2016/04/14 - 2016/04/18
145位(同エリア656件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
≪2016.April≫あみんちゅ歴史に触れる旅 with no plan,沖縄本島その参之壱~1日目:旧海軍司令部壕・島田叡氏顕彰碑編~
毎年4月は恒例の1week&mulch island travelパターン。しか~しいきなりやっちゃった・・・。In のPeachは便を間違えて取り直し、帰りの石垣outに至っては入金し忘れて記録が消されてしまった・・・。自分の楽しみに対する不始末を人のせいにはしたくはないが、ややこしい輩が今職場におり、旅行前日に必ず厄介なことを起こす。結果期間短縮行き先変更を余儀なくされた・・・。こんなのがいることだけで不愉快な日々を送っているため、その息抜きの沖縄旅行であるもののそこでダメ出し食らうとは・・・。という経緯からNo Plan沖縄本島の旅が始まります。さあどんな弥次喜多道中が待っていたのでしょうか?
【平成28年4月14日木曜日】
自宅 07:08
田舎駅 07:18
07:31
京都 07:47
ホテル京阪 07:52
08:00
高速京田辺 08:18
08:20
関西空港第一 09:15
ターミナル 09:17
関西空港第二ターミナル 09:24
【チェックイン】 09:35
【保安検査】10:10
【ゲート】10:14
【搭乗】10:19
【クローズ】10:34
【タキシング】10:38
【離陸】10:53
那覇空港LCC ターミナル
【たまころ】12:53
【着陸】12:57
【駐機】13:01
【バス】13:07
【バス発車】13:08
【バス到着】13:09
【ターミナル】13:15
【ターミナルアウト】13:23
【送迎バス出発】13:25
トラベルレンタカー 13:38
14:35 (0.0km:0.0km:0.0km/h)
ファミリーマート 14:45 (3.7km:3.7km:11.2km/h)
豊見城名嘉地北店 14:59
小禄宇栄原郵便局 15:03 (1.0km:4.7km:16.7km/h)
15:10
旧海軍司令部壕 15::12 (0.8km:5.5km:26.7km/h)
17:35
奥武山公園 17:56 (5.4km:10.9km:15.5km/h)
19:30
イオン那覇 19:37 (2.0km:12.9km:16.7km/h)
21:07
サンエー豊見城 21:20 (5.3km:18.2km:24.1km/h)
ウィングシティ 21:54
南海ホテル糸満 22:45 (21.4km:39.6km:25.2km/h)//
今年2回目の沖縄の旅の朝を迎えます。はっきりしない天気ですが、〝傘持ち〟のジンクスを信じて出発します。駅まではいつもの通り送って貰います。多分2月の旅行時と同じ時間の電車に乗り京都駅に到着します。喫煙所が移設され、向かうまでのロスを考えて一服を我慢しホテル京阪前に着き、往復チケットを発券してリムジンバスに乗り込みます。京阪バスの運行便は途中高速京田辺を経由し、第一ターミナルに停車した後僅かに早着するかたちで第ニターミナルへと到着しました。
第ニターミナルからの出発も前回同様です。MM215を使うのも・・・。ただ出発時刻が20分早まって10:30予定となっています。しかし行程を煮詰めるのが遅かったため、ファストシートが取れず、5Aのスマートシートになっています。久しぶりといえばそうなのですがやはり狭い・・・。とはいえ2時間の辛抱ということで早々に着席してシートベルト着用。なにげに外を眺めていたら面白い光景を見てしまいました。関西空港第ニターミナルを利用しているピーチ便は沖止めタラップ搭乗ですがこのタラップ、実は人力で動かしています。南国へと向かう大勢の客が利用した後は、地上係員のお姉さんがタラップを引いて行きました、ご苦労様です。
という過程を経てMM215便A320-200は、プッシュバックすらなく自力で前進して行きました。ターミナルは違えど滑走路は同じなので、トコトコと滑走路を走って行きます。ちなみに次もピーチ便が後に続き、前にはVNやJLが離陸をして行きます。そしていよいよ離陸というときにAYのA330のお姿が・・・。いつか乗りたいものです(笑)。そしてMM215は一路那覇へと向けて大空へ旅立ちます。
離陸後約2時間で眼下には沖縄の島々が見えてきます。というより移動中は寝てました(笑)。ほぼ定刻に那覇空港に到着。あいも変わらずLCCターミナルですが、今回は少し〝後〟が違います。格安レンタカーを利用するとほとんどが国内線ターミナルからの送迎になりますが、今回利用したルフト・トラベルレンタカーはLCCターミナルからの送迎があります。以前石垣で利用したことがありますが、当時はツアー提供のレンタカーをはじめとした格安部門でしたが、今ではしっかりとLCCターミナル内にも事務所を構えていました。運転の上手い下手ではなく、気がつかないうちに付いていたキズなども補償対象とするワイド保証サービスは私にとって不可欠なため、そこに満タン返し不要が1,500円ならばまあ元は取れるかと判断しています。
数組の利用客を待った後バスにて営業所へ。内地で使われていたミッションのノンステップバスがあちらこちらで大活躍をしています♪
15分程で到着し車を借り受けるわけですが、なにか様子がおかしいような気がします。もしかすると予約が反映していなかったのかも知れませんが、webチェックインと代金先払いのデータを引っ張り出してもらい事なきことを得ます。貸出車両が決まっていなかったこともあり、車を選ばせてもらいました。せっかくなので今話題の〝ハスラーくん〟に決めました。4日間の旅の友が決まります。
13:00頃には手続きは終わっていたのですが、今日の行程と宿泊先をナビに入れてからやっと出発します。それでも那覇空港到着後1時間でスタートできるのは魅力です!
営業所を後にし道中のファミリーマート豊見城名嘉地北店に立ち寄り、恒例のドリンクタイム♪そして小禄宇栄原郵便局に立ち寄り旅行貯金をした後最初の目的地〝旧海軍司令部壕〟へとやってきました。
2014年12月に一度訪れている場所ではあれど、自分なりに色々なことを考えていたこの1年半。それなりに多方向から見ることができるようになりました。前回は是非とも訪れるべき戦跡と表現しましたが、今回はあの有名な〝沖縄県民斯ク戦ヘリ〟の電文が〝なぜこの沖縄方面根拠地隊司令部より打たれたのか?〟そこに重点をおいて見学しました。資料館の中にその答えが書いてありました。〝沖縄県民斯ク戦ヘリ〟という住民達の戦闘協力の情報を報告するのは本来なら行政である〝県〟が行うこと。すなわち最後の沖縄県官選知事島田叡氏の仕事となる訳ですが、それをなぜ海軍沖縄方面根拠地隊大田實司令官が行ったのか?
立場も違い年齢もひと回り違う(島田知事が若い)にも拘らず、この2人は立場を越えた師弟関係にありました。この時期行政には既に状況を知らせる手段は無くなっていました。そのため島田知事の意向を汲んだ(だろう)大田實司令官が代わりに打電した。すなわち〝場当たり的〟に行われたものではなく、〝なるべくしてなったもの〟であること。これが〝沖縄県民斯ク戦ヘリ〟の電文ができた背景となります。
時の海軍次官多田武雄中将に〝沖縄県民斯ク戦ヘリ〟と打電した約1週間後、大田實司令官は幕僚とともに自決をされます。戦後すぐに米軍は捕虜となった元海軍兵士を伴い、軍首脳部の戦死の確認をするために入壕し、目的を済ませるとさっさと出て行きました。その後7年前壕は放置され朽ちるままになっていました。部下の元兵士の方々の手により遺骨収集がなされ、家族のもとへと帰られたようです。
戦争を軍が悪いと十把一絡げに言われることが多いですが、軍という組織はともかく軍を構成する軍人までもが悪とされているように思えてなりません。軍人でも人の心を持つ方は多くいた、その代表格の話ではあるのでゆっくりと見学をしながら物思いに耽ることも必要なことかも知れません。
また昨年一年間で〝旧海軍司令部壕〟を訪れる観光客が大変増加したようで、少しでも快適に見学できるように出口付近に屋根を作るべく工事がされています。
旧海軍司令部壕を見学した後、付近の海軍壕公園を散策します。小高い丘の上にあるため360°のパノラマビューが広がっています。そういうところを改めて見学し、次の目的地へと向かいます。あまり来ることがない那覇市内、その奥武山公園へと到着します。
この奥武山公園ですが、沖縄セルラースタジアムがある場所として知る人ぞ知る有名処です。また沖縄県護国神社や沖宮も建立されている場所ですが、ではなんの目的があったのか…。実はこの奥武山公園、沖縄県の〝野球の聖地〟と言われています。セルラースタジアムは勿論のこと、兵庫・沖縄友愛グラウンドもあり、文字通り野球を愛する老若男女がプレイや観戦を楽しんでいます。名称が先に出てしまいましたがなぜ〝兵庫・沖縄友愛スタジアム〟と名付けられているのか…。これは第二次世界大戦末期にまで遡ります。沖縄県第二十七代知事島田叡氏、戦争の話題に疎い方でも知っておられる有名人の方になります。兵庫県出身の島田知事は東京帝国大学を卒業後内務省に入り、主として警察畑を歩んでこられたのですが、本格的な沖縄戦が始まる少し前に官選知事の打診を受けて沖縄に来られました。沖縄県知事時代は住民のことを真っ先に考える『熱血知事』として度肝を抜かれることを多々やり遂げられてこられました。台湾から米を緊急輸入したことなどはその行動力の賜物として現在にまで語り継がれています。
この島田知事ですがスポーツマンでもあり、旧制神戸二中や東大時代には野球選手として輝かしい成績を残されています。それに付け加え史上稀にみる地上戦が行われた沖縄の地で善政を敷いた島田県政は、沖縄県民の心を掴んで今なお慕われ続けています。
島田知事の故郷兵庫県と沖縄県は、そういった背景もあり何かと密接な関係が保たれています。摩文仁にある沖縄県職員の戦没者を祀る〝島守の塔〟、ここには沖縄県と兵庫県が建立したものが仲良く並んでいることなどはその象徴です。また〝野球〟繋がりというものもあり、沖縄セルラースタジアム(那覇市営奥武山野球場)や兵庫・沖縄友愛グラウンドが位置する〝奥武山公園〟を〝沖縄県の野球の聖地〟として地元でも慣れ親しまれていることは、いかに島田知事を慕う方が多いことを示していると思います。
そして兵庫県と沖縄県との懸け橋で生まれた兵庫・沖縄友愛グラウンド、その隣の〝奥武山公園兵庫・沖縄友愛ゾーン〟に島田知事が亡くなられたとされる昭和20(1945)年6月26日から70年目の節目の年である平成27(2015)年6月26日にその功績を後世に伝えるべく〝第二十七代沖縄縣知事 島田叡氏顕彰碑〟が建立されました。今回の奥武山公園の来訪目的は、この顕彰碑にお目にかかりたくて来たことに過ぎません。
その他沖縄県護国神社、明治以降に殉職した人々が祀られていることは他府県にあるものと同じではあるものの、やはり軍関係の慰霊碑が建立されていたり、傷痍軍人の夫婦像などといった〝戦争を髣髴させるもの〟が多々ありました。そして沖宮(おきのぐう)、琉球八社のひとつとされている神社ですが、明治時代の神仏分離までは〝沖山三所権現(沖の寺)〟と呼ばれていました。創建時期は不明ではあるものの平安時代ではないかと言われています。戦前には社殿が琉球における神社建築の典型例として昭和13(1938)年に国宝に指定されたものの沖縄戦で焼失。幾度か遷座を繰り返し昭和50(1975)年に現在の地に遷座されました。
長い沖縄の昼間もさすがに19:00となると暗くなってきました。今晩は素泊まりで手配しているため夕食を摂ろうとお店を探します。とはいえグルメでない片割れはガイドブックに載っているようなところへは向かいません(笑)。結局イオンモール那覇へと向かい、すき家へ。とろ~りチーズカレー大盛りとコーラのLを頂きます。いつもはそれ程食べないのですが、なぜか今日はお腹が減りまくり♪なので完食しました(笑)!
お腹がいっぱいになったので車へと戻り、飲み物を買いに行くため寄り道をします。サンエー豊見城WING CITY店、沖縄県のニチリウグループのスーパーですが、私はこの店がお気に入りです。なので大した金額ではないものの食品コーナーで買い物をし、医療コーナーで〝かりゆしウェア〟を購入します。そして再び車を走らせ、県道7号線回りで走ったため、途中の〝忠霊之碑〟に立ち寄り、手を合わせた後写真を撮ってみますがやはり暗すぎて見えませんでした。そしてナビ通りに本日の宿〝南海ホテル糸満〟へとナビ通りに走って行くものの、建物が見当たりません。電話をかけて確認しますがどうもわかりません。結局周辺を2周し迎えに出てきてくれたオジイを発見。時間は既に23:00前…。さすがに疲れました(泣)。
この南海ホテル糸満ですが、沖縄島南部で宿泊先を探された経験がある方なら、名前は必ずと言っていい程知られている有名なホテルです。なにが~っとなるとズバリ値段です。1泊RCで2,800円!しかもバストイレ付き♪まぁこの値段なので多くを求めてはいけません。一日中走り回って疲れた体を休める場所・・・それだけならば贅沢すぎる施設です!禁煙ルームの設定がないためタバコが苦手な方には向かないように思えるものの、昭和を彷彿させる古いながらも快適に利用できる調度品の数々は、まるでマイナスイオンを放出しているかの如く落ち着きました。
到着時間が遅かっただけにシャワーを浴びると途端に眠気が襲ってきます。どうせNo Planの旅ゆえ、行き当たりばったりで進めるのが一番良いかな~なんて思って寝てしまったようです。という訳でzzz…。そんな感じで2日目の朝を迎えます。
【本日の明細】
JR…240円
関西空港リムジンバス…4,180円
MM215…8,120円
レンタカー…14,300円
夕食…850円(とろ~りチーズカレー…700円:コーラ…150円)
宿泊…2,800円(ポイント利用後0円)
小計:22,370円(割引後:19,570円)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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それでは松尾芭蕉さん、行ってきます。
京阪石山駅 駅
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旅の始まりはいつもの石山駅から。
石山駅 駅
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さすがに平日の朝なので混雑しています。
石山駅 駅
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県境を越え京都駅へと到着します。
京都駅 駅
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そして8:00発の関西空港リムジンバスに飲み込みました。
関西空港リムジンバス (京阪バス) 乗り物
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手荷物引換券。
関西空港リムジンバス (京阪バス) 乗り物
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関西空港第二ターミナルまで運んでくれたのは京阪バスでした。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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いつもの関西空港第二ターミナルです。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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国際線カウンターは人がうじゃうじゃいます。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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ダンボール製のチェックイン機。
指が反応しないので嫌いです。関西国際空港第二ターミナル 空港
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そしていつもの喫煙コーナー。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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国内線チェックインカウンターはそれ程混雑していません。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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国内線保安検査場が空いてきたのでそろそろ入りましょうか。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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国内線保安検査場の中です。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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いつも混雑している搭乗待合所。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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とりあえず搭乗ゲートは分かれています。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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搭乗ゲートはいつもの92番です。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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ピーチ航空MM215便沖縄那覇空港行きA320-200型機。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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いつものタラップ搭乗です。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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タラップならばこんな写真も撮れちゃいます。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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A320-200型機5A席。やっぱり狭い。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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ぼけ〜っと外を眺めていると。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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実はタラップの移動は人力だということに気付きます。
関西国際空港第二ターミナル 空港
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トコトコ走って行きます。
関西国際空港 空港
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チェジュエアーが離陸します。
関西国際空港 空港
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先行のベトナムエアー。
関西国際空港 空港
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結構乗車率は高いです。
関西国際空港 空港
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後続機もピーチ航空でした。
関西国際空港 空港
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その後ろにはAYが。
関西国際空港 空港
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あっという間に与論島。
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1ヶ月半振りの沖縄。
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間もなく着陸です。
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バスでターミナル移動でした。
那覇空港LCCターミナル 空港
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さっさと出口を出ます。
那覇空港LCCターミナル 空港
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国際線搭乗口は16:25にオープンするようです。
那覇空港LCCターミナル 空港
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今回利用するルフト・トラベルレンタカーはLCCターミナルからの送迎ありなので便利です。
那覇空港LCCターミナル 空港
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いつもの殺風景なLCCターミナル。
那覇空港LCCターミナル 空港
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内地で使った初期のノンステップバスのミッション車が送迎車として使われていました。
トラベルレンタカー (那覇空港店) 乗り物
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ルフト・トラベルレンタカーは以前石垣で利用したことがあります。
トラベルレンタカー (那覇空港店) 乗り物
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場所は豊見城市になりますが、LCCターミナルからだと10分位で到着します。
トラベルレンタカー (那覇空港店) 乗り物
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先ずはファミリーマート豊見城名嘉地北店。一服します♪
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そして小禄宇栄原郵便局に立ち寄り旅行貯金をします。
小禄宇栄原郵便局 名所・史跡
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やってきた先は海軍壕公園です。
海軍壕公園 公園・植物園
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2013年12月に訪れたときは夕方でした。
海軍壕公園 公園・植物園
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おやおや・・・旧海軍司令部壕は工事中のようです。
海軍壕公園 公園・植物園
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ひ〜ひ〜は〜は〜・・・まではいきませんが結構急な階段を登ります。
海軍壕公園 公園・植物園
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海軍いわお部隊(南西諸島海軍航空部隊)と地域住民の方々の戦没者を祀っています。
海軍壕公園 公園・植物園
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海軍戦没者慰霊之塔。
海軍壕公園 公園・植物園
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仁愛之碑。
?沖縄県民斯ク戦へリ?の電文が刻まれています。海軍壕公園 公園・植物園
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海軍壕公園ビジターセンター。
海軍壕公園 公園・植物園
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海軍壕公園ビジターセンター内には、沖縄戦の写真が展示されています。
海軍壕公園 公園・植物園
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こんなように。
海軍壕公園 公園・植物園
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そして千羽鶴も。
海軍壕公園 公園・植物園
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海軍特攻の終止符を打った戦艦大和。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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戦艦大和の大きさ。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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海軍根拠地隊司令官大田實中将。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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米国から返還された大田司令官の?少将旗?。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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第32軍牛島満司令官と海軍沖縄方面根拠地隊大田實司令官。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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大田司令官とともに自決された幕僚。
写真右手より
沖縄方面根拠地隊主席参謀 前川新一郎少将
南西諸島航空隊司令兼沖縄根拠地隊参謀 棚町整少将
沖縄方面根拠地隊機関参謀 山田弘国中佐
第21海軍海軍航空廠小禄派遣隊々長 鈴木勝登中佐
その他に
第951航空隊派遣隊司令 羽田次郎少将
沖縄方面根拠地隊軍医長 小山正信軍医少佐
の計5名。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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昭和20(1945)年9月7日越来村森根(現米軍嘉手納基地)にて行われた降伏調印の模様。
https://youtu.be/TmRoWZrTEg8旧海軍司令部壕 名所・史跡
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降伏調印文章。
陸軍第28師団長納見敏郎中将、独立混成第64旅団長高田利貞少将、海軍沖縄方面根拠地隊参謀加藤唯男少将がアメリカ第13軍司令官ジョセフ・W・スティルウェル大将に対し調印し、沖縄戦が終結しました。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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沖縄戦の数字で見る惨劇。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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旧海軍司令部壕、入場パンフとチケット。
割引券があり440円が390円になりました。PC出力が必要です。
http://tokutoku-coupon.jp/okinawa/3798/旧海軍司令部壕 名所・史跡
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旧海軍司令部壕、入場パンフとチケット(裏面)。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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旧海軍司令部壕、入口。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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まっすぐに下りていく階段。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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イチオシ
最後は少し曲がります。入口方向の様子。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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海軍司令部壕、案内図。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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作戦室。
コンクリートと漆喰で塗り固められたものは当時のままのものだそうです。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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通路の様子。左手には幕僚室があります。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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幕僚室の内部。奥の壁には…。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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幕僚が自決されたときのものとされる手榴弾の弾痕が残っています。ただ異論を唱える方もおられるようですが…。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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司令官室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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暗号室。こちらからあの?沖縄県民斯ク戦ヘリ?の電文が打電されました。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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暗号室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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医療室(だっただろう場所)。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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医療室であったという記録はないものの、多くの負傷兵がいたという証言から医療室だったとされているようです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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医療室。中の絵がその証言に基づいたもののようです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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発電室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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発電室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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発電室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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発電室。明るさはともかく照明はありました。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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壕を掘ったつるはし。
硬い琉球石灰岩を人力で掘ったそうです。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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70年前に電灯が灯っていたようです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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下士官室。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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玉砕が近くなった昭和20(1945)年6月には入り切れない程の多くの兵士たちが、ここで立ったまま休憩や睡眠をとっていたそうです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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当時の支柱が残されています。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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琉球松が使われた二段ベッドがあったようです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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こんな感じの粗末な二段ベッドだったとされています。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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この出口から?斬り込み?を敢行した兵士はまず戻っては来なかったそうです。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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炊事場への通路とされる通路は・・・。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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落盤のため通行ができません。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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司令官室。
壁には?醜米覆滅 ??神州不滅?と書かれています。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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司令官室。大田實司令官がこちらから指揮を執っていたそうです。
壁には?大君の 御はた のもとにし々てこそ 人と生まれし 甲斐ぞありけりと書かれています。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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イチオシ
司令官室にて。追悼の地蔵様が建立されています。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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昭和20(1945)年6月4日〜13日までの小禄地区戦闘結果要図。現在の那覇空港付近から旧海軍司令部壕の周辺は、6月初旬から米軍の猛攻撃を受けました。
行政の通信途絶を知っていた大田司令官は、島田知事に代わり?沖縄県民斯ク戦ヘリ?と時の海軍次官多田武雄中将に打電した後、6月11日未明に幕僚とともに自決し、それにより海軍部隊の組織的抵抗は終わります。旧海軍司令部壕 名所・史跡
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今更ですが沖縄の地上戦の始まりは、昭和20(1945)年4月1日に沖縄島西海岸北谷・読谷に米軍が上陸したことに始まります。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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いろいろと考え直すことが多かった旧海軍司令部壕再訪でしたが、出口が見えてきました。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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車椅子でも見学できるように出口につながる通路は整備されています。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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イチオシ
旧海軍司令部壕出口。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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イチオシ
なんの工事だろうと聞いてみると、訪れる方が雨天時に濡れることのないように屋根を作っているとのことでした。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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そして海軍壕公園へと向かい、平和な景色を眺めます。
展望台から見た景色、その①。海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その②。
海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その③。
海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その④。
海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その⑤。
海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その⑥。
海軍壕公園 公園・植物園
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展望台から見た景色、その⑦。
https://youtu.be/MgMfUrPD8tU海軍壕公園 公園・植物園
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イチオシ
そして最後に海軍戦没者慰霊之塔に手を合わせて、締めくくります。
旧海軍司令部壕 名所・史跡
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那覇市の奥武山公園へとやって来ました。
沖縄セルラースタジアム那覇。沖縄セルラースタジアム那覇 名所・史跡
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まずは沖縄縣護国神社へと向かいます。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社由緒書き。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内案内図。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、?人命尊愛?の碑。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社拝殿。時間の関係で本殿は参拝できませんでした。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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手水舎。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、平和の像。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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イチオシ
沖縄縣護国神社境内にて、傷痍軍人夫婦像。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、針の碑。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、今上天皇皇后両陛下歌碑。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社、拝殿。、
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、独立混成第十五連隊戦跡慰霊樹。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、慰霊顕彰の碑。
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慰霊顕彰の碑、裏面。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄縣護国神社境内にて、恒久平和の碑。
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恒久平和の碑、裏面。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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共存友好の碑、裏面。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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沖縄県護国神社入口へと戻って来ました。
奥武山運動公園 公園・植物園
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奥武山運動公園案内図。
奥武山運動公園 公園・植物園
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世持神社の庭園。
奥武山運動公園 公園・植物園
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沖縄縣護国神社の脇を通って…。
沖縄県護国神社 寺・神社・教会
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イチオシ
昨年平成27(2015)年6月に除幕された島田叡知事顕彰碑。これを見たくてやって来ました。
島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまでも全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは生涯、それを実行した」(三高野球部球友の回想)
「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部) 東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大三年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還を目指した。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。
「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に...島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和三九年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。
「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の一年後輩で、野球部で二年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を祈念につけてもらえないだろうか」島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
ふるさとの
いや果てみんと
摩文仁岳の
巌に立ちし
島守のかみ
(詠人 仲宗根政善)
南へ(摩文仁・沖縄県)
このグラウンド
このユーカリプタス
みな目の底に
心の中に収めて
島田叡は沖縄に赴いた
一九四五年六月下浣
摩文仁岳近くで
かれもこれも砕け散った
(詠人 竹中郁)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(『史記』李斯列伝より)
"断じて行えば鬼神もこれを避く"
...意を決して敢然と行えば、鬼神でさえもその勢いを避ける...
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」
(沖縄赴任に携行した愛蔵書)
「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや、誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか...という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地になることの必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)
「極限の沖縄戦のなかで『生きろ!』」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ...。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。
「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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《建立の詞》
一九四五年一月、島田叡(あきら)氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第二十七代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
以来、五ヶ月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で 疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(四六九柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年四十三歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながったと思われます。一九四六年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。
一九七二年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
二〇一五年六月吉日 島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明
《碑の構想》
祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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島田叡氏顕彰碑建立について。
島田叡氏顕彰碑 名所・史跡
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イチオシ
−島田叡氏を縁とする深い絆−
兵庫・沖縄友愛グラウンド。沖縄 兵庫友愛スポーツセンター跡地 名所・史跡
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兵庫・沖縄友愛グラウンド。
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琉球八社のひとつ、沖宮(おきのぐう)へとやってきました。
沖宮 寺・神社・教会
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沖宮の由緒書き
琉球八社の一つ・沖宮の創建は詳かでないが源為朝公時代と琉球史料書にある。 国家安穏・五穀豊穣・陸海交通安全の神船玉神として歴代琉球王を始め諸民に尊崇された。明治四十一年那覇港築港の為・字安里に遷座。昭和十年国宝に指定されるも第二次大戦で焼失・戦後・沖宮創始の御祭神、即ち霊木の根は奥武山天燈山御嶽と神示を受け御神慮により昭和三十六年に通堂町に仮遷座。昭和五十年八月現在地に御遷座。沖宮 寺・神社・教会
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沖宮の歴史
琉球八社の一つ沖宮の創建は、尚金福王の時代である1451年という記録があります。江戸城築城が1457年、コロンブスのアメリカ大陸到達が1492年です。同じ世紀の出来事と考えると遥かなる歴史に感慨を覚えます。 1713年琉球王府発刊の「琉球王国由来記」によると15世紀中頃に那覇港内で不思議に輝くものを国王が首里城よりご覧になり、漁夫に命じて探らせると、尋常ならざる古木を得たそうです。翌夜より水面が輝くことがなかったので、この地に宮社を建て古木をお祀りし、以後、国王始め一般の尊崇をあつめ、特に中国往来の進貢船や薩摩往来の貢船、離島航路などの航海安全の祈願に尊信されたということです。 琉球舞踊の話になりますが、旅の無事を祈る琉球舞踊「上り口説(ヌブイクドウチ)」の歌詞の一節「沖ヌ側マディ親子兄弟連リティ別ユル…」とある「沖」は、実は沖宮のことです。琉球の王様をはじめ、江戸方面へ上る多くの人々が、よき旅となるよう沖宮へご参詣された情景に思いを馳せると、歴史とロマンを感じていただけるのではないでしょうか。 沖宮は、創建当時、現在の那覇港にありました。明治41年(1908年)、築港工事の為、琉球八社の一つ安里八幡宮の境内地隣域に遷座されました。その古式ゆかしい本殿は、昭和13年(1938年)伊東忠太(いとうちゅうた)博士の推挙により国宝に指定されますが、第二次世界大戦により残念ながら焼失してしまいました。戦後、昭和36年(1961年)に通堂町へ仮遷座し、昭和50年(1975年)に奥武山公園内へ遷座し現在に至ります。沖宮 寺・神社・教会
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イチオシ
19:00を過ぎるとさすがに暗くなったので出発します。
沖縄セルラースタジアム那覇 名所・史跡
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イオン那覇店へとやってきました。
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ゆいレール小禄駅より通路で繋がっています。
小禄駅 駅
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イオン那覇店駐車場。
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グルメでない私は、夕食に?すき家?を選びました。
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とろ〜りチーズカレー大盛&コーラの夕食。850円也♪
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ご馳走様でした〜♪
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スタバもあります。
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なぜか用事もなく寄ってしまうドラッグストア、飲み物を購入しました。
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ホテルへと向かう途中沖縄のお気に入りのお店のひとつ?サンエー豊見城WING CITY店?に立ち寄って飲み物を購入します。
サンエー (豊見城ウイングシティ店) スーパー・コンビニ・量販店
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サンエー店舗の中ではおしゃれな感じがします♪
サンエー (豊見城ウイングシティ店) スーパー・コンビニ・量販店
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沖縄県道7号線を南下したため糸満市米須の?忠霊之塔?に立ち寄りましたが、やはり夜には写真に収めることが難しい…。
忠霊之塔 名所・史跡
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迷いながらもホテルに着きました。
大きく書いてあるって言われても…この暗さではわかりませんよ。南海ホテル糸満 宿・ホテル
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南海ホテル糸満305号室が本日のお部屋でした。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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305号室の入口。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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イチオシ
305号室の入口。時代を感じさせる照明のスイッチ。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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305号室室内の様子。昭和の香りが漂っています。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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ちなみにお部屋はトリプルでした♪
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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装備は整っています。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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THE お風呂♪
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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THE 洗面台&おトイレ♪
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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3階通路。たまに部屋番号が外れているので注意が必要。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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上層階への移動は階段しかありません。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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階段下方向。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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階段下方向。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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各階の踊り場の壁には?ウミガメさん?が飾られています。
南海ホテル糸満 宿・ホテル
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