2013/08/31 - 2013/09/02
415位(同エリア670件中)
倫清堂さん
日向三代を例に挙げるまでもなく、九州地方は神話にも多く語られる非常に豊かな歴史を持つ地域です。
そのためどこかを目指して旅の計画を立てると、必ず周辺の別な場所も日程に無理に詰め込もうとしてしまい、結果やはり全て回るのは無理という結論で断念するということがこれまで何度かありました。
しかし全国の一之宮を巡る旅も終盤にさしかかり、本州の一部と離島以外は九州を残すばかりとなったため、目的地を厳選して九州を目指すことを決断。
この厳選という作業は、精神的にかなりしんどいものでした。
そう易々と行ける距離ではないので、つい欲張りな性格が顔をのぞかせてしまい、ここもそこもと無理な行程を選んでしまいます。
往復の飛行機とレンタカーは早々と確保し、福岡大分両県を一周しようというおおまかな計画で宿を取りはしたものの、細部は直前まで何度も練り直しをしてこの日を迎えた次第です。
数日前から台風15号が接近し、前日には福岡直撃の予報が出ていましたが、天佑によってか当日朝には台風は消滅してしまっていたのでした。
今回は初めてスカイマークを利用。
仙台空港を8時半に飛び立ち、約2時間後、ほぼ定刻通りに福岡空港に到着したのでした。
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福岡空港では早速傘を購入。
旅の際はは折り畳みの傘を携帯していますが、台風や秋雨前線の影響で強い風雨が予想されるため、しっかりした作りの大きめな傘の方がよいと判断。
レンタカーの手続きを済ませ、まずは香椎宮へと向かいます。
福岡のような大都市の慣れない道を走るのは緊張します。
雨が降っているので視界も悪く、車の通行量も多いようです。
ナビの案内に従って目的地付近に到りましたが、どうやら駐車場を通り過ぎてしまったらしく奥宮の辺りまで来てしまいました。
ナビには駐車場まで表示されないので、最後の最後は自分で確認するしかありません。
無事に駐車場を見つけて車を停め、雨の中を境内へと向かうことにします。香椎宮 寺・神社・教会
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太鼓橋を2つ渡ると見えて来るのは勇壮な楼門。
総檜の素木造りで明治36年の再建。 -
楼門の先にはうっそうと茂る一本の綾杉。
香椎宮は第14第仲哀天皇の御所である訶志比宮の跡に、崩御後神功皇后がその御霊を祀ったことが始まりとされます。
九州南部に勢力を伸ばしていた熊襲を討つため、仲哀天皇は大和から遥かに離れたこの地に訶志比宮を置いて留まられていたところ、神功皇后に神託が下り、熊襲国ではなく海の向こうの国を帰服させるよう示されたのですが、天皇はこれに従わず間もなく崩御してしまいます。
神功皇后が天皇の葬儀や大祓を行っているうちに再び神託が下り、海の向こうの国は皇后の胎内に宿る御子(後の応神天皇)が治めることになると示されたため、皇后は軍を集めて自ら船団を率い、新羅国を服属させたのでした。
朝鮮半島にあった3つの国を大和の支配下に置いたこの出来事は三韓征伐と呼ばれています。
その後、無事に帰朝された神功皇后は半島から持ち帰った3種の宝物をこの地に埋め、「永遠に本朝を鎮護すべし」との祈りを込めて、その上に杉の木を植えられたのでした。
この杉はその後、太宰の帥に信任された者の冠には必ずその葉を挿すなど、神功皇后の神霊が宿る杉として特別に尊ばれました。
社殿が大火によって焼けた時も、不思議とこの綾杉は枯れることなく、今日までしっかりと日本の繁栄を見守り続けています。 -
我が国の歴史書には三韓征伐における戦闘の様子は描写されておらず、新羅の王は東にある神の国の天皇の軍を防ぐことなど出来るだろうかと言って自ら服属を申し出たと書かれています。
出雲神話や神武天皇の御東行と同じ、戦わずに国を譲ることを理想とする日本人の考え方をそのまま引き継いでおります。
独立後の朝鮮半島の人々にとっては非常に不愉快な記述であるはずで、この伝承そのものを否定することが学問的良心とされていました。
しかし大和による朝鮮半島への侵攻を伝える一次資料「好太王碑」には、日本の歴史書とは異なる激しい戦闘の描写によって、この歴史的事件が描かれています。
日本人が本気になって歴史の真実を追えば、必ず神功皇后の実在と三韓征伐の史実は証明されるはずです。 -
中門をくぐるとようやく拝殿と本殿にたどり着きます。
神殿は神功皇后のが御帰朝後にすぐ建てられたのではなく、綾杉をもって祭祀が行われていました。
現在のように社殿が整えられたのは聖武天皇の御代、再び熊襲が不安定になった神亀元年のことです。
本殿は透塀の内側にあってよく確認できませんが、香椎造という独特の建築様式をとっており、かろうじて見える屋根の形状だけでも、複雑な構造をしていることが想像されます。
ここに主神の仲哀天皇と神功皇后、配祀として応神天皇と住吉大神が祀られています。 -
参拝を終え、先ほど車で迷い込んでしまった奥宮を目指して歩くことにします。
奥宮とは勝手に呼んでいるだけで、正式には古宮跡と呼ばれているらしいです。
小高い丘になっている方へと石段が続いており、その正面にはかつて仲哀天皇の廟所があったとされる禁足地があります。
ここに天皇の棺を掛けた「棺掛の椎」があって、薫香が漂ったことから、香椎と呼ばれるようになったと伝えられています。 -
禁足地の少し先、古宮跡のどん詰まりには仲哀天皇大本営御旧跡の碑。
熊襲討伐の大本営が見晴らしの良い高台に築かれたということは頷けます。
そしてここは、仲哀天皇が崩御した場所であるともされています。
『古事記』と『日本書紀』ではその時の経緯にかなりの違いがあり、『古事記』の方が劇的な場面描写となっています。
『古事記』の記述内容については仲哀天皇陵をお参りした際に書いたので、今回は『日本書紀』の記述を読んでみたいと思います。
仲哀天皇8年9月、群臣に熊襲討伐を協議させていたところ、突然神が降りて来て、「熊襲は兵を挙げて討つに足らず、金銀などの宝を多く持っている新羅国を討つように」と託宣されたのでした。
天皇はこれを疑う気持ちがあったため、高い丘に登って海の方を見てみましたが、西の海の彼方には国の姿が見えなかったため、一体どんな神が嘘をついたのかと言って信じようとしませんでした。
すると次に神は神功皇后に降り、その口を借りて「私の言葉を謗るような王にその国を与えることは出来ないので、皇后とその御子に与えることにしよう」と言ったのですが、それでも天皇は信じず、熊襲へ兵を送って大敗を喫してしまうのでした。
翌年、天皇は神の言葉を信じなかったばかりに体が弱っていることを悟り、ついに崩御してしまったのでした。
一説には、熊襲討伐の戦いの中で、流れ矢に当たったのが原因で亡くなったともされています。 -
駐車場へ戻る途中、幼い応神天皇を抱く武内宿禰の像を発見。
武内宿禰は5代の天皇に仕えたとされる重臣で、記録を信じると300歳近い年齢まで生きたことになってしまうため、伝説上の人物というのが定説となっていますが、実際は何代かの家系や一つの集団を一人の人格として描いたのではないかとも言われています。
武内宿禰は仲哀天皇亡き後、神の託宣に従って新羅征伐の準備を進め、三韓の服属を導いたのでした。
室町時代に描かれた絵には、潮の満ち引きを自在に操れる石を持って戦う武内宿禰の姿が描かれています。
あとで知ったのですが、古宮跡の近くには武内宿禰の住居跡があり、なんと子孫の方が住んでいるとのことでした。 -
イチオシ
次の目的地へ車を走らせると、時折晴れ間も覗くようになりました。
しばらくすると、右手に富士山に似た優美な姿の山が見えて来ました。
目指す宮地嶽神社は、その山のすぐ麓に鎮座していました。宮地嶽神社 寺・神社・教会
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神域に入ってまず目に入るのは、アンバランスとも云える程に太い注連縄。
約5トンの重さがある、国内で最大の注連縄です。
境内では他にも、日本一大きな太鼓や日本一大きな鈴などを見ることが出来ます。
日本一が好きな宮地嶽神社ですが、その創始よりも古い時代からあったと思われる宮地嶽横穴式石室古墳の規模も、地方豪族のものとしては最大級です。
寛保元年、偶然に起きた山崩れによって初めて発見された宮地嶽古墳から、約300点もの宝物が出土し、それ以来「地下の正倉院」と呼ばれるようになりました。
国内の他の古墳同様、その被葬者が誰であるのかは記録が残っていないため不明ですが、一説には九州地方に勢力を張っていた豪族、胸形君徳善の墳墓ではないかと見られています。
次に行く宗像大社の相当古い時代の神主であると考えられますが、これ以上のことは今の自分には分かりません。 -
主祭神の息長足比売命は神功皇后のこと。
三韓征伐に際し、宮地嶽の山頂で戦勝を祈願したのが祭祀の始まりと伝えられ、その後随従の勝村大神と勝頼大神とを配祀して宮地嶽三柱大神としてお祀りしています。
拝殿の大注連縄にばかり気を取られていましたが、本殿の屋根を見るとこれまた珍しい金の屋根。
個人的な意見ですが、由緒ある神社にはあまり似つかわしいとは思えず、宗教ビジネスのような胡散臭さが漂ってしまっているのが残念。
社殿の後方からは奥之宮八社めぐりへと道が続いています。 -
本来登るべき表参道は、駐車場が見当たらなかったために通らずに来てしまいましたが、社殿のある上からの眺めは玄界灘へと続く一本道。
秋の大祭では、この参道を牛車に乗った十二単の祭王と御神輿が進むということで、この日のこの地域だけは平安時代にタイムスリップするのです。 -
晴れたかと思うとまた雨が降り出したりと、なんともすっきりしない天気の下で、次の目的地の宗像大社へと向かいます。
まずはその駐車場の広さに驚きました。
しかしその広さとは裏腹に、この日は停めてある車は数えるほどしかありません。
雨のおかげで観光客は少ないようです。
参道に最も近い列に車を停め、境内を目指しました。宗像大社(辺津宮) 寺・神社・教会
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二の鳥居のすぐ先に心字池が水を湛え、そこに太鼓橋がかけられています。
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池の向こうに見えるのは勅使館。
他に宗像祖霊社や斎館が池を取り囲むように建てられています。 -
鳥居と太鼓橋を結ぶ直線状に神門が置かれ、更にその先に拝殿と本殿が建てられています。
神門の手前から見ると、社殿が何やら白いシートで覆われている様子。
この雰囲気は、まさしく修復工事のそれ。
旅行の行程ばかりを練りすぎて、工事など現在の状態はすっかり死角となっていました。 -
しかし幸い宗像大社の修復工事は始まったばかりらしく、神様が仮の社殿に御遷りになっているのが通常と違うだけで、社殿そのものはよく見える状態でした。
あとで知ったのですが、御神体の遷座は参拝した日の前日に行われたばかりでした。
宗像大社の御祭神はいわゆる宗像三女伸、田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神です。
宗像大社は合わせて3つのお社の総称で、今回参拝した九州本島のお社は辺津宮と称し、市杵島姫神をお祀りしています。
それ以外の2社は離島に鎮座しているため、今回の旅程では参拝は諦めざるを得ません。
そもそも沖津宮へ渡れるのは年に一度しか機会がなく、女人禁制のしきたりが今も守られ、男性であっても心身の潔斎を入念に行わなければ渡ることが出来ないのです。 -
九州へ来るだけでも一苦労なので、今回は辺津宮を参拝出来たことで満点としたいと思います。
宗像三女神は高天原における天照大御神と素戔嗚尊による誓約によって誕生し、天照大御神の神勅によってこの地上へと天下ったのでした。
この三女神を祀ったのが九州最大の豪族であった胸形氏で、大和朝廷との関係が深かったことは、沖ノ島祭祀場跡で発見された数々の神宝からも容易に推し量ることが出来ます。
現在の社殿は康治3年に焼失した後に再建されたもので、本殿は天正6年に大宮司宗像氏貞に、拝殿は天正18年に小早川隆景によって再建されたものです。
本殿や拝殿のこけら葺きの屋根を見ると、素人が見てもそろそろ修復が必要な時期だということはぼんやり分かりました。 -
イチオシ
参拝をすることはもちろんですが、今回は沖ノ島で発見された12万点の神宝の一部を展示する神宝館を見学することをとても楽しみにしていました。
小さな島から12万点の神宝が発見されたというだけでも驚きですが、そのうちの8万点は国宝に指定されており、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。
参拝を終えて神宝館へ入ると、土曜日であるのに3階建ての建物は貸し切りの状態。
ここが九州でなく東京都心ででもあれば、おそらく人の来訪は途切れることもないのでしょうが、観光客の集団でもなければ館内が人で満ちるようなことは滅多にないのでしょう。
展示されているのは12万点の中からほんの一部ですが、十分に堪能して見ることが出来ました。
音楽に携わる者として興味を引かれたのは雛形の和琴です。
沖ノ島祭祀場跡からは2点の雛形の和琴が発見されていますが、琴柱を有する1点は傷みが激しく、現在は公開されておりません。
展示されていたもう1点は琴柱もなく、胴体も半分が失われてしまっていました。
実際に音を出して使用されたかは不明ですが、古代にも音楽が神との交流のために不可欠であったことだけは確かです。
時間が過ぎるのを忘れて展示物を見学してした後、田心姫神が祀られる第二宮と、湍津姫神が祀られる第三宮を参拝し、宗像大社を後にしました。
宗像大社神宝館に古代琴を拝して詠む
形は朽ち音(ね)も聞かれざるいにしへの
詔琴の調(しらべ)いかに冴えけむ -
行動できる時間は限られているため、コンビニで買ったおにぎりを車内で食べて次へ移動。
1日目の宿泊地である中津市へと向かいました。
この日の目標は福澤諭吉旧居が開館している時間内に到着することでしたが、目立った渋滞もなく無事に目的地へ着くことができました。
この頃にはもう雨も上がっており、傘を持たずに行動を開始します。
福澤諭吉はおそらく日本でその名を知らない人はいないほど有名な人物ですが、「学問のすゝめ」をはじめとする著書が海外でも次々に翻訳されていることから、外国人の間でも人気が高まっています。
しかし私の個人的な感覚として、福澤諭吉という人物にはあまり興味が湧いて来ないことを正直に告白しておきます。
おそらく、幕末から明治維新という激動の時代を生きたにもかかわらず、彼の人生にほとんど血の匂いがしないことと、功績があまりに多過ぎるためにどこを掴めばよいのか分からないからなのだと思います。
また彼の残した数々のエピソードの中でも特に有名な話、幼少の頃に御稲荷様の御神体をただの石ころと入れ替えても天罰が下らないことを確認したという話は、精神とかしきたりと云った目に見えない大事なものを否定するようにも思えて嫌悪感さえ覚えます。
これは私の勝手なイメージであって、彼のはそのような不敬を面白がって行うような捻れた性格の人間ではなく、単に人より探求心が強かった、あるいは悪戯心が旺盛だっただけのようです。
そんな福澤諭吉は大阪にあった蔵屋敷で生まれ、1歳の時に父の死去によって中津へと引っ越し、19歳までをこの旧居で過ごしたのでした。福澤諭吉旧居 記念館 名所・史跡
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諭吉の母もこれまた変わり者だったらしく、近所に住む狂女を自宅に誘い、その髪からシラミを取ることを日課としていました。
母が取ったシラミを石でつぶすことが幼い諭吉の役目でしたが、諭吉はこの行為が相当嫌いだったようです。
母はシラミ退治をさせてくれたお礼にと、狂女に飯を食わせてから帰らせたのだそうで、こうなると母とその女とではどちらが狂っているのか分からなくなってしまいます。 -
先に諭吉の生涯に血の匂いがしないと言いましたが、中津において命を狙われたこともあったことを、ここに来て初めて知りました。
明治3年、中津に帰郷したある日のこと、中津藩の若い藩士が西洋かぶれした諭吉を殺そうと付け狙ったことがありましたが、それを察知した親戚が夜遅くまで自分の家にかくまい、ついにその藩士は暗殺を諦めたという出来事があったようです。
福澤諭吉記念館も見学。
諭吉は日本のあちこちに姿を現しているので、これから彼の生涯を少しずつ知りながら、また日本のどこかで会いたいと思います。 -
イチオシ
6時まで開館しているということですし、せっかく雨も上がったので、翌日の早朝に訪れるつもりでいた中津城へ1日目のうちに行くことにしました。
中津城は、豊臣秀吉公によって九州を平定した黒田官兵衛が天正16年に築いた城で、地形が扇型をしていることから「扇城」とも呼ばれています。
中津川河口に築かれ、堀には海水も流れ込み、水による防御を取り入れた縄張りであることから、日本三水城の一つにも数えられます。
石垣は黒田家が治めていた時のものに、後から城主になった細川家が更に継いだ跡が見られます。
そしてその石垣の上には凛々しい天守閣が建てられていますが、これは昭和時代に建てられたもので、史実は天守閣の存在そのものが無かったのではないかと疑われています。中津城(奥平家歴史資料館) 名所・史跡
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中津城本丸上壇に鎮座するのは奥平神社。
中津城を築いた黒田氏は関ヶ原の戦いに戦功があったことから2代目長政公の時に福岡藩に移封となり、続いて中津藩に入った細川氏も大阪の役の戦功が認められ2代で熊本藩に移封となりました。
細川氏の後に小笠原氏の5代が治め、その後の享保2年に宮津藩から転封となったのが奥平氏です。
奥平神社には初代貞能公・2代信昌公・3代家昌公をそれぞれ智勇・仁徳・義気の神としてお祀りしています。奥平神社 寺・神社・教会
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模擬天守の内部は奥平神社が所蔵する宝物の展示室となっています。
一般的に歴史的資料の展示館では写真撮影は不可とされていますが、こちらは有難いことに可能ということでしたので、気になった資料を写真に収めて来ました。
特に特別展で揃えられた長篠の戦いに関連する資料は、とても見ごたえがありました。
まず、奥平信昌公が長篠の戦いの際に着用していた甲冑一式。 -
また、奥平軍が籠っていた長篠城を救った鳥居強右衛門の磔図も、こちらに収蔵されていました。
昨年、三河の長篠城を訪れた際、長篠城址史跡保存館まで見学する時間がなく残念な思いをしたのでしたが、図らずも九州の地でめぐり合うことが出来たのは何かのお導きでしょうか。 -
常設展示としては、中津藩最後の藩主である奥平昌邁公の甲冑が目に留まりました。
昌邁公は宇和島藩主、幕末四賢侯の一人伊達宗城公の子として生まれ、奥平昌服公の養子となり、慶応4年に藩主となった人物です。
福澤諭吉が設立した慶應義塾に入ってアメリカに留学し、先進的な制度を取り入れて次々と改革を行いますが、30歳にして惜しまれながら亡くなったのでした。 -
また、『解体新書』の翻訳で知られる蘭学医の前野良沢も中津藩出身の藩医です。
当時最先端であった医学の専門書をすべて日本語に翻訳することは、並大抵の努力ではかなわないことでしたが、前野良沢をはじめとする蘭学グループは苦難の末これを実現に漕ぎつけました。
しかし『解体新書』の著者の欄に、最大の功労者であった前野良沢の名前はなぜかありません。
『解体新書』の完成度にまだ満足していなかったからとか、幕府に睨まれた場合のことを考えて前野良沢が表に出たとか、様々な理由が考えられています。
しかし作品に名前が書かれていなくてもその功績が過少に評価されるわけはなく、前野良沢は時の藩主昌高公から「蘭学の化け物」と褒められたこともあったようです。 -
中津城を出る時にちょうど行き違いで受付をしていた方は、先ほど福澤諭吉旧居でも見学していた方でした。
2つの施設は距離もあまり離れていないし、金額的にもお得な共通券というものがあるので、続けて見学に訪れる人は珍しくないのでしょう。
しかし、中津城の敷地内に鎮座するその他の神社まで全て見て回るのは、よほど物好きの人だけでしょう。
その物好きな私が次に訪れたのは、模擬天守から歩いて3分ほどにある中津大神宮。
明治14年、伊勢神宮の分霊を勧請して神宮豊前教会として創始され、教会が解散した明治32年からは神宮奉斎会中津支部として活動開始。
昭和21年から現在の名で呼ばれるようになり、豊前のお伊勢さんとして親しまれています。中津大神宮 寺・神社・教会
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城内の片隅にわびしく佇む神社を見つけ、そちらも参拝。
城井神社と称されるこのお社には、宇都宮鎮房公の御霊が祀られています。
宇都宮氏と云えば平安時代から続く名族で、豊前宇都宮氏も鎌倉時代から豊前国守護を務めていました。
16代鎮房公が当主の時、豊臣秀吉公が九州平定に際して黒田官兵衛に豊前6郡を与え、鎮房公は今治の地へ移封と決めました。
百姓出身の秀吉公に、名族の土地に対する思いなど理解出来ないのは当然のことでしょう。
先祖代々の墓がある故郷を捨てることなど鎮房公には出来るはずもなく、それから宇都宮氏と黒田氏の死闘が始まり、鎮房公が局地戦で大勝することもありました。
いよいよ宇都宮氏が邪魔になった黒田官兵衛は、嫡子長政と鎮房公の娘が結婚することによる和睦を持ちかけましたが、これは秀吉公とともに仕掛けられた罠だったのでした。
天正16年4月20日、婚礼のために中津城に赴いた鎮房公は酒宴の席でなます切りにされてしまい、豊前宇都宮氏はここに滅びたのでした。
その後、城内には鎮房公の亡霊がたびたび出現したことから、黒田長政公はその御霊を慰めるために城内に祀り、後に城主となった小笠原長円公の時に小さな社を建てたのでした。城井神社 寺・神社・教会
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中津城のすぐ脇を、中津川が勢いよく流れていました。
九州地方は今年は雨が多く、例年の一か月分の雨が一日で降ってしまったりするため、被害が出ている地域もあるということです。 -
無理をして立てた予定も、小倉城を除けば全て回ることが出来ました。
ホテルにチェックインし、どこで夕食を取ろうかと情報収集をしていると、徒歩圏内に中津からあげを出してくれる料亭を見つけたので、そこへ向かうことにしました。
店の名前は鬼太郎。
店内にはげげげの鬼太郎のフィギュアが飾られていますが、お店の経営者の趣味なのでしょうか。
カウンターに座り、早速からあげを注文。
運ばれてきたからあげを見てびっくり。
それはなんと骨付きでした。
珍しいので写真を撮っていると、カウンターの隣の席に別なお客さんが来た様子。
ふとそちらを見て二度目のびっくり。
福澤諭吉旧居と中津城で見かけた人でした。
観光施設で同じ人を見かけることは決して珍しくありませんが、食事の席まで同じというのは初めての経験です。
どうやらその方も単身のようですし、かなり旅に慣れた様子なので、思い切って話しかけてみると、やはり話題は共通でした。
からあげを食べ歩きすることも考えていましたが、話が楽しくてお酒も進み、結局2時間も鬼太郎さんで過ごしてしまいました。和風味処 鬼太郎 グルメ・レストラン
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翌朝、まずは中津城から徒歩圏内の合元寺を訪れました。
当初の予定には入れていたものの、あまりに多くの目的地があるためにすっかり忘れていた場所でした。
しかし前日夜に話した方が勧めてくれたのが幸いし、記憶がよみがえったのでした。
この周辺の寺町には、ざっと見ただけでも十幾つかのお寺が置かれています。
しかし合元寺は決して見落とすことはありません。
なぜならその壁は赤く塗られているため、そこだけが異様な雰囲気を醸し出しているからです。
この赤壁は、先に述べた宇都宮鎮房公謀殺事件が関連しています。
偽りの婚礼の席で鎮房公が凶刃に臥した時、城から抜け出した宇都宮家臣たちはここ合元寺を拠点に黒田家の兵たちと死闘を繰り広げたのでした。
壮絶な戦いの結果、宇都宮の家臣らは皆討死するのですが、彼らの血がついた壁はいくら拭ってもその血痕が消えることはなく、白く塗りなおしても必ず赤い血の色が浮き出てしまうため、仕舞いには血の色が目立たぬようにと壁そのものを赤く塗ってしまったのだそうです。
早朝であったため堂内に入ることは出来ませんでしたが、建物の大黒柱には生々しい刀傷が残されているそうです。合元寺(赤壁寺) 寺・神社・教会
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今にも雨が降り出しそうな空の下、次に向かったのは薦神社。
この日の主の目的地である宇佐神宮の元宮で、八幡信仰の原点とも云えます。
どの地域にもあるような村の鎮守様の雰囲気で、駐車場もただの砂利が敷いてあるだけです。三角池 自然・景勝地
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しかし鳥居を潜って最初に目に入るのは、まるで建物のように堂々とした姿の楠。
これを見ただけで、普通のお社とは違う何かがここにはあると感じるには充分です。 -
また一般人が通ることの許されない神橋もかけられており、並ならぬ由緒を持つ神社であることは一目瞭然です。
境内の案内板によると、薦神社の御創祀は承和年間にまでさかのぼり、社殿の西に広がる三角池を御神体とするとのこと。
岩や山を御神体とするのは原始信仰においても珍しくありませんが、池を信仰するというのはあまり聞いたことがありません。三角池 自然・景勝地
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かつては神仏習合の大伽藍が並ぶ聖地であったとのことですが、源平の争乱以来兵火にさらされることが度重なり、元和2年に中津城主の細川忠興公によって建てられた社殿が今に続いています。
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境内を散策しようと歩いてみると、予想もしなかった巨大な池が突如目の前に現われました。
これが薦神社の御神体である三角池です。
養老4年、叛乱を起こした隼人らを平定するために、朝廷は八幡大神を奉じて討伐に乗り出しますが、その際に神輿に乗せられたのが、この三角池で自生する真薦によって作られた枕型の御験でした。
その後も薦枕は6年ごとに造り替えられ、宇佐神宮にゆかりの8社を巡った後に宇佐神宮に納められます。
逆に古くなった薦枕は海に流されます。
これらの行事は宇佐神宮の特殊行事、行幸会と呼ばれますが、江戸時代に途絶えてから現在まで中断されたままとなっております。
この神事を復活させることも、日本国そのものの復活につながるのではないでしょうか。三角池 自然・景勝地
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2日目の主目的地、宇佐神宮に到着した時が、この旅行における雨のクライマックスでもありました。
これまでは傘さえ差せばなんとかしのげる雨でしたが、今回ばかりはバケツをひっくり返したような雨で、車外へ出るのは無理でした。
しばらく車の中で宇佐神宮の地図を眺めていると、20分程で雨の勢いが少しだけ弱まったので、覚悟を決めて車を出ることにしました。
駐車場から表参道を歩くと、広大な広場と巨大な八幡鳥居が現れます。
宇佐神宮内の鳥居は全て八幡鳥居のデザインで統一されているとのこと。
武の神を象徴する鳥居らしく、どこか厳めしくて隙のない姿に感じられます。宇佐神宮 寺・神社・教会
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境内へ進むと、左手に昭和40年まで活躍していた宇佐参宮線の機関車の姿が。
神社とSLというのは奇妙な取り合わせのように思えますが、たくさんの人々の祈りと思い出を乗せて走った機関車は役目を終えて、新たな時代の参拝客を迎えてくれています。 -
機関車の先には神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑。
神武天皇の御東行の際、宇佐国造の祖である菟狭津彦命と菟狭津媛命が天皇の一行をお出迎えしたことが、『日本書紀』には記録されています。
宇佐神宮の御創祀よりずっと以前から、この地は聖地だったということです。 -
寄藻川にかかる朱塗りの神橋を渡ります。
宇佐神宮の境内を地図で見ると、寄藻川と御食川に周囲を囲まれるように社殿の数々が置かれているのがわかります。
まるで天然の堀のようです。
御食川の水は、神饌を調理する際に洗い清めるために使われるということで、昔から大切に守られてきたのでしょう。 -
境内の広さは、伊勢神宮や熱田神宮などと同じくらいはあると思いますが、伊勢や熱田との決定的な違いは境内の中央に大きな池があることです。
この池は菱形池。
宇佐八幡の祭祀はここから始まったと言っても過言ではありません。
欽明天皇29年、池のほとりの泉が湧き出る場所に、鍛冶をする老人や8つの頭を持つ龍が現れ、その姿を見た者がみな病気になったり死んだりしてしまいます。
そこで神の祟りを鎮めようと大神比義という老人が3年もの間ここで行を続けたところ、32年に笹の上に光り輝く童子が現れ、「我は誉田の天皇、広幡八幡麿なり」と言い、黄金の鷹になって飛び去ります。
黄金の鷹が留まった場所に和同元年に社を建てて八幡神を祀り、霊亀2年に小山田に遷座、その後神亀2年に現在の亀山に遷座して今に到っています。
紀貫之はこの池の美しさに感じ、和歌を詠みました。
豊国の菱の池なる菱の根を
とりてや妹が袖ぬらすらん -
イチオシ
大雨の後なのでほとんど参拝客の姿はなく、降りしきる雨のためにむっとする空気ではあるものの、境内は厳かに静まりかえっています。
この広い境内にいくつも置かれた社殿は、参拝の順序が決まっているということなので、案内の通りにまずは上宮へと向かうことにしました。 -
上宮が鎮座する亀山は別名小椋山。
それほど高い山ではありませんが、雨に濡れた石段は滑りそうなので、一歩一歩確かめながら足を進めます。 -
イチオシ
そしていよいよ本宮へと到着。
なんと宗像大社と同じくこちらも修復工事中。
皇族や勅使のみが通ることのできる南中楼門は見ることができたものの、その内部に置かれている本殿は完全に覆いの中に隠れてしまっていました。
本殿は3社が横一線に並び、向かって左の一之御殿には八幡大神、中央の二之御殿には比売大神、向かって左の三之御殿には神功皇后が祀られています。
南中楼門にはそれぞれの御殿を参拝するための入り口が設けられており、左から順に参拝することになります。
比売大神とは宗像三女神のことで、八幡大神が祀られる以前からこの地の地主神として信仰されていたことから、中央に鎮座しているのだそうです。 -
その三女神がもともと祀られていた場所は、楼門からも遥拝することが出来ます。
宇佐神宮の奥宮が鎮座する大元山は宇佐嶋とも呼ばれており、摂社大元神社では現在も祭祀が続けられています。
九合目より上が禁足地ですが、記録には山頂に巨石な磐境があると書かれ、かつては山そのものが御神体であったと考えられます。
楼門の隅の方から下へ降りる階段は、絵画館へと続いています。
宇佐神宮の歴史と和気清麻呂公の御事蹟をたどる複数の絵画が展示されており、これを見てとても有難い気持ちになりました。 -
登ってきた石段を途中から別な方へ折れ、次に下宮へと向かいます。
御祭神は上宮と全く同じで、かつては皇族や貴族など身分の高い人だけが参拝出来た上宮に対し、庶民が参拝するためにと置かれたのが下宮ということで、現在は方参りにならぬよう双方を正しい順に参拝するのが正しい作法とされています。
下宮として社殿が建てられたのは平安時代で、それ以前は御炊殿として神へ捧げる食物を調理する場所でした。
御食川の水はここからすぐの所で汲むことが出来ます。 -
駐車場の方へ引き返す途中、参道を直角に折れると、その先には和気清麻呂公を祀る護王神社と、天平神護元年から15年間八幡大神が鎮まられた大尾神社がある大尾山へ続く一本道。
どこまで続くか先が見えませんが、まずは進んでみたいと思います。 -
右手に現れたのは頓宮。
毎年夏に行われる神幸祭において、三日間だけ神様が滞在される御旅所です。
以前は上宮・下宮・若宮それぞれと同じ規模の社殿が建てられていたと記録が残っています。 -
進むほどに道も悪くなりますが、目の前に巨大な石灯篭とまっすぐのびる石段が見え、ようやく大尾山の麓まで来たことになります。
道鏡が天皇位の簒奪を目論んだ時、勅使として遣わされた和気清麻呂公は、八幡大神の神託を授かるために宇佐神宮を訪れます。
時は神護景雲3年7月11日。
御神霊がここ大尾山に鎮座していた15年間の、ある日のことでした。
称徳天皇の寵を受けて朝廷内で絶大な影響力を握っていた僧の道鏡は、手下を使って偽りの神託を朝廷に提出させました。
そこには道鏡を皇位につければ天下は泰平となるとあり、皇統の流れにない者が皇位につくというのは前例がなく、冷静に考えれば大きな誤りであると誰でも分かることなのですが、なにしろ神の下した言葉でもあり、また道鏡に逆らうことは自分の立場を危うくすることと同じなので、朝廷内で意見は真っ二つに分かれたのでした。
称徳天皇は、今一度八幡神の託宣を確認してからでも道鏡に譲位するのは遅くないとお考えになり、ありのままを伝えることが出来る精神と胆力を有する者として、和気清麻呂公をお選びになったのでした。
結果、八幡大神の神託は「わが国は開闢このかた君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は速やかに追掃すべし」と下されたのでした。
清麻呂公はこれを朝廷に持ち帰り群臣の並ぶ前で清らかに奏上したため、怒った道鏡によって大隅国へと流されてしまいました。
しかし天皇が崩御し、後ろ盾を失った道鏡は失脚。
清麻呂公は朝廷へ復帰し、その後の平安京遷都などに活躍の場を得たのでした。
宇佐神宮に詣でて詠む
大神の宣りたまひたる御日嗣の
さだめ畏く代々に変はらじ -
およそ1時間半、境内を隈なく歩いたつもりですが、後で確認してみると、呉橋など見落としてしまった場所が何ヶ所もありました。
しかし我ながら雨の降る中、ここまでよく歩き回ったと思います。
ズボンの裾は水がしみ込んでびしょ濡れです。
最後に宝物館を見学して、宇佐神宮に別れを告げることにします。
宗像大社ほどの量はありませんが、見ごたえのある宝物の数々が展示されています。
特に気になったのは、やはり楽器である孔雀文磬。
大陸由来の打楽器で、叩いて音を出す金属の塊です。
中国では音階を成り立たせる数十個の文磬がセットで発掘されていますが、我が国にはそれほどの規模のものは発見されておらず、ほとんどが単品として発見されています。
宇佐神宮の神宝の孔雀文磬は銅製。
両面の中央に蓮華の花を象った紋章が刻まれ、その両側に向き合う一対の孔雀が、反対の面には日付や漢文が刻まれています。
国宝に指定されており、当然ながら音色を聴くことは叶いません。宇佐神宮 寺・神社・教会
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予定していたよりも長い時間を宇佐神宮で過ごしてしまったため、次の目的地への到着は大幅に遅れそうです。
高速道路を利用して大分市内を目指すのですが、霧が濃くて危ないことこの上もありませんでした。
高速道路上で前を走る車のテールランプが見えなくなるというのは初めての経験で、恐怖感さえ覚えるほどでした。
次に向かったのは豊後国一之宮、柞原八幡宮。
石段の始まりに車を停める空間があったので、あまり考えずに車を置き、長い石段を歩くことにしました。
予定が押しているので少しでも時間を短縮した方がよいのですが、この石段を省略して車で上まで行ってはもったいないような気がしたのです。
その予感は当たったらしく、参道の途中には唐風の見事な彫刻が至る所に施された南大門や樹齢3千年を超える大楠を見ることが出来たのでした。柞原八幡宮 寺・神社・教会
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そしてたどり着いた御社殿。
御本殿は嘉永年間に再建された八幡造。
宇佐で本殿の様式を直に見ることが出来なかったので、ほぼ同じ造りの建物を見ることが出来たのは幸せでした。
同じ八幡様でも宇佐神宮とは違い、御祭神は八幡大神の応神天皇と母の神功皇后は共通するものの、比売大神ではなく父の仲哀天皇をお祀りしています。
宗像三女神は豊後国での信仰はあまり篤くなかったのかも知れません。 -
次に急ぎ足で大分市内に入り、府内城を堀の外から眺めました。
キリシタン大名である大友宗麟が拠点とした城で、充分な幅を持つ堀と、頑丈に組まれた高い石垣によって囲まれています。大分城址公園 府内城跡 名所・史跡
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天守閣は寛保3年の大火で焼け落ち、どのような構造であったかの資料は残されていないようです。
観光地化という変な欲望を出して、反歴史的な建造物など建てないことを祈ります。 -
次に大分県護国神社を参拝。
護国神社は城跡の敷地内に鎮座する所が多いですが、大分県では別府湾が一望出来る緑豊かな松栄山に鎮座しています。
ここでも上まで車で上ることはせず、大鳥居から御社殿まで歩いて向かいました。大分県護国神社 寺・神社・教会
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神社の始まりは佐賀の乱における戦没者の慰霊鎮魂が目的でしたが、その後幾多の国難に殉じた大分県出身の御英霊を合祀し、敗戦後の一時期は「豊霊宮」と称したこともありましたが、独立回復後に大分県護国神社の社号に復帰することが出来たとのことです。
巫女さんから、神社で漬けたという梅干しをいただきました。 -
もう一社の豊後国一之宮、西寒多神社も参拝。
一の鳥居から御社殿まで、車でもかなりの距離がありました。
寒田川にかかる万年橋は総石造りで県の指定文化財。
これを渡り境内に入ると、まっすぐ前方に御社殿が見えます。西寒多神社 寺・神社・教会
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神功皇后が三韓征伐から凱旋される途中、西寒多山上を臨幸されたのを地元の人々が祝ったのが始まりで、応神天皇の御代になってから武内宿禰が勅命によってお社を建てたのでした。
主祭神の西寒多大神とは、天照皇大御神・月読尊・天忍穂耳命のことであると神社では説明しています。
この3神と、配祀されている神功皇后・仲哀天皇・応神天皇を比べてみれば、何かおもしろい発見がありそうな気がします。
境内には樹齢450年の藤があり、今の季節は青々とした葉を茂らせるのみですが、5月の連休にはふじまつりが行われ、多くの人々が咲き誇る藤の花を愛でるために神社を訪れます。 -
あとは宿泊地の福岡へ帰るのみとなりました。
大分道から久留米を経由して九州道に入る道順です。
しかし欲張りな自分はただでは帰りません。
途中2カ所で寄り道をします。
最初に寄ったのは、江戸時代に天領として栄えた日田市。
ここには広瀬淡窓が構えた私塾、咸宜園がありました。
山奥の小さな集落に全国から4千名を超える勉強熱心な人たちを集めた私塾とは一体どのようなものだったのか、実際に訪れて確認する価値は充分にあると思ったのです。 -
現在、咸宜園跡に残されている建物は「秋風庵」と「遠思楼」だけですが、実際に教育が行われていた時代には複数の寄宿舎がこれらを囲み、一大教育センターの様相を呈していたとのことです。
秋風庵の内部は見学が可能で、見学料は無料。
さすが天領の町だけあって太っ腹です。
見学者は自分一人しかおりませんでしたが、受付の方が教育システムやここで学んだ学生のことを詳しく説明してくださいました。
水沢出身の蘭学者、高野長英もここで学んだ一人。
咸宜園にて詠む
ふるさとも遥けき日田に学びたる
みちのく人ら志(こころ)高しも咸宜園跡 名所・史跡
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咸宜園のある豆田の町は、江戸時代以降に建てられた伝統的な建築物が多く残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
わずかな時間しかありませんが、町の中を少しだけ歩いてみることにしました。
駐車場のある土産物屋に車を停めると、早速道路を挟んだ反対側に気になる建物が。
安政2年に開業した岩尾薬舗でした。 -
この道路は豆田上町通りと称し、豆田のメイン道路の一つとなっています。
上町通りを花月川の方へと進むと、一新橋の手前に薫長酒造。
内部は資料館にもなっているようです。 -
豆田のもう一本のメイン道路、みゆき通りを歩いて戻ることにします。
豆田町を味わい尽くすためには、少なくとも半日は必要でしょう。
次に来るときは祭りや味を楽しみたいと思いました。 -
再び大分道に乗り、この日最後の目的地を目指します。
途中でかなり強い雨が降り、土砂災害が起きても不思議ではないと怖れましたが、道路に通行の規制はありませんでした。
目指す高良大社には4時半に到着する予定でしたが、もともと時間が押していた上にあと一歩のところで道に迷ってしまい、結局5時を回ってしまいました。
つづら折りの坂道をしばらく上り、ようやく駐車場を見つけました。
一の鳥居からしばらく上ったので、雲の中へ入ってしまったような感覚です。
本来の参道である石段を登ることは出来ませんでしたが、赤い三の鳥居からは歩かなければなりません。高良大社 寺・神社・教会
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高良大社は筑後国一之宮。
この2日間で、豊前・豊後・筑後の3国の一之宮を全て参拝したことになります。
高良大社が歴史に現れるのは仁徳天皇55年からですが、更に時代を遡る遺跡出土物も見つかっており、筑紫平野人が住むようになったのと同じ時代から原始的な祭祀は始まっていたようです。
高良大社の御祭神は高良玉垂命・八幡大神・住吉大神。
筑の国は海の神として宗像三女神ではなく住吉三神に関係が深く、筑前国一之宮の住吉神社でも住吉の神を祀っています。
中央に鎮座する高良玉垂命は、一説には武内宿禰とも言われていますが、長い歴史の流れの中で様々に変遷したというのが真実でしょう。
古い神社には記紀神話に見られない名前の神様が少なくなく、記紀編纂以前の信仰を知るわずかな手がかりの一つとも言えます。
雲がかかっている上に夕方の空は薄暗く、筑紫平野を一望できる展望台から眺めを楽しむのは、また次の機会の楽しみに残しておこうと思います。 -
かけ足となりましたが、これで今回の旅の日程は全て終わりました。
台風が接近したり強い雨に見舞われたりする中、ほとんど予定を崩さずに行動できた2日間でした。
九州の神様が見守っていてくれたのでしょうか。
ホテルに着けばおそらく外出しようという気力も出なくなると思い、九州道の基山パーキングで博多ラーメンを食べました。
やっぱり美味しいですね。 -
最終日。
飛行機が飛ぶまで少し時間があるので、空港からもさほど遠くない東公園を散策することにしました。
県庁に隣接する公園は福岡市民の憩いの場としても親しまれており、その中央に明治37年完成の亀山上皇像が高々とそびえ立っています。
台座正面には、有栖川熾仁親王の揮毫による「敵国降伏」の文字。
以前に筑前国一之宮の筥崎宮を参拝した際、その楼門にも同じ文字の扁額がかかっているのを見たことを思い出しました。
第90代亀山天皇は元による2度の襲来の時、上皇の位にあって我が国の安泰と敵国の降伏を熱心に祈願された方です。
今後も日本を狙う国が現れたなら、杓によって直ちに賊を撃ち払おうという厳しい表情をされています。
ただ銅像は動くことができないので、纓の上のカラスは安心して日光浴をしている様子でした。 -
東公園には神社もありました。
十日恵比須神社、実は1日目に参拝した香椎宮と深いつながりがあるようです。
香椎宮の近くには今も武内氏の末裔が住んでいるとは述べましたが、その武内家から分家して商人となった武内五右衛門が天正19年に浜辺で恵比須大神の尊像を拾い、これを持ち帰ってお祀りしたのが始まりです。
文禄元年に社殿を構え、事代主大神と大國主大神を御祭神としました。十日恵比須神社 寺・神社・教会
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恵比須様を祀る神社らしく、手水舎の水は鯛の口から流れています。
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元寇史料館の近くには、日蓮聖人像が立てられています。
日蓮聖人は『立正安国論』で外国勢力による日本侵攻を予言し、それを防ぐために法華経を唱えることを正しい仏教として国中に広めるよう、鎌倉幕府に進言した人物です。
しかし彼の主張は採り入れられることはなく、危険思想の持ち主として島流しにされてしまい、その後元寇が起こったことで予言は当たってしまうのでした。
この日蓮聖人像は明治33年に立てられたもので、国内では奈良の大仏と鎌倉の大仏に次ぐ3番目の大きさの銅像とか。
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