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 鎌倉市岡本にある玉縄首塚は甘糟塚とも呼ばれている。大永6 年(1526年)、安房の武将里見氏が鎌倉に攻め込んで来た時、玉縄城主北条氏時らは大船の甘糟氏らと共にこの柏尾川の畔に出て応戦した。数度の戦いで里見氏を追撃できたが、戦後、両陣営で首を交換し、戦死した渡内福原氏や大船甘糟氏一族35名を弔い供養した塚である。中央に「玉縄首塚碑」(文政8年(1825年)銘)が建てられている。したがって、右端にある「怨親平等 玉縄首塚由来」(昭和42年(1967年)銘、玉縄史蹟顕彰会)の石碑は意味がない石碑である。古くから住む地元の有力者によって建てられたというが、題目が「怨親平等」では敵味方を問わず、一切の犠牲者を供養した首塚のような誤解を与え、さも円覚寺の他にも玉縄首塚があるかのような錯覚を抱かせている。このようにして歴史が取り違えられていくのであろうか。また、古くから住む地元の有力者の中にはこの塚に埋葬された武士の子孫がいるかも知れない。子孫が建てた石碑で歴史の真実が誤解されるようになったらご先祖さまはどんな気持ちになるだろうか?<br /> その後、弘治2年(1556年)に鎌倉に攻め込んだ安房の里見義弘は、西御門にあった太平寺の尼僧、青岳尼(しょうがくに)を安房へと連れ去り、還俗させ、夫人としたため、これに激怒した北条氏康は太平寺を廃絶してしまった。この際に、太平寺の本尊、聖観音立像も略奪されて安房へと持ち去られたが、その後、東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺にある。また廃寺となった太平寺の仏殿は移築されて円覚寺舎利殿として残っている。<br /> 文政8年(1825年)に建てられた由緒ある「玉縄首塚碑」があるのに、新たに「怨親平等 玉縄首塚由来」碑など建てる必要などなかったはずだ。<br />(表紙写真は玉縄首塚にある六地蔵)

玉縄首塚-2014年秋

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2014/09/02 - 2014/09/02

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市岡本にある玉縄首塚は甘糟塚とも呼ばれている。大永6 年(1526年)、安房の武将里見氏が鎌倉に攻め込んで来た時、玉縄城主北条氏時らは大船の甘糟氏らと共にこの柏尾川の畔に出て応戦した。数度の戦いで里見氏を追撃できたが、戦後、両陣営で首を交換し、戦死した渡内福原氏や大船甘糟氏一族35名を弔い供養した塚である。中央に「玉縄首塚碑」(文政8年(1825年)銘)が建てられている。したがって、右端にある「怨親平等 玉縄首塚由来」(昭和42年(1967年)銘、玉縄史蹟顕彰会)の石碑は意味がない石碑である。古くから住む地元の有力者によって建てられたというが、題目が「怨親平等」では敵味方を問わず、一切の犠牲者を供養した首塚のような誤解を与え、さも円覚寺の他にも玉縄首塚があるかのような錯覚を抱かせている。このようにして歴史が取り違えられていくのであろうか。また、古くから住む地元の有力者の中にはこの塚に埋葬された武士の子孫がいるかも知れない。子孫が建てた石碑で歴史の真実が誤解されるようになったらご先祖さまはどんな気持ちになるだろうか?
 その後、弘治2年(1556年)に鎌倉に攻め込んだ安房の里見義弘は、西御門にあった太平寺の尼僧、青岳尼(しょうがくに)を安房へと連れ去り、還俗させ、夫人としたため、これに激怒した北条氏康は太平寺を廃絶してしまった。この際に、太平寺の本尊、聖観音立像も略奪されて安房へと持ち去られたが、その後、東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺にある。また廃寺となった太平寺の仏殿は移築されて円覚寺舎利殿として残っている。
 文政8年(1825年)に建てられた由緒ある「玉縄首塚碑」があるのに、新たに「怨親平等 玉縄首塚由来」碑など建てる必要などなかったはずだ。
(表紙写真は玉縄首塚にある六地蔵)

  • 玉縄首塚。

    玉縄首塚。

  • 玉縄首塚にある六地蔵。

    玉縄首塚にある六地蔵。

  • 「玉縄首塚碑」(文政8年(1825年)銘)。<br /><br />「 鎌倉郡玉繩首冢碑記 <br />  西城小姓番士兼編修 間宮士信撰 <br />  從五位下大隅守戸川惠 書并題額 <br />室町氏季世関東擾亂、北條左京大夫諱氏綱據小田原城、使弟左馬助氏時守玉繩城、當是時也敵國相侵攻伐是務、房國有里見氏絶海屡冦、大永六年十一月十二日房冦放火焚八幡祠、城兵逆戰于戸部川上斬馘甚衆、城兵亦死者三十五人、氏時便以房人首級換吾兵三十五首、爲合豬築冢、後人號曰首冢或呼甘糟冢、甘糟氏葢死者之長也、大永距今三百餘載、物換星移土人亦咸不知其由也、郡人甘糟?・原等奉先思孝追遠弗措将謀樹碑、其孫裔存者聞之各戮力舎財、會有地志編纂之擧、余掌其事乃遣朝岡泰任・村井量令等採索焉、自鎌倉迄藤澤、甘糟等爲之指導途、過家側因説樹碑之課、且爪二生請銘於余、余祖宗亦爲北條氏之義不可辭也、乃係以銘、銘曰 <br />  赴危殉難 甘喪其元 妖氣一霽 城壘得完 戸部之水 村岡之原 毅魄安在 惟一杯存 春草空緑 秋霜自繁 歴載三百 緜務子孫  <br />文政八年歳次乙酉冬十一月建   <br />                 廣瀬群寉刻」。

    「玉縄首塚碑」(文政8年(1825年)銘)。

    「 鎌倉郡玉繩首冢碑記
      西城小姓番士兼編修 間宮士信撰
      從五位下大隅守戸川惠 書并題額
    室町氏季世関東擾亂、北條左京大夫諱氏綱據小田原城、使弟左馬助氏時守玉繩城、當是時也敵國相侵攻伐是務、房國有里見氏絶海屡冦、大永六年十一月十二日房冦放火焚八幡祠、城兵逆戰于戸部川上斬馘甚衆、城兵亦死者三十五人、氏時便以房人首級換吾兵三十五首、爲合豬築冢、後人號曰首冢或呼甘糟冢、甘糟氏葢死者之長也、大永距今三百餘載、物換星移土人亦咸不知其由也、郡人甘糟?・原等奉先思孝追遠弗措将謀樹碑、其孫裔存者聞之各戮力舎財、會有地志編纂之擧、余掌其事乃遣朝岡泰任・村井量令等採索焉、自鎌倉迄藤澤、甘糟等爲之指導途、過家側因説樹碑之課、且爪二生請銘於余、余祖宗亦爲北條氏之義不可辭也、乃係以銘、銘曰
      赴危殉難 甘喪其元 妖氣一霽 城壘得完 戸部之水 村岡之原 毅魄安在 惟一杯存 春草空緑 秋霜自繁 歴載三百 緜務子孫 
    文政八年歳次乙酉冬十一月建  
                     廣瀬群寉刻」。

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