2013/09/07 - 2013/09/07
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葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)は鎌倉では最も新しい神社である。明治20年(1887年)に鎮座祭を執り行い、翌明治21年(1888年)に創建された。平成20年(2008年)に鎮座120年を迎え、平成18年(2006年)には本殿を遷宮し、新しく再建している。現在では「鎌倉の縁結び」として売り出し中であるが、鎌倉の他の神社ほど歴史がある訳ではない。
葛原ヶ岡(くずはらがおか)の地名は梶原氏の祖「葛原(かずらはら)親王」を祀っていたことに由来する。葛原親王(延暦5年(786年)~仁寿3年(853年))は桓武平氏の祖であり、天長2年(825年)子女を臣籍降下させ平(たいら)の姓を称することを上奏して許されている。
「葛原(かずらはら)親王」を祀っていたので、「葛原ヶ岡(くずはらがおか)」の地名になった。しかし、その地にある神社は葛原親王を祀っているのではなく、日野俊基を祀っている。
葛原岡神社の祭神が日野俊基卿となったのは死後550年余り後のことである。従四位下から4階級特進して増従三位となった。現在でも、警察官や自衛隊隊員、外交官などが殉職すると2階級特進することがしばしばあるが、旧日本軍の規定には4階級特進まであった。しかし、実施された例はこの日野俊基だけであろう。しかも550年以上も経てから。
葛原岡神社の石鳥居を潜った参道あたりは築壇を壊しているとも言われている。本殿の右手には小高い丘があり、塚のようにも見える。古くは葛原親王を祀っていた社とともに塚も築いたのかも知れない。その塚や築壇の傍らには藤原仲能(道智禅師)の墓と伝承されてきた塚があり、「道智の塚」または「阿古耶尼(あこやに)の塚」と伝えられていたが、海蔵寺の言い伝えでは仲能の塚とされる。また、位牌が海蔵寺に残っている。海蔵寺の中興開基の墓が海蔵寺裏山山頂ではなく、山頂を降りたあたりにあるのは、山頂に開山の墓とか先達の墓(塚)でもあったからであろうか?あるいは、葛原親王を祀った社があったからだろうか?
(表紙写真は葛原岡神社の裏山山頂の石積)
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「鎌倉の縁結び葛原岡神社」の道案内。
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「ここを右に進むと文章(もんじょ)博士「日野俊基」を祀る葛原岡神社の本殿があります。」道案内の看板。
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「ハイキングコースでの喫煙はやめましょう」標柱。
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「葛原岡神社 御鎮座120年 記念事業」看板。
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「歴史的風土特別保存地区指定図」看板。
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「葛原岡神社」社号標石。
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葛原岡神社の縁結び。
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手水。
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おみくじ結び。
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絵馬掛け。絵馬はハート型だ。新しい神社でもないと絵馬をハート型にはできないところだ。
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合鎚稲荷社。
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裏山への登り口。
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裏山へ登る階段。
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裏山へ登る階段。
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「ご迷惑をおかけします。」貼り紙。
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最初の山頂。1/10000の地図を見ると東西方向に150m余りの前方後方墳の形の山になっている。葛原岡ハイキングコースに前方部が接している形だ。
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山の尾根。前方部のように伸びている。
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山頂部の山道。
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山頂部の山道。
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少し上って後方墳部のような岡に辿り着く。
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黄色い花を付けている。
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黄色い花。
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後方部のマウンドは2段築造のようだ。
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段築には階段が着けられている。
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後方墳部西側には民家が。
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頂上には2m四方程度のマウンドがある。社を建てたところか?
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隣には大機山望岳楼/田邊山荘がある。
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木々の間には富士山が見える。神社関係者も知らないようだ。葛原岡神社の裏山山頂は富士山のビューポイントなのだ。
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山頂のマウンド。
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山頂のマウンド。
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山頂のマウンドには石積が残る。鎌倉石である。これが葛原(かずらはら)親王を祀っていた社跡か?
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社殿側への降り口。
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明らかに段築が見える。
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もう1段の段築も階段で下りる。
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本殿と同じ段に。後方墳部は4段築造のようだ。
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下には更に段があり、その下に社務所がある。
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「俊基卿終焉之地」看板。俊基終焉時には従四位下であったから三位以上に付ける「卿」が適用されるのは死後550年余り経ってからのことだ。
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垣根に囲まれて「終焉之地」碑。
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「終焉之地」碑。
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拝殿。
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ここにも絵馬掛け。
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垣根に囲まれた「終焉之地」碑の横から裏山に登れる。本殿をぐるっと回るように裏山を巡る山道がある、
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本殿。
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昇運の神龍。四階級特進したのが「昇運」ということか?
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ここにも絵馬掛け。「鎌倉の縁結び」神社は相当に浸透しているようだ。
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「葛原岡神社」由緒。
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石畳の参道。
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宮下翠舟句碑。「鎌倉に雪ふる雛乃別れかな」(平成2年10月 建立)。
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合鎚稲荷社社殿。
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合鎚稲荷社の狛狐。
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「合鎚稲荷社」社号標石(平成25年(2013年))。
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合鎚稲荷社の鳥居。
元々は無量寺谷の赤尾好夫邸にあった。赤尾好夫邸跡が現在の鎌倉歴史文化交流館に改装される際に遷座した。今、鎌倉歴史文化交流館となっている赤尾好夫邸跡は相州刀鍛冶の正宗の子孫が小田原の後北条氏第2代当主・北条氏綱から与えられた無量寺ヶ谷の屋敷跡であると考えられ、その地に鎮座していた。以降、刀匠・山村氏は「氏綱」から1字を賜り、代々「綱廣」を世襲することになる。 -
合鎚稲荷社社殿。
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合鎚稲荷社社殿。
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むくろじの木。実は羽子板の羽の先に付ける玉としても利用された。
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恋みくじ。
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縁結び石。
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「縁結び石」標石と縁結びの守神の社。覆殿の中だ。
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「男石」。男根のようだ。注連縄ではなく、5円(ご縁)玉が吊り下げられている。
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「女石」女陰石のようだ。これにも注連縄ではなく、5円(ご縁)玉が吊り下げられている。出雲八重垣神社の現代版といったところか。
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二股の木に、「男石」と「女石」に巻かれた5円(ご縁)玉が吊り下げられた縄を移し掛けている。
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池。
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「葛原岡神社」石板。
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社務所と神輿庫。
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「葛原岡神社」社号標石。
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「魔去ル石」。
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社務所と神輿庫。
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鳥居。
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「藤原仲能之墓」史跡碑(昭和11年(1936年)銘、鎌倉町青年団)と「道智の塚」(「阿古耶尼(あこやに)の塚」)。藤原仲能は道智禅師と呼ばれている。
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藤原仲能の墓。「道智の塚」(「阿古耶尼(あこやに)の塚」)として伝えられて来た。
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藤原仲能の墓。「道智の塚」(「阿古耶尼(あこやに)の塚」)として伝えられて来た。
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広場の椅子とテーブル。
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"You can see Mt. Fuji here."ここから富士山見えます!裏山からも富士山が見えるのだからこうした表示が必要であろう。鎌倉は外国人が多く訪れ、Mt. Fuji が見える場所と大仏へ行く道を尋ねる。
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日野俊基の墓の横からは富士山が見える。
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道の真中に「縁結び石祈願所」の看板。
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参道からの景色。
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車も通る道路であるが、ハイキングコースのようだ。
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「縁結び」の貼り紙。
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