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JR御殿場線松田駅(又は小田急線新松田駅)から国道246号を山北方面に進み並行する東名高速道路建設により城郭南端部が消滅した松田城(まつだじょう、神奈川県足柄上郡松田町庶子)は西相模で勢力を持っていた波多野氏の庶流である松田氏により築城されています。<br /><br />そもそも松田氏は藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、891~958)の後裔とされる波多野氏の一族で平安時代末期源氏の棟梁源義朝(みなもと・よしとも)に仕えた波多野義通(はたの・よしみち、1107~1167)の子義常(よしつね、生誕不詳~1180)が足柄上郡松田郷に所領を与えられその地名から松田姓を名乗ります。<br /><br />然しながら平治の乱で義朝が敗北し裏切りに遭って謀殺されこれを機に源氏の衰退、その後の義常は隆盛を極めた平氏に臣従し、治承4年(1180)伊豆に配流の源頼朝挙兵にあっては平氏側に立ち大庭景親(おおば・かげちか、生誕不詳~1180)の一員として頼朝追討に参戦します。<br /><br />やがて頼朝が上総・下総・武蔵の豪族の支持を得て鎌倉に武家政治を打ち建てると立場が逆転し義常は頼朝が命じた派兵の追及を受ける事となり逃げ切れず自害、息子有経(ありつね、生誕生没不詳)は許され晴れて頼朝御家人に列せられ、没収された義常遺領は有常に返還されます。<br /><br />執権時代では北条氏は有力御家人との抗争に明け暮れ、建保元年(1213)の和田義盛の乱では松田一族は和田側として参戦するも北条氏に討たれ主たる武将を失い戦後は領地を没収され失意の時期を迎えます。<br />           <br />北条氏一族に幕府の実権を独占されるなか、御家人の中には政権の行き詰まりを感じ将来の展望を見出すため嫡流を本貫地に残す一方庶流たちを承久の乱等で新たに地方に得た所領地に下向させ現地化を推し進めその勢力を広げます。<br /><br />戦国時代には関東管領山内上杉氏と同族の扇ケ谷(おうぎがやつ)上杉氏が相模国を支配、小田原城には扇ケ谷上杉氏を主家とする大森氏が西相模を押さえており敵対する松田氏は次第に窮地に追い込まれます。<br /><br />早雲の策謀によって小田原城を奪取し大森氏を追放、これを機に小田原城を本拠とした北条氏を自領の解放者として受入れ、当主頼秀(よりひで)は早雲・氏綱(うじつな)親子に従い歴代松田氏は譜代として仕え、憲秀(のりひで、1530?~1590))の代になると小田原北条氏の三家老の一人として重責を勤め家臣の中では珍しく文書発給の際に印章を用いる事が許され大名格の待遇ぶりでした。<br /><br />天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにあってはいわゆる小田原評定では憲秀は「謙信や信玄が小田原城籠城に屈した」過去の事例を挙げ、籠城策を進言する一方秀吉の調略に乗りこれが当主氏直(うじなお、1562~1591)の知る所となって憲秀を裏切者として捕縛監禁、後に氏直による降伏・開城後は隠居ながら権力を有していた氏政と弟氏照と共に不忠を咎められ秀吉の命により切腹に処されます。<br /><br /><br />酒匂川や市街及び海が見渡せる展望所付近に掲示されている説明板では縄張図に併せて次の文言が付されています。<br /><br /><br />「 松 田 城 跡(松田町指定)<br />                 昭和四十六年四月指定<br /><br />松田城跡はは旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な蓮郭式山城である。<br />東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式擴・堀切が確認され、炭火穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。<br /><br />城郭として利用していた時期は十五世紀中葉から十六世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。  松田町教育委員会」

相模松田 小田原城籠城推進者ながら秀吉調略に乗り開城後不忠を咎められ北条氏政兄弟と共に切腹に処された北条氏筆頭家老松田氏の『松田城』訪問

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2015/12/26 - 2015/12/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR御殿場線松田駅(又は小田急線新松田駅)から国道246号を山北方面に進み並行する東名高速道路建設により城郭南端部が消滅した松田城(まつだじょう、神奈川県足柄上郡松田町庶子)は西相模で勢力を持っていた波多野氏の庶流である松田氏により築城されています。

そもそも松田氏は藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、891~958)の後裔とされる波多野氏の一族で平安時代末期源氏の棟梁源義朝(みなもと・よしとも)に仕えた波多野義通(はたの・よしみち、1107~1167)の子義常(よしつね、生誕不詳~1180)が足柄上郡松田郷に所領を与えられその地名から松田姓を名乗ります。

然しながら平治の乱で義朝が敗北し裏切りに遭って謀殺されこれを機に源氏の衰退、その後の義常は隆盛を極めた平氏に臣従し、治承4年(1180)伊豆に配流の源頼朝挙兵にあっては平氏側に立ち大庭景親(おおば・かげちか、生誕不詳~1180)の一員として頼朝追討に参戦します。

やがて頼朝が上総・下総・武蔵の豪族の支持を得て鎌倉に武家政治を打ち建てると立場が逆転し義常は頼朝が命じた派兵の追及を受ける事となり逃げ切れず自害、息子有経(ありつね、生誕生没不詳)は許され晴れて頼朝御家人に列せられ、没収された義常遺領は有常に返還されます。

執権時代では北条氏は有力御家人との抗争に明け暮れ、建保元年(1213)の和田義盛の乱では松田一族は和田側として参戦するも北条氏に討たれ主たる武将を失い戦後は領地を没収され失意の時期を迎えます。
           
北条氏一族に幕府の実権を独占されるなか、御家人の中には政権の行き詰まりを感じ将来の展望を見出すため嫡流を本貫地に残す一方庶流たちを承久の乱等で新たに地方に得た所領地に下向させ現地化を推し進めその勢力を広げます。

戦国時代には関東管領山内上杉氏と同族の扇ケ谷(おうぎがやつ)上杉氏が相模国を支配、小田原城には扇ケ谷上杉氏を主家とする大森氏が西相模を押さえており敵対する松田氏は次第に窮地に追い込まれます。

早雲の策謀によって小田原城を奪取し大森氏を追放、これを機に小田原城を本拠とした北条氏を自領の解放者として受入れ、当主頼秀(よりひで)は早雲・氏綱(うじつな)親子に従い歴代松田氏は譜代として仕え、憲秀(のりひで、1530?~1590))の代になると小田原北条氏の三家老の一人として重責を勤め家臣の中では珍しく文書発給の際に印章を用いる事が許され大名格の待遇ぶりでした。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにあってはいわゆる小田原評定では憲秀は「謙信や信玄が小田原城籠城に屈した」過去の事例を挙げ、籠城策を進言する一方秀吉の調略に乗りこれが当主氏直(うじなお、1562~1591)の知る所となって憲秀を裏切者として捕縛監禁、後に氏直による降伏・開城後は隠居ながら権力を有していた氏政と弟氏照と共に不忠を咎められ秀吉の命により切腹に処されます。


酒匂川や市街及び海が見渡せる展望所付近に掲示されている説明板では縄張図に併せて次の文言が付されています。


「 松 田 城 跡(松田町指定)
                 昭和四十六年四月指定

松田城跡はは旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な蓮郭式山城である。
東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式擴・堀切が確認され、炭火穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。

城郭として利用していた時期は十五世紀中葉から十六世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。  松田町教育委員会」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 東名高速トンネル<br /><br />JR松田駅から国道246号を西進、警察署を過ぎて庶子地区に入ると高速道路が迫り、「大井松田11」標識のトンネルを潜り山側(北側)に渡ります。

    東名高速トンネル

    JR松田駅から国道246号を西進、警察署を過ぎて庶子地区に入ると高速道路が迫り、「大井松田11」標識のトンネルを潜り山側(北側)に渡ります。

  • 東名高速道路側道<br /><br />トンネルを過ぎると右に曲がる道路を進み、突き当りが側道でここをを右折すると側「松田城跡」案内板が視野に入ります。

    東名高速道路側道

    トンネルを過ぎると右に曲がる道路を進み、突き当りが側道でここをを右折すると側「松田城跡」案内板が視野に入ります。

  • 松田城跡入口<br /><br />東名高速道路を左に見て側道に設置の案内板から登っていきます。

    松田城跡入口

    東名高速道路を左に見て側道に設置の案内板から登っていきます。

  • 登城途中展望

    登城途中展望

  • 階段<br /><br />なだらかな車道と急峻な階段が配されていますが自分は階段を登っていきます。

    階段

    なだらかな車道と急峻な階段が配されていますが自分は階段を登っていきます。

  • 小田原市街展望<br /><br />「本曲輪1」から手前の高速道路を走る車輌の騒音を聞きながらその向こうを流れる酒匂川、そして小田原市街を一望します。松田城は小田原城の東側を流れる酒匂川の上流にあって地勢的に重要な城郭として評価があります。

    小田原市街展望

    「本曲輪1」から手前の高速道路を走る車輌の騒音を聞きながらその向こうを流れる酒匂川、そして小田原市街を一望します。松田城は小田原城の東側を流れる酒匂川の上流にあって地勢的に重要な城郭として評価があります。

  • 松田城跡説明

    松田城跡説明

  • 酒匂川展望<br /><br />

    酒匂川展望

  • 本曲輪方向<br /><br />すっかり薮に覆われた前曲輪を左にして小路となった堀底を進みます。段差のある右斜面にはミカンの樹木が点在しています。

    本曲輪方向

    すっかり薮に覆われた前曲輪を左にして小路となった堀底を進みます。段差のある右斜面にはミカンの樹木が点在しています。

  • 前曲輪

    前曲輪

  • 堀切<br /><br />手前の「前曲輪1」と向かいの「前曲輪2」との間は堀切となっており、その中央部は土橋で繋がっています。

    堀切

    手前の「前曲輪1」と向かいの「前曲輪2」との間は堀切となっており、その中央部は土橋で繋がっています。

  • 松田城跡標柱<br /><br />土橋の左手には城跡の標柱が立っています。

    松田城跡標柱

    土橋の左手には城跡の標柱が立っています。

  • 本曲輪<br /><br />連郭式の曲輪が北方向にせり上がっている姿がわかります。

    イチオシ

    本曲輪

    連郭式の曲輪が北方向にせり上がっている姿がわかります。

  • 本曲輪

    本曲輪

  • 酒匂川方向展望<br /><br />本曲輪に立ってミカン畑と化したなだらかな前曲輪を眺めます。

    酒匂川方向展望

    本曲輪に立ってミカン畑と化したなだらかな前曲輪を眺めます。

  • JR松田駅<br /><br />ひっきりなしの電車音で賑わう複線運転の小田急新松田駅に比して2~3本(一時間)の単線運転のJR松田駅はひっそりとしています。尚駅舎が二棟並んでいますが左側の茶色の建物が新駅舎です。

    JR松田駅

    ひっきりなしの電車音で賑わう複線運転の小田急新松田駅に比して2~3本(一時間)の単線運転のJR松田駅はひっそりとしています。尚駅舎が二棟並んでいますが左側の茶色の建物が新駅舎です。

  • 「富士山満喫きっぷ」ポスター

    「富士山満喫きっぷ」ポスター

  • 「休日乗り放題きっぷ」ポスター

    「休日乗り放題きっぷ」ポスター

  • JR松田駅時刻表<br /><br />御殿場始発の特急「あさぎり」が小田急線乗り入れで新宿まで連絡しています。かつて自分もたびたび利用したことがあるので眼につきました。(当時は沼津発のダイヤでした)

    JR松田駅時刻表

    御殿場始発の特急「あさぎり」が小田急線乗り入れで新宿まで連絡しています。かつて自分もたびたび利用したことがあるので眼につきました。(当時は沼津発のダイヤでした)

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