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江戸時代後期を代表する浮世絵師の一人が、葛飾北斎(1760?~1849年)です。代表作が富士山を主題として描かれた『富嶽三十六景』です。その中の『信州・諏訪湖』には、諏訪湖から見た富士山の絵に高島城も描かれています。

2018夏、長野の続日本百名城(2/9):高島城(2):水堀、天守閣、多門、隅櫓、冠木門

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2018/08/05 - 2018/08/05

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旅行記グループ 2018夏、長野の続百名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

江戸時代後期を代表する浮世絵師の一人が、葛飾北斎(1760?~1849年)です。代表作が富士山を主題として描かれた『富嶽三十六景』です。その中の『信州・諏訪湖』には、諏訪湖から見た富士山の絵に高島城も描かれています。

交通手段
観光バス

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  • 高島城本丸の東側方面にある『冠木門(かぶきもん)』の内部光景です。この高島城を築いた、豊臣秀吉の武将の日根野織部正高吉は、安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手でした。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことですが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門とされる屋根付きの門だったと判断されています。

    高島城本丸の東側方面にある『冠木門(かぶきもん)』の内部光景です。この高島城を築いた、豊臣秀吉の武将の日根野織部正高吉は、安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手でした。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことですが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門とされる屋根付きの門だったと判断されています。

  • 同じく、高島城本丸の東側方面にある冠木門の内部光景です。さっきとは反対側の光景になります。この『冠木門』は再建されたもので、『楼門』の様式となっています。当初は冠木門だったものが、後に楼門に建て替えられ、名称だけが『冠木門』として残されたようです。

    同じく、高島城本丸の東側方面にある冠木門の内部光景です。さっきとは反対側の光景になります。この『冠木門』は再建されたもので、『楼門』の様式となっています。当初は冠木門だったものが、後に楼門に建て替えられ、名称だけが『冠木門』として残されたようです。

  • 『冠木門』の出入口から、振り返って眺めた東側の『冠木橋』方面の光景です。かつての大手門は、この通りをまっすぐ進んだ右手辺りにあったようです。現地見学はしていませんが、『大手門跡』の標識が建っているようでした。

    『冠木門』の出入口から、振り返って眺めた東側の『冠木橋』方面の光景です。かつての大手門は、この通りをまっすぐ進んだ右手辺りにあったようです。現地見学はしていませんが、『大手門跡』の標識が建っているようでした。

  • 『高島城本丸の堀と石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。昭和54年(1979年)に諏訪市の文化財に指定された時の説明文のようです。『石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。』と説明されていました。

    『高島城本丸の堀と石垣』のタイトルがあった説明パネルの光景です。昭和54年(1979年)に諏訪市の文化財に指定された時の説明文のようです。『石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。』と説明されていました。

  • 冠木橋の上から眺めた、南側方面の水堀の光景です。十分な幅と水量を湛えた水堀に見えました。諏訪湖に面した『浮城』ですから、水には事欠かなかったようです。

    冠木橋の上から眺めた、南側方面の水堀の光景です。十分な幅と水量を湛えた水堀に見えました。諏訪湖に面した『浮城』ですから、水には事欠かなかったようです。

  • こちらは、冠木橋の同じ場所から眺めた、北側方面の水堀の光景です。左手の一番奥に見えるのが、天守閣が載る石垣の裾部分です。築城の名手、日根野高吉(1539~1600年)は転封の翌年、天正19年(1591年)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工したとされます。関ヶ原の戦いの年に亡くなっていますが、本戦の前の急死でした。

    こちらは、冠木橋の同じ場所から眺めた、北側方面の水堀の光景です。左手の一番奥に見えるのが、天守閣が載る石垣の裾部分です。築城の名手、日根野高吉(1539~1600年)は転封の翌年、天正19年(1591年)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工したとされます。関ヶ原の戦いの年に亡くなっていますが、本戦の前の急死でした。

  • 冠木橋の同じ場所から眺めた天守閣が見える光景です。軟弱地盤のために築城に苦労したこともあり、完成したのは7年ほど経った慶長3年(1598年)のことでした。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから、別名『諏訪の浮城』と呼ばれました。

    冠木橋の同じ場所から眺めた天守閣が見える光景です。軟弱地盤のために築城に苦労したこともあり、完成したのは7年ほど経った慶長3年(1598年)のことでした。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから、別名『諏訪の浮城』と呼ばれました。

  • 同じ場所からズームアップした、高島城天守閣の光景です。『諏訪の浮城』は、『諏訪の殿様よい城持ちゃる うしろ松山前は海』と謡われた名城です。 高島城の中では一番絵になる場所ですが、ネット写真では桜の頃が最高の景色でした。

    同じ場所からズームアップした、高島城天守閣の光景です。『諏訪の浮城』は、『諏訪の殿様よい城持ちゃる うしろ松山前は海』と謡われた名城です。 高島城の中では一番絵になる場所ですが、ネット写真では桜の頃が最高の景色でした。

  • 更にズームアップした、天守閣の光景です。今は緑青を吹いて緑色になった銅葺屋根ですが、かつては桧材を使った『柿葺き(こけらぶき)』でした。現地ガイドさんからもお聞きしましたが、築城当時、諏訪の寒さと雪の重さに耐え得る瓦がなかったことと、屋根の軽量化で、柿葺きが選ばれたようでした。堀の広さが、火矢から柿葺きの屋根を守ったようです。

    イチオシ

    更にズームアップした、天守閣の光景です。今は緑青を吹いて緑色になった銅葺屋根ですが、かつては桧材を使った『柿葺き(こけらぶき)』でした。現地ガイドさんからもお聞きしましたが、築城当時、諏訪の寒さと雪の重さに耐え得る瓦がなかったことと、屋根の軽量化で、柿葺きが選ばれたようでした。堀の広さが、火矢から柿葺きの屋根を守ったようです。

  • こちらは、冠木橋の同じ場所から眺めた、南側方面の水堀の光景です。石垣の端に見えるのは、『隅櫓』です。横矢を射ることができるように、石垣をずらして設けているようでした。

    こちらは、冠木橋の同じ場所から眺めた、南側方面の水堀の光景です。石垣の端に見えるのは、『隅櫓』です。横矢を射ることができるように、石垣をずらして設けているようでした。

  • 『冠木橋』の袂から眺めた『冠木門』の光景です。『冠木門』は、『冠木を渡した、屋根のない門』のことですが、この門は立派な屋根を盛った楼門形式でした。かつての『冠木門』の名前だけが残されたものと紹介されていました。

    イチオシ

    『冠木橋』の袂から眺めた『冠木門』の光景です。『冠木門』は、『冠木を渡した、屋根のない門』のことですが、この門は立派な屋根を盛った楼門形式でした。かつての『冠木門』の名前だけが残されたものと紹介されていました。

  • 『冠木橋』を渡った場所から見上げた、南側方面の石垣と多門などの光景です。多門を再建する前からあった染井吉野を保護するために、板塀と壁に穴が開けられていました。桜の時期のネット写真では、冠木門付近のソメイヨシノがお城の一番の見所でした。

    『冠木橋』を渡った場所から見上げた、南側方面の石垣と多門などの光景です。多門を再建する前からあった染井吉野を保護するために、板塀と壁に穴が開けられていました。桜の時期のネット写真では、冠木門付近のソメイヨシノがお城の一番の見所でした。

  • 冠木門を潜って、もう一度本丸エリアに戻って来ました。低い石垣の上に建つ巨木の光景です。樹種は分かりませんでしたが、『ケヤキ(欅)』の葉に似ているようでした。

    冠木門を潜って、もう一度本丸エリアに戻って来ました。低い石垣の上に建つ巨木の光景です。樹種は分かりませんでしたが、『ケヤキ(欅)』の葉に似ているようでした。

  • 『隅櫓』の建物光景です。天守閣や多門などと同時期の、昭和45年(1970)に復興された建物とされます。1階がお店になっているようでした。赤い傘は、お店の宣伝を兼ねているようです。

    『隅櫓』の建物光景です。天守閣や多門などと同時期の、昭和45年(1970)に復興された建物とされます。1階がお店になっているようでした。赤い傘は、お店の宣伝を兼ねているようです。

  • 『高島城亀石』とその説明立札の光景です。亀石の周りには注連縄が張ってありました。高さ50センチ、幅1.2メートル、厚さ70センチ、重さ800キロの大きさとされます。

    『高島城亀石』とその説明立札の光景です。亀石の周りには注連縄が張ってありました。高さ50センチ、幅1.2メートル、厚さ70センチ、重さ800キロの大きさとされます。

  • 『高島城亀石』のズームアップ光景です。暫くの間は、行方不明だったようです。この後、現地ガイドさんが水を掛けて、景色の変化を見せてくれました。左側が亀の頭部分になるようです。

    『高島城亀石』のズームアップ光景です。暫くの間は、行方不明だったようです。この後、現地ガイドさんが水を掛けて、景色の変化を見せてくれました。左側が亀の頭部分になるようです。

  • 『高島城亀石』のタイトルがあった説明パネルのズームアップ光景です。平成19年(2007年)、132年振りに城外からこの場所に戻ったことなどが説明されていました。諏訪では、『諏訪七石』が有名です。それは、御座石、沓石、硯石、蛙石、小袋石、兒玉石と亀石です。この亀石が『諏訪七石』の『亀石』かどうかは、はっきりしません。

    『高島城亀石』のタイトルがあった説明パネルのズームアップ光景です。平成19年(2007年)、132年振りに城外からこの場所に戻ったことなどが説明されていました。諏訪では、『諏訪七石』が有名です。それは、御座石、沓石、硯石、蛙石、小袋石、兒玉石と亀石です。この亀石が『諏訪七石』の『亀石』かどうかは、はっきりしません。

  • 『覗石松』の名前があった立派な松の光景です。天守への石段の右脇に植えられた背の低い盆栽風に仕立てられた松です。すぐ近くにある『亀石』と関連がありそうな名前でした。

    『覗石松』の名前があった立派な松の光景です。天守への石段の右脇に植えられた背の低い盆栽風に仕立てられた松です。すぐ近くにある『亀石』と関連がありそうな名前でした。

  • 高島城天守閣の登り石垣の脇にあった、『復興碑』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。建てられた時期は確認していませんが、天守が再建された昭和45年(1970年)頃の建立の可能性が高いようです。

    高島城天守閣の登り石垣の脇にあった、『復興碑』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。建てられた時期は確認していませんが、天守が再建された昭和45年(1970年)頃の建立の可能性が高いようです。

  • 本丸を取り囲む長塀の光景です。この長塀の各所に、『多門跡』の標識が立っていました。中央やや右手に見える白い標識も『多門跡』でした。『多門』は、『多聞』とも記述され、城の石垣の上に築いた長屋造りの建物を指します。兵器庫と防壁を兼ねます。松永久秀(1508~1577年)が、大和国佐保山に築いた多聞城の形式からの命名とする説が有力です。

    本丸を取り囲む長塀の光景です。この長塀の各所に、『多門跡』の標識が立っていました。中央やや右手に見える白い標識も『多門跡』でした。『多門』は、『多聞』とも記述され、城の石垣の上に築いた長屋造りの建物を指します。兵器庫と防壁を兼ねます。松永久秀(1508~1577年)が、大和国佐保山に築いた多聞城の形式からの命名とする説が有力です。

  • 天守閣に登る石段の左脇にあった掲示板の光景です。『諏訪高島城・天守閣展示案内』のタイトルがありました。1階と2階の主な展示品と、晴れた日の3階からの諏訪湖、富士山や北アルプスの眺望が紹介されていました。

    天守閣に登る石段の左脇にあった掲示板の光景です。『諏訪高島城・天守閣展示案内』のタイトルがありました。1階と2階の主な展示品と、晴れた日の3階からの諏訪湖、富士山や北アルプスの眺望が紹介されていました。

  • 本丸の光景です。天守台近くから眺めた西側方面の光景になるようです。散策路に沿って石碑や時計塔らしきものが見えました。中央左手奥に微かに見えているのが、諏訪護国神社になるようです。

    本丸の光景です。天守台近くから眺めた西側方面の光景になるようです。散策路に沿って石碑や時計塔らしきものが見えました。中央左手奥に微かに見えているのが、諏訪護国神社になるようです。

  • 大きな幹に取り付けられていた、『カツラ』の名前プレートの光景です。カツラ科カツラ属の植物であることも記されていました。日本においては、山形県最上郡最上町にある『権現山の大カツラ』が最も太く、地上から約1.3メートルの位置での幹周が20メートル近くにまで成長しています。

    大きな幹に取り付けられていた、『カツラ』の名前プレートの光景です。カツラ科カツラ属の植物であることも記されていました。日本においては、山形県最上郡最上町にある『権現山の大カツラ』が最も太く、地上から約1.3メートルの位置での幹周が20メートル近くにまで成長しています。

  • 真下から見上げた、『カツラ(桂)』の大木の光景です。先ほど紹介した、『権現山の大カツラ』の推定寿命は600年で、山形県最上郡最上町東法田の権現山の山中にあります。葉はハート型に似た円形です。建築、家具、鉛筆などの材料に使われ、また、碁盤、将棋盤の材料としても貴重です。

    真下から見上げた、『カツラ(桂)』の大木の光景です。先ほど紹介した、『権現山の大カツラ』の推定寿命は600年で、山形県最上郡最上町東法田の権現山の山中にあります。葉はハート型に似た円形です。建築、家具、鉛筆などの材料に使われ、また、碁盤、将棋盤の材料としても貴重です。

  • 『高島城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中央に、諏訪明神を象徴する紋所として諏訪氏が使用した『梶葉紋』が記されていました。天正18年(1590年)、日根野高吉による設計から始まり、昭和45年(1970年)の再興までが略述されていました。

    『高島城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。中央に、諏訪明神を象徴する紋所として諏訪氏が使用した『梶葉紋』が記されていました。天正18年(1590年)、日根野高吉による設計から始まり、昭和45年(1970年)の再興までが略述されていました。

  • 天守台の下付近から振り返って眺めた、本丸の光景です。右端付近に心字池が見える、西南方面の光景になるようです。右側に見えて居る舗装通りが、心字池の中心部分に向かっているようでした。

    天守台の下付近から振り返って眺めた、本丸の光景です。右端付近に心字池が見える、西南方面の光景になるようです。右側に見えて居る舗装通りが、心字池の中心部分に向かっているようでした。

  • 天守閣に入場する石垣の途中から見上げた天守閣の光景です。高島城を築城した、日根野高吉は、(ひねの・たかよし)は、戦国時代の武将で、はじめ美濃斎藤氏に仕へ、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え信忠の馬廻衆を務め、信長没後は織田信孝を経て、羽柴秀吉に仕えました。天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績が賞されました。

    天守閣に入場する石垣の途中から見上げた天守閣の光景です。高島城を築城した、日根野高吉は、(ひねの・たかよし)は、戦国時代の武将で、はじめ美濃斎藤氏に仕へ、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え信忠の馬廻衆を務め、信長没後は織田信孝を経て、羽柴秀吉に仕えました。天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績が賞されました。

  • 石段の踊り場の隅に置かれていた、彫刻が施された大石の光景です。説明文はありませんでしたが、日時計当たりでしょうか。それにしては円形部分に時刻の表示はありませんでした。謎の石です。小田原征伐で功績が称された日根野高吉は、信濃高島に3万8000石(寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられました。

    石段の踊り場の隅に置かれていた、彫刻が施された大石の光景です。説明文はありませんでしたが、日時計当たりでしょうか。それにしては円形部分に時刻の表示はありませんでした。謎の石です。小田原征伐で功績が称された日根野高吉は、信濃高島に3万8000石(寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられました。

  • 入口の手前から眺めた西側方面と、天守台の石垣光景です。野面積の石垣でした。西側方面には諏訪湖が見えていました。諏訪湖は、新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と、糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)とされます。河川法では、一級河川の天竜川系の一部として扱われます。

    入口の手前から眺めた西側方面と、天守台の石垣光景です。野面積の石垣でした。西側方面には諏訪湖が見えていました。諏訪湖は、新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と、糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)とされます。河川法では、一級河川の天竜川系の一部として扱われます。

  • 入口前から見上げた、高島城天守閣の正面光景です。一見、板張り風に見える部分も、鉄筋コンクリート造りの表面に細工が施されているようです。諏訪は、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地で、諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群があります。

    イチオシ

    入口前から見上げた、高島城天守閣の正面光景です。一見、板張り風に見える部分も、鉄筋コンクリート造りの表面に細工が施されているようです。諏訪は、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地で、諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群があります。

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