2010/04/09 - 2010/04/09
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横浜臨海公園さん
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國府津-山北間は、明治22年(1889年)2月1日に開通した。
即ち、京濱対京阪神間連絡鉄道建設として國府津-静岡間開通の一環で設置された区間である。
即ち、現在の御殿場線(ごてんばせん)に相当する国府津-御殿場-沼津間は、開通以来、昭和9年(1934年)11月30日24時までは東海道本線を形成する路線だった。
然るに、該区間は、國府津-御殿場駅間は酒匂川流域、御殿場-沼津駅間は黄瀬川流域に沿いに建設され、殊に、山北-御殿場-裾野駅間は25‰の急勾配と300m以下の急曲線とが混在する山岳地を形成する路線であり、更に、路盤工事中より度々自然災害の発生に拠り不通になる為に、やがて此の区間は東海道本線に於ける輸送上の最大の隘路と化し抜本的改良を講ずる必要に迫られる。
此の為、鐵道院は急勾配が無く自然災害を受け難い熱海経由の路線建設に着手する。
然るに、此の為には熱海-三島間の丹那盆地下に長大隧道の建設を必要とし、当初鐵道院は隧道建設工事工期を5年と計画し工事に着工したが、ボーリング穿孔等を使用する事前の地質調査など存在しない時代とは申せ、実際には想像を絶する難工事の連続に拠り、予定を大幅に超過の16年もの歳月を要し完成した為に鐵道省の計画全体に重大な齟齬を来たす。
此の為に國府津-御殿場-沼津間で使用される蒸気機関車は、殊に、第1次世界大戦終結後に於ける輸送量増大に対し常に機関車の両数を一定確保しなければならず、山北機関区は大正9年(1910年)に敷地拡大を施行したが需要に追い付かず10数年後の大正11年(1922年)に再度施設拡張を迫られる。
山北機関庫は、主に、山北-御殿場間に於ける後部補助を担当する所だったが、列車定数増加、及び、大型蒸気機関車導入に対応させるべく、明治43年(1910年)に第1次庫内拡張工事を実施した。
該次改良工事では、転車台を大型蒸気機関車転車可能とすべく、22m型収納形に交換を中心としたものだった。
然るに、第1次世界大戦後に於ける列車本数増加に対し対処困難と判定され、能力不足が顕著になってきた事から、大正11年(1922年)に第2次庫内拡張工事が実施され、該工事に依り転車台が2台並列する巨大扇形機関庫が成立した。
大正12年(1923年)9月1日に、近現代に於ける記録的大地震 関東大震災が発生した。
該区間内は震源地から至近距離だった事から、被害に関しては熱海線に次いで壊滅的被害が発生した。
國府津-山北間は酒匂川段丘部に存在する為に、地盤が砂地で脆弱だった事もあり、壊滅的被害が発生した。
該震災発生時に於ける該区間走行中の列車は4本存在した。
即ち、
1)國府津-下曾我間
旅客列車用たる東京機関庫配置で、且つ、旅客用大型蒸気機関車8850型8860号機が、下り貨物第603列車牽引中に、該区間走行中、震災に遭遇し、本線路盤が陥没した所に該列車が進入した事から、該列車機関車は脱線転覆し、続く貨車数両も同じく脱線転覆した。
該機関車は、機関室屋根他を破損被害が発生。
2)松田-下曾我間
國府津機関庫配置の旅客用大型蒸気機関車8620型28639号機が、上り貨物第602列車牽引中に、該区間走行中、震災に遭遇し、該列車機関車は脱線横転した。
該機関車被害に就いて当時の資料に記載無。
同月20日に神戸鐵道局鷹取工場工作班に依り復線。
3)山北驛
上り貨物第412列車が該駅停車後、荷扱中に震災に遭遇し、該列車牽引機関車は無事だったが、該列車貨車数両が脱線。
同月15日10時に復線。
4)鐵道省酒匂川河川敷砂利採取場
該地は、大正期になりコンクリート建造物増加に鑑み、鐵道省が採掘権を得てコンクリート用砂利採取の為に所有する土地である。
下曾我驛側線末端部に入換用として國府津機関庫配置の英國製600型615号機が停車中に震災に遭遇し、該機関車は脱線転覆した。
該機関車は、左ラジアルスロート屈曲、左制動管屈曲、左タンク連続パイプ切断被害が発生。
以後、該震災被害に関する該区間事項は、
9月15日
山北駅構内 貨物第412列車脱線車輌10時復線。
9月16日
松田-山北間下り線単線開通。
9月19日
國府津-下曾我間上り線単線開通。
9月20日
下曾我-松田間単線開通。
國府津-下曾我間 貨物第603列車脱線転覆車輌 門司鐵道局応援隊取片付着手
9月24日
國府津-下曾我間 貨物第603列車脱線転覆車輌 復旧完了。
松田-下曾我間 貨物第602列車 20時40分復線 國府津駅収容。
9月25日
國府津-松田間 被災貨車復旧工事完了 小倉工場技手。
10月22日
下曾我-松田間 複線運転再開。
10月23日
松田-山北間 複線運転再開。
10月24日
國府津-下曾我間 複線運転再開。
復旧工事中はトロッコで移動したが、該区間は全般的に震災に依り破壊され尽くしていた為に、新線建設と同じ状態だった。
難工事の末に丹那隧道が貫通し、熱海線國府津-熱海駅間の延長と言ふ形態で熱海-沼津駅間が開通し昭和9年(1934年)12月1日0時を期し熱海線全線開通と共に東海道本線に編入された。
当日は、『名士列車』と称する特権上流階級専用とされた東京発神戸行1、2等普通急行第17列車を以ってトリを飾るが如く最後の御殿場経由の優等列車が運転され、次いで、東京駅を出発する神戸行2、3等普通急行第19列車が熱海経由が一番列車となり、大船駅出発後、次の停車駅たる沼津駅まで途中無停車ながら熱海駅通過時には熱海湾に盛大に花火が打ち上げられホームや駅構内に、はち切れんばかりの人々が集まり歓呼の声と万歳三唱が響く内、列車は丹那隧道熱海口坑門に突入して行ったと当時の記録に残されている。
然し、物事には栄枯衰退が伴うが如く、12月1日0時を以って御殿場経由区間は新たに『御殿場線』と言ふ独立路線に格下され存続する。
然れど、昔の本線たる格式は失せても風格は残り全線複線で駅構内も広く長編成対応の為にホームが長い等々、旧東海道本線たる痕跡を濃厚に残す存在だった。
昭和16年(1941年)12月8日、帝國海軍航空隊に拠るハワイ真珠湾攻撃を以って大東亜戦争が勃発するが、戦争が苛烈さを増すに従い我が国国内に於ける資材不足が深刻な状況となり、当時の監督官庁たる他官庁をアゴで使う陸軍省兵備局は国内の不要不急路線選定を行い、御殿場線全線、参宮線、関西本線奈良-王寺駅間の単線化を決定し運輸通信省に命令する。
御殿場線が単線化完了日は昭和18年(1943年)7月11日附で、更に、山北駅構内に存在し山北-御殿場間の急勾配に対処した山北機関區も単線化に先立つ事、同年5月15日附を以って廃区になる。
御殿場線から撤去した橋桁や軌条等は折から帝國海軍から建設を強く要請されていた横須賀線横須賀-久里浜駅間や樽見線(たるみせん)建設に廻され、更に、余剰50キロレールは品鶴線(ひんかくせん)や高島貨物線の重軌条化に転用し、代わりに代替品の37キロレールが御殿場線に交換転用された状態で終戦を迎えた。
戦後、関西本線で単線化された区間は昭和37年(1962年)までに複線に復帰したが、御殿場線や参宮線は一部区間たりとも複線に戻される事は無くレールが剥された路盤跡が現在も虚しく残る。
また、御殿場線が未だ東海道本線時代に、山北駅で登り勾配を登攀する為に、國府津駅30秒停車中に列車後部に3シリンダー式大型旅客用蒸気機関車C53型を補機で連結する特別急行 燕 号を除く全ての下り列車が列車後部に補機を連結する為に停車を余儀無くされ、当時山北駅で販売し乗客が争って購入したとされ駅弁の白眉とも称された『鮎の姿寿司』も存在していましたが、昭和14年(1939年)に販売を中止し戦後もその姿を見る事は叶はなかった。
バブル絶頂期には、国府津-山北間、及び、裾野-沼津間複線復活の計画も策定されたが、沿線人口減少の現状では困難であろう。
現在の御殿場線は純然たる通勤通学主体のローカル線に変貌を遂げている。
表紙写真は 御殿場線上大井-相模金子間風景
http://www.gotembasen.net/
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~國府津-山北間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10373761
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~山北-御殿場間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10854953
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~御殿場-裾野間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10619463
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~裾野-沼津間編 明治頌歌~
http://4travel.jp/travelogue/10590273
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
国府津(こうづ)駅
駅本屋
該駅は、明治20年(1887年)7月11日開業である。
該駅階上にはJR東日本の管理施設が入居。 -
國府津駅
駅前広場
大正中期撮影と推定される國府津駅前の絵葉書。
手前に見える線路と架線は國府津から小田原経由箱根湯本まで通じていた小田原電気軌道の物。
当初は馬車鉄道で開業し後に電化された。
熱海線國府津-小田原間開通に伴い國府津-小田原間が廃止され、最終的に箱根登山鉄道小田原市内線小田原-箱根板橋間が残存し昭和31年(1956年)6月1日廃止。
駅前は現在も当時の雰囲気が残る。
絵葉書
横浜臨海公園 蔵 -
国府津駅
駅前広場
国府津駅開設100周年記念碑
記念碑に描かれる題材は御殿場線で活躍したD52型蒸気機関車。 -
国府津駅
駅前広場
国府津駅開業100周年記念碑
記念碑正面
但し、D52型故にタイトルを東海道本線では無く地元御殿場線として欲しかったと思うのは横浜臨海公園だけであろうか。 -
国府津駅
駅構内
御殿場線用出発信号機と御殿場線起点0キロポスト。 -
国府津駅
駅構内
御殿場線と起点0キロポスト。
右手が御殿場線用線路。
左手が国府津車両センター出入線用線路。 -
国府津駅
駅構内
御殿場線起点0キロポスト。 -
国府津駅
駅構内
第2番ホーム
歴史を有する段差。 -
国府津駅
駅構内
出発信号機
御殿場線用と専用線用。 -
国府津駅
駅構内
国府津駅とJR東日本国府津車両センター間に運転されている社員専用通勤電車。
旧御殿場線複線復活部分を走る。
電車はクモヤ143型。
同型で湘南色のボディーは此の車輌のみ。
我々一般人は乗りたくとも乗れぬ特異な存在。 -
国府津-下曽我間
浜田(はまだ)架道橋
手前橋梁は鐵道省時代設置の橋桁。
小田原市国府津1884−3
東海道本線国府津駅 徒歩6分 -
国府津-下曽我間
浜田架道橋
鐵道省時代架の橋桁内部
プレート・ガーダー構造
小田原市国府津1884−3
東海道本線国府津駅 徒歩6分 -
国府津-下曽我間
JR東海313系電車
小田原市国府津2331付近
東海道本線国府津駅 徒歩10分 -
国府津-下曽我間
JR東日本クモヤ143系電車
JR東日本国府津車両センター社員通勤専用。
本来所定時刻で運転されておれば該地点で313系との離合が見られる筈だった。
小田原市国府津2331付近
東海道本線国府津駅 徒歩10分 -
国府津-下曽我間
JR東日本国府津車両センター
旧国府津電車区
背後は富士山。
寺横跨線橋(てらよこ こせんきょう)上
小田原市田島423付近
東海道本線国府津駅 徒歩28分 -
国府津-下曽我間
JR東海313系電車
田島跨線橋(たじま こせんきょう)上
小田原市田島411
東海道本線国府津駅 徒歩28分 -
国府津-下曾我間
殿沢(とのざわ)踏切
複線時代の痕跡が残存
右手が旧上り線跡。
小田原市曾我原160
御殿場線下曽我駅 徒歩4分 -
国府津-下曽我間
沼津行313系電車
旧下り線を使用。
手前の橋台は嘗て複線構造で単線化に拠り旧上り線を撤去した痕跡が残存。
小田原市曽我原160
御殿場線下曽我駅 徒歩4分 -
国府津-下曾我間
殿沢川(とのざわがわ)橋梁
国産鋼鉄製
プレートガーダー橋桁 支間3.66m×1連
橋桁に鉄道省銘板
小田原市曾我別所791
御殿場線下曾我駅 徒歩4分 -
国府津-下曾我間
殿沢川橋梁
橋桁銘板
鐵道省 昭和6年(1931年)
E45型橋桁
アイビーム・ガーダー構造
横河橋梁株式会社製造
小田原市曽我別所791
御殿場線下曽我駅 徒歩4分 -
下曽我(しもそが)駅
駅本屋
該駅は、大正11年(1922年)5月15日開業である。
然るに明治44年(1911年)5月1日に双信閉塞取扱分割の為に設置された信号所が嚆矢。
旅客扱開始翌年の関東大震災では、震源地に至近で酒匂川流域の砂地に存在する為に被害が際立って大きく、新築したばかりの駅本屋、旅客地下道、及び、ホーム上屋等々が破壊され駅施設全体に被害が及ぶ。
また、
大東亜戦争末期に登場した帝國海軍特殊攻撃兵器『桜花』の極秘燃料基地が下曽我駅に設置されたが、やがて帝國海軍の暗号解読に成功していた米軍の知る処となり、小駅ながら昭和20年(1945年)8月5日から7日にかけて米空母艦載機の機銃掃射を受け死傷者が生じた。
駅本屋は関東大震災後に再建された建築物で、修復されつつ現在に至っているが、直視不可能なものの、塗り込められた側壁に複数の機銃掃射痕が残存する。 -
下曽我駅
駅本屋
該駅は曽我梅林への下車駅として知られ梅花香る頃は観梅客で大混雑。
http://www.gotembasen.net/stinfo/shimosoga.html -
下曽我駅
駅構内
出改札口 -
下曽我駅
駅構内
旅客地下道入口
該駅開設当時は東京鐵道局所属新橋管理部だった為に駅全体の造作は当時建設途中だった熱海線國府津-熱海間所属駅建造物に似る。 -
下曽我駅
駅構内
ホーム下部石積部分が旅客営業開始時の痕跡。 -
上大井駅
駅本屋
該駅は、昭和23年(1948年)6月1日開業である。
当初は駅本屋側のホームと線路が1本だけだったが、後に交換設備が設置され現在の構内構成となる。
以前は有人駅で当時は必ずしも乗降客が少なくなかったにも拘らず、平成9年(1997年)3月22日のダイヤ改正を期し無人化。
http://gotembasen.net/stinfo/kamiooi.html -
上大井駅
駅構内
駅開設の際に植樹された桜花と駅開設50周年記念碑。 -
上大井駅
駅構内
上大井駅が有人駅時代は駅構内に国鉄職員に依り日除けを兼ね瓢箪が育成され夏の風物詩で、国鉄時代の昭和56年(1981年)8月に当時の日本交通公社発行の大型時刻表の表紙を飾った事から一躍全国に知られた存在となった。
然るに、駅が無人化された事で監視の目が届かなくなり、昼間から育成された瓢箪の盗難や悪態が続いた事から一時期瓢箪栽培が中止され組まれた鉄枠のみ空しく残っていたが、大井町や国鉄OBなどに拠り再び瓢箪を育成する様になった。 -
上大井-相模金子間
旧下り線
国府津駅を出て松田駅川音川鉄橋手前まで線形が一直線構造。
東海道本線当時、該区間を蒸気機関車牽引の列車でも相当な速度で走っていた。
因みに、鉄道作家 宮脇俊三(大正15年(1926年)12月9日〜平成15年(2003年)2月26日)著の『時刻表昭和史』(角川書店)に於いて、「『燕』の後部にD50型蒸気機関車が補機を付け登攀、云々」と記述が見られるが、当時、鉄道省は 燕 の高速性を持続させる為に名古屋鐵道局名古屋機関區からC53型旅客用蒸気機関車81〜83号機3両を 燕 専用の補機として東京鐵道局沼津機関區に転属させた程、勾配線区と言えども通過速度を重視しており、宮脇氏の記述と矛盾する。
御殿場駅通過の他優等列車、即ち、特別急行 富士、櫻、及び、普通急行は後部補機にD50型を使用しており、此れら列車と混同か記憶違いではないかと推定される。
足柄上郡大井町金子2596
御殿場線上大井駅 徒歩10分 -
上大井-相模金子間
該区間途中には法規上踏切では無い地元住民が利用する通路も存在。
足柄上郡大井町金子2645
御殿場線上大井駅 徒歩5分 -
上大井-相模金子間
該所で写真撮影中に傍で畑作中の男性老人に畑で採れたばかりのはっさくを頂きつつ東海道本線当時の話を伺う。
聞けば80代半ばとの事。
相模金子駅開設まで国府津は勿論、小田原市内まで徒歩で往還していた由。
『御殿場線が東海道本線当時、特別急行「富士」「燕」に連結された白帯車(旧1等車)や展望車は子供心にも憧憬の存在だったのに対し、3等特別急行「櫻」は最後尾に展望車の姿無く富士と燕が展望車に電照式愛称板を掲げていたのに対し櫻は鉄板の愛称板を幌に引掛けただけで格落的存在だった。
また山北駅を通過していた「燕」の後部にのみ國府津よりC53型蒸気機関車が連結されていて、普通の機関車がシュシュポポだったの対し、C53型のみシュシュシュポポポと独特の三拍子調で排気音が違っていた。
また当時は車内に塵箱が無く、客が何でも窓からゴミを捨てる習慣が有り、此の界隈で弁当ガラやビンに混ざり手をつけていない駅弁が捨てられる事も多く、それを拾って食べるのが楽しみだった、云々』とか。
C53型蒸気機関車はC52型蒸気機関車と共に、我が国で僅少だった存在の3シリンダー構造で蒸気排出音が他の機関車とは異なり3拍子調。
因みに、当時の資料では国府津駅で駅弁販売していた「東華軒」の上等洋弁当は特別急行列車乗客にのみ対象販売し、昭和5年(1930年)当時の販売価格は1折70銭也。
尚、『燕』の乗客専務担当車掌は運転開始から昭和18年(1943年)2月14日まで東京-神戸駅間運転時代は神戸車掌區(現在の明石車掌区)が担当、東京-大阪駅間に運転区間を短縮した翌日以後は戦時中から終戦直後期の運転中断期を除き東海道新幹線開業まで終始一貫して大阪車掌區担当。
列車給仕(ボーイ)は大阪と東京車掌區双方が車両毎に折半担当。
また、別資料に『富士』『櫻』も國府津駅停車の際に前後に機関車を連結し山北駅を通過した旨記述が見られる文献も存在するが、國府津駅で連結したのは電気機関車から蒸気機関車に交換した前部だけで、双方の列車共に山北駅に停車して列車後部にD50型貨物用蒸気機関車を連結したのが当時の時刻表を見てとれる事から明らかである様に誤りである。
『富士』の乗客専務担当車掌は長崎延長後も変わらず全区間を東京車掌區担当、食堂車は みかど が関東大震災で焼失するまで萬世橋驛構内食堂と共に営業管理。
『櫻』の乗客専務担当車掌は東京-神戸駅間が東京車掌區、大阪-下関駅間が神戸車掌區担当で大阪-神戸駅間に於いて車中引継を行っていた。
足柄上郡大井町金子1720
御殿場線上大井駅 徒歩12分 -
相模金子(さがみ かねこ)駅
駅前
該駅は、昭和31年(1956年)12月25日開業である。
戦後、御殿場線に気動車が導入された際に、東山北駅、南御殿場駅と共に地元請願に依り開設された。
蒸気機関車牽引列車の大半は通過していた。
該駅は大井町中心地に所在し駅開設当初から無人駅だが乗降は決して少なくない。
http://gotembasen.net/stinfo/sagamikaneko.html -
相模金子駅
駅構内
ホーム1本ながら、以前は御殿場まで東京直通列車に11両編成が入線していた為にホームが長い。
足柄上郡大井町金子1514
御殿場線相模金子駅 徒歩1分 -
相模金子駅
駅ホームは単線化された際の敷地を活用。
手前が旧下り線跡地。 -
相模金子-松田間
川音川(かわおとがわ)橋梁
全長110m
プレートガーダー橋桁 支間18.2m(60ft)×6連
足柄上郡松田町庶子1180
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
相模金子-松田間
川音川橋梁
プレート・ガーダー構造
橋桁中央の2本の横材は昭和18年(1943年)に大型貨物用蒸気機関車D52型導入入線に伴い橋梁強化の為に追加補強材。
足柄上郡松田町松田庶子1180
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
相模金子-松田間
川音川橋梁
橋台は複線構造
御殿場線が複線だった時代を今に残す。
現在は旧下り線を使用。
足柄上郡松田町松田総領943
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
相模金子-松田間
川音川橋梁
撤去された旧上り線路盤跡
足柄上郡松田町松田惣領943−2
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
相模金子-松田間
川音川橋梁
銘板
鐵道省 昭和四年(1929年)
E33型橋桁
横河橋梁株式会社製作
E33型橋桁は鋼鉄製橋梁鈑桁用で大正中期に将来に於ける大型蒸気機関車荷重負荷対応として主幹線に導入された。
老朽化の為に昭和末期から現在にかけて更新の為に取替が進み現存個数は僅少。
足柄上郡松田町松田総領1180
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
相模金子-松田間
川音川橋梁
現在使用されているのは旧下り線用橋梁。
足柄上郡松田町松田庶子1190
御殿場線松田駅南口 徒歩5分 -
松田(まつだ)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1889年)2月1日開業である。
通称北口。
小田急線に面する南口と異なり乗降数は格段に少ない。
関東大震災では大船-松田間で駅本屋が無事だったのは國府津駅のみ。
國府津駅以外は全部倒壊。
http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shizuoka/matsuda/index.html
http://gotembasen.net/stinfo/matsuda.html -
松田駅
構内
右手が御殿場線。
左手が小田急連絡線。 -
松田駅
構内
JR東海小田急分界票
票柱より向う側は小田急が管理。 -
松田駅
小田急連絡線
小田急側。
小田急連絡線は大東亜戦争末期、東京初め関東各都市部への空襲が激化し、空襲被災時に於ける緊急輸送確保を想定し、新宿駅構内と共に当時の東急小田原線と御殿場線との車輌融通の為に建設が決定され、建設途上で終戦となり、その後放置状態だったものを、小田急が気動車を使用して御殿場まで乗り入れを開始する際に完成していた路盤を使用して建設し昭和30年(1955年)9月16日に竣工し、同年10月1日より乗入開始。
現在では特急あさぎり号の乗り入れの他、小田急への車輌搬出入に使用。
足柄上郡松田町松田総領1147
御殿場線松田駅南口 徒歩6分 -
松田駅
南口改札口旅客地下道入口 -
松田駅
南口改札口旅客地下道階段開口部 -
松田駅
南口駅舎
小田急連絡口。 -
松田駅構内
小田原(おだわら)架道橋
足柄上郡松田町松田惣領1213
御殿場線松田駅南口 徒歩1分 -
松田駅構内
小田原架道橋
アイビーム・ガーダー構造
御殿場線内の橋桁は明治期の錬鉄物は僅少で大部分は大正中期から昭和初期に更新された鋼鉄タイプが占める。
大正12年(1923年)に登場した大型貨物用蒸気機関車9900型(後に改番後 D50型)は特別幹線用に設計され、此の為に路盤強化と共に在来の橋梁強化が必要となり、明治期の脆弱な橋桁を更新する必要に迫られた。
足柄上郡松田町松田惣領1213
御殿場線松田駅南口 徒歩1分 -
松田駅
小田原架道橋
銘板
鐵道省時代架橋
E45型橋桁
E45型橋桁は溝桁用橋梁で明治期に敷設した錬鉄製橋梁が大正中期以降に導入予定の大型蒸気機関車の設計荷重に負荷が大と判断され更新用に設計導入されたもの。
老朽化の為に昭和末期から現在にかけて更新交換が進行し現存個数は僅少。
足柄上郡松田町松田総領1213
御殿場線松田駅南口 徒歩1分 -
相模金子-松田間
御殿場線小田急乗越橋
足柄上郡松田町松田惣領1210
御殿場線松田駅南口 徒歩1分 -
松田駅前
松田合同自動車株式会社建造物
現在はタクシーの詰所。
元来は駅前運送店事務所兼駐車場。
因みに、戦前まで松田合同自動車は乗合自動車事業(バス)も行っており戦時中に運輸通信省指導の下、バス部門は売却され、統合先は現在の富士急湘南バス。
足柄上郡松田町松田惣領1887
御殿場線松田駅北口前 -
松田駅前
駅前商店街
駅前旅館が2軒営業。
旅館相模(りょかん さがみ)
小田原市松田町惣領1205
?: 0465−83−6688
旅館一力(りょかん いちりき)
小田原市松田町惣領1204
?: 0465−82−1975
御殿場線松田駅北口 徒歩2分 -
松田駅
第1番ホーム
停車中の列車は特急あさぎり2号 -
松田駅
第1番ホーム -
松田駅
第1番ホーム
原則として現在は小田急との連絡列車が使用。
写真背後は特急あさぎり3号。
車両はJR東海371系電車。 -
松田駅
JR東海小田急連絡線
あさぎり2号 -
松田駅
駅構内
JR東海小田急連絡線
あさぎり号 -
松田駅
跨線橋
下曽我駅同様、関東大震災の際には甚大な被害を受けた松田駅だが、何故か跨線橋は被災せず無傷。
その後、数度の改修工事を継続し現在も使用。 -
松田駅
跨線橋内部
基礎以外、側板等全部交換済。 -
松田駅
跨線橋橋脚部古軌条
CARNEGIE 1896 I.R.G
(米カーネギー社 1896年製造 逓信省鐵道作業局発注品) -
松田駅
跨線橋橋脚部古軌条
CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.
(英キャンメル・スティール社 1888年製造 製造発注番号131号 逓信省鐵道作業局発注品) -
松田駅
跨線橋橋脚部古軌条
UNION D 1886 N.T.K.
(独ウニオン社ドルトムント工場 1886年製造 日本鐵道會社発注品) -
松田駅
跨線橋
第2番ホームから見る。 -
松田駅
第1番ホーム -
東山北(ひがし やまきた)駅
該駅は、昭和31年(1956年)12月25日開業である。
御殿場線に気動車が導入され地元請願に依り開設された。
http://www.gotembasen.net/stinfo/higashiyamakita.html -
東山北駅
改札口と開業50周年記念碑 -
東山北駅
駅開業記念碑 -
東山北駅
駅開業記念碑
拡大
地元住民が駅開業の為に勤労奉仕をした事実を伝える。 -
東山北駅
駅開業50周年を祝い建立された石碑 -
東山北駅
ホーム仕切柵
CAMMELS FIELD TOUGHENED W.1888 SEC131 I.R.J.
(英キャムメル社 1888年製造 製造発注番号131号 逓信省鐵道作業局発注品) -
東山北-山北間
東山北駅遠望
足柄上郡山北町向原1727
御殿場線東山北駅 徒歩4分 -
山北駅
国府津方俯瞰
足柄上郡山北町山北1301−4
御殿場線山北駅南口 徒歩2分 -
山北駅
国府津方築堤跡
補機引上げ線
山北町中央公民館屋上から許可を得て撮影
山北町中央公民館は戦後40数年間遊休地だった山北機関區跡地に建てられた。
山北町中央公民館(やまきたまち ちゅうおうこうみんかん)
足柄上郡山北町山北1301−4
8:30〜17:00
御殿場線山北駅南口 徒歩2分 -
山北駅
国府津方築堤跡
東海道本線時代、山北駅で連結する補助機関車の留置線。
同様の引上げ線の築堤は信越本線横川駅や上越線石打駅、北陸本線今庄駅等々にも存在した。
足柄上郡山北町山北202付近
御殿場線山北駅北口 徒歩8分 -
山北駅
清水(しみず)架道橋
橋桁は平成8年(1996年)に新桁に交換。
交換前はプレート・ガーダー橋桁で道路から橋桁までの高さが少なく大型ダンプや大型バス等の通行が不可能だったが、交換後はアイビーム・ガーダー橋桁になり高床車も容易に通行可能になった。 -
山北駅
清水架道橋
橋台
橋桁交換の際に浅いタイプに交換した為に橋台取付部を嵩上げした痕跡が見える。 -
山北駅
清水架道橋
上部から俯瞰
線路を取外し撤去部分が眼につく。 -
山北駅
駅構内
旧第3番ホーム
嘗て東海道本線時代の下り列車用ホーム。 -
山北(やまきた)駅
駅本屋
該駅は、明治22年(1897年)2月1日開業である。
関東大震災発生時、該駅本屋を初めとする構内諸施設が大破する被害が発生したが、此れは、該駅設置以前に於ける付近一帯は、谷戸の湿地帯で構成されていたが、該停車場設置が決定した埋立地だった。
山北町史に拠れば、震災発生直後に駅構内が水浸しになったとの記述が見られる事から、該原因は、町史記述の水道管破裂に依るものなどでは無く、明らかに液状化現象に依るものであると推定される。
一般に、液状化現象が認識されるのは、昭和39年(1964年)6月16日発生の新潟地震の時からであり、大正期当時の認識では、液状化現象認識無き時代故に致し方無き事である。
該駅では、駅本屋が大破し倒壊の危険性が生じた事から駅本屋立入を禁止し、第2番ホームにテントを張り仮説駅事務室として業務を遂行した。
震災発生時、該駅構内に留置中の貨車29両が脱線転覆した。
更に、同時刻、普通貨物第412列車が荷役停車中で、東京方4両目から最後尾全車輌が脱線した。
因みに、該貨物列車貨車には、米、味噌、等々の食料品が搭載されていたが、此れを知った山北町長は、山北駅長に緊急配分要請を行い、該駅長判断で当該貨車から搭載品を降し競売に附し事から、神奈川県内に於いて、東神奈川、高島、及び、小田原各駅に於いて発生した、地元住民達に依る貨車搭載品強奪略奪騒動の如き事態は当地に於いて発生しなかった。
該列車脱線貨車は同月15日迄に復線作業が完了し、同日10時に復旧した。
現駅本屋は、初代駅本屋が関東大震災で大破した為に、翌大正13年(1924年)に新築した第2代目である。
http://www.gotembasen.net/stinfo/yamakita.html
http://gotembasen.net/eki/%E5%B1%B1%E5%8C%97 -
山北駅
駅構内
旧第2番ホーム
現第1番ホーム -
山北駅
現第1番ホーム
駅本屋裏側 -
山北駅
駅本屋
旧第1番ホーム -
山北駅
駅構内
現第1番ホーム
(旧第2番ホーム) -
山北駅
駅構内
現第1番ホーム
複線時代は上り線用ホーム。
停車中の車輌はJR東日本231系電車。
帰路、山北-国府津間で該車輌に乗車するも乗り心地の点でJR東海313系に遠く及ばず。 -
山北駅
駅構内
駅中心票 -
山北駅
駅構内
第1番ホーム(旧第2ホーム)
複線時代は上り列車専用。
手前は東海道本線時代、下り列車専用の第3番ホームとして使用された残骸。 -
山北駅
駅南口
ホーム全景俯瞰 -
山北駅
駅南口駅舎
駅舎が改築され体裁を整えた。
改築以前は陋屋。 -
山北駅
沼津方
駅構内から直に急勾配が存在
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この旅行記へのコメント (11)
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- ひでじいさんさん 2021/07/25 08:59:03
- また、お邪魔します。
- 横浜臨海公園さん
今回、「国府駅→山北駅間」をじっくり見させてもらいました、かなり時間がかかりましたが。
それにしても、歴史的なことが詳しく驚くばかり、どこで調べたんでしょうか。もしかして、貴殿は鉄道関連の学者さんかなあ。目の付け所が鋭いです。
御殿場線は子供の頃に生まれ育った処から毎日見てたので、じっくり読みました。
懐かしく、思い出したことが有りました。(子供の頃の)
*上大井あたりに酒匂川に砂利を採取する路線がありました。(今も痕跡あるか?)
*60年位前に川音川の橋から列車が落下して見に行きました。
*子供の頃に乗った時、場所不明ですがスイッチバックがあったような記憶が。
*松田駅周辺には料亭が多く、親父達は歓送迎会や忘年会などやったみたいです。
アユ料理だったんですね。(今も料亭の建物がいくつかあります)
*子供の頃には貨物列車が多かったですね、戦車なんか載ってました。
思い出してため息!!
**横浜臨海公園さんは日本中のJRを制覇したんですか??
雑談でした。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2021/07/26 13:09:52
- 拝復
- ひでじいさま、こんにちは。
拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
当該旅行記は小生初期の投稿で、未熟に未熟を重ねたような内容でお恥ずかしい限りです。
> *上大井あたりに酒匂川に砂利を採取する路線がありました。(今も痕跡あるか?)
→戦後も軌条も含め土砂に埋もれながら大半が残っておりましたが、日本国有鉄道清算事業団所有地を経て地元に無償払下され、現在では整備され自動車道路となっております。
上大井駅から左手に緩いカーヴを描いており、一目で判ります。
> *60年位前に川音川の橋から列車が落下して見に行きました。
→客車がコロ軸台車使用だった事からハンドブレーキが甘く、下り状勾配を自然転動し、車止めを突き破り川音川に転落した事故が当該一件だと思われます。
> *子供の頃に乗った時、場所不明ですがスイッチバックがあったような記憶が。
→足柄、富士岡、岩波の3駅に該当し、何れかと思われます。
> **横浜臨海公園さんは日本中のJRを制覇したんですか??
→国鉄時代に廃止された西寒川支線や清水港線等々も乗車しております。
横浜臨海公園
- 横浜臨海公園さん からの返信 2021/07/29 11:54:12
- 川音川客車転落事故
- ひでじぃさま、こんにちは。
川音川客車転落事故に就いて、小生、何かの文献で閲覧した記憶があるのですが、思い出せる範囲で、
1)山北駅に駐留していた品川客車区配置スハ42系客車の手ブレーキが甘く、松田駅までの10/1000‰下り勾配を、最終的に時速25キロ程度で転動し、松田駅上り車止めを突破し川音川に転落したものと記憶しております。
原因は、御殿場線で使用されていた32系客車がTR23系平軸だったのに対し、42系は臨時団体列車で入線したTR46系コロ軸だった事が原因だったと思われます。
同様の事故は京都駅構内に於いて、昭和26年(1951年)5月10日に臨時で駐留中のスハ40系客車で発生しておりました。
横浜臨海公園
- ひでじいさんさん からの返信 2021/08/01 08:23:43
- いつも訪問ありがとうございます。
- 横浜臨海公園さん
28日〜30日は2泊3日で知床に行って来ました。老夫婦+次女夫婦+孫の5人で。
航空機、ホテル、レンタカーは次女が手配してくれ、レンタカーは次女が運転でした。一般道では80〜100km/hで走行し、3日間で375km走行で下。
観光スポットはほぼ私が探し行程を組みました。自然の中のクジラウオッチング、シマフクロウ、リス、走行中に木に登ってるクマの親子を車内から見れました。
私の旅は関東周辺ですが、北海道もいいですね。
今日から口コミ&旅行記を載せます。40件位なので、いつ終わるかわかりませんが。
ではまた。
> ひでじぃさま、こんにちは。
>
>
> 川音川客車転落事故に就いて、小生、何かの文献で閲覧した記憶があるのですが、思い出せる範囲で、
> 1)山北駅に駐留していた品川客車区配置スハ42系客車の手ブレーキが甘く、松田駅までの10/1000‰下り勾配を、最終的に時速25キロ程度で転動し、松田駅上り車止めを突破し川音川に転落したものと記憶しております。
> 原因は、御殿場線で使用されていた32系客車がTR23系平軸だったのに対し、42系は臨時団体列車で入線したTR46系コロ軸だった事が原因だったと思われます。
> 同様の事故は京都駅構内に於いて、昭和26年(1951年)5月10日に臨時で駐留中のスハ40系客車で発生しておりました。
>
>
>
>
> 横浜臨海公園
- ひでじいさんさん からの返信 2021/08/07 17:25:46
- いつも訪問ありがとうございます。
- 横浜臨海公園さん
2泊3日で知床に行って来ました。世界自然遺産の一部を見てきただけです。知床半島の半分先は道路も無く行けませんでした。
クジラ・ウオッチングでは右に国後島が見え、どんな人が住んでるのか気になりました。かなり大きい島ですね。返してくれないかなあ??
暑くて大変な3日間でした、またいこうかなあ。
お邪魔しました。
> 横浜臨海公園さん
>
> 28日〜30日は2泊3日で知床に行って来ました。老夫婦+次女夫婦+孫の5人で。
>
> 航空機、ホテル、レンタカーは次女が手配してくれ、レンタカーは次女が運転でした。一般道では80〜100km/hで走行し、3日間で375km走行で下。
> 観光スポットはほぼ私が探し行程を組みました。自然の中のクジラウオッチング、シマフクロウ、リス、走行中に木に登ってるクマの親子を車内から見れました。
>
> 私の旅は関東周辺ですが、北海道もいいですね。
>
> 今日から口コミ&旅行記を載せます。40件位なので、いつ終わるかわかりませんが。
>
> ではまた。
>
>
>
> > ひでじぃさま、こんにちは。
> >
> >
> > 川音川客車転落事故に就いて、小生、何かの文献で閲覧した記憶があるのですが、思い出せる範囲で、
> > 1)山北駅に駐留していた品川客車区配置スハ42系客車の手ブレーキが甘く、松田駅までの10/1000‰下り勾配を、最終的に時速25キロ程度で転動し、松田駅上り車止めを突破し川音川に転落したものと記憶しております。
> > 原因は、御殿場線で使用されていた32系客車がTR23系平軸だったのに対し、42系は臨時団体列車で入線したTR46系コロ軸だった事が原因だったと思われます。
> > 同様の事故は京都駅構内に於いて、昭和26年(1951年)5月10日に臨時で駐留中のスハ40系客車で発生しておりました。
> >
> >
> >
> >
> > 横浜臨海公園
-
- ポジーさん 2013/09/20 20:00:38
- 懐かしい風景でした
- 横浜臨海公園さん、こんばんは。
私の個人的な話ですが、実家が神奈川県西部方面でこの旅行記の写真に懐かしさを覚えました。
御殿場線が戦時中に線路を徴発されたことは知っていましたが複線の名残をここまで辿れるとは知りませんでした。
また震災、戦争と田舎のローカル線とは思えない様々な歴史の記憶があったんですねぇ。
読みごたえのある旅行記、楽しませていただきました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2013/09/21 11:37:10
- 拝復
- ポジーさま、こんにちは。
この度は、小生の旅行記への訪問と投票を賜りまして誠に有難うございました。
> 御殿場線が戦時中に線路を徴発されたことは知っていましたが複線の名残をここまで辿れるとは知りませんでした。
> また震災、戦争と田舎のローカル線とは思えない様々な歴史の記憶があったんですねぇ。
→此の旅行記を作成投稿後、JR東日本の車両や、JR東海の特急車両は通常は御殿場線への使用を中止しており、たった数年前にも拘らず、時間の経過が早く進行している事に、少なからず小生自身も驚いております。
横浜臨海公園
-
- Medinaさん 2010/05/23 11:56:35
- 旧國府津駅の写真について
- 横浜臨海公園様
こんにちは。
今回の旧國府津駅の写真またまた驚きました。
大正中期に撮影された絵葉書、また旧小田原電気軌道のご説明。
貴重な写真と共に感銘受けました。
>熱海線國府津-小田原間開通に伴い國府津-小田原間が廃止され
>小田原-箱根湯本間で箱根登山鉄道小田原市内線として戦後に至る。
それと箱根登山鉄道小田原市内線ついて初めて知りました。
ひとつご質問ですが、現在の国府津駅と小田原駅の中間にJR東海道線の車両基地がございます。これについて何か因果関係はあるのでしょうか?
たんなる戦後の車両基地として使用されているのか、もしご存知なら
教えて貰えるとありがたいです。
宜しくお願い致します。
Medina
- 横浜臨海公園さん からの返信 2010/05/23 17:44:23
- 拝復
- Medinaさま、こんばんは。
早速メッセージを賜りまして誠に有難うございます。
現在の箱根登山鉄道線は大正期まで箱根湯本駅が起点で、国府津駅から湯本までは市内電車で結んでおりましたが、熱海線の延伸で国府津-小田原間が廃止となり最後は小田原駅前から箱根湯本駅間を結んでおりました。
横須賀線横須賀-久里浜間の旅行記で説明文を挿入するつもりでしたが、昭和18年当時、大東急が存在し、現在の東急電鉄以外に京浜急行、小田急、京王電鉄は全部、大東急となり小生の旅行記の説明で東急湘南線というのは合併後のもので現在の京急本線の一部を言います。
また、昭和18年当時に久里浜付近に所在した帝國海軍諸施設への通勤輸送の為に現在の衣笠駅から武山まで急遽鉄道線を敷設する事になり、東急が請負い、東急品川営業事務所が担当する事になり、旧京急系では1067ミリで建設が進められ、車両は東急小田原市内線の物が活用される予定でしたが、建設途中で終戦となり、工事は中止され、計画も白紙に戻されました。
それから、ご質問の国府津-小田原駅間の車両基地とは旧西湘貨物駅の事でしょうか?
それとも、新幹線鴨宮車両基地のことでしょうか?
因みに、現在の平塚-大磯駅間の湘南貨物駅は、元来は大正13年(1924年)に東京-国府津-熱海間っと横須賀線電化完成と共に電車運転を行うべく、まず京浜線(現在の京浜東北線)に2ドアセミクロスシートのデハ43100型を配置し使用する計画で現在の湘南貨物駅に電車区を建設氏し配置予定でしたが、関東大震災発生と復旧優先で電化計画は画餅になり、電車運転計画どころではなくなり取得地はそのままになり戦後を迎えます。
横浜臨海公園
- Medinaさん からの返信 2010/05/23 18:26:37
- ご丁寧なご返事深謝申し上げます
- 横浜臨海公園様
こんばんは。
質問について失礼いたしました。
JR東海道線、在来線の車両基地でございます。
小田原駅から東京方面へ上りますと、第一三共の工場を過ぎて左側の車両基地です。(小田原厚木道路から見える基地です。)
> それから、ご質問の国府津-小田原駅間の車両基地とは旧西湘貨物駅の事でしょうか?
> それとも、新幹線鴨宮車両基地のことでしょうか?
>
> 因みに、現在の平塚-大磯駅間の湘南貨物駅は、元来は大正13年(1924年)に東京-国府津-熱海間っと横須賀線電化完成と共に電車運転を行うべく、まず京浜線(現在の京浜東北線)に2ドアセミクロスシートのデハ43100型を配置し使用する計画で現在の湘南貨物駅に電車区を建設氏し配置予定でしたが、関東大震災発生と復旧優先で電化計画は画餅になり、電車運転計画どころではなくなり取得地はそのままになり戦後を迎えます。
詳しいご説明深謝しありがとうございました。
Medina
- 横浜臨海公園さん からの返信 2010/05/24 01:06:14
- 再拝復
- Medinaさま、こんばんは。
ご質問の一件、篤と了解しました。
件の車両基地はJR東日本国府津車両センターです。
元来は昭和49年(1974年)に当時の国府津機関区の電車部門の基地として建設され、昭和55年(1980年)10月1日に東海道線と横須賀線が分離運転されたのを機会に国府津電車区に独立格上げされたものです。
横浜臨海公園
追伸
別の会員の方からデハ43100型に就いて質問を頂きました。
件の車両は性能面では英ビッカース社のカム軸制御器を初搭載し、それまでの手動進段だった扱いが全面的に自動進段が可能になったものです。
「MC1」と言う省形式を得て、また車体は関東大震災後に利用者激増から3扉に改造され、昭和3年(1928年)の鉄道省の車両記号改正後はモハ10型に集約されます。
また純木造車体であった事から老朽化が進み、車体だけ鋼体化工事を受け改造後はモハ50型になります。
更に、戦災被害を受けなかったグループは戦後改番され、最終的にはクモハ11型400番代に集約され昭和48年(1973年)まで鶴見線などで走っておりました。
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旅行記グループ 御殿場線歴史的痕跡探訪記
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