れなくなって、下田から出て行ってしまったのでした。お吉さんが死を選ぶ事情も分かろうというものですね。
★“ 『唐人お吉の生涯 (前半)』 ”で検索されますと、Youtube の動画が見られます。
★“ 『唐人お吉の生涯 (後半)』 ”で検索されますと、Youtube の動画が見られます。 -
お吉さんの墓の近くに立てれれていた吉祥観世音菩薩様です。「お吉観音」と言われることもあるようですね。
お吉さんは、こうして観音様の元に行ってしまわれた。幸せな形で観音様になられたなら良いけれど、世間に見捨てられて世をはかなみ、自ら命を絶って観音様の御慈悲のもとに行く道しかなかったことは、本当に気の毒でなりません。
お吉さんのことに関して色々調べて見ますと、お吉さんに同情的な話もあれば、お吉さんの性格を捉えてやや厳しく論じられている話もあります。私は大いに同情してしまいましたけど・・。
お吉さん個人の特徴、個性、性格を吟味すれば、やや厳しいことも考えられると思います。
それでも、ハリスの元へ行かなければ、下田の芸妓仲間で威張って暮らしていたかも知れませんし、色男と駆け落ちした挙げ句に地獄に落ちたり、有力な武士の妾になって優雅に暮らしたかも知れません。 或いは、イヤな想いをして下田に住まなくても、三島あたりで暮らせば良かったとも言えます。心を強く持って生きれば良かったのです。
問題は、お吉さんが「風の吹くまま気の向くまま」と言われるような、誰にも当たり前の運命を歩めなくなったことだと思います。
お吉さんがハリスの元へ行かされる運命を辿らされたことで、彼女を巡る地域の人々の目線が変わって絶えず偏見の目に晒され、それに奉行や幕府も地域に説明もせず責任を果たさず・・、と言う厳しい状況に落とされたことを察するべきだと思います。 -
「アメリカに 濡らした袖も 土になり」 井上剣花坊
お吉さんのことを詠った詩でしょうが、お吉さんが自ら進んで辿った運命ではないのに、そのことが全然察せられない内容です。お吉さんのことを、まるで他人事のように書いていることは、ちょっとばかりか、大いに気に入りませんね。
なぜ、誰のために、何のために袖を濡らさねばならなかったのか? お吉さんの哀れさは、まさにそこにあり、それに振り回されたんですからね。
最近、芸術だの文化だのというのが、ちょっと嫌になってきました。
どうしてかと言いますと、人の心と、その痛みを察するという姿勢があまり感じられず、カッコ良ければいいとか、面白ければいいとか、売れればよいという感じのものがよくあるからです。同じようなことですが、人々の働く姿や暮らしの様子からもかけ離れていることも少なくないですね。
もちろん、人々の姿にに寄り添っている芸術家も文化人も、よく見ればたくさんおられますよ(^-^) ゴッホもそうですし、日本画家の川合玉堂もそうですね。
川柳なら、気楽につくっていいということであれば、私もつくってみました。川柳らしいセンスも雰囲気もなく、飾りも何もなく、単刀直入的な内容ですけど・・(^^;)
「アメリカを 恐れる幕府 吉落とす」
「人想う 愛より世間 気を使い」
「無知なるは お吉イジメて 罪知らず」
「正しさに 我が身賭すより 先ず保身」
「吉の背に 世間の目線 地獄針」
「善し悪しも 世間の前に 役立たず」
「看護婦を 知らぬ幕府の 罪かぶり」
【※】“吉”とは、「お吉さん」のことです。
★井上剣花坊の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%89%A3%E8%8A%B1%E5%9D%8A -
唐人お吉記念館の見学を終えて帰ろうとしましたら、玄関 のとことに可愛い猫ちゃんがいました。
茶トラの行儀のよい子ですね(^^)
猫ちゃんと会える日は、その日が何となく楽しくなりますね。 -
長いすの木材にアゴを載せてボンヤリとしていますね〜。
それでも、ちゃんとこちらを見てお客さんの出入りをチェックしているみたいですね。
猫ちゃんの面白いところは、自由にされていても人間の暮らしの傍に寄り添って生きることですね。
私は岩合さんの猫ちゃん番組を必ず録画してもらって、繰り返し見ていますよ〜。いつになったら猫ちゃんと暮らせるのか? それをいつも夢見ています。 -
この猫ちゃんは、ここの猫ちゃんたちの「おかあさん」だそうです(^-^)
白と黒の模様がいいですね。 きょうは疲れちゃったのかな?
猫ちゃんは、マッサージをしてあげると喜ぶんだよね〜(^o^) そういうところは、当家のカミさんと全く同じです(~o~) 小学生の時、猫ちゃんと一緒に寝たことが懐かしいです。
いつの日か、猫ちゃんと一緒に寝たいな〜っと思っているのですけど、実現の見通しは全く不透明です(-_-;)
そうそう、干支で「猫の年」のある国をご紹介しましょう。
タイ、ベトナム、チベット、ベラルーシ、ブルガリアなどの国・地域では、干支の中に「猫ちゃん」がいるんですね(日本の“うさぎ”が“猫”に。ブルガリアでは“トラ”が“猫”に)。
日本にも猫年を!!と思うのですが、「うさぎ年」を「猫年」と勝手に解釈を変えてみても、シックリこないしね(-_-;) 安陪ちゃんに「解釈変更」のコツを教えてもらおうかな(^O^)
★↓は十二支の話です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%94%AF
「猫ちゃんの年」はないけど、12支のある国は結構あって、上記以外に15ヶ国ほどあるようです。 -
自宅に帰って気付いたんですけど、私は興味惹かれることばかりに気を取られて、宝福寺本堂の全景を写真に撮り忘れていました。帰り際に気がついて撮ったのがこれでした。
江戸から遠く離れた下田が領事館の設置場所となり、実務交渉の場ともなったようです。幕末そうした動きの中で宝福寺も歴史の波に巻き込まれたのです。この時期、下田には陣屋とか代官所とか奉行所がなかったようで、お寺が奉行所や領事館などに利用されたような感じです。
とは言え、江戸時代に於いては、幕府はお寺を利用して宗門人別帳などをつくらせて住民を管理し、檀家制度などの強制的な側面ももちながら、地域に於ける行政機能(支配機能)の一端を担わせていました。ですから、幕府の必要によって政治機構に組み込まれても、不思議ではないです。
住民の管理・監察の役割を持ったお寺は羽振りも良くなり、人々を上から見おろすような位置になったと言えます。それが住民に快いはずもなく、明治の「神仏分離令」が廃仏毀釈の嵐へと発展する要因の一つにもなった、とも言われてもいますね。
★檀家制度の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6 -
あれからタクシーを利用して、タウンゼント・ハリスの宿泊所&米国領事館となった玉泉寺へやってきました。
今度は当家のカミさんも入れて、ちゃんと入り口から撮影しましたよ〜(~o~)
玉泉寺は1580年代までは真言宗の小さいお寺さんだったようですが、それ以後曹洞宗に変わっていらい400年以上の歴史があるお寺だそうです。ご本堂は1848年(嘉永元年)に造られたようです。 -
「日露交渉の史跡 玉泉寺」とありますように、このお寺さんもあの歴史の波に飲み込まれたんですね。
日露和親条約は1854年3月31日締結の「日米和親条約」に遅れること10ヶ月余、1855年2月7日に締結されました。その際、玉泉寺や長楽寺が日露和親条約締結交渉の場となり、ロシア船乗組員の宿舎にもなったようです。
下田といえば、私には黒船来航ばかりが印象にあったのですけど、外国使節の受け入れや対外交渉の窓口としても重要なところでもあったのですね。 -
石段の右横には、ロシア全権・プチャーチンを乗せてきた露艦、ヂアナ号(ディアナ号とも)の水兵墓所がこのお寺さんにあるのですね。
ペリー艦隊が来た時も犠牲者があったようですが、長い航海と慣れぬ異国の地での暮らしで、事故や病気があってもおかしくないですよね。
ヂアナ号が下田に来たのは1954年12月3日(嘉永7年10月14日)。そして、条約締結交渉の期間中下田に停泊していたのですが、その半月後の1854年12月23日、遠州灘沖に大地震が発生した際の大津波を受けて大破してしまい、乗組員に死傷者が出たようです。ヂアナ号は修理の為に戸田港(修善寺の西16kmのところ)へ回航中、沈没してしまいました。
この沈没の時、ヂアナ号の乗組員を地元の人々が大挙して助け、犠牲者を最小限に抑えられたとか。この時の人々の行動がロシアに好感をもたらし、今に続く友好関係の礎になったという話があります。
★ロシア全権・プチャーチンの詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
★↓はプチャーチンの像とヂアナ号の錨があるところです。
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
玉泉寺が日本最初の領事館となったことや、日米修好通商条約調印までの出来事が書いてあります。
日米和親条約と、日米友好通商条約の締結に関わるペリー艦隊の来港と、交渉過程はハリス滞在の状況も含めて、その状況がかなり詳しく、広く伝えられていますね。ところが、ロシアとの諸条約締結の課程はそれほど詳しく伝えられず、私たちの知識のうちにはかなり薄い存在になっていますね。
それというのも、ロシアは日本にとってアメリカの次の「お客さん」で、日本も対外条約の要領がボチボチ分かってきていますから、最初の突破口を開いたアメリカのような苦労が少なかったこともあると思いますよ。もう一つは、アメリカは大艦隊で押しかけてきて脅しを掛けながら交渉を進めましたけど、ロシアの方は諸事情もあって日本には無理強いをせず割と紳士的に交渉を進めたようです。この姿勢に日本側も好感を持ったようです。
どこでもそうですが、穏やかに優しくやっていては感謝されるどころか、重視もされず人々の記憶にも残らないのですね。
1854年3月31日に日米和親条約を結んでから、10年のうちに8ヶ国ほど次々に和親条約やら通商条約などを締結していますね。
★↓は幕末・明治に結ばれた主な条約です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E4%BA%94%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84 -
玉泉寺本堂の説明です。
間口7間半、奥行き7間、総欅(けやき)造りのお堂なんですね。
新築の6年後の1854年4月15日?には、ペリー艦隊が下田にやってきたようです。和親条約で乗組員の休憩所・埋葬所に指定されていたのか、早速利用されたんでしょうかね。 -
玉泉寺本堂の右側の様子です。
右手の家は事務所や住宅でしょうか。
右端に「米国総領事旗掲揚之地」という記念碑があります。
右手に伸びる細い舗装路を置くに行きますと、ハリス記念館があります。内部を見るには料金も掛かりますが、何より撮影が出来ないとのことで見学を諦めてしまいました。
出来ることなら、カメラのストロボ禁止設定を確認した上で、撮影させてくれると嬉しいんですけどね。 -
それじゃあ、ここで記念写真でも撮って帰るとしますか(~o~)
当家のカミさんは、下田まで来ても「カカア天下」を手放そうとはしません。
「カカア天下」は日本の文化!!そう思えば、納得も出来ますし楽しくもなります(^-^)
ハリス領事は、一生を独身で貫いた人だったようです。
学校にも行かず行けず、とにかく頑張って独学で勉強をして、アメリカの領事(後には公使)にまでなった努力家だったようです。
そういうことで、ハリスは「カカア天下」を知らずに済んだようです。何事も出会いであり、運命なんですね。 -
「安政三年八月六日(一八五六年)」
領事旗(国旗)を初めて掲揚した日です。
日本に於けるアメリカの存在を、堂々と主張した日ですね。
されば、私も小さいながらミニミニサイズの「亭主旗」をこしらえて、テレビの上にでも飾って、大いに威張ってみたいものです。
先ずはデザイン募集ですかね? 世界で募集すると、新国立競技場みたいに日本文化と縁もゆかりもないやつが届けられますので、やっぱり国内で募集だね。
図柄としては、日本のお城・風景、神社仏閣・伝統文化・鍛冶屋とか農漁民の姿も良いですし、カカア天下で威張る日本美人の絵も良いですね(*^_^*) -
先ほどから見えていた石碑です。
近づいてみると、牛の浮き彫りがありました。これは、あの時代の様子を描いたものではなく、現代の様子ですね。
牛は昔から農家にとって大事な存在。現代の耕耘機みたいな存在で牛さんには感謝してもしきれませんね。でも、牛も若いうちは「労働力(役牛)」として家族同様に可愛がられたけど、歳を取るとね〜(=_=) 私と一緒で働きが悪くなり、邪魔者扱い(>_<) 屠殺される運命にあったようですね(T_T) 可哀想にね〜。
それが、まぁなんと、今ではどこの街に行ってもステーキ屋さんがあって、味を競っているんだよね〜。私も元気づけにステーキ食べに行ったりしていますよ〜(^^) 2年前には、地中海を行く大型客船で450gのステーキも頂いちゃったね。
牛さんには非常に申し訳ないけど、たくさん頂いちゃいました(-_-) -
牛の浮き彫りの隣にあった「牛乳の碑」です。
文面を読みますと・・
「安政五年(1858年)二月米国総領事タウンゼントハリスは政務多忙を極め病床にありました。侍女お吉はハリスが牛乳を欲するのを知り禁を犯して下田近在から和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです。その時ハリスが一五日間に飲んだ九合八勺牛乳の代価が一両三分八十八文 之は米三俵文に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったが分かります。このことが日本に於ける牛乳販売の初めといわれます(以下略)。」
と書いてありました。
この文面での牛乳販売は、やむなき事情による個人販売であって、外人相手だから「カネ」を取ったと勘ぐることも出来ます。それも商業レベルとは言えない法外な値段で・・。私たちも山羊のお乳を、お金を頂かずにお隣にあげたことはありますよ。
牛乳の商業販売はこれよりもう少し後になったようで、明治10年頃から東京で始められたという説があります。
それから、お吉さんは領事館での仕事を3日で帰されたとか、3ヶ月で解雇されたというのが一般的な説明ですが、この文面では解雇されて半年〜9ヶ月過ぎてもハリスの面倒をみていたことになります。特にお吉さんが3日で解雇されたとすれば、9ヶ月後の翌年2月にハリスの面倒をみるのでしょうか?
お吉さんがどの時点までハリス領事館と関わりを持っていたのか、↑でも述べましたように確たる記録がなく、その辺の話はバラバラのようですね。 -
こちらの碑は「牛乳発祥の地」とあります。
↑でもお話しましたが、牛乳を商業販売する意味での「発祥の地」であったという文面ではないですね。
牛乳そのものは昔から飲まれていたようです。酪農も営まれていたようです。
それが奈良時代に肉食が禁止されたり、牛乳への迷信が広まったりして、牛乳も貴族層など一部では利用されたものの、薬用等で利用される他は、一般に引用されることはあまりなかったようです。牛乳の味を知っていた農家は飲んでいたかもね。
余計な話ながら・・。山羊の乳はどうか?
山羊の乳は、人間の母乳に近いことから、昔も農家では母乳代わりに使われていたようです。私も小さい時には、実家で飼っていた山羊のお乳を飲んでいました。それがどの程度一般に利用され販売されていたかというと、あんまりいい資料はないですね。
牛乳と較べると、山羊乳は勝るとも劣らないようです。山羊乳の「臭い」も簡単に取れるようです。 コトバンクの記事にによれば、牛乳よりも濃厚で栄養も豊富で、脂肪球が牛乳よりも小さいため消化しやすく、骨粗鬆症、情緒不安定、不眠症、ホルモンバランスの乱れ、胃潰瘍(いかいよう)、虚弱体質などの改善に効果が期待できそうです。他には、山羊乳は牛乳アレルギーの人でも飲める場合が多い上、牛乳に較べ肥満予防にもなるとか。いろいろ見ますと、山羊乳が見直されて「山羊乳」はもとより、ヨーグルトやチーズ、アイスクリーム、石鹸ほか、ずいぶん使われ始めているようです。
但し、そんなに良い山羊乳でも、アレルギー反応のある方もおられるようですから、量から身体の反応を見ながら飲み始めることが大事ですよ。 山羊乳はとても良い!!(^_^)v 一度お調べになってみて下さいね(^^)。 -
なんか知りませんけど、立派な碑がありました。
私も英語を話せます(^^)
「アイ・アム・ア・ボーイ」と、当家のカミさんへの「アイ・ラブ・ユー」が言えますよ!!(*^_^*)
それ以外の英語は、全くチンプンカンプン!!(>_<)(T_T) ですから全然読めませんし、分かりませ〜〜ん!!(^_^;) この碑には、さぞかし高貴・高邁なことが書いてあることでしょうね。
よろしかったら拡大してご覧下さいね。 -
お暇のない方は、こちらを拡大してご覧下さいね。
な〜んだ、蚊に悩まされたり、領事旗立てる苦労話か〜。ちょっとガッカリ・・(~o~)
文の最後の、「敢えて問う・・・・日本の真の幸福になるだろうか?‥‥」というハリスの問いに、私たちは真正面から答えられるだろうかと思いますと、胸がキューンとします!!。
その「キューン」とすることですが・・。
「世間」感覚の悪い面を払拭できない・しないで、「王政復古」の名のようにその体質を強め、欧米文化・制度の表面にあこがれ「真似」をしてきた日本。
戦後豊かになったとは言え、今では「格差社会」とか言われて・・(-_-;) 変化には敏感ながら、昔からの体質は身体の奥深くにまだまだ残っているような感じですね〜(=_=) 子や孫の将来が本当に心配です!!!(-_-;) -
本堂に向かって左手に、こんな物が掲示してありました。
「日本最初の屠殺場の跡(屠牛木)」
これも、牛肉の市場での流通を前提とした「屠殺」だったかどうかを問いたいと思います。市場流通が前提でないとしたら、屠殺技術(苦しませない技術)の違いはあるにせよ屠殺自体は昔からあったたと思います。ただ、肉食が広まって「屠殺」が一般化していく最初の契機となった意味で、「日本最初の屠殺」と書いたのでしょうね。
奈良時代から一般には禁止されてきた肉食が、戦乱の時代には兵士の元気づけに“焼き肉”が食べられていたようです。また、最近の草戸千軒遺跡発掘では、中世の時代では民間でも肉食があったことが分かってきているようですし、秀吉の時代に日本に来ていた宣教師が肉を食べていたようですね。そんなこんなで、私的・非公式の肉食の裏で「屠殺」それ自体は結構あったと言えるでしょうね。
まぁ、そういうことで「日本最初の屠殺場」という、“日本最初”に含まれている意味に拘ってしまったのです。 -
ここまできたのですから、本堂を参拝せずに帰ってはいけないと思い、階段を上がってお参りしました。
その際に、左右のお部屋に「総領事ハリスのへや」「通訳ヒュースケンのへや」というのが見えました。
この写真の左奥の方に「総領事ハリスのへや」があるのです。あの当時はどうなっていたか知りませんが、現在は畳敷きになっていますね。
キンキラキンのお釈迦様の横でハリスが寝起きし、条約交渉の準備をしていたんですね。いや、これは意外でした。 -
ちょっと望遠で撮ってみました。
お願いすれば、お部屋を見せてもらえるのかも知れませんが、まぁ、無理はしませんでした。
お寺を領事館にするということは、こういうことなのか?? それとも、ハリスがいる時は洋風の部屋に改装して、また畳のお部屋に戻したのか?住職にお尋ねもせず撮影だけで帰ってしまいました。 -
本堂の向かって右側奥は、「ヒュースケンのへや」です。
彼らはこのようなところで日々過ごしたのですが、お寺の雰囲気をどう感じていたのでしょうかね? そのあたりのことはあまり書いてないようです。 -
最後にペリー艦隊乗組員の墓があるというので、そこを見に行きました。
全部で五基でした。
今と較べればウンと小さい船で、医療水準も船の設備も悪い条件で長い航海をしてくるのですから、事故や病で亡くなる人もいますよね〜(-_-)
文化も暮らしも全てが違う異国の地で、彼らは安らかに眠れているのか?などと、勝手な心配をしてしまいました。そう思いながら、私は私で安らかな眠りをとお祈りしました。 -
一つのお墓を撮ってみました。
一番上には「IN MEMORY」と彫ってありました。
他は読めませんでした。 -
墓地の説明です。
1854年3月31日に日米和親条約が調印された後、翌4月にはペリーは艦隊を伴って下田に移動したようです。この墓に葬られた人たちは、この時に玉泉寺へと運ばれたのでしょうか。
軍医、水兵、海兵隊員(2人)、火夫といった方々が亡くなられたんですね。
軍医だけは38歳ですが、他は20歳台です。若いですね。 -
海に働く者にとっての記念碑的な物と言えば「錨」ですね。
軍・民間を問わず、帽子の記章の中心には、“錨”をデザインされていることが多いです。 -
墓に眠る兵たちへの、鎮魂地です。
アメリカ海軍の横須賀基地司令官が、1987年5月16付けで設置したようです。
太平洋戦争で、日本軍は各地で「玉砕」していますが、このような慰霊碑があるのでしょうかね? そんな想いが胸をよぎったのです。彼らの安らかな眠りも、心底から祈りました。 -
アメリカのカーター大統領も、大統領就任の2年後に奥様や娘さんを伴って来ているのですね。
現職の大統領がこういう所を訪ねること、本当に意義あることですね。下田など、地元も歓迎したことと思います。
カーター大統領は、力の政策よりも、“人権外交”といわれるような政策をとりました。その全てが順調にいったわけではないですけど、個人的には好きな大統領でした。
★カーター元大統領の詳しいことは↓にて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC -
お寺の方にお願いしてタクシーを呼んで頂き、ホテルへ向かいました。
私たちがお世話になるホテルは、下田湾を眺められる位置にある「黒船ホテル」です。
下田と言えば、お吉さんと黒船ですからね〜(^o^)
そのお部屋から、先ほどまで見学していた黒船ホテルの方向を撮影してみました。
下田湾の一番奥に当たるところですよ〜(^_^)v -
望遠で玉泉寺を捉えてみました。
画面中央下、茶色屋根の建物の下にある、薄〜い緑色の三角屋根お家が玉泉寺です。 -
こちらが「弁天島」です
今では周囲が埋め立てられ、道もついて、「島」の感覚も薄れてしまいそうですね。
沖から船で来た時、この島を目安にすれば玉泉寺を見つけやすいですね。
写実画の上手な西洋画家に、この島を含めて玉泉寺の位置を描かせれば、あの時代でも簡単に見つけられたかも知れませんね。
★弁天島の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
こちらは「毘沙子(みさご)島」です
右下の黒い船は、下田湾の観光クルーズをしている観光船の「SUSQUEHANNA(サスケハナ)
号」ですよ。
タグボートみたいな船が一隻こちらに向かっていますね。
対岸の白い建物は「下田浄化センター」のようです。 -
そして、こちらが下田港です。
下田港と言っても一番外側に当たるところで、巡視船とかフェリーなどに利用されている岸壁のあるところです。
漁船とか、地元の船は右奥川の方へどんどん入っていきます。
巡視船のすぐ後ろの山の上には昔の「下田城」があったところで、現在は「下田公園」になっています。 地図で見ますと、下田駅の東の寝姿山に登るロープウェイの北側山裾にも「下田城」があります。どちらが主たるお城なのか? ちょっと分かりません(-_-)
★下田公園の場所は↓にて
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=zbreB3bGAAsE.kivcnllz3N_E&hl=ja -
さぁて、これから楽しみな晩餐会ですよ〜(^^)
広いレストランではなくて、和風個室に案内してして下さったんですね。これは嬉しいですね。
どんな場所でも楽しめますけど、和室ですと一段と落ち着きますね。
後で知ったのですけど、黒船ホテルでは、2部屋以上を利用したグループには、食事のお部屋が個室になるようです。
★あのときも和室の個室でした(^-^)
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=22471661
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=37446581 -
旅の楽しみは色々あるけど、三度の食事時のお料理も楽しみ!(^^)!
とりわけ夜の料理が楽しみだね。
この嬉しそうな表情をご覧下さいね。
「今からいただきますよ〜〜〜!!」
っていう歓びがあふれ出していますね。
食べることに歓びを感じる(^^)
これこそは、命の源でもあるんですね。
皆さんも、しっかり食べて下さいよ〜〜(^_^)/~
メニューを忘れずに撮ったのにボケボケになってしまって、料理名が分かりません。
写真だけでも、ご覧に入れますね -
順番にたくさん出てきたのですけど、貧乏育ちの悲しさと言いますか、食べることに卑しい私の人間性と申しますか、写真を撮るのを忘れちゃったのもありますけど、そこはお許しを!m(_ _)m(^^;)
左上は、最初に出たやつで、ご覧の通りです(~o~) 枝豆なんかは分かりますね。
左下は、なんかお吸い物みたいですね。
右上は、お刺身の盛り合わせ ですよね〜(^^)
右下は、何チャラの、なんチャラというやつですm(_ _)m
そうそう、お造りの頂き方をご存じですか。
★↓にはお造里の正しい頂き方が書いてありますよ〜(^o^)
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=25876503 -
こっちは、ナントカ分かりますよね〜(^^)
左上は、レンコンと煮魚ですね(見れば分かる(~o~))。
左下は、今夜のメイン!!の、金目鯛ですよ!(^^)!
大きいやつを丸々一匹、甘辛く美味しく似ているんですよ。お味はバッチリ!!
ホントに美味しかったです!!これなら、冥土へ行っても自慢できますね。
右上は、ご覧のように天ぷらです(^^)
「何の天ぷらか?ですか?」
それを聞かないで下さいね(^^;)とにかく天ぷらです。
右下は、最後のデザートです。スイカですよね〜(^^)
このほかにも「ご飯」が出ましたけど、撮るのを忘れてしまいました(=_=)
あの金目鯛は、良かったね。当家のカミさんも大満足でした
★↓のものは、今も思い出すんです。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=36375478 大きかった!
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=16448259 本マグロ丼
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=12388402 フォアグラ
他にもありますけど、イタリア・ソレントのスパゲティもその一つです(^_^)v -
レストランをでる時、黒船の模型があるのに気づきました。
こんな小さい船で、命をも省みず世界の海を行き来したモンだと、感心します。
その動機は何だったのか?個人の欲だけではとても出来るものではないですね。
出世か? プライドか? カネか?
いやいやそんな安易な気持ちでは冒険は出来ませんね。 世界に向けての尽きることのない知識欲と冒険心、そして人々の期待に応える確固とした責任感があってのことでしょう。 -
館内の通路に飾ってあった美しい日本画です。
ヒョッとして、お吉さんかな?と思いましたが、そういう表示はありませんでした。
それにしても、日本女性は美しいですね!!
日本髪も髪飾りも美しい! 和服も美しい!!
それを、表現する日本画も素晴らしい!!!
でも、明治以来、こうした文化が少しづつ廃れてきて、今では私たちの世代が日本文化の持っている良いところを、若者たちに伝えられずにいると案じる向きもあるようです(-_-) メディアのお気楽番組の広まりやら、カタカナ用語と単純な感情表現が溢れたりして、若い層での日本語の言語力までが案じられて来ているとのことです。
幸いに、海外からの日本文化への理解が少しずつ広まってきているようです。若者の間に良い意味での日本文化への理解が広まっていくと良いな思います。
きょうは、たくさんのものを拝見することが出来ました。
お吉さんのことでまたもや熱くなってしまいました(^_^;) 世間の言葉や噂に押し流されて、気がつけばお吉さんを虐める側に加わっていた人々の姿・・(>_<)(>_<)
そして、夜には大きな金目鯛一匹分を頂けて、大満足でした。
今夜はダブルベッドでした(^-^)!(^^)! カミさんに暖めてもらいながらいい夢が見られそうです(^_^)
それでは、おやすみなさい……。
<その3に続きます>
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この旅行記へのコメント (4)
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- ガブリエラさん 2015/11/12 11:11:42
- カメちゃんご夫婦最高ですヽ(^o^)丿
- カメちゃん☆
おはようございます♪
旅行記、楽しみにしてながら、遅くなりました(^_^;)
寛一お宮のこと、実は知らなかったんですよー!
名前しか。
でも、カメちゃんの詳しい解説で、なるほど〜と勉強させていただきました♪
あの写真は、最高ですね(笑)。
でも、カカア天下といいつつ、ものすごく愛情深い奥様とカメちゃんだからこそ、この写真が撮れるんだな♪と思いましたよ(^_-)-☆
「こだま」って、社内販売が無いんですね\(◎o◎)/!
長い間乗る人は、自分で駅で買わないといけないんですね・・。
だから停車時間が、長く設定されてるんですね。
でも、「鯛めし」おいしそうですね!!!
いつか食べたいな〜♪
トヨタの爆弾のこと、びっくりでした・・。
もう少し戦争が長引いたら、愛知まで原爆の被害にあってたかもしれないんですね。
本当に、戦争はダメですよね!世界から兵器や爆弾が消えればいいのに・・。
平和と健康、これがなにより大事だって、わからない人が多すぎるんですよね!!!
MOA美術館も、素敵ですね!
奥様の壷の横に建てれてる写真、素敵ですね!!!
金目鯛、伊東に行った時に食べたのですが、本当に美味しいですよね(*^_^*)
奈良では、ものすごくお高いので、手が出ません(涙)。
カメちゃんと奥様の、お元気なお写真いっぱいで、嬉しくなりました♪
ガブ(^_^)v
- カメちゃんさん からの返信 2015/11/12 13:49:04
- RE: カメちゃんご夫婦最高ですヽ(^o^)丿← ありがとうございます!!(^_^)v
- ガブちゃん こんにちは〜(^^)
> あの写真は最高ですね(笑)
ガブちゃんにも、そう言って下さって嬉しいです!!
結婚以来のカカア天下だけど、これからも「健全なるカカア天下の発展」のために頑張りますね!(^^)!
> 「こだま」って、社内販売が無いんですね\(◎o◎)/!
いつから分かりませんが、こだま号での車内販売がなくなってしまったんですよ(-_-;)
それで、停車駅で買うんですけど、ホームの売店が空いていればいいけど、並んで待つほどの時間的余裕はないですよね〜。
これからは、こだま号で各地のお弁当を楽しむのも良いかも?(^o^)
静岡の「鯛めし」はお勧めですよ〜〜(^_^)v
> トヨタの爆弾のこと、びっくりでした・・。
ホントに、私もビックリでしたよ。
戦争終結の決断がさらに遅れていたら、3個以上も投下された都市は危なかったかもね。
戦争はどんな理由を付けようとイケナイことです(特に海外まで行ってやること)。
> 平和と健康、これがなにより大事だって、わからない人が多すぎるんですよね!!!
単純な議論には落とし穴がありますね(=_=)
お互いに相手国の歴史と文化を察しあい、知識を深めて、対話で解決する能力を養って欲しいですね。歴史はそういう教訓を示してくれていると思います。
何より、平和と国民一人一人の幸福と健康を守り抜く意志が大切なんですね。
> MOA美術館も、素敵ですね!
日本の文化・美術をしっかり展示していますからね。本当によい展示をしていますよ!!
あそこはもう一度いって、ゆっくり見たいです。
> 金目鯛、伊東に行った時に食べたのですが、本当に美味しいですよね(*^_^*)
歴史を学びながら、海の幸も味わう・・(^-^)
そういう点では、下田は良いところですね。下田も、もう一度行ってみたいんですよ(^^)
> カメちゃんと奥様の、お元気なお写真いっぱいで、嬉しくなりました♪
嬉しいお話、心底より感謝です!!!(^_^)v
そうそう、高野山にお出掛けになったんですね。
早速拝見しますね〜(^_^)/~
カメちゃん
-
- マチャさん 2015/11/11 23:40:25
- いい写真だわぁ〜(笑)
- カメちゃん、こんばんは。
表紙の写真いいわ!
『貫一おカメの像』ですね (  ̄д ̄;)ノ┌(; ̄◇ ̄)┘
是非、全国のかかあ天下夫妻にこのポーズで写真を撮ってもらいたい!
そして、私も旦那を蹴飛ばしたいわ〜〜(笑)
カメちゃんの旅行記でこの像がこんなビルの中にあることを知りました。
海岸のもっと広々としたところにあると思ってたんだけど。。。
そして、私の国内ダイビングデビューが神子元でした。
初心者なのに上級者向けの海で今までで一番怖い思いをしたポイントです。
リベンジしたいと思っていたので、その時に『貫一おカメの像』を見てこようと思います。
来年の年賀状の写真はコレに決まりだね!
マチャ
- カメちゃんさん からの返信 2015/11/12 10:52:34
- RE: いい写真だわぁ〜(笑)←嬉しいお言葉です!!(^_^)v
- マチャさん こんにちは〜(^^)
今日はよいお天気になりましたね。
抜けるような青空のもと、マチャさんも頑張ってるんだな〜と思っています(^^)
> 表紙の写真いいわ!
> 『貫一おカメの像』ですね (  ̄д ̄;)ノ┌(; ̄◇ ̄)┘
お褒めのお言葉を戴いて、とっても嬉しいです!(^^)!
やっぱり、嘘も隠しもしない真実の姿は美しいですよね〜(~o~)
> 是非、全国のかかあ天下夫妻にこのポーズで写真を撮ってもらいたい!
お話の通りです!!
世間体を気にせず、無理にカッコ付けずに、素直な姿で写真を撮って欲しいですね。
奥様が旦那様を蹴飛ばすポーズって、どこの奥様もきっと喜ばれると思いますよ〜〜〜〜(^_^)/~
> そして、私も旦那を蹴飛ばしたいわ〜〜(笑)
是非ぜひ!!(^O^)(~o~)
さすれば旦那様は、マチャさんの愛の深さをしっかり受け止めて下さると思います(^_^)v
これ、マジメな話ですけどね(^_^)
> カメちゃんの旅行記でこの像がこんなビルの中にあることを知りました。
なんでもそうですけど、行って見ないと分からないものですね。
> そして、私の国内ダイビングデビューが神子元でした。
そうでしたか!!
日本で最初の石造り灯台のある島をちゃんと見つけられて、国内初ダイビングとは!!
伊豆半島の周辺は岩場が多いですから、ダイビングするにも障害が多いようですね。
> 来年の年賀状の写真はコレに決まりだね!
あれまぁ!!(^o^)
ここまでは、思い付きませんでした(~o~) 今年は大型客船にも乗ってないし、これに決めましょうかね!(^^)!
そして、テーマは「現代の夫婦愛!!」ですかね??(^_-)(*^_^*)
そうそう、「貫一お宮の像」もご覧になって下さいね!(^_-)
きょうもマチャさんと楽しいお話が出来て、とても良い日になりました!!(^_^)v
それでは、また・・
カメちゃん
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