大垣祭りから、美濃赤坂と岐阜市内の散策(一日目)~総勢13輌の山車はからくり人形あり舞踊ありの多彩な内容。奥の細道結びの地、水門川の景観に水まんじゅうを楽しんで、一転、夜宮の華やかさと露店の多さももう一つの見どころです~
2018/05/12 - 2018/05/12
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たびたびさん
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大垣まつりは、大垣八幡神社の例祭。5月15日に近い土日に行われる春祭り。平成28年には「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録され、日本を代表するお祭りとして国際的にも認知されることとなりました。
始まりは、正保5年(1648年)。時の大垣藩主、戸田氏鉄が城下の八幡神社を再建した際、城下十八郷が神輿三社を寄進。合わせて、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の山車を造って曳き出したというもの。
その後、三代藩主、戸田氏西が、神楽ヤマ、大黒ヤマ、恵比須ヤマの三輌を下賜し、現在の13輌となりました。
さて、お祭りは。。まずは、山車13輌が八幡神社前に次々集まってきて、カラクリ人形あり、女の子の舞踊ありの多彩な奉芸を順番に行います。その後は、それぞれ旧大垣市内を練り歩く。水門川が巡る穏やかな市街は駅前商店街を始め祭り一色に染まります。
一方で、もう一つの見どころは夜宮。同じ奉芸でも提灯に照らされた情緒あふれる雰囲気に加えて、山車をくるくる回転させる激しい動きに桜吹雪が舞う演出など魅せる工夫が随所にありました。参加全部のヤマを一通り見ましたが、これは変化があって見飽きない。昼間の静かな動きからしてもまさに一変する面白さが感じられると思います。
ほか、露店の多さも日本一。これもやっぱり特筆かと思います。
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イチオシ
東京から朝イチの新幹線で名古屋駅着。
大垣祭りの始まりまでには、少し時間があるので。前から気になっていた尾張一宮の散策を加えます。
これは、尾張一宮の駅ビルのアイビルです。図書館が入っていたり、市民にとっては便利な存在ですが、観光の視点でとらえると、やっぱり見どころは外観の斬新さでしょうか。二階の部分に外と繋がる大きな吹き抜けのぶち抜けを設けていて、どうかすると姫路駅のような感じ。一宮のイメージ向上にも貢献しているように思います。 -
一宮駅から歩いて5分といった場所の梅ケ枝公園。鉄道の高架下周辺に整備された都市公園です。鉄筋コンクリートの高架にも華やかな絵があって、線路のようなモニュメントなども鉄道を意識した設定でしょう。
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無駄なくスペースを活用したなという公園です。
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パニーノは、朝早くからやっているサンドイッチの専門店です。
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8時前でしたが、お店にはショーケースいっぱいにサンドイッチがずらりと並んで、もう営業は全開。ミックスをいただいて、街歩きながら食べました。特に特徴はないんですが、種類も多いし、選ぶ楽しみがあるのがいいところかなと思います。
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そして、ここの一番のお目当ては真清田神社。
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イチオシ
尾張国一宮で、そもそも、一宮市はこの神社を中心とした街でしょう。
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一宮駅から歩くと最短でまっすぐいけない。いらいらするような感覚になるのですが、この神社に立つと街の通りはこの神社を起点に作られていることに気が付きます。
かつて、尾張地方を治めた尾張氏の祖神の天火明命が祭神。あくまで尾張に根ざした神社です。 -
境内に建つ服織神社は、真清田神社本殿の隣り。
というのも、服織神社の祭神は、真清田神社の祭神である天火明命(あめのほあかりのみこと)の母神。機織の神様でもあります。最近は機織から七夕→縁結びということにもなってきているよう。詳しい解説板があって、自慢げでした。 -
三八稲荷神社は、真清田神社の境内末社。赤い千本鳥居と幟が賑やかに建っています。
祭神は衣食住の祖神である倉稲魂命。京都の伏見稲荷神社から分霊したと伝わります。境内社にもかかわらず、背後にそれなりの森を控えていて、一見うっそうとした雰囲気があるのも特徴でしょう。
さて、以上。さくっと一宮の散策終了です。 -
さて、一宮が軽く終わったので、岐阜駅の周辺もチェックしますか。明日は岐阜市の予定ですが、天気が崩れる予報。天気のいい今日の日に見ておくべきものもあるんです。
まずは信長ゆめ広場。岐阜駅のすぐ北側。二階の出口を出て、ペデストリアンデッキから降りて行きます。円形の広場で、中央には噴水。奥に黄金の信長像があって、全体を睥睨しています。滑らかなタイル敷きの清潔な広場なので子供たちには気持ちの良い安全な遊び場となっています。 -
イチオシ
これが黄金の織田信長像。文字通り、金色に輝く像なので、すぐにそれと分かります。
像は、岐阜市制120周年を記念して建立されたもの。台座までの高さは約8m。像の高さは約3mで、金箔3層張り。意外にそれほどの威圧感はありませんが、マントを羽織り、右手に鉄砲を持ち、戦国時代の混沌から新しい時代を切り開いた稀有の英雄の姿を表しています。やっぱり、これはお天気じゃないと映えませんよね。 -
杜の架け橋は岐阜駅の二階から出たところから延びるペデストリアンデッキ。岐阜駅から、岐阜シティ・タワー43や問屋街を結びます。夢広場を避けて、少し弧のようにカーブしているのがかっこいい。近代的でシャープな構造です。
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岐阜シティ タワー43は、岐阜駅北側にそびえるランドマーク的な建物。
最上階に展望所があって、エレベーターで上がろうとしたのですが、動くのは御前10時から。まだ動いていなかったので、下から眺めるだけで良しとしました。中はちょっとした喫茶店や売店もありました。 -
岐阜問屋町は、岐阜駅からペデストリアンデッキを北に進めるだけ進んで下に降りた辺りが問屋街。けっこう古びたお店が軒を並べていて、レトロ感がムンムン。しかし、名古屋から岐阜は古くから繊維で栄えた地域。歴史を刻んだ街であることにはやはり相応に敬意を払うべきかなと思います。
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さて、今度は岐阜駅の南口側。清水緑地は、歩いてすぐ。
清水川沿いに整備された公園で、予想以上に緑も濃いし、自然が豊かな印象。川の方から眺めましたが、奥の方も深い感じ。それなりに散策しがいがある本格的な公園のように思いました。 -
サカエパンは、朝早くからやっているんですが、レトロなお店には朝からお客さんがひっきりなし。人気のパン屋さんですね。
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いただいたのは、アンパンですが。トレーに乗せる時にずっしりとした重さが感じられて、そこからしてインパクトあり。ただ、餡子がぎっしり詰まっていても、すいすいお腹に入って行く。そんなうまさがあると思います。
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その並びにある香梅 本店です。
さて、こちらは渋い外観のお店。 -
店内も老舗の雰囲気がしっかりありますね。さっそく鮎菓子をいただきましたが、包装の色使いが華やかで、これは楽しい。「ちょうど焼き立てです」と言われましたが、皮と求肥の一体感が素晴らしい。柔らかな食感とやさしい甘さを楽しみました。
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さて、そろそろ時間ですよね。
最後に岐阜駅で飛騨むすび。
これはまたたくさんの種類のおにぎりですけど、どれにしましょうか。お勧めの一つ、きくらげのおにぎりをいただきました。これはいわゆるお米が立っているというやつですね。期待通り、おいしくいただきました。 -
そして、大垣駅に到着。
これは、アクアウォーク 大垣。大垣駅から少し距離があるのですが、屋根付のペデストリアンデッキで結ばれています。そのアクセス路が割と楽しいので、距離は苦にならない。駅から行き来する人の流れが途切れることがないように思います。
施設は、かなり巨大。入ってすぐのスペースにはベンチもあったりするので、特に用事もない人も含めて、ちょっと休憩したり。なにかと余裕のある施設です。 -
さて、まずは、大垣八幡神社に向かいます。
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その途中。金蝶園は、大垣駅の南側交差点を西に向かってすぐ。
金蝶園がここにもあるのかと思ったら、これは駅前金蝶園の支店ですね。プレハブ小屋の簡素なお店。 -
ケースを覗くと「みょうがぼち」というのがあって、珍しいのでそれにしてみました。小麦粉のお餅でそら豆の餡子を包んだもの。みょうがの葉でくるんであるので、「みょうがぼち」(ぼちは餅のなまったもの)です。そら豆の餡子はちょっと青臭いけどまああり。お餅のゴワッとした食感と合わせて素朴です。みょうがの葉っぱは見た目は笹みたいでしたが、妙に柔らか。見た目の鮮やかさがいいと思います。
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ほどなく、大垣八幡神社に到着。大垣市の総鎮守で、建武年間に、東大寺の手向山八幡宮を勧請したのが始まり。
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大垣祭りは、この神社の例祭。大垣城城主、戸田氏鉄が再建したのを祝って始まったものです。
境内にはちょろっと露店。 -
鳥居の前では奉芸が始まっていました。
以下、大垣市のホムページから山車の紹介を引用します。
愛宕(あたご)ヤマ 【岐阜町】
愛宕ヤマは別名八幡?ともいいます。上段屋形には祭神・神功皇后を祀り、軍扇・太刀を持ち、男装でお座りになり、神功皇后は身重ながら新羅に出征され、凱旋後、応神天皇を無事出産された話が「古事記」にあり、安産の神として信仰されています。
中段左に武内宿祢、右に狂言師、下段には采を振り先導する麾振り人形を置き、からくり芸は能「弓八幡」を題材とし、老翁が高良の神(武内宿祢の神霊)に変身し、神舞を舞います。神官が箱を開けると二羽の鳩が現れ、豆を拾います。 -
さて、最後のお楽しみはこの豆まき。子供たちが集まってきましたよ~
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豆の袋はこれ。子供ならずともこれなら欲しくなるかわいらしさです。
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菅原(すがわら)ヤマ 【新町】
このやまは、別名「天神やま」とも呼ばれています。濃尾震災で焼失しますたが、大正3年(1914年)に再建され、2年後に曳やまをし、8年後には漆塗を行い、現在に至っています。
やまのからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用ですが、種板を使わないのが特徴で、約2m離れた下から操作する人が筆柱を動かし、一筆で書き上げますが、大変な熟練を要します。
このやまの見送りは、大橋翆石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれている水墨画の「竜」が描かれています。 -
現れたのは菅原道真でしょうか。筆をもって、
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色紙に向かいます。
スイスイっと字が書けました。 -
文字は「大垣まつり」。
お見事です。 -
鯰(なまず)ヤマ 【魚屋町】
このやまは、別名「道外坊やま」とよばれており、慶安元年(1648年)に作られました。からくり芸は、赤い頭巾を冠り、金色の瓢箪を振りかざした老人が、鐘と太鼓の賑やかなお囃子につられて、水上で踊り狂う大鯰を抑えようとするもので、誠に面白いものです。
これは、室町時代の高僧が「泥水の中に住むヌルヌルしたウロコのない鯰を、底の低い丸い瓢箪で押えることができるか」と問い、この問題を画僧の如拙が絵に描いたのが国宝「瓢鮎図」で、これをもとにして作られたのが、鯰やまの鯰押えです。 -
突き出た舞台に進み出た高僧が
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ひょうたんを振りかざしてくるくる回ります。
ナマズを何とかしようと悪戦苦闘の動きです。
ちなみに、国宝「瓢鮎図」は、京都の妙心寺塔頭、退蔵院の所蔵。ここでこんなモチーフになっているとは退蔵院のでも知らないかもしれませんね。 -
玉の井(たまのい)ヤマ 【船町】
このやまは、初めは石曳やまで、大垣城の石垣を積む折、赤坂の金生山で採取した石を運ぶ車を改造し、やまにしたところからこう呼ばれました。
その後、江戸中期に石曳やまに変わって登場したのが、一層中壇の前やまに天女の人形を置き、二層のやまの屋形に彦火火出見命の人形を安置し、その前で赤面竜神人形が舞をするからくりやまでした。
しかし、文化12年(1815年)の大洪水で大破し、後に改造され、現在は少女の躍りを披露する善美を尽くした芸やまに変わり、舞台で子どもによる舞踊を披露し、観客の目を楽しませてくれてます。 -
きれいどころというか、着飾った幼い少女たちが乗った華やかなヤマ。
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奉芸も人が舞うとやっぱり映えますね。
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イチオシ
狭い舞台ですが、華やかに舞い踊ります。
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恵比須(えびす)? 【船町・伝馬町・岐阜町・宮町】
延宝7年(1679年)、戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたって、摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣して祈願したといわれています。
恵比須大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので、塗師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれています。
本楽の夜、夜の行事が全て終了し、各町のやまが曳きわかれした後に、その年の恵比須やま責任町から、次の年の責任町に恵比須神のお頭を渡す儀式(お頭渡し)が、古来と同じ手順で今でも行われています。
このやまは、船町・伝馬町・岐阜町・宮町の4町内が年々交替で曳いています。 -
松竹(しょうちく)ヤマ 【伝馬町】
このやまは、琵琶湖の景勝地である竹生島の弁財天を首座に配することで、別名「弁天やま」と呼ばれています。前に配した童女が、からくりによって舞う中に、人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき、祭り客にふるまいます。
また、松竹やまは前部が躍り舞台となっており、子ども舞踊が演じられ、からくりと舞踊を併用した唯一のやまです。 -
女の子たちは、さっきの玉の井(たまのい)ヤマ よりちょっとお姉さんでしょうか。
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その分、踊りもキレがあるように思います。
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最後のポーズも決まって、無事に奉芸終了。
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最後はお餅をまいて、盛り上がります。
上の方にちらりとからくり人形が見えていますが、こちらは出番はありませんでした。 -
イチオシ
奉芸はまだまだ続きますが、きりがないのでここで市街の散策に移りましょう。
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イチオシ
円通寺は、大垣藩主戸田氏歴代の菩提寺。膳所藩、尼崎藩から大垣藩へと戸田氏が転封するのに従っています。
見どころは、山門。三手先を三段に積んで、これでもかといったコテコテの斗組が見事。これに対して、大きく翼を広げた二重垂木がバランスを取っているので、そこがミソ。けっこう個性的な意匠ですが、違和感もないすばらしい山門です。 -
奥には戸田家の墓所もありました。
ちなみに、戸田氏は三河譜代の家臣。大垣藩主初代、戸田氏鉄は、徳川家康の近習として仕え、大名に取り立てられました。それも大垣藩は10万石。彦根藩を筆頭として、譜代だとベスト10くらいの位置づけですから、けっして軽くはありません。 -
ところで、大垣市の中心部を堀のように囲って流れる水門川。川沿いには並木を伴う遊歩道が整備されていて、旅行者にとってはなかなかの潤いとなっています。かつての水運の名残りをとどめるものですが、今でも大垣の街の景観としては欠かせないもの。この川を意識しないでも、散策をしていると必ずどこかで遭遇します。
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ここから大垣城を中心とする大垣公園へ。
大垣大神宮は、その大垣公園の端っこ。伊勢神宮の分社です。
石の鳥居から拝殿から本殿は規模は小さいですが、確かに伊勢神宮を彷彿とさせるデザイン。ただ、境内は少し荒れた感じも否めない。あまり地元では大事にされていないのかなあという感じです。 -
常葉神社は、その隣り。大垣大神宮と護国神社に挟まれた場所です。
戸田氏の歴代大垣藩藩主を祭神とする神社で、明治時代初期に建てられたもの。藩祖を祀る神社は当時の流行です。
本殿はお寺のような感じ。周囲の芝生との組み合わせがちょっと個性的な印象です。 -
濃飛護國神社は、大垣公園にある三つの神社の中では、一番立派な構えでしょう。
明治2年、旧大垣藩主、戸田氏共が戊辰戦争に参加した大垣藩士の戦死者54名を祀るために創建したのが始まり。両側に並んだ大きな石灯籠に本殿の三つの千鳥破風も印象的です。 -
イチオシ
そして、これが戸田氏鉄公騎馬像。天守閣を仰ぎ見るような場所に建っています。
ちなみに、戸田氏鉄は、先ほど触れましたが、徳川家康の近習として仕えたところから始まって、近江膳所藩主、摂津尼崎藩主から、美濃大垣藩の初代藩主となりました。大坂夏の陣は近江膳所藩主として参戦。騎馬姿はバリバリの戦いの姿。戦いに強い三河武士を想像できる力強さがあると思います。 -
そして、これが大垣城。
この城は、関ヶ原の戦いの際は西軍に属し、石田三成らが入城して西軍の根拠地となります。西軍は関ヶ原の戦いで敗北すると、東軍に攻囲されて落城。江戸時代に入って、譜代大名の石川氏を入れますが、程なく、戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となりました。
内部の資料は徳川家康が関が原の戦いまで陰謀の限りを尽くして天下を奪ったといった視点が随所にあって、西軍びいきの解説が面白い。関ヶ原の戦いの前哨戦、「杭瀬川の戦い」での島左近の活躍なども興味深い内容です。 -
大垣公園は、大垣城の旧本丸、二の丸を整備した公園なので、大垣城の付けたしのように思っていましたが、改めて、芝生の公園を眺めるととても美しくて、この公園自体がなかなかの見応え。この日も家族連れなどが大勢いて、賑わっていました。
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今度は市役所の方に移動して。
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ここでも皆さんに芸能披露。
いい天気で、本当にお祭り日和です。 -
市役所から奥のほそ道むすびの地に進んで、これは秋葉神社。市街になにげなく建つ神社です。
秋葉神社はあちこちにあって珍しい神社ではないのですが、ここの特徴を敢えて言えば、横長の境内だということ。鳥居から入って通りに沿って右奥が本殿ですが、通りに向かって建っているので、結局通りからの方が正面。奥に入った割にあまり報われない感があるかもしれません。 -
船町道標は、高さ2mの円柱形の石。文政年間に大垣城下京口御門の南の美濃路沿いに建立されたもの。「左 江戸道」「右 京みち」の文字が深く彫られていて、今でも鮮明。ちょっと梵字みたいなマークが入っているのは旅人の安全を願う気持ちなのかなと思います。
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再び、水門川に遭遇して。
これは四季の広場。この辺りは、もう奥の細道むすびの地のエリアです。水門川がクランクに曲がるところにちょっとしたベンチがあったりするスペースなんですが、水門川沿いの散策路はどこもそれなりに雰囲気がある。ここだけが特別といった感じはしないように思います。 -
すぐそばの全昌寺は、大垣藩初代藩主、戸田氏鉄の室、大誓院が叔父の戸田甚五郎の菩提を弔うため創建したもの。竜宮城のような山門が特徴的です。
しかし、境内に入ると最近建ったような小さな本堂。風情がほとんどないのには参りました。 -
ここは、船町公園。ただ、船町公園というよりも、「松尾芭蕉の奥の細道結びの地」または、「住吉灯台と船町港跡」といった方が分かりやすいかも。水門川の水運で栄えた大垣の風情を留める一角を公園として整備したもの。川の両側に植えられた桜並木も川を覆うように立派になっていて、だんだん風格が増してきているように思います。
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これは船町港跡。
水門川にはかつての木の船が係留されていますが、それに加えて住吉燈台も復元されています。地味は地味ですが、芭蕉の奥の細道に関係しているので国指定名勝となっています。 -
住吉燈台の隣りに建つの住吉神社。
住吉神社は水運とか水に関係する神社。ここにあるのはまったく違和感はありません。石の囲いの中に建つのですが、住吉燈台に背を向けていること、松が全体を覆っていることなどから、あんまりここに注目する人はいないかもしれません。 -
これは、奥の細道むすびの地記念館。元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が5か月に渡る奥の細道の旅を終えた場所に建っています。入場は無料で、展示室は一室ですが、大垣と芭蕉の縁についてかなり詳しく解説されています。
俳友・谷木因を訪ねた芭蕉一行の姿など。芭蕉は大垣を4度訪ねていまして、初めて大垣を訪れたのは、芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」の途中。奥の細道では3度目です。当時の大垣は、河川を利用した舟運が盛んな大垣藩十万石の城下町。また、東海道と中山道を結ぶ美濃路の宿場町でもありました。城主戸田公の文教奨励や谷木因の指導の下、俳諧が盛んだったことから、縁が深まったようです。 -
売店があって、プレミアム大垣みそアイスをいただきました。キャラメルみたいな味がするかもしれませんと言われましたが、これは味噌の味そのものでしょう。素直に味噌の味がよく出ていると思います。ただ、味噌って大垣の名物なんでしょうか。そこのところはちょっと曖昧です。
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西公園は、大垣の観光エリアからはかなり離れているので、観光客にとっては正直無縁の公園でしょう。私も冷やかしみたいな気持ちで訪ねたのですが、芝生の美しい広場の周囲には立派な藤棚が整備されているし、
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蛍の生息するせせらぎもある。よく分かりませんが、妙に手が入れられた公園でした。
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市街中心部に戻って。
これは、守屋多々志美術館。大垣市出身の日本画家で、文化勲章も受賞した守屋多々志の作品を所蔵展示する美術館です。
企画展「花の宛」を拝見しましたが、平安の雅な香りがする作品は特徴がないようでいて、その雅に徹しているのがまたすごいところ。日本人のあこがれも含めた美意識の根底にあるものを見事に表現しているような気がして、楽しく拝見させてもらいました。 -
大手いこ井の泉広場は、大垣駅前商店街の端っこ。大垣市内には湧水がいくつかありますが、ここが一番水の出に勢いがあるし、手ごろな場所でもあるかと思います。通りから一段低い場所ですが、十分なスペースもあるし、子供なら水遊びもできそうな感じ。ひしゃくがいくつか置いてあって、私もすくって水をいただきました。
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その隣りに建つ金蝶園総本店。ここは、大垣の駅前通りの一番奥といった場所です。
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この時期は何んといっても水まんじゅうが名物です。カキ氷の上に水まんじゅうを乗っけてもらって、これは涼しげ。よく冷えた水まんじゅうのプルンプルンを楽しみます。爽やかな甘さと一定の粘りもあるので、それが特徴かなと思います。
とにかく、大垣にこの時期に来てこれを食べないでは話になりません。 -
商店街の前の通りは歩行者天国になっていて、ヤマが巡行中。
布袋(ほてい)? 【中町】
中町の布袋やまは、古来謡曲「加茂」にちなんだやまとして、とりわけ謡の声が良く、また、やまの設備も立派です。
唐子人形が右手に扇を持って舞いつつ、やま上に向かって右先の隅にある台に近づきます。それから、台上に左手をつき、片手で逆立ちをし、右手の扇を開いて転舞する仕掛けです。離れからくりは、この布袋やまだけです。
明治24年に濃尾大震災で焼失しましたが、その後、明治35年に再建されました。昭和20年の空襲により再び焼失しましたが、平成24年に再建されました。 -
ゆっくりゆっくり
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進んで行きます。
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愛宕(あたご)ヤマ 【岐阜町】は
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こちらも表だけじゃなくて、
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裏側も華やかです。
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猩々(しょうじょう)? 【宮町】
名を謡曲「猩々」から取ったものです。やまは二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないといわれています。
からくり芸は、二層のやま上に大床板(トイ)を突出し、先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み、鯨飲すれば酔って紅顔となります。猩々はたちまち獅子に変わり、大酒壺は割れて大輪の牡丹の花が咲き乱れ、獅子はこれにたわむれ舞い狂います。
昭和20年7月、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々やまが、平成13年3月に56年ぶりに見事に再建され、以降、大垣まつりに参加しています。 -
ここらでちょっと、B級グルメの方のチェックへ。
吉田ハムは、大垣駅前通りの中ほど。 -
コロッケの他にカレーパンがあったので、それにしてみました。見た目はカラッとしたおいしそうなカレーパンだったんですが、そこはやっぱり肉屋さんのカレーパン。ちょっと水気が多いのとカレーの辛さにキレがない。ちょっとこれではなあという感じです。
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朝日屋は、駅前商店街から東に少し向かったところ。賑やかなエリアからは外れますが、大垣の手打ちうどんではたぶん一番の人気店。
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メニューはうどんのほかにもラーメンの類も充実しているようでしたが、そこは基本の冷たいうどんを注文。しっかりしたコシのうどんは少し固めかなあと思うギリギリ手前の感じ。一方の出汁がびっくりするくらい素朴な味わい。素材の良さだけで勝負しているようなうどんでした。
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盛田屋も、大垣市街のレトロなうどん屋さん。大垣市内だと朝日屋が一番人気で、ここは少し影に隠れているような位置付けだと思いますが、この店内のレトロ感はちょっと目を見張るものがあります。
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少し不揃いなうどんが手打ちのいい感じ。塩味をベースにした飾らない味わいですが、この飾らない味わいは大垣の特徴のような気がします。
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店の前に三輌ヤマがやってきました。
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イチオシ
恵比須(えびす)ヤマに
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大黒(だいこく)? 【魚屋町・竹島町・俵町】
このやまは、「神楽やま」「恵比須やま」と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものです。上部には、米俵2俵を置き、その上には、右手に小槌を持ち、左肩に稲袋を荷い、七福神のひとつと教えられている福の神の大黒天がふくよかな笑みをたたえ、運慶の作といわれています。
魚屋町・竹島町・俵町の三町内が年々交替で曳き、このやまの当番町にあたると、町内では、大国主命の使獣である鼠は殺さない習慣がありました。 -
からくり人形みたいに動きはありませんが、
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その存在感で勝負です。
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貴船広場は、ここもすぐ脇を水門川が流れる一角です。さほどの広さはありませんが、円形にタイルを敷き詰めた気持ちよさげな空間。これにちょっとした噴水と水門川の意外に勢いのある流れがコラボして、まあまあ見応えのある一角になっています。
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その隣りが貴船神社。大垣藩主、戸田氏鉄が尼崎藩藩主の時、京都の貴船神社から分霊したのが始まり。大垣藩に移封された当時は、大垣城内にあったようです。
入口の門から本殿は簡単な造りですが、赤い統一カラーが存在感を出していると思います。 -
少し移動して。
大垣市内に掘抜井戸発祥の地というのがありました。大垣駅から延びる大通り。後藤医院の向かい側です。
水はちょろちょろ程度ですが今も湧き出ています。しかし、少し濁った感じもあって、飲み水等にはできないでしょう。こんにゃく屋文七なる人物が掘り当てたのだそうです。 -
再び商店街の方に戻ると
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それぞれのヤマでは
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芸能合戦?
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ヤマを止めて
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自慢のからくりを披露します。
相生(あいおい)? 【本町】
このやまは、謡曲「高砂」を題材にしたところから、別名「高砂やま」とも呼ばれ、2度に渡りやまが焼失しましたが、平成8年に51年ぶりに復元され、現在13輌ある中で一番大きなやまです。屋形人形には尉と姥が置かれ、本やま人形は住吉名神、前やま人形は神主友成が置かれています。
高砂にあわせて、住吉名神が袖がえしや面かぶりのからくりを見せながら激しく舞います。対照的に神主友成は、静かな動きをしながら中央まで進み、瞬時に帆掛け舟に変わるからくりは圧巻です。 -
ストーリーはよくわかりませんでしたが、
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イチオシ
最後の花吹雪がすばらしい。
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文句なく、楽しめます。
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浦嶋(うらしま)ヤマ 【俵町】
屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・竜神・亀、前やまは唐子を配置し、謡曲は竜神に関するものを使い、 竜神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れる仕組みです。
勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。
屋形は竜宮上をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他のやまに類似しないのが浦嶋やまの特徴です。さらに後やまには登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。
昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年再建されました。 -
玉の井(たまのい)ヤマは、大垣音頭。
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華やか華やか。いい感じです。
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そして、最後の水まんじゅうはここ餅惣。
前回来た時は、水まんじゅうがない時期だったので、今回は再チャレンジ。お祭りの最中なのでお客さんがごった返していました。 -
さて、ここの水まんじゅうですが、なるほどー。これは天下一品。つるんとした口当たりの水まんじゅうは口どけも抜群。水に少しだけカキ氷が浮かしてあるだけで、金蝶園総本店と比べると見た目はちょっと寂しげだったのですが、それは水まんじゅうと一緒にその水も飲めるようにするため。水を飲みながら食べる水まんじゅう。それがここの水まんじゅうの一番おいしい食べ方なんです。間違いなく、大垣の夏を代表する味わいです。
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さて、ここから夜の部への準備。再び、八幡神社に向かいましょう。
で、八幡神社のそばでやけに人が集まっているなと思ったら、それがすいぎょく園でした。皆さん、名物のグリーンソフト250円がお目当てですね。私もそれをいただきましたが、確かに量は多いのですが、まあ、それだけといえばそれだけ。抹茶のソフトクリームでも牛乳のクリーミーさは必要だと思いますが、それがほとんど感じられない。大垣では、複雑系は敬遠されるんでしょうか。こんな単純な味が受けるというのはちょっと違和感ありです。 -
八幡神社の前で場所を確保して、準備万端。夜のヤマを待ち構えます。
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日が暮れて、待機したヤマにも灯がともりました。
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いよいよ始まりましたね。ヤマがやってきます。
八幡神社の鳥居の前の広場で、ここから参加全13両のヤマのパーフォーマンスが順次行われるんですが、さてさて、どのようなことになりますやら。。 -
まずは、神楽(かぐら)ヤマ 【本町・中町・新町】
このやまは、別名「御払やま」とも「市やま」ともいい、本町・中町・新町の三町内が毎年交替で曳き、常に行列の先頭を行きます。人形神楽としては、350年ほどの歴史を持つ貴重な文化財であり、躍りを舞う二体の人形は、巫女と山伏のニ体からなっており、舞台の下から人が直接棒で操る大変珍しいものです。
巫女は鈴を鳴らしながら、静かに祈祷や清めの舞を行い、山伏が両手に熊笹を持ち、湯桶の湯の花を撒き散らして、湯立ての清めを行います。この時に湯の花を撒き散らす紙ふぶきは清めや病魔退散の意味があるとされています。
人形の巫女の名は昔、大垣の八幡神社に市とよばれる美しい巫女がいたことから、市と呼ばれています。 -
激しく回転しながら、いきなり紙ふぶきをまき散らし始めました。
紙ふぶきは夜の明かりに照らされて、これはなかなかの見応えです。 -
囲いの中の人形はほとんど見えなくて、なんかやっているなという雰囲気くらい。しかし、まあ、それでも問題はないでしょう。
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布袋(ほてい)ヤマ 【中町】
中町の布袋?は、古来謡曲「加茂」にちなんだ?として、とりわけ謡の声が良く、また、ヤマの設備も立派です。
唐子人形が右手に扇を持って舞いつつ、ヤマ上に向かって右先の隅にある台に近づきます。それから、台上に左手をつき、片手で逆立ちをし、右手の扇を開いて転舞する仕掛けです。離れからくりは、この布袋ヤマだけです。
明治24年に濃尾大震災で焼失しましたが、その後、明治35年に再建されました。昭和20年の空襲により再び焼失しましたが、平成24年に再建されました。 -
二人の唐子人形の奥にはにこやかな笑顔の布袋様が見えていますね。
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ただ、ここではとにかく回る、回る。
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それと同時にシーソーみたいに前後にギッコン、バッタン。激しい動きですよ~
そして、気が付くとこれも紙ふぶきを振りまいています。 -
紙ふぶきは、神楽ヤマの専売特許ではないんですね。
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夜の闇に浮かんで
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鮮やかなパーフォーマンスです。
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今度は、猩々(しょうじょう)ヤマ【宮町】
名を謡曲「猩々」から取ったものです。ヤマは二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないといわれています。
からくり芸は、二層のヤマ上に大床板(トイ)を突出し、先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み、鯨飲すれば酔って紅顔となります。猩々はたちまち獅子に変わり、大酒壺は割れて大輪の牡丹の花が咲き乱れ、獅子はこれにたわむれ舞い狂います。
昭和20年7月、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々?が、平成13年3月に56年ぶりに白木で復元され、以降、漆塗り・金具・彫刻が施されました。 -
ちょっと分かりにくいですが、ヤマからせり出した細い舞台の上には猩々。
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大酒壺に顔を突っ込んで酒を飲むさまが演じられています。
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ただ、このヤマも動きは激しい。
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くるくる回って、回って。
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もう担ぎ手はフラフラになるくらいじゃないのかなあ。
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ただ、提灯は電気なので、そっちの方はこれだけ振っても大丈夫なんでしょう。
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とにかく、これも勢いで魅せるヤマでした。
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愛宕(あたご)ヤマ 【岐阜町】
愛宕ヤマは別名八幡ヤマともいいます。上段屋形には祭神・神功皇后を祀り、軍扇・太刀を持ち、男装でお座りになり、神功皇后は身重ながら新羅に出征され、凱旋後、応神天皇を無事出産された話が「古事記」にあり、安産の神として信仰されています。
中段左に武内宿祢、右に狂言師、下段には采を振り先導する麾振り人形を置き、からくり芸は能「弓八幡」を題材とし、老翁が高良の神(武内宿祢の神霊)に変身し、神舞を舞います。神官が箱を開けると二羽の鳩が現れ、豆を拾います。 -
正面に二つの人形が見えましたが、このヤマも細かいところまでは見えません。
回って回って。振って振ってのパーフォーマンスです。 -
榊(さかき)ヤマ【竹島町】
竹島町のヤマは、明治以前には朝鮮ヤマがあり、御所車様式のヤマを中心に、朝鮮通信使を模した仮装行列で、本来は練り物でした。
しかし、明治維新の神仏分離令などによって廃止され、代わって登場したのが「榊ヤマ」でした。
屋形には、榊と神鏡が飾られており、天鈿女命が榊と鈴を持って、静かに神楽を舞います。天鈿女命が白木台の上の鈴と榊を手に握るところが、このからくり人形の見所です。 -
この提灯は蝋燭ですね。
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やっぱり蝋燭だと全体はしっとりとした印象になります。
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正面に二つの人形が見えていて、これが天鈿女命ですね。
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カラクリは動いていませんが、雰囲気はあるでしょう。
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相生(あいおい)ヤマ 【本町】
このヤマは、謡曲「高砂」を題材にしたところから、別名「高砂ヤマ」とも呼ばれ、2度に渡りヤマが焼失しましたが、平成8年に51年ぶりに復元され、現在13輌ある中で一番大きなヤマです。屋形人形には尉と姥が置かれ、本ヤマ人形は住吉明神、前ヤマ人形は神主友成が置かれています。
謡曲「高砂」の四海波に合わせ阿蘇の神主友成は、静かに舞いながら中央に進み、謡曲高砂が始まると瞬時に帆掛け舟に変わる場面は見どころの一つです。次に後ろに控える住吉明神のからくり芸が始まり、「袖返し」や「面かぶり」を見せる威風堂々とした姿と町衆の演奏する祭囃子「神舞」は迫力があります。 -
さて、このヤマもくるくる回りだしました。
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と、こちらも紙ふぶきですか。
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このヤマの人形が大きくて目立つので、紙ふぶきも迫力がありますね。
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とっても鮮やかですよ~
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鯰(なまず)ヤマ 【魚屋町】
このヤマは、1658年に名を「鯰ヤマ」と改めて以降、長い歴史を一貫して鯰押えで通しています。からくり芸は、赤い頭巾を冠り、金色の瓢箪を振りかざした老人が、鐘と太鼓の賑やかなお囃子につられて、水上で踊り狂う大鯰を抑えようとするもので、誠に面白いものです。
これは、室町時代の高僧が「泥水の中に住むヌルヌルしたウロコのない鯰を、底の低い丸い瓢箪で押えることができるか」と問い、この問題を画僧の如拙が絵に描いたのが国宝「瓢鮎図」で、これをもとにして作られたのが、鯰ヤマの鯰押えです。 -
細い舞台の上に乗った老人の人形。
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なんとなくいるなの感じしかありませんが、
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これもくるくる回って、
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無事終了。
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大黒(だいこく)ヤマ 【魚屋町・竹島町・俵町】
この?は、「神楽ヤマ」「恵比須ヤマ」と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものです。上部には、米俵2俵を置き、その上には、右手に小槌を持ち、左肩に稲袋を荷い、七福神のひとつと教えられている福の神の大黒天がふくよかな笑みをたたえているといわれています。
魚屋町・竹島町・俵町の三町内が年々交替で曳き、この?の当番町にあたると、町内では、大国主命の使獣である鼠は殺さない習慣がありました。 -
小さいので引き手もわずか。それでも思い切り動かしていますねえ。
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藩主からの拝領ヤマですから、小さくても格式はある。誇りを持ったパーフォーマンスです。
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浦嶋(うらしま)ヤマ 【俵町】
屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・竜神・亀、前ヤマは唐子を配置し、謡曲は竜神に関するものを使い、 竜神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れる仕組みです。
勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。
屋形は竜宮上をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他の?に類似しないのが浦嶋?の特徴です。さらに後ヤマには登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。
昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年再建されました。 -
こちらは人形の数が多いですね。
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壁も少ないので、その分、人形がたくさんいるのがよく分かります。
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浦島太郎が中央。その脇に乙姫様の影も見えています。
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玉の井(たまのい)ヤマ 【船町】
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昼間も見たヤマですが、提灯が揺れて、
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夜の華やかさもまた格別ですね。
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中央に止まって
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ひと仕切りの舞を披露。
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全員で踊るとまたいっそう素晴らしい。まさにこの時のために練習を重ねてきたということでしょう。
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菅原(すがわら)ヤマ 【新町】
この?は、別名「天神ヤマ」とも呼ばれています。濃尾震災で焼失しましたが、大正3年(1914)に再建され、2年後に曳?をし、8年後には漆塗を行い、現在に至っています。
ヤマのからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用ですが、種板を使わないのが特徴で、約2m離れた下から操作する人が筆柱を動かし、一筆で書き上げますが、大変な熟練を要します。
この?の見送りは、大橋翆石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれている水墨画の「竜」が描かれています。 -
これは昼間見た字を書くカラクリ。
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今度は、菅原ヤマと書きました。お見事。
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そして、このヤマもくるくる回って、ギッコンバッタン。
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はい、お疲れ様でした。
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恵比須(えびす)ヤマ 【船町・伝馬町・岐阜町・宮町】
延宝7年(1679)、戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたって、摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣して祈願したといわれています。
恵比須大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので、塗師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれています。
本楽の夜、夜の行事が全て終了し、各町の?が曳きわかれした後に、その年の恵比須?責任町から、次の年の責任町に恵比須神のお頭を渡す儀式(お頭渡し)が、古来と同じ手順で今でも行われています。
このヤマは、船町・伝馬町・岐阜町・宮町の4町内が年々交替で曳いています。 -
これも拝領ヤマ。
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激しいようでも、やっぱり慎重に操ります。
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松竹(しょうちく)ヤマ 【伝馬町】
このヤマは、琵琶湖の景勝地である竹生島の弁財天を首座に配することで、別名「弁天ヤマ」と呼ばれています。前に配した童女が、からくりによって舞う中に、人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき、祭り客にふるまいます。
また、松竹?は前部が踊り舞台となっており、子ども舞踊が演じられ、からくりと舞踊を併用した唯一のヤマです。 -
これは最後のヤマですね。舞台が広いし、金地に漆の黒が渋い華やかさを放って
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トリを勤めるには打ってつけ。
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イチオシ
女の子の舞も堂々としていて、
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見ていても安心感がありますね。
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ポーズが決まって、はいOK。
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そして、最後は全員の総踊り。
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がんばれ~
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大垣市制100周年を祝って、
これで無事に締まったようです。 -
広場のパーフォーマンスを終えるとヤマは街の方に巡行します。
これで一巡したわけですが、またもう一度最初から。パーフォーマンスは二巡するということでした。
さて、私はひと通り見たし、これで退散しますか。 -
ところで、なんか露店が多いですねえ。実はこの露店の多さは日本一なのではないかということ。この時期の祭りは全国でもあまりなかったので、露店がここに集中したのがきっかけだそうですが、露店が集まるとまた人でも増えるという好循環が生まれたんだそうです。
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全てはお伝えできませんが、延々と続く露店の通り。露店も多いけど人も多い。
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お互いの相乗関係は今も続いているようです。
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さて、晩飯は、なんか目に留まった東京庵へ。
大垣駅前の商店街の中ほどですが、外観も店内も昔懐かしい昭和の雰囲気がムンムンしています。 -
味噌煮込みうどんをいただきましたが、正直、なんか物足りない。名古屋の味噌煮込みうどんは、妙に高いのですが、たぶんそれはベースの出汁にいろいろ手を加えているから。ここのはそこのところがあんまりなくてあっさり。大垣の他のお店でも、ちょっとそんなところが感じられて、たぶんそんなことがイマイチネットの評価が高くない理由のような気がします。ただ、それはもしかしたら大垣の味。我々旅行者の評価はあてにはなりません。
これで、大垣祭りは終了。明日は赤坂宿から岐阜市内を散策します。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ジバゴさん 2020/01/10 15:32:27
- 素晴らしい!
- こんな大作見た事ない。
大変読み応えが有りました。
水饅頭もカラクリもこの目でみたいものです。ただ店全体の雰囲気がしっとり落ち着いた感じで伊勢屋が好ましいような気がします。
いつか両方に行ってみたいなあ。
- たびたびさん からの返信 2020/01/14 11:17:05
- RE: 素晴らしい!
- 日本の三大銘菓は、風流堂の山川(島根県松江市)、森八の長生殿(石川県金沢市)、大和屋の越乃雪(新潟県長岡市)。しかし、お菓子はその土地土地の歴史や文化を反映しているようなところがあって、地域を理解するためには大きなテーマなんですよね。まあ、当たりはずれは当然ありますけど、丹念に回らないと結局はいいものに出会わない。しつこく回っているので、ちょっとめんどくさい旅行記になっているかもしれませんけどね・・
たびたび
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