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蒼海城(おうみじょう、群馬県前橋市元総社町)は現在はすっかり市街化されて城の遺構は見られず、僅かに残されているのは御霊神社の背後に見られる土塁の一部で、この神社も周囲の樹木伐採や土塁の削除などの開発工事にさらされまさに風前の灯の事態となっています。<br /><br />築城者や築城時期は定かではありませんが、関東管領で上野国守護を任じた山内上杉氏に仕える上野・越後守護代長尾景忠(ながお・かげただ)が四男忠房(ただふさ)を上野国府に派遣、忠房は国府跡を城郭化して蒼海城と称することになり以降総社長尾氏の本拠となったようです。<br /><br />天文14年(1545)山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)は関東覇権の雌雄を決する河越合戦にて古河公方足利晴氏を味方に引き入れ、従来は一族同士で争っていた扇ケ谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ)とも同盟を結び相模統一後武蔵南部を支配下に置く小田原北条氏の勢力を駆逐を企てます。<br />             <br />然しながら逆に徹底的に打ちのめされ朝定は討死、敗れた長尾氏の主家山内上杉憲政は本拠上野国平井城に退去、更に天文20年(1551)北条氏康(ほうじょう・うじやす)の攻撃をうけ遂に長尾景虎(ながお・かげとら)を頼って越後に逃げこみます。<br /><br />永禄3年(1560)憲政を擁して関東に出陣、北関東点在の旧上杉氏奉公衆豪族引連れ小田原北条氏を攻撃した長尾景虎(ながお・かげとら)は鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領職就任式を行い、晴れて上杉政虎(後に輝虎、謙信)と改め、以降毎年管領として関東に出陣し小田原北条氏と戦うことになります。<br />      <br />そもそも長尾一族は関東管領の地位を世襲した山内上杉氏の筆頭重臣として家宰職を勤め、任命される長尾氏は鎌倉(足利)家、犬懸家(満景就任以降は没落)、白井家、総社家があり、嫡流の鎌倉(足利)家もしくは庶流の犬懸家に若年などの理由で家宰が勤めることが不可能の場合白井家・総社家から長老が就任することになっていました。<br /><br />従来から上杉氏の代理人的な立場を世襲してきた名門長尾氏も憲政が氏康によって上野国から追放され、家宰職はこの時点で消滅したにも拘らず、関東管領就任した謙信が越山できるのもこの長尾三家による協力があったればこそで、実際謙信の関東入りに呼応して総社長尾氏は支配の総社衆を引連れ他の長尾家ともども謙信のもとに馳せ参じていました。<br /><br />永禄6年(1563)甲斐国武田信玄が上野に侵入、長野氏の箕輪城攻撃を経て南下する武田軍に対し総社長尾氏は圧倒的な攻撃に耐えられず落城、総社長尾氏は謙信を頼らざるを得ず越後に退去しその後裔は上杉氏に仕える事となります。<br /><br />天正18年(1590)徳川家康が関東に入府すると文禄元年(1592)諏訪頼忠(すわ・よりただ)が蒼海城に入城しますが慶長6年(1601)旧領の信濃高島に移封、替わって秋元長朝(あきもと・ながとも)が1万石を以て総社に入り蒼海城を居城とします。<br /><br />然しながら蒼海城は国府跡に築かれた経緯があって地形に拘束された不合理性を有する城郭で秋元氏は新たに総社城を築いて居を移したので蒼海城は廃棄されるに至ります。<br /><br /><br />御霊(ごれい)神社横に建立された長尾氏に関する説明は次の通りです。<br /><br />「 御霊神社と長尾氏由緒<br /><br />一. 御祭神、豊城入彦命五世の孫、田道(大蛇に化身して風呂沼に住んでい<br />た傳説の人)外上野の国に殉ぜる霊神、長尾氏の祖村岡小五郎忠通と五男鎌倉権五郎景政<br /><br />一. 例祭日 十月初亥、現在は十月十九日<br /><br />一. 創立年月は不詳なり、社傳に依ると往古此の地に上野国々府あり、国府に仕える役人の子弟を教育する学校あり、其の傍に招魂社ありて上野国神名帳西群馬郡の内に従四位下学校若獅子明神と記載あるは彼の招魂社なりと傳えり。桓武帝第五の皇子葛原親王より八世の後胤を村岡小五郎忠通と云い、相州に住し鎮守府将軍鎌倉権守と称す、五男を景政と云い、前九年、後三年の奥州の役に忠通副将格にて数々の戦功を立てたり、忠通寛治三年七十年余才にて陣中に病死す、景政忠通の軍を引卒して先登にたち戦う、其の後鳥海と矢記ある矢、景政引手の目にさゝる、景政其の矢をぬき取り、数日後其の矢にて鳥海を討取れり敵味方其に其の勇感賞せざる者なしと、奥州平定して朝廷は忠通に御霊の神号を賜る、一族相州長尾郷に一宇建立して御霊宮と称し長尾一家の氏神とす、景政より、四世を定景と云う。<br />治承四年頼朝兵を誉ぐ、定景平家方と頼朝を攻むれど後捕えられ三浦義澄に預けられ後許免されたり、承久元年一月二十七日源実朝右大臣拝賀の為鶴ケ岡八幡宮参賀の帰り道石段にて頼家の子別当公暁に殺害されたり、北條氏、公暁討伐を三浦義村に命ず、義村は直に長尾定景に命ず、定景雑賀次郎等五人の力士を引卒して鶴ケ峯後面の峯にて公暁を討取れり、兼て北條氏は三浦氏も頼朝の遺臣なれば之を滅ぼさんと其の機会を伺い待てり、宝治元年三浦氏も其の計略にはまり、三浦長尾両氏一族二百七十余人頼朝公霊廟法華堂前で自害せり、之を宝地の乱と云う。元弘三年北條氏滅び後後醍醐天皇の建武中興の世となり、足利尊氏直義も天皇方なれば直義成良親王(四才)を奉じて元弘三年関東十ケ国の行政司法権をを委任され鎌倉え入った、上杉重能を直義の家宰とす、長尾忠景は建武四年(一三三七年)には上野守護代となり後越後守護代も兼務せり、後弟景垣が越後守護代となり越後長尾の祖となる、景忠の長子清景は白井城主となり四男忠房は父景忠と共に国府を城郭化して蒼海城と称し惣社長尾九代二百十余年の基を築けり、直義は尊氏に毒殺され養子基氏の頃貞治二年頃関東も平穏に治れり、忠房鎌倉長尾郷より御霊宮を分霊して、若御子明神に合祀し現在の地に創立し惣社長尾の氏神とす、某郷土史研究家先生は、総社神社も長尾氏が旧地より現地に移転し、神社裏の貞和五年の奉塔も長尾一族が建立した物であろう推定して居ります、永禄九年頃蒼海城も武田氏の攻略する所となり御霊宮も蒼海城と共に跡形なく破壊され顕方の二男忠治、古市宿より江戸時代の始め今の地に移り御霊宮を再建修険者となって中将坊としょうし数代の後長尾山東覚院と云い明治二十二年長尾将斉の時赤石中政氏の助力に依って元惣社村各町内の寄付によって再建となりぬ、又境内の撰庚申は殿小路町阿弥陀町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼が出来る様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村石倉村全戸から一体ずつ庚申塔の寄付を仰ぎお祭りは毎年の初庚申日  以上再建に当り記録す。<br /><br />      平成二年十月吉日記之  長尾貞治 記」<br />

上野元総社 上野国府跡に長尾氏によって修築されたが徳川体制後に新藩主の秋元氏が新しく総社城を築城したため廃城となった『蒼海城』訪問

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2015/12/26 - 2015/12/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

蒼海城(おうみじょう、群馬県前橋市元総社町)は現在はすっかり市街化されて城の遺構は見られず、僅かに残されているのは御霊神社の背後に見られる土塁の一部で、この神社も周囲の樹木伐採や土塁の削除などの開発工事にさらされまさに風前の灯の事態となっています。

築城者や築城時期は定かではありませんが、関東管領で上野国守護を任じた山内上杉氏に仕える上野・越後守護代長尾景忠(ながお・かげただ)が四男忠房(ただふさ)を上野国府に派遣、忠房は国府跡を城郭化して蒼海城と称することになり以降総社長尾氏の本拠となったようです。

天文14年(1545)山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)は関東覇権の雌雄を決する河越合戦にて古河公方足利晴氏を味方に引き入れ、従来は一族同士で争っていた扇ケ谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ)とも同盟を結び相模統一後武蔵南部を支配下に置く小田原北条氏の勢力を駆逐を企てます。
             
然しながら逆に徹底的に打ちのめされ朝定は討死、敗れた長尾氏の主家山内上杉憲政は本拠上野国平井城に退去、更に天文20年(1551)北条氏康(ほうじょう・うじやす)の攻撃をうけ遂に長尾景虎(ながお・かげとら)を頼って越後に逃げこみます。

永禄3年(1560)憲政を擁して関東に出陣、北関東点在の旧上杉氏奉公衆豪族引連れ小田原北条氏を攻撃した長尾景虎(ながお・かげとら)は鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領職就任式を行い、晴れて上杉政虎(後に輝虎、謙信)と改め、以降毎年管領として関東に出陣し小田原北条氏と戦うことになります。
      
そもそも長尾一族は関東管領の地位を世襲した山内上杉氏の筆頭重臣として家宰職を勤め、任命される長尾氏は鎌倉(足利)家、犬懸家(満景就任以降は没落)、白井家、総社家があり、嫡流の鎌倉(足利)家もしくは庶流の犬懸家に若年などの理由で家宰が勤めることが不可能の場合白井家・総社家から長老が就任することになっていました。

従来から上杉氏の代理人的な立場を世襲してきた名門長尾氏も憲政が氏康によって上野国から追放され、家宰職はこの時点で消滅したにも拘らず、関東管領就任した謙信が越山できるのもこの長尾三家による協力があったればこそで、実際謙信の関東入りに呼応して総社長尾氏は支配の総社衆を引連れ他の長尾家ともども謙信のもとに馳せ参じていました。

永禄6年(1563)甲斐国武田信玄が上野に侵入、長野氏の箕輪城攻撃を経て南下する武田軍に対し総社長尾氏は圧倒的な攻撃に耐えられず落城、総社長尾氏は謙信を頼らざるを得ず越後に退去しその後裔は上杉氏に仕える事となります。

天正18年(1590)徳川家康が関東に入府すると文禄元年(1592)諏訪頼忠(すわ・よりただ)が蒼海城に入城しますが慶長6年(1601)旧領の信濃高島に移封、替わって秋元長朝(あきもと・ながとも)が1万石を以て総社に入り蒼海城を居城とします。

然しながら蒼海城は国府跡に築かれた経緯があって地形に拘束された不合理性を有する城郭で秋元氏は新たに総社城を築いて居を移したので蒼海城は廃棄されるに至ります。


御霊(ごれい)神社横に建立された長尾氏に関する説明は次の通りです。

「 御霊神社と長尾氏由緒

一. 御祭神、豊城入彦命五世の孫、田道(大蛇に化身して風呂沼に住んでい
た傳説の人)外上野の国に殉ぜる霊神、長尾氏の祖村岡小五郎忠通と五男鎌倉権五郎景政

一. 例祭日 十月初亥、現在は十月十九日

一. 創立年月は不詳なり、社傳に依ると往古此の地に上野国々府あり、国府に仕える役人の子弟を教育する学校あり、其の傍に招魂社ありて上野国神名帳西群馬郡の内に従四位下学校若獅子明神と記載あるは彼の招魂社なりと傳えり。桓武帝第五の皇子葛原親王より八世の後胤を村岡小五郎忠通と云い、相州に住し鎮守府将軍鎌倉権守と称す、五男を景政と云い、前九年、後三年の奥州の役に忠通副将格にて数々の戦功を立てたり、忠通寛治三年七十年余才にて陣中に病死す、景政忠通の軍を引卒して先登にたち戦う、其の後鳥海と矢記ある矢、景政引手の目にさゝる、景政其の矢をぬき取り、数日後其の矢にて鳥海を討取れり敵味方其に其の勇感賞せざる者なしと、奥州平定して朝廷は忠通に御霊の神号を賜る、一族相州長尾郷に一宇建立して御霊宮と称し長尾一家の氏神とす、景政より、四世を定景と云う。
治承四年頼朝兵を誉ぐ、定景平家方と頼朝を攻むれど後捕えられ三浦義澄に預けられ後許免されたり、承久元年一月二十七日源実朝右大臣拝賀の為鶴ケ岡八幡宮参賀の帰り道石段にて頼家の子別当公暁に殺害されたり、北條氏、公暁討伐を三浦義村に命ず、義村は直に長尾定景に命ず、定景雑賀次郎等五人の力士を引卒して鶴ケ峯後面の峯にて公暁を討取れり、兼て北條氏は三浦氏も頼朝の遺臣なれば之を滅ぼさんと其の機会を伺い待てり、宝治元年三浦氏も其の計略にはまり、三浦長尾両氏一族二百七十余人頼朝公霊廟法華堂前で自害せり、之を宝地の乱と云う。元弘三年北條氏滅び後後醍醐天皇の建武中興の世となり、足利尊氏直義も天皇方なれば直義成良親王(四才)を奉じて元弘三年関東十ケ国の行政司法権をを委任され鎌倉え入った、上杉重能を直義の家宰とす、長尾忠景は建武四年(一三三七年)には上野守護代となり後越後守護代も兼務せり、後弟景垣が越後守護代となり越後長尾の祖となる、景忠の長子清景は白井城主となり四男忠房は父景忠と共に国府を城郭化して蒼海城と称し惣社長尾九代二百十余年の基を築けり、直義は尊氏に毒殺され養子基氏の頃貞治二年頃関東も平穏に治れり、忠房鎌倉長尾郷より御霊宮を分霊して、若御子明神に合祀し現在の地に創立し惣社長尾の氏神とす、某郷土史研究家先生は、総社神社も長尾氏が旧地より現地に移転し、神社裏の貞和五年の奉塔も長尾一族が建立した物であろう推定して居ります、永禄九年頃蒼海城も武田氏の攻略する所となり御霊宮も蒼海城と共に跡形なく破壊され顕方の二男忠治、古市宿より江戸時代の始め今の地に移り御霊宮を再建修険者となって中将坊としょうし数代の後長尾山東覚院と云い明治二十二年長尾将斉の時赤石中政氏の助力に依って元惣社村各町内の寄付によって再建となりぬ、又境内の撰庚申は殿小路町阿弥陀町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼が出来る様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村石倉村全戸から一体ずつ庚申塔の寄付を仰ぎお祭りは毎年の初庚申日  以上再建に当り記録す。

      平成二年十月吉日記之  長尾貞治 記」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 御霊神社遠景<br /><br />以前の神社を取り巻く風景が不明の為言及できませんが現状は周辺がかなり破壊されているかと思われます。

    御霊神社遠景

    以前の神社を取り巻く風景が不明の為言及できませんが現状は周辺がかなり破壊されているかと思われます。

  • 御霊神社と鳥居<br /><br />鳥居の前に繁っていたと思われる左右の樹木が伐採されています。

    御霊神社と鳥居

    鳥居の前に繁っていたと思われる左右の樹木が伐採されています。

  • 御霊神社鳥居

    御霊神社鳥居

  • 御霊神社社殿

    御霊神社社殿

  • 御霊神社付近<br /><br />脇には「御霊神社と長尾氏由緒」と題する長文に亘る説明板が建立されています。<br />書き入れた人物は長尾氏に縁ある方と思われます。

    御霊神社付近

    脇には「御霊神社と長尾氏由緒」と題する長文に亘る説明板が建立されています。
    書き入れた人物は長尾氏に縁ある方と思われます。

  • 「御霊神社と長尾氏由緒」説明板

    「御霊神社と長尾氏由緒」説明板

  • 土塁<br /><br />御霊神社の背後には土塁と思われる盛土が破壊を免れて残っています。

    土塁

    御霊神社の背後には土塁と思われる盛土が破壊を免れて残っています。

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 土塁<br /><br />土塁に生えていた樹木がすっかり抜かれてあるいは伐採されているようです。

    土塁

    土塁に生えていた樹木がすっかり抜かれてあるいは伐採されているようです。

  • 土塁<br /><br />まるではげ山となった土塁はみじめな姿です。

    土塁

    まるではげ山となった土塁はみじめな姿です。

  • 土塁と社殿<br /><br />社殿の後に配された土塁から社殿を捉えます。

    土塁と社殿

    社殿の後に配された土塁から社殿を捉えます。

  • 社殿前風景

    社殿前風景

  • 境内風景<br /><br />社殿から鳥居を捉えます。

    境内風景

    社殿から鳥居を捉えます。

  • 社殿

    社殿

  • 総社神社鳥居

    総社神社鳥居

  • 総社神社のシンボルけやき

    総社神社のシンボルけやき

  • 総社神社参道<br /><br />年始を控え初詣の準備をしているようです。

    総社神社参道

    年始を控え初詣の準備をしているようです。

  • 総社神社推定復原図<br /><br />平安時代に上野国司が上野国内の神社を合祀したことに始まり、時代は下り江戸時代初期には総社藩主である秋元氏によって再建されています。

    総社神社推定復原図

    平安時代に上野国司が上野国内の神社を合祀したことに始まり、時代は下り江戸時代初期には総社藩主である秋元氏によって再建されています。

  • 上野国総社神社略記説明板

    上野国総社神社略記説明板

  • 神木<br /><br />イチョウ・ケヤキが神木に指定されています。

    神木

    イチョウ・ケヤキが神木に指定されています。

  • 神木銘板

    神木銘板

  • 総社神社の文化財説明

    総社神社の文化財説明

  • 蒼海城跡地図<br /><br />蒼海神社の境内に説明文なしに蒼海城跡の縄張図が立っています。引き込まれた外濠に囲まれ、細分化された城郭が縦横に巡らされ使いづらさが見て取れます。<br /><br />

    イチオシ

    蒼海城跡地図

    蒼海神社の境内に説明文なしに蒼海城跡の縄張図が立っています。引き込まれた外濠に囲まれ、細分化された城郭が縦横に巡らされ使いづらさが見て取れます。

  • 神社保管

    神社保管

  • 総社町周辺の文化財

    総社町周辺の文化財

  • 特製大型絵馬

    特製大型絵馬

  • 総社神社拝殿

    イチオシ

    総社神社拝殿

  • 扁額<br /><br />「上野国総社」と描かれた扁額が見えます。

    扁額

    「上野国総社」と描かれた扁額が見えます。

  • 総社神社拝殿(市指定文化財)

    総社神社拝殿(市指定文化財)

  • 総社神社本殿

    総社神社本殿

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 社務所

    社務所

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