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越前大野城は、天正3年(1675年)、越前一向一揆を平定した金森長近が、織田信長から恩賞として越前国大野郡で3万石を与えられ、その翌年、最初に居城の戌山城近くの亀山に城郭を築き始めたのが始まりとされます。築城には、数年間を要しました。

2018梅雨、福井の続百名城(2/10):越前大野城(2):亀山城址石碑、鳥居、木造裁判所跡

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2018/07/08 - 2018/07/08

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

越前大野城は、天正3年(1675年)、越前一向一揆を平定した金森長近が、織田信長から恩賞として越前国大野郡で3万石を与えられ、その翌年、最初に居城の戌山城近くの亀山に城郭を築き始めたのが始まりとされます。築城には、数年間を要しました。

交通手段
観光バス

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  • これから潜る、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の石の鳥居の光景です。幕末の名君とされる土井利忠公が御祭神です。明治時代になってから建てられた新しい部類の神社ですが、旧社格は県社でした。

    これから潜る、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の石の鳥居の光景です。幕末の名君とされる土井利忠公が御祭神です。明治時代になってから建てられた新しい部類の神社ですが、旧社格は県社でした。

  • 振り返って眺めた『柳廼社(やなぎのやしろ)』の石の鳥居の光景です。『柳廼社』は、現在は大野市の城町2丁目に位置します。越前大野城が建つ、標高249メートルの亀山の麓です。

    振り返って眺めた『柳廼社(やなぎのやしろ)』の石の鳥居の光景です。『柳廼社』は、現在は大野市の城町2丁目に位置します。越前大野城が建つ、標高249メートルの亀山の麓です。

  • 『柳廼社』の参道光景が続きます。参道の脇にかなりの高さの古い石灯篭がありましたが、倒壊防止のためか、丸太で三方から支えられていました。左手奥に見えてきた建物が、この後紹介する、かつての大野治安裁判所の建物だった、『大野市民俗資料館』です。一見、神社のような外観です。

    イチオシ

    『柳廼社』の参道光景が続きます。参道の脇にかなりの高さの古い石灯篭がありましたが、倒壊防止のためか、丸太で三方から支えられていました。左手奥に見えてきた建物が、この後紹介する、かつての大野治安裁判所の建物だった、『大野市民俗資料館』です。一見、神社のような外観です。

  • 『史跡・亀山城址』の文字が刻まれた石標の光景です。『越前大野城』は、大野市北西部に位置する大野盆地にある標高249メートルの亀山に築かれた平山城です。このため、かつては『亀山城』とも呼ばれました。側面に『昭和32年7月指定・福井県』の文字がありました。

    『史跡・亀山城址』の文字が刻まれた石標の光景です。『越前大野城』は、大野市北西部に位置する大野盆地にある標高249メートルの亀山に築かれた平山城です。このため、かつては『亀山城』とも呼ばれました。側面に『昭和32年7月指定・福井県』の文字がありました。

  • 『史跡・亀山城址』の石標があった場所と、その周りの木造建築の建物光景です。この『大野市民俗資料館』の建物は、明治22年(1889年)、大野治安裁判所としてて建てられ、昭和43年(1968年)まで使用されていました。同年、大野市が本館と守衛室を譲り受けて現在地に移築し、資料館として活用・保存しています。

    『史跡・亀山城址』の石標があった場所と、その周りの木造建築の建物光景です。この『大野市民俗資料館』の建物は、明治22年(1889年)、大野治安裁判所としてて建てられ、昭和43年(1968年)まで使用されていました。同年、大野市が本館と守衛室を譲り受けて現在地に移築し、資料館として活用・保存しています。

  • 『大野市民俗資料館』の玄関光景です。明治中期の地方の裁判所としては、全国でも数少ない貴重な建物となっています。現在は、大野市の市指定文化財の建物です。外観は和風ですが、内部は、中央の廊下の両側に部屋を置く配置や、玄関や各部屋のドア、大きなガラス窓や高い天井など、洋風の構成となっています。

    『大野市民俗資料館』の玄関光景です。明治中期の地方の裁判所としては、全国でも数少ない貴重な建物となっています。現在は、大野市の市指定文化財の建物です。外観は和風ですが、内部は、中央の廊下の両側に部屋を置く配置や、玄関や各部屋のドア、大きなガラス窓や高い天井など、洋風の構成となっています。

  • 逆光での写真となりましたが、同じく、『大野市民俗資料館』の玄関光景です。現在は資料館として、『急激な時代変化によって消滅・変化しつつある民俗資料を、郷土の文化の基盤として後世に伝えるために、収集・保存・展示を行ってい里」と紹介されていました。ネット樹生法にあった、京都からの観光らしい女性の方の感想文です。『大野城を登る手前にある昔の裁判所を再利用した民俗資料館で、中に入ると、なんや学校みたいに感じたけど、部屋ごとに、昔の農機具、消防道具、箪笥、洋服、色々生活道具が並べてはりました。』と書き記してありました。

    逆光での写真となりましたが、同じく、『大野市民俗資料館』の玄関光景です。現在は資料館として、『急激な時代変化によって消滅・変化しつつある民俗資料を、郷土の文化の基盤として後世に伝えるために、収集・保存・展示を行ってい里」と紹介されていました。ネット樹生法にあった、京都からの観光らしい女性の方の感想文です。『大野城を登る手前にある昔の裁判所を再利用した民俗資料館で、中に入ると、なんや学校みたいに感じたけど、部屋ごとに、昔の農機具、消防道具、箪笥、洋服、色々生活道具が並べてはりました。』と書き記してありました。

  • 『柳廼社』の『手水舎(てみずや、ちょうずや等)』の光景です。四方転びではなく、コンクリートの土台に固定された、直立の四本の柱で屋根が支えられていました。水盤の側面には、『浄手盤』の文字と文様が刻まれていました。

    『柳廼社』の『手水舎(てみずや、ちょうずや等)』の光景です。四方転びではなく、コンクリートの土台に固定された、直立の四本の柱で屋根が支えられていました。水盤の側面には、『浄手盤』の文字と文様が刻まれていました。

  • 少し離れた場所からの撮影ですが、越前大野城の幕末近くの藩主、名君で知られた土井利忠公を祀る『柳廼社(やなぎのやしろ)』の拝殿光景です。土井利義の長男として生まれ、文政元年(1818年)、8歳で家督を継ぎました。天保13年(1842年)4月、利忠は自筆をもって『更始の令』を発布。藩政改革を行い、大きな成果を挙げました。

    少し離れた場所からの撮影ですが、越前大野城の幕末近くの藩主、名君で知られた土井利忠公を祀る『柳廼社(やなぎのやしろ)』の拝殿光景です。土井利義の長男として生まれ、文政元年(1818年)、8歳で家督を継ぎました。天保13年(1842年)4月、利忠は自筆をもって『更始の令』を発布。藩政改革を行い、大きな成果を挙げました。

  • 越前大野藩の家老だった、中村重助矩倫の石碑の光景です。最上部に横書きで記された『矩倫翁之碑』の文字だけが読み取れました。亀甲積の石垣の上に建てられていました。

    越前大野藩の家老だった、中村重助矩倫の石碑の光景です。最上部に横書きで記された『矩倫翁之碑』の文字だけが読み取れました。亀甲積の石垣の上に建てられていました。

  • 石碑の脇に建てられていた、『中村重助の碑(1796~1845年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。藩主・土井利忠公が提唱した『更始の令』を、利忠公の全面的な信頼の上で進めた人とされます。質素倹約、文武両道、信賞必罰を自らも実践したと紹介されていました。

    石碑の脇に建てられていた、『中村重助の碑(1796~1845年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。藩主・土井利忠公が提唱した『更始の令』を、利忠公の全面的な信頼の上で進めた人とされます。質素倹約、文武両道、信賞必罰を自らも実践したと紹介されていました。

  • こちらも、切込み接ぎの亀甲積の石垣の上に建てられた石碑の光景です。明治11年(1878年)の建立でした。傍らにあった説明パネルから判断して、『内山隆佐の碑』でした。名は良隆、号は貫斎、通称は『たかすけ』でした。石碑の上部に右から刻まれた題字は、読み方にかなり迷いましたが、『貫斎先生之碑』のようでした。

    こちらも、切込み接ぎの亀甲積の石垣の上に建てられた石碑の光景です。明治11年(1878年)の建立でした。傍らにあった説明パネルから判断して、『内山隆佐の碑』でした。名は良隆、号は貫斎、通称は『たかすけ』でした。石碑の上部に右から刻まれた題字は、読み方にかなり迷いましたが、『貫斎先生之碑』のようでした。

  • 『内山隆佐の碑(1812~1864年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『内山隆佐((うちやま・りゅうすけ)』は、越前大野藩士で、朝川善庵、佐久間象山に学びました。兄の良休(りょうきゅう)とともに、藩政改革に努め、成功させました。安政3年(1856年)、藩の蝦夷地総督となりました。藩船大野丸を建造、箱館の藩営の商社、『大野屋』を拠点に活動しました。

    『内山隆佐の碑(1812~1864年)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『内山隆佐((うちやま・りゅうすけ)』は、越前大野藩士で、朝川善庵、佐久間象山に学びました。兄の良休(りょうきゅう)とともに、藩政改革に努め、成功させました。安政3年(1856年)、藩の蝦夷地総督となりました。藩船大野丸を建造、箱館の藩営の商社、『大野屋』を拠点に活動しました。

  • 参道の右脇に見えていた『百間坂』の登り口付近の光景です。急な傾斜の上り坂ですから、往きには迂回し、帰りに『百間坂』を下って来ました。現在は4箇所の登り口がありますが、かつては唯一の亀山城(越前大野城)への登り口だったとされます。

    参道の右脇に見えていた『百間坂』の登り口付近の光景です。急な傾斜の上り坂ですから、往きには迂回し、帰りに『百間坂』を下って来ました。現在は4箇所の登り口がありますが、かつては唯一の亀山城(越前大野城)への登り口だったとされます。

  • 尻尾を上げて、前足に力をためた勇み型の狛犬が護る、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の拝殿光景です。本殿は、後ろに控えているようでした。土井利忠公は、文久2年(1862年)に隠居し、明治元年(1669年)に亡くなりました。その後、明治15年(1882年)、旧藩士たちにより、大野城麓に利忠公を祭神とする『柳廼社』が建立されました。

    イチオシ

    尻尾を上げて、前足に力をためた勇み型の狛犬が護る、『柳廼社(やなぎのやしろ)』の拝殿光景です。本殿は、後ろに控えているようでした。土井利忠公は、文久2年(1862年)に隠居し、明治元年(1669年)に亡くなりました。その後、明治15年(1882年)、旧藩士たちにより、大野城麓に利忠公を祭神とする『柳廼社』が建立されました。

  • 正式名ではないかも知れませんが、『勇み型』の狛犬の紹介です。『構え型』の狛犬とも呼ばれ、出雲地方が有名なようです。来待石(出雲石)で作られているため出雲型と呼ばれています。江戸時代から北前船に乗せられ、北海道から九州まで、広く日本海側に運ばれたため、『出雲地方の狛犬』というよりは、『日本海沿岸を代表する狛犬』となったようです。

    正式名ではないかも知れませんが、『勇み型』の狛犬の紹介です。『構え型』の狛犬とも呼ばれ、出雲地方が有名なようです。来待石(出雲石)で作られているため出雲型と呼ばれています。江戸時代から北前船に乗せられ、北海道から九州まで、広く日本海側に運ばれたため、『出雲地方の狛犬』というよりは、『日本海沿岸を代表する狛犬』となったようです。

  • 先程の狛犬が、軽く口を開けた『雄獅子』、拝殿に向かって左手、吽形のこちらが雌獅子です。来待石(出雲石)は、細工をし易いのが特徴ですが、耐久性では難があるようです。島根県宍道町来待地区に算出する石で、1400万年前に形成された凝灰質砂岩とされますが、この狛犬が来持石(きまちいし)かどうかは分かりません。

    イチオシ

    先程の狛犬が、軽く口を開けた『雄獅子』、拝殿に向かって左手、吽形のこちらが雌獅子です。来待石(出雲石)は、細工をし易いのが特徴ですが、耐久性では難があるようです。島根県宍道町来待地区に算出する石で、1400万年前に形成された凝灰質砂岩とされますが、この狛犬が来持石(きまちいし)かどうかは分かりません。

  • 亀甲積の石垣の上に建てられた三つ目の石碑は、『内山良休の碑』でした。大野藩士の『内山七郎右衛門良休(1807~1881年)は、幕末の大野藩士で、内山隆佐(りゅうすけ)の兄で、家老職まで務めました。江戸で著名な儒学者の朝川善庵(1781~1849年)に学びました。藩財政の立て直しのため、安政2年大坂、翌年以降箱館など全国各地に藩営の商社大野屋を拓き、成功しました。維新後は良休社をつくり、士族授産に尽しました。

    亀甲積の石垣の上に建てられた三つ目の石碑は、『内山良休の碑』でした。大野藩士の『内山七郎右衛門良休(1807~1881年)は、幕末の大野藩士で、内山隆佐(りゅうすけ)の兄で、家老職まで務めました。江戸で著名な儒学者の朝川善庵(1781~1849年)に学びました。藩財政の立て直しのため、安政2年大坂、翌年以降箱館など全国各地に藩営の商社大野屋を拓き、成功しました。維新後は良休社をつくり、士族授産に尽しました。

  • 『内山良休の碑』のタイトルがあった紹介パネルの光景です。現代劇画風の絵で紹介されていました。左が鉄砲を構えた藩主の土井利忠公、右が家老の内山良休(りょうきゅう)のイラストでした。良休は、たばこや生糸を扱う『大野屋』を全国展開し、藩財政の立て直しに功績があった人です。今で言う全国チェーン店を手掛けました。

    『内山良休の碑』のタイトルがあった紹介パネルの光景です。現代劇画風の絵で紹介されていました。左が鉄砲を構えた藩主の土井利忠公、右が家老の内山良休(りょうきゅう)のイラストでした。良休は、たばこや生糸を扱う『大野屋』を全国展開し、藩財政の立て直しに功績があった人です。今で言う全国チェーン店を手掛けました。

  • 『柳廼社(やなぎのやしろ)』の社務所光景です。ショーウィンドウのようなガラス窓に、写真や掲示物が掲示されていました。左上の写真と絵図には、『天守閣と二の丸御殿』のタイトルがありました。その下が越前大野の城下町の航空写真のようでした。

    『柳廼社(やなぎのやしろ)』の社務所光景です。ショーウィンドウのようなガラス窓に、写真や掲示物が掲示されていました。左上の写真と絵図には、『天守閣と二の丸御殿』のタイトルがありました。その下が越前大野の城下町の航空写真のようでした。

  • 二年前に見学した時には、気が付かなかった立看板の紹介です。『水の町越前大野」を紹介する、『水』を主題にした写真や絵、文章などの展示でした。『越前大野・第10回感性はがき展』のテーマが、『水』のようです。この立看板には、写真、絵、文章など、佳作の四点が掲示してありました。

    二年前に見学した時には、気が付かなかった立看板の紹介です。『水の町越前大野」を紹介する、『水』を主題にした写真や絵、文章などの展示でした。『越前大野・第10回感性はがき展』のテーマが、『水』のようです。この立看板には、写真、絵、文章など、佳作の四点が掲示してありました。

  • 次の立看板には三点の佳作が掲示してありました。中央上のはがき文は、『ダム湖の底に沈んだ故郷 渇水すればよみがえる』、右下の絵には、『水汲み場 世間話に花が咲く』の俳句か、川柳風の文字が添えてありました。

    次の立看板には三点の佳作が掲示してありました。中央上のはがき文は、『ダム湖の底に沈んだ故郷 渇水すればよみがえる』、右下の絵には、『水汲み場 世間話に花が咲く』の俳句か、川柳風の文字が添えてありました。

  • 次は4点が掲示された立看板です。『佳作』の作品が揃っていました。2点の文章と、2点の絵です。中央下の絵は、ロシアの方の応募でした。名前も英語表示のロシア名のようでした。

    次は4点が掲示された立看板です。『佳作』の作品が揃っていました。2点の文章と、2点の絵です。中央下の絵は、ロシアの方の応募でした。名前も英語表示のロシア名のようでした。

  • 17番の番号が付いた縦長の掲示板には、『越前大野感性はがき展』の文字がありました。『感性』は、もちろん『官製』のパロディです。スタンプ代わりに『結の故郷・えちぜんおおの』の赤いマークがありました。『越前大野感性はがき展』は、大野市が平成10年(1998年)から開催している、公募展スタイルの『ハガキアート・コンクール』と公式HPで紹介されていました。

    17番の番号が付いた縦長の掲示板には、『越前大野感性はがき展』の文字がありました。『感性』は、もちろん『官製』のパロディです。スタンプ代わりに『結の故郷・えちぜんおおの』の赤いマークがありました。『越前大野感性はがき展』は、大野市が平成10年(1998年)から開催している、公募展スタイルの『ハガキアート・コンクール』と公式HPで紹介されていました。

  • 1点だけ掲示された作品は、『最優秀賞』でした。公式HPには、『ファラヒー光喜さん(アメリカ・小学生以下)』の作品と紹介されていました。こちらにも作品の下にその表示がありました。ちぎり絵風の絵でした。全体が、釣り上げられた魚をイメージしているようにも見えました。

    1点だけ掲示された作品は、『最優秀賞』でした。公式HPには、『ファラヒー光喜さん(アメリカ・小学生以下)』の作品と紹介されていました。こちらにも作品の下にその表示がありました。ちぎり絵風の絵でした。全体が、釣り上げられた魚をイメージしているようにも見えました。

  • 2点の作品の紹介は、『優秀賞』に選ばれていました。右の作品が、躍動する水のイメージの水彩画です。中学・高校の部で選ばれた宮城県の方の作品でした。左の絵ハガキの文章は、『アフリカのはだしの少女 遠い井戸から赤茶水 あげたいな大野の水を 輝くひとみが見たいから』の詩文でした。一般の部の作品です。

    2点の作品の紹介は、『優秀賞』に選ばれていました。右の作品が、躍動する水のイメージの水彩画です。中学・高校の部で選ばれた宮城県の方の作品でした。左の絵ハガキの文章は、『アフリカのはだしの少女 遠い井戸から赤茶水 あげたいな大野の水を 輝くひとみが見たいから』の詩文でした。一般の部の作品です。

  • 次も『優秀賞』の3点です。右上の作品は水に映る黄葉光景のようでした。その下には湧き水くみの体験談と、足腰が鍛えられた感謝を記した、回想風の絵日記の作品、その左の文章は、『認知症の祖母が、真夏の炎天下、蛇口をひねって、水をごくごく飲んでいた』と、実体験を巣のまま表した作品のようでした。

    次も『優秀賞』の3点です。右上の作品は水に映る黄葉光景のようでした。その下には湧き水くみの体験談と、足腰が鍛えられた感謝を記した、回想風の絵日記の作品、その左の文章は、『認知症の祖母が、真夏の炎天下、蛇口をひねって、水をごくごく飲んでいた』と、実体験を巣のまま表した作品のようでした。

  • 『淳優秀賞』の4点の紹介です。左上から時計回りに、高速度写真のような波紋の光景、抽象画風の淡彩の絵、次がその下の、お孫さんから『アイスよりも冷たい水がいい』と言われた体験談、最後が『水が出る この当たり前の幸せを感謝した日を忘れない』の絵と文章でした。熊本の大震災に遭われた方の作品かも知れません。

    『淳優秀賞』の4点の紹介です。左上から時計回りに、高速度写真のような波紋の光景、抽象画風の淡彩の絵、次がその下の、お孫さんから『アイスよりも冷たい水がいい』と言われた体験談、最後が『水が出る この当たり前の幸せを感謝した日を忘れない』の絵と文章でした。熊本の大震災に遭われた方の作品かも知れません。

  • 『佳作」の3点の紹介です。左上が、渓流を描写した水彩画、その下が、水辺の芦の葉にとまる蜻蛉の絵でした。この作品もロシアの方でした。右下が、二人のお孫さんに引継いだと紹介されていた、水鉄砲の絵と文章です。

    『佳作」の3点の紹介です。左上が、渓流を描写した水彩画、その下が、水辺の芦の葉にとまる蜻蛉の絵でした。この作品もロシアの方でした。右下が、二人のお孫さんに引継いだと紹介されていた、水鉄砲の絵と文章です。

  • 次も『佳作』の3点の紹介です。揃って水彩画の作品でした。左上から反時計回りに、学校でのプール掃除、水中の魚の絵、家の蛇口と洗面用具の絵でした。

    次も『佳作』の3点の紹介です。揃って水彩画の作品でした。左上から反時計回りに、学校でのプール掃除、水中の魚の絵、家の蛇口と洗面用具の絵でした。

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