2018/08/05 - 2018/08/05
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旅人のくまさんさん
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バスツアーに参加しての長野の続百名城巡りです。長野県の日本百名城は5箇所が選ばれましたが、2017年4月の続日本百名城選定では2箇所だけでした。47都道府県ですから、2箇所でも少ないとは言えないようです。続百名城では5箇所はなくなり、最大4箇所でした。福井、静岡、岐阜、三重、福岡と大分の6県でした。
- 交通手段
- 観光バス
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観光バスが駐車した場所付近の光景です。この辺りは、かつての高島城の『南の丸』でした。南之丸は二の丸と一本の橋でのみ接続された孤立した曲輪で、江戸時代はここに罪人を預かるために使われました。なかでも徳川家康の六男であり、伊達政宗の娘婿である松平忠輝は晩年をここで過ごし、天和3年(1683年)7月、92歳でここで亡くなりました。
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南の丸跡から横断歩道橋で内堀を渡り、本丸に向かいました。その歩道橋の光景です。忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父の家康公からは生涯を通じて嫌われたと伝わります。家康没後の元和2年(1616年)7月、兄の第二代将軍の秀忠公により大坂夏の陣のときの遅参などを理由に、改易を命じられました。
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イチオシ
横断歩道橋の上から眺めた、内堀と本丸方面の光景です。家康公からは生涯を通じて嫌われたとされる忠輝公ですが、順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることも多いようです。織田信長→秀吉→家康と渡り歩いた『野風の笛』を、家康公は茶阿局を通して忠輝に渡したといわれています。現在、諏訪市の貞松院に保存されている名笛です。
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横断歩道橋の上から眺めた、本丸跡の内堀に面した石垣光景です。野面積でした。右手に見える案内看板には、『高島城・冠木門(尚門)』の右向きの矢印がありました。幽閉されながらも長寿を全うした忠輝公は、海外との交易に興味を示し、武術、茶道、絵画、薬学に通じた文化人としても伝わります。死去から300年後の昭和59年(1984年)、徳川宗家から赦免が行われました。
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『高島城庵合図』のタイトルあった観光案内看板の光景です。現在位置が内堀の外側に記してありました。横断歩道橋の上にあった案内看板です。高島城跡は、現在は高島公園として整備されています。
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横断歩道橋を渡ってやってきたこの辺りは、既に高島城の本丸跡のエリアになるようでした。後方に見える鉄柵の横に『多門跡』の白い標識がありました。その手前に大きな石碑がありましたが、文字は読み取れませんでした。
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先程とは別の石碑ですが、こちらは『献眼者慰霊之碑』の題字が読み取れた、まだ新しい石碑でした。昭和60年(1985年)、諏訪湖ライオンズクラブと諏訪市献眼運動推進協議会連名の石碑でした。
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土戸門跡付近から眺めた、高島城の天守閣の光景です。この場所からは、天守閣は東北方面になります。昭和45年(1970年)に再建された、三層5階の鉄筋コンクリート造りの模擬天守です。高島城は、平城としては日本最高の標高760メートルの地に築かれた城です。
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先に紹介した『高島城案内図』にも記されていた『諏訪護国神社』の光景です。高島公園のかなりの広さを占めているようでした。高島公園の西北角付近に位置します。この神社には、地元出身の陸軍軍人で、統制派の中心人物だった永田鉄山(1884~1935年)の胸像が置かれています。昭和10年(1935年)7月、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されました。(相沢事件)
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高島城の本丸跡、今は高島公園の中の木立の光景です。相沢事件は、5・15事件から3年後、その後の2・26事件の前年に起きました。永田鉄山は、『将来の陸軍大臣』と目され、『永田の前に永田なく、永田の後に永田なし』と評される秀才でした。昭和12年(1937年)の支那事変、昭和16年(1941年)の太平洋戦争まで、あっという間の出来事でした。
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同じく、高島城の本丸跡、今は高島公園の中の木立の光景です。当時陸軍省軍務局政策班長の池田中佐の談話です。永田中将の死によって、陸軍は、たがのはずれた桶のようにバラバラになってしまった。翌年2・26事件をよび、引き続き支那事変となり、大東亜戦争へと連鎖反応的に発展していった』述べています。池田純久(1894~1968年)は大分県出身で、最終階級は陸軍中将でした。
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『高島城史跡・土戸門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『土戸門’土どもん)』は、本丸の裏口に当たり、商人や職人らがこの門を用いたとされます。役所向きの要件でも、冠木門の通過を許されていないものは、ここを通ったと説明されていました。
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『土戸門跡』の付近に残る石垣のズームアップ光景です。古い年代を感じさせる、野面積の石垣でした。かつての土戸門の虎口の一部かも知れません。苔もなく、石垣の間に草木が生えていませんから、比較的近年に積み直されたもののようでした。
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同じく、『土戸門跡』の付近に残る大きな石材のズームアップ光景です。これらも、かつての土戸門の虎口に使われた石材の一部かも知れません。あるいは庭石でしょうか。現在は、花壇の縁石のような役割になっていました。
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かつての石垣の石材が使われたような、小高くなった花壇の上に生えていた古木の光景です。『ケヤキ(欅)』のようにも見えましたが、別種の樹木かも知れません。『土戸門跡』の目印になっていました。
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半分ほど樹木に隠れてしまった高島城の天守の光景です。高島城の略史の紹介です。戦国時代、諏訪氏は武田信玄の妹を諏訪頼重の正室に迎えて関係を強化するも、父の武田信虎を追放した信玄が天文11年(1542年)に突如諏訪上原城に侵攻しました。頼重は偽りの和議で甲斐へ連行され、そこで切腹、諏訪氏は滅亡し諏訪は武田領となりました。
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桜の古木と『多門跡』の標識のズームアップ光景です。高島城の略史の紹介が続きます。天正10年(1582年)、信玄の子、勝頼が織田信長に敗れて武田氏が滅ぶと諏訪は織田領となりました。しかし、天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で討たれると、諏訪頼重の叔父の子 頼忠が旧臣と共に諏訪氏を復活させ、諏訪の地を取り戻して金子城を居城としました。
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中央に見える標識には、『持方月櫓跡(もちかたつきやぐらあと)』の文字が記されていました。諏訪を治めた諏訪頼忠は、信濃支配を狙う徳川・後北条両氏に挟まれるも、最終的には徳川家康に帰属し、領有を安堵されました。しかしそれも束の間、家康の関東国替えに伴い武蔵国奈良梨へ、更に上野国惣社へ転封となりました。
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『多門跡』に復元された塀の光景です。転封させられた諏訪氏に代わって領主となったのが、豊臣秀吉の家臣の日根野高吉でした。高吉は諏訪湖畔の高島で築城に着手し、慶長3年(1598年)に完成させました。この時、金子城の資材が多く使われたとされます。高吉は領内統治の仕組みを作るなど、領主としての足固めを進めましたが、関ヶ原の戦い直前に急死しました。
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同じく、『多門跡』に復元された塀のズームアップ光景です。日根野高吉の後を継いだ吉明は、翌年に下野国壬生に転封され、その後、諏訪を治めたのが諏訪頼忠の子の頼水でした。以後、10代忠礼の治世で明治維新を迎えるまで、高島城を居城に諏訪氏が治めました。
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『能舞台跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。能舞台があった場所とされ、『当初、本丸の御殿内にあったが、文政10(1827)年に新築されたもので、舞台の鏡板には、岩本琴斎が描いた老松の絵があった。明治3(1870)年3月、高島藩主の菩提寺だった温泉寺が大火で焼失した際、本堂として移築された』と紹介されていました。
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本丸跡の中央付近に位置する、『心字池』の光景です。かつての本丸御殿があった場所です。家老などの重職との接見や、重要な行事が行われた表御居間(おもておいま)・御次(おつぎ)・下御次・下段之間があり、御納戸(おなんど)・中御納戸・御祐筆(ごゆうひつ)部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していました。
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赤い傘が目印になっていた『角櫓』の光景です。立寄りませんでしたが、一階が
お店になっていたようです。『本丸御殿』紹介の続きです。奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同ニ之間・同三之間があり、江戸城でいえば、大奥に当たる長局(ながつぼね)と呼ばれる部屋が隣接していました。また、御用部屋や藩政の中核となる部屋も備えられていました。 -
本丸跡の青々とした樹木の光景です。左側の大木には、『高島城のキハダ』の名札がありました。その右側は、楓の新緑でした。
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本丸跡のモニュメントの光景です。この種の施設は、モニュメントと呼ぶか、オブジェと呼ぶか迷うところです。オブジェは芸術的な作品のことを指しますが、モニュメントはイベントなどの記念品という意味合いが強い作品という違いがあります。この作品は、オブジェと呼んだがよさそうです。
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『ケヤキ(槻)』だったらしい大木の光景です。縦横に枝を伸ばして、広い木陰を作っていました。ニレ科ケヤキ属の落葉高木で、『ツキ(槻)』の呼び名もあります。20メートルを超える高木になり、40メートルほどの個体もあります。
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『高島城 浮城とも言う』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『この地は高島城本丸跡である、この城はおよそ三百八十年前、文禄、慶長年間日根野織部正高が七年を要し彼独特の築城技術を生かし諏訪湖の波打ち際に築いた難攻不落の水城で、別名を浮城』と説明されていました。関が原の役の後は諏訪氏の居城となり、そのまま転封もなく維新まで綴きました。
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『高島城本丸絵図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。今は心字池を中心に庭や植木ばかりですが、かつての本丸には、ぎっしりと建物が建っていたようです。絵図は、その中心施設の本丸御殿かも知れません。写真紹介は出来ませんでしたが、心字池の横に『本丸御殿跡』の説明パネルが立っているようです。
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内側の本丸跡から眺めた冠木門の光景です。名前は冠木門ですが、昭和45年(1970年)に再建された、楼門形式の堂々とした姿の正門です。門の左右の石垣は、当時のものが補修はされたかもしれませんが、その姿を留めているようです。
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『冠木門跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門あるいは高麗門と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。おそらく、当初は冠木門であったが、後に楼門に建て替えられ、名称のみが残されたものであろう』と紹介されていました。
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