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越前大野城は、江戸時代になると福井藩主・松平(結城)秀康の家臣・土屋正明が城代となり、土屋正明が松平秀康に殉死すると、寛永元年(1624年)、秀康の三男・直政が五万石で入城し、松平家は4代続きました。

2018梅雨、福井の続百名城(3/10):越前大野城(3):城門、野面積の石垣、土井利忠公像

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2018/07/08 - 2018/07/08

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

越前大野城は、江戸時代になると福井藩主・松平(結城)秀康の家臣・土屋正明が城代となり、土屋正明が松平秀康に殉死すると、寛永元年(1624年)、秀康の三男・直政が五万石で入城し、松平家は4代続きました。

交通手段
観光バス

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  • 『水』をテーマにした、『越前大野感性はがき展』の作品紹介の続きです。『淳優秀賞』の3点の作品の紹介です。左上は、『水』の文字をテーマにした修二の練習の作文、その下の絵は、恐ろしい顔をした魚の絵でした。右下も、水族館でスケッチしたらしい魚の絵でした。いずれも小学生以下の部の作品でした。

    『水』をテーマにした、『越前大野感性はがき展』の作品紹介の続きです。『淳優秀賞』の3点の作品の紹介です。左上は、『水』の文字をテーマにした修二の練習の作文、その下の絵は、恐ろしい顔をした魚の絵でした。右下も、水族館でスケッチしたらしい魚の絵でした。いずれも小学生以下の部の作品でした。

  • 次は『特別賞』の3点の作品の紹介です。左上の作品は、水道水をコップで美味しそうに飲むお子さんの写真です。その下の文字作品は、『詰められない水弁当』と題した、戦時中の食糧難の経験談でした。右下の作品は、多紀がある清流で冷やされた、スイカ、トマトとキュウリの絵です。涼しさを感じさせてくれました。

    次は『特別賞』の3点の作品の紹介です。左上の作品は、水道水をコップで美味しそうに飲むお子さんの写真です。その下の文字作品は、『詰められない水弁当』と題した、戦時中の食糧難の経験談でした。右下の作品は、多紀がある清流で冷やされた、スイカ、トマトとキュウリの絵です。涼しさを感じさせてくれました。

  • 継も『特別賞』の3点の作品の紹介です。左上の絵は、ぱるでぃの『風神雷神図』のようです。水附則でしょうか、じょうろで水を撒いていました。その下は、中学・高校の部の作品で、黒髪を水で表現した力作でした。最後が、右下の俳句風の1句が添えられた、楽しそうな老夫婦の食事風景です。『老夫婦 本願清水(じょうず)でお茶うまい』の1句でした。

    継も『特別賞』の3点の作品の紹介です。左上の絵は、ぱるでぃの『風神雷神図』のようです。水附則でしょうか、じょうろで水を撒いていました。その下は、中学・高校の部の作品で、黒髪を水で表現した力作でした。最後が、右下の俳句風の1句が添えられた、楽しそうな老夫婦の食事風景です。『老夫婦 本願清水(じょうず)でお茶うまい』の1句でした。

  • 『水』をテーマにした、『越前大野感性はがき展』の最後の作品紹介です。同じく『特別賞』の3点です。左上が、清流とイトトンボの水彩画、その下が、原爆で亡くなった人に心を寄せた水撒きの散文詩です。落款はご自身で彫刻されたものかもしれません。最後が、慈雨を受けて育つ双葉の苗の絵でした。

    『水』をテーマにした、『越前大野感性はがき展』の最後の作品紹介です。同じく『特別賞』の3点です。左上が、清流とイトトンボの水彩画、その下が、原爆で亡くなった人に心を寄せた水撒きの散文詩です。落款はご自身で彫刻されたものかもしれません。最後が、慈雨を受けて育つ双葉の苗の絵でした。

  • 『亀山公園・南登り口』のタイトルがあった案内看板の光景です。ツアーの皆さん方に遅れそうでしたから、あわてて撮影した1枚です。現在地が、図面の中央下部に記されていました。

    『亀山公園・南登り口』のタイトルがあった案内看板の光景です。ツアーの皆さん方に遅れそうでしたから、あわてて撮影した1枚です。現在地が、図面の中央下部に記されていました。

  • 『南登り口』に逢った武家門の光景です。かつての亀山城には、『百間坂』以外に登り口はありませんでしたから、史実に基づいた再建建物ではありません。先程の案内図には『城門』とだけ記してありました。高麗門ではなく、薬医門形式のように見えました。

    イチオシ

    『南登り口』に逢った武家門の光景です。かつての亀山城には、『百間坂』以外に登り口はありませんでしたから、史実に基づいた再建建物ではありません。先程の案内図には『城門』とだけ記してありました。高麗門ではなく、薬医門形式のように見えました。

  • 帰りに下った『百間坂』に比べますと、緩やかな傾斜の舗装された坂道でした。車の通行を考えた道路設計のようでした。現地ガイドさんと一緒の組は、大分先に行ってしまったようです。

    帰りに下った『百間坂』に比べますと、緩やかな傾斜の舗装された坂道でした。車の通行を考えた道路設計のようでした。現地ガイドさんと一緒の組は、大分先に行ってしまったようです。

  • 玉石を使った石垣光景です。築かれた年代は分かりませんでした。大きさが揃った玉石を水平線を揃えて積み上げていました。その石の向きが交互になり、リズミカルな外観でした。玉石垣を使った城では、静岡の横須賀城が一番印象に残っています。天竜川から運んだ石とされます。

    玉石を使った石垣光景です。築かれた年代は分かりませんでした。大きさが揃った玉石を水平線を揃えて積み上げていました。その石の向きが交互になり、リズミカルな外観でした。玉石垣を使った城では、静岡の横須賀城が一番印象に残っています。天竜川から運んだ石とされます。

  • 道案内標識がある場所の光景です。右手に見える標識には、直進が『百間坂』方面、左向きの標識に『越前大野城・20分』の表示がありました。『越前大野城』方面の道が新しくできた平坦な遊歩道になるようです。

    道案内標識がある場所の光景です。右手に見える標識には、直進が『百間坂』方面、左向きの標識に『越前大野城・20分』の表示がありました。『越前大野城』方面の道が新しくできた平坦な遊歩道になるようです。

  • 遊歩道を歩きながら、歴代越前大野城主の紹介です。初代が、天正3年(1575年)に信長から大野郡の3分の2を与えられた『金森長親(1524~1608年)』です。豊臣秀吉に従い、飛騨高山3万8千石を拝領し、その後の幾多の軍功により、天正13年(1585年)、秀吉から飛騨一国を与えられました。関ヶ原の戦いの軍功で、2万石加増で初代高山藩主となりました。

    遊歩道を歩きながら、歴代越前大野城主の紹介です。初代が、天正3年(1575年)に信長から大野郡の3分の2を与えられた『金森長親(1524~1608年)』です。豊臣秀吉に従い、飛騨高山3万8千石を拝領し、その後の幾多の軍功により、天正13年(1585年)、秀吉から飛騨一国を与えられました。関ヶ原の戦いの軍功で、2万石加増で初代高山藩主となりました。

  • 金森氏の後が、『長谷川秀一(?~1594年)』です。朝鮮出兵で病没しました。その後は豊臣氏の一族とされる『青木一矩(1541~1600年)』です。播磨立石城主から越前大野8万石、文禄3年(1594年)に越前府中10万石と栄進を重ね、最終的には越前北之庄21万石を領しました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、降伏直後に病死しました。

    金森氏の後が、『長谷川秀一(?~1594年)』です。朝鮮出兵で病没しました。その後は豊臣氏の一族とされる『青木一矩(1541~1600年)』です。播磨立石城主から越前大野8万石、文禄3年(1594年)に越前府中10万石と栄進を重ね、最終的には越前北之庄21万石を領しました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、降伏直後に病死しました。

  • 青木氏の後は、織田信雄の子の織田秀雄(1583~1610年)が、文禄元年(1592年)、秀吉から越前国大野郡に5万石を与えられました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、秀雄は父信雄の意向に従い西軍に属しました。敗戦し、改易されました。その後、福井藩直轄領となり北ノ庄藩(福井藩)藩主・結城秀康の家臣の土屋文明が城代として入りました。藩主の紹介は、一旦、中断します。

    青木氏の後は、織田信雄の子の織田秀雄(1583~1610年)が、文禄元年(1592年)、秀吉から越前国大野郡に5万石を与えられました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、秀雄は父信雄の意向に従い西軍に属しました。敗戦し、改易されました。その後、福井藩直轄領となり北ノ庄藩(福井藩)藩主・結城秀康の家臣の土屋文明が城代として入りました。藩主の紹介は、一旦、中断します。

  • 前回の平成28年(2016年)の見学の時にも紹介した石碑の光景です。越前大野藩の『大野丸』のレリーフ像と、その解説です。江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船です。交易に使用されましたが、最後は座礁事故で沈没しました。

    前回の平成28年(2016年)の見学の時にも紹介した石碑の光景です。越前大野藩の『大野丸』のレリーフ像と、その解説です。江戸時代末期の安政年間に、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船です。交易に使用されましたが、最後は座礁事故で沈没しました。

  • 『越前大野城』のみどころの一つ、野面積の石垣光景です。水平を揃えない、乱積の野面積でした。百間坂以外の遊歩道脇の石垣は、遊歩道が整備された明治期以降に積まれたものとされまが、その技と石材は、伝統を踏まえたものとされます。

    イチオシ

    『越前大野城』のみどころの一つ、野面積の石垣光景です。水平を揃えない、乱積の野面積でした。百間坂以外の遊歩道脇の石垣は、遊歩道が整備された明治期以降に積まれたものとされまが、その技と石材は、伝統を踏まえたものとされます。

  • 野面積の石垣のズームアップ光景です。この辺りは玉石垣ではなく、加工していない自然石を使った野面積の石垣でした。藩主の紹介に戻ります。父の土屋正明の没後、子の土屋忠次が継ぎましたが、父の殉死が幕府の禁に触れて、改易となったようです。土屋家の後は、小栗正勝が慶長14年(1609年)に入城しました。

    野面積の石垣のズームアップ光景です。この辺りは玉石垣ではなく、加工していない自然石を使った野面積の石垣でした。藩主の紹介に戻ります。父の土屋正明の没後、子の土屋忠次が継ぎましたが、父の殉死が幕府の禁に触れて、改易となったようです。土屋家の後は、小栗正勝が慶長14年(1609年)に入城しました。

  • 寛永元年(1624年)、大野藩5万石として、結城秀康の三男の松平直政が入りましたが、寛永10年(1633年)に信濃松本7万石、寛永15年(1638年)に出雲松江18万6千石と栄転しました。その後、直基(1604~1648年)、直良(1605~1678年)、直明(1656~1721年)と四代続きました。天和2年(1682年)、松平家を継いだのが土井利房(1631~1683年)です。土井家が明治維新まで続きました。

    寛永元年(1624年)、大野藩5万石として、結城秀康の三男の松平直政が入りましたが、寛永10年(1633年)に信濃松本7万石、寛永15年(1638年)に出雲松江18万6千石と栄転しました。その後、直基(1604~1648年)、直良(1605~1678年)、直明(1656~1721年)と四代続きました。天和2年(1682年)、松平家を継いだのが土井利房(1631~1683年)です。土井家が明治維新まで続きました。

  • 松平家を継いだ土井利房は、大老を務めた土井利勝の四男です。延宝7年(1679年)から天和元年(1681年)まで老中職を務め、大野藩主となりました。土井家が明治維新まで8代続きました。土井利勝(1573~1644年)は、二代将軍の徳川秀忠政権で、絶大な権勢を誇りました。真偽はともかく、利勝には家康の落胤説もあります。利勝の子息の中では、利房は出来が良く、一番出世しました。

    松平家を継いだ土井利房は、大老を務めた土井利勝の四男です。延宝7年(1679年)から天和元年(1681年)まで老中職を務め、大野藩主となりました。土井家が明治維新まで8代続きました。土井利勝(1573~1644年)は、二代将軍の徳川秀忠政権で、絶大な権勢を誇りました。真偽はともかく、利勝には家康の落胤説もあります。利勝の子息の中では、利房は出来が良く、一番出世しました。

  • 『越前大野城まであと550メートル(15分)』の表示があった場所の光景です。平地でも500メートル歩くのに10分ほどはかかりそうですから、この後も急な坂道はありませんでした。

    『越前大野城まであと550メートル(15分)』の表示があった場所の光景です。平地でも500メートル歩くのに10分ほどはかかりそうですから、この後も急な坂道はありませんでした。

  • 通路に面した場所にあった野面積の石垣の光景です。越前大野城のHPには、『今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。ただし遊歩道を整備する際には堀に使われていた石を再利用しているため、戦国時代の石、明治の石垣職人の技は見ものです』と紹介されていました。

    通路に面した場所にあった野面積の石垣の光景です。越前大野城のHPには、『今の百間坂以外の遊歩道は、明治時代以降に整備されたものです。ただし遊歩道を整備する際には堀に使われていた石を再利用しているため、戦国時代の石、明治の石垣職人の技は見ものです』と紹介されていました。

  • 幕末の名君、土井利忠公像です。箇条書きによる、利忠公の事績紹介です。<br />?藩の直営店『大野屋』の全国展開した。<br />②山国の小大名にかかわらず、早くから洋式帆船(大野丸)を所有した。<br />?大阪の適塾と提携し、蘭学塾(洋学館)を開校、全国から留学生集まった。<br />④幕府の重鎮として、幕末に大活躍した。<br />?樺太に領地を所有し、北方領土を開拓した。<br />?弓槍から大砲・銃を主体とする軍制改革をした。

    幕末の名君、土井利忠公像です。箇条書きによる、利忠公の事績紹介です。
    ?藩の直営店『大野屋』の全国展開した。
    ②山国の小大名にかかわらず、早くから洋式帆船(大野丸)を所有した。
    ?大阪の適塾と提携し、蘭学塾(洋学館)を開校、全国から留学生集まった。
    ④幕府の重鎮として、幕末に大活躍した。
    ?樺太に領地を所有し、北方領土を開拓した。
    ?弓槍から大砲・銃を主体とする軍制改革をした。

  • 土井利忠公像のズームアップ光景です。雅号は『柳涯(りゅうがい)』、明治時代になって元藩士達によって建てられた『柳廼社』の呼び名は、湖の雅号に由来しています。天保13年(1842年)4月、利忠は自筆をもって『更始の令』を発布しました。その内容は、『藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である。今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない』、城内書院に家臣一同が集められ、この令が読み上げられました。

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    土井利忠公像のズームアップ光景です。雅号は『柳涯(りゅうがい)』、明治時代になって元藩士達によって建てられた『柳廼社』の呼び名は、湖の雅号に由来しています。天保13年(1842年)4月、利忠は自筆をもって『更始の令』を発布しました。その内容は、『藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である。今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない』、城内書院に家臣一同が集められ、この令が読み上げられました。

  • スケールが大きな名君で知られた土井利忠公像の上半身のズームアップ光景です。幕末を生き、明治元年に亡くなった人ですから、当時の肖像写真も残されています。

    スケールが大きな名君で知られた土井利忠公像の上半身のズームアップ光景です。幕末を生き、明治元年に亡くなった人ですから、当時の肖像写真も残されています。

  • 休憩所の中に掲示されていた長文の説明文の光景です。『幕末の大野藩の偉業」と題されていました。その前段部分です。文政元年(1818年)、8歳の時に藩主となった利忠公から説明が始まっていました。次に、苦しい藩財政を立て直すため、天保13年(1842年)の『更始の令』、天保14年(1843年)、人材育成のための藩校の『明倫館』の創建が紹介されていました。

    休憩所の中に掲示されていた長文の説明文の光景です。『幕末の大野藩の偉業」と題されていました。その前段部分です。文政元年(1818年)、8歳の時に藩主となった利忠公から説明が始まっていました。次に、苦しい藩財政を立て直すため、天保13年(1842年)の『更始の令』、天保14年(1843年)、人材育成のための藩校の『明倫館』の創建が紹介されていました。

  • 休憩所の中に掲示されていた長文の説明文の後段部分の紹介です。中盤は内山良休が活躍して、安政2年(1855年)の大阪での『大野屋』の開店、更に良休の弟の隆佐等の活躍による蝦夷地開発などにも手を伸ばしました。利忠公は、福利厚生や医療にも目を向け、更には、藩内で鉄砲や大砲を生産し、防備も充実させました。

    休憩所の中に掲示されていた長文の説明文の後段部分の紹介です。中盤は内山良休が活躍して、安政2年(1855年)の大阪での『大野屋』の開店、更に良休の弟の隆佐等の活躍による蝦夷地開発などにも手を伸ばしました。利忠公は、福利厚生や医療にも目を向け、更には、藩内で鉄砲や大砲を生産し、防備も充実させました。

  • タイトルはありませんでしたが、現在の越前大野城址とその周りの平面図です。緑色の部分が、大野城市を中心として整備された『亀山公園』のエリアでした。東側の麓には、学びの里『めいりん』、百間堀、三の丸通りなども記されていました。

    タイトルはありませんでしたが、現在の越前大野城址とその周りの平面図です。緑色の部分が、大野城市を中心として整備された『亀山公園』のエリアでした。東側の麓には、学びの里『めいりん』、百間堀、三の丸通りなども記されていました。

  • 大野城跡にあった永久橋の光景です。築城当時にはなかった橋ですが、百間坂以外の登り口を設けたことで架けられた橋のようです。かつては、堀切になっていた場所を越える橋かも知れません。

    大野城跡にあった永久橋の光景です。築城当時にはなかった橋ですが、百間坂以外の登り口を設けたことで架けられた橋のようです。かつては、堀切になっていた場所を越える橋かも知れません。

  • 大野城跡に置かれていた自販機の光景です。『天空の城・越前大野城』のもp時と写真がありました。これも前回訪問(2016年)の時に目にしました。竹田城、備中松山城と合わせ、越前大野所は『三大天空の城』とも呼ばれます。

    大野城跡に置かれていた自販機の光景です。『天空の城・越前大野城』のもp時と写真がありました。これも前回訪問(2016年)の時に目にしました。竹田城、備中松山城と合わせ、越前大野所は『三大天空の城』とも呼ばれます。

  • この辺りでは、少し木々が邪魔をしていましたが、見晴らしの良い休憩所から眺めた、眼下の越前大野城下町の光景です。中央、やや左手に見えるのが大野市庁舎のようです。東南方面の光景になるようです。

    この辺りでは、少し木々が邪魔をしていましたが、見晴らしの良い休憩所から眺めた、眼下の越前大野城下町の光景です。中央、やや左手に見えるのが大野市庁舎のようです。東南方面の光景になるようです。

  • この辺りも、少し気が斯界を妨げていました。観光バスが駐車した方面の光景です。結ステーションの南に隣接する場所で、東南の方角になります。観光バスも見えていました。

    この辺りも、少し気が斯界を妨げていました。観光バスが駐車した方面の光景です。結ステーションの南に隣接する場所で、東南の方角になります。観光バスも見えていました。

  • 休憩所を兼ねた展望台のような場所から眺めた、大野市街の光景です。中央、やや右手に『時の鐘』が見えていました。少し南に振った、東側方面になるようです。大野市の人口は3万人強、その人口密集地域になるようです。

    休憩所を兼ねた展望台のような場所から眺めた、大野市街の光景です。中央、やや右手に『時の鐘』が見えていました。少し南に振った、東側方面になるようです。大野市の人口は3万人強、その人口密集地域になるようです。

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