2013/05/05 - 2013/05/05
2952位(同エリア7313件中)
滝山氏照さん
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市二階堂)は建武政権時代に征夷大将軍となった後醍醐天皇の第三皇子である護良親王(もりよし・しんのう、1308~1335)が東光寺に幽閉殺害され、廃寺となった敷地に明治天皇により創建された神社です。
ご承知の通り元弘3年(1333)に得宗家北条高時(ほうじょう・たかとき)とその一族の自害により約150年以上続いた鎌倉幕府が滅亡します。
幕府の滅亡を受けて後醍醐天皇(在位1318~1339)が建武の親政を開始、その基本的方針は平安時代中期の王朝政治の復活でした。
然しながら後醍醐天皇は鎌倉幕府の京都出先機関である六波羅探題を滅亡させた功績で足利高氏に天皇の「尊治(たかはる)」の一字を下賜、名前を「尊氏」と改名するも、武士の影響力抑制を念頭に置き例えば尊氏の幕府開設を押さえるべく1333年鎮守府将軍に任命、同時に尊氏の自由行動を制限する目論みで護良親王を征夷大将軍に据えることとします。
後醍醐天皇は武士の棟梁である足利尊氏を抑えるため自らの息子である護良親王を征夷大将軍とするも、護良親王は武勇に秀でているだけでなく独自の政権構想を持っているとして日頃から警戒心を有していました。
一方足利尊氏は上野国に拠点を持つ鎌倉時代から幕府御家人で知名度が高く関東に絶大なる軍事力を持ち、当時の鎌倉は朝廷の影響が届かない地域でありました。
具体的には尊氏の嫡男である義詮(よしあきら、1330~1367)が管領の斯波家長(しば・いえなが、1321~1338)の補佐のもと関東経営を盤石なものにしておりました。
そこで足利氏の関東経営を牽制させるため護良親王は北畠親房(きたばたけ・ちかふさ、1293~1354)の子で猛将顕家(あきいえ、1318~1338)に対し後醍醐天皇の子義良親王(のりよし・しんのう、1328~1368)を奉じて陸奥国多賀城に派遣、奥羽を支配する陸奥将軍府を確立します。
北畠顕家の脅威に対抗するため、尊氏は成良親王を奉じて実弟直義(ただよし、1306~1352)を鎌倉に下向させ関東統治に傾注させます。
関東及び九州における支配力を確立した尊氏はやがて大和・信貴山に籠る護良親王に対し軍事的圧力をかけると共に護良親王が謀反を起こし後醍醐天皇を暗殺する計画あることを伝え、これにより後醍醐天皇は護良親王の征夷大将軍職を解任、やがて天皇の命により護良親王は捕縛され鎌倉に移送されます。
建武2年(1335)信濃国諏訪頼重(すわよりしげ、生年不詳~1335)の擁立により北条高時の子弟である時行(ときゆき、生年不詳~1353)軍が幕府再興を図るため鎌倉に攻勢をかけ、鎌倉駐在の直義の足利軍はは防御しきれず鎌倉を離れ駿河国に逃れることになります。(中先代の乱)
鎌倉を出国する際東光寺に幽閉されていた護良親王は鎌倉幕府復活をもくろむ北条時行に奉じられる事を警戒して直義は家臣の淵辺義博(ふちのべ・よしひろ、生年不詳~1335)に親王殺害を命じます。
明治維新後廃寺となった東光寺跡地に護良親王を祀るため鎌倉宮が造られます。
また鎌倉宮から東方向に行きますと理智寺跡に護良親王廟所が人気のない中厳粛に建立されている姿があります。
2022年10月9日追記
大塔宮 鎌倉宮のホームページには次の通り紹介されています。
『 鎌倉宮について 由緒
鎌倉宮の御祭神である大塔宮・護良親王は、幼少より英明・勇猛な御方でした。
比叡山延暦寺の天台座主となられた親王は、父帝・後醍醐天皇が目指された理想の為に御自ら奮闘・活躍され、遂に鎌倉幕府打倒を果たされて平和な世を実現、征夷大将軍・兵部卿に任ぜられました。
しかし、足利尊氏の陰謀によって鎌倉二階堂に幽閉の御身となり、建武2年(1335)旧暦7月23日、御年28歳にて苦難のご生涯を閉じられたのです。
明治天皇は、親王への追慕の念が真に篤く、明治2年(1869)勅旨を以て一社をご創建され御自ら社号を鎌倉宮と定められ、永く親王の御霊を祀られました。
そして同6年(1873)には明治天皇の行幸を仰ぎ、官幣中社に列格されたのです。』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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鎌倉宮・鳥居
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鎌倉宮・参道
広々とした境内が気持ちをすっきりさせてくれます。 -
鎌倉宮・説明板
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鎌倉宮・拝殿
境内の広さに対し拝殿の建屋は小規模でいささかがっかりと言った印象です。 -
鎌倉宮・本殿
手前の拝殿から回廊を経て本殿が見られます。 -
鎌倉宮・境内
拝殿脇から鳥居方向を見渡します。 -
理智光寺跡
鎌倉宮から東へ移動しますと護良親王の墓があり、奥の階段を登ってゆきます。 -
護良親王墓石標
入口脇の石標には「後醍醐天皇皇子 護良親王墓」と刻されています。 -
理智光寺跡・石碑
この石碑には建武2年鎌倉将軍府執権を勤めていた足利尊氏の実弟直義(ただよし)の命を受けた淵邊義博(ふちのべ・よしひろ、生年不詳~1335)が護良親王を殺害したが棄てられた御首を当寺の住職が山上に埋葬したと記載されてます。 -
険しい参道
山上の墓所をめざして急峻な石段の参道を前進します。 -
参道
階段を上がると暫くは平坦道を進みます。 -
参道
平坦な参道を過ぎると更なる急峻な石段を登りますが、途中で一息ついて眼下を見下ろします。 -
参道
参道の石段は次第に曲線状になり登りつくと墓所にたどり着きます。 -
イチオシ
護良親王墓所(全景)
門扉は施錠されて入場できず門前で墓所を見上げるしかありません。(よくわかりませんが察するに宮内庁管理の対象と思われます) -
護良親王墓所(近景)
階段を登った先には更に閉ざされた門が見えるだけです。
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