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JR横須賀線鎌倉駅東口から徒歩で約15分に宝戒寺(ほうかいじ、神奈川県鎌倉市小町)があり、当該寺院に建てられている寺域は旧幕府歴代の執権職邸宅があった所で義時以降の執権が居住していたと考えられています。<br /><br />この地に政権奪取した後醍醐天皇は建武2年(1335)北条氏一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて新たに寺を創建し、その名を宝戒寺としたそうです。<br /><br />元弘3年(1333)得宗家9代当主北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)らの自害で鎌倉幕府滅亡となりますが、鎌倉を攻撃をしたのは新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)であり、また六波羅探題(朝廷を監視する幕府出先機関)を破滅に導いた足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)であります。<br /><br />歴史上でスポットライトを浴びたこの2名は多くの武士(=御家人)の支持を得て上述の如く共に幕府を追い込んだわけですがいずれも常日頃からの幕府に対する不満があったわけです。<br /><br />新田氏が幕府に不満を有した理由は長期に亘るものが、ある時に何かのきっかけで一挙に爆発したものと思われます。<br /><br />出自としては新田氏は源頼家の四男である義国(よしくに、1091~1155)の長男義重(よししげ、1114~1202)が上野国新田荘(現在の群馬県太田市付近)に定住して新田氏と名乗ります。<br /><br />義貞が家督を継いだ頃の新田氏の所領も新田荘全体のごく一部しかすぎず、執権北条氏との関係も順調でもなく御家人の中でも低い立場であり言ってみれば幕府から冷遇されていたわけです。<br /><br />折りから後醍醐天皇の反旗に従って河内の武将楠正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)が幕府軍に抵抗する姿勢を示しており、これに対し幕府は早急に鎮圧する必要がるものの膨大軍事費が必要でその捻出に苦慮していました。<br /><br />軍事費徴収のため幕府は関東各地にに奉行を派遣することになり、新田荘へは金沢親連(得宗家一族)と黒沼彦四郎(得宗被官)が徴収の為出向きます。<br /><br />奉行らは有徳銭と称する訳のわからない税金の短期間納付を迫ってきますが両名とも幕府高官で得宗の権威を背景に高飛車な態度に終始します。余りにも態度をわきまえないとして義貞は親連を幽閉、彦四郎を殺害します。<br /><br />これに対し北条高時は徴収担当奉行の幽閉と殺害に対し義貞一族の所領を他所へ寄進する書面を出し報復措置を執ります。<br /><br />やがて幕府が新田氏討伐軍勢が差向けられるとの情報に対し義貞は一族を集め対応を協議、最終的には籠城を決め込むより挙兵して幕府に対抗することで合意となります。<br /><br />まず上野守護所に攻め入り壊滅させ鎌倉道を南下し利根川を越えた所で他国の新田一族や同調する氏族がそれぞれの思惑のもと結集し、更に武蔵国に入ると足利尊氏嫡男千寿王(後の将軍義詮)とも合流を機に武蔵各武士の参陣がありやがて小手指原・分倍河原での合戦に展開されてゆきます。<br /><br />上述の如く頼朝時代の有力御家人は北条氏の対抗馬として次第に排除され、残された御家人小規模ながら自領安堵を優先とするため北条氏に取り入って何らかの役職に甘んじるか、それが不可能であれば官位も貰えず不本意な介入による本領の削減など受ける立場に甘んじるかの立場しか取れない状況かと察せられます。<br /><br />確かに中国を手中にしたフビライによる2回に亘っての日本攻略を受け、報償を得られない御家人たちの戦費負担増で疲弊しており本領支配が極めて厳しくやむなく土地を担保に借金する場面が多数散見されます。<br /><br />いわゆる蒙古襲来を経て執権時宗(ときむね、1251~1284)の突然の病死に伴う幕府運営の求心力を欠く状況下にあり、永仁5年(1297)嫡男貞時(さだとき、1272~1311)が打ち出した徳政令(関東御徳政)は窮乏に苦しむ御家人救済の名目が強く従って貸し倒れに応じた商人たちにとってはその後の貸出を渋る傾向が一段と強くなります。結果として資金の借入ができなくなった武士たちは一層の貧困に苦しみ、自領経営が暗礁に乗り上げついては得宗家による独裁に反発・離反が更に強まり倒幕に繋がる伏線となっていたと考えられます。<br /><br /><br />2022年10月9日追記<br /><br />当該寺院のホームページには次の通り記述されています。<br /><br />『 天台宗 金龍山 釈満院 円頓宝戒寺 略縁起<br /><br />当山は天台宗の寺院で金龍山 釈満院 円頓宝戒寺 (きんりゅうざん しゃくまんいん えんどんほうかいじ)と号す。<br /><br />開基は後醍醐天皇(ごだいご)天皇(1288~1339)開山は天台座主 五代 国師演歌観鎮慈威和上(てんだいざす ごだい こくしえんかんえちんじいかしょう)で建武(2年)年間創建された。<br /><br />当寺は北条義時(よしとき)が小町邸を造って以来北条執権の屋敷となり、元弘(げんこう)3年(1333)5月22日北条9代滅亡後その霊を慰めるため、又、国宝的人材を養成修行せしめる道場として後醍醐(ごだいご)天皇が足利尊氏公に命じこの屋敷跡に建立させた寺である。<br /><br />開山の慈威和上(じいかしょう)は当山を円頓大成(えんどんたいかい)と天台密教(台蜜(たいみつ))の大法関東弘通(だいほうかんとうぐつう)の道場として戒壇院(かいだんいん)を置き、加賀白山(かがはくさん)の薬師寺、伊予(いよ)等妙寺(とうみょうじ)、筑紫(つくし)の鎮弘寺(ちんこうじ)と共に遠国四箇(おんこくよんこ)の戒場といわれた。<br /><br />また二世普川国師惟賢和上(ふせんこくしゆいけんかしょう)は国家鎮護のため和合仏(わごうぶつ)たる歓喜天尊像(かんきてんそんぞう)(聖天様(しょうでんさま)を造立し特殊なる手修法を定めてひたすら鎮護国家を祈念したのである。天文(てんぶん)7年(1538)七堂伽藍伽藍(しちどうがらん)ことごとく焼失した。江戸時代に入って天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は宝戒寺は関東における天台立宗(てんだいりっしゅう)の本寺である故、寺の維持相続の保護を徳川家康公に懇願している。』<br />

相模鎌倉 建武2年後醍醐天皇の命によって足利尊氏が旧幕府北条義時以来の執権北条氏の屋敷跡地に北条一族の御霊を弔うため創建した『宝戒寺』散歩

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2013/05/05 - 2013/05/05

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横須賀線鎌倉駅東口から徒歩で約15分に宝戒寺(ほうかいじ、神奈川県鎌倉市小町)があり、当該寺院に建てられている寺域は旧幕府歴代の執権職邸宅があった所で義時以降の執権が居住していたと考えられています。

この地に政権奪取した後醍醐天皇は建武2年(1335)北条氏一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じて新たに寺を創建し、その名を宝戒寺としたそうです。

元弘3年(1333)得宗家9代当主北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)らの自害で鎌倉幕府滅亡となりますが、鎌倉を攻撃をしたのは新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)であり、また六波羅探題(朝廷を監視する幕府出先機関)を破滅に導いた足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)であります。

歴史上でスポットライトを浴びたこの2名は多くの武士(=御家人)の支持を得て上述の如く共に幕府を追い込んだわけですがいずれも常日頃からの幕府に対する不満があったわけです。

新田氏が幕府に不満を有した理由は長期に亘るものが、ある時に何かのきっかけで一挙に爆発したものと思われます。

出自としては新田氏は源頼家の四男である義国(よしくに、1091~1155)の長男義重(よししげ、1114~1202)が上野国新田荘(現在の群馬県太田市付近)に定住して新田氏と名乗ります。

義貞が家督を継いだ頃の新田氏の所領も新田荘全体のごく一部しかすぎず、執権北条氏との関係も順調でもなく御家人の中でも低い立場であり言ってみれば幕府から冷遇されていたわけです。

折りから後醍醐天皇の反旗に従って河内の武将楠正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)が幕府軍に抵抗する姿勢を示しており、これに対し幕府は早急に鎮圧する必要がるものの膨大軍事費が必要でその捻出に苦慮していました。

軍事費徴収のため幕府は関東各地にに奉行を派遣することになり、新田荘へは金沢親連(得宗家一族)と黒沼彦四郎(得宗被官)が徴収の為出向きます。

奉行らは有徳銭と称する訳のわからない税金の短期間納付を迫ってきますが両名とも幕府高官で得宗の権威を背景に高飛車な態度に終始します。余りにも態度をわきまえないとして義貞は親連を幽閉、彦四郎を殺害します。

これに対し北条高時は徴収担当奉行の幽閉と殺害に対し義貞一族の所領を他所へ寄進する書面を出し報復措置を執ります。

やがて幕府が新田氏討伐軍勢が差向けられるとの情報に対し義貞は一族を集め対応を協議、最終的には籠城を決め込むより挙兵して幕府に対抗することで合意となります。

まず上野守護所に攻め入り壊滅させ鎌倉道を南下し利根川を越えた所で他国の新田一族や同調する氏族がそれぞれの思惑のもと結集し、更に武蔵国に入ると足利尊氏嫡男千寿王(後の将軍義詮)とも合流を機に武蔵各武士の参陣がありやがて小手指原・分倍河原での合戦に展開されてゆきます。

上述の如く頼朝時代の有力御家人は北条氏の対抗馬として次第に排除され、残された御家人小規模ながら自領安堵を優先とするため北条氏に取り入って何らかの役職に甘んじるか、それが不可能であれば官位も貰えず不本意な介入による本領の削減など受ける立場に甘んじるかの立場しか取れない状況かと察せられます。

確かに中国を手中にしたフビライによる2回に亘っての日本攻略を受け、報償を得られない御家人たちの戦費負担増で疲弊しており本領支配が極めて厳しくやむなく土地を担保に借金する場面が多数散見されます。

いわゆる蒙古襲来を経て執権時宗(ときむね、1251~1284)の突然の病死に伴う幕府運営の求心力を欠く状況下にあり、永仁5年(1297)嫡男貞時(さだとき、1272~1311)が打ち出した徳政令(関東御徳政)は窮乏に苦しむ御家人救済の名目が強く従って貸し倒れに応じた商人たちにとってはその後の貸出を渋る傾向が一段と強くなります。結果として資金の借入ができなくなった武士たちは一層の貧困に苦しみ、自領経営が暗礁に乗り上げついては得宗家による独裁に反発・離反が更に強まり倒幕に繋がる伏線となっていたと考えられます。


2022年10月9日追記

当該寺院のホームページには次の通り記述されています。

『 天台宗 金龍山 釈満院 円頓宝戒寺 略縁起

当山は天台宗の寺院で金龍山 釈満院 円頓宝戒寺 (きんりゅうざん しゃくまんいん えんどんほうかいじ)と号す。

開基は後醍醐天皇(ごだいご)天皇(1288~1339)開山は天台座主 五代 国師演歌観鎮慈威和上(てんだいざす ごだい こくしえんかんえちんじいかしょう)で建武(2年)年間創建された。

当寺は北条義時(よしとき)が小町邸を造って以来北条執権の屋敷となり、元弘(げんこう)3年(1333)5月22日北条9代滅亡後その霊を慰めるため、又、国宝的人材を養成修行せしめる道場として後醍醐(ごだいご)天皇が足利尊氏公に命じこの屋敷跡に建立させた寺である。

開山の慈威和上(じいかしょう)は当山を円頓大成(えんどんたいかい)と天台密教(台蜜(たいみつ))の大法関東弘通(だいほうかんとうぐつう)の道場として戒壇院(かいだんいん)を置き、加賀白山(かがはくさん)の薬師寺、伊予(いよ)等妙寺(とうみょうじ)、筑紫(つくし)の鎮弘寺(ちんこうじ)と共に遠国四箇(おんこくよんこ)の戒場といわれた。

また二世普川国師惟賢和上(ふせんこくしゆいけんかしょう)は国家鎮護のため和合仏(わごうぶつ)たる歓喜天尊像(かんきてんそんぞう)(聖天様(しょうでんさま)を造立し特殊なる手修法を定めてひたすら鎮護国家を祈念したのである。天文(てんぶん)7年(1538)七堂伽藍伽藍(しちどうがらん)ことごとく焼失した。江戸時代に入って天海大僧正(てんかいだいそうじょう)は宝戒寺は関東における天台立宗(てんだいりっしゅう)の本寺である故、寺の維持相続の保護を徳川家康公に懇願している。』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 宝戒寺(ほうかいじ)門前

    宝戒寺(ほうかいじ)門前

  • 宝戒寺・石標<br /><br />傍らには「天台宗円頓寶戒寺」と刻された石標が認められます。

    宝戒寺・石標

    傍らには「天台宗円頓寶戒寺」と刻された石標が認められます。

  • 伽藍復興勧進案内板

    伽藍復興勧進案内板

  • 宝戒寺・説明板

    宝戒寺・説明板

  • 北条氏・家紋門扉<br /><br />拝観料(100円)を支払って参道を更に進みます。<br /><br /><br /><br />

    北条氏・家紋門扉

    拝観料(100円)を支払って参道を更に進みます。



  • 宝戒寺・本堂全景<br /><br />宝戒寺は天台宗の寺院で正式には「金龍山釈満院円頓宝戒寺」と号します。萩の名所として著名で別名「萩の寺」とも称されています。

    宝戒寺・本堂全景

    宝戒寺は天台宗の寺院で正式には「金龍山釈満院円頓宝戒寺」と号します。萩の名所として著名で別名「萩の寺」とも称されています。

  • 宝戒寺・本堂(近景)<br /><br />ご本尊は「木造地蔵菩薩坐像」となっています。

    宝戒寺・本堂(近景)

    ご本尊は「木造地蔵菩薩坐像」となっています。

  • 宝戒寺・鐘楼堂

    宝戒寺・鐘楼堂

  • 宝戒寺・北条氏宝篋印塔

    宝戒寺・北条氏宝篋印塔

  • 宝戒寺・石碑<br /><br />宝篋印塔の傍らにある石碑ですが風雨に打たれた為か文字が見えません。

    宝戒寺・石碑

    宝篋印塔の傍らにある石碑ですが風雨に打たれた為か文字が見えません。

  • 宝戒寺・境内石碑

    宝戒寺・境内石碑

  • 宝戒寺・徳宗大権現堂<br /><br />境内の一角の鳥居に「徳宗大権現」と刻した神社があります。徳宗大権現は最後の得宗だった北条高時を神格化した神社で本殿には高時像が安置されているそうです。

    宝戒寺・徳宗大権現堂

    境内の一角の鳥居に「徳宗大権現」と刻した神社があります。徳宗大権現は最後の得宗だった北条高時を神格化した神社で本殿には高時像が安置されているそうです。

  • 宝戒寺・徳宗大権現本殿<br /><br />毎年鎌倉が滅んだ5月22日に徳宗権現祭が開催され、得宗一族供養されます。得宗とは鎌倉幕府の北条氏惣領の家系の事で具体的には時政を初代とし二代目義時から嫡流の泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時そして高時の九代を指します。

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    宝戒寺・徳宗大権現本殿

    毎年鎌倉が滅んだ5月22日に徳宗権現祭が開催され、得宗一族供養されます。得宗とは鎌倉幕府の北条氏惣領の家系の事で具体的には時政を初代とし二代目義時から嫡流の泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時そして高時の九代を指します。

  • 宝戒寺・北条氏家紋<br /><br />傍らに掲げている提灯は北条氏家紋となっています。<br /><br />

    宝戒寺・北条氏家紋

    傍らに掲げている提灯は北条氏家紋となっています。

  • 宝戒寺・北条執権館旧蹟<br /><br />北条義時以来の歴代執権の屋敷跡と言われています。<br /><br />

    宝戒寺・北条執権館旧蹟

    北条義時以来の歴代執権の屋敷跡と言われています。

  • 宝戒寺・紅葉山やぐら<br /><br />宝戒寺の後方に流れる滑川を渡りますと「紅葉山やぐら」があります。北条氏一族の墓と思われます。当地では「やぐら」とは山腹の岩をくりぬいて造った横穴の事だそうです。

    宝戒寺・紅葉山やぐら

    宝戒寺の後方に流れる滑川を渡りますと「紅葉山やぐら」があります。北条氏一族の墓と思われます。当地では「やぐら」とは山腹の岩をくりぬいて造った横穴の事だそうです。

  • 宝戒寺・紅葉山やぐら説明板

    宝戒寺・紅葉山やぐら説明板

  • 宝戒寺・滑川(なめりかわ)<br /><br />朝比奈峠を源流とした全長6Kmの川で北条氏の菩提寺である東勝寺の堀の役割を果たしています。

    宝戒寺・滑川(なめりかわ)

    朝比奈峠を源流とした全長6Kmの川で北条氏の菩提寺である東勝寺の堀の役割を果たしています。

  • 宝戒寺・滑川(なめりかわ)<br /><br />川が上流から流れる場所によって名前が変わるそうです。<br /><br />

    宝戒寺・滑川(なめりかわ)

    川が上流から流れる場所によって名前が変わるそうです。

  • 宝戒寺・滑川説明板

    宝戒寺・滑川説明板

  • 東勝寺跡地

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    東勝寺跡地

  • 東勝寺跡・説明板

    東勝寺跡・説明板

  • 腹切りやぐら<br /><br />東勝寺跡をすぎて山道を進み説明石碑を左折、すると湿地となっている道の突き当りにやぐらが見えてきます。

    腹切りやぐら

    東勝寺跡をすぎて山道を進み説明石碑を左折、すると湿地となっている道の突き当りにやぐらが見えてきます。

  • 東勝寺跡・説明石碑<br /><br />新田義貞軍の攻撃を受けて北条高時とその一族は東勝寺に籠城するもついには自刃し幕府は終焉を迎えることとなります。

    東勝寺跡・説明石碑

    新田義貞軍の攻撃を受けて北条高時とその一族は東勝寺に籠城するもついには自刃し幕府は終焉を迎えることとなります。

  • 腹切りやぐら入口<br /><br />東勝寺跡に接する山の斜面に「腹切りやぐら」(横穴式の墓)があります。<br /><br /><br /><br />

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    腹切りやぐら入口

    東勝寺跡に接する山の斜面に「腹切りやぐら」(横穴式の墓)があります。



  • 腹切りやぐら<br /><br />前面に建立の柱標に書かれている「日輪寺殿崇鑑」は高時の法号です。

    腹切りやぐら

    前面に建立の柱標に書かれている「日輪寺殿崇鑑」は高時の法号です。

  • 腹切りやぐら内部<br /><br />やぐらの中には墓石がありその背後に塔婆が配置されています。

    腹切りやぐら内部

    やぐらの中には墓石がありその背後に塔婆が配置されています。

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