福知山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
福知山城(ふくちやまじょう、京都府福知山市内記)は天正7年(1579)、織田信長の命を受けた智将明智光秀(あけち・みつひで、1528~1582)が丹波平定後国人塩見氏が居住していた横山丘陵の地を近世城郭に大改修した平山城です。<br /><br />畿内支配を確立した織田信長は中国地方を次の攻略地域と捉え、家臣の羽柴秀吉を山陽道からそして光秀には山陰道からそれぞれ攻撃させます。<br /><br />光秀はまず丹波国平定を進めますが敵対する赤井・波多野連合軍そして横山に拠点を置く塩見氏がこれに加わり一時的に光秀軍を撃退します。<br /><br />天正7年(1579)6月波多野秀治(はたの・ひではる、生誕不詳~1579)居城の八上城、そして8月には赤井氏本拠の黒井城がそれぞれ落城、これを機に同地方の国人たちは光秀に降伏、遂に丹波国は平定され光秀は重臣で娘婿(従兄弟という異説もあり)の明智秀満(あけち・ひでみつ、1536~1582)を城代とします。<br /><br />天正10年(1582)本能寺の変で信長が横死、一時的に光秀の天下となりますが、山崎の戦にて羽柴秀吉軍に敗れた光秀は勝竜寺城を出て坂本城への敗走の途中小栗栖にて落武者狩りによって暗殺され光秀の福知山城支配期間は僅か3年ほどの短期間に終わります。<br /><br />光秀死去後は一時秀吉の支配下となりますが、関ヶ原合戦後入封した有馬豊氏(ありま・とようじ、1569~1642)によって拡張整備が施され、以降岡部氏・稲葉氏・松平氏・朽木氏が城主と替わり朽木氏は13代まで続き明治維新を迎えます。<br /><br />現在は城址公園として整備されていますが当寺の福知山城は東側に臨む由良川並びに土師(はじ)川を天然外堀とし、更に川水を取り込んで水堀を巡らせ、東から西に本丸・二の丸・三の丸を配した連郭式となっています。<br /><br /><br />本丸天守前に掲示されている「福知山城」と題する説明板には詳細に亘って次の通り記載され築城者の明智光秀の治世を讃えています。<br /><br />「 福 知 山 城<br /><br />福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばされています。<br /><br />城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守らせた要地にあります。中世には天田郡の土豪、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。<br /><br />丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張を行い、治世に反抗的な近畿社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん・税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。<br /><br />光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木植昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。<br />                       福知山市 」                        

丹波福知山 信長信頼を寄せる智将明智光秀が独立心旺盛な国人割拠する丹波を平定後に塩見氏居住の横山丘陵に丹波拠点として築城した『福知山城』訪問

10いいね!

2017/03/18 - 2017/03/18

159位(同エリア228件中)

0

60

滝山氏照

滝山氏照さん

福知山城(ふくちやまじょう、京都府福知山市内記)は天正7年(1579)、織田信長の命を受けた智将明智光秀(あけち・みつひで、1528~1582)が丹波平定後国人塩見氏が居住していた横山丘陵の地を近世城郭に大改修した平山城です。

畿内支配を確立した織田信長は中国地方を次の攻略地域と捉え、家臣の羽柴秀吉を山陽道からそして光秀には山陰道からそれぞれ攻撃させます。

光秀はまず丹波国平定を進めますが敵対する赤井・波多野連合軍そして横山に拠点を置く塩見氏がこれに加わり一時的に光秀軍を撃退します。

天正7年(1579)6月波多野秀治(はたの・ひではる、生誕不詳~1579)居城の八上城、そして8月には赤井氏本拠の黒井城がそれぞれ落城、これを機に同地方の国人たちは光秀に降伏、遂に丹波国は平定され光秀は重臣で娘婿(従兄弟という異説もあり)の明智秀満(あけち・ひでみつ、1536~1582)を城代とします。

天正10年(1582)本能寺の変で信長が横死、一時的に光秀の天下となりますが、山崎の戦にて羽柴秀吉軍に敗れた光秀は勝竜寺城を出て坂本城への敗走の途中小栗栖にて落武者狩りによって暗殺され光秀の福知山城支配期間は僅か3年ほどの短期間に終わります。

光秀死去後は一時秀吉の支配下となりますが、関ヶ原合戦後入封した有馬豊氏(ありま・とようじ、1569~1642)によって拡張整備が施され、以降岡部氏・稲葉氏・松平氏・朽木氏が城主と替わり朽木氏は13代まで続き明治維新を迎えます。

現在は城址公園として整備されていますが当寺の福知山城は東側に臨む由良川並びに土師(はじ)川を天然外堀とし、更に川水を取り込んで水堀を巡らせ、東から西に本丸・二の丸・三の丸を配した連郭式となっています。


本丸天守前に掲示されている「福知山城」と題する説明板には詳細に亘って次の通り記載され築城者の明智光秀の治世を讃えています。

「 福 知 山 城

福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばされています。

城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守らせた要地にあります。中世には天田郡の土豪、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。

丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張を行い、治世に反抗的な近畿社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん・税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。

光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木植昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。
                       福知山市 」                        

交通手段
高速・路線バス JRローカル

PR

  • JR福知山駅<br /><br />JR山陰線と福知山線とが合流する奥丹波の中心地福知山市の玄関ともいえるJR福知山駅舎が堂々と建っています。

    JR福知山駅

    JR山陰線と福知山線とが合流する奥丹波の中心地福知山市の玄関ともいえるJR福知山駅舎が堂々と建っています。

  • 福知山城遠景<br /><br />福知山駅から山陰線に沿って綾部方面に徒歩約15分、福知山城が現れ手前の市役所から雄大な天守を捉えます。右端には大天守、左端には小天守そして大天守と小天守を繋ぐ続櫓が見えます。

    福知山城遠景

    福知山駅から山陰線に沿って綾部方面に徒歩約15分、福知山城が現れ手前の市役所から雄大な天守を捉えます。右端には大天守、左端には小天守そして大天守と小天守を繋ぐ続櫓が見えます。

  • 福知山市役所と福知山城<br /><br />手前の市役所の先には福知山城が遠目に確認できます。<br /><br /><br /><br />

    福知山市役所と福知山城

    手前の市役所の先には福知山城が遠目に確認できます。



  • 内榎原門跡説明板

    内榎原門跡説明板

  • 福知山城下今昔地図

    福知山城下今昔地図

  • 「海の京都 福知山」看板<br /><br />市役所前に掲示されている福知山PR看板が建てられています。

    「海の京都 福知山」看板

    市役所前に掲示されている福知山PR看板が建てられています。

  • 福知山城遠景

    福知山城遠景

  • 福知山城遠景

    福知山城遠景

  • 福知山城石碑

    福知山城石碑

  • 福知山佐藤太清記念美術館<br /><br />福知山城登城口には櫓風に建てられた福知山美術館が控えています。

    福知山佐藤太清記念美術館

    福知山城登城口には櫓風に建てられた福知山美術館が控えています。

  • 福知山美術館入口<br /><br />登城路途中から左側を見下ろすと美術館入口が見えます。

    福知山美術館入口

    登城路途中から左側を見下ろすと美術館入口が見えます。

  • 福知山城天守閣案内板<br /><br />

    福知山城天守閣案内板

  • 福知山城登城路

    福知山城登城路

  • 昇龍橋<br /><br />次第に高くなった登城路からは美術館と福知山城本丸とを隔てる外堀が残り、両方を繋ぐ昇龍橋が造られています。

    昇龍橋

    次第に高くなった登城路からは美術館と福知山城本丸とを隔てる外堀が残り、両方を繋ぐ昇龍橋が造られています。

  • 本丸転用石垣<br /><br />本丸石垣には社寺にあった五輪塔や宝篋印塔などが使われている石垣となっています。

    本丸転用石垣

    本丸石垣には社寺にあった五輪塔や宝篋印塔などが使われている石垣となっています。

  • 本丸石垣<br /><br />石垣の上には移築された銅門番所が一部姿を見せています。<br /><br />

    本丸石垣

    石垣の上には移築された銅門番所が一部姿を見せています。

  • 市街展望<br /><br />本丸から市街を一望します。

    市街展望

    本丸から市街を一望します。

  • 本丸跡<br /><br />奥右側に銅門番所が姿を見せています。

    本丸跡

    奥右側に銅門番所が姿を見せています。

  • 福知山城大天守

    イチオシ

    福知山城大天守

  • 福知山城説明板

    福知山城説明板

  • 大天守と小天守<br /><br />本丸には前面には三層の大天守、左の奥には小天守がそれぞれ見渡せます。

    大天守と小天守

    本丸には前面には三層の大天守、左の奥には小天守がそれぞれ見渡せます。

  • 石垣転用石群

    石垣転用石群

  • 福知山城本丸石垣の転用石説明板

    福知山城本丸石垣の転用石説明板

  • 銅門番所<br /><br />元々は二の丸銅門の脇にあった番所で大正時代に天守台に移築され、そして天守閣再建に併せて現在の地に定着します。

    銅門番所

    元々は二の丸銅門の脇にあった番所で大正時代に天守台に移築され、そして天守閣再建に併せて現在の地に定着します。

  • 福知山城本丸

    福知山城本丸

  • 本丸野面積石垣

    本丸野面積石垣

  • 本丸石垣転用石

    本丸石垣転用石

  • 福知山城説明板

    福知山城説明板

  • 福知山城説明板(一部拡大)

    福知山城説明板(一部拡大)

  • 福知山城説明板(一部拡大)

    福知山城説明板(一部拡大)

  • 福知山城と城下町説明板(一部拡大)

    福知山城と城下町説明板(一部拡大)

  • 天守閣復元鯱瓦

    天守閣復元鯱瓦

  • 天守閣復元鯱瓦説明板

    天守閣復元鯱瓦説明板

  • 豊磐井説明板

    豊磐井説明板

  • 天守閣入口<br /><br />ここが天守展望への入口となっており、内部は郷土資料館として関連資料等が展示されています。

    天守閣入口

    ここが天守展望への入口となっており、内部は郷土資料館として関連資料等が展示されています。

  • 豊磐井

    豊磐井

  • 市街展望<br /><br />手前の福知山市役所を経て福知山駅方向を見据えます。

    市街展望

    手前の福知山市役所を経て福知山駅方向を見据えます。

  • 市街展望

    市街展望

  • 市街展望<br /><br />由良川方向に眼を転じます。

    市街展望

    由良川方向に眼を転じます。

  • 朝渾神社鳥居<br /><br />本丸の一部に朽木氏分家初代植昌の父である朽木植綱を祀った神社が見えます。

    朝渾神社鳥居

    本丸の一部に朽木氏分家初代植昌の父である朽木植綱を祀った神社が見えます。

  • 朝渾神社拝殿

    朝渾神社拝殿

  • 朽木昌綱石碑<br /><br />朽木氏福知山藩8代城主である昌綱(まさつな、1787~1800)を顕彰した石碑が配されています。

    朽木昌綱石碑

    朽木氏福知山藩8代城主である昌綱(まさつな、1787~1800)を顕彰した石碑が配されています。

  • 朝渾神社<br /><br />門扉には朽木氏の家紋(隅立四つ目結)が付されています。

    朝渾神社

    門扉には朽木氏の家紋(隅立四つ目結)が付されています。

  • 本丸北門

    本丸北門

  • 本丸石段<br /><br />登城口と本丸とを結ぶ石段を降ります。

    本丸石段

    登城口と本丸とを結ぶ石段を降ります。

  • 本丸石段

    本丸石段

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸隅石垣<br /><br />「打込みハギ」と言われる石積み方法で「野面積み」を進化させています。

    本丸隅石垣

    「打込みハギ」と言われる石積み方法で「野面積み」を進化させています。

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 本丸隅石<br /><br />隅石は石積み技術が未熟のためか稜線がまだ不整合のようです。

    本丸隅石

    隅石は石積み技術が未熟のためか稜線がまだ不整合のようです。

  • 石垣転用石群<br /><br />本丸石垣下の奥に行くと転用石群が見られます。

    石垣転用石群

    本丸石垣下の奥に行くと転用石群が見られます。

  • 石垣転用石群(近景)

    石垣転用石群(近景)

  • 石垣転用石説明板

    石垣転用石説明板

  • 本丸北門下

    本丸北門下

  • 左門丸跡

    左門丸跡

  • 左門丸跡説明板

    左門丸跡説明板

この旅行記のタグ

10いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

滝山氏照さんの関連旅行記

滝山氏照さんの旅行記一覧

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP