2015/06/17 - 2015/06/17
2221位(同エリア7311件中)
滝山氏照さん
JR横須賀線鎌倉駅東口から徒歩で約10分、稲荷山・別願寺(べつがんじ、鎌倉市大町)は室町幕府の出先機関で関八州と伊豆・甲斐を支配する鎌倉府の長である鎌倉公方代々の菩提寺で第4代足利持氏(あしかが・もちうじ、1398~1439)の供養塔があります。
持氏は応永16年(1409)父である第3代足利満兼(あしかが・みつかね、1378~1409)の死により第4代鎌倉公方となり翌々年公方補佐役の関東管領に就任した犬懸家上杉氏憲(禅秀)(うえすぎ・うじのり、生誕不明~1417)が実権掌握を図ろうとし、これを察知した持氏は氏憲を更迭し山内家上杉憲基(うえすぎ・のりもと、1392~1418)を後任関東管領とします。
応永23年(1416)罷免された氏憲は足利満隆(持氏の叔父)や足利持仲(持氏の弟)及び支持勢力らと挙兵、駿河に逃れた持氏は幕府や越後守護上杉房方(うえすぎ・ふさかた、1367~1421)らの援助や支援を得て反乱は鎮圧され氏憲らは鎌倉鶴岡別当坊で自害します。その後持氏は鎌倉府の一層の強化をはかるため親幕府勢力を一掃するため関東諸将の討伐を行い第4代室町将軍足利義持(あしかが・よしもち、1386~1428)と対立します。
正長元年(1428)将軍義持が病没し将軍空位となる中、義持の弟4人からくじ引きで選ばれる事となり天台座主義円(ぎえん)が還俗し後継将軍足利義教(あしかが・よしのり、1394~1441)として第6代将軍職を継承することになります。
かねてより将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は大いなる不満を抱き義教の将軍祝賀には敢えて使者を送らず、元号が改元されても無視し、更には将軍専権事項である鎌倉五山の住職の人事を勝手に行うなど幕府との対立は一層深刻となります。
永享10年(1438)持氏が上杉憲基の養子となり関東管領職を引き継いだ憲実(のりざね、1410~1466)を暗殺するという噂が立ち、憲実は鎌倉を出て自領の上野国平井城に籠ると、持氏は憲実討伐のため出陣、これに対し幕府は憲実擁護のため持氏討伐軍を派遣、鎌倉軍は幕府軍に敗北するに至ります。
敗北した持氏は幕府に対し恭順を示すため称名寺(金沢文庫)に入り出家した後鎌倉永安寺に移送幽閉の身となり、その間憲実は幕府に対し持氏の助命を嘆願するも将軍義教はこれを許さず、やむなく憲実は永安寺を攻め持氏を自害に追い込み鎌倉公方は断絶となります。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- 私鉄
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