2015/12/26 - 2015/12/26
351位(同エリア434件中)
滝山氏照さん
元景寺(げんけいじ、群馬県前橋市総社町植野)は総社初代藩主である秋元長朝(あきもと・ながとも、1546~1628)が父親である秋元景朝(あきもと・かげとも、1525~1587)の菩提を弔うため創建したのが始まりと言われています。
秋元氏の祖は下野守護の宇都宮頼網の子泰業が上総国周准郡秋元荘(現在の千葉県君津市)に進出し小糸城を構えて同地を支配したことで秋元姓を称しますがどのような経緯でその後深谷城主上杉氏に仕えるようになったのかは不明です。
秋元長朝が父景朝と共に仕えた深谷上杉氏は室町時代における鎌倉公方を補佐する山内上杉氏の庶流という名門ですが戦国時代中葉には小田原北条氏の勢力に抗することができず主家山内上杉氏は凋落の一途をたどります。
主家の没落を見限り深谷上杉氏は小田原北条氏に臣従する事になりますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉によるいわゆる小田原征伐では当主の上杉氏憲(うえすぎ・うじのり、生誕不詳~1637)は主たる家臣と共に小田原城に詰めることになり、家老である長朝は杉田因幡(すぎた・いなば)と共に長朝は氏憲に代わり深谷城の守備に勤めます。
長朝は秀吉派遣軍を相手に奮戦し城を持ち応えるべくあらゆる手を尽くしますが小田原城の降伏開城に伴って浅野長政(あさの・ながまさ)を大将とする秀吉軍の猛攻を予見し長政の説得に応じて開城の道を選び深谷城と城下町を兵火から守ります。
戦後深谷上杉氏は一族して信濃に移住し帰農して久保田姓に改めますが、他方長朝は深谷上杉氏が消滅したことから蟄居していましたが、智将井伊直政(いい・なおまさ、1561~1602)の推挙により旗本として徳川家康に仕える事となり上野国碓氷郡に5百石の知行を与えられます。
以降家康に気に入られたのか度々の加増が行われるなか、慶長6年(1601)、とうとう上野国総社藩1万石の大名に列せられます。
小田原北条氏の陪臣の身から大名に列せられたのは極めて稀でこの秋元氏の他八王子城松木曲輪を守備し討死した猛将中山勘解由家範(なかやま・かげゆ・いえのり、1548~1590)子息の後裔の上総国久留里藩主黒田氏と常陸国松岡藩主中山氏だけとなります。
元和8年(1622)に嫡男泰朝に家督を譲り隠居し、寛永5年(1628)8月に83歳で総社城にて病死します。
尚長朝の子孫たちはその後甲斐国郡内谷村、武蔵国川越、出羽国山形と転封を重ね上野国舘林6万石で明治維新を迎え、その間歴代では喬知(たかとも)と涼朝(すけとも)の代に幕閣において老中職を勤めるに至ります。
秋元氏廟の傍らに立てられている説明板には次の記載があります。
「 秋 元 氏 墓 地
秋元氏は、上総国(現千葉県)周准郡秋元荘を領していたことから、秋元と称した。初代総社城主秋元長朝の父景朝は、関東管領上杉憲政に仕え、天正15(1587)年2月上野国(群馬県)植野勝山の地を与えられ、同年11月に病で没した。
長朝は天正18(1590)年、父景朝の供養のため元景寺を創建した。
慶長5(1600)年、長朝が関が原の戦功により総社の地を与えられたのは、ここが父景朝のゆかりの地であったことからだと考えられる。
景朝の戒名は、幼名である元景をとって春光院気山元景大居士と号した。
なお、景朝の墓と並んで、正室春(光巌院殿心月等清大姉・天正8年没)及び長朝の側室(心窓院殿華月芳永大師・寛永7年没)の墓もある。」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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群馬総社駅
JR上越線水上行に乗り新前橋駅の次が群馬総社駅となります。(上越線は本数少なく1時間に1本の運行ですから事前チェック要です) -
観光案内図とモデルコース案内板
駅舎の横に観光案内図が掲示されており、訪問先の方向を確認します。 -
元景寺・石標
左右は民家が並んでいる石門から参道を進みます。 -
元景寺・山門
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元景寺・石標
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山門上部の彫刻
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参道
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元景寺・本堂
本堂奥の位牌堂に総社城主秋元氏の位牌が安置されています。 -
山号扁額
「気雲山」は秋元景朝の戒名である「春光院殿気山元景大居士」から気雲山春光院元景寺と号するようになりその山号が揮毫されています。 -
境内
境内の左区分は保育園が併設されているため窮屈な空間となっています。 -
鐘楼堂
何故か梵鐘が付されていません。 -
元景寺説明板
「 このお寺は
1. 伝統
曹洞宗と申す禅寺であります。
釈迦牟尼仏を本尊と仰ぎ代々の祖師がたが、この仏法を受け継がれております。
基は道元禅師様の流れを受けついでいる寺であります。福井県の永平寺・神奈川
県の總持寺を両本山と仰ぎ現在に至っております。
1. 開山
今から約600年くらい前にこの地に法現寺がありましたが、総社城主により
改宗され、今から約420余年前(1580年代)に自然玄悦禅師の御開山によ
り開かれ現在に至っております。
1. 開基
総社城主、秋元長朝公が父君景朝の菩提供養のため開かれました。
1. 由来
歴史深い山内には景朝公夫妻の墓所とならび浅井長政公の息女(淀君)の墓が
あります。それは対岸の敷島公園のお艶観音と称し祭られている方の眠れるとこ
ろです。また、境内の薬師如来(石仏)は市内最古の石仏として信仰を集めてお
ります。
他に天命年間、浅間山大爆発の犠牲者のため地元の有志により建立された供養塔
があります。
気 雲 山 ・ 春 光 院 ・ 元 景 寺 」
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観音菩薩石像
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石造地藏菩薩坐像標柱
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石造地藏菩薩坐像
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石造地藏菩薩坐像説明板
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秋元氏墓地柱標
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秋元氏廟遠景
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秋元氏供養塔
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秋元景朝供養塔
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秋元景朝公説明板
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秋元景朝室・供養塔
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秋元景朝室(妙耕院)説明板
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秋元氏墓地説明板
『前橋市指定史跡 秋 元 氏 歴 代 墓 地
指定年月日 昭和56年4月27日
所 在 地 前橋市総社町総社1606番地
秋元氏は慶長6(1601)年関が原の戦いによって総社領6千石(のち1万石)を与えられ、長朝・泰朝の2代に亘って寛永10(1633)年まで約30年間この地を治め、善政を施した。総社領における秋元氏の主な事績は総社城の築城と城下町の形成、天狗岩用水の開さくと新田の開発であった。
秋元氏は、寛永10(1633)年、甲州(山梨県)都留郡谷村へ1万8千石で所替えとなる。以後、川越、山形、館林と転封を重ねる間、幕府の要職につき、明治維新をむかえることとなる。秋元氏は転封後も悪政に苦しむ総社領民の支援を行い、農民も「力田遺愛碑」を建てるなどして、旧領主秋元氏への感謝の念を忘れなかった。
長朝の法名は江月院殿臣岳元誉大居士、泰朝の法名は照尊院殿鉄泰安大居士である。』 -
秋元長朝室供養塔
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長朝室説明
二代藩主泰朝(やすとも)の母親でもあります。 -
元景寺文化財説明板
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浅間山噴火遭難者供養塔
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浅間山噴火の遭難者供養塔近景
天明3年(1783)に起きた浅間山噴火で遭難した人々の供養塔があります。 -
天明3年供養碑・説明板
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この旅行記へのコメント (1)
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- 蔦之丞さん 2016/01/02 18:01:41
- 2016年も
- 滝山氏照
新春のお喜びを申し上げます!今年もよろしくお願いいたします。
蔦之丞
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