2018/07/08 - 2018/07/08
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旅人のくまさんさん
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慶長5年(1600年)、家康の次男の結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌慶長6年(1601年)より天下普請による築城が始まりました。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされ、完成には約6年を要しました。
- 交通手段
- 観光バス
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『福井叙湯天守』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側にかつての天守の正面図と側面図が添えてありました。残された絵図面によれば、外観4層、内部5階で、高さは30メートル、石垣を含めて40メートルと見積られています。寛文9年(1669年)4月の大火で焼失し、その後は再建されていません。
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天守台に登る石段の光景です。幅広い石段でしたから、手摺りが二列に設けてありました。茶色の大きな看板は、『右奥に緩やかな階段がある』ことの案内でした。この後紹介する『福井城址天守台址案内図』の説明パネルに記された、階段のことのようでした。
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『福井城址天守台址案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。桜の季節のイラスト図でした。右下に福井城址の全体図が表示してありました。天守台の左上が天守台址、右手に『福の井』がありました。先程の茶色の看板は、右手に手摺りがない石段部分に中間の刻みが少しありましたから、矢印を付けて分かりやすく表示したほうがよさそうです。
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福井県知事名で記された、『寄贈記念碑』の光景です。内容を見て少し驚きましたが、『本丸跡の堀と石垣』の寄贈でした。福井城は、歴代松平家が藩主でしたが、松平家と名違う名前の方からの寄贈でした。
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『天守閣跡と福の井』のタイトルがあった説明パネルの光景です。モニュメント風に三段に石が並んだデザインでしたが、正直なところ、内容、デザイン共に少し野暮ったい標識でした。
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福井地震の傷跡が残る、小天守の石垣光景です。は、福井地震は、1948年(昭和23年)6月28日夕刻前に発生、福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震です。福井大地震とも呼ばれ、震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近、戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震で、規模はM7.1と想定されています。
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『小天守の石垣』は、『控天守台』とも呼ばれているようでした。福井震災の被害を受けたその石垣と、その背後の福井県庁舎の光景です。左側の生垣は、危険個所への立入りを制限するためのもののようでした。
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部分的に読み難くなっていた立看板の文字の紹介です。『この控天守台の石垣には、福井震災(1948年6月)による崩壊の跡が残っている。厳しい自然の力が感じられるとともに、築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます』と記してありました。
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生垣を中心とした『小天守』の西面の光景です。生垣は、石垣との間をぴったりと塞ぐよう、石垣の傾斜に合わせて剪定してありました。
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『小天守』の石垣の左端部分の光景です。こちらは大きな地震被害は見られないものの、石垣の間に生じた縦方向の隙間は、地震による横ずれのようでした。『小天守』の西北角部分になるようです。
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天守閣の礎石が残る天守台の光景です。天守台には、4重5階の天守が建てられていましたが、寛文9年(1669年)に焼失し増した。以後、藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはありませんでした。幕府から再建の許可が下りなかったとする説もありもます。
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イチオシ
同じく、天守閣の礎石が残る天守台の光景です。『本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣に望楼型4重5階の天守が建てられた。高さは、天守台も含めて約37メートルにも及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていた。(ウィキペディア)』と紹介されていました。
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イチオシ
『天守台跡』から眺めた、中央奥に見える『小天守跡』方面の光景です。その手前の石垣は、天守閣画の通路の虎口跡のようです。今は採石するのが難しくなった、『笏谷石(しゃくだにいし)』が多く使われているようでした。笏谷石は凝灰岩の一種で、福井県福井市の足羽山で採掘されました。今は採掘されていません。
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小天守台の脇にあるこの古い井戸は、『福の井』と呼ばれ、名井として知られていました。寛永元年(1624年)、当地の名称北ノ庄が、福井に改称されましたが、その由来はこの福の井の名に因んだものと伝えられています。井戸の底部までの深さは5.7メートル、水深は1.9メートルです。
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『福井城天守台「福の井」』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『福の井の歴史』と『福の井の再整備』の中見出しの説明文でした。右の写真は、上から安永4年(1775年)の福井が記された古絵図、昭和15年(1940年)頃の福の井、再整備前の『福の井』です。
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振り返って眺めた、入城した『山里口御門』の光景です。福井県のHPでは、『平成28年5月から平成29年10月にかけて、山里口御門を構成する櫓門、棟門、土塀の建築工事』を行ったことが紹介されていました。『屋根の石瓦や土塀の腰板、排水溝の材料には笏谷石を使用し、漆喰壁においては伝統的工法で施工』したとも紹介されていました。
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南側から眺めた『天守台』の光景です。石垣の上に見えているのは、先に粗油買いした『福の井』の真新しい覆い屋です。福井県の地名の元となったとされる大切な遺跡です。
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咲き始めの『ハス(蓮)』の花のズームアップ光景です。インド原産のハス科ハス属の多年生水生植物です。地下茎はよく知られているように、『蓮根(れんこん、はすね)』と呼ばれる食材になります。ヒンドゥー教や仏教とも縁が深い植物です。
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イチオシ
更にズームアップした、満開少し前の蓮の花の光景です。日本での古名『はちす』は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説となっています。『はす』はその転訛とされます。 中国旅行では、ハスのみを生のままで食べましたが、少し炙った方が、より美味しく感じました。
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『この先に天守台・山里口御門があります』と記された道案内看板の光景です。左手に福井県庁、右手に福井県警本部がある場所に立っていました。左上が天守台と福の井の写真、その右が山里口御門の写真、その下が道案内図でした。
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『雁木(がんぎ)』と呼ばれる防御用の石段の光景です。城郭用語では、土塁や石垣の上に城内から登るための、坂や石垣を『雁木』と呼んでいます。
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更にズームアップした、巨大な『雁木』の光景です。外から石垣登って攻撃する敵に対する防御施設として造られたようです。
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斜め前からズームアップした、巨大な『雁木』の光景です。内側から登りやすいように造られた石段でしょうが、かなりの急傾斜でした。
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『福井城址のご案内』のタイトルがあった説明パネルの光景です。み小木に『福井城本丸復元図』、左手に2枚のセピア写真と1枚のカラー写真が紹介されていました。かつては、本丸の西北隅に天守があり、3箇所に隅櫓があり、中心部に本丸御殿があったことなどが紹介されていました。右側の復元図に示された本丸の縄張りの紹介文でした。
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『福井城址碑』のタイトルがあった立派な石碑の光景です。『越前之為州東南』で始まる漢文での記述でした。明治33年(1900年)6月に建立された石碑でした。文中に『信長公』や『秀康公』の名前も見えました。
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全壊見学した時にも、少し違和感を感じた福井城を築城した、結城秀康公の騎馬像です。今回現地でお聞きしたのは、中国に発注し、機械彫で造られた像等のことでした。以前に見学した、三木城の別所長治公騎馬像と同じでした。
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結城秀康公の騎馬像の脇に置かれていた『結城秀康公』のタイトルがあった説明プレートの光景です。関ヶ原の戦いの跡、68万国の大大名となった秀康公の城造りと町造りの紹介でした。
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福井城の巨大な内堀と、石垣の光景です。現在は埋め立てられていますが、かつては外堀があり、本丸は四重、五重の堀で囲われていたようです。内堀の幅は約30メートル、石垣の高さは約7メートルとされます。(続日本百名城ガイドブック)
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幅約30メートルとされる内堀と、その周りの光景です。江戸城や、駿府城などとよく似た光景に思えます。かつての柴田勝家の北ノ庄城は、足羽(あすわ)川と吉野川の合流地点に築かれていたとされます。
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福井城の内堀に架かる、御本城橋(ごほんじょうばし)の袂付近から眺めた、本丸方面の光景です。橋を渡った先には、本丸の大手門(瓦門)がありました。本丸の中に福井県庁を始めとする施設がありますので、幅広いコンクリートの橋になっていました。
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橋の袂から眺めた、『御本城橋』の光景です。交通量を考えた造りらしく、太鼓橋ではなくフラットな橋でした。今日教区の間のアーチも、小舟がやっと通れるほどの大きさでした。本丸の南側に位置する橋です。
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『御本丸橋・の袂から眺めた本丸の南面の東側方面の光景です。横矢が射れるように石垣には突起箇所があり、南面の東端には、かつては『巽櫓』がありました。『巽(辰巳)』は、東南方向を表します。
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かつて、『巽櫓(たつみやぐら)』があった東南方角の石垣のズームアップ光景です。寛文9年(1669年)の大火で失してからは、天守の復興は許されませんでしたが、代わりに前面の巽櫓と坤櫓(ひつじさるやぐら)が二重から三重になったとされます。巽櫓は、明治の初期まで残っていたとされ、現在は復興の構想も出されているようです。
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『御本城橋』の本丸側の袂付近のズームアップ光景です。石垣の遺構に、かつての大手門付近の虎口の雰囲気が残っていました。ネット情報によれば、かつては枡形を形成していましたが、現在はその石垣は撤去されているようです。
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『旅立ちの像』と題された江戸時代の旅装姿の二人のブロンズ像です。右の横井小楠(1809~1869年)の九州への帰国に合わせて旅立った、左の三岡八郎(1829~1909年)の像です。横井小楠は松平春嶽公の知恵袋となり、三岡八郎は、五箇条の御誓文の原案をまとめた人としても有名です。
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『旅立ちの像』のタイトルがあった、先程のブロンズ像の説明パネルの光景です。彫像は九州に旅立つ時の横井小楠と三岡八郎(後の由利公正)です。安政5年(1858年)冬の頃です。
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お堀端にあった説明パネルの光景です。『福井城下の歴史』のタイトルがありました。城下町福井の歴史は、天正3年(1675年)、織田信長から越前を与えられた柴田勝家が、当時『北ノ庄』と呼ばれていたこの地を、越前支配の中心地にした時から始まったと紹介されていました。
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徳川家康公が縄張りに関わったお城は、多くが巨大な水堀が特徴と言えるようです。思い付きで列挙しますと、江戸城、駿府城、名古屋城、そして、この福井城などです。岡崎城も巨大な空堀がありますし、乙川と伊賀川を外堀として利用しています。例外なのが、北側の崖地を利用した浜松城ああt理でしょうか。
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観光バスが迎えに来てくれる場所が、福井駅構内のバス駐車場でした。福井城見学の後、歩いて福井駅に向かいました。最近建替えられたのでしょうか、中々立派な駅舎でした。ネット検索では、平成17年(2005年)に着工され、平成21年(2009年)に北陸新幹線の福井駅周辺部分が完成したと紹介されていました。
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ズームアップした、JR西日本の福井駅駅舎の建物光景です。壁面に恐竜の図が描かれていました。1982年(昭和57年)に勝山市北谷の杉山川流域で、中生代白亜紀前期のワニ類の全身骨格化石の発見が契機となり、恐竜のほか、ワニ、カメ、魚類、淡水生貝類、陸生植物などの化石が見つかりました。日本の恐竜研究のメッカです。これで、福井県の4箇所のうち2箇所の続日本百名城の紹介はお終いです。
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