2017/03/18 - 2017/03/18
248位(同エリア367件中)
滝山氏照さん
篠山城(ささやまじょう、兵庫県篠山市北新町)は慶長14年(1609)征夷大将軍となった徳川家康が一大名に転落したものの依然として潜在的な影響力を有する豊臣氏を包囲するとともに豊臣氏恩顧の西国の外様大名の動静を牽制するため山陰道の要衛であったこの地に築城を命じた天下普請の城です。
初代城主には家康庶子の松井松平康重(まつだいら・やすしげ、1568~1640)が入城、以降いずれも譜代大名が継ぎ藤井松平氏二代、形原松平氏五代、青山氏六代の支配を経て維新を迎えます。
築城に際しては縄張には築城の名手として著名な藤堂高虎(とうどう・たかとら、1556~1630)を、普請奉行には姫路藩主の池田輝政(いけだ・てるまさ、1565~1613)をそれぞれ担当させ、その夫役には西国(近畿・中国・四国)15ケ国、20の外様大名(加藤・浅野・福島・蜂須賀など)が動員され家康の意向を踏まえ工事開始から約6ケ月間の短期間で完成するに至ります。
篠山城は篠山盆地の中心に在る比高15mの丘陵を利用し、丘陵に配された天守・本丸・二の丸は梯郭式、そしてこれらを囲む三の丸は輪郭式となって全体の縄張を方形に取り囲んだ平山城となっています。
篠山城跡石標脇に建てられた説明板には次の通り記されています。
「 篠 山 城 の 歴 史
篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大坂城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するため、山陰道の要衛であったこの地に築いた城。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員された。
城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いた。工事は、開始から1年満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められた。笹山は全体が岩盤で出来ていたため、難工事の中での完成であった。
笹山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が担当し、堀を二重に廻らし、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。天守は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれなかったが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられた。
大坂夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられた。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってきた。」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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大手馬出の土塁一部
大手・東・南の「馬出」三ケ所を有する篠山城ですが、その内大手の馬出の土塁が一部残っています。 -
内堀風景
外堀並びに三の丸は住宅地と転じ既に埋められ、残された内堀を渡って二の丸に向かいます。 -
内堀風景
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イチオシ
二の丸虎口アプロ-チ
大手馬出から石垣に囲まれた大書院を捉えます。 -
史跡篠山城説明板
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丹波篠山城下町周遊地図
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「篠山市篠山伝統的建造物群保存地区」説明板
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「篠山市篠山伝統的建造物群保存地区」説明板(拡大)
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史跡 篠山城跡石標
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篠山城沿革説明
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「ありし日の篠山城」見取図
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二の丸石垣と犬走
大書院を取り囲む二の丸石垣と石垣の下には通路状に犬走(いぬばしり)が配されています。 -
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表門(おもてもん)跡
大手門から進むと表門・中門・鉄門が備えられ、容易に二の丸に入ることができないよう防御施設が造られています。表門の先が見えないよう枡形状となっています。 -
表門(おもてもん)跡標識
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中門(なかもん)跡
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中門(なかもん)跡標識
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鉄門(くろがねもん)跡
二の丸虎口ともいえる門で現在の冠木門は模擬ですが往時は櫓門形式の城門が建ちその扉は鉄板が張られていたと推察されています。 -
鉄門(くろがねもん)跡標識
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鉄門説明板
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大書院玄関入口
大書院は城主による公式行事に使われた場所で、篠山城築城時に京都二条城の御殿を参考に造られたと伝えられています。二条城の御殿は将軍の上洛時の宿泊でしたが、一大名でこれほどの規模は極めて異例で、西国外様大名に対する威信を示す必要があったと思われます。 -
「大書院」説明板
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井戸水跡
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井戸水跡説明
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二の丸跡全景
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「二の丸御殿整備」説明板
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「二の丸御殿整備」説明板(近景)
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二の丸御殿見取図・説明板
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大書院
二の丸に面した大書院を南側から捉えます。 -
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二の丸発掘調査
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二の丸中奥御殿庭園跡調査・整備
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埋門(うずめもん)跡
当門周辺の石垣は多くの符号・刻印が見られ、例えば「三佐之内」と刻され石垣は普請奉行を務めた池田輝政を示しています。 -
理門跡説明板
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南馬出方向
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篠山城跡周遊ル-ト案内板
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埋門(うずめもん)跡
篠山城の大手に対する搦手に相当する重要な門となっています。 -
二の丸石垣
埋門の脇に聳える石垣が連なります。 -
大書院
埋門から大書院を望みます。 -
青山忠誠追慕碑
本丸跡には青山神社が祀られ、その境内の脇には教育の礎を築いたという城主青山忠誠(あおやま・ただしげ、1859~1887)の追慕碑とその説明板が配されています。 -
青山忠誠説明板
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「大書院跡について」説明板
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二の丸跡
本丸跡に建った青山神社階段から広場となっている二の丸跡が見渡せます。 -
本丸石垣
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青山神社
本丸跡には青山神社が建てられ、明治維新まで支配した青山氏を祀られています。 -
青山神社境内
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青山神社説明板
当神社は明治15年(1882)に本丸跡に建立され、篠山藩主青山氏の祖である青山忠俊(あおやま・ただとし)並びに十二代藩主青山忠裕(あおやま・ただひろ)が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕閣を歴任、とりわけ忠裕は30年以上に亘り老中を務めこの功績によって5万石から6万石に加増されています。 -
「篠山城本丸跡」説明板
築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は東南の隅に天守台が造られたことから特に殿主丸(でんしゅまる)と呼ばれていたそうです。
天守台の規模は東西約19m、南北約20msw、天守台石垣は本丸内側から高さ約4m、外側の南と東側犬走からの高さ約17mで城内では最も高い石垣でした。
天守閣は築城の時建築中止され、代わりに天守台南東隅に4m四方の一重の隅櫓が建てられます。
本丸の周囲については天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ケ所に二重の隅櫓を建て、その間を多聞櫓で繋いで内部を囲んでいた由で、本丸には二の丸建てられたような御殿などの建物はなかったそうです。 -
青山神社拝殿
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「青山神社のいわれ」説明板
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青山忠誠業績碑
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青山忠誠業績説明板
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天守台
本丸の南東隅に石垣で盛られ、その規模は東西約19m南北約20mの方形で、本丸内側から高さ約4m、外側の南と東側犬走から約17mの高さを有し、天守閣は堅固すぎるとの理由で築城されず、代わりに天守台南東隅に一重の隅櫓が建てられたそうです。 -
本丸風景
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本丸風景
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天守台・石段
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天守台
本丸南西側から天守台を捉えます。 -
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市街展望
天守台から市街を一望します。住宅が迫っておりかつての三の丸とその外側の外堀の姿はありません。 -
天守台・中央部
天守台の規模は東西約19m、南北約20mの方形となっています。 -
「天守台」説明板
東方には戦国時代のにおける波多野氏の居城である「八上城」が紹介されています。今回は時間の都合で八上城訪問は実現できませんでした。 -
青山神社・境内
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大手馬出跡方向
本丸北側から入ってきた大手馬出跡方向を展望します。 -
東馬出跡方向
本丸北側から東馬出跡方向を一望します。
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