2018/08/05 - 2018/08/05
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旅人のくまさんさん
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長野の続百名城巡りの2箇所目は、龍岡城五稜郭です。慶応3年(1867年)に龍岡藩主の『松平乗謨(のりかた:1839~1910年)』よって造られました。函館の五稜郭と日本に二つしかない五稜郭です。後に日本赤十字の創立に尽力し、『大給恒(おぎゅう・ゆずる)』と名乗りました。
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松平乗謨は江戸幕府の要職を務め、当時は新城の築城は禁止されていましたが、特別の許可を得て、『陣屋』として『龍岡城五稜郭』を造り始めました。その縄張り図です。堀は三稜堡を巡るだけで、南西と西側二稜堡を囲む約270メートルは未完成でした。『乗謨(のりかた)』が老中などを務め、多忙だったことなどが、未完成となった大きな理由のようです。
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上側の横長の写真は、上から眺めた桜の時期の『龍岡城五稜郭』の光景です。松平乗謨は、フランスのリール市の星形の堀をもつ城郭の『ヴォーバン城』をモデルにしたとされます。ヴォーバン領主の『セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1633~1707年)』は、フランス国王ルイ14世に仕えた軍人(技術将校)で建築家、都市計画家でした。
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周りの写り込みで見難い写真となりましたが、『龍岡城五稜郭』の縮小モデルです。五稜郭内に田口小学校が立地する、現在の状況がモデルになっていました。手前側が北側になるようです。ヴォーバンが手掛けた要塞のうち12箇所は、2008年に『ヴォーバンの防衛施設群』として、世界遺産に登録されました。
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『龍岡藩主・大給恒の生涯(1839~1910)』のタイトルがあった写真入りの年表です。三河奥殿藩の第7代藩主・松平乗利の長男として江戸藩邸で生まれました。幼少から聡明な人だったようです。1907年の69歳の時、伯爵に叙され、1910年、旭日桐花大綬章を贈られています。
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『龍岡城五稜郭』に所縁の市の紹介です。右が龍岡藩主の松平乗謨の出身地、愛知県の岡崎市です。三河藩の奥殿陣屋がありました。左の函館市は、日本に二つしかない五稜郭での結びつきです。乗謨は、文久3年(1863年)1月に大番頭に任じられ、8月には若年寄となりました。9月、藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口に移転しました。
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『田口村・五稜郭」のタイトルがあった5枚のモノクロ写真の光景です。タイトルには、『昭和30年代』と付記されていました。『1955~1964年』の昭和30年代は、60年安保改定で日本が大揺れした時代です。文久3年(1863年)11月、佐久郡の田野口に移転して築き始めたのが五稜郭です。その後は幕政に参与しましたが、元治元年(1864年)6月に開港問題などで『松平慶永(春嶽):1828~1890年)』と対立し、若年寄職を罷免されました。
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『田口村・五稜郭』のタイトルがあった7枚のモノクロ写真の光景です。タイトルには、同じく『昭和30年代』と付記されていました。若年寄を罷免された松平乗謨ですが、慶応元年(1865年)5月には、陸軍奉行として幕政への復帰を果たしました。その後、7月に若年寄次席、12月には若年寄となり、慶応2年(1866年)6月には老中に栄進し、10月からは朝廷との交渉役を務めています。11月に正四位下に昇叙し、12月には陸軍総裁に任じられました。当時の江戸幕府にとっては、余人に代えがたい人材だったようです。
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『田口村村役場鬼瓦』のタイトルがあった古い鬼瓦の展示品です。かつての『田口村村役場』の正面玄関にあった鬼瓦と紹介されていました。
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ガラスケースの中に展示されていた『軒平瓦』の光景です。三つ巴の紋所と、五葉の文様がありました。
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同じく、ガラスケースの中に展示されていた『軒平瓦』の光景です。大小二つが重ねて展示してありました。
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同じく、ガラスケースの中に展示されていた『鬼瓦』の光景です。映り込みが激しい写真となりましたが、中央に見える紋所は、五つ葉の柏のようです。因みに大給松平家本家の家紋は、『丸に釘抜き三つ葉葵』です。
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『信州・佐久』の観光ポスターのようです。ソメイヨシノの花でで一杯の『龍岡城五稜郭』の案内のようでした。『日本に二つしかない星形の城』と紹介されていました。諏訪から『佐久』に向かうバスの中で話題となったのが、高校駅伝の強豪校の佐久長聖高でした。2017年12月に行われた、第68回全国高校男子駅伝で、9年ぶり2回目の優勝を遂げています。2位の倉敷高に1分半ほどの差をつけた2時間2分44秒の記録でした。
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五稜郭の中に、厳めしい姿の武将が描かれた凧の絵の光景です。上に『星の町臼田』、下に『五稜郭と松平乗謨』の文字がありました。武者姿は松平乗謨公のようでした。
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イチオシ
現在の『龍岡城五稜郭』の航空写真のようです。これを築いた龍岡藩主の松平乗謨の人となりは、ウィキペディアによれば、『厳毅方正、不与不奪の訓言を守り、賞勲の職を全うするために交際往復を避け、宮中三大節、観桜、観菊の宴から、日常の交際に至るまでいっさいこれを絶った』と紹介されていました。
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振り返って眺めた、『龍岡城五稜郭』のゲストハウスの光景です。こちらに続日本百名城のスタンプも置かれていました。龍岡藩主だった松平乗謨公は、明治になると、版籍奉還により竜岡藩知事に任じられましたが、竜岡藩の財政破綻のため廃藩を申し出て、廃藩置県前の明治4年(1971年)6月、廃藩となり知藩事を免ぜられました。7月に名前を松平乗謨から大給恒に改名しました。
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『龍岡城五稜郭』のゲストハウスの前庭に置かれていた庭石のズームアップ光景です。ゲストハウスの正式名は、『五稜郭であいの館』です。この庭石は、細かい板状の積み重ねになった肌をしていました。紙を何枚も重ねたようなイメージでした。
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ゆかりの町30周年記念に岡崎市から送られた『佐久市こいし』の題名の愛らしい像です。二人が手にしているのは、魚の『鯉(こい)』です。平成25年(2013年)の日付がありました。
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三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主で、日本赤十字社の創設者の一人として知られる『大給恒(おぎゅう・ゆずる):1839~1910年』氏の胸像です。かつての名前は、『松平乗謨(まつだいら・のりかた)』でした。『佐野常民(1823~1902年)』とともに日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献しました。佐野が『日赤の父』と呼ばれたのに対し、恒は『日赤の母』と呼ばれています。
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昭和9年(1934年)5月1日、文部省により建てられた立看板の光景です。前段が、龍岡藩主だった松平乗謨公と五稜郭の説明、末尾に遺跡保存のための注意事項が箇条書きで記されていました。
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なぜか傾いてしまった標識の光景です。『史跡・竜岡城跡』の文字が記された、金属製らしい緑色の標識でした。一般に、『城址』の文字が遣われたのが、文化財保護法の旧法時代、『城跡』の文字が使われるのが、昭和25年5月30日に法律第214号として公布された、現在の『文化財保護法』です。
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逆光で文字が見難くなってしまいましたが、『史跡・龍岡城址』の文字が刻まれているようでした。側面委は、『昭和10年11月3日建立』の文字がありましたから、文化財保護法の旧法時代の設置のようです。現在の『文化財保護法』の前身である『史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年)制定』、『国宝保存法(1929年制定)』および『重要美術品等ノ保存ニ関スル法律(1933年制定)』は、新法の制定に伴い廃止されました。
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かつての『表門』付近の光景です。左端に見えているのが『表門』、中央付近に見えるのが、先ほど紹介した『史跡・龍岡城址』の文字が刻まれた旧法時代の石標です。
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『龍岡城五稜郭』の堀に架かる橋の光景です。かつては、橋を渡った先に『表門』がありました。『龍岡城』は、元治元年(1864年)3月に着工され、藩主の政務と住居をかねた御殿や大手門、東通用門などが完成し、慶応3年(1867年)4月に竣工祝いを行っています。
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五稜郭の入口付近から、振り返って眺めたゲストハウスの『五稜郭であいの館』の建物光景です。ネット情報によれば、この山の中腹に展望台があるようでしたが、登山道は整備されていないようでした。
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イチオシ
『龍岡城五稜郭』を取り囲む水堀の光景です。未完成に終わったお堀ですが、この辺りは完成した部分です。あまり高くはない石垣ですが、その上には土塁が積まれていたような造りです。
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同じく、『龍岡城五稜郭』を取り囲むお堀の光景です。殊に、切込み接ぎで積まれた本丸側の石垣の状態は上々でした。この角度で眺めても、お堀の内側の石垣の上は土塁のようでした。お堀を造った時の残土が使用されているようでした。
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イチオシ
龍岡城五稜郭のお堀の内側の護岸の石垣のズームアップ光景です。見事な切込み接ぎの石垣が残されていました。布積と亀甲積の組合せでした。
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右手前方に見えているのが、水堀に架かる表門に通じる橋です。もちろん現存のものではなく、再建されたもののようですが、水堀の周りの石垣は当時のものがそのまま残されているようでした。
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『龍岡城五稜郭』のタイトルがあった説明看板の光景です。左上に平面図も示されていました。その内容は、幕末激動の時期に着工開始して1867年に竣工した龍岡城と称し、築城に際しては稜堡式築城法を用い五稜郭が成立したとあります。そして函館とともに日本に二つの貴重な洋式城郭とも紹介されています。
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現地では、まったく文字が読み取れなかった石碑の光景です。パソコンで拡大してみましたが、びっしりと記された漢字の碑文は、所々が読み取れるだけでした。全くの推測ですが、龍岡城と大給氏などについて紹介されているようでした。
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