佐倉・四街道旅行記(ブログ) 一覧に戻る
佐倉城は、戦国時代から築城が始められましたが、度々中断し、江戸時代の慶長15年(1610年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、完成しました。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、最後の城主は土井氏でした。

2018梅雨、東京と千葉の名城(9/9):佐倉城(5):佐倉城址公園、二の門、一の門、本丸

36いいね!

2018/07/01 - 2018/07/01

170位(同エリア790件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

佐倉城は、戦国時代から築城が始められましたが、度々中断し、江戸時代の慶長15年(1610年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、完成しました。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、最後の城主は土井氏でした。

交通手段
新幹線 JR特急 JRローカル
  • この辺りは佐倉城址の『二の丸跡』になるようでした。周りを取り囲む土塁跡が残されていました。『三の丸の空堀』を過ぎて、本丸に向かう途中の光景です。佐倉藩主には、幕府の老中職についた重要人物が多く、その数は徳川各藩中最多を数えます。このため、俗に『老中の城』とも呼ばれます。築城に7年を費やし、完成したのは元和3年(1618年)頃とされます。

    この辺りは佐倉城址の『二の丸跡』になるようでした。周りを取り囲む土塁跡が残されていました。『三の丸の空堀』を過ぎて、本丸に向かう途中の光景です。佐倉藩主には、幕府の老中職についた重要人物が多く、その数は徳川各藩中最多を数えます。このため、俗に『老中の城』とも呼ばれます。築城に7年を費やし、完成したのは元和3年(1618年)頃とされます。

  • 少し小さな写真になりましたが、道案内標識の光景です。上から、左向きの矢印で『自由広場』、右向きに『本丸跡』、奥向きに『出丸跡』、左向きに『くらしの植物苑』が案内されていました。時間の都合で見学を端折ったのは、『出丸跡』だけでした。

    少し小さな写真になりましたが、道案内標識の光景です。上から、左向きの矢印で『自由広場』、右向きに『本丸跡』、奥向きに『出丸跡』、左向きに『くらしの植物苑』が案内されていました。時間の都合で見学を端折ったのは、『出丸跡』だけでした。

  • 『三の丸跡』にある茶室の『三逕亭(さんけいてい)の建物光景です。京都大徳寺の塔頭、孤蓬庵の茶室・忘筌(重要文化財)を模したものとされ、昭和58年(1983年)に東京港区の乃木神社から移築されたものです。佐倉城とは、直接の関係はないようでした。

    『三の丸跡』にある茶室の『三逕亭(さんけいてい)の建物光景です。京都大徳寺の塔頭、孤蓬庵の茶室・忘筌(重要文化財)を模したものとされ、昭和58年(1983年)に東京港区の乃木神社から移築されたものです。佐倉城とは、直接の関係はないようでした。

  • 次の道案内標識にも、自由広場』、『本丸跡』、『出丸跡』などが表示されていましたが、同じ管轄の『くらしの植物苑』と『国立歴史民俗博物館』が反対方向の矢印で分けて表示されていました。

    次の道案内標識にも、自由広場』、『本丸跡』、『出丸跡』などが表示されていましたが、同じ管轄の『くらしの植物苑』と『国立歴史民俗博物館』が反対方向の矢印で分けて表示されていました。

  • タウンゼント・ハリス(1804~1878年)の銅像です。彼は、アメリカ合衆国の外交官で、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使でした。江戸時代後期に訪日し、1858年(安政5年)に日米修好通商条約を締結したことで知られます。敬虔な聖公会信徒で、生涯独身でした。

    タウンゼント・ハリス(1804~1878年)の銅像です。彼は、アメリカ合衆国の外交官で、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使でした。江戸時代後期に訪日し、1858年(安政5年)に日米修好通商条約を締結したことで知られます。敬虔な聖公会信徒で、生涯独身でした。

  • ハリス像のズームアップ光景です。嘉永7年(1854年)、日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースからハリスは初代駐日領事に任命されました。

    イチオシ

    ハリス像のズームアップ光景です。嘉永7年(1854年)、日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースからハリスは初代駐日領事に任命されました。

  • ハリス像と対で建っていた、堀田正睦(1810~1864年)像です。堀田正睦(まさよし)は、下総佐倉藩の第5代藩主で、江戸末期の老中首座の職を務めた人です。幕末において、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派でした。正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図し、入京し条約勅許に尽力しましたが、中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行った『廷臣八十八卿列参事件』など、攘夷派の抵抗に逢い、孝明天皇も勅許を拒否しました。また、当時の幕閣では、水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、ハリスの江戸出府は留保されました。

    ハリス像と対で建っていた、堀田正睦(1810~1864年)像です。堀田正睦(まさよし)は、下総佐倉藩の第5代藩主で、江戸末期の老中首座の職を務めた人です。幕末において、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派でした。正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図し、入京し条約勅許に尽力しましたが、中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行った『廷臣八十八卿列参事件』など、攘夷派の抵抗に逢い、孝明天皇も勅許を拒否しました。また、当時の幕閣では、水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、ハリスの江戸出府は留保されました。

  • 堀田正睦像のズームアップ光景です。日米修好通商条約は、江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には『源家茂』として当時の14代将軍徳川家茂の署名がされています。家茂(いえもち)は、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった人です。 近江彦根藩の第15代藩主の南紀派・井伊直弼(1815~1860年)が1858年に大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めました。いわゆる『安政の大獄(1858~1859年)』です。

    イチオシ

    堀田正睦像のズームアップ光景です。日米修好通商条約は、江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には『源家茂』として当時の14代将軍徳川家茂の署名がされています。家茂(いえもち)は、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった人です。 近江彦根藩の第15代藩主の南紀派・井伊直弼(1815~1860年)が1858年に大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めました。いわゆる『安政の大獄(1858~1859年)』です。

  • 『二の門跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。木造2階造りの本瓦藁きの建物でした。この門の内側が『二の丸』になります。武器庫として使用され、『二の御門』とも呼ばれたことが紹介されていました。

    『二の門跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。木造2階造りの本瓦藁きの建物でした。この門の内側が『二の丸』になります。武器庫として使用され、『二の御門』とも呼ばれたことが紹介されていました。

  • 明治期の著名な俳人で、文芸評論、小説家、写生画家としても活躍した正岡子規(1867~1902年)の句碑の光景です。明治27年(1894年)にこの地で詠んだ『常盤木や冬されまさる城の址』の句が刻まれていました。『城跡だけを残し、常盤木の常緑だけが冬の寒風のなかにある』といった意味でしょうか。 

    明治期の著名な俳人で、文芸評論、小説家、写生画家としても活躍した正岡子規(1867~1902年)の句碑の光景です。明治27年(1894年)にこの地で詠んだ『常盤木や冬されまさる城の址』の句が刻まれていました。『城跡だけを残し、常盤木の常緑だけが冬の寒風のなかにある』といった意味でしょうか。 

  • 『常盤木や冬されまさる城の址』のタイトルがあった、正岡子規の句碑の解説版です。子規は、明治時代初期の洋画家の先駆者・浅井忠や、著名な鋳金工芸家の香取秀真とも親交があったことが紹介されていました。

    『常盤木や冬されまさる城の址』のタイトルがあった、正岡子規の句碑の解説版です。子規は、明治時代初期の洋画家の先駆者・浅井忠や、著名な鋳金工芸家の香取秀真とも親交があったことが紹介されていました。

  • 『一の門跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。直線上にあった『二の門』と同じく、木造2階造りの本瓦藁きの建物と紹介されていました。外側が『二の丸』、内側が『本丸』となる場所にあった門です。

    『一の門跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。直線上にあった『二の門』と同じく、木造2階造りの本瓦藁きの建物と紹介されていました。外側が『二の丸』、内側が『本丸』となる場所にあった門です。

  • 『土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。パネルの後方に見える小高い部分が土塁跡です。本丸跡を取り囲むように土塁が残されていました。

    『土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。パネルの後方に見える小高い部分が土塁跡です。本丸跡を取り囲むように土塁が残されていました。

  • 同じく、本丸跡を取り囲む土塁の光景です。桜城の縄張りの特徴は、石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていました。

    同じく、本丸跡を取り囲む土塁の光景です。桜城の縄張りの特徴は、石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていました。

  • 佐倉城址の広大な本丸跡の光景です。本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭が良好な状態で残されています。今回見学する時間がありませんでしたが、水堀に守られた西出丸、南出丸なども残されています。

    イチオシ

    佐倉城址の広大な本丸跡の光景です。本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭が良好な状態で残されています。今回見学する時間がありませんでしたが、水堀に守られた西出丸、南出丸なども残されています。

  • かなりの規模を持った、本丸跡の土塁のズームアップ光景です。佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を積んで築城した平山城です。

    かなりの規模を持った、本丸跡の土塁のズームアップ光景です。佐倉城は、印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を積んで築城した平山城です。

  • 本丸跡の土塁跡に登る階段の光景です。直線ではなく、緩やかなカーブを描いて頂上に向かっていました。土塁の上には登りませんでしたが、武者走りが設けられていたかも知れません。

    本丸跡の土塁跡に登る階段の光景です。直線ではなく、緩やかなカーブを描いて頂上に向かっていました。土塁の上には登りませんでしたが、武者走りが設けられていたかも知れません。

  • ここからは、桜城の見学を終えて、歩いてJR佐倉駅に向かう途中の光景です。事前に調べた情報では、バスはなく、2~3キロの道を歩く以外にはないようでした。

    ここからは、桜城の見学を終えて、歩いてJR佐倉駅に向かう途中の光景です。事前に調べた情報では、バスはなく、2~3キロの道を歩く以外にはないようでした。

  • 『佐倉城址公園』内の散策路の光景です。舗装した幅広の道路が整備されていました。道の両脇の木立の木漏れ日が程よく散策路に届いていました。この辺りは『二の丸跡』になるようです。

    『佐倉城址公園』内の散策路の光景です。舗装した幅広の道路が整備されていました。道の両脇の木立の木漏れ日が程よく散策路に届いていました。この辺りは『二の丸跡』になるようです。

  • 往きにも目にした、『出丸跡』への分岐点になる場所にあった道案内看板です。右が先ほど見学した『本丸跡』、左が今向かっている、『くらしの植物苑』と『自由広場』の方面になります。

    往きにも目にした、『出丸跡』への分岐点になる場所にあった道案内看板です。右が先ほど見学した『本丸跡』、左が今向かっている、『くらしの植物苑』と『自由広場』の方面になります。

  • 目に優しい緑が続く、散策路脇の光景です。佐倉城は、戦国時代の中頃、千葉氏の一族の鹿島幹胤(かしま・みきたね)によって初めて築かれたと伝えられ、『鹿島山城』とも呼ばれました。

    目に優しい緑が続く、散策路脇の光景です。佐倉城は、戦国時代の中頃、千葉氏の一族の鹿島幹胤(かしま・みきたね)によって初めて築かれたと伝えられ、『鹿島山城』とも呼ばれました。

  • 『三の丸の空堀』が見える場所まで戻って来ました。明治初期に撮影された建物には、一の門、二の門、三の門、大手門、椎木門のほか、解体中の銅櫓などもあります。建物が再建される時には、大切な資料となりそうです。

    『三の丸の空堀』が見える場所まで戻って来ました。明治初期に撮影された建物には、一の門、二の門、三の門、大手門、椎木門のほか、解体中の銅櫓などもあります。建物が再建される時には、大切な資料となりそうです。

  • 往きにも紹介した『三の丸の空堀』の光景です。今は緑に覆われたなだらかな傾斜の窪地ですが、その規模の大きさが想像されました。

    往きにも紹介した『三の丸の空堀』の光景です。今は緑に覆われたなだらかな傾斜の窪地ですが、その規模の大きさが想像されました。

  • 往きにも立ち止まって撮影した、『大手門跡』付近の光景です。『追手門』とも呼ばれ、『惣曲輪の表門』と紹介されていました。明治時代に撮影された写真で、往時の大手門の姿を偲ぶことができます。

    往きにも立ち止まって撮影した、『大手門跡』付近の光景です。『追手門』とも呼ばれ、『惣曲輪の表門』と紹介されていました。明治時代に撮影された写真で、往時の大手門の姿を偲ぶことができます。

  • 往きにチェックポイントとしていた、佐倉市立体育館の白い建物の光景です。この建物の横を通ってJR佐倉駅に向かうポイントになっていました。ただし、このコースを歩いている人の姿は、往きも帰りも目にしませんでした。

    往きにチェックポイントとしていた、佐倉市立体育館の白い建物の光景です。この建物の横を通ってJR佐倉駅に向かうポイントになっていました。ただし、このコースを歩いている人の姿は、往きも帰りも目にしませんでした。

  • 畑のような花壇で咲いていた、秋の七草の一つ、『キキョウ(桔梗)』の花の光景です。キキョウ科キキョウ属の多年生草本植物です。『桔梗紋』は、美濃の山県氏、土岐氏一族が家紋にしていたことから、土岐市の一族の明智光秀も桔梗紋を用いていました。

    畑のような花壇で咲いていた、秋の七草の一つ、『キキョウ(桔梗)』の花の光景です。キキョウ科キキョウ属の多年生草本植物です。『桔梗紋』は、美濃の山県氏、土岐氏一族が家紋にしていたことから、土岐市の一族の明智光秀も桔梗紋を用いていました。

  • 前にも撮影したことがある赤い花を咲かせた植物の光景です。名前も調べた記憶がありますが、直ぐには思い出せませんでした。改めてネット検索しましたら、『ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)』当たりのようでした。

    前にも撮影したことがある赤い花を咲かせた植物の光景です。名前も調べた記憶がありますが、直ぐには思い出せませんでした。改めてネット検索しましたら、『ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)』当たりのようでした。

  • 最近、各地で目にするようになった、『ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)』の花の光景です。アカバナ科マツヨイグサ属の多年生植物になります。黄色の花を咲かせる月見草に似て、なんとなく奥ゆかしさを感じる花です。

    最近、各地で目にするようになった、『ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)』の花の光景です。アカバナ科マツヨイグサ属の多年生植物になります。黄色の花を咲かせる月見草に似て、なんとなく奥ゆかしさを感じる花です。

  • 20分少し歩いて、JR佐倉駅に到着しました。往きと同じように、千葉駅で乗り換えて東京駅に向かいました。今回初めて利用した、ジパングクラブの会員証ですが、佐倉駅で新幹線を含めた名古屋までの発券をしてくれました。<br />

    20分少し歩いて、JR佐倉駅に到着しました。往きと同じように、千葉駅で乗り換えて東京駅に向かいました。今回初めて利用した、ジパングクラブの会員証ですが、佐倉駅で新幹線を含めた名古屋までの発券をしてくれました。

  • JR佐倉駅前に置かれていたブロンズ像の紹介です。朝倉響子作の『マリーとキャシー』の作品です。朝倉響子(1925~2016年)の本名は矜子、『東洋のロダン』と呼ばれた彫刻家の朝倉文夫(1883~1964年)の次女として東京に生まれました。姉は舞台美術家で画家の朝倉摂(1922~2014年)です。<br />

    JR佐倉駅前に置かれていたブロンズ像の紹介です。朝倉響子作の『マリーとキャシー』の作品です。朝倉響子(1925~2016年)の本名は矜子、『東洋のロダン』と呼ばれた彫刻家の朝倉文夫(1883~1964年)の次女として東京に生まれました。姉は舞台美術家で画家の朝倉摂(1922~2014年)です。

36いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP