2015/12/26 - 2015/12/26
593位(同エリア951件中)
滝山氏照さん
JR御殿場線山北駅南側から入口まで徒歩約5分、本城郭(本丸)まで更に10分にある城山と呼ばれる独立丘陵に在する河村城(かわむらじょう、神奈川県足柄上郡山北町城山)は甲斐・駿河と国境を接し、甲斐・駿河から相模に抜ける交通の要地であったが故、戦国時代において小田原北条氏と甲斐武田氏との攻防において激しい争奪戦が行われていました。
河村城を築城したとされる河村氏は、平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ波多野遠義の二男秀高(ひでたか)が足柄郡河村郷に領有して河村姓を名乗る事によります。
治承4年(1180)源頼朝が平氏に反旗を挙げた石山橋の戦いでは波多野一族の一員として河村氏は平氏方に付いたため頼朝より領地を没収されるも建久元年(1190)、鎌倉での流鏑馬の神事に際し弓馬の術に秀でていた秀高の子義秀(よしひで)はその妙技によって罪が許され旧領河村郷が返還されます。
明応4年(1495)北条早雲は奇策を用い小田原城を急襲・奪取し城主大森藤頼(おおもり・ふじより、生誕不詳~1503?)を追放、大森氏からの圧迫から解放された河村氏はこれを機に一族の松田氏ともども北条氏の傘下に入ります。
小田原北条氏帰属以降の河村城は駿河と甲斐の国境を押さえる城として機能、永禄11年(1568)の武田信玄による駿河進攻が北条氏にとって脅威となり元亀年間(1570~73)河村城を含む国境周辺に点在の城郭の改修が実施されたようです。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めでは秀吉軍の攻撃を受け落城しその後廃城となったようです。
本城郭跡広場に設置の「河村城跡」と題する石碑には次の記載がされています。
「河村城跡
河村城跡が位置するこの地は、城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害ともいうべき形となっている。城山の標高は約二二五メートルで、酒匂川との比高差は約一三○メートルを測り、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。
河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚城が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衛に位置している。
河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと、「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。
建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏とともに南朝方の新田氏に協力し活躍するが、北朝方の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城に篭城する。正平七?~八年(1152~53)にかけて、畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州にのがれたと「太平記」にある。
当時の河村城については、『管領記』に「山瞼にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、篭城の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風記』(写)に詳しい。南原の戦い後、河村城は畠山清国・関東管領上杉憲実をを経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。
戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城の支城として河村城を重視し、特にが元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える資料は残っていない。
河村城の規模・郭配置については、『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため、現地でも概略の位置は確認できる。各部の名称は、絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては、調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。
河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分にいかした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・洞張出郭を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭・西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。廓の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間にはお姫井戸の伝承地があり、湧水があったと考えられる。
平成二年の本城郭及び堀切の二ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるピット六個が検出され、古銭(熙寧元宝)・染付陶磁器なども遺物も出土している。ピットの覆土にはいづれも焼土・炭化物が含まれており、根固め用と考えられる河原石が認められた。また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約二十メ?トル・深さ約十一メ?トルの箱薬研状を呈す堀であること、蔵郭と近藤郭の堀切は、幅約三十メ?トル、深さ十五メ?トルの河村城最大の規模であることが確認された。
さらに、平成四年の本城郭から茶臼郭の間の堀切二ヶ所と小郭の発掘調査では、正郭両端の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では八本、茶臼郭側の堀切では五本の畝が検出された。また、小郭担面は一辺約十五メ?トルの三角形状を呈し、緑辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石んぽ溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるが、ピットは四個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。
また、平成五年の河村城の根古屋とされる岸湯坂地区の土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当寺すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。 山北町」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- JRローカル
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JR御殿場線山北駅
駅舎駅名看板が示す通り御殿場線はJR東海が営業しています。かつて丹那トンネル貫通までは当該線は複線の東海道線であって、その中でも勾配の険しい御殿場までを牽引する蒸気機関車の機関区が配されていました。 -
山北駅付近詳細図
観光案内所で関係するパンフレットをもらって南側に移動し案内地図により河村城跡の位置を確認します。河村城址歴史公園となっています。 -
河村城址公園入口
公園入口には右手に手洗所、登城道の脇には公園案内図が設置されています。 -
河村城址歴史公園案内図
地図を見ると東西の尾根を堀切によって独立した郭を構成しています。 -
古城跡絵図
河村城址歴史公園案内図の一部に掲載の古城絵図を拡大してみました。 -
河村城跡・泗水の滝コース案内板
ハイキングコースとして当該城跡が組み込まれています。 -
登城道
路面にスリップ止めが施されているように急斜面の登りとなっています。 -
登城道
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本城郭への通
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お姫井戸
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お姫井戸説明
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急峻な石段
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畝堀(うねぼり)
小田原北条氏が得意とする堀の種類で山中城でも見られる光景です。 -
畝堀(うねぼり)説明板
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畝堀(復元)
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本城郭への道
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河村城本城郭跡
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やまきた観光案内
河村城は城域の西から南に曲線状に流れる酒匂川と東を流れる支流の尺里川を外堀とし北側は山岳という自然を巧みに利用した立地であることがわかります。 -
本城郭(本丸)跡
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本城郭跡中央部
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本城郭跡
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河村城跡説明石板
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河村城説明石板
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河村城址郭配置図
城跡の郭配置図がレリーフとなって設置されています。 -
イチオシ
河村城址碑
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祠堂
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本城郭跡
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畝堀(うねぼり)
本城郭から復元畝堀の姿がはっきりと見ることができます。戦国時代は小田原北条氏の支城として北条氏の特徴である「畝堀」が普請されていたと言えます。 -
畝堀説明
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市街展望
本城郭の北西側から展望します。 -
本城郭南西端
ここから東名高速自動車道の陸橋が見て取れます。 -
本城郭南端
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馬出郭方向
本城郭から南方向に馬出郭が繋がっています。 -
泗水の滝案内板
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馬出郭
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西郭方向
西郭へはまず階段を降りて右折します。 -
西郭
右折してそのまま道を進むとやや高い郭が西郭となります。 -
西郭
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西郭
一段高い郭には杉林となっているだけです。 -
馬出郭
西郭から馬出郭を捉えます。馬出郭との間は深い谷地となっています。 -
本城郭跡
再び本城郭跡に戻り蔵郭とを結ぶ木橋を見ます。 -
本城郭・馬出郭・蔵郭案内板
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木橋(もくきょう)
整備された復元木橋の向こうには蔵郭が控えています。 -
堀切説明
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木橋
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木橋
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堀切
木橋の右から堀切を捉えます。 -
堀切
同様に木橋の左から堀切を捉えます。 -
蔵郭方向
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河村城跡案内図
案内図には本城郭と蔵郭の間、蔵郭と近藤郭の間にそれぞれ堀切が設けられ敵の侵入を困難にさせています。 -
蔵郭説明板
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木橋
手前の蔵郭と向う側の近藤郭に施されれた堀切を結ぶ木橋が見えます。 -
イチオシ
障子堀
空堀の一種で敵の移動を困難にさせる機能があります。 -
障子堀
堀切には障子堀が施され侵入してきた敵兵の横の移動を阻止する仕組みがあります。 -
堀切南側
木橋中央部から見る南側堀切は自然地形を利用した断崖となっています。 -
イチオシ
堀切北側
木橋から見る堀切北側に施された障子堀(復元)は見事です。「障子堀」は北条氏の特徴で支城とした後甲斐武田氏南進を意識して普請したものと思われます。 -
大庭郭方向
案内板によれば近藤郭との間には堀切が在ったようですが埋められているようです。 -
近藤郭
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本城郭方向
近藤郭から本城郭方向を捉えます。 -
本城郭方向
蔵郭とを繋ぐ木橋から本城郭方向を展望します。 -
本城郭
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茶臼郭入口
帰路に茶臼郭入口階段を捉えます。 -
山北駅鉄道公園
蒸気機関車が主力であった当時は最大の機関区として何輌もの蒸気機関車が駐機していたエリア跡で現在では鉄道公園としてD52型蒸気機関車が静止展示されています。 -
D52型蒸気機関車
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蒸気機関車運転台
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蒸気機関車内部
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D52型蒸気機関車説明
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蒸気機関車説明
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山北機関区説明碑
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山北機関区跡碑
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蒸気機関車車輪
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