2018/07/08 - 2018/07/08
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旅人のくまさんさん
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福井の続百名城巡りです。大野の城下町は、信長の初期親衛隊の赤母衣衆だった金森長近によって築かれました。この当時、信長は度重なる『信長包囲網』により、全国の戦国大名を相手に苦戦を強いられていました。
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『朝倉義景史跡』の文字が刻まれた石標の光景です。朝倉義景(1533~1563年)公は、戦国時代の武将で越前国の戦国大名でした。越前朝倉氏第11代当主でしたが、織田信長に敗れ、最後の当主となりました。墓所は、福井市一乗谷にもあります。ところで、福井県のNHK大河ドラマの主人公で1番にランクアップされているのが朝倉義景公のようです。もし実現したとしても、脚本造りは大変そうです。
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『朝倉義景史跡』の石標があった付近の光景です。正面の朝倉義景公の墓に向かって、真っ直ぐな参道が伸びていました。正面奥に見える宝篋印塔が朝倉義景公墓です。その周りには、かつての家臣の墓もあります。
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『史跡・朝倉義景公墓』のタイトルがあった説明パネルの光景です。越前国・一乗谷城主だった朝倉義景は、天正元年(1573年)、織田信長に敗れました。義景は、大野郡司・朝倉景鐘の勧めで、大野に落ち延びたものの、景鐘の反逆に逢い、同年8月、六坊顕松寺で切腹したと紹介されていました。辞世の句は、『七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空』です。
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イチオシ
朝倉義景公の宝篋印塔の光景です。辞世の句には、『かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ』も残されました。死後、高徳院や小少将、愛王丸ら義景の血族の多くも信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、戦国大名としての朝倉氏は滅亡しました。義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝されました。
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真っ黒な雲が湧きたっていた、遠くの空の光景です。浅井久政・長政と朝倉義景の頭骨には、箔濃(はくだみ)が施され、信長が家臣に披露したと伝わります。『杯にして酒を飲ませた』というのは作り話のようであり、敵将への敬意の念を示した首化粧とする説が有力なようです。
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大野城下町の大手道(城主が通行する道路)は、現在、朝市が開かれている『七間(しちけん)通り』です。この大手道には、短冊形に区割りされた区画の短辺(南北面)が面しています。つまり、城主が通行する際に、区画内の出迎えが最小限で済むことになり、区画の長辺(東西面)に住まう町人たちは、手を止めることなく商いを続けることができました。金森長近による、町人重視の造りです。
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ツアーに参加の有志で、大野城下町巡りをしました。自由散策しながら、次は寺町方面を目指しました。その途中で目にした長塀の光景です。金森長近による、町人重視の町造りは、大野の城下町を造る際に、城主の威光を知らしめることよりも、商工業の発展を願ったと考えられています。金森長近(1524~1608年)は、蹴鞠や茶の湯にも秀でた文人でもありました。
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四角な池がある場所にやって来ました。手元の地図を参照しますと、『日吉神社』がある付近でした。前方に見る木々は、その鎮守の杜の一部でした。金森長近は伏見に書院と茶亭を造り、秀吉が伏見在城の時は、しばしば秀吉を招きました。茶の湯の宗匠古田織部とも親交があり、後には、家康・秀忠父子からも信任されていたとされます。
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四角な池の縁にいた、『アオサギ(青鷺、蒼鷺)』さんのズームアップ光景です。ダイサギよりも大きなサギです。全長は93センチほどです。野鳥の会のHPには、『正面からは白く見えるが、横、後ろからは灰色に見える』と特徴が紹介されていました。私が住む近所の天白川でも目にしますし、日本全国で目にすることができるようです。
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さらにズームアップした、アオサギさんの光景です。食べ物は動物食で、魚類や水辺で捕れる両生類、爬虫類、甲殻類、それに小鳥のヒナなどとされます。近年、全国での生息数が増えているようです。背後の石垣は、川で採れる玉石が使用されていました。
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中央に見えるのは、『日吉神社』の文字が刻まれた石標です。その前に『史跡・亥山城跡』の文字が記された白い標識もありました。『亥山城跡』は、大野の城下町を造った織田信長の武将・金森長近が、大野に入る以前に入った古い城跡です。『居山(いやま)城』とも、『土橋(どばし)城』とも呼ばれました。四角な池は、その堀跡とされます。
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『越前国大野・山王日吉神社御由緒』の題字があった、立派な説明看板の光景です。御祭神は『スサノオノミコト(須佐之男命)の孫の『オオヤマクイノミコト(大山咋命)』で、城の守護神として奉祀されたと紹介されていました。先ほど紹介した『土橋城』の呼び名は、南北朝時代にこの地が、『土橋の庄』と呼ばていたことに因むと紹介されていました。
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『越前国大野・山王日吉神社』の石の鳥居の光景です。扁額の文字は、『日吉神社』でした。先程の縁起には、後醍醐天皇(1288~1339年)時代の延元4年(1339年)に、南朝方の堀口氏政公が『亥山跡』を構えていたことが、『太平記』に記されていると紹介されていました。後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇でした。
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自由散策のメンバーで再度地図を確認し、寺町方面に向かいました。少しだけ東南側に行き過ぎていたようでした。時間はたっぷりありましたから、街並みを散策しながら寺町に向かいました。その途中の『くろねこ』の看板があった建物の光景です。業種は分かりませんでしたが、商店のようでした。
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街角にあった、『七間通り』の表示がされた真新しい石標の光景です。左の側面には『寺町通り』の表示もありました。東西の通りが『七間通り』、南北の通りが『寺町通り』になります。金森長近による大野城下の町造りは、城の権威を主眼とした『たて町型』に対し、町人重視の『よこ町型』とも呼ばれます。
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右手前にあった、『日蓮宗・一乗山・妙典寺』の文字が刻まれた寺標と、その背後の山門の光景です。左手前には、宝篋印塔か、パゴダ風の石塔が建っていました。門外の焼香場所になっているようでした。この辺りは、既に寺町通りになるようです。
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金森長近が築いた大野城下町の形式は、『梯郭(ていかく)式』とも呼ばれます。亀山山頂と東の麓に城郭(天守閣、二の丸、三の丸)を築き、さらにその東側に城下町を展開しました。城郭の外回りが武家屋敷で、更にその外回りを町人街と寺町が多重に取り巻く構造です。寺町は、城郭の守りの最前線でもありました。日蓮宗・圓立寺の山門光景です。
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このお寺も、かつては大野城の守りの一角を担ったようです。再建されたらしい山門の木組みは、骨太く豪壮に見えました。その脇の土塀も、守りを固めるに相応しい造りに見えました。
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イチオシ
周りに深い溝を巡らしたこのお寺も、お城を守る最前線基地に相応しい造りに見えました。溝の内側には石垣が積み重ねられ、隙のない黒塀が張り巡らされていました。戦国時代などのお寺は、兵力の分散配置の場所にもなったようです。
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周りに深い溝を巡らし、石垣と塀で固めたお寺の山門光景です。彫刻が施された、格式が高そうな山門でしたが、表札は見当たりませんでした。
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隣接するお寺の山門光景が続きます。中央に立ち入りを禁止したような表示があったこのお寺には、『高野山・真言宗・恵日山・大宝寺』の表札がありました。右手前の石碑に、幕末の蘭学者の山崎譲が葬られていることが紹介されていました。
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三門造りの門構えのお寺の光景です。右手前に大きな石碑が建っていました。左側の門柱にあった長興寺の表札が読み取れました。臨済宗・妙心寺派の禅のお寺です。
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山門の右手前に置かれていた、『三界萬霊等』らしい文字が刻まれた大きな石標のズームアップ光景です。仏教で教える『三界』とは、私達が生まれかわり、死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界のことです。『欲界』は、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、『色界』は、欲望が無くなった世界、『無色界』は、形のあるものからはなれた純粋な世界を指すとされます。また、『萬霊』とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指します。施餓鬼会では、『三界萬霊等』を中心に祀り、先祖をはじめとする萬霊に供養をします。グラジオラスの花が飾られていました。
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石標に刻まれた右側の文字には、『琴洞橋の生みの親・尾崎琴洞墓』、左には、『万葉がなの碑文がその業績を顕す・中村袋佐墓』の表示がありました。大きな業績を上げたとする郷土の人です。
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このお寺には、『臨済宗・妙心寺派・長興寺』の表札がありました。鎌倉時代に栄西禅師(えいさいぜんじ:1141~1215年)によって臨済宗が、道元禅師(どうげんぜんじ:1200~1253年)よって曹洞宗が中国から伝えられました。
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入口の左右に石標が建った建物の光景です。左側の石柱に『三輪清浄明』の文字が刻まれていました。『三輪(さんりん)』は三業のことで、身業、口業、意業の三つのことをいいます。身業は体の動作や所作、口業は言葉、意業は意識、心の働きのことをいいます。『清浄(しょうじょう)』は汚れがなく清らかなことです。右側の石標は読めませんでした。
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中央手前に見える石標には、『大野藩主・土井家累代墓所』の文字がありました。天和2年(1682年)、土井利房公が大野藩主となり、以来、善道寺が土井家の菩提寺になったことが紹介されていました。藩主をはじめ計19基の墓です。
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『大野藩主・土井家累代墓所』の石標があった墓地の内部光景です。正確な情報ではありませんが、土井家の子孫はキリスト教系に宗旨が変わられたらしく、現在はこの墓地とは縁が薄れてきているようでした。あくまでも、また聞きした話しですから、真偽のほどは分かりません。
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先ほど紹介した古い墓標のほかに、新しい墓標が立ち並ぶ一角もありました。現在もこの地に縁が深い。大野藩の藩士の末裔の御子孫当たりかもしれません。これも単なる推測です。
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お揃いの紅い帽子と前掛けをした、『六地蔵尊』を祀った祠の光景です。仏教では、人は死後に、地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天という六道の境涯を輪廻・転生すると教えますが、そのそれぞれに、衆生救済のために配される檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光を六地蔵尊と呼んでいます。
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