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鎌倉には、十井、十橋、七口、五名水、五山など定められた時期は必ずしも一緒ではないが、その歴史や由緒などを経て定められた観光名所がある。現在は、道路工事や開発、時代とともに消失してしまったものもあるが、その名残をとどめているものもある。これらを探して、何回も鎌倉を訪れたので、まずは鎌倉十橋を紹介したい。鎌倉十橋は江戸時代に成立したもののようである。往来に重要であったり、伝説・謂れのある橋が指定されている。1685年に発刊された鎌倉志に取り上げられている。300年以上経た現在では、場所は同じかもしれないが、当時の面影が残っていそうな橋はどこにもなかったのはちょっと残念ではあった。<br />参考文献 <br /> 長峯五幸著 鎌倉趣味の史跡めぐり 2002/8/1発行<br /> 三浦勝男編 鎌倉の地名由来辞典 2005/9/20発行<br />

鎌倉十橋探訪

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2012/10/24 - 2013/03/24

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KAWATO KANNAさん

鎌倉には、十井、十橋、七口、五名水、五山など定められた時期は必ずしも一緒ではないが、その歴史や由緒などを経て定められた観光名所がある。現在は、道路工事や開発、時代とともに消失してしまったものもあるが、その名残をとどめているものもある。これらを探して、何回も鎌倉を訪れたので、まずは鎌倉十橋を紹介したい。鎌倉十橋は江戸時代に成立したもののようである。往来に重要であったり、伝説・謂れのある橋が指定されている。1685年に発刊された鎌倉志に取り上げられている。300年以上経た現在では、場所は同じかもしれないが、当時の面影が残っていそうな橋はどこにもなかったのはちょっと残念ではあった。
参考文献 
 長峯五幸著 鎌倉趣味の史跡めぐり 2002/8/1発行
 三浦勝男編 鎌倉の地名由来辞典 2005/9/20発行

旅行の満足度
4.5
観光
3.5
交通
3.5
同行者
乳幼児連れ家族旅行
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 乱橋。濫橋とも書かれる。滑川支流の小流にかかる橋で、材木座にある。新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、北条軍がこの付近で敗走し乱れたという伝説もあるが、それ以前に書かれた鏡の記事中に、6月に濫橋付近に雪が降ったという記載があり、濫橋と既に命名されていたようである。乱は、崩崖のような地形を指し、そうした地形の先端にあった橋であることから、乱橋と名づけられたようである。(道路の東側には石標と1m位の欄干部分があった。)<br />

    乱橋。濫橋とも書かれる。滑川支流の小流にかかる橋で、材木座にある。新田義貞が鎌倉に攻め入ったとき、北条軍がこの付近で敗走し乱れたという伝説もあるが、それ以前に書かれた鏡の記事中に、6月に濫橋付近に雪が降ったという記載があり、濫橋と既に命名されていたようである。乱は、崩崖のような地形を指し、そうした地形の先端にあった橋であることから、乱橋と名づけられたようである。(道路の東側には石標と1m位の欄干部分があった。)

  • 昭和の初めに、鎌倉の青年団が立てた石碑にもそうしたことが書かれている。(道路の西側には、東側より少し大きい欄干のような石と石碑があった。)

    昭和の初めに、鎌倉の青年団が立てた石碑にもそうしたことが書かれている。(道路の西側には、東側より少し大きい欄干のような石と石碑があった。)

  • 針摺橋。極楽寺駅から、稲村ヶ崎方面に行く途中の極楽寺川にかかる橋である。昔、このあたりに針を製するものが住んでいたとも、また我入道という僧がこの付近で針磨きをしていたとも言われる。

    針摺橋。極楽寺駅から、稲村ヶ崎方面に行く途中の極楽寺川にかかる橋である。昔、このあたりに針を製するものが住んでいたとも、また我入道という僧がこの付近で針磨きをしていたとも言われる。

  • 針摺橋の碑。針磨をする人がこの付近に住んでいたと書かれている。

    針摺橋の碑。針磨をする人がこの付近に住んでいたと書かれている。

  • 夷堂橋。本覚寺門前の滑川にかかる橋である。小町と大町の境にあたるが、昔、この付近に夷堂(夷三郎社)があったことによるようだ。なお、本覚寺はその夷堂の跡に日蓮が建てたものと伝わっている。

    夷堂橋。本覚寺門前の滑川にかかる橋である。小町と大町の境にあたるが、昔、この付近に夷堂(夷三郎社)があったことによるようだ。なお、本覚寺はその夷堂の跡に日蓮が建てたものと伝わっている。

  • 滑川にかかる夷堂橋。

    滑川にかかる夷堂橋。

  • 筋替橋、筋違橋とも言われる。横浜国大教育学部付属鎌倉小学校の前の、金沢街道との交差点付近の小川にかかっていたようだが、現在は暗渠になっています。歩道の端には、石碑と石標が立っていました。(2013/1/4撮影)

    筋替橋、筋違橋とも言われる。横浜国大教育学部付属鎌倉小学校の前の、金沢街道との交差点付近の小川にかかっていたようだが、現在は暗渠になっています。歩道の端には、石碑と石標が立っていました。(2013/1/4撮影)

  • 石標と石碑の位置が、歩道の端から、歩道の車道側に移されていました。(2013/3/24撮影)

    石標と石碑の位置が、歩道の端から、歩道の車道側に移されていました。(2013/3/24撮影)

  • 横断歩道の位置あたりに筋替橋があったと思われます。

    横断歩道の位置あたりに筋替橋があったと思われます。

  • 歌ノ橋。滑川の支流である二階堂川に架かる金沢街道の橋です。謀反の罪で処刑されそうになった渋河形部六郎兼守が、荏柄天神社に和歌10首を献じたところ、それを将軍実朝が激賞し罪を許されたことに対する御礼として兼守が造ったことが名前の由来となったようです。(写真は北側の欄干)

    歌ノ橋。滑川の支流である二階堂川に架かる金沢街道の橋です。謀反の罪で処刑されそうになった渋河形部六郎兼守が、荏柄天神社に和歌10首を献じたところ、それを将軍実朝が激賞し罪を許されたことに対する御礼として兼守が造ったことが名前の由来となったようです。(写真は北側の欄干)

  • 歌ノ橋(南側の欄干)

    歌ノ橋(南側の欄干)

  • 琵琶橋。若宮大路を海の方に向かい横須賀線の線路を潜り抜け、四つ角の少し南の通りの東側の歩道にある佐助川に架かる橋です。橋より上流側は暗渠となっていて欄干だけがあります。

    琵琶橋。若宮大路を海の方に向かい横須賀線の線路を潜り抜け、四つ角の少し南の通りの東側の歩道にある佐助川に架かる橋です。橋より上流側は暗渠となっていて欄干だけがあります。

  • 暗渠となっている佐助川を琵琶橋の下流側から見たところ。

    暗渠となっている佐助川を琵琶橋の下流側から見たところ。

  • 裁許橋、西行橋とも言われる佐助川に架かる橋。西行が架けたとも言われるが、確認はされていない。西行にちなむ言い伝えとしては、頼朝が西行に銀の猫を贈ったという話がある。裁許橋という名前が使われるのは、この付近に問注所(現在で言う裁判所)があり、訴訟をここで裁許したとか、橋の南に刑場があり、罪人とここで分かれたというような話もあるようだ。(上流側の欄干)

    裁許橋、西行橋とも言われる佐助川に架かる橋。西行が架けたとも言われるが、確認はされていない。西行にちなむ言い伝えとしては、頼朝が西行に銀の猫を贈ったという話がある。裁許橋という名前が使われるのは、この付近に問注所(現在で言う裁判所)があり、訴訟をここで裁許したとか、橋の南に刑場があり、罪人とここで分かれたというような話もあるようだ。(上流側の欄干)

  • 裁許橋の下流側の欄干。上流側と比べて短く、ここから川幅も狭くなっている。

    裁許橋の下流側の欄干。上流側と比べて短く、ここから川幅も狭くなっている。

  • 勝の橋のあった所で、今は暗渠になっている。勝の橋は勝ヶ橋とも言われ、寿福寺の門前にあった。これは、付近にある英勝寺の尼僧となった勝の局・英勝院が架けたため名づけられたものである。勝の局は、徳川家康の愛した側室であり、家康の死後、落飾して英勝院と称し、その後、扇ケ谷の大田道灌の屋敷であったところを家光より賜り、英勝寺を建立した。

    勝の橋のあった所で、今は暗渠になっている。勝の橋は勝ヶ橋とも言われ、寿福寺の門前にあった。これは、付近にある英勝寺の尼僧となった勝の局・英勝院が架けたため名づけられたものである。勝の局は、徳川家康の愛した側室であり、家康の死後、落飾して英勝院と称し、その後、扇ケ谷の大田道灌の屋敷であったところを家光より賜り、英勝寺を建立した。

  • 勝の橋の碑。寿福寺の敷地にひっそりと立っている。

    勝の橋の碑。寿福寺の敷地にひっそりと立っている。

  • 十王堂橋。北鎌倉の駅前の通りを少し大船方面に行ったところにある。昔、円覚寺の前の西に薬師堂があり、その前に十王堂があった。橋は、その十王堂の近くにあったことから十王堂橋と名づけられたようである。その十王堂はいつの日かなくなってしまったが、ここにあった十王像は、円覚寺塔頭桂昌院に移されたため、桂昌院が今は十王堂と呼ばれている。

    十王堂橋。北鎌倉の駅前の通りを少し大船方面に行ったところにある。昔、円覚寺の前の西に薬師堂があり、その前に十王堂があった。橋は、その十王堂の近くにあったことから十王堂橋と名づけられたようである。その十王堂はいつの日かなくなってしまったが、ここにあった十王像は、円覚寺塔頭桂昌院に移されたため、桂昌院が今は十王堂と呼ばれている。

  • 十王堂橋。

    十王堂橋。

  • 逆川橋。「さかがわばし」と読むが、「さかさがわばし」と呼ばれることもある。大町の四つ角の南側にあるが、このあたりでは、川が蛇行しているため、名越のほうから流れ出た川の流れが北の方に向かい山の方に流れることから、逆川と呼ばれ、橋も逆川橋と名づけられています。(東側から見た所)<br />

    逆川橋。「さかがわばし」と読むが、「さかさがわばし」と呼ばれることもある。大町の四つ角の南側にあるが、このあたりでは、川が蛇行しているため、名越のほうから流れ出た川の流れが北の方に向かい山の方に流れることから、逆川と呼ばれ、橋も逆川橋と名づけられています。(東側から見た所)

  • 逆川橋。西側から見た所

    逆川橋。西側から見た所

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