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かつては諏訪湖に張り出していた、日本三大湖城の高島城紹介の締め括りです。本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備されましたが、二の丸、三の丸は宅地となりました。

2018夏、長野の続日本百名城(4/9):高島城(4):天守閣、展示品、天守閣からの眺望、堀

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2018/08/05 - 2018/08/05

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旅行記グループ 2018夏、長野の続百名城巡り

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旅人のくまさん

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かつては諏訪湖に張り出していた、日本三大湖城の高島城紹介の締め括りです。本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備されましたが、二の丸、三の丸は宅地となりました。

交通手段
観光バス
  • 天守から眺めた堀の光景です。琵琶湖とは直接は繋がっていないようでしたが、今も水を湛えていました。中央付近に見える橋が、先に紹介した、冠木門に繋がる冠木橋になるようです。

    天守から眺めた堀の光景です。琵琶湖とは直接は繋がっていないようでしたが、今も水を湛えていました。中央付近に見える橋が、先に紹介した、冠木門に繋がる冠木橋になるようです。

  • 天守閣から眺めた、緑豊かな高島城内の光景です。中央付近から、右手にかけて『心字池』が見えています。現在は高島公園になっている園内は、桜の名所としても人気が高いようです。

    天守閣から眺めた、緑豊かな高島城内の光景です。中央付近から、右手にかけて『心字池』が見えています。現在は高島公園になっている園内は、桜の名所としても人気が高いようです。

  • 今回の長野県の続日本百名城巡りは、35度Cを超える真夏日を覚悟してのツアー参加でしたが、思ったほどの酷暑ではありませんでした。空には、秋を思わせるような筋雲(すじぐも)、正式名『巻雲(けんうん)』がかかっていました。昔習った記憶がある10種の雲は、「巻雲」「巻積雲」「巻層雲」「高積雲」「高層雲」「積乱雲」「乱層雲」「積雲」「層積雲」「層雲」です。

    今回の長野県の続日本百名城巡りは、35度Cを超える真夏日を覚悟してのツアー参加でしたが、思ったほどの酷暑ではありませんでした。空には、秋を思わせるような筋雲(すじぐも)、正式名『巻雲(けんうん)』がかかっていました。昔習った記憶がある10種の雲は、「巻雲」「巻積雲」「巻層雲」「高積雲」「高層雲」「積乱雲」「乱層雲」「積雲」「層積雲」「層雲」です。

  • 高島城天守からの光景が続きます。今は、諏訪市立の高島公園となっている中心地が、高島城の本丸跡と、天守台に建つ天守閣です。諏訪市の公式HPには、『昭和 45年、高島城天守閣及び隅やぐら等の復興がなされ、それに伴い公園施設を全面的に改修し、近代的な公園となる。』と紹介されていました。

    高島城天守からの光景が続きます。今は、諏訪市立の高島公園となっている中心地が、高島城の本丸跡と、天守台に建つ天守閣です。諏訪市の公式HPには、『昭和 45年、高島城天守閣及び隅やぐら等の復興がなされ、それに伴い公園施設を全面的に改修し、近代的な公園となる。』と紹介されていました。

  • 右手前に見えるのは、天守の銅葺屋根です。明治の初めに廃城になるまでは、『?達葺き(こけらぶき)』の屋根だったと。現地ガイドさんからお聞きしました。木製の屋根でも大丈夫だった理由は、十分に広い堀が、火矢を防いだためだったようです。それに背後は諏訪湖が護っていました。

    右手前に見えるのは、天守の銅葺屋根です。明治の初めに廃城になるまでは、『?達葺き(こけらぶき)』の屋根だったと。現地ガイドさんからお聞きしました。木製の屋根でも大丈夫だった理由は、十分に広い堀が、火矢を防いだためだったようです。それに背後は諏訪湖が護っていました。

  • 高島城天守閣から眺めた、諏訪湖方面の光景です。諏訪湖方面に向かって伸びる道路は、やや北向きですが、ほぼ西に向かう道路です。かつては、農作地を広げる干拓事業で始まり、後に市街化した区域のようでした。

    高島城天守閣から眺めた、諏訪湖方面の光景です。諏訪湖方面に向かって伸びる道路は、やや北向きですが、ほぼ西に向かう道路です。かつては、農作地を広げる干拓事業で始まり、後に市街化した区域のようでした。

  • 高島城天守から眺めた、諏訪湖方面の光景です。諏訪湖を取り囲むように山並みが続いていました。手前に見える緑の一帯は、リンゴ畑のようでした。この時期は、花を咲き終えて、、近くで観察すれば、小さな実を付けているかも知れません。

    イチオシ

    高島城天守から眺めた、諏訪湖方面の光景です。諏訪湖を取り囲むように山並みが続いていました。手前に見える緑の一帯は、リンゴ畑のようでした。この時期は、花を咲き終えて、、近くで観察すれば、小さな実を付けているかも知れません。

  • こちらの方角にも、右端に少しだけ諏訪湖が見えていました。先程よりは、少し南に向いた西側方面になるようです。この方面も、諏訪湖を取り巻く遠景には、山並みが続いていました。

    こちらの方角にも、右端に少しだけ諏訪湖が見えていました。先程よりは、少し南に向いた西側方面になるようです。この方面も、諏訪湖を取り巻く遠景には、山並みが続いていました。

  • 高島城の天守からズームアップした、諏訪湖の眺めです。かつては、諏訪湖に面した湖城でしたが、その後の農地拡大のための干拓により、湖とは離れてしまいました。因みに、日本三大湖城とは、島根の宍道湖に面した松江城、滋賀の琵琶湖に突き出た膳所(ぜぜ)城と、この高島城です。膳所城は標識だけ残り、あとの二城は湖とは離れてしまいました。

    イチオシ

    高島城の天守からズームアップした、諏訪湖の眺めです。かつては、諏訪湖に面した湖城でしたが、その後の農地拡大のための干拓により、湖とは離れてしまいました。因みに、日本三大湖城とは、島根の宍道湖に面した松江城、滋賀の琵琶湖に突き出た膳所(ぜぜ)城と、この高島城です。膳所城は標識だけ残り、あとの二城は湖とは離れてしまいました。

  • 先に天守閣からの眺望を紹介したところで、天守内の東西の二方のテラスの出入口上に設けてあった、それぞれの方面の眺望の説明パネルの紹介です。このパネルには、『東側展望テラスからの眺望』のタイトルがありました。中央付近が、『発見神社』、その左側が『茶臼山城跡(高嶋城跡)」の表示でした。

    先に天守閣からの眺望を紹介したところで、天守内の東西の二方のテラスの出入口上に設けてあった、それぞれの方面の眺望の説明パネルの紹介です。このパネルには、『東側展望テラスからの眺望』のタイトルがありました。中央付近が、『発見神社』、その左側が『茶臼山城跡(高嶋城跡)」の表示でした。

  • この説明パネルにも、『東側展望テラスからの眺望』のタイトルがありました。先程が正面、こちら側が左寄りになりますから、北側寄りになります。階段を挟んで、少し離れた場所からの撮影です。城内では、二の丸跡と三の丸跡が記されていました。

    この説明パネルにも、『東側展望テラスからの眺望』のタイトルがありました。先程が正面、こちら側が左寄りになりますから、北側寄りになります。階段を挟んで、少し離れた場所からの撮影です。城内では、二の丸跡と三の丸跡が記されていました。

  • 同じく、階段を挟んだ少し離れた場所から撮影した、『東側展望テラスからの眺望』です。今度は、少し右寄りになりますから、南寄りになります。城内の本丸跡、南の丸跡の先には、富士山が記されていましたが、霞が懸かっていない時にしか見えないようです。

    同じく、階段を挟んだ少し離れた場所から撮影した、『東側展望テラスからの眺望』です。今度は、少し右寄りになりますから、南寄りになります。城内の本丸跡、南の丸跡の先には、富士山が記されていましたが、霞が懸かっていない時にしか見えないようです。

  • 『西側展望テラスからの眺望』のタイトルがあった説明パネルの右側部分の光景です。西北側方面になります。諏訪湖が見える方面で、右端から、『山吹城跡』、『諏訪大社・下社秋宮』、『諏訪大社・下社春宮』などが記されていました。その左には、遠くに塩尻峠と北アルプスが記されていました。

    『西側展望テラスからの眺望』のタイトルがあった説明パネルの右側部分の光景です。西北側方面になります。諏訪湖が見える方面で、右端から、『山吹城跡』、『諏訪大社・下社秋宮』、『諏訪大社・下社春宮』などが記されていました。その左には、遠くに塩尻峠と北アルプスが記されていました。

  • 『西側展望テラスからの眺望』のタイトルがあった説明パネルの左側部分の光景です。西南側方面になります。一番左に『有賀峠』、中央付近には、風林火山の舞台となった古刹の『観音院』が記されていました。諏訪湖は右側に見えています。

    『西側展望テラスからの眺望』のタイトルがあった説明パネルの左側部分の光景です。西南側方面になります。一番左に『有賀峠』、中央付近には、風林火山の舞台となった古刹の『観音院』が記されていました。諏訪湖は右側に見えています。

  • 『諏訪の主な城跡の分布』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左端近くに見える諏訪湖周辺を中心に、お城が密集していました。確認はしていませんが、武田氏が全盛時代に築かれた城が多いのかも知れません。

    『諏訪の主な城跡の分布』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左端近くに見える諏訪湖周辺を中心に、お城が密集していました。確認はしていませんが、武田氏が全盛時代に築かれた城が多いのかも知れません。

  • 『諏訪大社御祭神』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上社・本宮の御祭神が『建御名方神(たてみなかたのかみ)』、上社・若宮の御祭神が妃神の『八坂刀売神(やさかとめのかみ)』、下社の方は、春宮、秋宮ともに『建御名方神(たてみなかたのかみ)』と『建御名方神(たてみなかたのかみ)』の御祭神と、『八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)』を配神として祀っています。『古事記』では、『建御名方神(たてみなかたのかみ)』は『大国主神(オオクニヌシ)』の御子神としています。

    『諏訪大社御祭神』のタイトルがあった説明パネルの光景です。上社・本宮の御祭神が『建御名方神(たてみなかたのかみ)』、上社・若宮の御祭神が妃神の『八坂刀売神(やさかとめのかみ)』、下社の方は、春宮、秋宮ともに『建御名方神(たてみなかたのかみ)』と『建御名方神(たてみなかたのかみ)』の御祭神と、『八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)』を配神として祀っています。『古事記』では、『建御名方神(たてみなかたのかみ)』は『大国主神(オオクニヌシ)』の御子神としています。

  • 『諏訪氏の成り立ち』のタイトルがあった説明パネルの光景です。持統天皇5年(691年)、古事記に記載されたのが文献上の初出とされ、この時には、既に社殿を持つ諏訪社があったようですが、詳細は分かっていません。諏訪神を祀る諏訪氏が、武人化したのは平安末期とされ、鎌倉時代には中央政府で活躍したことなどが紹介されていました。下社と上社が分離したのは鎌倉時代とされ、上社は『諏訪氏』、下社は『金刺(かなざし)氏』を名乗ったことも紹介されていました。

    『諏訪氏の成り立ち』のタイトルがあった説明パネルの光景です。持統天皇5年(691年)、古事記に記載されたのが文献上の初出とされ、この時には、既に社殿を持つ諏訪社があったようですが、詳細は分かっていません。諏訪神を祀る諏訪氏が、武人化したのは平安末期とされ、鎌倉時代には中央政府で活躍したことなどが紹介されていました。下社と上社が分離したのは鎌倉時代とされ、上社は『諏訪氏』、下社は『金刺(かなざし)氏』を名乗ったことも紹介されていました。

  • 『諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家~』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代の争いに巻き込まれ、上社都市モ社の対立が起きたことなどが説明されていました。北条氏との繋がりで南朝側だった諏訪氏ですが、下社が室町幕府に帰順し、内紛のきっかけとなったと解説されていました。

    『諏訪の内紛~上社大祝家・惣領家・下社大祝家~』のタイトルがあった説明パネルの光景です。鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代の争いに巻き込まれ、上社都市モ社の対立が起きたことなどが説明されていました。北条氏との繋がりで南朝側だった諏訪氏ですが、下社が室町幕府に帰順し、内紛のきっかけとなったと解説されていました。

  • 『武田信玄・勝頼と諏訪信仰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。諏訪社は、古くから関東の軍神として有名であり、源氏や北条氏をはじめ、武田氏も進行してきたことが紹介されていました。勝頼は諏訪氏に繋がりがある人ですから、さらに深く関わったようです。武田氏は、諏訪社の信仰心を利用し、諏訪車は武田氏の武力を利用したと解説されていました。

    『武田信玄・勝頼と諏訪信仰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。諏訪社は、古くから関東の軍神として有名であり、源氏や北条氏をはじめ、武田氏も進行してきたことが紹介されていました。勝頼は諏訪氏に繋がりがある人ですから、さらに深く関わったようです。武田氏は、諏訪社の信仰心を利用し、諏訪車は武田氏の武力を利用したと解説されていました。

  • 『諏訪御料人と諏訪四郎勝頼』のタイトルがあった説明パネルの光景です。詳しい素性は分からないものの、武田信玄の後を継いだ武田勝頼の母が『諏訪御料人』と説明されていました。諏訪氏との繋がりがあるらしい諏訪勝頼が、後の武田勝頼になりました。勝頼の仇筋になるのが信玄ですから、井上靖の『風林火山』や、新田次郎の『武田信玄』の題材になったことも紹介されていました。

    『諏訪御料人と諏訪四郎勝頼』のタイトルがあった説明パネルの光景です。詳しい素性は分からないものの、武田信玄の後を継いだ武田勝頼の母が『諏訪御料人』と説明されていました。諏訪氏との繋がりがあるらしい諏訪勝頼が、後の武田勝頼になりました。勝頼の仇筋になるのが信玄ですから、井上靖の『風林火山』や、新田次郎の『武田信玄』の題材になったことも紹介されていました。

  • 『高島城の年表』です。天正19年(1590年)、日野根高吉(1539~1600年)が諏訪郡に2万7千石を与えられた記述から始まっていました。はじめ、美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏滅亡後は織田信長、後に羽柴秀吉に仕えた武将です。最後の記述が粗油和45年(1970年)の天守の復興でした。

    『高島城の年表』です。天正19年(1590年)、日野根高吉(1539~1600年)が諏訪郡に2万7千石を与えられた記述から始まっていました。はじめ、美濃斉藤氏に仕え、斉藤氏滅亡後は織田信長、後に羽柴秀吉に仕えた武将です。最後の記述が粗油和45年(1970年)の天守の復興でした。

  • 『高島藩の起こりとあらまし』のタイトルがあった説明パネルの光景です。天正10年(1584年)、織田信長により、この地を支配した武田勝頼が滅ぼされた時点から説明が始まっていました。本能寺の変で信長が倒れると、諏訪神社に所縁の諏訪氏がこの地の支配者となり、徳川家康の配下となりました。家康の関東移封に伴い、武蔵国(埼玉)、続いて上野国(群馬)へと移りました。

    『高島藩の起こりとあらまし』のタイトルがあった説明パネルの光景です。天正10年(1584年)、織田信長により、この地を支配した武田勝頼が滅ぼされた時点から説明が始まっていました。本能寺の変で信長が倒れると、諏訪神社に所縁の諏訪氏がこの地の支配者となり、徳川家康の配下となりました。家康の関東移封に伴い、武蔵国(埼玉)、続いて上野国(群馬)へと移りました。

  • 『高島藩の起こりとあらまし』のタイトルがあった説明パネルの続きの紹介です。諏訪氏が関東に移り、その後に入ったのは、秀吉配下の日野根氏です。1600年尾関ヶ原の戦い後、日野根氏は下野国(栃木)に移され、諏訪には、上野国から諏訪市が戻り、明治維新までの10代が続きました。末尾に高島城主の系譜が添えてありました。

    『高島藩の起こりとあらまし』のタイトルがあった説明パネルの続きの紹介です。諏訪氏が関東に移り、その後に入ったのは、秀吉配下の日野根氏です。1600年尾関ヶ原の戦い後、日野根氏は下野国(栃木)に移され、諏訪には、上野国から諏訪市が戻り、明治維新までの10代が続きました。末尾に高島城主の系譜が添えてありました。

  • 高島城天守閣のズームアップ光景です。高島城は別名『浮城』とも呼ばれます。400年ほど前の慶長3年、豊臣秀吉の家臣、『日根野織部高吉』により築城されました。地盤が軟弱だったことなどから、完成まで7年の歳月を要しています。

    高島城天守閣のズームアップ光景です。高島城は別名『浮城』とも呼ばれます。400年ほど前の慶長3年、豊臣秀吉の家臣、『日根野織部高吉』により築城されました。地盤が軟弱だったことなどから、完成まで7年の歳月を要しています。

  • 高島城の出入口階段の途中から眺めた北側方面の光景になるようです。市街光景の先に山並みが連なっていました。諏訪湖は、この写真の左手方面になります。明治8年(1876年)に天守閣は破却されましたが、石垣だけは残されました。

    高島城の出入口階段の途中から眺めた北側方面の光景になるようです。市街光景の先に山並みが連なっていました。諏訪湖は、この写真の左手方面になります。明治8年(1876年)に天守閣は破却されましたが、石垣だけは残されました。

  • 同じく、高島城の出入口階段の途中から眺めた西側方面の光景です。市街地の先には諏訪湖が見えていましたが、かつては、諏訪湖に突き出した高島城でした。諏訪湖が背面の守りだった高島城です。

    同じく、高島城の出入口階段の途中から眺めた西側方面の光景です。市街地の先には諏訪湖が見えていましたが、かつては、諏訪湖に突き出した高島城でした。諏訪湖が背面の守りだった高島城です。

  • 逆光での撮影位になりましたが、本丸跡に置かれていたモニュメントの再度の紹介です。作品名は読み取ることができませんでした。上に置かれているのは、鳥の姿のようにも見えます。

    逆光での撮影位になりましたが、本丸跡に置かれていたモニュメントの再度の紹介です。作品名は読み取ることができませんでした。上に置かれているのは、鳥の姿のようにも見えます。

  • 内側になる、本丸跡から眺めた、『冠木門(かぶきもん)』の光景です。その出入口の先に見えているのが冠木橋です。この冠木門を左手に見ながら、入城した時の門の方角に向かいました。

    内側になる、本丸跡から眺めた、『冠木門(かぶきもん)』の光景です。その出入口の先に見えているのが冠木橋です。この冠木門を左手に見ながら、入城した時の門の方角に向かいました。

  • 見学を終え、最後に振り返って眺めた高島城の天守閣の光景です。天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿を留めていました。現在の天守は、昭和45年(1970年)に鉄筋コンクリート造りで外観再建されたものです。

    イチオシ

    見学を終え、最後に振り返って眺めた高島城の天守閣の光景です。天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿を留めていました。現在の天守は、昭和45年(1970年)に鉄筋コンクリート造りで外観再建されたものです。

  • 高島城の見学を終え、外堀に架かる橋の付近まで戻って来ました。現地ガイドさんによれば、この方角が南の丸跡とお聞きしました。駐車場に停まる観光バスは、相変わらず1台だけでした。

    高島城の見学を終え、外堀に架かる橋の付近まで戻って来ました。現地ガイドさんによれば、この方角が南の丸跡とお聞きしました。駐車場に停まる観光バスは、相変わらず1台だけでした。

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