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興禅寺(こうぜんじ、兵庫県丹波市春日町黒井)はJR福知山線黒井駅から徒歩約12分で黒井城登城口の東側にあり、戦国時代には黒井城主であった黒井直正(くろい・なおまさ、1529~1578)の下館(しもやかた)でした。<br /><br />下館というのは平時は城主の居館で政治を行う場所ですが、丹波平定の一環として明智光秀が黒井城を攻略、制圧後は重臣の斎藤利三(さいとう・としみつ、1534~1582)が1万石を以て当地に入り下館を陣屋に改め西丹波を支配しました。<br /><br /><br />興禅寺で入手したパンフレットには斎藤利三の娘であるお福(後の春日局)にも言及していると共に背後の猪ノ口山に築城された黒井についても記載されています。<br /><br /><br />「 黒 井 城 跡<br /><br />満々と水をたたえた七間濠・高石垣と白いねり塀で囲まれた興禅寺は、戦国時代の居館の様子を今によく残しています。<br /><br />背後にそびえる黒井城跡は南北朝時代の建武2年(1335),春日部荘を領した赤松筑前守貞範(赤松円心の二男)が山頂に簡素な城を築いたことから、その歴史がはじまるといわれています。<br /><br />それから約200年の後、戦国時代に入った天文23年(1554)、あらたに城主となった萩野(赤井)悪右衛門直正はその勢威を丹波一円に広げると共に、黒井城の大改修を行い、規模雄大な戦国の城を築き上げました。<br /><br />その遺構は、戦国時代の山城の様子をそのまま残しているとして大変高い評価を受け、国の指定史跡となっています。<br /><br />斎藤内蔵助利三黒井城に入る<br /><br />天正3年(1575)、天下布武をねらう織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じましたが、丹波国人衆の抵抗は激しく、中でも最後までこれに抵抗したのは、多紀郡(現篠山市)の八上城主波多野秀治と黒井城主の萩野(赤井)悪右衛門直正でした。<br /><br />天正7年6月、明智の大軍の前にまず八上城が落ち、続いて8月、すでに前年、城主の悪右衛門直正を病気で失っていた黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりを告げました。<br /><br />その戦後処理のために黒井城に入ったのが、明智光秀配下の名将とうたわれた斎藤内蔵助利三です。<br /><br />利三は、黒井城の下館(現興禅寺)を陣屋として西丹波一円の治安に当るとともに、領民をいつくしみ善政をしきました。現在、北の城下にあたる白毫寺には、利三が門前城下中に宛てた軍役用捨の書状が残っていて、その一端をうかがうことができます。<br /><br />利三は、新たに主君明智光秀の居城となった亀山城(現京都府亀岡市)と往来を重ねながら、天正九年の終りまで足かけ三年、この地に住みました。<br /><br />地元ではこの陣屋(現興禅寺)を斎藤屋敷と呼び、すぐ下を通る道を陣屋町、近くにある四つ辻を札場(各種の高札を立てる場所)と伝承しています。」<br />

丹波春日 丹波経略の一環として赤井氏滅亡後の黒井城を城代として支配した明智光秀重臣で春日局実父斎藤利三居館の『下館』訪問

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2017/03/18 - 2017/03/18

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滝山氏照

滝山氏照さん

興禅寺(こうぜんじ、兵庫県丹波市春日町黒井)はJR福知山線黒井駅から徒歩約12分で黒井城登城口の東側にあり、戦国時代には黒井城主であった黒井直正(くろい・なおまさ、1529~1578)の下館(しもやかた)でした。

下館というのは平時は城主の居館で政治を行う場所ですが、丹波平定の一環として明智光秀が黒井城を攻略、制圧後は重臣の斎藤利三(さいとう・としみつ、1534~1582)が1万石を以て当地に入り下館を陣屋に改め西丹波を支配しました。


興禅寺で入手したパンフレットには斎藤利三の娘であるお福(後の春日局)にも言及していると共に背後の猪ノ口山に築城された黒井についても記載されています。


「 黒 井 城 跡

満々と水をたたえた七間濠・高石垣と白いねり塀で囲まれた興禅寺は、戦国時代の居館の様子を今によく残しています。

背後にそびえる黒井城跡は南北朝時代の建武2年(1335),春日部荘を領した赤松筑前守貞範(赤松円心の二男)が山頂に簡素な城を築いたことから、その歴史がはじまるといわれています。

それから約200年の後、戦国時代に入った天文23年(1554)、あらたに城主となった萩野(赤井)悪右衛門直正はその勢威を丹波一円に広げると共に、黒井城の大改修を行い、規模雄大な戦国の城を築き上げました。

その遺構は、戦国時代の山城の様子をそのまま残しているとして大変高い評価を受け、国の指定史跡となっています。

斎藤内蔵助利三黒井城に入る

天正3年(1575)、天下布武をねらう織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じましたが、丹波国人衆の抵抗は激しく、中でも最後までこれに抵抗したのは、多紀郡(現篠山市)の八上城主波多野秀治と黒井城主の萩野(赤井)悪右衛門直正でした。

天正7年6月、明智の大軍の前にまず八上城が落ち、続いて8月、すでに前年、城主の悪右衛門直正を病気で失っていた黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりを告げました。

その戦後処理のために黒井城に入ったのが、明智光秀配下の名将とうたわれた斎藤内蔵助利三です。

利三は、黒井城の下館(現興禅寺)を陣屋として西丹波一円の治安に当るとともに、領民をいつくしみ善政をしきました。現在、北の城下にあたる白毫寺には、利三が門前城下中に宛てた軍役用捨の書状が残っていて、その一端をうかがうことができます。

利三は、新たに主君明智光秀の居城となった亀山城(現京都府亀岡市)と往来を重ねながら、天正九年の終りまで足かけ三年、この地に住みました。

地元ではこの陣屋(現興禅寺)を斎藤屋敷と呼び、すぐ下を通る道を陣屋町、近くにある四つ辻を札場(各種の高札を立てる場所)と伝承しています。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 黒井城モニュメント<br /><br />JR黒井駅前には黒井城モニュメントとして石垣が積まれています。

    黒井城モニュメント

    JR黒井駅前には黒井城モニュメントとして石垣が積まれています。

  • お福(後の春日局)立像<br /><br />黒井城を攻略した明智光秀部下の斎藤利三を父に持つお福(後の春日局)生地として駅前にその立像が建てられています。

    お福(後の春日局)立像

    黒井城を攻略した明智光秀部下の斎藤利三を父に持つお福(後の春日局)生地として駅前にその立像が建てられています。

  • お福(春日局)の像説明石碑

    お福(春日局)の像説明石碑

  • 黒井城跡遠景<br /><br />猪ノ口山山頂に切削された本丸を主とする曲輪と登城道途中には「石踏の段跡」の赤い山門がおぼろげながら見ることができます。

    黒井城跡遠景

    猪ノ口山山頂に切削された本丸を主とする曲輪と登城道途中には「石踏の段跡」の赤い山門がおぼろげながら見ることができます。

  • 黒井小学校

    黒井小学校

  • 黒井城登山口方向<br /><br />黒井城へは黒井小学校の脇の道を奥に入っていきます。

    黒井城登山口方向

    黒井城へは黒井小学校の脇の道を奥に入っていきます。

  • 春日局生誕の地ポスタ-<br /><br />三代将軍徳川家光の乳母として有名な「春日局(かすがのつぼね)」は幼名をお福といい、「春日局」は当地春日の地で生まれたことに由来しています。

    春日局生誕の地ポスタ-

    三代将軍徳川家光の乳母として有名な「春日局(かすがのつぼね)」は幼名をお福といい、「春日局」は当地春日の地で生まれたことに由来しています。

  • 興禅寺惣門<br /><br />寺域の南端に配された惣門は寛永3年、興禅寺となって当地に移った時に、黒井城の門材を使用して建てたものと言われています。

    興禅寺惣門

    寺域の南端に配された惣門は寛永3年、興禅寺となって当地に移った時に、黒井城の門材を使用して建てたものと言われています。

  • 興禅寺全景<br /><br />今でこそ寺院ですがかつては黒井城城主が居館として使用した地所で、満々と水をたたえた長さ約80mの水堀(七間堀)と約5mの高石垣(一部野面積み)の景観は黒井城の館であったことを如実に現しています。

    興禅寺全景

    今でこそ寺院ですがかつては黒井城城主が居館として使用した地所で、満々と水をたたえた長さ約80mの水堀(七間堀)と約5mの高石垣(一部野面積み)の景観は黒井城の館であったことを如実に現しています。

  • 興禅寺山門(桜門)<br /><br />

    興禅寺山門(桜門)

  • 春日の局出生地の碑<br /><br />七間堀に面して、山門前にその石碑が建てられています。春日局(お福)はここ下館(平時に住んだ館)で生まれ3歳まで過ごしていました。

    春日の局出生地の碑

    七間堀に面して、山門前にその石碑が建てられています。春日局(お福)はここ下館(平時に住んだ館)で生まれ3歳まで過ごしていました。

  • 興禅寺本堂

    興禅寺本堂

  • 興禅寺扁額

    興禅寺扁額

  • 興禅寺境内<br /><br />本堂から山門方向を一望します。

    興禅寺境内

    本堂から山門方向を一望します。

  • 興禅寺客殿と庭園

    興禅寺客殿と庭園

  • 興禅寺本堂と庭園<br /><br />近衛信伊(このえ・のぶただ)が当地に逗留した際、自ら設計・指導して造らせた庭園と言われています。一部手を加えられていますが優雅な風景は当時を偲ばせます。

    興禅寺本堂と庭園

    近衛信伊(このえ・のぶただ)が当地に逗留した際、自ら設計・指導して造らせた庭園と言われています。一部手を加えられていますが優雅な風景は当時を偲ばせます。

  • 興禅寺鐘楼<br /><br />黒井城落城後逃れた直正の子直義は後に伊賀上野藤堂氏に仕えますが、寛永年間に先祖供養のためこの鐘楼を建て、梵鐘を寄進しました。現在の鐘楼は大正2年に改築されたものですが創築当時の状態を見事に再現しています。

    興禅寺鐘楼

    黒井城落城後逃れた直正の子直義は後に伊賀上野藤堂氏に仕えますが、寛永年間に先祖供養のためこの鐘楼を建て、梵鐘を寄進しました。現在の鐘楼は大正2年に改築されたものですが創築当時の状態を見事に再現しています。

  • 興禅寺山門の石橋<br /><br />山門から七間堀を繋ぐ石橋を眺めながら渡ります。

    興禅寺山門の石橋

    山門から七間堀を繋ぐ石橋を眺めながら渡ります。

  • 「春日局生誕地(興禅寺)案内」説明板<br /><br />下記の通り記されています。<br /><br />「興禅寺は、山号を大梅山といい漕洞宗の別格地で、本尊には仏師春日の作・釈迦如来を祀り、七堂伽藍がよきうととのった名刹です。<br /><br />戦国時代、この寺域一帯は、背後の山城黒井城(国指定史跡)の下館(しもやかた)でしたが、天正7年8月、明井光秀の丹波攻めで落城。その戦後処理と西丹波一円の統治のため、ここに入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三(としぞう)です。今でも斎藤屋敷の伝承が残り、水濠と高石垣、白のねり塀のたたずまいは、往時の景観をよく残していて国の史跡の一部をとなっています。<br /><br />この年の暮、母お安(あん)との間に生まれたのがお福(後の春日局)で、寺内にはお福の「産湯の井戸」や「腰かけ石」など残り、幼い日の春日局をしのぶことができます。」<br />

    「春日局生誕地(興禅寺)案内」説明板

    下記の通り記されています。

    「興禅寺は、山号を大梅山といい漕洞宗の別格地で、本尊には仏師春日の作・釈迦如来を祀り、七堂伽藍がよきうととのった名刹です。

    戦国時代、この寺域一帯は、背後の山城黒井城(国指定史跡)の下館(しもやかた)でしたが、天正7年8月、明井光秀の丹波攻めで落城。その戦後処理と西丹波一円の統治のため、ここに入ったのが光秀の重臣斎藤内蔵助利三(としぞう)です。今でも斎藤屋敷の伝承が残り、水濠と高石垣、白のねり塀のたたずまいは、往時の景観をよく残していて国の史跡の一部をとなっています。

    この年の暮、母お安(あん)との間に生まれたのがお福(後の春日局)で、寺内にはお福の「産湯の井戸」や「腰かけ石」など残り、幼い日の春日局をしのぶことができます。」

  • 興禅寺見取図

    興禅寺見取図

  • 春日局庵

    春日局庵

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