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黒井城(くろいじょう、兵庫県丹波市春日町黒井)は戦国時代丹波各地域で勢力競合していた国人領主の中で黒井を支配していた荻野氏が本拠とする山城で、氷上町新郷に在する後屋城主で一族の赤井氏から養子として入った赤井直正(あかい・なおまさ、1529~1578)の治世にその全盛を極めます。<br /><br />直正は幼名は才丸といい幼児の頃から豪胆、智勇に優れ春日町朝日に朝日城を拠点とし荻野氏の一門として活躍、しかしながら天文23年(1554)正月に年賀の祝賀の席上、義父で黒井城主荻野秋清(おぎの・あききよ)を殺害して黒井城を奪取、城郭麓に居館(現興禅寺)を設け併せて黒井城の改修と城下町の整備に尽くします。<br /><br />さて、黒井城は東西に流れる黒井川に向かって突き出した山地の上に造られ、平坦に切削された山頂部には本丸・二の丸・三の丸などの曲輪があり、山腹には石踏の段・三段曲輪などの曲輪が施され、更に本丸の北側を守るため西の丸を、尾根筋には西方を抑える千丈寺砦や北方を抑える竜ヶ鼻砦といった支城を配し万全の防御態勢を敷いています。<br /><br /><br />丹波市教育委員会作成の「国史跡黒井城跡」と題する資料によれば下記の通り説明されています。<br /><br /><br />「 黒 井 城 全 図<br /><br />黒井の町並みのすぐ北にそびえる黒井城跡は、猪ノ口山(標高356メ-トル)にある山城で、南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範が山頂に砦を築いたことからその歴史が始まります。<br /><br />その後、約200年間数代にわたって城主の変遷がありましたが、戦後動乱のさ中の天文23年(1554)萩野(赤井)悪右衛門直正が城主となり、その勢力の拡大とともに大改修の手を加えたのが現在の黒江城跡です。<br /><br />一番高い山頂の本城部分には、複数の曲輪を並べ、これを囲んで中腹に6つの曲輪を配置し、さらに枢要な尾根には、砦を築いています。<br /><br />また、山中のいたる所に曲輪・土塁・堀切り・切り岸などの防御施設が埋もれていて、約120ヘクタ-ルにも及ぶ広大な猪ノ口山系全体が城域であり国の史跡となっています。<br /><br />天正7年(1579)8月、さしも堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城をとげました。<br /><br />その後、一部本城部分に改修が加えられましたが、400年の風雪に耐え、今でも戦国時代から織豊時代へかけての城として高い評価を受け、平成元年国の史跡に指定されました。」<br /><br /><br />更に同資料には黒井城全盛期に活躍した赤井(萩野)直正に関して次のように記載されています。<br /><br />「 城主萩野(赤井)悪右衛門直正<br /><br />甲斐武田氏の甲州流軍学書「甲陽軍艦」に、「名高き大将像」13人筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」と記され、近隣諸豪から「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた直正は、萩野氏の一族である氷上町新郷の後屋城主赤井氏の出自で、幼名を赤井才丸といい、幼少の頃から豪胆、智勇に優れていました。<br /><br />春日町朝日の朝日城を拠点とする萩野十八人衆の盟主として請われ、萩野姓を名乗りました。<br /><br />天文23年(1554)の正月2日、年賀の席で黒井城主萩野伊豫守秋清を刺殺して黒井城主となり、これより悪右衛門と号し、黒井城南麓(現興禅寺地所)に下館を設け本格的に黒井城及び城下町の整備に着手しました。<br /><br />折しも、勢力を伸ばしてきた織田信長に直正は一度は服命しますが、但馬此隅城の山名氏との関係が悪化し、これが一因で信長と敵対することになります。<br /><br />信長は、天正3年(1575)明智光秀を総大将として丹波平定に派遣しました。光秀は、八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆の過半を服従させ黒井城を包囲しました。<br /><br />交戦は2ヶ月に及び、翌天正4年(1576)1月15日、かねての盟約どおり突如波多野軍が寝返って光秀の陣を急襲し。総崩れとなった光秀は壊滅的打撃を受け亀山城に帰城しました。これを後世「赤井の呼び込み戦法」と呼んでいます。<br /><br />信長との対決が間近くなった直正は、毛利氏の提唱する「三道併進策」に呼応し、反信長勢力の毛利・吉川・武田・石山本願寺等と同盟を結びその一翼を担いましたが、天正6年(1578)3月9日病没します。一説には、首切り庁を病んでいたといわれています。<br /><br />直正の死後、盟主を失った黒井城は、日に日に士気が衰え、その勢力も衰退し、光秀の第2回目の黒井城攻めに、遂に落城の憂き目を見ることになりました。<br /><br />勇猛を誇った直正の武勇伝は、この地に伝わる黒井音頭にも長々とうたわれ、今も人びとの間で語り継がれています。」

丹波春日 丹波経略をめざす明智光秀の包囲に耐え盟友波多野氏と共に反撃を加え「丹波の赤鬼」の異名で恐れられた赤井悪右衛門直正本拠『黒井城』訪問

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2017/03/18 - 2017/03/18

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滝山氏照

滝山氏照さん

黒井城(くろいじょう、兵庫県丹波市春日町黒井)は戦国時代丹波各地域で勢力競合していた国人領主の中で黒井を支配していた荻野氏が本拠とする山城で、氷上町新郷に在する後屋城主で一族の赤井氏から養子として入った赤井直正(あかい・なおまさ、1529~1578)の治世にその全盛を極めます。

直正は幼名は才丸といい幼児の頃から豪胆、智勇に優れ春日町朝日に朝日城を拠点とし荻野氏の一門として活躍、しかしながら天文23年(1554)正月に年賀の祝賀の席上、義父で黒井城主荻野秋清(おぎの・あききよ)を殺害して黒井城を奪取、城郭麓に居館(現興禅寺)を設け併せて黒井城の改修と城下町の整備に尽くします。

さて、黒井城は東西に流れる黒井川に向かって突き出した山地の上に造られ、平坦に切削された山頂部には本丸・二の丸・三の丸などの曲輪があり、山腹には石踏の段・三段曲輪などの曲輪が施され、更に本丸の北側を守るため西の丸を、尾根筋には西方を抑える千丈寺砦や北方を抑える竜ヶ鼻砦といった支城を配し万全の防御態勢を敷いています。


丹波市教育委員会作成の「国史跡黒井城跡」と題する資料によれば下記の通り説明されています。


「 黒 井 城 全 図

黒井の町並みのすぐ北にそびえる黒井城跡は、猪ノ口山(標高356メ-トル)にある山城で、南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範が山頂に砦を築いたことからその歴史が始まります。

その後、約200年間数代にわたって城主の変遷がありましたが、戦後動乱のさ中の天文23年(1554)萩野(赤井)悪右衛門直正が城主となり、その勢力の拡大とともに大改修の手を加えたのが現在の黒江城跡です。

一番高い山頂の本城部分には、複数の曲輪を並べ、これを囲んで中腹に6つの曲輪を配置し、さらに枢要な尾根には、砦を築いています。

また、山中のいたる所に曲輪・土塁・堀切り・切り岸などの防御施設が埋もれていて、約120ヘクタ-ルにも及ぶ広大な猪ノ口山系全体が城域であり国の史跡となっています。

天正7年(1579)8月、さしも堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城をとげました。

その後、一部本城部分に改修が加えられましたが、400年の風雪に耐え、今でも戦国時代から織豊時代へかけての城として高い評価を受け、平成元年国の史跡に指定されました。」


更に同資料には黒井城全盛期に活躍した赤井(萩野)直正に関して次のように記載されています。

「 城主萩野(赤井)悪右衛門直正

甲斐武田氏の甲州流軍学書「甲陽軍艦」に、「名高き大将像」13人筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」と記され、近隣諸豪から「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた直正は、萩野氏の一族である氷上町新郷の後屋城主赤井氏の出自で、幼名を赤井才丸といい、幼少の頃から豪胆、智勇に優れていました。

春日町朝日の朝日城を拠点とする萩野十八人衆の盟主として請われ、萩野姓を名乗りました。

天文23年(1554)の正月2日、年賀の席で黒井城主萩野伊豫守秋清を刺殺して黒井城主となり、これより悪右衛門と号し、黒井城南麓(現興禅寺地所)に下館を設け本格的に黒井城及び城下町の整備に着手しました。

折しも、勢力を伸ばしてきた織田信長に直正は一度は服命しますが、但馬此隅城の山名氏との関係が悪化し、これが一因で信長と敵対することになります。

信長は、天正3年(1575)明智光秀を総大将として丹波平定に派遣しました。光秀は、八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆の過半を服従させ黒井城を包囲しました。

交戦は2ヶ月に及び、翌天正4年(1576)1月15日、かねての盟約どおり突如波多野軍が寝返って光秀の陣を急襲し。総崩れとなった光秀は壊滅的打撃を受け亀山城に帰城しました。これを後世「赤井の呼び込み戦法」と呼んでいます。

信長との対決が間近くなった直正は、毛利氏の提唱する「三道併進策」に呼応し、反信長勢力の毛利・吉川・武田・石山本願寺等と同盟を結びその一翼を担いましたが、天正6年(1578)3月9日病没します。一説には、首切り庁を病んでいたといわれています。

直正の死後、盟主を失った黒井城は、日に日に士気が衰え、その勢力も衰退し、光秀の第2回目の黒井城攻めに、遂に落城の憂き目を見ることになりました。

勇猛を誇った直正の武勇伝は、この地に伝わる黒井音頭にも長々とうたわれ、今も人びとの間で語り継がれています。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 春日観光案内図<br /><br />JR福知山線黒井駅前に建つ「春日観光案内図」に拠れば駅の北方に355mの山頂に黒井城が建っていることが判ります。

    春日観光案内図

    JR福知山線黒井駅前に建つ「春日観光案内図」に拠れば駅の北方に355mの山頂に黒井城が建っていることが判ります。

  • 黒井城跡モニュメント<br /><br />併せて駅前に「黒井城モニュメント」と称する石垣が施されています。

    黒井城跡モニュメント

    併せて駅前に「黒井城モニュメント」と称する石垣が施されています。

  • 春日局(幼名お福))立像<br /><br />更に駅前には小規模ながら三代将軍徳川家光の乳母として権勢を欲しいままにした春日局(かすがのつぼね・幼名お福)の出生地としてその像が建てられています。

    春日局(幼名お福))立像

    更に駅前には小規模ながら三代将軍徳川家光の乳母として権勢を欲しいままにした春日局(かすがのつぼね・幼名お福)の出生地としてその像が建てられています。

  • お福(春日局)像説明碑

    お福(春日局)像説明碑

  • 黒井城跡石碑<br /><br />JR黒井駅から徒歩15分黒井城跡登山口に到着、前面に「黒井城跡」と刻された石碑が迎えてくれます。

    黒井城跡石碑

    JR黒井駅から徒歩15分黒井城跡登山口に到着、前面に「黒井城跡」と刻された石碑が迎えてくれます。

  • 保月城趾登山口石柱<br /><br />この登山口には「黒井城跡」石碑と共に「保月城趾登山口」柱標が建てられ、地元では黒井城を別名保月城とも呼んでいるようです。

    保月城趾登山口石柱

    この登山口には「黒井城跡」石碑と共に「保月城趾登山口」柱標が建てられ、地元では黒井城を別名保月城とも呼んでいるようです。

  • 明智光秀紹介版<br /><br />ここ黒井城登山口には駐車場と共に案内板が設置、丹波攻略の一環として赤井氏拠点である黒井城を攻めた明智光秀を紹介しています。

    明智光秀紹介版

    ここ黒井城登山口には駐車場と共に案内板が設置、丹波攻略の一環として赤井氏拠点である黒井城を攻めた明智光秀を紹介しています。

  • 「戦国の知将 明智光秀」説明文

    「戦国の知将 明智光秀」説明文

  • 黒井城登山道<br /><br />登山道地図を見るとル-トは「急坂コ-ス」と「ゆるやかコ-ス」の二つのコ-スに分かれています。自分は無理をせず「ゆるやかコ-ス」で登ることにします。

    黒井城登山道

    登山道地図を見るとル-トは「急坂コ-ス」と「ゆるやかコ-ス」の二つのコ-スに分かれています。自分は無理をせず「ゆるやかコ-ス」で登ることにします。

  • 「風雲急をつげる黒井城」説明板<br /><br />黒井城主赤井直政の活躍ぶりが記載されています。<br />

    「風雲急をつげる黒井城」説明板

    黒井城主赤井直政の活躍ぶりが記載されています。

  • 黒井城山頂写真

    黒井城山頂写真

  • 国指定重要文化財 史跡 丹波黒井城跡登山口<br /><br />標高356mの半独立した猪ノ口山山頂に向けて登山をはじめます。

    国指定重要文化財 史跡 丹波黒井城跡登山口

    標高356mの半独立した猪ノ口山山頂に向けて登山をはじめます。

  • 登城道

    登城道

  • 金網塀<br /><br />猪や鹿の出没下山を抑えるため金網が敷かれています。

    金網塀

    猪や鹿の出没下山を抑えるため金網が敷かれています。

  • 登城道

    登城道

  • 登城道

    登城道

  • 登城道(振り返り)

    登城道(振り返り)

  • 登城道(振り返り)

    登城道(振り返り)

  • 登城道<br /><br />「ゆるやかコ-ス」といえども悪路が絶えません。

    登城道

    「ゆるやかコ-ス」といえども悪路が絶えません。

  • 登城道

    登城道

  • 登城道

    登城道

  • ゆるやかコ-ス案内板

    ゆるやかコ-ス案内板

  • 急坂コ-ス<br /><br />登城道の至る所でゆるやかコ-スと急坂コ-スとが交差しています。勿論自分はゆるやかコ-スを継続します。

    急坂コ-ス

    登城道の至る所でゆるやかコ-スと急坂コ-スとが交差しています。勿論自分はゆるやかコ-スを継続します。

  • 急崖

    急崖

  • 急崖

    急崖

  • 石踏の段(赤門)遠景<br /><br />赤門に至る風景は樹木等が全て取り払われたようで視界が広がっています。

    石踏の段(赤門)遠景

    赤門に至る風景は樹木等が全て取り払われたようで視界が広がっています。

  • 石踏の段(赤門)近景

    石踏の段(赤門)近景

  • 市街展望<br /><br />「石踏の段」手前からJR黒井駅方向を一望します。

    市街展望

    「石踏の段」手前からJR黒井駅方向を一望します。

  • 石踏の段(赤門後部)

    石踏の段(赤門後部)

  • 市街遠望<br /><br />「石踏の段(赤門)」からJR黒井駅舎を捉えます。

    市街遠望

    「石踏の段(赤門)」からJR黒井駅舎を捉えます。

  • 石踏の段跡

    石踏の段跡

  • 登城道(本丸まで200m)

    登城道(本丸まで200m)

  • 登城道(本丸まで100m)

    登城道(本丸まで100m)

  • 東曲輪跡<br /><br />城郭の東端に辿り着きます。野面積みの石垣が一部残されています。

    東曲輪跡

    城郭の東端に辿り着きます。野面積みの石垣が一部残されています。

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 三の丸跡

    三の丸跡

  • 三の丸跡<br /><br />左側には二の丸虎口と続きます。

    三の丸跡

    左側には二の丸虎口と続きます。

  • 三の丸跡石垣

    三の丸跡石垣

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 二の丸跡

    二の丸跡

  • 市街展望<br /><br />二の丸跡から市街を一望します。

    市街展望

    二の丸跡から市街を一望します。

  • 本丸虎口

    本丸虎口

  • 本丸石垣

    イチオシ

    本丸石垣

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 黒井(保月)城趾石柱

    イチオシ

    黒井(保月)城趾石柱

  • 西曲輪

    西曲輪

  • 二の丸跡<br /><br />本丸跡から二の丸跡を視野に入れます。

    二の丸跡

    本丸跡から二の丸跡を視野に入れます。

  • 市街展望<br /><br />本丸から市街を展望、JR黒井駅舎の姿を捉えることができました。

    市街展望

    本丸から市街を展望、JR黒井駅舎の姿を捉えることができました。

  • 帯曲輪(南側)<br /><br />東西に伸びる本丸・二の丸の南側には段差状の幅5m程度の帯曲輪が平行して走り、中央部には本丸と二の丸とを隔てる堀切から張り出してくる曲輪が石垣上に支えられています。

    帯曲輪(南側)

    東西に伸びる本丸・二の丸の南側には段差状の幅5m程度の帯曲輪が平行して走り、中央部には本丸と二の丸とを隔てる堀切から張り出してくる曲輪が石垣上に支えられています。

  • 三の丸虎口

    三の丸虎口

  • 三の丸展望<br /><br />帰路は三の丸の東端の位置から再び市街を展望します。<br /><br />

    三の丸展望

    帰路は三の丸の東端の位置から再び市街を展望します。

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